「二人の部屋 Side-K」 (81-86)

Last-modified: 2010-01-12 (火) 22:45:44

概要

作品名作者発表日保管日
「二人の部屋 Side-K」81-86氏08/02/2008/02/21

 

  • 「二人の部屋 Side-H」のキョン視点です。
     
    <<注意!>>
     途中少々暗め(シリアス)なシーンも経由するので、そういったものが苦手な方には、どうかスルーをお願いしたく存じます。

作品

 
 ハルヒとの同棲生活を始めて、もう七年程が経つ。
 
 
   □□□□□
 
 
 高校時代のハルヒ教官によるスパルタな補修のおかげか、俺たちは二人とも東京の大学へと無事進学を果たした。といっても、基礎学力そのものがそもそも全く異なっていたので、同じ大学とはいかなかったが。
 ハルヒは片手間に俺と同じ大学も一緒に受験し、もちろん合格して、何故か最後までこっちに来ると言い張っていた。しかし俺が必死に説得し、それを思いとどまらせた。

「いいかハルヒ、そりゃ確かに大学での勉強ってのは、学校そのものに拘わらず自分自身の努力による比重が割りに大きいかもしれんが、やっぱりレベルの高い大学の方が学べる幅や人との出会いも広がるだろ。その方が、お前の求めているような不思議だって見つけ易いかも知れないじゃないか。それに俺なんかのレベルに合わせてお前、その先一体どうするつもりだ? 就職するにしたって、大企業なんかじゃ未だに学歴重視な部分もあるみたいだし、下手すればこれはお前自身の一生を左右しかねない問題なんだぞ?」
 
 それでもハルヒは最後まで頑なに首を縦に振ろうとしなかったが、俺の真摯な訴えがどうにか届いたのか、結局しぶしぶながら了承した。ただし、一つの条件の下に。
「…あんたがそこまで言うんだったら、もう、分かったわよ…。でもそれだったら、一つだけお願いがあるの」
 ハルヒはそこで一旦言葉を切った。
 なんだよ、唐突にかしこまったりして、珍しい。いつもずかずかと無遠慮に命令ばかりしてくるお前らしくもないな。言ってみろよ。
 俺が言うと、ハルヒはやがて躊躇いがちにおずおずと口を開いた。
「あのね…、二人で一緒に、ルームシェア、しない?」
 
 ………。
 …は!? 二人でルームシェアってまさか…お前と、俺がか!?
 ハルヒのその言葉を俺の頭が理解するのには、数秒を要した。どうか聞き間違いか俺の勘違いであって欲しかったのだが、果たしてハルヒは俺の言葉にこっくりと頷いた。それも何故か頬を赤らめながら。

「だ、だって、そうすればまず家賃が半分で済むじゃない! 幸い学校だってお互いそんなに離れてないんだし。家事なんかも分担出来て、一石二鳥でしょ? あんたなんてどうせ家事とか一切出来ないんだろうから、まあこのあたしが少しくらい手伝ってあげないこともないわよ。それにあたしたちなんて今更遠慮したり、気使うような間柄でもないんだから気楽でいいじゃない。だからさ…」
 ハルヒはまるでその所以を予め準備していたかの様に、さっきまでとは打って変わって何やら早口で捲くし立て始めた。
 
 そうして、今度は俺が決断を渋る番とあいなった。
 ハルヒはお願いなどと言っておきながらも、それだけは絶対に譲れないなどとぬかしだす。何だそれは。
「おいおい、待てよ。お前、自分の言ってる事の意味分かってんのか? 俺たちはまがりなりにも男と女なんだぞ? そりゃ家賃はお互い軽くなるかも知れんが、それにしても同じ部屋で暮らすなんてなあ…。第一、うちの親も、お前のご両親もそんなの許す訳がないだろう」

 ハルヒはしばらくの間、黙って俯いたままそんな俺の言葉を聞いていたが、ややあって俺の方へと顔をキッと上げて言った。
「だったら、一緒にお互いの親の所へ訊きに行ってみましょうよ。これ以上あんたと二人だけで話してても埒が明かないみたいだし、その答えを聞いてから判断しましょう。それでいい?」
 唐突なハルヒの、嫌にキッパリとしたその態度の変化に俺は一瞬動揺してしまい、思わずそれに同意を返してしまったのだった。
 
