告訴状2013(作成途中)_08

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:06:27

そのほかの公判では例外なく、弁護人と検察官が先に席に着いていて、時にはけっこうな時間待たされた後で、3人の裁判官がそろって、背後のからくり扉のような出入り口から、登場していたはずです。木梨松嗣弁護士はあえて、時間を遅らせて現れたとしか思えなかったです。

その医師がどんな服装であったかはっきりとは憶えていないですが、制服のようなスーツの上から白衣を着ていたことは間違いないと思います。それは通常の病院での医師の姿とは異なる異様なものだったので、そちらの方に気がとられ、またその時の公判自体も、顔合わせ程度の短いものだったような。

精神鑑定があったのは3月1日から同月31日までの丸一ヶ月間でした。拘置所の金沢刑務所から金沢大学付属病院というのは金沢市内でも比較的近い場所でしたが、全ての荷物を持って出て、完全に出所して、また入所するのと同じ手続きだったと思います。

金沢大学付属病院では閉鎖病棟ではあるものの他の入院患者と同じような生活をしました。ちょっと変わった個室でしたが、少なくとも消灯前の時間は比較的自由な行動が出来ました。鑑定留置だったのは自分だけでしたが、閉鎖病棟内は割と広く、ロビーでテレビも自由に見ることが出来たと思います。

この間、弁護士を含め母親の面会も一度もなく、また、許可がおりなかったのか外部に手紙を出すこともなかったと思います。

その精神鑑定の実施が決定されたのは20日ぐらい前の公判の時でした。午後の遅い時間で天気も悪かったのか、外は暗い感じで、法定内の電灯の明かりが強く感じられたことを憶えています。まるで夜のようにも思えましたが全体を通して自分の公判で17時を過ぎるようなことは一度もなかったと思います。

精神鑑定自体、木梨松嗣弁護士は控訴審の早い段階から主張していたはずですが、なぜ必要なのか、説明のようなものは一度もなかったです。そもそもとっかかりすら与えられない状態だったので、不安が先行していたと思います。どの公判においても事前の打ち合わせのようなものはないに等しいものでした。

あったとすれば事前準備書というものが郵送されたぐらいです。具体的な内容の打ち合わせのようなものはなく、全くのぶっつけ本番の公判で、どれぐらいの時間が与えられているのかもわからず、全く見通しのたたないものでした。

木梨松嗣弁護士から具体的なアドバイスのようなものがあったのは、裁判所に宛、上申書を出すということでした。上申書に書いた内容は、裁判官の面前において話したのと同じ効果があると、真摯な表情で、切実に訴えかけるぐらいの意気込みで説明をしたことがありました。

現在はっきりとは思い出せないのですが、上申書はカーボン紙を使って2部を作成し、一部を木梨松嗣弁護士に郵送していたような気がします。控訴趣意書においては同じくカーボン紙を使って5部必要だったので、2部であってもずいぶん楽に思いました。割り印と訂正印も必要なので手間が掛かりました。

これも記憶が曖昧ですが、平成5年に入ってからの木梨松嗣弁護士の接見というのは、精神鑑定を挟んで前後に1回ずつではなかったかと思います。木梨松嗣弁護士から郵送が届くことはありましたが、事前に何時接見に行くという連絡は、ただの一度もなかったように思います。

木梨松嗣弁護士からの郵便で印象に残っているのは、「貴殿におかれては益々ご清栄のことと」といった書き出しのものでした。こういう形式の文面を見たこともなかったのですが、拘置所の独房に収監されている被告人に対して、どうにも理解に苦しむ違和感を覚えたからです。

木梨松嗣弁護士から郵送があったのは被害者の病状照会の回答書と事前準備書で、一緒に送ってきたもので、時候の挨拶もその時につけられていたものと考えられます。だとすると、木梨松嗣弁護士から郵便物があったのか、この時1回だけということになりそうです。平成4年の10月頃ではと思います。

私が具体的な供述をした、供述の機会を与えられた公判というのは、その事前準備書が用意されたただ一度の公判の時だったと思います。平成4年の10月か11月なのですが、12月の20日頃の公判でも具体的なやりとりがあったような憶えもかすかに残っています。クリスマスも近く考え込む時期でした。

控訴審における供述は公判記録として残されており、ほぼ私の記憶とも一致していたかと思いますが、一つに編綴されていたものをばらばらにしていたためもあってか、別々の公判が一つにまとめられていたような気もするのですが、公判の期日が特定し難かったという憶えが残っています。

平成5年になってからの公判だと思いますが、陪席裁判官の一人が交代になっていました、そのあとだったように思いますが、裁判官から公判で質問を受ける機会があり、陪席裁判官に陰茎について質問を受けたことが、とりわけ印象に残っています。まるで通じていないような無力感と失望感を感じました。

もっと早い段階、10年以内ぐらいに控訴審の公判の状況をしっかり整理し記録にしておけばよかったと悔やまれるのですが、控訴審の判決が小島裕史裁判長の真意によるものとは、どうにも理解が出来なかったです。最近では木梨松嗣弁護士の口車に乗せられ、利用されたのかと思えるのですが。

当時は、真相解明の手段として、孤立無援で極めて不利な状況にある自分が、まずは精神鑑定を受けて精神と記憶に問題がないことを証明しなければならないのかと考え、そんな方向に理解と納得を持ってゆこうと努めましたが、なすすべもなく推移を見守り、成り行きに任せる他はなかったです。

控訴審の全体を通して、最近の私の記憶の整理では、平成4年中に多くて4回の公判、平成5年中は判決を入れて多くて4回の公判ではなかったかと思います。

ほぼ全ての公判で被告訴人OKNの姿が傍聴席にあったという印象と、被害者の父親AKさんの姿を傍聴席で、OKNと一緒に見たことは一度もなかったような印象が残っています。

本格的な被告人質問のあったただ一度の公判においては被告訴人OKNの姿があったという印象がかすかに残っています。富来出身の友人OTの姿が傍聴席にあったのもその時であったかもしれません。OTが傍聴に来ていたのはその時一度だけだったと思います。今し方、数年ぶりに思い出しました。

OTは被告訴人が本陣不動産株式会社に入社するきっかけを作った人物であり、彼の紹介で入社することになったと聞いていました。OTは同じ本陣グループでも本陣住宅の所属で、別会社と聞いていたかと思います。他に本陣建設があったはずで、以前はテレビCMでも本陣グループとして見かけていました。

OTは金沢西警察署の留置場にいた頃も、一度面会に来てくれたことがあり、沢山のお菓子を差し入れてくれたことを憶えています。この時は一人で来ていたはずです。

拘置所にも一度だけ面会に来たことがありましたが、OTは被告訴人OKNとHMの3人でした。HMは結婚で婿養子となり姓が変わりました。少なくとも平成9年には新しい姓になっていて、そちらはNMです。

平成9年の夏には、被告訴人の口添えで、NMが部長になっていた建設会社で仕事をした時期もありました。長くで3ヶ月ぐらい。辞めたのは10月頃だったと思います。

このOT、HMとの付き合いは、昭和59年の夏以来で、すでに本書においてある程度の説明をしているかと思います。OTは私と同じ時期、平ボディだったと思いますが、同じ金沢市内の運送会社で4トン車の長距離運転手をしていたこともありました。

なにがきっかけだったのか細かい話は忘れましたが、本陣住宅で不動産の仕事をするようになり、まもなく被告訴人OKNを紹介して、同じ不動産の仕事をするようになっていました。運転手をしていた頃は、電車の野々市駅だったかの近くのアパートに住んでいました。

野々市と言っても、外れの方で松任市に近かったと思います。そこのアパートにはちょくちょく遊びに行くこともあったかと思います。不動産の仕事をするようになってからは、河北郡内灘町で小さな家を建てて住んでいました。多くないですが何度か遊びに行きました。

冬のイワシの運搬の時期にも、イワシを運搬する平ボディのトラックに乗って彼の家に遊びに行ったことを憶えていますが、その頃には会う機会もずいぶん少なくなっていたと思います。

私が初めにイワシの運搬の仕事をしたのは昭和63年の12月頃だったと思います。まもなく一緒にイワシの仕事をダンプでやっていたOMと一緒に臨時で、茨城県水戸市内のデパートに展示会の荷物を運ぶことがあり、ちょうどその頃に昭和天皇の崩御のニュースがあったので、よく憶えています。

そのイワシの仕事が始まった頃、被告訴人OKNは彼女と一緒に金沢港に近い金沢市無量寺のアパートに住むようになっていました。既に入籍は済ませ、結婚していたことも考えられます。その半年ぐらい前までは、兵庫県の神戸市内に住んでいたはずです。

神戸市内の山手の閑静な住宅地に住んでいると聞いていましたが、結局一度も遊びに行く機会はありませんでした。初めは宝塚市のステーキ店で住み込みで働いているような話をしていて、その後、長距離トラックの運転手をして、神戸に移り住んだ頃は、中古車のブローカーをしているような話でした。

金沢市場輸送で石7599という10トン保冷車に乗務していた頃、宮崎県の都城市から輸出用と思われる大きなタイヤを積み込み、中一日を挟んだ神戸降ろしというような仕事がありました。その荷物を降ろした後だったと思いますが、神戸の市場の近くの倉庫で、彼と落ち合ったことがありました。

その時も彼はプジョーとか言うフランス製の変わった車に乗ってきていました。その後ではなかったかと思いますが、お盆休みに帰省したときも同じフランス製の車に乗ってきていたかと思います。兄の妻と折り合いが悪いという愚痴のような話もその時していたかと思います。

その兄の被告訴人OSNですが、1年ほど東京に行っていた時期があったと思います。何かのセールスの仕事をしていて、出張中の岡山県内で事故を起こし、けっこう大きな怪我をして、金沢市内の病院に入院していました。市内入江の病院だったと思います。

保険がらみで融通が利くという噂の病院でした。その病院には酔っぱらってダンプと相撲を取ったという被告訴人KYNも入院していた時期がありましたので、その病院には何度か見舞いにいきましたが、似たような若者が何人か集まっていて、楽しそうに過ごしていました。

被告訴人OSNは、そのまま東京には戻らず、再び金沢で生活するようになったと思います。妻となる女性が住んでいた増泉のアパートで一緒に生活するようになっていて、そこにも2,3度遊びに行った憶えがあります。

被告訴人OKNが神戸からお盆に帰省していたのは昭和63年の8月だったと思います。私の長男を含め、宇出津新港の堤防でカメラ撮影したのは、長男の成長の具合からも昭和63年であったと思います。宇出津新港は数年前に出来ていたはずですが、それまでまともに足を踏み入れることもなかったかと。

そのことから考えると昭和63年の秋の早い段階で被告訴人OKNは神戸から戻り金沢に住むようになっていたはずです。初めは車のブローカーのような仕事をしているという話を聞いていました。確か福田自動車という名刺も持っていて、市内高畠辺りに会社があるような話を聞いていました。

いろいろと人間関係のつながりの細かい話を聞いたような憶えもあるのですが、余り憶えてもいません。ただ、UHが関わっているような話は聞いていたように思います。UHは一年ほど交通刑務所に行っていたはずですが、その時期もはっきりとは憶えていないです。

イワシの仕事が始まった12月のことは印象的に憶えています。それもイワシの運搬の初日だったと思います。イワシの仕事はもう少し早い時期から始まっていましたが、シーズンの初めと終わりの方は漁獲も少ないので、ダンプと八戸の白ナンバーのグループが中心でした。

まだ市場急配センターとして独立する前の金沢市場輸送の市内配達で顔見知りの二人が、被告訴人OKNとの車の売買をめぐるトラブルを、いきなり私のところに持ちかけてきたのです。それも待機中のイワシの現場でした。

一人はよく知る顔ですぐにわかったのですが、もう一人はいかにもチンピラのようなやくざ風の男でパンチパーマの髪型でした。その髪型でしばらくわからなかったのですが、その男も顔見知りの市内配達の運転手でした。どちらも上の名前は憶えていますが、S田とS藤としておきます。

S田はM田という確か同級生の友達がいて、二人とも早い段階で金沢市場輸送の市内配達の仕事をしておりました。入社も同時ではなかったかと思いますが、とにかくいつも決まって二人でいるという間柄でした。少女だとよく見かける二人連れのタイプでしたが、男となると珍しくもあり印象的でした。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月09日

被害者の兄とは一度だけ電話の応対を受けたことがありましたが時期がはっきり思い出せないです。被告訴人YSNの話ではロックバンドをやっていて片町で遊び回っているような話でした。この話を聞いたのは平成3年の秋だったと思います。計画的に作り上げられた被害者のイメージの一つかと思われます。

被害者の父親が自宅の電話に出たのは2回でした。1回目は平成4年1月21日の夜だったと思いますが、被告訴人HTNの自宅アパートから掛けた電話の時だったと思います。ものすごく丁重な対応で、戻ったばかりなのでわかりませんというような説明を受けました。ほとんど経験のない丁重さでした。

2回目は2月の中頃だったように現在の記憶の範囲では思われます。短い対応でしたが、側に被害者本人がいて、出るのかでないのか意思を確認したような様子でした。不在だとは言われましたが、なにか戸惑いが伝わる雰囲気でしたが、警戒する様子はなく手短すぎるとも思える対応でした。

居留守を使う目の前の娘に、ちょっと怒ったような雰囲気が伝わりましたが、干渉する親子関係ではないという感じで、強くて自然な信頼関係があるようにも思えました。母親との関係でも似たようなものを感じましたが、一度だけ警戒心を露わにするような反応がありました。

それは平成4年1月25日の夜に掛けた電話の時だったと思います。その日、彼女は珍しく17時の10分ほど前に、俯きながら泣いたような様子で小走りに退社していきました。私は事務所一階の運転手の控え室のような部屋から前を通り過ぎる彼女の姿を見ていました。

その日、彼女は真冬なのにセーター一枚の服装で目立つように金色のネックレスを首に掛けていました。クリスマスプレゼントとして自分が渡したティファニーのネックレスとも思えたのですが、それにしては長さがかなり違うような印象を受けていました。どちらかが長く短かったのです。

セーターの色は黒だった気がします。ネックレスの長さも含め現在は記憶が薄れています。寒い時期にそのような薄着をすることは事務所内でもなかったと思います。事件当日の4月1日、より露骨に薄い長袖のシャツで、線のはっきりしないパンクぽいデザインでしたが、ピエロ(道化師)の絵がありました。

長袖シャツにピエロの絵が描かれていると言うことは気がつくにも時間が掛かったと思いますが、その場の成り行きで忘れるのも早かったという気がします。宇出津には昔、横浜と同じピエロという暴走族があったということもあり、ピエロは印象的でした。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月10日

平成4年1月25日以降、彼女の家に電話をすることは余りなかったかと思います。母親が心配し警戒した様子だったので、電話を掛けることを控えていたと思いますが、依然と違って彼女自身が電話に出るようになっていたので、母親が対応して声を聞く機会がなくなっていたようにも思います。

