『マイ ディアー フール』 (106-205)

Last-modified: 2009-02-19 (木) 16:28:57

概要

作品名作者発表日保管日
『マイ ディアー フール』106-205氏09/02/1709/02/17

作品

 正月の浮ついた気持ちも冷めて久しく、ややあって始まった三学期とはいえ特筆すべき出来事もなく、休みボケした脳には一層過酷な日々の授業をどうにか鼓膜と網膜でとらえているうちに新年を迎えたことなど遠い昔のようになってしまった、そんな時期である。
 例によって騒がしさだけは突き抜け絶好調だった冬休みも終わってしまえばあっけなく、あれよあれよのうちに花も恥じらう高校生活は残り一年とちょっと。最近いやに慌ただしい上級生を見ていてふとそんな事を思い出したのだが、だからといって特に何らかの感慨が湧くわけでもなく、ただしみじみとこの約二年が過ぎていった速さを感じた。楽しい時間ほど瞬く間に終わってしまうとは月並みな言葉だが、俺の場合は単に密度が濃かっただけではないだろうかと思う。
 とまあ、半ば無理やりに関連付けておいて閑話休題。
 同じくイディオムとして『馬鹿は風邪を引かない』とよく言うが、同じ人間同士そんなに免疫に差がある訳もなく、その真意は『風邪を引かない』のではなく『風邪を知らない』、つまり馬鹿は風邪を知らないので引いたことにすら気付かない――と、そういう意味らしい。
 では世間一般で言われるところの馬鹿の定義についてだが、これにもその実二種類あって、いわゆる成績的な落ちこぼれを指して言う知識の馬鹿と、道理や常軌から著しく逸しているタイプの社会的な馬鹿がいる。前述の話からすると、風邪を引かない方の馬鹿は恐らく前者の極端な場合であると言えるだろう。
 つまり頭の中が年中カオスで行動すべてが突飛かつ十中八九迷惑千万な常識外れの人間――要するに後者の馬鹿であろうと、普遍的な高校生がうんうん唸って解くようなテストを制限時間の半分で終えて爆睡しているような知識的利口である場合、この慣用句は残念ながら当てはまらないということになる。
 黒板に書き殴られた幾何学模様が消えていくのをぼんやりと視界に捉えながら国木田辺りにノートを借りる算段をしつつ、こんなどうでもいいようなことを分析していた俺は、全校生徒待望の四限目終了を告げるチャイムと同時に一つの結論に達した。
 いつもならこの瞬間、椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がって学食へダッシュするはずのハルヒがインフルエンザにかかり、ここ数日学校を休み続けているのは不自然でもなんでもなく、
 何故なら風邪とインフルエンザは別物だから、ってことだ。
 
「なぁキョン」
 対面でタコさんウィンナーを弄びながら、谷口が真面目くさった声を発した。
「心配だろ?」
 相変わらず話に要領を得にくい野郎だ。
「……何がだ、目的語を言え」
「んなのいちいち訊くなって、決まってんだろ。涼宮のことだよ」
 そりゃあ心配さ、新型の発生がどうのこうの騒がれてるこのご時世にまさしくインフルエンザだからな。まぁ俺としては某薬を服用した副作用でさらに奇行に磨きがかかったりしないことを祈るばかりだ。
「バッカ、そんなんじゃなくてよぉ、もっとこう……いてもたってもいらんねーとか、胸が張り裂けるようだーとか、そういう類のだよ」
 谷口よ、常々思っていたことではあったが、やはりお前は覆しようもなく前者の馬鹿であるようだな。俺にはお前の言わんとしている事がさっぱり理解できん。何かに恋でもしてるのか?
「あぁ? なんだよ前者の馬鹿って。つかそりゃお前のことだっつの」
「まあまあ谷口、キョンにストレート投げても無駄だよ。素直じゃないんだから」
 神経質に骨を取りながら魚の身をこそぎ出していた国木田が、したり顔で割り込む。
「だなー。ったく難解な野郎だぜ」
 何も考えてないような面から言われると一層腹に据えかねるもんだな。
「何なんだお前ら、俺が普通にハルヒを心配してりゃ不満だっつーのか?」
「あーあーはいはい、滅相もございません」
 意味の分からないことを分からないように述べられた挙句、馬鹿に小馬鹿にされるより他にこれほど屈辱的なこともあるまい。俺は余程このドレッシングでヒタヒタなブロッコリーを谷口の米ゾーンに突っ込んでやろうかと思ったが、こいつ相手には一欠片に含まれるビタミン類を失うことすら惜しいので我慢しておく。緑黄色野菜に感謝しろよ谷口。
「でもさ、キョン」
 諭すような語調で、魚をむしり終えた国木田が口を開いた。
「メールぐらいはしたの? ほら、同じ同好会のメンバーとして、さ」
 正確には同好会未満だがな。
「した。それがどうかしたか?」
「返信、どんなだった?」
 おいおい、何の事情聴取だこれは。そんな大袈裟な話じゃねえだろ。大体他人とのメールの内容なんてプライベートな事項、おいそれと勝手に公表していいもんじゃない。
「いいからさ、ほら。大したことないなら言っても問題ないだろ?」
 なにやらしつこく食い下がるクラスメイトは真顔で迫ってきており、さっきまでの茶化すような軽薄さは一応の表面上では見受けられない。
 お前らがハルヒのメール内容を知りたがるなんざ興味本位としか思えないが、今一度文面を脳内反芻して確かに大したことないのを確認したのち、どうせ教えたところでどうにもならないと踏んだ俺はそれを口にする。
「どんなって……普通に『大丈夫、心配するな』って感じだよ。何往復もしたってしんどいだけだろうし、それ以上返してない」
 今の発言のどこに納得いかない点があったのか知らないが、国木田と谷口は目を合わせて渋い面をする。妙なところで意思疎通しやがって。
「なーんか素っ気無ぇなあ……」
「お互い素直じゃないからねぇ……」
 溜息を一つ吐き、またこれだ。
「だから一体何なんだ? 俺にどうしろってんだよ」
 アホ改め馬鹿の谷口が「やれやれ」と俺の十八番を盗んでいる横で、白身を咀嚼しながらしばし考えた国木田はこうのたまった。
「どうしろっていうか……そうだな、強いて言うならお見舞いに行ってきたら? 同じ同好会未満のメンバーの、『普通』として、さ」
「お見舞いだあ? 入院してる訳でもないのに」
「ま、それもそうかもね」
 昼食を食い終えた国木田はそれきり席を立ち、購買に行くと告げて去って行った。
 ふと谷口が壁掛けの時計に目をやり、「やべっ」と呟いて弁当をがっつき始める。
「……ったく」
 