 ――その後の結果は、俺にとっては正しく驚愕に値するものであった。それというのも、俺の両親もハルヒのご両親も何故か一様に古泉の様なニコニコ顔を浮かべて、俺たちの持ち出した案件に対して思案気な素振りを微塵も垣間見せずに、ごく当然の様に快諾したのだ。
 一体、俺の目の前では何が起こっているんだ? まさかハルヒの奴の、例の奇天烈パワーがまた復活したとでもいうのか? おい古泉、元SOS団きっての解説係りは何やってるんだ。もしこの俺たちの親に特殊メイクでもしてなりすましてるんなら、さっさと説明でも何でも始めやがれってんだ。
 
 ハルヒもなにやら話し合ってる最中、始終ニヤニヤと笑い、俺の方へと「だから言ったじゃない」とでも言いた気なツラを向けていた。
 俺は驚きのあまり茫然自失となってしまい、会話には途中から生返事しか返せなくなっていた。
 そして俺が呆気にとられている内にもあれよあれよと話は進行していて、そのうちにお互いの親同士も連絡を取り合って何やら嬉しそうに挨拶などし始め、ハルヒももちろんそれに調子よく便乗しやがり、俺が反論する隙も見出せぬままに、気付けば俺とハルヒが同じ部屋で暮らすということは既に雰囲気的に決して覆せない確定事項となってしまっていた。
 やれやれ。もう、好きにしろよ…。
 
 
   □□□□□
 
 
 そうこうしている内にもいつの間にか、辺りに緑が芽吹き始めて新しい春が訪れ、俺たちは引越しの準備に取り掛かった。
 
 俺たちの新しい部屋は結局、都内にある2DKを間借りすることにした。
 二つの七畳間はダイニングを挟んで向かい同士に離れていたので、お互いのプライベートもある程度は守れる。これが俺からの最大の譲歩だった。
 炊飯等の家事はルールなどきっちり決めてかかる様なこともなく、俺たち二人は何となくその場その場のアドリブで行い、互いに至らない部分を、気が付いた時に補い合っていた。
 それまでにも濃い付き合いをしてきた俺たちには、双方の日常的な思考回路が手に取るように把握できていたので、特別口うるさく言わずとも、そんなペースがしっくりと馴染んだのだった。
 
 俺たちはそれぞれの大学生活やアルバイトなどに日々勤しみ、毎日を明け暮れていた。
 お互いに授業のコマが空いた時間には部屋でゲームをしたり、気が向いたら二人で外に食べに出掛けたりした。
 周囲は当然、そんな俺たちの事を恋人同士だと考えていたようだ。しかし俺たちの間にそんな甘いような一時は、実際は少しもなかった。
 俺たちはただ双子の兄妹の様に、元より一緒に居るのが当たり前な家族然として、共に暮らしていただけだった。
 
 引っ越す以前に懐いていたような、未知の生活に対する捉えどころのない不安はいつしか綺麗さっぱりと俺の中で氷解し、そんなものをことさらに考える必要なんて、実はどこにもなかったのだと思った。
 俺が笑いかけると、いつだってハルヒも笑顔を返してくれる。俺はそんな毎日の生活に安心感を懐き、それと同時に、今あるお互いの関係にどこか慢心していた。
 だからそうしている内にも、その笑顔の裏で徐々に進行していたハルヒの気持ちの変化に、俺は気付いてやれなかったんだろうと思う。
 
 
   □□□□□
 
 
 そんな生活を二年程つつがなく送っていたある日のこと、ハルヒが酔っ払って朝帰りしてきた事があった。
 
 俺たちはお互いの予定ひとつひとつにまで干渉することはなかったので、その前の晩からハルヒがどこに出掛けていたのか、たまたま俺は知らなかった。
 時刻はとうに午前零時を回っていた。おかしい、と俺は思った。この二年間、特別な理由も無くハルヒがこんな遅くまで帰ってこなかった事はなかったのだ。
 何か事件や事故にでも遭っているんじゃないだろうか。いくらあのハルヒだって、今はあくまでも一介の女性に過ぎないんだ。もしハルヒの身に何かあったりしたら、取り返しがつかないかもしれない。
 俺はそんな不安に駆り立てられ、いてもたってもいられず、電話をかけたり、ハルヒの所属する大学の学部校舎の辺りにまで出向いて探し回った。
 しかし電話はどれだけ掛けても繋がらず、学校にもハルヒらしき姿は終ぞ認められなかった。
 
