E meets G 07

Last-modified: 2009-05-30 (土) 00:08:26

中央病院第一脳外科303号室。
聞こえるのは、不快な暑さに拍車をかける騒がしい蝉の声と、心電図の規則的な電子音のみ。
部屋の中にはベッドに横たわる少女と椅子に座る少年の二人だけ。
少年は身じろぎ一つせず、少女の顔を覗き込んでいた。

「ねぇ、起きてよ」
返事は無い。
「クラスのみんなもいなくなってカヲル君もいなくなってしまったんだ」
返事は無い。
少年の悲痛な叫びにも似た、独白にも似た、それでいて酷く独り善がりな呼びかけにも、少女の反応は無かった。
少女はもうしばらくの間、言葉も発しなければ、体も動かない状況にあった。
かつて人一倍笑い、怒り、声を張り上げ、くるくると表情を変えていた筈の整った顔は、その残滓すら感じさせない。
かつて彼女があれ程嫌悪した人形そのもののように。
その少女、惣流・アスカ・ラングレーは、外の世界の全てから、己の精神を閉ざしていた。

発端は何だったんだろう。少年はぼんやりと考える。
使徒に襲われた時受けた精神攻撃のせい、だったのかな。
でもその頃からアスカのエヴァとのシンクロ率が低下している、って話は聞いてた。
アスカ本人にはとても聞けなかった。怖かったから。
そうやって会話がどんどん減っていって、会っても会話も挨拶すらもなくなって。
そのうちアスカはミサトさんの家に帰らなくなって・・・そして僕も・・・。

気がついたらアスカはもう、こんな事になってしまっていたんだ。

ぶるりと寒気が少年を襲う。
その寒気に気圧されるように、少年は口を開く。

「ミサトさんもリツコさんも綾波も恐いんだ。助けてよ」
返事は無い。
なんでこんな事になっちゃったのかな。
何で僕だけこんなに辛い事になってるのかな。
ねぇ、アスカ起きてよ。僕を助けてよ。

「ねぇ、早く起きて助けてよ。いつもみたいに僕を馬鹿にしてよ!」
少年の絶叫にも、返事は・・・無い。
ねぇ。ねぇ。
ベッドに横たわり、身じろぎ一つしないアスカを強く揺さぶり始めた。
その様子にもはや相手への労りが無かった。
やがて強い最後の揺さぶりがアスカの布団を剥ぎ、アスカの来ていたパジャマの胸元がはだけた。
少女の白い胸が、少年の眼に焼き付く。
少年・碇シンジの精神は今や酷くささくれて、最早自分の前にいる少女が、かつて家族の一員だった事も忘れた。
ただ原始的な、彼にとってのみ都合の良い欲望だけが支配していた。
息を荒げ、ただ自分だけの欲望の到達点を一心に目指し始めた。

どん、と鈍い音が一回。
ドアから聞こえたのだろうか。
何か重量のあるものがぶつかるような音。
心臓が口から飛び出る勢いで、シンジはビクリと体を震わせ、おそるおそるドアの方を見る。
大丈夫だ。鍵はかかっている。
「LOCK」の赤い文字もちゃんと見えた。
口の辺りまで飛び上がった心臓が、徐々に胸まで降りてくる。
なんだ、何かは知らないけど驚かせないでよ。
もう少し。もう少しなんだから。
次の瞬間。
ドアそのものが大音響と共に吹っ飛んだ。
その扉の残骸ともつれあうように大きな影が二つ、室内に転がり込んでくる。
予想もしない闖入者に、シンジは唖然とそれを見ている他無かった。
というより、何が起きたかすら理解出来ない。
それが理解できるにつれ、高揚感は見る間に萎んでいった。

影の片方は見た事も聞いた事も無いような、正に怪物。
一瞬人のように見えたが、節くれ立った不自然に、歪に巨大な手足とその爪は人には在り得ぬものだ。
何より意志を欠片も感じさせぬどんよりと濁った黄色い目と、その額を突き破る角が人間以外である事を物語っている。
見るからに凶悪な面構えはどう考えても、招かざる訪問者に間違いない。
怪物は、がちがちと大きな音を立てながら、その大きな牙を組み敷いた男の喉笛に突き立てようとしている。
もう一つの影、組み敷かれた男も太めとはいえ、筋肉質な肉体の持ち主に見えるが、怪物と比べればやや分が悪く見えた。
だが男は一瞬だけ力を抜き、勢いあまった怪物の頭が近付いた時に、男はその額を思い切り怪物の牙に向かって打ち付けていた。