平成4年2月14日の前後にも彼女の家に電話をしたような気もする。同年3月5日は、会社への電話で自分のアパートの方に電話をしてくれるように頼んだように思う。始めに彼女が会社に指輪をつけてきた日のこと。午前中は、七尾市内の川沿いで、栃木県葛生町から積んできた石灰を粉まみれで荷下ろし。

平成4年3月23日も会社で彼女に自分のアパートに電話をしてくれるように頼んだ。電話を掛けてきた彼女は、外にいるといい久安にいると答えた。車が通るような音が電話口に聞こえていたので、てっきり外にいるものと思っていた。

午後に被告訴人MHKが間に入って会社の近くの金石街道沿いのフランディとかいう名前の喫茶店で会っていた。この時のきっかけは2回目の指輪が原因で、静岡県清水市おろしのミールを積み込んだ日のこと。金沢市内高畠付近の倉庫、五高倉庫という名称だったと思う。

清水市行きのミールは確か積み置きで、翌々日おろしだったと思う。間に挟んだのは休日だったと思う。清水市で荷下ろししてから向かったのは茨城県古河市の青果市場の定期便だったと思う。急いではいなかったはずなので、翌日済みで向かったはず。

東名高速で神奈川県内に入ったパーキングエリア(レストランもガソリンスタンドもない)から会社に掛けた電話で、彼女を罵倒し、彼女はすごいショックを受けた様子でそのまま電話に出なくなった。かわって電話に出たのが被告訴人MHK社長。

被告訴人MHKは初めに「お前いったいあの子に何ゆうたんや。」とかいい、続けて「あの子のこと好きなんか、あきらめや、彼氏おるし」などとあらかじめ用意していたようなことを言った。会社辞めると言って泣いて帰った、とも言っていたような気もする。

さらにこれもあらかじめ用意していたように帰ったら3人で話をしよう、と言い出した。この運行から戻ったのが3月23日の月曜日。古河市の青果市場の仕事は山三成果の定期便。市場急配センターにおける一番のメインの仕事でもあった。

現在記憶の整理をする必要があるけど、山三成果の仕事はもともと金沢市場輸送でやっていたもので、当時から金沢港のイワシの運搬の仕事と同じく、市場急配センターが受けた仕事を、金沢市場輸送にやらせるというかたちになっていたはず。なにか税金対策の意味があるとは聞いていた。

金沢市場輸送で山三青果の仕事を本格的するようになってまもなく、日野自動車の新車の10トンウィング車に乗務するようになった。新車の納車は朝早く、日野自動車がトラックを持ってきたと記憶。ちょうどその時、会社のテレビで湾岸戦争勃発イラク攻撃開始のニュースをやっていた。

1月17日であったことは何となく記憶していたけど、先ほどネットで検索すると平成3年だったみたい。ウィング車が来る前は、冷凍機付きの保冷車に乗務していたと思うけど、12月の10日あたりから、ちょこちょこ山三青果の仕事が始まっていたと思う。

初めに古河の青果市場に野菜に積みに行ったのは10トン保冷車に乗務するようになって間もない昭和62年の5月か6月頃だったと思う。4月に新車で乗務するようになった石7599号で初めての運行は、タケノコを四国の松山市内まで運び、翌日に徳島県内からニンジンを積んで、翌日に東京都内の市場で荷下ろし。

東京都内のニンジンのおろし先の市場は4カ所ぐらいだったと思う。世田谷の市場では明るい時間に荷下ろしをしていたことを憶えている。翌日の朝には千葉県銚子市に行っていたと記憶。場所を探しているうちに、昔漫画で見たような犬吠埼に出て、イカ焼きを買って食べたようなことも憶えている。

銚子では白菜かキャベツを積んで金沢に戻ってきた。地図を見ながら道を選んで、国道4号線を横切ったのが古河市内だった。こんなところに出てくるのかと印象に残っていたところ、暫くして古河の青果市場に行くことがあったので余計に憶えている。

これは金沢の日榮運送の仕事であったような気もする。日榮運送では九州から青果物を積んで北陸に帰ってくるという仕事が多かった。長崎市の長与農協のみかんの仕事は冬場のみかんの時期の定番の仕事だった。他の時期は熊本市近くがメインで、スイカなど野菜を運んだ。

日榮運送は九州から青果物を北陸に運ぶ仕事をメインにしていたけど、長野県からリンゴを運ぶ仕事も定期便にしていると聞いていた。一度、長野県の飯田市からリンゴを4トン車に摘み、滋賀県の大津市内まで運んだこともあった。まだ大型車の保冷車に乗務する前で昭和61年の12月か翌年初めの冬かと。

この時は臨時の仕事で同乗者がいて、大Nの息子の友達で市内配達をしていたU。大Nの息子らはほぼ3人同時に入社したように思う。3人ともに当初から色々問題を起こしたり、人を驚かせる行動をやっていた。昭和61年の9月か10月頃から市内配達の仕事をするようになっていたと思う。

Uは藤江の陸橋の近くに住んでいるといい、だいたいの家の場所を教えてくれていた。前は松任市内になると思われる8号線バイパス沿いのけっこう名の知れたレストランで働いていたとも話していた。テレビCMをやっていたかもしれない。

大Nは昭和59年に自分が初めて金沢市場輸送に入ったときに、大型保冷車の運転手をしていた。丁髷ではないけど髪型や頭の形が織田信長の肖像画に似ていて、一緒にイワシの運搬をしていた頃であったか、50歳になったとか話していた。当時の50歳というのは仕事面では現在の70歳に近い感覚かも。

自分が金沢港のイワシの運搬の仕事をしたのは2シーズンで、初めの時が昭和63年の12月の終わりぐらいから翌平成元年の2月一杯ぐらいまでだと思う。12月の20日頃には配車係のYTを同行して石巻市内まで、オモチャを運んだことを憶えている。たぶんハローマック石巻店。オープン前後の時期。

イワシの仕事自体は11月中か12月の初めには始まっていたと思うけど漁獲量が少なく、本格化するのは1月2月で、3月も漁獲が落ちて4月中も少しはやっていたと思う。漁獲の少ない時期はダンプと八戸の白ナンバーグループでやっていたので、自分ら平ボディに出番はなかった。

イワシの仕事が始まってまもなく、臨時に頼まれて大Nと一緒に茨城県水戸市のデパートに展示会の荷物を運んだことは既に書いていると思います。大Nはダンプに乗務していました。

金沢市場輸送でイワシの運搬の仕事をするようになったのはその前のシーズンで昭和62年のことと思いますが、2台のダンプが納車されたのが3月ぐらいと思われ、シーズンの終わりに近く試験的な段階であったように思います。

2台のダンプはどちらもイスズのトラックでした。自分が新車で乗務した7599号もイスズのトラックでしたが、半月から一月ほど前にダンプの姿を見るようになったと記憶しています。

その昭和61年の12月から昭和62年の4月頃までのイワシのシーズン。金沢港からのイワシの運搬というのは試験的な段階でしたが、そのイワシを原料に加工したミールという魚粉の運搬はすでに本格的にやっており、自分も従事することが多かったと記憶しています。

ミールの仕事は金沢市内と松任市内の倉庫への移動と、名古屋方面への運搬が主でした。名古屋は知多半島が多かったと思いますが、養鶏場の餌として運ぶこともあり、他県への運搬もあり、九州の福岡や、四国の徳島にも運んだことがありました。

初めにダンプに乗務したのがM浦でした。もう一人連れがいて、もう一台のダンプに乗務していたのですが、昭和63年12月の2度目のシーズンにが姿がなく、変わってもう一台のダンプに乗務したのが大Nだったのです。

この時はシーズンにあわせて5台の平ボディ車が全て新車で納入されました。平ボディにFRPの大きな水槽のようなものを乗せていました。特殊な水槽で和歌山県の田辺市の工場に発注したようです。一度、その田辺市までトラックを引き取りに行ったこともありました。南紀白浜の近くのようです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月11日

ようやく思い出した気がするのですが九州で日榮運送に変わり青果物の仕事を請け負うことになった富山市内の運送会社は池田運輸だったと思います。日榮運送の配車係の紳士的な人物は以前金沢市場輸送の事務所にもちょくちょく姿を見せていたのですが、深刻な仲違いがあったようです。

どうも配車係の被告訴人MTKが相当な不義理をしたような話でした。具体的な話としては記憶に残っていないのですが、山三青果の仕事ももとは日榮運送の仕事だったと聞いたような気もします。

日榮運送は個人の運送会社としてはずいぶん待遇がよいとも聞いていました。全体にしっかりした経営で信用もある運送会社だったようです。日榮運送の仕事をしなくなってから九州の青果物の帰りには池田運輸がほとんどではなかったかと思います。高田農協に駐在の担当者がいました。

自分より少し年上ぐらいで20代後半という若さではなかったかと思いますが、富山ではなく地元九州jの人だったように思います。A川という名前だったような気もします。

古河の青果市場の仕事を専属でするようになるちょっと前は、群馬県内の館林市など埼玉県にも近い農協などからキュウリなどの野菜を運ぶ仕事を何度かした憶えがあり、それも池田運輸の仕事だと聞いていたように思います。請負先は日報にも記載する必要がありました。

2度目のイワシの運搬のシーズン、市場急配センターの社員で金沢港の現場を管理するようなことをやっていたのが小林健一。小林に間違いはなかったと思いますが、健一というのは現在ちょっとだけ記憶に自身がもてなくなっていますが、9割以上は間違いないと思います。

すでに本書においても昨年(2013年)中に書いていると思いますが、あえて名前を書いておく必要があると判断した人物です。その彼に前橋市内の国道50言線で、信号待ちで停車中に声を掛けられたのも、池田運輸の仕事で群馬県の埼玉県境にキュウリを積みに向かっているときだったかもしれません。

あるいはすでに古河の青果の定期便が始まっていた頃かもしれません。その運行は、まず富山県内から熊本県の八代市の古くて大きい港のような場所にアルミサッシを運びました。なにか戦前の軍港をイメージさせるような独特の雰囲気がある場所でした。

八代でアルミサッシの荷物を降ろした翌日だと思いますが、鹿児島市内の市場から白菜を積みました。荷物の行き先は長野県内の市場、2カ所だったと思います。一つは長野市内だったと思いますが、夜のうちに荷物をおろしおえました。長野県内の市場というのは余り行く機会がなかったと思います。

長野から夜中のうちに群馬に向けて移動し、碓氷峠を下りてから右側に何件もある大型ドライブインのひとつに入って食事をし、そのまま朝まで仮眠をしました。そして午前中だったと思いますが、前橋市内で大型バイクに乗った小林健一に声を掛けられたのです。

ろくな挨拶もなく、逃げるようなかたちとも言えなくはない感じで会社からいなくなっていました。実際にいなくなる結構前に、父親が体調を崩したので実家に帰らなければならなくなった、というような話をしていたような気もするのですが、辞めていなくなる前は、不審さが目につく印象でした。

既に書いていると思いますが、彼と入れ替わりのようなかたちで、金沢市場輸送の事務所で姿を見るようになったのが、被害者AAさんだったのです。彼女の場合、一日中事務所にいることはなく、初めのうちは中央市場内の仲買の事務員が仕事に来ているのかと思っていました。

彼女は当時、斬新なデザインとして発売されるようになったホンダのトゥデイという軽四の新型車に乗っていたので、会社の駐車場に車が止まっているとそれだけでも目立ちました。昭和50年代以前のホンダのシビックなどのどうかと思うデザインを知っている世代なので、ホンダ車の変化は大きかったです。

辞める前の小林健一は、周囲の様子をかなり気にして後ろめたそうだったので、なにかそれだけの理由があって噂があったのかと今は考えますが、私の耳にはいるような話はなく、運転手や社員の間で彼のことが話題になるようなこともほとんどなかったと思います。

一応、運転手と社員を分けて書いたのは、当時はすでにけっこうな割合で、トラックを持ち込みで仕事を請け負う形態の運転手がいたからです。他に傭車という運転手もいました。イワシの運搬のM浦なども社員ではなく、特別な契約で仕事をしているような感じでした。

小林健一がイワシの運搬の現場責任者のようなことをやっていた時期というのは平成元年の12月から平成2年の3月いっぱいぐらいだったと思います。4月中にもイワシの水揚げで現場に出向くことはあったのかもしれないですが、暇を持てあますような姿が多かったと思います。

昼間から近くのラーメン屋で酒を飲んだりしていましたが、彼の場合飲むのはほとんどが焼酎ではなかったかと思います。当時、大きなペットボトルの焼酎というのは出始めた頃で、銘柄も樹氷ぐらいしか自分は知らないぐらいでした。

その樹氷のペットボトルだったと思いますが、彼はイワシの運搬の金沢港の現場でも常にその焼酎のペットボトルを携帯していたような気がします。飲酒運転に関してはけっこう寛大で罰則も緩い時代だったとは思いますが。大きな焼酎を携えて仕事をするというのは、やはり尋常ではなかったかもしれません。

酔っぱらって車を運転する姿を見たというはっきりした記憶もないのですが、現場での待機時間が長いことはあっても、かなりアルコールの残った状態で運転をしたり、責任者ということで急に用事が入って運転することの可能性も高かったことが考えられます。

新たに思い出したことですが、小林健一は石川県警で警察官をしていた頃、加賀温泉のソープランドで出てきたソープ嬢が交通事故の処理をした相手で驚いたとか慌てたとか話していたことがありました。山代温泉と言っていたような気もします。他に山中温泉、片山津温泉などがありますが。

人命救助の活動で酸素ボンベなど潜水道具一式を自費で揃えたとか言っていたのは小松警察署の時と話していたような気もします。それを10万円だったかで買わないかと言われ、彼の家まで現物を見に行ったのはその時だったように思います。

海の潜水に関心はあったのですが、呼吸法などの作法があり間違えると死ぬこともあるとか説明されて、面倒だと思い買うことはなかったです。彼の家に行ったのはその時一度だけでしたが、玄関先より中に入ることはありませんでした。

それというのも家の中から、ただならぬ彼の妻の声が聞こえ、追い払われるような拒絶的対応を受けました。初めて行った家で、そのような経験を受けた経験はなかったと思います。出て行けと塩をまかれたり、警察を呼べと言われて逃げた経験はありましたが、息子の不良付き合いを心配した親の対応でした。

彼には二人の小さい子供がいて二人とも女の子だったように思います。幼稚園児ぐらいだったような気がするのですが、その子供の姿は何度か見かけた憶えがあるものの、妻の姿を見ることは一度もなかったように思います。

その家というのも貧乏長屋のような一角でした。住所としては若宮町になるのではと思いますが、出雲町に隣接したようなあたりで、金沢市内にこういう場所があるのかといささか驚いたぐらいでした。長屋と言っても同じような古い一軒家の集まりだったように思います。