 やけに嫌な冷や汗が、背中を伝って落ちてゆく。この悪寒を俺は知っている。あのクリスマスも間近に押し迫っていた冬の日、ハルヒが俺の背後の席から忽然と消え失せてしまった時と同じ感覚だ。
 何か、他に手掛かりはなかったか? 朝の会話でハルヒは何と言っていた? 話の中でどこかに出掛けるといったような内容は無かったか? ハルヒの親しくしている知り合いは? ハルヒが一人でよく行く場所は?
 …俺は愕然とした。何一つ思い浮かばない。俺は、これだけ長い間を共に過ごしてきたハルヒの事を、何一つ知ってはいなかったのだとにわかに気付かされた。そして俺たちが共同生活の中で一緒に築いてきたのだと思っていた関係が、どれだけ薄っぺらで一面的なものだったのかを。
 
 丑三つ時を過ぎたあたりで、俺は肩を落として帰宅の途へと就いた。もしかしたら、ハルヒが入れ違いで帰ってきているかもしれない。
 しかし家の扉を開けた瞬間、俺のそんな儚い期待は脆くも崩れ去った。部屋は依然として真っ暗で、がらんどうなままだった。
 この二人分の部屋を、こんなにも広く感じたのは初めての事だった。未だ引っ越してきて間もなく、何の荷物も無かった頃の空間以上に、その時の俺には茫然と開けて感じられた。
 目の前では不確かな暗闇が、ひっそりとその口を開けて俺の来訪を待ち受けている。そして俺は靴を脱ぎ、その中へと歩を進めて侵入する。そこは、つい数時間前までとは気配が一変しており、最早俺の知っている自分たちの部屋ではなかった。
 俺は電気を付ける気力すらままならずによろよろとダイニングのテーブルに着いて、肘を付き額を両手で覆った。
 ハルヒが帰って来たときには、俺はここで待っていて、あいつを出迎えてやらなければいけない。俺は自分にそう言い聞かせて、自分の内より浮かび上がってくる絶望と恐怖とを必死に押さえ込みながら、ただじっとその場に居座っていた。
 
 
 
 
 それからどれだけの時間が経過したのだろうか。
 やがて気付くと、窓の外はうっすらと蒼く滲み始め、部屋の中をささやかに照らし出していた。どこからか小鳥たちの鳴き声も聞こえてくる。
 その時不意に、ガチャガチャ、と玄関の方から開錠してドアノブを回す音が聞こえた。
 俺は身を起こしてしばしそちらの方へと目をやり、扉がギギィッと音を立ててゆっくりと開き始めたのを認めるとその場に立ち上がって、その方向へ一歩、二歩、力なく近寄った。
 
 扉が人ひとり分ほど開いたところで、その隙間からハルヒが俯きがちに身体を滑り込ませて玄関に入ってきた。
 そのまま自らのすぐ横にある壁面に片手をつき、何やら数秒間その場に黙って佇むハルヒ。その背後で扉が、きしんで重苦しい音を上げながらバタンと自動的に閉じてゆくのが見えた。
 酔っ払っているのが一目で分かる。顔を赤くしてフラフラと不安定に身体を揺らしながら、やがて靴を脱いで部屋に上がってくる。
 酒の臭いがツンと鼻をつく。そしてハルヒは目の前にいた俺の存在に、そこでようやく気が付く。目の焦点も合わずに虚ろな瞳を俺の方へと向けてくる。
 
 俺の中には安堵の気持ちと共に、次第にふつふつと怒りが湧き上がってきた。
 俺は一晩中こいつの事を心配して、不安な気持ちで一杯だった。だというのに、こいつのこの有り様はなんだろう。
 こいつは俺の気も知らずに、ただどこかで呑気に遊んで帰ってきただけじゃないのか。それも俺の知らない、誰かと。
 