重量を持った鈍器同士がぶつかり合う、鈍い衝撃音。
次の瞬間、くぐもった悲鳴をあげて怪物は、男の方を掴んでいた手でその大きな口を押えていた。
男のカウンターの頭突きの前に、牙が折れたらしい。
男は顔をしかめてはいるが、瘤くらいで済んでいるようだ。

「・・・痛ぇじゃねぇか、こンの野郎!」

自分から頭突きした事は棚に上げて悪態をつくと、中年男は怪物が怯んだ隙に、足を押し入れ思いきり蹴り飛ばす。
どの位の力が籠もっていたのかはしらないが、巨大なその怪物が、その一蹴りでドアの向こうまで真横に吹っ飛ばされた。
中年男は仰向けのまま、腰に差してあった大型の拳銃を引き抜き、ドアの外側に向かってポイントする。
一瞬の躊躇も無く、流れるように男は引き金を引く。
狭い室内に腹に座るような低音が三発響いた。

シンジの位置からは何も見えなかったが、銃弾は狙い過たず、あの怪物を捕えたのだろう。
大きなものが倒れる衝撃音と共に、それきり物音は消えた。

「・・・まったく。あんなモンに押し倒される趣味は無えってぇのによう」

ぶつくさと愚痴りながら、埃を払い、見た目とは裏腹に男は軽快に立ち上がった。
男はドアの向こうに向かってドラ声を張り上げた。
「おおい!もう出て来ていいぞぉ!」
そこでようやっとシンジに気が付き振り向いた男の顔は、引き締まった表情から唖然としたものに瞬転した。
その表情の変化が何を意味するか判らなかったシンジは、こんな時どんな顔をすればいいか判らない。
(笑えばいいと思うよ)
何処かで聞いたような内なる声に導かれ、苦笑い、というか色々複雑に混じった愛想笑いを男に浮かべてみせる。
笑いを向けられた当の男は・・・かける言葉を捜すべく、眉と口を思い切りひん曲げた挙句、とうとう口を開いた。

「・・・あー・・・なんだ、坊主。トイレならここ出て右に少し行ったところにあったぞ」

シンジの下半身は先ほどの行為を中断したままの状態、有体に言えば何もかんも丸出しであった。
事態の推移をぼけっと突っ立って見守っていたのだから、まぁ当然だ。
無論初対面の印象としては、女性でなくても最低ランクに位置することは間違いない状態であった。

顔を真っ赤にして慌ててズボンと下着を一気に上げようとして、何かに引っかかったらしく悶絶している。
と、そこにひょっこりとドアの向こうから顔を出してきたのは綾波レイ。

「え!?・・・あ、綾波!?・・・」

じーっとシンジを見ていたレイはぽつりと一言だけ漏らした。
「・・・おとうさん、碇君。碇司令の息子」
「!?・・・あの線の細いのが、かぁ?」

弁慶は丸い目を更に丸くし、思わず呟いていた。

碇司令の息子、碇シンジは壁に向かって体育座り。
まるで呪詛のように小さい声で「・・・見られた」と繰り返しているのが聞こえた。
弁慶は少年に聞こえないように溜息をついた。
確かに見るからに繊細で神経質そうな少年だ。
時間があればほっとくのが一番いいのだが、そうも言ってられない。
特に痒い訳でもない頭を掻きながら、弁慶はかける言葉を捜していた。
そういえば。
弁慶は視線をめぐらし、窓の方へと動かした。
ベッドに眠るこの赤毛の少女も、レイやこの少年と同じ立場にあるのだろうか。
先にレイに聞いた時「セカンドチルドレン。惣流さん」と言っていた。
病室の前の名札にあった「惣流・アスカ・ラングレー」の名前。
なるほど、あれがベッドに横たわる彼女の名前か。
レイが知っているのなら、この少女もまた、レイやこの少年の仲間なのかもしれない。
いずれにせよ、この状況下においては彼女も放っておく訳にはいかないだろう。
色々な思索を巡らした挙句、一番無難そうな言葉で話しかけてみた。

「あー・・・坊主。無事か?」
随分今更な問いを向ける弁慶に、少年は泣きそうな、恨めしそうな顔で上目遣いにこちらを見た。
・・・すぐに視線を下に落とした。
答える気は無い・・・ようだ。
気を取り直し、今度は言葉を変えて再度話しかけてみた。