なにか特別な映画の舞台セットのような異様な雰囲気が感じられる場所でした。建物自体が古いだけでなく見たこともない感じだったのですが、なによりも彼の妻の対応に驚いて、その場の雰囲気にのまれたことが、不思議な映画のワンシーンのような強烈な印象になったのかもしれません。

家の外側が途端で赤茶色の錆止めの色になっていたような気もします。同じような家が並んでいたのですが、前後の家の間は何もないスペースが広かったという印象も残っています。舗装されたスペースではなく、時代劇に出てくる土埃が舞い上がるような状況として記憶に残っています。

金沢市内でもずいぶんと古い町営住宅のような建物やアパートというのは珍しくなかったのですが、後にも先にも見たことのない町並みの一角でした。そういう場所に住んでいる不満が、訪問者に対する攻撃的な態度につながったことも考えられますが、相当の恐妻であることは間違いなさそうでした。

けっこうくどく説明を書いたと思いますが、これには他に理由があります。その後、この時といくぶん似たような経験をしたことがあり、そちらの方は思わぬ急展開もあったので、比較の上でもできるだけ詳しい説明をしておこうと考えた次第です。

小林健一は私が24歳ぐらいの時に、27歳かあるいは28歳と言っていたように憶えています。今思えばさほど年も離れていなかったようですが、普段は落ち着いた雰囲気でかなり年配という感覚で接していたように思います。話し方もきれいな標準語に近かったような気がします。服装も小ぎれいでした。

大型のバイクの他、車も所有していたと思いますが、車の方はかなり低価格な中古車という印象が残っています。やけにこざっぱりした服装も落ち着いた物腰と話し方も、今思えばいかにも警察官らしい特徴でした。服装は作業着が多かったと思いますがいつも新品のようなものを身につけていたような。

バイクはスポーツタイプではなく落ち着いたツーリングタイプという感じでした。白バイ隊員をやっていたというぐらいなので、バイクは相当に好きだという感じですが、スピードを出すのが好きだという風ではなく、トラックでも普通以上にゆっくりとした運転をしていたように思います。

酒も相当に好きな様子でしたが飲むと決まって陽気になり、終始笑い続けていたという印象も残っているぐらいです。焼酎のボトルをラッパ飲みしていたような記憶もあるのですが、今思えば水で割ることもなく、常にストレートで焼酎を飲んでいたことが考えられます。

仕事に対する姿勢はまじめそのものという感じでしたが、仕事の内容については余り一緒にしたという記憶もなく、特に仕事が出来るとか頑張っているという話も耳にすることはなかったと思います。初めは10トンの平ボディで石川県内や富山県内のローカルの仕事をしていたようです。

仕事の内容が違うので運転手としては一緒に仕事をする機会も少なかったですが、イワシのダンベの仕事では一緒になることがあったと思います。ダンベというのは平ボディの大型トラックに全部で16個平積みで乗るような水槽で、水槽の一つ一つはフォークリフトで運べるものでした。

小分けに区切られている分、走行中に揺られて魚が傷むことも少なく、養殖ハマチの餌として冷凍加工する工場に運ぶことが多い仕事でした。私自身は三重県の白塚町というところに運ぶことが多かったとも記憶しています。四国や石巻に行くこともありましたが、まとまった台数の仕事でした。

小林健一が平ボディ車以外に乗務するのを見た憶えはなく、臨時で保冷車に乗るような仕事をしたという話は聞いておらず、無理な配車をすることが多かった被告訴人MTKには頼まれることもあったとは思われますが、強く拒絶していたのではと思われます。

保冷車と平ボディでは仕事の内容がかなり異なるのですが、平ボディの仕事はミールとダンベが多かったはずです。特にイワシの運搬がある冬場の時期は。ミールの方は加工品なので他の時期も仕事はあったと思いますが、やはり冬場がメインでした。

さきほど説明が途中になったと思いますが、5台の平ボディが新車で入りました。トラックはイスズが2台、三菱ふそうが3台ではなかったかと思います。初めのシーズン、運転手もおらず、まともに稼働していたのは2台だけと思います。

二人ほど運転手が乗務しましたが、どちらもすぐに辞めていったと思います。一人は富山県の福光市から来たというサラリーマンのようないい年の人でした。名前も憶えておらず、とにかくすぐにいなくなったと思います。

もう一人は浜田というよくある名前の人だったと思います。新潟県の直江津でガソリンスタンドで働いていたような話で、女性と一緒に不倫か何かで駆け落ちしてきたような話でした。この人物の容貌が江村正之検察官によく似ていたので、悪夢を見るような気持ちになったこともありました。

短い間で余り話をした憶えもなく特に接触もなかったように思いますが、イワシを石巻まで運んだとき、大勢で荷下ろしの後、食堂に入ったときその浜田という人と彼女のような女の人の姿があったことは、なんとなく印象的に憶えています。そのうち姿を見なくなりましたが長くはいなかったはずです。

もう一人、名前の方は思い出せないですが、漫画のゴルゴ13のような雰囲気もある人物でした。M浦の紹介で入ったように聞いたと思うのですが、他の誰とも話をすることがなくいつもトラックの中で一人でいるような人物でした。身だしなみもしっかりしていて筋の入ったヤクザもののようにも見えました。

実際話してみると、そう暗い感じでもなく人付き合いを拒絶するようなタイプにも思えなかったですが、現場では仕事にのみ専念すると割り切っているようにも思えました。シーズンの初めからはいなかったような気もするのですが、途中で辞めることもなく終わりまでいたように思います。

彼も平ボディに大きな水槽を積んだものに乗務していました。イスズのトラックだったと思います。自分もイスズのトラックを選んでいました。どうせ空いているので三菱ふそうのトラックに乗務することもありましたが、他社に比較しブレーキ性能が格段によかったイスズ車がほとんどだったと思います。

イワシの運搬の仕事というのは時間的にずいぶんと不規則で待機時間も長いものでした。長い待機時間に会わせて自宅に帰ったりしていましたが、基本的に24時間態勢で漁船と工場の都合に合わせるという仕事でした。

工場の機械は原料であるイワシがなくなると機械を停止するしかなく、いったん停止してしまうと、次に動かすとき70万とか80とか言う費用が掛かるという話でした。

漁船の方も金沢港の港を出てすぐのところに大量のイワシがとれることもあれば、片道十数時間とか掛けて舞鶴沖や、新潟県の佐渡島の近くまでイワシを探しに行くという話でした。工場の機械のトラブルで荷下ろしが出来ないと言うこともあったように思います。

待機時間が長いと暇を持てあますこともあり、外食も多かったと思います。初めのシーズンの時は、大Nと一緒にいることが多く、おまけに食事のほとんども彼が私におごってくれていました。以前から能登では遠洋漁業の漁師の先輩や友達におごってもらう習慣は多かったのですが、金沢では珍しかったです。

さすがにどうかと思うぐらい頻繁におごってもらっていました。一緒に食事に行くと決まって支払いをしていてもらっていたように思います。年は親子ほど離れていましたが、けっこう気の合うところもあったのか、退屈することもなかったです。

大Nはその後、金沢市場輸送を辞め、守田水産輸送で運転手をしていたこともあったのですが、そのうち守田水産輸送で鮮魚の中継の仕事の現場を任されるようになっていました。

以前から金沢市場輸送の石巻、塩釜の定期便では富山県の高岡の市場行きの分を守田水産輸送に中継として出していました。富山市の市場は高速道路のインターからも近く、直接おろしていたと思います。福井の市場分は、自社の4トン車が初めの頃より中継をしていました。

金沢市場輸送で一番多い仕事だったと思いますが、東北陸運の仕事で石巻と塩釜から、それと塩釜の宮城陸上の仕事も別にやっていました。宮城陸上の仕事はおでんなどの練り製品が比較的多く、東北陸運の塩釜では北海道の苫小牧からフェリーで運ばれてきた荷物が多かったです。

季節によってサンマや鱈などの荷物が多いこともありましたが、荷物の量も時期によって倍以上の違いがありました。正月前など多いときは一日に大型車4台分以上の荷物がありました。4トン車の数は少なかったですが、プラスになることもありました。

市場関係の仕事では帰り荷がメインというのがほとんどでした。その帰り荷の積み込みに合わせ、現地で泊まりになるということも多い仕事でした。泊まりといってもトラックの中で寝るだけというのがほとんどです。

このような時間を持てあますうちに、パチンコやパチスロで散在するようにもなったのですが、そのうち完全にやめていました。そのうち泊まり自体をずいぶんと苦痛に感じるようになり、泊まりの多い金沢市場輸送をやめるという動機の一つにもなりました。

仙台おろしの荷物だと荷下ろしをしてすぐに積んで帰るという仕事も多かったのですが、配車の調整で泊まりになると丸一日に近い待機時間になりました。九州では連休などをはさむと、2,3日の連泊というのもありました。

市場急配センターに移ってからは極力泊まりは避けて欲しいとも配車に頼んでいました。ウィング車だったので魚を運ぶことはなかったですが、青果でも泊まりになることはありました。数が少なかったのでその分記憶にも残っているのですが、その一つが静岡県清水市での荷下ろしでした。

長距離特に市場関係は時間に追われることもあり、免許の点数を失う可能性が高いものでした。スピード違反もそうですが重量オーバーも神経を使いました。時間があるときは、取り締まりの可能性のあるインターから高速に乗ることを避けたりもしていましたが、走行中にパトカーに引っ張られることもある。

免許証を失ってはもともこもありませんし、次第に市内配達かローカルの中継のような安定志向の仕事をしたいとも考えるようになっていました。大型車は高速でも最高速度が80キロなので雪道や渋滞のロスを考えると120キロ以上で走行することも多く、常に一発で長期免停のリスクと背中合わせでした。

自分の場合、結婚し子供が生まれた頃、長期の免停とかで人一倍難儀した経験もあるのですが、その後は違反なしの満点の期間も長く、一度に沢山の点数を失う違反で捕まるようなこともありませんでした。

金沢市場輸送でのストライキ絡みのごたごたもあって、私は守田水産輸送の大Nに中継の仕事で使ってくれないかと頼んでいました。こういう仕事は空きも少ないはずなのですぐにというのは期待せず機会があればと声を掛けていたのです。守田水産輸送の中継は都商事という会社名になっていたかと思います。

後にも先にも大Nから自宅のアパートに電話があったのはその時だけだったという憶えもあるのですが、忘れた頃になって中継で使ってもらえるという連絡がありました。しかし、それは市場急配センターで仕事をすることが決まった直後のことでした。あるいは当日かもしれません。夜でした。

金沢市場輸送と守田水産輸送の間にはいくつか運転手の行き来もありましたが、定期便を一緒にするという時期も1年かもう少し長い期間がありました。もともと守田水産輸送がやっていた青森の定期便を一日交替でするようになり、帰り荷として守田水産輸送のトラックが石巻、塩釜の定期便をするように。

金沢市場輸送の事務所が西念から二口町の新事務所に移転した頃を挟んでいましたが、移転してしばらくの間は、守田水産輸送のトラックが事務所と一緒につくったスタンドに給油に来ていたぐらいでした。そのうち仕事のやりとりはなくなりましたが、はっきりした理由を耳にすることはなかったかと。

この頃、守田水産輸送では宇出津のTという人が大型車に乗務しているという話でした。自分よりかなり年上で7歳ぐらい年長のように聞いていたと思います。私より被告訴人OKNの方がよく知っている人のようでしたが、そのうちトラブルがあったらしく、Tにひどい仕打ちを受けたように話していました。

特に関心のある話でもなく聞き流し、突っ込んだ話も聞いていないので記憶にもよく残っていないのですが、これも車の売買を巡る問題ではなかったかと思います。被告訴人OKNはずいぶん腹を立てた様子で、ずいぶんといい加減な人間のようにTのことを話していました。

Tとは仕事で顔を合わすこともあり、何か話をする機会もあったように思うのですが、これも記憶には残っていません。ただ噂に聞いていたのとは印象が違い、がっしりしているものの体も小柄に見えたように憶えています。

どちらが先か後か重なる時期であったかどうかもはっきり思い出せないですが、もう一人、宇出津の人が守田水産輸送の運転手をしていたことがありました。名前はN田としておきますが、自分と同じ町内にある名前で、一つ年上に同じ名前の人がいました。被告訴人OSNの同級生でした。

同じグループで遊び仲間だった時期もあるはずです。宇出津の一部の町内でしか聞いたことのない名前でしたが親戚である可能性は高く、そういう話もして否定はされなかったようにも思います。

一度、石巻で一緒に泊まりになったことがあり、魚市場の前にトラックをとめて、じっくり話をしたことがありました。年齢はかなり年上で40歳ぐらいではなかったかと思います。守田水産輸送には長い間はいなかったと思います。

その後数年ぶりに再会したのが平成4年の2月頃のことで、場所が市場急配センターの一階の休憩室でした。休憩室というよりは運転手の控え室という感じでしたが、出来て間もない頃に、運転手は用事があるとき以外は2階の事務所ではなく、この部屋にいるようにというお達しがあったからです。

決まった呼び名もなかったと思いますが、そういうことで実質を踏まえた控え室ということで説明をしたいと思います。N田さんの姿を見たときも驚きましたが、被告訴人東渡好信と輪島のHさんとは以前から顔見知りだったらしく、彼らを訪ねてきたという様子でした。

以前から顔を出していたことも十分考えられますが、私が顔を合わせたのはその時が初めてで、その後も3月の10日前後に一回、姿を見たことがあったようなないような曖昧な記憶しか残っていません。彼はその時、木材を運ぶトレーラーに乗ってきていたように思います。

城山運輸という少ししっている運送会社のトレーラーだったとも記憶しています。東渡好信や輪島のHさんは、以前木材の運送の仕事をしていて、どちらもトレーラーに乗っていたという話だったと思います。木材と言うよりは丸太だと思いますが、金沢港では丸太置き場のような土地も広がっていました。

この丸太を運ぶ、トラックやトレーラーの話は前から聞くことがあったのですが、急ブレーキを踏んだ場合、後ろから丸太が飛び出して運転席を突き破り即死するという話で、とてもやる気にはなれないと自分としては考えていました。

被告訴人東渡好信はHらに「さんちゃん」と呼ばれることが多かったのですが、なぜ名前にない言葉が出てくるのか不思議に思い、控え室で輪島のHさんに質問してみたことがありました。普段は気さくに受け答えする人でしたが、答えは返らず、それ以上の質問はしませんでした。

その時の会話の内容だったのか、これも現在の記憶でははっきりしませんが、N田さんが木材のトレーラーの仕事をするようになったのは、比較的最近のような様子に私には感じられたと記憶に残っています。3人ともかなり前からの顔見知りで最近になって知り合った関係ではないとははっきり感じました。