 そう思った瞬間、今まで当たり前にあった二人の穏やかな生活を壊された様な感覚に陥り、俺はそんなハルヒに対して、思わず声を荒立ててしまっていた。
 お前はこんな時間まで何をしてたんだ! 一体どこに泊まってきたんだよ! ずっと誰かと酒でも呷ってたってのか!? この馬鹿野郎、だったら一言連絡くらいしやがれ! お前、今まで俺がどれだけ心配してたのか…。
 俺はそこまで畳み掛けると不意にハッとして、ハルヒの顔を見た。ハルヒは目にうっすらと涙を浮かべて俺を睨みつけていた。
 やばい、言い過ぎたか、と思った瞬間、ハルヒも爆発した。
「何であんたなんかにそんな事いちいち言わなきゃいけないのよ、ゴチャゴチャとうるさいわね! あたしが外で何やってようと、あんたには関係ないでしょうが! あんた、あたしの何だっていうの!? 旦那にでもなったつもり!? あんたの方こそ馬っ鹿じゃないの!? あんたに、あんたなんかに…!」
 そう言って泣きじゃくりながらながらハルヒは俺の胸を、拳の横でドンドンと殴りつけてきた。何度も、何度も。俺の心の扉を激しくノックするかの様に。
 
 ハルヒは様々な言葉を駆使して俺をがむしゃらに罵倒し続け、その勢いに任せて、でもどこか弱々しく俺を殴打した。俺はしばらくの間、黙ってそれらをこの身にじっと受け止め続けていた。
 しかし、それに対する肉体的な痛みなんてほとんど感じなかった。その時はそんなものを感じている余裕なんてまるで無かったから、きっと痛覚が麻痺していたのだろう。
 そんなことよりも、ただ何よりハルヒの声が、言葉の一つ一つが、そして今までどこか見えない場所でずっと耐え続けてきたのであろうその痛みが、その時ようやく俺の中にまで響いてきて、それが俺の胸の奥をキリキリと固く締め付けた。
 やがてハルヒの声も、拳の力も徐々に静まってきた時、俺は自らの腕を大きく開いて、ハルヒの小さな身体をぎゅっと包み込んだ。 ハルヒは腕の中で一瞬身を震わせたが、俺の胸部に向かって圧力を加えながらも、そこでまだ何事かを呟き続けていた。
 耳をすませたが、その声は嗚咽にまみれていて、最早言葉としての体を成してはいなかった。
 そして次第にハルヒの身体は力を失って崩れ落ち、俺もそれに伴ってその場にしゃがみ込んだ。
 
 
 
 
 俺はハルヒを抱きしめながら暫しの間、いつかの閉鎖空間での様に自分自身の感情と向き合い、自問自答していた。
 
 何だって俺は、あんなにもハルヒの身を懸念し、躍起になってハルヒを糾弾しようとしたんだ? 確かにハルヒの言う通り、ハルヒが外で誰と一緒に居て、何をやっていようと俺には実際関係なんてないじゃないか。俺とハルヒの関係? 元クラスメイト、元SOS団の団長と平団員、そして今はしがないルームメイト。事実、それだけだ。別に恋人同士なんかじゃない。そしてそうなりかねない様な既成事実を作ったためしもない。だからたとえハルヒが今日の様に酒の匂いを漂わせながら朝帰りしてきたところで、俺の知らない場所で誰と何をしていたって、文字通り俺の知ったことではない。それは、あまりにも単純で明快なプロセスを経た先に導き出される結論。
 
 でも…それでも。俺の知らないハルヒの一面がある。俺に見せない顔を、俺の知らない他の誰かに対して見せている。今までそんな事をどうとも思ったことはない。しかしその事実が、今はなぜだか目の前に大きく立ちはだかり、俺を無性に苛立たせた。
 そもそも自分とは違う方の学校への進学を勧めたのは俺だ。ハルヒを自分から遠ざけようとしたのはこの俺だ。それは、そんなことは自分でも十分に分かっている。でも何故だ? どうして俺はそんな真似をした?
 だからといって別に、説得した言葉の内容自体が間違っていたとは今でも思わない。しかし、その表面的な言葉の奥に、本当はもっと別の理由があったんじゃないのか?
 