「・・・あのな、坊主。今NERVの中はかなりヤバい事になってるんだ」
一瞬肩がびくりと震えたが、ほんの一瞬だけで変化は特に無い。
「ここは今とても危険なんだ。お前達も、俺達と一緒に来い」
だが少年からの返事はない。相変わらず膝の間に顔を突っ込んでこちらを見ようともしない。

「ほら、坊主。行くぞ」
「放っといて下さいよっ!」
尚も声をかけた弁慶に対して、少年は顔を上げて、何かに取り憑かれたかのように叫び始めた。
「もう何処にも行きたくないんだ!もう何もしたくないんだ!」
伸ばした弁慶の手を荒々しく弾き、ヒステリックに首を振る。
呆気に取られる弁慶の前でも、かつての仲間であるレイの前でも、少年の独白は止まらなかった。

「誰か僕に優しくしてよ!・・・こんなに頑張ったのに、みんなが言うとおり戦って、みんなが言うとおり
 勝ってきたのに僕だけが傷ついて・・・でも誰も、誰も、誰も僕が要らないんだ!僕がいてもいなくても、
 誰も同じなんだ。何も変わらない・・・だからみんな、死んじゃ」

ごん、と鈍い音が上から聞こえ、シンジの視界は大きな衝撃に揺れ動き、一瞬自分が何処にいるかを見失った。
気がつくとじんじんと、頭頂部が腫れ上がるような熱と痛みを持っている。
頭を拳で殴られたのだ、と気がつくのにはやや時間がかかった。

「馬鹿野郎、甘ったれるにも程があらぁ。まだ舐めたこと言うようならな・・・殴るぞ」
(・・・!もう殴ってるじゃないか!)
シンジはその思いのまま言い返そうとして男の顔を睨み・・・口を噤んだ。
平静な物言いとは裏腹に、険しい表情を浮かべた男の目はとても怖かった。
シンジの心も体も痺れてしまい、言い返す言葉は何処かに飛んでいってしまった。
代わりに口からは、心に湧くままの言葉がただただ溢れ出していった。

「だって・・・だってしょうがないじゃないか!僕はダメだ。だめなんですよ。僕には何もない。
 自分がヒトのためにできることなんて、何もないんだ。優しさなんか、かけらもない。
 ずるくて臆病なだけだ。僕には、ヒトを傷つけるしかできないんだ。
 だったら何もしないほうがいい」

シンジは憑かれたように一気にぶちまけ、そしてまた口を噤んだ。
弁慶も喋らない。シンジも喋らない。レイも喋らない。アスカは喋れない。
静寂の中を、蝉の声と風のそよぎだけがたゆたっていた。

つっと弁慶が動いた。
殴られる、そう思ったのか、びくりとシンジは体を奮わせた。
そんなシンジの様子を見ながら、ふん、と鼻息も荒く、弁慶はシンジの目の前でどっかと胡坐をかいた。
上半身をずい、とシンジの方に突き出し、じろりと大きな丸い目でシンジを睨む。
視線を逸らそうとするシンジの頭をぐいと掴み、自分の方に向き直らせた。
シンジの目を覗き込むように、一言一言区切るように、弁慶はゆっくりと話し始めた。

「自分を卑下するのは勝手だけどよ・・・おめぇ、自分から逃げられる奴なんざいねぇんだぜ?」
「・・・逃げちゃダメなら、逃げられないのなら、僕はどうすればいいんですか」
弁慶の射るような視線を決まり悪げに外しながら、シンジはぼそぼそと呟いた。
だがその目に浮かぶ反抗的な想いはまだ消えていない。
それも当然か。現れた男は自分をブン殴り、説教を始めた。反抗的にならない筈がない。
だがそれでも。
「自分が嫌だったら、自分を胸張って好きになれるようになるしかねぇだろ」
「やったよっ!やったさ・・・でもダメだったんだ。もっと、もっともっと悪くなるだけだったんだ・・・」

爆発するようにシンジは言葉を吐き出したが、すぐに言葉の勢いがなくなり、尻すぼみになっていった。
そんな様子を見ながら、弁慶は淡々と言葉を続けた。
「だったら諦めずにまた続ける。好きになれるまで続ける。そんだけだ」
「・・・もういいんだ!誰も僕を見てくれない!誰も僕を褒めてくれない!だから・・・」
言葉を口に出している途中で、また顔が無理矢理に男の方に向けられた。
またさっきの怖い視線だ。
「いい加減にしやがれ。誰か、じゃねぇだろ。おめぇ自身だ」
「・・・!?」
「いいか、坊主。人の生き方に価値なんざつけられねぇが、死んだ時、いったい何の途上だったのか?
 何をやったのか?・・・それが一番大事なんじゃねぇのか?」
一回言葉を切り、心の奥深いところから溢れようとする記憶を必死に堪えながら、弁慶は言葉を捜した。
そうだよな。あんたは身をもってそれを教えてくれたんだよな、武蔵先輩。
元気、すまねぇ。俺はそれを教えることが出来なかったんだ。
「人は死ぬ。いつかは必ず死ぬ。とどのつまりは死ぬために生きてるんだ」