 

---
 
 
 どうも、寝付きが悪い。
 熱は下がってきたけど、暖房をがんがんにきかせて加湿しまくりのこの部屋じゃあそれも仕方ないかもしれない。目を瞑ってひたすら寝返りをうっているうちに、枕元に置いた時計は四時過ぎを指していた。
 そういえば、まだお昼を食べていない。
 半端な空腹感とだるさに挟まれて暫く逡巡してから、自分の汗でじっとりと鬱陶しい掛け布団を追いやり、痺れるような痛みでぼやけた頭を抱えながらベッドから転び出る。親は二人とも居ないし、今日のうちには帰らないだろうって言ってたからご飯は自分で作らなきゃ。正直辛いけど、残飯と水を土鍋に入れて炊くぐらいのおかゆなら簡単でいい。
 滑り落ちないように精一杯注意しながら階段を下りて、ダイニング式のキッチンに向かう。冷蔵庫を開けた時に漏れてきた冷気に触れただけで不快な寒気が体中を包んで、あたしは自分の参り具合がほとほと嫌になった。全く、団長ともあろうものがちゃちなウィルスなんかにすっかりやられちゃうなんて、みんなに示しがつかないわね。
 ガスコンロの火を調節して、後は炊き上がるまで待つだけ。火をつけたままベッドに戻るのも危ないし、テレビを見る気にもなれなかったから、とりあえずソファーに横になった。
 寝室と違って全然暖房をつけてないリビングはひんやりと肌寒い。毛布も掛けずにこうしているのは悪いとは思ったけど、密度の高い空気の中に居続けて息苦しく火照った体を冷ましてくれるのが気持ち良くて、その状態のまま、部屋からついでに持ってきた携帯のフリップを開く。
 新着は無し。当たり前だけどね。
 SOS団のみんなからは、学校を休み始めてすぐにお見舞いメールが来た。古泉君はお手本みたいに丁寧な文章で、みくるちゃんは只管励ましてばかりの。有希からも来たのはちょっと意外だったけど、一言だけ『お大事に』って書いてあって、それがまた妙にらしくて少し笑ってしまった。
 そしてあいつ――キョンからは、短くてぶきっちょなメールが。
 みんなそれぞれ心配してくれてるんだってことは、それだけで十分に伝わってきた。その後何通も送ってこないのだって、あたしに余計な気を使わせないためだって分かってる。だからもうそれ以上は望むべくもない。
 なのに。
 あたしはさっきから――もしかしたら、もっと前から――どうしてこんなにも携帯が気になるのだろう。何かを期待するみたいに、待っているみたいに。
 熱に浮かされていた頭が少しだけはっきりしてきて、あたしは唐突に答えに行き着いた。
 怖いんだ。
 誰もいない家で独りで弱ってるっていうこの状況に、あたしは妙にスカスカな孤独感と不安に苛まれているから、それを埋めてくれる他の誰かとの繋がりが欲しくなってる。自らを省みてみれば慣れ親しんだ感情でもあって何とも言えない気分になるけど、それ以上にそんな弱気なあたしが嘆かわしくて。
「……はぁ」
 自然に、溜息が出た。誰もいない空間に微かに響いて、消えていった。
 きっとそんな風に憂鬱に浸っていたから、出し抜けに鳴ったチャイムがあたしを跳びあがるほどびっくりさせたんだ。
 
『…………こんちわー』
 キョンが、来た。
 聞き間違えるはずがないもの。いつもいつも、毎日飽きるほど繰り返し聞いたあいつの声。
 でも――。
『……もしもーし?』
 もう一度、家中に呼び出し音が響く。そっか、キョンは家にあたししか居ないことを知らないんだ。このまま出なければ、病院に行っていて留守だったとかの言い訳が通用するかもしれない。インフルエンザなんだもの、会わない方がいいに決まってる。わざわざ面と向かってそんなことを言うのは辛いじゃない。
『……すんませーん?』
 すっかり冷え切った体が、冷たい汗をかいた。心臓が痛いぐらいに高鳴っている。
 ――だけど。
『…………居ねえのかな……』
 だんだんキョンの気配が小さくなっていく。
 それでいい、いいんだって、必死に納得しようとしているおかしな自分がいる。
『…………………………』
 だけど、駄目だった。
 とにかく、嫌だったから。
 あたしは携帯を放り出して、もつれながら玄関に走った。必死に、こんな時だけ上手に動かせない足を恨めしく思いながら。
「――居るっ! 居るわよバカキョン!」
 何故か涙が滲んでいることに気付いて、ますます自分が分からなくなりながら。
「帰んなぁ!!」
 殆ど絶叫して、ドアに飛びついた。
 
 

---
 
 
 別に、国木田に言われたからって訳じゃない。
 ただ、確かにあいつの様子は気になるところではあったというだけで、それこそメールで済ませても良かったのかもしれないが、どうせなら見舞いの品の一つでも持って行ってやるのもいいかと思ったのさ。まぁ結果的に従っていることになってしまうのが癪に障るが、この際そこは置いておく。
 それに、あんなアホくさい会話の中から不覚にも思い出されたこともあった。
 もう一年以上前になる、十二月のあの期間。『階段から転げ落ちて意識不明になり』入院していた、らしい俺は、ずっとあのシャクトリ虫ことハルヒに見舞われていた、らしい。いつだってSOS団に関しては行き過ぎなほどひたむきなあいつが自らのことなど全く顧みずに、それで何が起こる訳でもないのに、だ。そして前後不覚状態で目覚めた俺は、あいつの寝惚けたひどいツラを見て、確かに安心した。
 そのお返しなんていう恩着せがましいつもりじゃないし、あの時とは場合が違うってのも分かってるが、まぁとにかくだ。
 
 俺自身が行きたいと思うんなら否やを唱える理由はない、そうだろ?
 