 俺とハルヒは高校生活の三年間、学校の中では片時も離れる事がなかったと言っても過言ではないだろう。日中は同じクラスの前後の席という位置関係が常に不動のものだったし、放課後はSOS団の活動へと共に身を費やしていた。それに加えて受験が近づいてからは帰宅後ですら、どちらかの家で二人で勉強して過ごしていた。
 そうやってハルヒがあまりにも自然に、ずっと近くにいたからこそ逆に、俺はたまにこいつの姿を見失って、徐々にその存在を上手く捉えられなくなっていった。灯台下暗しってやつだ。
 だから俺は反射的に、一旦ハルヒと少し距離を置こうと感じたんじゃないだろうか。一歩身を退くことで、俺の視界の中に再びこいつの姿がちゃんと映るようにと。
 そしてこれは自惚れの思い込みかもしれないが、それに対してハルヒはそれでも俺と離れたくない、二人の関係をみだりに絶ちたくないと思ってくれたのではないだろうか。だから、こうして無理矢理同棲まがいの暮らしをしようと提案してきたのだと。
 別に俺は、仮にお互い別々の暮らしを始めていたとしたって、元よりちゃんとこいつの事は定期的にかまってやるつもりでいたんだがな。
 
 やがて、この生活を続けていくなかで俺は徐々に錯覚していった。この部屋に一緒に住んでいる限り、ハルヒはどこにも行ったりはしない、と。
 本当は、その扉の向こうにだってハルヒの所属する他の世界が広がっているはずなのに。
 根本的な問題は何一つ解決していないというのに、俺たちは平和な日々の生活を送っているから大丈夫なんだ、という幻想を自分の中に持つことでそれを覆い隠し、俺は自分の気持ちを誤魔化し続けていた。
 
 その根本的な問題とは何か。それは、俺たちは形は変われども距離的にはずっと近くに居続けていたのに、二人は決して、触れ合ってはいなかった、という事だ。
 この部屋の中でずっと共同生活をしていたにも拘らず、いやだからこそ、俺は逆にどんどんハルヒに対して無感覚になっていた。
 触れると、そこには隔たりが生じる。距離がある。痛みがある。だからお互いが傷つけ合わないようにと、ただこの二人の生活を壊さないようにと、俺たちは自ずと触れ合わないようなスレスレの距離感をお互い感知していたのだろう。
 でも、もう触れ合う事を恐れちゃいけないんじゃないだろうか。俺たちは痛みを伴って傷つけあったとしても、お互いにちゃんと各々の存在としての隔たりを、その距離を認め合い、見つめ合い、互いに向かい合うべきなんじゃないか。
 
 そして、誤魔化し続けていた自分の気持ちとは…。
 
 …ああ、そうか。
 そこで俺ははたと気が付く。
 俺はただ、ハルヒの事が好きだったんだ。それも、きっとこいつが俺の背後で妙ちきりんな自己紹介をしたあの瞬間から、ずっと。
 認めてしまえばしごく自然で単純な事だった。何で今まで気付いてやれなかったんだろう。何で俺は、ハルヒがこんなになっちまうまで、自分の気持ちから無意識に目を背け続けていたのだろう。
 
 やはり俺は、ハルヒの方へちっとも目を向けてやってはいなかったんだな。ずっと、こんなに近くに居たっていうのに。
 もしかすると今更もう、正直に心を打ち明けて謝ったとしても、ハルヒは許してはくれないかもしれない。ハルヒの失ってきた気持ちを、そしてそれに伴った痛みを、取り戻すことは既に叶わないのかもしれない。
 それでも俺は、今この瞬間から、この場所から、ハルヒを求めようと思った。追い求めて、ちゃんとハルヒの事を見据えてそこへ向かってゆこうと思った。そしていつか、互いに向かい合いたいと思った。
 
 
 
 
 ハルヒは俺の腕の中で、いつの間にか沈黙を保ったままくたりとその身を任せてきており、時折鼻を啜り上げる音だけが周囲に響いていた。
 俺はより一層この身をハルヒの方へと寄せて、こいつを包み込む。まるで親鳥が卵を暖めてやるかのように。また逆に、ハルヒの暖かさをこの身にも感じ取りながら。
「なあ、ハルヒ。聞いてくれ」
 …無言。
 しかしハルヒが、俺の言葉を聞き逃さぬようしっかりと耳を傾けているという事が、ピンと張り詰めた空気を通じてこちらに伝わってくる。
 