シンジは弁慶の声に、その言葉に含まれる熱に圧倒されていた。
言い返すことは出来ず、視線を逸らすことも出来ず、ただ弁慶の言葉に耳を傾けるしか出来なかった。

「だから俺は休むことなく力の限り生きる。生きている限り休まねぇ。それが巴武蔵に、早乙女元気に誓った約束だ。
 ・・・何時かはしらねぇが、死ぬ、その時が来ても悔いのねぇように」

その言葉はシンジに向けられたものではなく、男自身に向かって向けられた言葉のようにも取れた。
事実、男はシンジを見ずに視線を落とし、話していた。
「なぁ、おい。おめぇ、悔いだらけじゃねぇか・・・全て諦めるにゃまだ全然早ぇんじゃねぇのか?」
視線を落としながら言葉を紡いでいた弁慶は、耳に入った嗚咽に眉を顰め、視線を上げた。
目の前の少年、碇シンジは嗚咽をこらえようとして、それでも溢れ出る想いが目から滴り落ちていた。
もうシンジからは反抗的な表情も、錯乱した態度も剥げ落ちていた。
「・・・じゃあ僕は・・・僕は一体・・・どうすればいいんですか・・・」
「・・・腹ぁ括って立ち上がれ。逃げるな。休むな。怠けるな。挫けるな・・・何回出来なくても、何回挫折しても諦めるな。
 近道も楽な道もねぇ。前に進むしか道はねぇんだ」
弁慶の言葉に答える事無く、シンジは黙り込んだ。
弁慶自身にも判っている。
言葉で言うのは簡単だ。だがそれを実行することの何と難しいかを。
だがそれでも進まなければならない。それも痛いほどに判っているのだ。
弁慶もその答えを促さず、レイはその様をただ見つめていた。
蝉の声もいつしか消え、ただ風が木々を揺らす音だけが窓から聞こえてくる。

その静寂を破ったのは、嘲りを含んだ笑いを噛み殺すような、そんな低い笑い声だった。
「クク、何と弱々しい・・・そんなひ弱な小僧など放っておけ・・・車弁慶」
声は壁の向こうから聞こえていた。
当然姿は見えない。
「・・・誰?」「誰だ!?」
レイと弁慶の同時に発した問いの答えの代わりに、凄まじい爆音と共に廊下に面した壁が吹き飛んだ。
「くっ!二人とも伏せろ!」
咄嗟に弁慶は、シンジとレイを庇って二人を自分の体の下に押し込み、自らも倒れこんだ。
何が起こったかは判らない。
だがここにいる三人の子供には、決して傷など負わせない。
背中に降りかかる埃を感じながら、弁慶はそう決心していた。
瓦礫と化した壁が立てる破壊音と、舞い上がる埃が一段落した頃、弁慶はようやく体を起こす。
幸い、大きな瓦礫は弁慶達に降りかかってはこなかった。
そして、ぶち抜かれた壁の向こうに、未だ舞い上がる埃の向こうに、先の声の主がいた。
「・・・誰か・・・いる?」
シンジは弁慶の体の下から体を起こしながら、埃の向こうに目を凝らす。
すぐ隣で呻き声が聞こえた。
向き直ったシンジの、目に入った男の表情に浮かぶものは文字通り「憎悪」の表情だった。
埃の奥にある人影を睨み付けるその表情は、さっきシンジと話していた時とはまるで違う人物に見えた位だ。
その眼光の凄惨さに、シンジは声をかけることを躊躇った。
隣にいたレイもまた、義父となった男の初めてみる凄まじい表情に、声をかけられないでいた。

「くそったれが・・・何故だ、何故てめぇが此処にいる!?」
「忘れてはいなかったか・・・光栄だよ、早乙女研究所の生き残りが我が名を覚えておるとはな、車弁慶」
搾り出すような弁慶の叫びに、不穏な余裕を感じさせる声が答えた。

「何故だ!何故てめぇが生きている!?・・・ブライィ!!」