 

---
 
 
 ……ひたすらに迂闊だったわ。
「いでで……一瞬目から火花が散ったぜ。ドアぐらい落ち着いて開けろ」
「何よもう、悪かったって言ってるじゃない」
「ったく……鼻血出てないか?」
「出てない!」
 怒鳴った拍子に頭痛が騒音抗議してきた。もう最悪。何でキョンが鼻を押さえてるのかっていうと、あたしが思いっきり開いたドアにこいつの鼻っ面がごっつんこしちゃった、ていう……そのまんまよ。以上。不可抗力だって言ってるのに、キョンったらさっきからこればっかり。全くねちっこいんだから。
「とりあえず、土産はここ置いとくぞ」
 そう言えばビニール袋を提げてきていた。意外と気が利くじゃない。
「なになに?」
「プリン。コンビニのな」
「……微妙」
「人の好意にケチつけるな。これでも奮発したんだぞ」
「知ってるわよ。あんたがお見舞いに来るってだけでも驚きなのに、お土産を買ってくるぐらいの甲斐性を見せられれば上出来だわ。とりあえず合格ってことにしといてあげる」
「そりゃどうも。って、お前今頃昼飯作ってんのか?」
 コトコトと音がする土鍋の方を見て、キョンは驚いたような声を上げた。
「そうよ、悪い?」
 ようやく目が覚めてお腹も空いてきたけど、それはまだまだ時間がかかりそうね。
「別に悪かねえが……おかゆだけ、ねぇ……」
 何とも付かない言い方でそうごちる、制服のままのキョンの後姿。