「俺はさ、きっと恐かったんだと思うんだ。近づき過ぎて逆にお前を見失ってしまったり、触れ合って傷付け合ったりしてしまうことが。ずっとお前と正面から向かい合って、関わろうとすることを先送りにして、それから逃げ出そうとしていたんだ。…卑怯だよな、本当に」
 ハルヒはやはり何も言わない。俺は、この胸に伏せられているハルヒの頭部へと顔を向ける。
 
「でも今日、お前が帰ってこなかった時間の中で嫌ってほど思い知らされたんだ。俺が、お前をどれだけ必要としていたのかを。お前を、どれだけ求めていたのかを。だから痛みなんかを恐れずに、お前と触れ合ってゆきたいと思ったんだ」
 まだ薄暗い部屋の中には、ただ俺の声だけが朗々と響き渡る。
「今になってようやく気付いたよ。俺は、お前のことが好きだ、ハルヒ――」
 
 やがてハルヒは、俺の方を見上げた。その顔は涙でくしゃくしゃに崩れてしまっている。でも今の俺は、そんなハルヒも可愛らしくいとおしいと思ってしまう。
「こんなに、遅くなっちまった。ずっと、お前のことを待たせていたんだな。ごめんな」
 ハルヒはその瞳を潤ませながら、口を開こうとする。
「キョン、あたし…」
 しかし言葉がそこで途切れてしまって、それ以上続かない。
 俺はそんなハルヒにこの顔を近づけて、目を閉じながらその固まったままの唇の上に、そっと自分の唇を重ねる。いつぞやの一件以来、二度目のキス。もっとも、こいつにとっては俺とのファーストキスなんだろうが。
 
 止められた時間。暫し、俺たちの周囲にだけ訪れる静寂。柔らかな陽の光の反射によって浮かび上がる、空気中の塵の舞い。俺たちの、閉鎖空間。
 やがて俺が目を開けて唇をゆっくりと離すと、ハルヒは目を閉じたまま力なくその首を下方へと傾け、再び俺の胸の辺りにすとんと額を押し付ける。しばらくして、また小さな嗚咽と共に、ハルヒの擦れた声が聞こえてくる。
「あたしも…、キョンが好き。…大好き。絶対に離れたく、…ない」
 身をかすかに震わせながら、ハルヒは言う。俺はその振動を止めようとするかの様に、何も言わずにまた力強くハルヒを抱きしめた。
「キョン、あたしね、あたし…、ずっと、キョン…」
 ハルヒはそれからも長い間、しゃくり上げながらも言葉にならない言葉を吐き出し、暖かな涙で俺の胸を濡らし続けていた。
 
 
 
 
 その日、俺たちは初めて一つになった。

 ハルヒはまるでマシュマロの様に柔らかく、水風船の様に弾力があり、熟れた果実の様に瑞々しく甘露で、俺たちは今までの時間の空白を埋めてゆくかの如く、互いに無我夢中でむさぼり合った。
 窓から射し込む鋭い朝の斜光が、ハルヒの肌の上で艶やかに照り返され、そこを淡い桜色に染め上げていた。
 ハルヒはカーテンを閉めて欲しいと求めてきたが、俺はハルヒのそんな、小さな花びらの様に、か細くはにかんだ姿をずっとこの目で眺めていたかった。
 そして俺はその上に覆い被さりながら、幾度となくハルヒの中に潜り込み、そこで自分自身の存在をハルヒに対して荒々しく突き立て、誇示し続けた。ハルヒも苦悶の表情をその顔に浮かべながらも俺の腕を痛いほどに固く握り締め、爪を立ててこの背を抱き、俺の猛りをその身にしかと受け止めてくれた。
 俺たちは四肢を絡め合い、身を溶かし合い、何度も何度も交わり合った。
 いつしかお互いが燃え尽きて、果てながらもただじっと抱きしめ合う時まで、俺たちはずっとそうして貪欲に求め合い続けていた。
 