小木運送にいたという話は前に聞いていましたが、この小木運送という会社も自分にはよくわからないところがあります。昔からある同じ宇出津の漁運会輸送ですら、私はほとんどしらないのですが、そういえば被告訴人OKNが一時期、漁運会輸送で仕事をしていたということがありました。

小木運送のある小木港は現在は宇出津と同じ能登町ですが、確か平成17年の、合併以前は珠洲郡内浦町小木でした。宇出津は寒ブリも名産ですが定置網などが主体の地場の漁の港です。一方の小木港は遠洋漁業が主な港で、イカの町ともいうぐらい船内凍結イカが名産になっている港です。

現在ではイカ漁の規模も小さくなっているようですが、以前は北洋のサケマス漁もやっていました。遠洋漁船に乗る若者も多く、昔付き合いのあった友人知人も、遠洋漁船の経験者が多かったです。金沢市場輸送の運転手で能登の人間のほとんども、小木の漁師の経験者でした。

小木の遠洋漁業がふるわなくなったのは国際問題となった二百海里問題が起こってからで、拿捕や操業停止という深刻な問題もが立て続けに怒っていました。その影響は漁業にとどまらず、大工なども失業して、出稼ぎに出ると人が多いと聞いていました。

宇出津でも夜逃げをしたり自殺する人が相次いだと聞いていました。それはちょうど自分が初めに金沢市場輸送に入社した昭和59年の時期とも重なっていました。その年の春頃に大型運転手として入社してきた珠洲市若山のTという人も大工をしていたけど仕事がなくなって金沢に出てきたと話していました。

その若山のTさんは、その後、守田水産輸送に移って運転手をしていましたが、たまたまなのかそのうち顔を合わす機会がなくなりました。同じく珠洲市若山に家があると聞いていたSさんは、小木運送の運転手でした。

珠洲市若山のSさんは一時期、金沢市場輸送の傭車として専属的に仕事をしていたことがありました。けっこう長い間だったと思います。一緒に仕事をする機会も多かったので、色々と話も聞いたように思いますが、ないときは自分で仕事を探すという普通の運転手とは違う会社との関係のようでした。

同じく金沢市場輸送で傭車をしていたKさんはトレーラーを持ち込みで所有していましたが、以前は小木運送の運転手だったとも聞いていたと思います。さらに小木運送の金沢の事務員だった女性と結婚したとか。Kさんも小木中学校だったはずですが、小木の近くの集落だと聞いていました。

余り具体的に書くことを避けますが、この小木の近くの集落では他に二人、金沢市場輸送で仕事をしていた人がいました。一人は昭和59年に私が入社したときにいたTさんですが、小木の漁師で、漁のない時期だけ金沢市場輸送で運転手をしていると話していました。

基本的に小木の遠洋漁船の漁師は5月か6月頃に出漁して12月の中頃に戻り、次の出漁まで休みになるという話でしたが、ちょうど自分の友達が漁師をするようになった頃には漁の仕事だけでは生活が厳しくなって、休漁の期間は出稼ぎに出たり他の仕事をするということが普通になりつつあったようです。

その一昔前は、3ヶ月ほどで500万円ほど稼げることもあり、休漁の期間は酒を飲み歩いて遊んで暮らす人が多かったとも聞いていました。

2度目のイワシのシーズンで一緒になったTさんもそんな小木の漁師という話だったと思います。彼も小木の町ではなく、他の二人と同じ集落だと話していたように憶えています。12月中にその姿はなく、1月中華途中から参加していたように思います。三菱ふそうの平ボディに乗務していました。

イワシの運搬を一緒にやったTさんとは、T林と3人で片町に飲みに行ったこともありました。無口で自分から話しかけるようなことも少なく、タイプはかなり違いますが前のシーズンにいたゴルゴ13似の人に、どこか通じるようなところもあったという気もします。

T林は長距離の保冷車の運転手でしたが、私の2度目のイワシのシーズンでは、同じく平ボディでイワシの運搬の仕事をするようになっていました。けっこう偏屈なところもありましたが、彼とは一緒にいる時間も長く、おごってもらうことが多かったです。食事より飲み屋が多かったと思います。

彼とは長距離運転手をしていた頃からの付き合いでした。入社は私より遅く、昭和61年の12月頃ではなかったかと思います。改めて考えてみると被告訴人IHKや被告訴人UHKと同じ頃の入社かと思います。幾分少しだけ早かったかもしれません。初めのうちは4トン車に乗務していたと思います。

昭和63年には新車でイスズの冷凍機付きの10トン保冷車に乗務していたと思います。この時の新車からナンバーがそれまでの「石」から「石川」に変わっていました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月12日

T林は以前石川トヨタで働いていたと話していました。車の営業の仕事をやっていたとも話していたと思います。その話を聞いていた時点で、現在でもブローカーとしてオークションに参加する権利のようなものを持っていると話していました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月13日

久しぶりに思い出したことがあるので先に書いておきたいと思います。金沢市場輸送の女性事務員のことです。まず大きな変化として事務所の移転がありました。昭和63年の7月頃だったと記憶しています。なんとなく7月ですが、それも初めの頃だったと思っています。

それまでの事務所は私が初めに入社した昭和59年1月当時から西念町の中央市場前にありました。こちらも昨年中にGoogleマップやストリートビューを利用して説明のための画像ファイルを作成してあります。パソコンの画面の状態を画像ファイルにしたものですが、スクリーンショットです。

インターネット上のリンクとタイトル名を次に掲載します。ファイル名は→ 金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日01時43分36秒.jpg

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 105782624485753679454 - Picasa ウェブ アルバム http://bit.ly/1j27RIu

基本的に写真などの資料は、Picasa ウェブ アルバムを中心に使いたいと思います。パソコンのシステムデータから独自に作成したプログラムを使ってPicasaに登録するようにしています。GoogleのサービスがPicasaのAPIを公開しているので出来ることです。

パソコンのシステムデータと書きましたが通常のハードディスクに保存しているファイルのことです。Windowsパソコンではフォルダというかたちでファイルが階層的に保存、管理されているはずです。この一つのフォルダを丸ごと添付用のDVDに書き込み、本書と一緒に提出する予定です。

なお、自分の場合、パソコンは業務用としても通常使われていることが多いWindowsパソコンとは異なり、LinuxというOSを使っており、コンピュータのシステムとしてはUNIXの仲間になります。フォルダのこともディレクトリと呼びますが、中身はほぼ同じはずです。

より大きな違いはテキストデータの文字コードがUTF-8であることと改行のコードがUNIXになっていることです。Windows標準のメモ帳などで開くと改行が認識されていなかったり、文字化けを起こしているかもしれませんが、最近のワープロソフトなどであれば普通に読み込むことが可能かと。

パソコン内のファイル名をそのままWebサービス上のタイトル名やラベル名として識別できるように心がけています。なお、このファイル名もWindowsパソコンのOSの古いものだと文字化けを起こすかもしれません。そのような文字コードの問題もWebサービスは吸収してくれるはずです。

Windowsパソコンも私の知る限りWindows7以降のOSはずいぶんとよくなっていてUNIX環境との違いもうまく処理してくれている感じです。なによりシステム内のファイル名検索がWindowsXPの頃に比べると格段によくなっていると思います。

ネット上のサービスを使った情報はそれなりに改ざん等のりすくもあるかと思いますので、一つの原本のようなかたちで添付DVDのファイルを保存してもらえればと思います。ファイル数も多いのでDVDに書き込む前の状態を完全に保証することはできないですが、二重三重に対策を講じています。

あと本書におけるインターネット上のURLですが、本来のURLでは文字数と含まれる特殊文字で不具合を起こす可能性があるので、短縮URLを使うようにしています。またTwitterやGoogle+のサービスでもリンクを使っているので、検索機能を活用した方が早い場合もあるかもしれません。

Web上の検索についてはけっこう気を遣っている部分があります。なにより自分自身が過去の記事やデータを探し出すのに難儀し時間を無駄にした経験があるからです。検索の精度自体に疑問のあるサービスもありますし、時間が掛かったり、エラーを起こす場合もあります。

短縮URLは無料のサービスなので5年後、10年後となるとリンクが切れてしまうという可能性も考えております。サービス自体がなくなる可能性というのも、Webサービスに共通する可能性かと思います。従ってファイルシステムとWebサービスの一致、統合と言うことに出来るだけ配慮しています。

西念町の金沢市場輸送の前の事務所に的を絞って説明するため「Picasa ウェブ アルバム」上においてファイルをコピーし別のアルバムを作成しました。なお、直接のリンクではなく間にGoogle+ページを使いました。

告発/告訴_金沢地方検察庁御中 - Google+ - 金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム… http://bit.ly/1aVtjqr

クラウドとも呼ばれるWebサービスには様々なものがありとても便利なのですが、サービスごとに異なる違いや扱いにくい癖があったりします。直接リンクを開いていると管理をしている側においても戸惑ったり不便を感じることがあります。

そのようなサービスごとの違いを級数する意味でも私はGoogle+ページを軸にネットを使ったプレゼンのようなことをしたいと思います。Google+では長すぎるタイトルをTwitterでも支障が出ない文字の長さに適切に処理してくれるという仕様になっているので、とても都合がよいです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月14日

スクリーンショットの画像ファイルですが、アプリを使ったものとプログラムを使ったものがあります。プログラムのものは自動でファイルの作成時間をファイル名に含めるようにしています。

スクリーンショットの場合はjpegとpngの両方のファイル形式を使っているかと思いますが、プログラムはjpegを使うようにしていると思います。デジカメの写真ファイルはすべてjpegファイルになっているはずです。

デジカメのjpegファイルはExif情報というものを持っており、この情報から自動でファイル名に日付と日時を含めるようにしている場合もあります。なお、Exif情報は変更も容易に出来るようです。偽造も同じかと思います。

一つの注意点としてWindowsパソコンではファイルの作成日時を情報として保持しているようですが、UNIX環境ではファイルの変更情報のみを保持しているようです。タイムスタンプと呼ばれることもありますが、コピーの仕方により情報が変わってしまう場合もあります。

管理する私自身ですらファイルの作成日時を把握できなくなるおそれもあるので、なるべくファイル名にファイルの作成日時に関する情報を含めるようにしています。偽造変造のチェックという意味、目的もあります。変化の見落としというのもあり得ることかと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月15日

「嫌われ監察官 音無一六~警察内部調査の鬼~」という刑事ドラマを昼に見ていたところ、新たにいくつか思い出すことがありました。長い間忘れていたことですが、どうして忘れていたのかと不思議にも思いましたが、思い出してよかったとも安堵しました。

私が岐阜県海津町から戻って金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったのは昭和61年の8月の25日頃のことでした。9月中か10月頃だったと思いますが、輪島のMYという男が入ってきました。最初は市内配達の運転手として入社したはずです。

中央市場内の売り場で初めて顔を合わせたことを今も憶えていますが、毎朝、同じ場所で鮮魚や青果物を積み込んでいたのですが、同じ場所で彼と顔を合わした回数は少なく、ごく短い間だったと思います。

彼はすぐに4トン車で長距離の仕事をするようになったと思います。彼は思い出話としても何度か、市内配達でサンテラスユニーに行き、食品売り場の中で青果物をのせた台車を押していて知人に会い、とんでもない恥をかいたとか話していました。

サンテラスユニーというのは金沢市中村町にあるデパートで1階が食料品売り場になっていました。この中村町の周辺の白菊町や増泉というあたりは、水商売関係や暴力団関係者が居住する割合の高い地域でもありました。金沢市内の中心部にも近く、徒歩の通勤も可能なエリアかと思います。

そのあたりはアパートも多かったので居住する若者も多かったと思います。金沢市内は戦災に遭っていないので古い町並みも残っており、同じ中心部でも他の辺りはアパートの数も比較的少なかったという気がします。

金沢市内の中心部というのは片町や香林坊のことですが、以前は県庁も香林坊の近くにありました。金沢市役所は今もその近くにあるのではと思います。その辺りは自分の市内配達の受け持ちコースでもありましたが、大通り以外は道も狭く駐車のスペースも少ないです。

輪島のMYは早い段階で長距離の仕事をするようになっていたはずですが、大型保冷車に乗務するようになったのは昭和62年4月の自分より遅かったように思われ、その分4トン車に乗務していた期間が長かったように思われるのですが、仕事内容が違っていたためか、顔を合わす機会は少なかったかも。

今となっては細かいことを思い出すのは困難ですが、彼も大型免許を取得したのは金沢市場輸送に入社した後ではなかったかと思います。彼は私より学年で2つ年上だったので、年齢や普通免許の経験という条件は問題なかったはずです。

私は昭和61年の11月27日に大型免許を取得しましたが、普通免許の取得自体が半年以上遅れていました。昭和57年の6月、自動二輪免許で1年間の免許取消処分を受けていたためです。大型免許には普通免許を取得してから2年か3年の経過という条件があったはずです。

大型免許を取得した日付を憶えているのは誕生日の翌日だったからです。市内配達をしながら会社に時間の都合を作ってもらい一発試験で合格しました。7回目ぐらいの合格ではなかったかと思います。試験自体は1回1500円の費用であったと記憶しています。実技試験自体も時間は短かったはず。

実技試験に合格したときだけは、手続きの時間も多少長くなり、費用も多少掛かったとは思いますが、プラスで2千円か3千円程度ではなかったかと思います。4トン車の経験があれば、5回ぐらいの回数が平均的とも聞いていたように思います。

試験に10回通っても2万円も掛からないぐらい、平均より若干少ない回数で合格すれば1万円程度の費用で済んでいたはずです。時間のやりくりも会社が面倒をみてくれていたので、仕事を休む必要もありませんでした。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月16日

大型免許について細かく書いたのは、ついでに平成3年の被告訴人YSNの大型免許取得についても触れる必要があるからです。YSNの場合は大型免許の取得を目的に金沢市場輸送に入社し、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになりました。

金沢市場輸送への入社が決まった翌日ぐらいには市場急配センターで市内配達をするようになっていたはずで、金沢市場輸送で仕事をする姿は一度も見ていないはずです。そのあたりの手回しのよさにも、なにか計画性があるのではと考えることがありました。

YSNは金沢市場輸送に入社するとき、大型免許の取得の費用と借金の返済にもお金が必要だと私に話していました。最初は20万円必要と話していたようにも思いますが、すぐに30万円に額を上げ、さらには50万円必要だと言い出して、すぐに金沢市場輸送との間で50万円の前借りが決まったはずです。

YSNは私の紹介というかたちで金沢市場輸送に入社が決まり、50万円の前借りをして、私がその50万円の保証人ということになりました。YSNの非常識で不可解な言動はそれにつれて始まりましたが、実際に給料引きで支払いを始めたのはその年の11月か12月のことだったと思います。