 
 それを見ていたあたしの視界が、出し抜けにぶれた。

 
「っ……」
 ぐるぐると眼の奥が揺れる気持ち悪さは立っていられないほどで、危うくソファーに倒れるようにして何とか座り込む。それをきっかけに頭を締め付けられるような痛みが響いて、体中を悪寒が走った。やばい、ぶり返してきたかも。
 そんなあたしの異変に気付いたキョンが、あたふたと駆け寄ってくる。
「おい、どうした」
「何でも……ない」
 つい反射的に強がってしまったけど、流石にこんなので誤魔化せるほどこいつも鈍くはなかった。
「鏡見てみろ、いかにも病人の真っ青な顔が映るから。どうなんだ調子は?」
「……いい訳ないじゃない」
 強がるように言ってみたけど、無理して寒い中に居たせいかな。さっきより頭痛が酷くなってて体も重たい。
「ならなおさら部屋で寝てないと駄目だな。ほら、立てるか?」
 キョンが手を差し伸べてきた。意地を張りたい、余計なことすんなって言ってやりたい気持ちもあったのに、あたしは情けないほど弱ってて、何だかそれが拗れて悔しさになっちゃって、できる限りの虚勢を張ってみる。と言っても、語勢だけ。
「……肩、貸しなさい」
「はいよ」
 武骨な男性の手に支えられて立ち上がる。下手に力むと逆に倒れてしまいそうで、キョンに寄りかかりながら歩くしかなかった。でもこいつはそんなの全然苦にもしてないようにひょいひょいとあたしを運んでいくから、へぇ、意外と力持ちじゃん、なんて妙に客観的に感心してみたり。
 思えばそう、いつだってキョンはやる気がなくてだらしなくて、何か気に食わなそうな態度ばっかりしてる捻くれ者の癖に、こんな時だけくすぐったいぐらいに優しいんだもの。団の活動にも、あたしのやること成すこと殆どに文句たらたら垂れながらだけど結局最後まで付き合ってくれる。
 でも今はそれが、少しだけ怖くて。
 そんな気持ちがどこから出てくるのか、よく分からなかったけれど――。
「っしょ、っと」
 物思いに耽っている間に、あたしは手際よくベッドに寝かされていた。
「ん……ありがと」
「気にすんな。困った時はお互い様だ」
 そう言いつつ、丁寧に布団を被せてくれる。キョンがそんな殊勝な言葉を発するなんてそっちこそ熱でもあるんじゃないかと思ったけど、悪い気はしなかった。
 ふと、その視線が無遠慮に辺りを見回して――って!
「あっわっ、きゃぁー!」
 あたしは枕元に置いてあった写真立てを音速よろしく引っつかんで布団の中に隠した。素っ頓狂な悲鳴に反対側を向いていたキョンが狼狽しながら振り返る。
「何だ? 今度はどうした!?」
「なっ、何でもないわよ! 乙女の部屋に無断でズカズカ入りこむなんてプライバシーの侵害も甚だしいんだからこのバカキョン!」
 自分でもびっくりするぐらいの饒舌でまくし立てると、真剣に強張っていたキョンの顔が、魂でも抜けていってるんじゃないかってぐらいの溜息と一緒に弛緩した。間抜け面ね。
「……あんだそりゃ。今更っつーか何つーか……お前元気なのかフラフラなのかどっちなんだよ。さっきからも突然テンション上がったり下がったり」
 胸元にとてもこいつには見せられないものを抱えながら背を向けて丸まっているあたしを見下ろし、キョンは怪訝そうに唸って、
「……やっぱお前、馬鹿なのか?」
「…………はぁっ!?」
 予想外もいいとこ、言うなれば大気圏外から降ってきたような突然の罵倒に、あたしは当然激昂した。首から上だけを回してキョンを見ると、つい口を滑らした後のばつの悪そうな苦い顔をしている。
「何よ馬鹿って!? あんたねぇ、それが病人にかける言葉な訳!?」
「あーいや、そういう意味じゃなくてだな……」
「じゃーどーゆー意味なのよっ!?」
「……あれだ、馬鹿は風邪引かないって言葉があって――」
「それは誤用っ! ていうかインフルエンザは風邪じゃないわよ!」
「いや分かってる、分かってるって」
 あーもう、色々前言撤回! やっぱバカキョンは逆立ちしても一周回ってもバカキョンに相違無いわ! ちょっとだけ見直したり、ほんの少しだけでも格好いいなんて思っちゃったあたしが愚かだったわよ。
「ふん!」
 きつい視線で睥睨してやってからプイっと逸らす。本当はそこまで怒ってなんかいないけど、失言の代償よ。団長に対する態度がなってない雑用には言葉の使い方ってもんをしっかり躾けてやらなきゃね。
 流石にちょっと可哀想かな、とも思ったけど、自分が悪いんだもの。
「えーと……すまん」
「……」
「頼むよおい、今のは悪かったって」
「……」
 背中の向こうから、キョンがうろたえている気配が伝わってくる。何よ、なんだかあたしが悪いことしてるみたいな気分になってくるじゃない。
 でも一度始めてしまった怒ったふりを取り消すのはなかなかに難しくて、自分じゃどうすることもできないまま気まずい空気ばかりが充満していく。せっかくキョンがお見舞いに来てくれてるっていうのに、あたしもやっぱりバカなのかもね。
 だけどそんな中で、キョンが唐突に何か思いついたような明るい声を上げた。
「そうだハルヒ、何かして欲しいこととかないか?」
「え?」
「喉渇いたからお茶が飲みたいとかさ。お前、これ以上動き回るのは止めといた方がいいだろ。やってやるから何でも言ってみろ」
 正直、熱のせいで幻聴まで聞こえてきたのかと思っちゃったわ。
 あのぐうたらを絵に描いたみたいなキョンがこんなに甲斐甲斐しくなるなんて――何て言うか、全然思いもしなかったのよ。あたしのご機嫌とりだってことは分かってても、規格外の言葉で不意打ちを食らってバクバク高鳴る心臓はどうしようもないじゃない。
「べっ……別に。今のところは、その……特にない、けど……」
「本当か? 遠慮なんかいらねぇぞ、お前らしくもない」
 らしくないのはそっちよ! なんて口には出さずに突っ込んでみる。
 でもそんないつもと違うこいつに、嬉しいとか気恥ずかしいとかからは全然違った、冷めた気持ちがあたしの中で首をもたげていた。
「……ていうか、あんた、いつまで居る気なの?」
「あ? ……あー……」
 その気持ちを口に出してみると、突然の質問に意表をつかれたのか、キョンはあたしから目を逸らして唸りだす。
「いつまで……いつまで、なぁ……」
 でもその口ぶりから、きっとすぐに帰る気は無いんだろうなってことだけは分かったから、最初からずっと言わなくちゃいけないって思ってたことが、自然とあたしの口を割って出た。
「……もう用は済んだでしょ、うつしたら悪いからさっさと帰りなさい」
「何?」
「帰って。もしこれであんたがインフルエンザになったりしたらあたしが責任感じちゃうじゃない」
 自分で嘯きながらにべもない言い草だと思ったけど、言葉は驚くほど淡々と流暢に出てきた。
 でも内心は波立つばかりで、こんなこと言いたくないって駄々をこねてる自分がいて、言うべきだって譲らない自分がいて、だからお見舞いになんて来て欲しくなかったのに、なんて傲慢な考えばかりが大きくなってる。
「……いや、しかしな」
 いつの間にかあたしの方から逸らしていた視線は何かに押し付けられて固定されてるみたいに動かなくて、今キョンがどんな顔をしてるかなんてことは分かるべくもなかった。
「しかしもかかしもないわよ。いいからほら、さっさと出て行って」
「……」
「一応お礼は言っておくわ。でも、もう大丈夫だから」
「…………」
「……聞いてんの? あんたね、もしこのお見舞いが原因で自分が倒れて団活に参加できませんなんて事になったら許さないんだから」
 ひとつキョンの好意を無下にするたびに、心の底に沈んだものが疼くような気がした。
 『あれ』以上を望めば、きっとキョンはその通りにしてくれる。甘えさせてって頼めば傍にいてくれる。いつだってキョンは面倒臭がりで鈍感で雑用で、だけど本当は底抜けにお人好しなんだもの。本人は全然自覚してないんだろうけどね。
 だから、どんどんキョンに依存していきそうになるあたしが怖くて。いつかキョンがあたしの前から消えていってしまう時を想像する事ができなくなりそうで、あたしはこうやってこいつの心を突き放すことしかできない。インフルエンザなんかより断然厄介な精神病は、『いつまでも』なんて有り得ないことでさえ容易くあたしに信じさせてしまいそうだから。
「……分かった」
 ぽつりと聞こえてきたキョンの呟きは平坦で、どんな感情も汲み取れなかった。
「ちゃんと安静にしてろ。いいな?」
 フローリングの軋む音がして、少しだけ遠ざかった声が最後まで気遣っている。
「……うん」
 少しだけ間が空いて、ドアが開いて、閉じて、部屋にはあたしだけになった。
 どんな意味なのか自分でも分からないままに、また溜息が出て、忍ばせていた写真立てを胸元に引き寄せる。
 これが、こうしたいのが本心かって訊かれたら、イエスなのは間違いない。でも半分だけ。
 だって色んなものが入り混じった気持ちのうちのどれか一つだけが本物とは限らないし、分からない。その中のどれがどんな気持ちかなんて、もっと分からない。
 