 
   □□□□□
 
 
 あの日からちょうど五年が過ぎた今日、仕事が終わった後の俺は、とあるホテルの約半フロアの面積を占めるこのレストランへとハルヒを招待していた。
 
 俺は大学卒業後、そこそこの会社に就職し、毎日を追われる様に働いている。
 ハルヒは自分の大学での研究が思いのほか性に合っていたらしく、今やその道の博士課程へと進んでいた。将来はその分野に於ける一角の研究員を目指しているそうだ。
 
 俺が、自身の傍らを隔てているガラス張りの仕切りの、その向こうに広がるパノラマの夜景を眺めて待っていると、やがてハルヒがウェイターに連れられて入り口の方から姿を現すのが、鏡面に反射して描き出された虚像から窺えた。
 俺がそちらを振り返ると、ハルヒは見覚えのない、純白のシルクのドレスに身を包んでいた。おいおいそんなもの、今まで一体どこに隠し持っていやがったんだ。
 
 ハルヒはウェイターの案内で俺がここに居ることを確認すると、俺の正面の席につかつかと歩み寄ってくる。
 そして俺の顔を一瞥してから、スカートの膝の裏の辺りを手で押さえつつ、椅子に腰掛けた。どことなく幾分、緊張の面持ちのようにも見える。
「どうしたのよ、いきなり。こんな所に呼び出したりして」
 事前に想像していた通りのしかめた仏頂面で、でもそう言いつつもどこか期待に胸を膨らませている様な、何かに怯えている様な、そんな複雑な表情を浮かべていた。
 
「まあ、今日が何の日なのか覚えてくれてたのはもちろん嬉しいけど…。でも、ここってすごく高そうな場所じゃない? あんたの安月給なんかで大丈夫なの?」
 いかにも心配そうに尋ねてくるハルヒ。やれやれ、かつては毎週毎週俺の財布の中から散々金をふんだくって巻き上げていた張本人からとは思えない程の、有り難いお言葉を頂戴しちまったね。身に余る光栄ってやつだ。
 本当に人ってのは、時間と共に移り変わってゆくものなんだな。今のお前の爪の垢でも、あの頃のお前自身に煎じて飲ませてやりたいくらいだよ。
 しかし、出会った頃のハルヒと今のハルヒ、きっとどちらが本当のハルヒというものでもないのだろう。
 ただ、気付けばもう十年来の付き合いとなった俺だから言える。それでも本質的な“ハルヒらしさ”みたいなものは、その奥底でずっと変わってはいない、と。
 
「そんなこと、いちいち心配すんな。…しっかしお前もこんな機会だってのに、いきなりムードもへったくれもない言葉から始めるもんだね」
 俺は呆れぎみにハルヒに言う。
「あら、そういうあんたのその科白だって十分に雰囲気ブチ壊しよ。ふふ、ちょっとは社交界のマナーやエチケットってものを学んだらどうなの?」
 そう軽口を叩いて、俺たちは互いに小さく微笑み合う。こんな場所でも、いつも通りの犬も食わない様なやり取り。俺たちには、やはりこんな気取ったシチュエーションは似合わないのかもな。
 
 
 
 
 その後、お互いの今日の出来事、最近耳にした風変わりな噂、いつだったかの昔話、そしてこれからの事などなど、何やかんやと取り留めもなく話しながら、次々と運ばれてくるディナーコースを順調に消化してゆく俺たち二人。
 そして最後の一品を平らげると、コーヒーを口にしながら俺たちはしばし、かつての過ぎ去った日々の思い出に想いを馳せて、そのイメージの中に浸っていた。
 
 するとハルヒが、ふと思い出したように声をかけてきた。
「あ、そうだ。ねえ、これ」
 何でもなさそうにそう言って、持参していたバッグの中から小さな包みを取り出す。
 俺は手を伸ばして、それをハルヒの手から受け取る。
 
「今、開けてみてもいいか?」
 ハルヒは笑顔で頷き、肯諾する。
 注意深く包装紙を剥がしてゆき、その奥に覆われていたケースの蓋を開けると、中には腕時計が入っていた。
 俺はそれを認めると、ハルヒに向かって礼を述べる。
「頑張って選んであげたんだから、大切にしなさいよ」
 そう言ってハルヒは、眉を立てて得意気な、悪戯っぽい表情を浮かべる。
 