翌年である平成4年の2月14日には、私が北國銀行中央市場支店で25万円を降ろして、残債を完済する形で被告訴人MHK社長に、これで借金はなくなったのでいつでもクビにして欲しい、今後一切の責任は負えないと口頭で伝えました。それまでも色々あったのですが、当日の午前中にあったことが原因。

私の記憶は薄れているので説明も十分には出来なくなっていると思いますが、東名高速の豊橋インターで、50箱ぐらいの白菜をウィング車から散乱させたという話でした。これもにわかに信じ難い話でしたが、後ろに停車した観光バスの乗客が降りてきて、白菜を持ち去ろうとしたとも話していました。

被告訴人YSNの異常性について話が私の耳にはいるようになったのは平成3年の秋でした。なにか危険な運転をしているという話でした。私に注意するように言ってきたのも被告訴人MHK社長、それに配車係をするようになった被告訴人東渡好信、それに輪島のHさんでした。

出勤時間が遅かったり連絡が取れないという苦情を私に向けてきたのもその3人でした。とにかく私の方から被告訴人YSNに注意をして欲しいと繰り返し言うので、私の方から彼のアパートに電話をしたのですが、電話はつながらず、彼は電話の線を元から抜いているとも話していました。

当時彼が住んでいた金沢市内花里のアパートは、ちょっと変わっていて民家の2階の一部屋だけがアパートになっているという感じでした。8DKではなかったかと思います。割と広いダイニングキッチンと奥の一部屋だけでした。その部屋の奥の方の半分近くはベッドが占めていました。

ダブルベッドかセミダブルベッドでしたが、部屋自体が狭かったのでベッドが大きく見えていたようにも思えます。そのアパートの部屋はYSNが交際していた女性がもともと住んでいたももので、彼が転がり込んで同棲するようになったという話でした。車も彼女のものと聞いていました。

車種の方は忘れましたが1000CCか1300CCの小型車だったと思います。かなりポンコツな車で、内部も飾り気がなく小汚くも感じられまるで建設会社の現場通勤に使うような車という印象でした。YSN自身は車を所有しておらず共有していたので彼女が会社に送り迎えに来ることも少なくなかった。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月17日

平成14年の4月の初め頃、被告訴人YSNを自宅に招いて話をしました。翌日に宇出津新港の職業安定所で顔を会わせたという記憶もあるのですが、偶然だったのか、ちょっと気になってきました。会話の内容など記憶に残っていることも少ないのですが、私の認識の甘さがあったようです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月18日

被告訴人YSNから連絡があったんは平成3年の4月の終わり頃であったと思います。現在の記憶ではなんとなくですが、ちょうど4月の終わり頃に金沢市場輸送への入社が決まったように思います。一方で、彼が仕事をするようになったのは5月の連休の後であったような気もします。

私が金沢市場輸送の長距離の仕事で最後の運行になったのは神戸市内の港の方で、たしかミールをおろし、帰り荷がなくって空車で戻った運行でした。輪島のYと一緒でした。彼は大型保冷車の払い下げを受け傭車の持ち込み運転手として、金沢市場輸送の仕事をしていたはずです。

保冷車にミールを積むということは余りないことでしたが、たまにはあることであったと思います。今考えると、2台とも空車で戻ったというのは、どうかという気がします。

神戸市内の四国行きのフェリー乗り場から会社に帰り荷のことで電話をしていました。側で、電話で別れ話の喧嘩をしているような若い女性がいました。ドラマのような迫力で印象的だったので、これまでの記録なかでも何度か書いていると思います。魚崎だったかもしれません。

細かいことは思い出せないのですが午前中には荷下ろしが終わり、帰り荷のことで何度か会社に電話を掛けながら神戸で待機をしていたはずです。ずいぶんのんびりしていたと思うのですが、夜中には福井県の敦賀にいました。国道8号線沿いのガソリンスタンドで給油した憶えもあります。

道路上に金属の固まりのような物体が落ちていて走行中に危険な思いをしたということもありました。敦賀ではガソリンスタンドの近くで食事をした憶えもあるのですが、会社に着いたのは翌日の朝だったと思います。家には寄らず、神戸から直接会社に着いたように思いますが、現在記憶はないです。

その場で金沢市場輸送の社長であり配車係の被告訴人MTKの挑発的な言動があって、私は会社を辞めるといい、その場で家に帰ったように憶えています。すぐに九州の方に走るように言われたのが原因でしたが、繰り返しで積もった不満や、会社内におけるトラブルで愛想が尽きたのです。

書いているうちに思い出したのですが、これは被告訴人YSNが金沢市場輸送に入社して市場急配センターで市内配達をするようになった後のことだったと思います。

金沢市場輸送の会社内におけるトラブルというのは、被告訴人東渡好信が率先して行ったストライキで、古参の社員運転手が同調していました。私も形の上ではストライキに参加する者と同じように会社を休んでいたと思いますが、辞めるということも決心を固めつつ口にしていたように思います。

Tという当時45歳ぐらいの金沢市場輸送の社員運転手がいて、当時二十歳ぐらいかあるいは未成年の女の子と同棲していたのですが、彼のアパートにも一度だけ遊びに行ったことがあり、ストライキを実行中の東渡ら4,5人ぐらいがその場に集まっていたことを憶えています。

Tは見た目も性格も年齢よりはかなり若い感じでしたが、仕事の働きぶりは芳しくないような話も聞いていました。比較的中央市場にも近い場所のアパートで、中央市場と同じ西念か、その外れに隣接した南新保のアパートでした。

どちらを先に行ったのかはっきり思い出せないですが、被告訴人HTNのアパートもそのすぎ近くにあり、そちらの住所は南新保でした。彼の供述調書の住所も南新保になっていたはずです。初めにHTNのアパートに行ったのは昼でした。夕方に近い、仕事が終わった後の時間だったと思います。

HTNに誘われて行ったように思いますが被告訴人YSNが一緒だったと思います。さらに後になって姫出身のNKさんが来ました。NKさんはその年の3月頃まで、市場急配センターで持ち込みの運転手をしていたと聞いていましたが、不義理のようなかたちで独立というか、別の業者の専属になったと。

NKさんについては昨年中に本書においてもいくつか触れていると思います。被告訴人MHKが新しくなった二口町の金沢市場輸送の事務所に姿をみせるようになった直後、古い2トントラックを持ち込みで、市内配達の仕事をするようになっていました。

昭和63年のことと思います。自分の記憶ではその年の7月の初め頃に、金沢市場輸送の事務所が西念町から二口町に移転しました。MHKの姿を初めて見たのは、その年の8月の終わりか9月の初めだったように憶えています。NKさんの姿を見るようになったのもほぼ同時期でした。

姫のNKさんに初めて会ったのは昭和56年の12月頃のことで、宇出津の白山神社の近くに住んでいた私の二つ年下の友達の家でした。小木の漁師で漁が終わったところだと聞いていました。

厳密に言うと、当時は珠洲郡内浦町小木にあるのが小木港で、能都町姫にある漁港も同じく北洋の遠洋漁船の港でした。姫の船に乗船していても、余り区別せず、小木の船に乗っているとか小木の漁師だと呼ばれていました。

厳密にいえば小木にも姫にも地場で漁をする小さな漁船はいるのですが、小木の漁師だという場合は決まって北洋の遠洋漁船のことでした。厳密に言えば、イカ漁とか中部船と呼ばれるサケマス漁の違いもありましたが、小木といえば遠洋の港でした。

基本的に小木の遠洋漁船は12月に帰港し、5月や6月に出漁すると聞いていました。昭和56年頃の時点では二百海里問題の起こる前でもあり、休漁中は、遊び回っている人が、少なくとも自分の周りの若い漁師には多いと聞いていました。

私などもそのような休漁中の漁師と一緒によく遊び回っていたのですが、漁師の共通点はほぼ例外なく酒好きで、飲み歩くことの多い人もいました。十代で酒の飲み過ぎで肝臓を壊したりする人も何人かいたようです。

NKさんは私より4つぐらい年上と聞いていたように思いますが、はっきりした年はわからなかったです。実際の年齢よりかなり年長者にも見えていました。直接連絡を取り合ったりする仲ではなかったですが、共通の友人が多く、遊びに行った先で一緒になったり、一緒に行動することも多かったです。

私は昭和55、56年と一年ちょっと石川県立小木分校に通学していたこともあり、小木とも姫ともなじみはありました。電車通学の真脇駅と小木駅の中間ぐらいに学校があったので、どちらの駅も利用していました。駅のあるのは小木の町ではなく市ノ瀬という九十九湾の遊覧船乗り場の近くでした。

内浦町の中心は小木ではなく松波というところでした。宇出津からだと十八束という山沿いの国道で行くことが多く、小木を経由の場合は海沿いの遠回りになります。現在でも珠洲行きのバスは、二通りのコースがあります。

平成17年だったと思いますが、珠洲郡内浦町と鳳至郡だった能都町と柳田村は市町村合併で、鳳珠郡能登町になりました。現在でも能都中学校、小木中学校、松波中学校に分かれているのではと思います。能都町には他に鵜川中学校がありました。

被告訴人YSNはこの能都町鵜川の者でした。いずれも中学校も親戚でもない限り、交友や付き合いというのはほとんどなかったと思います。交友の場が一気に広がったのは、高校に入ったり、中学校を卒業した後のことでした。

当時、宇出津から行く人の多い高校は、宇出津高校、石川県立水産高校本校、同じく小木分校、珠洲市内にある珠洲実業高校、飯田高校、柳田村の柳田農業高校でした。

例外的に輪島市の町野高校に行く人もいました。町野高校は柳田村から行く人も多く、輪島市内から来る人も多いと聞いていました。私の周りでは一つ年上のTYという人が町野高校に行っていました。彼とは中学生の頃も別の友達を介した付き合いがあり、その後も多少付き合いがありました。

町野高校に行っていたTYは、輪島市内の暴走族ともつながりがあるとも聞いていました。金沢市内で活躍していた輪島の暴走族のリーダーKTとも同級生かと思います。

現在ではそのような話を耳にすることも全くなくなったのですが、当時の輪島といえば、海士町(あままち)という特別な地域があって、それ以外の輪島の人と区別されていました。海女漁の町でもあり、江戸時代からの特別な伝統もある地域なのですが、当時は暴力団に近いようなイメージが強かったです。

漁師町で気が荒いと言うこともあったと思いますが、近親婚を繰り返した血脈や団結心が異常に強く排他性があって攻撃性が強いと聞いていました。うわさ話が先行したような部分も大きかったと思いますが、お祭りのヤクザの屋台でもぶちこわすという話でした。

昔の小木も似たようなところがありました。こちらは事情が違って、父親が遠洋漁業で不在であることが多く、暴力性に影響を与えていたという話もありました。父兄が真摯な取り組みをした結果、ずいぶん改善されたとも聞いていますが、良くなったのは私の3つ年上のあたりとも聞きました。

小学校の高学年で町中でタバコを吸っている児童がいましたし、小学校のトイレで先生の横でくわえタバコをしていた生徒が注意を受けて、先生に暴力を働いたという問題もありました。自分が小学校の低学年の頃だったと思います。自分は親戚もいなかったので小木に行く機会は滅多になかったです。

とにかく小さい頃から小木というのは暴力的で怖い町というイメージがありました。宇出津でも似たようなことはあったのですが、当時は今とは比較にならないほど、暴力性があったり、いろいろと人間関係の厳しさも強かったような気がします。上下関係もきつさや難しさがありました。

別の見方をすると漁業の町として勢いと活気があった時代でもあったと思います。姫も小木とは似たようなところがありましたが、姫の生徒は真脇小学校から宇出津の能都中学校に来ていたので、中学校になった頃から交遊がありました。姫の同級生の家は立派で部屋も豪華なものが多かったです。

姫は住宅の新築率が石川県で1位という時代もあったと聞きます。宇出津でも小木の船に乗る人が多く、地場の漁も盛んだったので、崎山台地が開けてからは、新築の住宅が多くなりました。自分が小さい頃は一面の畑ばかりで、民家というのはほとんどなかったという記憶もあります。まもなく造成でした。

小木の漁師になる友達も多く、漁の話もいろいろ聞いていたのですが、耳で聞くだけでよくわからないところもありました。はっきりしていることは生死の危険をともにする仲でもあり、結束の強い独自の人間関係もあったということです。丘の人間とは違うと言うことを口にする人もけっこういました。

なかには逆に仲が悪くて海に落として殺したのではないかという話を聞くこともありました。基本的に作業中に海に落ちると、落ちるところを見ていても停止、旋回して落ちた場所に戻ることが難しく、潮の流れも速いので救出できる可能性はとても少ないと聞いていました。

いじめというのか、暴力を伴った厳しいしごきも新人のうちは当たり前だと聞いていましたし、血を吐くほどの船酔いや、時化では生きているのが不思議なぐらいのもの凄い状況になると聞いていました。小さい船だとなおさらひどいという話でした。

そういう言葉としての話だけではなく、実際に漁を経験して戻ってきた友達は、数ヶ月ほどの間に、手のひらがまるでグローブのように分厚く大きくなっているのを目で見ることもありました。機械も発達していなかったのか、相当な重労働でもあったようです。

小木の漁師の間では船頭という言葉を聞くことも多かったです。出漁前にまとまった額の前借りをしたという話や、身内の話としていろいろ言っていましたが、部外者にはわからない話でした。船頭の他に漁労長やボースンとかいう役職のような言葉もあったので、船頭というのは船主のことかもしれません。

船主というか船を所有する水産会社は小木にいくつかあったようですが、なかには金沢市の駅前のホテルや、パチンコ店をやっている小木の水産会社もあると聞いていました。駅前のホテルは、都ホテルのことかと思います。

パチンコ店は石川郡野々市町のシーパレスという大きなパチンコ屋でした。野々市町は現在は野々市市になっているじゃないかと思います。金沢市に隣接していて金沢工業大学があったり、学生の街という雰囲気もありました。

いつころか憶えていないですが、そのシーパレスというパチンコ屋にヤクザのダンプが突っ込んだという事件というかニュースもありました。パチンコ屋の業界に所属せず、出玉も多くして繁盛していたため、被害にあったという話でした。パチンコ屋のほとんどが在日の韓国人か朝鮮人という時代かと。

もともと石川県というのは暴力団というかヤクザの多い地域だったと聞いています。特に加賀の温泉は山口組の有力な資金源とも聞いていました。昭和の時代勢力を2分していたのも、小松市に本拠を置くという紺谷組と能登の七尾市に本拠を置く福島組でした。七尾市には和倉温泉があります。

暴対法が実施される前、ヤクザというのは身近な存在で、服装も一見してわかるようなものであることがほとんどでした。数年前から新聞でもテレビでも石川県内の名前を聞くことは皆無に近いと思います。地下に潜っているのかも、情報がないのでさっぱりわかりません。トラブルという話もきかない。