 玄関が閉まる音が、すごく遠くで響いた。
 
 
 
 
 

  • ~~~ 前編おまけif ~~~
     
     
    「そうだハルヒ、何かして欲しいこととかないか?」
    「え?」
    「喉渇いたからお茶が飲みたいとかさ。お前、これ以上動き回るのは止めといた方がいいだろ。やってやるから何でも言ってみろ」
     正直、これはチャンスだと思ったわ。というか力づくで手篭めにしちゃうにはもう今この瞬間しかないわよね! うん、何でもって言ってるもんね!
    「……そうね、あるわよ」
    「おう、何だ?」
    「キョンはただ寝てるだけでいいわ、全部あたしに任せて」
    「は? いや、そうじゃなくて……つか逆だろそれじゃ」
    「心配しないで、大丈夫だから」
     絶対に、気持ちいいから……ね?
    「……おい、ハルヒー? なんか目が据わって――ぬぉっ、うおあっ!?」
     うわ、キョンの体がこんな近くに……やばい、鼻血出そう。
    「キョン……キョンん~……」
    「ちょっと待てハルヒ、ハルヒ!?」
     
    「アッー!」
     
     
     
     
     
    ~~~~~~

 
 
 
 
「……分かった」
 俺の視界からはこいつの艶やかな髪が重力に従って枕に垂れていることしか確認できず、散々好き勝手のたまってくれた面は拝めない。
 とりあえず承諾はしちまったが、このどうも合点がいってない感じのもやもやとした気分から察するに俺ははいそうですかと出て行く気にもなれないようであり、急場凌ぎのためだけに口にしたぐらいのそれが果たして俺の中で後悔に変わったのはすぐだった。
 いや、この時だけじゃない。俺はさっきからハルヒの行動とか言動とかの節々に、何とも言いようの無い違和感というか齟齬というか、ややもすれば呆れや怒りともとれるような奇妙な感情を抱いていて、しかしそれらは現れたと思ったらすぐに微かな残滓を残して消えちまう。
 だがそんなあやふやで抽象的な思案も尻のこそばゆさに勝るには至らず、俺の足は自然とこの空間の出口へと向かっていた。
「ちゃんと安静にしてろ。いいな?」
 とりあえず何でもいいから声を発しておきたくなり、捨て台詞よろしくハルヒの後姿にありふれた言葉を投げかける。
「……うん」
 嗄れ声が聞こえたのを最後に、表面上のふんぎりがついてしまった俺はそそくさと廊下へ出た。
 
 健康体には少しばかり熱すぎる部屋に篭って上気した体を、寒々しい空気がいいあんばいで冷やしていく。ドアにもたれかかって明後日の方向を見ているうちに、加熱されすぎて何やらぼんやりとしていた俺の少量の脳細胞がだんだんと本来の働きを取り戻してきた。綺麗さっぱり不要物を掃除されたような心地で追究を再開する。
 えーと、つまりだ。
 まだ鈍い痛みが残る鼻っ面。そろそろふいてきてる頃合のおかゆ。以前何の気なしに聞いた涼宮家は共働きという事情。歩けないぐらいフラフラで、かと思えばやけに元気だったり、もっともらしく殊勝な態度。
 さて、導き出される結論は何か?
 世紀の大魔術のしょぼくれたネタばらしをされた観客ばりに、なーんだ、ってな具合に脱力したね。こんな明瞭な事にさっさと気付かない俺も俺だが、別に何のこっちゃない。ただあいつがいつもみたいに片意地張ってるだけの話な訳だ。
 涼宮ハルヒなる人間の行動理念なんざ改めて考えるまでもない。いつだってあいつの念頭にはSOS団の四文字があって、古泉、長門、朝比奈さんと俺がいる。誰か一人でも欠けることは許しちゃくれないし、例えばこのうちの誰かが窮地に陥るなんてことになれば地球の裏側だろうが銀河の外だろうがすっ飛んでいき、意識不明の体で寝続ける俺を泊り込みで見舞い、熱暴走してぶっ倒れた長門を過保護なまでに心配して張り付く、そんな奴だ。そのくせ自分の心境、特に弱みなんかは死んでも見せたがらないしょうもない見栄っ張りでええカッコしい、そんな奴だ。
 そんなハルヒがインフルエンザなんつー伝染病で。家には一人で。ソファーなんかに携帯ほっぽりだして。何を思ってたかなんて想像に難くないね。心底思うよ、お前は馬鹿だ。後者のな。
 そして、今日の俺はこのままじゃ真性のバカってことだ。
 階段を出来るだけ静かに駆け下りて台所に入り、土鍋の中身の程度を見てひと煮立ちしたのを確認してからコンロの火加減を調節する。あと一時間弱ってとこか。にしてもあいつはちゃんとこのおかゆのこと覚えてるんだろうな?
 靴棚の上に置いてあった玄関のものらしき鍵を引っつかんで外に出る。やってることの聞こえはよくないだろうが、まさか今更ハルヒを起こして内側から施錠させる訳にもいかねえだろ。
 
 それに、こうすりゃ締め出される心配もないしな。
 
 

---
 
 
 ここ数日で何回聞いたかも分からない電子音が鳴って、腋から体温計を取り出す。
 三十八・七度。
 せっかく下がりかけてた熱がまた上がってきちゃった。まぁ、自業自得だけどね。
 寝返りで潰してしまわないよう写真立てを元の場所に戻して、瞼を閉じる。もう寝てしまおう。今日のことは全部無かったことにして、とにかくこの鬱陶しい病気を治すことだけを考えて。
 今は一日でも早く、みんなとあの部室に集まるのが一番大事。
 
