第1章『終わらない悪夢』
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夢を見た後は、現実と境目が曖昧だ。目が覚めてもしばらくはどっちが夢でどっちが現実なのか、はっきりしないことがある。
?……なんだこれ…。
私は目の前の物体をぼんやりと見ていた。
三日月が寝転んだかたちの口、その中に黄ばんだ鋭い歯が並んでいる。
ああ、大きい口だなぁ、おとぎ話に出てくる子供を食べる狼の口みたい……。
「おはよう アリス」
口が動いてそう言った。
……口!?
「! !」
私はベッドから跳ね起きた。
「あんた……誰よ……!?」
あんまり驚きすぎて、ベッドから落ちるところだった。
その人間(?)は手足を折り畳むようにして、横にあるデスクの上に乗っかっている。
な、なんで…。なんで机の上に人間が……もしかして……インベーダー!?
――不審人物は灰色のフードを深く被っているので顔は見えない。見えるのはにんまりした笑った口元だけだ。
このタワーには変な人間ばかり揃っているけど、こんな明らかな不審人物は絶対にこの艦内にいない。
――とりあえず、この人間は明らかにおかしい。インベーダーであれば早く殺さねば!
すると、
「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」
「はぁ? ウ……ウサギ?」
そいつは突然、喋った。声は低い。男……にしてはあごしか見えないが女みたいな輪郭だ。
…にしてもウサギ……。この荒廃した世界にはそんな生物はすでにいないはずだ。
本で見たことがあるが、実物はない。
この人物、その『シロウサギ』を探しているのか?
「……あんた……一体何者……?」
「僕はチェシャ猫だよ」
「チェ…チェシャネコ……?」
「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」
「あんた……その『シロウサギ』を探してるの?」
「僕は探してないよ。アリスが追いかけるんだよ」
「アリス……って?」
「きみだよ」
「なっ…何いってんのよ、あたしには渓(けい)って名前があるんだから!人違いじゃないの!?」
「違わないよ。僕らはアリスを間違えたりしないよ」
「しつこいわね!!私はアリスじゃないっていってんでしょ!!」
「アリスだよ」
「だ か ら、アリスじゃないっつってんでしょ!!いい加減にしないと殴りとばすわよ!!」
「…………」
ややあって、そのチェシャネコは、コクッとうなづいた。
「じゃあアリス、シロウサギを追いかけよう」
「! !」
全く……人の話を聞いていない……!!
私の説明は一体なんだったの!
いらだちを覚えて、男を見上げた。
フードの奥は何も見えない……いや、暗い、暗い闇が見える。
吸い込まれそうな闇に私は少しぞくりとした。
――すうっ、と闇が近づく。男が手を差し出した。
私は思わず――。
“カチャ”
デスクの上に置いてあった護身用の拳銃を取り、男に向けた。
「これ以上ここにいると発砲するわよ。部屋から出ていけ……さあ!!」
しかし、男は全く臆しているどころかその場から動こうとしない。ただにんまりと笑っているだけだ。
「ハッ……ポウ……?」
意味がわからないのか頭を傾げる。撃つってことがわからないのか?
「なっ……なにしてんのよ……早く出ていかないと……」
「……」
震える私に反して、男は表情を全く変えようとしない。
「……消えろってことかい?」
「……そっそうよ!!ここから早く出ていけっていってんの!!」
もしかして怒らせた?
下手をしたら襲いかかってくるかもしれない。こいつの容姿からして十分あり得る。
その時には発砲することもいとまない。
しかし、返ってきた返事はいかにも満足げな声であった。
「僕らのアリス。君が望むなら」
その瞬間――絶句した。
足元から膝のあたりまで灰色のローブが消えている。
膝から上は『ある』のに、膝から下は『ない』。
その境界線がするすると上がっていく。
やがて、にんまりした口をのみ込み、灰色のフードをのみ込み――。
男は消えた。
「えっ……ええっ!?」
な……なんで消えるの!?
そりゃあ、日本語で目の前からいなくなることを「消える」って言うけど!!それはあくまでも表現であって……。
つかなんで消えたの!?
「ああ……」
疲れが原因の幻覚か……気のせいか……。
急に怖くなり、私は急いでこの部屋から飛び出した。
「…………」
しかし、悪夢は終わることはなかった。
通路に果てがない……。長く長く伸びていた。
伸びすぎて――霞んでいる。
異変はそれだけはなかった。
……誰もいない。いる気配すらない。というよりこの艦内自体が無人のように思えてきた。
――私は一目散に走り出した。
(親父……ガイ……だれか……助けて……)
……………………………………
どれだけ走ったのだろう、とぼとぼ通路を歩いていた。
さっきいた部屋に戻る気はない、戻ったところで出口はない。
戻れないなら進むしかない。
通路は長く、しんとしている。
何度か大声で叫んでみても、何の反応もない、誰もいない。
いくら気の強い私でも、このままでは淋しすぎておかしくなりそうだ。
いくつかの個室の入り口があり、本当に人がいないか確かめようと部屋に入った。
……全くいない。がらんとした部屋があるだけだ。
しかし、いくつ目かの部屋に入った時、私は足を止めた。
真ん中でぽつりとたたずむ後ろ姿があった。
急にうれしくなり、すぐにそこにむかった。
「あの……」
しかし、それもすぐに制止した。
何……あれ……
白いワイシャツにスラックス姿のその人は、ちょっと見は何か仕事をしている人のようだ。
しかし、それは人ではない。頭から天に向かって伸びる二本の白い耳。
……ウサギ?もしかして、さっきの男が言っていた「シロウサギ」って……。
しかも何か「透けてる」。
私はすぐに正面へとまわった。
「! ?」
息をのんだ。
ふかふかの白い毛に覆われた顔と手、前に突き出た赤い鼻。
しかし、それよりも驚いたのはその手だった。
右手はべっとりと赤く染まっていた。
人間の……血……?
この動物の……?
赤く濡れたシロウサギの胸には人形が抱かれていた。
赤ちゃんほどの大きさの人形だ。
だけど、その人形には腕も、足も、頭もない。
幼い子供のようにぷっくりとしたお腹の胴体をウサギは大事そうに抱いていた。
ウサギからあやすような歌声が聞こえた。
“ウ デ ウ デ ウ デ ♪
ウ デ は ど こ だ ろ ♪
ウ デ が な く っ ち ゃ ♪
僕 に ふ れ て も ら え な い ♪
ウサギの手から伝わった血のしずくが、人形の腹をすべり、床にぽたりと落ちた。
新鮮な血。まるでついさっき、誰かを殺してきたみたいに――。
“足 り な い な あ”
ウサギの声に私はビクッと身を震わせた。
ウサギは人形に目を落としたままだ。私の存在は無視されている。
いや、気づいてすらいないのかもしれない。
“だ め だ め 、 足 り な い … 急 が な き ゃ …”
ウサギは前のドアへ歩き出した。
透けた体は、自動ドアのセンサーに感知せず、閉まったままのドアを通り抜ける直前、ウサギのつぶやきが、かすかに私の耳に届いた。
“ア リ ス ”
やがてウサギは、部屋のドアを通り抜けて、その姿を消した。