暴対法の実施が何時頃であったのか、自分の現在の記憶でははっきり思い出せないですが、平成に入って頃にはヤクザ風の人の姿を見かけることは少なくなっていたような気がします。福島組はその後、昭成会と呼ばれるようになっていましたが、平成11年頃にも名称は聞いていたような気もします。

また、昭和50年代後半、特に小木の漁師など宇出津近辺の人は暴力団やヤクザを嫌う傾向がすこぶる強かったと思います。被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年か56年かと思いますが、暴力団員である間は真脇の実家に一度も帰らなかったという話も、人から聞いていたように憶えています。

被告訴人HTNは金沢でやっていた暴力団員をやめてから小木の漁師をするようになったはずです。昭和56年の秋の時点では金沢で暴力団員をやっていました。その後、覚醒剤で捕まり小立野の少年鑑別所に入ったと、うわさで聞いていました。組の方は捕まったことで破門になったと聞いていました。

昭和60年の5月か6月には、姫の漁港に出漁の見送りに行ったことを憶えています。4,5人ぐらいであったかまとまった数の友人が同じ船に乗っての出漁でした。300トンという小木や姫では最大級の漁船と聞いていたようにも憶えています。HTNもそのうちの一人だったような気もするのですが。

その姫の漁港の出漁の後、私は昭和61年の3月に結婚したという事情もあるのですが、以前の漁師の友達とも疎遠になっていきました。彼らのほとんどもその1,2年の間に漁師をやめ、数人のグループは大阪の方に行ったとも聞きましたが、音信不通になりました。

被告訴人HTNがまだ漁師をしている頃、特に仲良くなっていたのが宇出津のHSでした。彼は私の同級生であり付き合いは小学校の頃からありました。小学校は4組、中学校は5組だったと思いますが、同じクラスの時の付き合いが多いという傾向もあったと思います。

特に親しくなったのは高校1年の頃でした。彼は水産高校の本校でした。校舎は現在の能登高校としても残っていますが、グランドの奥の波返しにあった海の大半は、昭和の終わりか平成の初めに大規模な埋め立て工事があり、現在の宇出津新港になっています。

HSとは仲が良かったというか、とにかく一緒にいる時間、一緒に遊ぶ時間が長かったです。仲がよいとか意識することはなく、お互いにけなし合いをするような間柄が、少年時代ほど多かったと思います。友人関係は他にも多かったので、仲がどうとか特に意識することもなく付き合っていました。

次第に距離を置くようになったのは私の方からだったとも思います。長距離運転手という仕事柄も、普通の生活とはリズムが異なり不規則なので、会う機会も少なくなりましたが、子供が出来てからは付き合いが悪くなっていきました。HSにも不満を与え気分を悪くさせたと思うこともありました。

先ほど0時を15分ほど過ぎた辺りで一度気がついていたのですが、すぐに忘れてしまい、項目の日付を変えることをし忘れていました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月19日

付き合いが悪くなった原因には子供や家族との時間を優先させたということもありますが、漁師との付き合いは酒のはいることも多く、少年時代先輩に無理に酒を飲まされてひどい目にあったという経験もあったので、酒の席は避けるという傾向もあったかと思います。飲めはしましたが好きではなかったです。

自分で缶ビールなどを買って飲むようになったのは昭和62年か63年頃からだと思います。限られた仮眠時間の調整として早く寝入るため、いわば睡眠薬の代わりような感じで読むようになりましたが、市場の仕事の付き合いとして飲む機会も増えました。おごってもらうことが多かったです。

漁師時代のHSが最後に私のアパートに遊びに来ていたのは昭和60年の終わりか61年の初め頃かと思います。小木の一つ年下のHKといつも一緒にいるという感じでした。小木のHKは他のグループとともに大阪の方に行ったとも聞いています。比較的最近聞いた話です。

大阪に行ったグループも仕事は鳶職と聞いたような気もするのですが、はっきりとは思い出せません。昭和60年頃、金沢市場輸送で4トン車に乗務していて岐阜県内の山奥でトラックを崖下に転落させ、そのままとんずらしたというOTも一時期、大阪にいたと話に聞いたことがありました。

OTは私の二つ年下でした。被告訴人OSNが金沢市の高畠のアパートに住んでいた頃も、ちょくちょく顔を出していた様子で、岐阜から逃げたという話も直接、顔を合わせて話を聞いたような気がします。当時、金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKは、探し出す懸賞金を掛けるという鼻息でした。

OTは私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめただいぶんあとに、金沢市場輸送に入社したと聞いていたように思いますが、姫のNKさんは、入れ替わりにも近いような感じで金沢市場輸送に入社し、けっこう長い間、金沢市場輸送にいたように聞いていたようにも憶えています。

姫のNKさんは4トン車の長距離でしたがその後市内配達で2トン車に乗るようになり、10トン車に乗ることはなかったようです。野々市の運送会社でも4トンの長距離に乗っていると聞いていた時期がありました。

その後、さきほど書いたように昭和63年の8月の終わりか9月の初め頃から金沢市場輸送で市内配達の仕事を古い2トン車の持ち込み運転手としてするようになったのですが、会社ではとにかく不思議なぐらい寡黙でした。声を聞くことすらなく、横を見る姿もなかったような気がするぐらいです。

二口町の金沢市場輸送の運転手の休憩室で姿を見る機会は多かったです。テーブルに座って長い時間もくもくと伝票の整理をしていました。そういう姿が印象的でしたが、昔、一緒に遊んでいた当時の面影はまったくなかったです。それだけまじめに仕事に打ち込んでいるようにも見えましたが。

姫のNKさんについて気になることは他にもあります。平成15年頃のことと思いますが、なんどか被告訴人UHKの自宅に電話を掛け、話を聞くことがありました。そんなとき、かなりわざとらしい感じで、NKさんの名字を出し、宇出津の人間として会社にいたと思わせぶりな話を始めたことでした。

気になって調べたところ、宇出津の小棚木という私と同じ町内に、同じ苗字の家があったので、そこの家に電話をして家族や親戚に市場急配センターで仕事をしていた人がいないかと訪ねたぐらいです。だいたいの家の場所は今でも憶えているので、あるいは直接家まで出向いたかもしれないです。

その同じ町内の人は全く関係がないと話していました。宇出津には他に聞いたことのない苗字でしたが、姫ではよくある苗字だったと思います。小木、姫、宇出津ともにその一部の地域だけに多い名前というのがいくつかありました。たとえば姫では桜井という苗字も多かったです。

全国的には桜井という苗字は珍しくないと思いますが、小木や宇出津では聞かない苗字で、そういうのが他にもありました。また、小木の蟹や行泊など、他の地域では全国的にも滅多にないような名前もありました。

いっぽうで干場など能登ではあちこちで見られるような名前もありましたが、特定の名前だとある地域の可能性が高いという名前がけっこうあったと思います。宇出津でも40近い町内に分かれているはずですが、正式な住所にはない地元の人しかしらないような町内名です。

宇出津も大きく分けると、棚木、新村、新町、町になるかと思います。自分が子供の頃は4月の春祭りにはこの4つの地域ごとに曳き山を出していました。現在は棚木と町だけです。棚木は白山神社、町は酒垂神社という一面もありますが、あばれ祭りの神輿は、それぞれの神社から2基になっています。

私自身、インターネット上の情報などで比較的最近になって知ったことですが、もともと宇出津の町というのは町という魚市場のある辺りが中心だったとのことです。自分が子供の頃は、マチという話し言葉だけで耳にしていました。漁師が多いと言うこともありますが、輪島の海士町にも似たところが。

昔ほど、その傾向が強かったらしく、子供の頃はよく母親からマチの子供とは遊ぶなときつく言われていました。やぐさい、という方言かと思いますが、粗暴とか野蛮という意味合いが強かったと思います。現在では全く耳もしなくなった昔話のようでもありますが、そういう時代でもありました。

とにかく宇出津の町全体が、昭和の時代とは激変しており比較すら難しいぐらいです。まずは人の数が少なくなりましたし、過疎化も進み、子供の姿を見ることも少なくなっています。正月やお盆ですら、さほど普段と変わりがあるようには思えず、スーパーに行くと人の数は多いぐらいです。

私が子供の頃、マチでは○○という苗字が多かったです。漢字で書くと二文字とも画数が少なくわかりやすい名前なのですが、宇出津以外では聞いたことがありませんでした。ところが姫に同じ漢字の名字で、別の読み方の苗字の人がいると聞きました。違うのは漢字の一文字目の読み方です。

その人物のことを姫のOさんということにしておきたいと思います。姫の出身だと聞いていましたが、そもそも能都の出身者という面影は感じられず、まるで都会の人になり切っていたという感じでもありました。東京を含め関東に親戚がいない自分には珍しいタイプの人でもありました。

それは昭和57年の春頃のことではなかったかと思います。被告訴人OKNの家は宇出津で自動車修理工場とプロパンバスの販売をやっていました。家の大通りに面した部分ではガス器具の販売もやっていたと思います。縦に長い家の5分の1ぐらいの部分だったでしょうか。

町内は大橋組でしたが、宇出津の町の中心部の通りに面し、川沿いに長い家でした。現在は跡形もなくなくなっています。梶川という小さい川ですが、町では唯一の川らしい川であり、現在もそうですが、あばれ祭りで神輿を川に落とす見所の場所でもありました。

最近になってインターネット上の情報で確認できたことなのですが、私は昭和50年の3月まで宇出津に隣接した辺田の浜というところに住んでいました。住所は藤波になっていました。藤波は辺田の浜、柳倉、間島に分かれ、宇出津に一番近いのが辺田の浜でした。現在は宇出津新港にも隣接しています。

私は昭和39年11月26日生まれですが、宇出津の小棚木にある中沢病院という小さい産婦人科の医院で生まれました。生まれて1歳ぐらいの時、父親がタイヤ屋の店舗を兼ねた住宅を辺田の浜に建て、そちらに移り住んだと聞いています。

父親は私が3歳ぐらいの時に、酒を飲んで帰ってきた玄関先で死んでしまったと聞いています。私自身の一番古い記憶は、玄関先で死んでいる父親を起こそうとしていたことです。そのうち母親の泣き叫ぶ声を聞いたようにも憶えていますが、記憶は全体としてぼんやりしています。

父親は働き者だったらしく死んだときには借金を完済し、何百万円かのお金を残していたと聞きます。200万か300万だったような気がするのですが、はっきりとは憶えていません。母親の手元に残ったのは100万円と聞いたように思います。小さい頃、繰り返し耳に入ってきた話でした。

廣野というのは宇出津にある名前ではなく、父親が養子に行った東京の家の名前だと聞いていました。父親は太平洋戦争にも従軍し、沖縄県の宮古島で終戦を迎えたものの、2年ぐらいの間は終戦を知らずに島で生活をしていたとも聞いていました。

その後のことはほとんど知らないのですが、辺田の浜に移る前は宇出津の中心部で小さなタイヤ屋をやっていたと聞きます。それらしい写真も家にはあります。現在も続いている茂平食堂のとなりだったとも聞きます。新町という宇出津の中心部の通りですが、町内は大橋組だったはずです。

被告訴人OKNと最初の付き合いがあったのは幼稚園児の頃ではなかったかとも思います。幼稚園の卒業写真にも彼の姿があります。前後のことは記憶にないのですが、一度辺田の浜の私の家に彼が遊びに来たことがありました。

私の家には当時のテレビ人気アニメ、タイガーマスクのキャラクターの人形数体とリングがありました。私自身、誰にいつどこで買ってもらったのか記憶にないのですが、その場面と、その後OKNにずいぶん強い感じで嫌みを言われていたことを憶えています。

小学生の低学年の頃もお祭りなどで、もらえる小遣いや買ってもらうオモチャの代金は千5百円以内という決まりがあり、金額を超える野球盤のゲームを買ってもらったところを、同級生に目撃され、先生に告げ口をするといわれて、しばらくの間不安な気持ちでいたことも憶えています。

昭和40年代のことですが、いろいろと現在とは違うきまりや価値観もあったかと思いますが、小さい頃のOKNは人一倍正義感というか、こだわりの強い一面もあったかと思います。中学生の頃も不良になった兄のことを毛嫌いし、ずいぶんと悪口を聞かされた憶えがあります。よほど不満も強かったみたい。

中学生の頃は勉強も熱心に頑張っているという感じでした。彼の家の大通り(国道249号線)を挟んだ向かい側には、宇出津で一番大きい書店がありました。漫画の本を立ち読みしたり、勉強の参考書を買うこともありました。

千間書店という店でしたが、数年前に梶川の橋の大きな工事があり、周辺の建物は取り壊しの立ち退きになって、書店の方も別の場所に移っていますが、新しくなってからは一度も店に入ったこともなくなっています。

夕方に千間書店で顔を合わせ、話をしたり、そのまま彼の家に遊びに行くこともあったと思います。泊まり込みで彼の家に勉強に行ったこともありました。成績が優秀という話は聞いたことがなかったですが、悪いとも聞いておらず、兄とは違い問題児でもなかったと思います。

兄の被告訴人OSNの方は小学生の頃よりけっこう問題を起こしていたようです。中学生の頃も素行が悪かったと思いますが、入学した水産高校の本校をやめてからは、さらに不良化が進んで髪型も服装も派手になっていました。家はたまり場で、家の建物が大きかったこともあり、人の出入りも多かったです。

宇出津の中心部の川沿いにたまり場の家があったので、それでなくても目立つ存在でした。私自身が付き合いをするようになったのは、昭和56年の6月頃のことでした。ちょうど小木分校を中退した頃でした。自分のヘルメットが欲しいと言うことで、私の一つ年下の二人ぐらいが予備に来たのです。

同じ町に住んでいたので顔なじみではありましたが、それまで付き合いというものはなかったです。弟のOKNの方に中学生の頃、愚痴を聞かされていた程度でしたが、家には私より二つ年下の妹の友人関係も含め、ひっきりなしに多数の少年少女が出入りをしていました。

OSNと初めに遊んだ日は早朝だったと記憶しています。私を呼びに来た一つ年下の2人を含め4人で、宇出津の町の外れにあるオオデラにクワガタムシをとりに行ったことを憶えています。オオデラは最近になって看板を見たことで大平と感じらしいと知ったのですが、ずっと大寺と思っていました。

OSNが水産高校にいた期間は短くてすぐにやめたと聞いていましたが、細かいことは憶えていません。長くて3ヶ月程度という話であったような気もします。彼が1年生の時の3年生だったのが被告訴人YSNでした。

当時は電車通学がほとんどでした。電車ではなく汽車と呼ぶのが普通でしたが、ずっとあとになって汽車というのは蒸気機関車のことだと誰かに言われたことがあったので、電車と呼ぶ人は誰もいなかったと思いますが、とりあえず電車としておきます。