 そして俺は刹那の逡巡の後に、予めシミュレーションしていたシーンの具体化を開始する。
「なあ、お返しと言っちゃあ何だが、実は俺もお前にちょっとしたプレゼントがあるんだ」
「ん、本当? ありがとう」
 そう言ってハルヒは優しく目を細め、その顔をいかにも嬉しそうにほころばせる。
 俺はスーツのポケットの中から、用意していた小箱を取り出して、テーブルの上でハルヒの目の前に示すと、その上部を開く。
 給料三か月分…にはちょっと届かなかったが、それでも一応、数十万円相当はする代物だ。こいつのおかげでここしばらくの俺の小遣いなんてものは、すっかり底をつきっぱなしだったよ。
 
「ハルヒ、結婚しよう」
 
 そう言った瞬間、俺は何だか無性にきまりが悪くなってしまって、視線をハルヒの咽元へと落としてしまう。ああ、どうせ俺はヘタレだよ。何とでも好きに言え。
 そして俺は事前に束の間の深呼吸をしてから、一息に言葉を吐き出す。
「ずっと一緒に居て、お互いに支えあってゆこう。俺はこれからも、苦しい時や辛い時、ハルヒに傍にいて欲しい。そしてお前の懐く苦痛や悩みも、頑張って癒してやりたいと思うんだ。…お前は、どうだ?」
 直球ド真ん中。シンプルかつオーソドックスで独創性にはやや欠ける内容。その分逆にちょっと気障ったらしくなり過ぎたかもな。やれやれ、こんなのは自分たちには似合わないと、つい先ほど自分自身で思ったばかりだってのにね。
 ややあって、俺はその返答を伺おうと再びハルヒの顔を見やる。
 
 フリーズ。
 しかし、これまでとは周囲を取り巻く空気の緊張感が顕わに一変しており、ハルヒはまるで石像の如く固く強張ってしまってしまっていて、微動だにしない。つついたらそこからひび割れて、音を立てながら崩れてくんじゃないだろうか、これ。
 そのガラスの様に端正で無表情な顔立ちの上には、正に「驚・愕」の二文字が浮かんでいた。おいおい、これぞ涼宮ハルヒの驚愕、ってか?
 …悪かったな。しかし、少しでも分かり易いようにとこうして周到にお膳立てしておいてやったってのに、お前にとってはそんなに予想だにしなかった展開だったのかよ、これは。ちょっとショックだ。
 んで、お前のそのリアクションを、俺は一体どういう意味合いとして受け取ったもんだろうかね。
 
 
 
 
 やがて少しずつこの意識の外へと遠退いてゆく、周囲の喧騒やBGM。そんな静けさの中で、逆に自分の胸の音が次第に高鳴ってゆくのを感じる。
 そこに取り残されたのは、ただ俺たち二人だけ。それは、二人の関係性が織り成す、限定的な空間。
 
 するとハルヒは自分の口元を片手で押さえて、いつかの様に目から涙をポロポロと溢れさせ始めた。全く、普段は強気で強情なくせして、こういう場面では案外涙もろいんだもんな、お前って奴は。
 そして長い睫毛をすっと伏せて、言葉を詰まらせたのか無言で涙を流しながらも、首を何度も縦に振って頷いた。
 
 俺はテーブルの上に置かれたままのハルヒのもう一方の手の上に、自らの掌を静かに被せ、それを優しく包み込む。
 なあ、ハルヒ。俺たちはどれだけ互いが近づこうとしたって、最終的には結局、個人として隔たったままなんだ。
 でもな、それでも。…いや、それだからこそ、そこからまた求め合ってゆこう。何度だって、死ぬまでお互いを目指して向かい続けてゆこう。
 ただ単純に傍で留まっているということではなく、それが、寄り添ってゆくってことじゃないのかな。
 
 俺たちは周囲から切り離された、自分たちの為だけに存在するこの繊細でささやかな世界の中で、互いのメッセージを交換し、そこにある哀しみを慈しみ、懐き合いながら、そうしてそっと手を取り合っていた。
 
 
 
   - Side-K end -