 

---
 
 
 冬至なんかとっくの昔に過ぎちまったとはいえまだまだ冷え込む往来に、ジャケットを小脇を抱えて汗みずくで走る俺の姿はかなり滑稽に浮いていたことだろう。
 最寄のスーパーまでマラソンしておよそ十分、買出し三分、復路はマキシマムダッシュで記録更新の九分を叩き出し、何やら意識が朦朧として走る事自体が目的になっているような気がしないでもなくなってきた今し方、再びハルヒ宅の前に舞い戻った次第であった。
 一応呼び鈴を鳴らしてみる。暫く待っても何の反応も無いってことは寝入ったか、あるいは聞こえてないふりでスルーしてるかだが、まぁどっちだろうが大した違いはないさ。今回はあいつが受動、俺が能動、それだけの話だ。
 いいかハルヒ、俺はお前を看病するぞ。煙たかろうがうざかろうが関係ねぇ。自己満足だ何だと非難されようが知ったこっちゃねぇ。お前が誰の了承も得ずにやってきたことを俺がするのに何の許可がいるってんだ? ああそうさ、確かにお前が俺にこうすることを望んでいる確証なんざ微塵もないし、こんなのはここ数日俺の中で燻ってた妙な息苦しさの捌け口を作るためだけかもしれねえ。寝袋に包まってたお前への、ありもしない義理を果たすための行動だとも思える。そんなどれもこれもが、お前の都合を頭からガン無視してる言い分だってのは百も承知だ。
 だがそれがどうした。言ったろ? 俺がやりたいと思うんなら止められる筋合いはどこにもない。普段からこっちはお前の我が侭をきき通しなんだ、たまには俺の好きにさせてもらったってバチを当てるほど神様も理不尽じゃない筈さ。
 
 

---
 
 
 窓際、最後部の席。
 いつまで経っても突然ミステリーサークルが現れたりしない、見飽きるだけの景色から吹き込んでくる空風が髪を靡かせるのが煩わしくて、荒々しく窓を閉める。教室のどこかで咎めるような囁き合いが聞こえた気がしたけど、別に何の気にもならない。
 頬杖をついて外を眺めるばかりの暇で退屈でどうしようもない、中学に立ち戻ってしまったような時間をもう何日過ごしただろう。
 前の席は、今日も空いたまま。あいつの背中は、あたしの前に戻ってこない。
 ペン先を突き出した手が、むなしく宙を掻く。
   ――やだ……
 分かってる。もう、戻ってこない。
   ――やだよ……
 あいつは、もういない。
   ――なんで……
 
 誰も居ない教室。誰も来ない駅前。誰も知らない部室。
 どこに行ったって、独り。
 
「…………キョン……」
 灰色に色褪せた世界で、あいつの名前だけが頭に溢れてる。
「キョン……」
 何で居ないの? あたしは嫌なのに。あんたが消えちゃうなんて考えられないのに。
「キョン」
 キョンは団員なのに。キョンは雑用なのに。キョンが必要なのに。キョンが――
 
「キョン――!!」
 
 
 
  ……
 
 
 
 足元に向かって落ちているような気持ち悪い浮遊感で、目が覚めた。
「…………」
 加湿器が蒸気を放つ自分の部屋にあたしは居て、ベッドから天井を眺めてる。額に浮かんだ冷や汗が見開いた目に流れ込みそうになって、慌てて瞬きすることを思い出す。
 今のは、夢。
「……はぁ~……」
 詰まっていた息を一気に吐き出した。何もこんな時にあんな悪夢を見なくてもいいのにと思ったけど、寧ろ今だからこそなのかもしれない。甘えん坊で弱い病人のあたしに活を入れようとした、天下のSOS団の団長たるあたしからの贈り物。そう考えれば、少しは落ち着いた。
 時計の示す時刻が、カーテンの向こうはもう夜に沈み始めているらしいことを教えてくれる。まるで壊れたジグソーパズルみたいに断片的にしか思い出せない今日の記憶が何の前触れも無く無作為にフラッシュバックして、おかゆを強火にかけたままだったことに気付いた。
「……やっちゃった」
 想像するだに大変なことになってそうだけど、このまま匙を投げて不貞寝を決め込んだ日には帰ってきた親になんて言われるか分かったもんじゃない。もう食べ物でなくなってるだろう中身を捨てるぐらいはしておこうって、起き上がるのも億劫な体を押して部屋を出る。
 頭痛が響くたびにぼやける視界と虚ろな足取りで階下に向かうのは自分でも危なっかしいぐらいで、気を抜けば足を踏み外してしまいそうだった。
 
 だから、リビングに入って初めて気付いた。
 明かりが点いてること、台所から音がすること、美味しそうな匂いが漂ってること。
 キョンが居ること。
 
「……ふぅ。こんなもんか」
 ……なんで居るのよ。
「こっちももう頃合だろ……あっつ!」
 帰った筈じゃない。あたしが追い返した筈じゃない。なのになんであんたはそんな所に立ってるのよ、嬉しそうに料理なんかやってるのよ。
「あー油断した、布巾布巾……お、いい感じ」
 吹き零れまくってる筈の土鍋を確認して、いい感じとか言っちゃって。
「……ん?」
 なんで――。
「……ハルヒ、起きたのか」
「……なんでよ」
「は?」
 