昭和50年代はまだ国鉄だったと思います。電車は5両編成ぐらいが普通だったと思います。鉄道が廃線になったのも平成17年頃ではなかったかと思いますが、その頃は1両の電車以外はなかったような記憶です。能登でも穴水までは電車が残っています。

被告訴人OSNの家は国鉄の宇出津駅にも近く、電車の待ち時間で集まる学生も多かったと考えられます。私も、小木や姫の同級生の家でよく電車の待ち時間をつぶしていました。水産高校は珠洲方面から通う学生もけっこういたと思います。

水産高校には寮もありました。大棚木の赤灯台の近くでした。輪島市内や羽咋郡富来町辺りから来る生徒が寮に入っていて、少しですが金沢市内から来る生徒もいました。

珠洲市大谷のYSさんも寮に入っていたと思います。私は中学校1年生の頃から彼のことを知っていました。能都中学校で相撲部に入っていたからですが練習のほとんどは、水産高校の相撲部に通って行われていたからです。YSさんは私が中一の時の高校1年生でした。学年で言えば3つ年上です。

珠洲市でも大谷は輪島市内との境に近い町でした。観光地としては珠洲市の真浦海岸に近く、その真浦海岸の隣が観光地として知られている輪島市内の曽々木海岸でした。

YSさんについても、本書において昨年中にいくらか書いていることがあると思います。姫のNKさんと宇出津のK村さんの二人が一緒に金沢市場輸送で市内配達をするようになってどれぐらいでしょうか。現在では具体的に思い出すことが出来なくなっていますが、早ければ一月後、長くて半年後ぐらいか。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月20日

今日の昼、重要と思われる一つの事実を思い出したので、それを先行して書いていきたいと思います。他にも予定している事実はたくさんあります。全て繰り返し、裁判所や検察庁には提出済みのことばかりかと思いますが、ふとしたことで長い間忘れていても思い出すことがあるものです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月21日

まず七尾の被告訴人東渡好信のことですが、被告訴人のなかでもとりあえずの現段階で実名にしているのは彼だけです。被告訴人に関しては過去の段階では全てを実名で情報公開していました。なぜ東渡なのかというと、偽名の可能性も考えられるからです。重要な鍵を握る実在した人物です。

東渡好信という名前を知ったのは、市場急配センターの1階の部屋に火元責任者として彼の名前の札が壁に貼り付けてあったからです。後にも先にもそのような札を見た記憶がありません。可燃物を保管する倉庫や事務所であればあるのが普通とも考えられますが、気がつかなかったのか他には見ていない。

東渡好信が輪島のHさんと諸江のKさんの3人で、金沢市場輸送から市場急配センターに来たのは平成3年の9月に入ってすぐではなかったかと思います。9月の初めというのは間違いないですが、8月中ではなかったと思います。ただ、移動の話は8月中に決まっていたと考えられます。

これもその年の春のストライキの延長のような感じでした。7月中だったと思いますが、市場急配センターの事務所にやってきた東渡好信が2階で机に包丁を突き立て、戻ってきた被告訴人MHKを包丁を手に外まで追い回したという話がありました。

私自身、被告訴人YSNと一緒にその場にいて東渡好信が2階の事務所に入ってきたところは見ていたと記憶しています。異様な雰囲気ではありましたが、芝居がかっているとも思っていました。演技だとは思いつつも面倒なことだとは思っていました。

細かいことまで記憶していませんが、東渡好信が来てすぐに電話が掛かりました。東渡が来てから10分以内か5分も掛からないタイミングではなかったかと記憶しています。電話を掛けてきたのは被告訴人YSKでした。尼御前のサービスエリアにいるという話でした。

4トン車で徳島行きの確かスイカを摘んでいるといい、4トン車の調子が悪いとか重量が重すぎるとか話していました。そういうことならばと相談に乗り、たぶん金沢市場輸送の10トン保冷車を持って行って荷物を積み替え、4トン車を引き取ってきたように思います。

夕方明るい時間に尼御前のサービスエリアに行き、荷物を積み替えたことは体験した場面として現在も記憶しています。被告訴人YSNも同行させていました。ややこしいですが、両者の姓は同じです。全国的にもよくある名前です。3つめのNは能登、Kは金沢あるいは石川郡野々市町を意味するものです。

事務所に入ってきたとき東渡好信はずいぶんと興奮した様子でしたが、丸西水産輸送の社長が片町で射殺されたことを口走っていたと記憶しています。なにかあだ名か仲間内の呼び名のようなものを使っていました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月22日

片町での射殺事件があったことは当日の朝刊の記事で読んでいたと記憶しています。片町と書きましたが、私の記憶では竪町という報道になっていたように思います。片町に隣接した商店街なので片町と呼ぶのもさほど違和感がないと思います。片町は金沢で一番大きな飲み屋の多い繁華街です。

平成9年に福井刑務所を出てからまだ宇出津にいた頃だったと思いますが、宇出津の図書館で北國新聞の縮小版を割と丹念に目を通したことがありました。その時、自分の記憶にあった時期と、その射殺事件の新聞記事の日付に、けっこうずれがあったような憶えがあります。

昨年中に作成したものですが、Googleマップというサービスを利用して、金沢市内の地図上に目印を作成しました。確認したところGoogleのアカウントでログインしていない状態でも見れるようですが、航空写真から地図への切り替えができるボタンが見当たりませんでした。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&gl=jp

上が地図を利用したサービスのタイトルとURLです。けっこう癖のあるサービスになっているので、私自身使いこなせている自信もありません。3つのレイヤーに分けて使っていますが、上のURLだと「平成3年か4年」というレイヤーのみが表示されると思います。その状態のURLを使ったので。

「金沢市場輸送と市場急配センター」というレイヤーにもマウスのクリックでチェックを入れれば、市場急配センターと金沢市場輸送の事務所との位置関係もわかりやすくなるかと思います。レイヤーごとにマーカーの形状も異なっています。マップの左上に出ているメニューでの操作です。

左上に「被告訴人YSNの工事現場突入の場所」という項目があるのでその部分をクリックすると、ポップアップが出て強調表示されるかと思います。他の項目も同じ要領です。これはデータという扱いになっているのかと思われます。ラベルという意味は別にあるようですが、わかりづらいです。

このGoogleの地図のサービスはマイプレイスというもののようです。地図上の特定の場所につけるマークは目印ともアイコンとも呼ばれるみたいです。ヘルプを読みました。目印には名前と説明がつけれるようになっています。この名前の部分がメニューの項目に対応しています。

この目印そのもののURLは取得できないみたいです。つまり説明上十分な特定ができそうにないということです。そのあたりサービス上の特性を踏まえた上で参考にしていただければと思います。Googleのサービスは全般的にいきなり仕様変更されることも多いです。サービスの廃止も含めて。

仕様の変更についても事前のアナウンスはあるのかと思いますが、事前に知ったということはほとんどありません。PicasaウェブアルバムとGoogle+の写真サービスの統合などずいぶんややこしくなっている部分もあります。一般的な日本のサービスに比べるとずいぶん大雑把という気もしますが。

https://maps.google.co.jp/maps?q=36.582349,136.633094 ← 別の方法でGoogleマップの位置情報を取得しました。緯度などの地球上のデータをリクエストパラメータに指定する仕様になっています。割と短いURLです。

リンクを開くとAというシェイプがでていると思います。住所と番地の情報も出ています。「石川県金沢市駅西本町5丁目6-24」となっているかと思いますが、だいたい位置に目印をつけているので、当然番地までは正確でなく境界の場合は町名が異なる可能性もあると思います。

市場急配センターの住所も平成4年当時は金沢市二口町でしたが、たしか平成18年頃にはいつの間にか、駅西本町に変わっていたと思います。都市計画法の用途地域などの関係で変更になったのかと想像しますが、町名が変わるというのは他に見たことも聞いたこともないことです。

リクエストパラメータについては「リクエストパラメータとは」というキーワードで必要に怖じてインターネットで検索していただければと思います。URLのドメインがmaps.google.co.jpとなっているのも特徴ですが、以降はこの形式のURLにタイトルをつけて説明します。

以降、「平成3年秋の被告訴人YSNの工事現場突入事件」というタイトルをつけて説明をしたいと思います。事件というほどのものでもないのですが、これも説明の便宜上ということでご理解願います。以降、次のようなURLの紹介に続けて対象位置に関する説明に入ります。

平成3年秋の被告訴人YSNの工事現場突入事件 https://maps.google.co.jp/maps?q=36.582349,136.633094

さきほどご紹介したマイプレイスは主に昨年中に作成したものです。目印の名前というか項目名と、これから使うGoogleマップの緯度情報のURLに使う名前とは、完全に一致しないと思いますが今からの整合は手間も掛かるので、内容的に区別できると思いますので、その旨お願いします。

残念ながら現在の私の記憶では時期の特定が難しいのですが。平成3年の秋で、10月か11月のことだったと思います。あるいは9月の下旬だったのかもしれないですが、現在の記憶ではそれでさえ特定が難しくなっています。断片的な場面の記憶も数が少なくなっています。

先に湾岸戦争が始まった1月17日に自分が乗務する10トンウィング車が来たということを書いたと思います。これは日野のトラックで、同じものがもう一台同じ頃に入ったと思います。少し後だったと思うのですが、同じウィング車として三菱ふそう、のものも入りました。

この三菱ふそうのウィング車が何台であったか思い出せないのですが、最低1台はありました。たぶん日野が2台、三菱ふそうが1台ではなかったかと思うのですが、これらはいずれも従来の焦げ茶色と白もしくはクリーム色という金沢市場輸送のカラーとデザインのトラックでした。

いずれも平成3年の1月中に入ったものと考えられます。これとは別に4月ぐらいにも2台のウィング車が入りました。2台とも日野のトラックだったと思いますが、従来の金沢市場輸送のトラックとは全くことなるカラーとデザインになっていました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月23日

金沢市場輸送の新しいカラーとデザインは白地のボディに赤と青のラインの入ったものでした。金沢市場輸送の社長であり配車係の被告訴人MTKの娘が考えたデザインらしいという話も耳にしたことがありました。

被告訴人MTKは当時私が住んでいた東力のアパートの近くで、丁目は違っていたように思いますが同じ東力の住所になっていたはずです。自宅のだいたいの場所も聞いていましたが、これだという家は知らなかったです。

そういえば東力に近い入江か間明の回転寿司に、同僚の運転手2,5人ぐらいで食事をしていたとき、テーブルを仕切る隙間があって、一緒にいた一人が輪島弁で「え、なんちゅうよう食うおなごかえ」などと驚きの声をあげたので、隙間を除くと家族連れの中にMTKの姿がありました。

回転寿司の皿を山積みにしていたのだと思いますが、その娘の顔や他の家族の顔というのも不思議と全く記憶に残っていません。子供が3人いるという話で、奥さんはMTKより年上だと聞いていましたが、その場に奥さんらしい、娘の母親のような姿はなかったようにも記憶しています。

一度何かの折りに、被告訴人MTKの奥さんは有線放送関係の会社で仕事をしているような話を聞いたようにも記憶してます。片町周辺の金沢市内中心部にある会社のようにもその時話を聞いたような気がするのですが、誰の口から聞いたのか細かいことは思い出せない状況です。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月24日

被告訴人YSNの彼女も有線の仕事をしていたと聞いたように記憶しています。それだけでなく金沢市内花里の彼のアパートで、アルバムの写真を見せてもらったとき、彼女が職場の同僚など4,5人で撮影された写真に、当時、名の知れた歌手が一緒に写っているのを見たように憶えています。

有線というのは有線放送のことですが、今ではなくなったのか聞いたことはないです。ジュークボックスという言葉もまったく聞かなくなって久しいですが、飲み屋などで色々と曲を流す事業ではなかったかと思います。当時は有線でのベストテンなどもあったと思いますが、最近は全く聞かなくなった。

初めて被告訴人YSNの花里のアパートに行ったのは平成3年の5月頃だったと思いますが、それからちょこちょこと何度かそのアパートに遊びに行っていました。のちに妻となる彼女はいるときといないときがあったと思いますが、仕事などしていない話ではなかったかと思います。

それでもいるときといないときがあったと思いますが、いるときはワンルームの部屋の大半のスペースを占めるベッドに寝転がっていて、かならず頭からタオルケットをかぶっていました。つまり決して顔を見せようとはしなかったのです。これは徹底していました。

それがあっさりと顔を見せただけでなく、出産直前のお腹の出た姿をジャージのようなお腹が目立つ姿を見せたのが平成3年12月21日の翌日か翌々日のことだったと思います。その21日の夜に被告訴人HTNに託そうと思いつつ言い出せなかったティファニーのネックレスを持って行った夜jのこと。

ネックレスの手渡しは私のお願い通りに一応実行してくれたのですが、数日の間、被告訴人YSNとは連絡が取れず、年内の栃木県足利市のガソリンスタンドから掛けた電話で連絡が取れましたが、その時点で彼女は出産を終えたと聞きました。つまり出産の4,5日前にジャージ姿で顔を見せていた。

妊娠中の女性は顔のむくみなどでも気に掛けて人目を避ける人もいるということを聞いていました。そのようにも解釈していたのですが、マタニティではなくあえてお腹が目立つようなジャージ姿で、彼女は突如姿を見せていたのです。顔も普通に見せていましたが、化粧も特にしていない感じでした。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月25日

被告訴人YSNがアルバムを見せてくれたのは夏頃ではなかったかと思います。9月以降も行く機会はあったと思いますが、長距離の仕事をするようになってから会社以外で一緒に遊ぶ機会は少なかったと記憶しています。

平成3年10月6日には被告訴人YSNに同行して名古屋の北部市場に行ったと思いますが、彼のアパートには行っていないと思います。朝に出発したと思いますが、帰ったのも夕方でまだ明るい時間だったように思います。

Linuxのcalコマンドで確認しましたが、平成3年10月6日は日曜日になっていました。この翌日の月曜日だったと思うのですが、駐車場の奥の方に注射していたYSNの10トンウィング車がぶつけたとかぶつけられたとか、被告訴人MHKが疑いを私に向けて話しかけていました。

この時だけではなくMHKは、直接被告訴人YSNに対して注意をしたり問いただすということをまったくしようとしませんでした。別の言い方をすればずいぶんと遠慮がちで消極的な姿勢でした。君子危うきに近寄らず、という言葉のように様子見で警戒しているように見えなくもなかったのですが。

他の運転手や社員に対しても消極的で干渉しないというふうに見えていましたが、全く異なるような話も以前耳にしていたので、私としてはキャップも感じていました。会社の経営自体が安定期に入ったので、そう変わったのかと考えることもありましたが、実際のところはよくわかりませんでした。