「なんであんたがここに居るのよ! なんでおかゆ作ってんのよ! なんでそんな――勝手なことやってんのよ!」
 
 もう、頭の中はぐちゃぐちゃだった。たくさんの色の気持ちが混ざり合って黒になって真っ白になって、今あたしがどんな顔で何を喚いてるのかよく分からない。
「……すまん、何も言わずに使うのは悪いとは思ったんだが――」
「そうじゃない! そんなんじゃないわよ! あんた、あたしの気も知らないでこんな、バカなこと、してっ」
 やばい、止めなきゃって思っても、一旦決壊してしまった口は歯止めが利かなくなってて。
「キョンがそんなことばっかりするから、あたしっ、いっつもあんたがバカだって思っちゃってっ。あんたが居ない訳ないって、当たり前だとかっ、んぐっ、そんな風にさ、思うみたいにっ――だから、勝手なのよこのバカキョン!」
 羞恥心だとか理性だとかのブレーキを軒並みへし折っちゃって、着地点を失った足はアクセルを踏むしかない。潤んだ眼を見られたくなくて、出来るだけバレないようにキョンに背を向けて袖をこすり付ける。もう、一体何やってるんだろう、あたし。
 こんなに嬉しいのに。もっと素直にありがとうって言えればいいのに。突き放さなくたっていいから、ただありがとうって。
「ハルヒ」
 キョンがかけてきたのは、優しい声だった。あたしの今の言葉なんかまるで聞いてなかったみたいに。
「戻って寝てろ。ちょうど今出来たとこだ。部屋まで持ってってやるからよ」
 
 促されるまますごすごとサウナみたいな自室へ戻ってすぐに、神妙な顔つきで土鍋を抱えたキョンがやってきた。
「どこに置けばいい?」
「……そこ、テーブルの上」
「器とスプーン適当に取ったけど、構わなかったか?」
「……うん」
 布巾を机と鍋の間に敷いて、危なげなく準備していく。
 どう応対すればいいのか分からなくて、あたしはちらちらとそっちの方を見やりながら目が合った途端に逸らすを繰り返していた。
「で、だ……」
 食卓を整え終えて蓋に手をかけた時、ふとキョンが動きを止めて言いよどむ。少しわざとらしく間を空けてから、土鍋をねめつけたまま誰かに言い訳するみたいに話し出した。
「ぶっちゃけた話、俺は料理の経験なんか中学でやった調理実習ぐらいのもんでな。恥ずかしいことに家事の手伝いもろくすっぽやってないからお世辞にも心得があるとは言えん。携帯で調べたり親に電話して教えを請ったりしてはみたが、何しろ味見が俺一人だからな、ついぞ確証は得られなかったんだが――」 
 何かやってたのは分かったけど、そこまで前置きしなきゃならないほどって何なのかしら。蟠ってたものを吐露し尽くしてしまって空虚感に包まれていた心が、僅かに好奇心で揺れた。
 そんなあたしの様子を目聡く感じたらしいキョンはちょっとだけ緊張が解けたみたいに照れ隠しの笑みを浮かべて、「まぁ、くだを巻いててもしょうがないしな」ともう一つ付け加えてから、蓋を持ち上げる。
 
 驚きのあまり声も出ないとかの在り来たりな表現はあるけれど、とにかく思わず嘆息した。
 一気にお腹の底まで届くようなだしの香りと一緒に現れたのは、きらきらと黄金色に輝くおかゆ。
 
「なんだ、その、卵がゆって奴だな」
「……見れば分かるわよ」
 誤魔化すみたいにいそいそと器によそっていくキョンの手元を凝視する。何よ、どんなキワモノが出てくるかと思ったら普通に美味しそうじゃないの。あんたが作ったのが疑わしいぐらいだわ。
「うちじゃこれが病気の時の定番でな。俺も妹もどんなに食欲が無かろうが、こいつならあっという間に平らげちまう」
 ふわふわの卵とご飯が絡み合って湯気が踊るそれを受け取ったあたしに、キョンは言葉を続ける。
「所謂お袋の味さ。記憶を頼りに近付けられるだけ近付けてみたから多分それなりには食える筈だ」
 手に持った器に視線を落として、どれくらいそのままで居ただろう。出来立ては熱過ぎて冷まさなきゃいけなかったってのもあるし、考えを纏めるのに時間が必要だったってのもある。ほんの少しだけ、挙動不審になるキョンが面白かったのもあるけどね。
「……ねえ、キョン」
「ん、何だ?」
 だからこそ言わなくちゃ。もう一度、改めて。これだって確かにあたしの素直な気持ちだもの。
「お願い。病気がうつっちゃうから、帰って頂戴」
 こんがらかった糸がすっきり解けた今は、心地穏やかに言うことが出来た。
 こいつの優しさが身に沁みるほど、あたしはやっぱり何だか居たたまれなくなる。我慢してる最後の一線が切れそうになる。
「……おう、そういや忘れてたな」
 なのにキョンは、そんなあたしの深刻さが丸きり無駄だとでも言いたげな調子であっけらかんとした。その軽い仕草のままポケットを弄ったかと思うと、コンビニのビニール袋を一つ取り出す。
 中に入っていた――マスクを装着したキョンは、居住まいを正して、
「よし、これで大丈夫だ」
「……は?」
「いや、だからな。お前は俺に伝染するのが嫌で帰って欲しい訳だろ? だったらうつらなきゃ問題ない。問題ないなら帰らなくていい。そういうこった」
 ……今度はあたしが脱力する番だったわ。いつからこいつはこんなに都合のいい頭になったのかしら。
 いつもキョンがやるみたいに顔に手を被せて、皮肉っぽく首を振ってみる。そうやって呆れた風を装ってなきゃ、自然に笑みがこみ上げてくる頬を隠すことが出来そうに無かったもの。
「なぁハルヒ」
 何故だか声を上げて笑い出しそうなのを腹筋を引き締めて堪えていると、手術用みたいな物々しいマスクが全然似合ってない間抜け面が語りかけるみたいに言葉を継いだ。
「やっぱり今のお前はらしくないな」
「え?」
「遠慮なんか要らないんだよ。寝てばっかりが暇でつまらんならメールの一つでも寄越しゃいい。飯の用意が面倒臭いなら呼びつけて作らせりゃいい。どうも俺はこんな感じで自発的に気を遣うのは性に合わないんだ。背中がむず痒くて仕方ない。傲岸不遜なお前に指図されて尻引っぱたかれてやれやれしょうがねぇなって、それが俺のスタンスなんだよ」
 どこかくぐもった声が、真っ直ぐあたしに向かっている。
「いつも通り、お前がしたいように望めばいいのさ。俺にインフルエンザになって欲しくないなら、回りくどいこと言ってねぇでそう願えばいい。お前がそうしろって言うんならそうなるし、SOS団はそうするための集まりだろ。ああでも、帰れってのは却下だがな」
 そこまで捲し立てたキョンは、最後に目を細めた。
 
 その生意気なマスクを引っぺがしてやろうかと思ったわ。
 だって、万年仏頂面のキョンの満面の笑みなんてそうそう見れたもんじゃない。レアショットよ。
 
 そうね、確かにあんたの言う通り。後ろ向きに萎縮してるあたしなんか全然らしくない。
 あたしが居て欲しい時に居させて四の五の言わせずに仕事させて、あごでこき使ってこその雑用よ!
「……あんたも言うようになったじゃない、今の発言をゆめゆめ忘れないことね」
「おう」
「そこまで言うならヘトヘトのボロボロに疲れ果てるまでありとあらゆる勤めを申し付けてやるわよ、有り難く謹んで丁重に賜りなさい、雑用!」
「……おう!」
 表情筋はもう限界、だらしなく緩んでしまった顔は――せめてものお返しよ。
 
 
 
「キョン」
「まだあるのか……次はなんだ?」
「え、えっと、その……」
「?」
「だから……その…………あ、ありが……」
「何だ? 蟻がどうしたって?」
「~~~~っ! 何でもない! お茶!」
「……へいへい」
 
「……ところでさっきから気になってたんだが」
「何よ?」
「その枕元に飾ってる写真は――」
「!! ぎゃーーーーっ!!」
 
 
 

------
 
 
 
 さて、後日談。
 やはりあんなデタラメ極まりない力を信じたのが間違いだったか、はたまたどんな力も作用してはくれなかったのか、伝染病患者の側近を自ら進んで買って出るなんて暴挙をしでかした俺は至極当然の成り行きで早速インフルエンザを発症し、こうして自宅療養している最中である。
 幸い高熱と耳鳴りと筋肉痛で死にそう、なんてほどでもなく、ただの風邪と遜色ない微熱に当社比五割り増しの倦怠感が纏わりついている程度なお陰でさながら思い掛けない有給を獲得した会社員の如く出席停止という名の大義名分を翳して寝太郎を満喫しにかかる俺だったのだが、お袋に連れて行かれた病院から戻って半時も経たない頃のことだ。
 ふと、机の上に転がっていた携帯がブルブルと震え出した。LEDの発色から見て電話らしい。
 のろのろと未練がましく布団から這い出して受話ボタンを押し込み、耳に当てる。
『あ、キョン。起きてた?』
 級友たちのものらしき背後の喧騒に乗って聞こえてきたのは、国木田の声だった。
「どっちかと言えば起こされたな」
 わざとらしく眠そうな気を強調しながらそう言ってやると、軽口だと分かっているらしくけらけらと笑う。
『あはは、ごめんごめん。急にインフルエンザにかかったなんて聞いたから心配になってさ』
 俺からは誰にも連絡してないんだが、どうやらハルヒの時と同じく担任を通して知れたらしい。
「大したことねえよ、寧ろ堂々と休めてラッキーなぐらいだ」
『そうみたいだね、でも用心に越したことはないよ』
「ああ、分かってる」
 平凡普遍的な会話ではあったが、こうして友人から心配されているというのは素直に嬉しいもんさ。俺は自家発熱で温めたベッドに帰還しつつ他愛ない会話を流していき、やがて取るにたらない話の種も尽きた辺りで、不意に思い出したように国木田の声がワントーン高くなった。
『そうそう、忘れるところだったよ。涼宮さんのことだけど』
「あーそう言えば。どうだ、学校来てるか?」
 こないだあれだけ粉骨砕身してやったんだ。帰りがけに測らせてみたら熱もすっかり下がってたし、今日辺り平然と登校してたって不思議じゃあない。
『うん、来たには来たんだけどね』
「……何だその言い方は」
 まるで古泉のようなもったいつけ方と密かに孕んだ底意地の悪さが見えたような気がして、俺はいやに確然たる不吉な予感を感じた。危機察知能力だけが発達して未だ効果的な脱出方法が見つからないのはどうにも遺憾だね。
『朝のホームルームでキョンがインフルエンザだって聞いた途端に飛び出して行っちゃったよ』
「…………」
 いやいやいやいや、待て待て。
『まあ、涼宮さんらしいと言えばらしいよね。見舞われたら見舞い返す、いかにも『普通』にやりそうな感じだよ』
 おいこら国木田、手前勝手な妄想を電波に垂れ流すのは百歩譲って許してやるとして、何でお前は俺があいつを見舞ったと決めてかかってるんだ?
 よく耳を澄ませてみれば、後ろで甲高くきゃいきゃい騒いでる声の中に俺とハルヒの名前が頻発してやがる。何の濡れ衣を着せられたのか男子勢の恨み節まで混ざってるようで、もう俺は辟易するしかない。
『あ、そろそろ次の授業始まるから切るね。それじゃ』
「ちょ、おい!」
『お大事に~』
 ブッチしやがった。何がお大事に~だ、お前絶対楽しんでるだろ。
 だー畜生! 言わんこっちゃない、ほら見たことか、だから行きたくなかったんだよ、事が斜め上の変な方向にすっ飛んじまったじゃねえか!
 
 
 爆撃魔の妹も真っ青の勢いで階段を駆け上がってくる音が響いたのは、その数分後だった。
 
 
 

-おわり-