前に聞いた話というのはMHKがO西さんの息子をクビにしたという話です。息子だけでなく息子の友達も一緒にクビにしたという話であったかもしれません。これも小林健一から聞いたような気がするのですが、だとすると自分の記憶とは一致しないところもあるように思われます。
O西さんの息子は市内配達の仕事をしていましたが、何度か会社の指示で長距離の仕事をやったこともあるようです。これは息子の友達も同じでした。私の知る限りその友達というのは2人いました。一人は前に書いているはずですが、一緒に長野から滋賀県の大津市にリンゴを運んだUです。

Uと別の一人は、名前を忘れていますが、Uとは異なり割とありふれた名前だったと思います。平成4年の秋だったと思うのですが、金沢刑務所の拘置所の廊下で、彼らしい姿の若者を見かけました。無口で暗い感じでしたが独特の雰囲気があったので、本人に間違いない可能性は高いと思います。

O西さんの息子に関しては、山中温泉キャッスルバーデンホテルの慰安会で一緒であったことをはっきり記憶しています。昭和62年の6月ではなかったかと思います。鶴来のHもいたはずかと思います。金沢市場輸送の事務所がまだ西念にあったことははっきりしていますが、もしかすると昭和63年かも。

鶴来のHとは輪島のMYと4人で内灘に海水浴場に行ったこともありました。鶴来の彼の自宅にも一度遊びに行った記憶があります。もう一人は同じく鶴来の若者でHよりは一つか二つ年下だったように思います。名前は忘れましたが割と長い間、金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていました。

鶴来というのは石川郡鶴来町のことですが、ATOK X3 for Linuxのアシストによると現在は白山市になっているようです。Hの上の名前は今も憶えています。元暴走族とも話していたと思いますが、年の方はよく憶えていません。同級生か一つか二つ年下だったとは思います。

鶴来のもう一人ですが、当時はまだ成人前の18歳か19歳の少年だったような気がします。印象的に憶えている場面があるのですが、それは昭和59年と同じ金沢市場輸送の事務所でした。夕方に近い時間、当時市内配達の責任者をしていた高田という人物が、電話をとりました。

鶴来のHではない社員の父親が急死したという連絡を受けたようでした。高田も慌てた様子でしたが、すぐに本人が入ってきました。何の前触れも理もなくいきなり父親が死んだのですぐに家に帰るように高田は言いましたが、余りのストレートさに側にいた方も驚きました。

高田がいなくなったのもそれからしばらくした頃ではなかったかと思います。既に書いたような気もするのですが、行方をくらまし、富山の右翼団体の6人ぐらいが戦闘服のような格好で事務所に来たことがありました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月26日

右翼団体の若者の方が緊張しているようにも見えたのですが、被告訴人MTKがずいぶんと落ち着き払い、なれたような対応をしていたことも印象的でした。MTKと右翼団体の関係は平成3年の8月頃にも被告訴人YSKの口から出てくるのですが、後で忘れないように書く予定です。

既に書いていると思いますが、被告訴人YSNからひさしぶりの連絡があったのは平成3年の4月頃でした。下旬だったと思います。連休に入る直前ぐらいには彼の金沢市場輸送への入社が決まっていたようにも思います。面接には同席したことも憶えています。

他に憶えていることと言えば、金沢の金沢地方裁判所に近い大通り沿いの店にYSNに誘われて入ったことでした。居酒屋だったような気もしますがこじんまりした小料理屋だったような気もします。彼のアパートに向かう途中だったとも思いますが、夜の遅い時間だったと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月27日

被告訴人YSNには確か50万円、の前借りの保証人になりましたが、妻となった彼女から感謝のような言葉は全くありませんでした。それ以前に徹底して顔を見せようとしないという不可解な行動がありました。

YSNは12月の25日頃の誕生日だと話していたと思います。平成3年に生まれた娘もそれに近い誕生日だと話していたように思います。少なくとも平成3年の年内、正月休み前に生まれていたことは間違いないと思います。

なんという病院だったか忘れましたが、金沢市の寺町か平和町辺りにある有名な産婦人科の大きな病院だとYSNは話していました。費用も相場よりかなり割高という話であったと記憶しています。平たく言えばお金持ちがよく利用する病院という話でした。

調べてみましたがこちらの病院かと思います。住所が寺町、聞き覚えのある病院です。→ 鈴木レディスホスピタル http://www.suzukilh.com/index.html

平成4年の正月休みですが、私は一番休みが短い方だったと思います。初めの運行で岐阜の市場に行ったような気がします。実質日帰りに近いような運行だったと思いますが、現在の記憶では細かいことは思い出せません。

まず年明けに市場急配センターの事務所で新年の顔合わせがありました。その後私は、被告訴人HTNと一緒に金沢市諸江のKHさんの家に行きました。HTNは能都町小浦の漁港で水揚げされたという天然ブリを持参し、玄関先の水道で調理をしていました。

本来、小浦の漁港は宇出津の魚市場で水揚げをするのではと思います。近年魚釣りをするようになって、朝方それらしい船が宇出津の港に入るのを見かけていると言うこともありますが、知り合いに分かれてもらったブリだったのかと思われます。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月28日

新年顔合わせの開始時刻は13時か13時半頃ではなかったかと思います。寝坊をしたのかどういう事情があったのか思い出せないのですが、私は一番遅れたようなかたちで2階事務所に入ったことを憶えています。一杯の人が集まっていましたが、ああいう集まりはその時だけでした。

机にお菓子などが並べられていたと思います。まるで高校一年生の時に経験したお別れ会のような雰囲気でした。もっとも耕一の時に経験したのはお別れ会ではなかったと思いますが、生徒が集まって教室でお菓子を食べる雰囲気でした。

お菓子といっても酒のつまみのようなものがほとんどではなかったかと思うのですが、職業運転手の集まりということもあり、その場にビールなどのアルコールはなかったように思います。

後から部屋に入ってきた私は台所などがある奥の方に座っていました。そこで被告訴人MHKが被害者であるAAさんに声を掛け、私のいる方向に皆の注目が集まったということもありました。AAさんに対する気遣いという感じでしたが、わざとらしい演出でもあったと思います。

なにか換気扇のことに関係していたような気もするのですが細かいことは思い出せません。ただ、AAさんの表情が心配事からほっとした安堵の表情に皮って見えたのが印象に残っています。

彼女との関係は平成3年12月21日のネックレスのプレゼントからとてもぎくしゃくしたものになっていました。私は年内に彼女と関係に決着をつけるつもりで年末に年度か彼女の自宅に電話を掛けたのですが、彼女は出ず、翌年に持ち越しという感じになっていたのです。

それと年末の大掃除の時には、会社の2階への階段の入り口のような場所のドアをいつまでも拭いている彼女の姿も印象的でした。私が声を掛けるのを期待し待っているようにもみえたのですが、とにかく自宅の電話には徹底して出ませんでした。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月29日

平成4年の新年顔合わせですが、これは1月4日かあるいは3日であったと思います。私は遅れて出席しましたが挨拶程度の会合で散会も早かったと思います。残っている人も多くいたと思いますが、私は早い段階でその場を離れたと記憶しています。

その場で被告訴人HTNに誘われ、金沢市内諸江のKHさんの自宅へ行ったからです。諸江に家があるということは聞いていましたが、訪問したのは初めてでした。諸江の辺りは移転した石川県庁にも近いので平成4年当時とはずいぶんと様変わりしていることも考えられます。

平成4年当時はまだ県庁の移転の話すら本決まりにはなっていなかったのかもしれません。諸江の辺りは郊外の住宅地らしい感じでした。諸江といっても国道8号線バイパスをはさんで広いと思いますが、KHさんの家はバイパスの向こう側で問屋団地にも近い辺りだったと思います。

一戸建ての新しい家でした。HKさんが金沢市場輸送に来たのは昭和61年の12月頃ではなかったかと記憶しています。これは被告訴人IHKや被告訴人UHKの姿を見るようになったのとほぼ重なる時期です。イワシの運搬を一緒にやったT林も同じ頃でした。

平成1年の1月頃に能都町松波の港で自殺をした珠洲のTSさんも同じ頃で、浜田漁業金沢工場でミールの運搬の仕事が始まった頃でした。TSさんは宇出津の石川県立水産高校を卒業してすぐに金沢市場輸送に入社し、4トン車で長距離の仕事をしていたと聞いています。

水産高校 沿革 http://www.ishikawa-c.ed.jp/~hoksnh/suisan-e.htm の情報によると石川県立水産高校は平成11年か12年頃まで続いたようです。

水産高校には機関科、漁業科、製造科が宇出津の本校にあり、小木分校には無線通信科がありました。製造科の9割以上は女子だと聞いています。漁業科は定員自体も少なかったようにも聞きましたが、退学者を含めると13人程度の人数だと聞いていました。機関科は30人以上はいたようです。

小木分校は40人が定員でした。製造科も似たような人数と退学率だと聞いていました。退学率は漁業科や機関科が高かったようです。漁業科は最も人気がなく、それに学力も最低という話で、自分の名前さえ間違えずに書ければ入試に合格できるという話でした。

なかには専門職を目指した優秀な生徒もいて金沢市などからも来ているとは聞いていました。小木分校には短大相当の専攻科がありましたし、本校にもあるとは聞いていました。

被告訴人YSNは漁業科だったはずです。卒業アルバムを見せてもらったことがありましたが、同じ漁業科のクラスメートとして珠洲のTSさんの姿もあったと思います。YSNは素行もよくなく学業の成績もよくなく、首の皮一枚で奇跡的に卒業したと本人も話していました。

小木分校でも確か謹慎が3回か4回でリーチが掛かり、次に謹慎相当の問題を起こすと退学処分になるというのが相場という話だったと思います。喫煙や飲酒も謹慎になっていました。YSNはこの謹慎の回数もリーチになっていたと話してきたように思います。

水産高校を卒業したYSNはそのまま金沢の中央市場にあるウロコ水産に入社したと聞きます。中央市場は鮮魚と青果に大別できますが、青果の釣り場は石川丸果だけでした。鮮魚の売り場は、石川魚市とウロコ水産の2つがありました。

なにか親のこねのようなものもあったらしくYSNはウロコ水産という大きく安定した会社に就職できたようですが、仕事そっちのけで遊び回って半年ぐらいで辞めたと聞きました。なお、ウロコ運送という鮮魚を運ぶ運送会社もありましたが、ウロコ水産とは別物と聞いていました。

ウロコ運送は九州の福岡市長浜の魚市場から鮮魚を運ぶ定期便をやっていて、金沢市場輸送と一日交替で10トン車を一台だしていました。行き荷はトナミ運送の雑貨で、富山中央店と砺波店から荷物を積み、おろし先は北九州市と福岡市の西武運輸でした。

福岡の魚市場にはウロコ運送の駐在員のような人がいました。STという人で金沢大学を卒業したとも聞きました。魚市場の近くのマンションに住んでいて、運転手の休憩所にもなっていたようです。私はよくそこに行っていました。金沢市場輸送の運転手で利用する人は多くない感じでした。

定期便では金沢行きの鮮魚を積んでいましたが新潟中継の荷物もあったので、夜の20時か21時には金沢に着いていました。中央市場の鮮魚の売り場が混み出すのも23時ぐらいからで、それより少し早い時間に荷物を全部おろし終わることが多かったと思います。

東北便だと早い時間で金沢の売り場に入るのが23時過ぎでした。荷物の少ない時期だと0時過ぎに仕事が終わることもあったと思います。遅い時間になるほど混雑と待ち時間も長くなるので、荷物が多い時期は4時過ぎになることもあったかと思います。

東北便ではおでんや笹かまなどの練り製品などで中央市場の外の食品会社におろしにゆく荷物も多かったですが、平均すれば深夜2時頃に仕事が終わることが多かったように思います。

福岡からの荷物をおろし終えないうちに自社の東北便のトラックを見ると終わりまで手伝うのが普通でした。少なくとも自分はそのようにしていました。東北便も自社便が2台というのが普通で多いときは4台ということもあったと思いますが、そうなると1台は傭車も含まれていたかと思います。

一緒になって荷物をおろし終わると近くの食堂で食事をするのが恒例でした。ビールなどアルコールも飲んでいました。けっこう長い時間、会社や仕事の話をするのもお決まりでした。普段一人で乗務していることが多く荷下ろしを終えた開放感もあってか、話も弾みました。

福岡の魚市場では定期便以外のフリーで鮮魚を積むために入ることもありました。ほとんどが泊まりだったと思います。大阪や東京行きの仕事が多かったように思います。ウロコ運送の社長の息子がしばらくいた時期もありました。

STさんなども金沢市場輸送の運転手のことはよく知っていたと思いますが、仕事ぶりのよくない運転手というのもいるような話もちらほらとは耳にしていました。不平や不満があったり扱いづらいということもあるような話しぶりだったと思います。

被告訴人HTNと招かれたKHさんの家ではHTMと私、それともう一人いたような気もするのですが3人だけでした。当時も少し変には思っていたのですが、今考えるとなおさらおかしな気もしないことはないです。

夕方暗くなってからではなかったかと思いますが、被告訴人MHK社長とカベヤの二人が来ましたが、長い時間はいなかったと思います。私も19時頃にはおいとまをしたように思います。一度会社に戻ってトラックの中で仮眠をしてから岐阜にむかったような憶えがあります。

カベヤというのはMHK社長といつも一緒にいた人物です。年も同じぐらいに見えたし、幼馴染みのような旧知の間柄にも見えました。人の話では内装工事か左官の小さな会社をやっているという話だったと思います。能登でそういう話を聞いたことはなかったですが左官のことをカベヤと呼ぶとか。

呉服屋の若旦那のようでもあり、いつも手元に小さな鞄をぶら下げて集金に回っているようにも見えた印象があります。MHK社長も会社にいないことが多かったですが、二人で戻ってくる姿を見ることも多かったです。個人的な付き合いとは思っていましたが、新年会にまで出席していました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月30日

先にS藤について書いておきたいと思います。割と最近まで思い出すこともなく、重要度も低いかと考えていたのですが、最近になって繰り返し思いだし考えるようになって問題の認識も変わってきました。

S藤ですが、私が最初に金沢市場輸送で見かけるようになったのは平成1年の9月頃ではないかと思います。イワシの運搬のM浦さんの愛人の息子が紹介で金沢市場輸送に入ったという噂話を耳にするようになったのと同じ頃だったような記憶になっています。

同じ頃に金沢市場輸送の運転手のY田さんの娘の彼氏というか婚約者が4トン車の持ち込みで金沢市場輸送の長距離の仕事をするようになったという話もあったと記憶しています。N口という若者でした。4トン車は日野の新車のトラックでした。保冷車でしたが冷凍機がついていたかは憶えていません。

このN口の方は噂話を耳にして早い段階で実際に姿を見ていましたが、M浦さんの愛人の息子というのは長い間顔を見る機会もなかったという記憶です。それは被告訴人YSKのことだったのですが、私は長い間、別の人物と取り違い勘違いしていたような憶えもあります。

被告訴人YSKは大柄で身長も180センチとかそれ以上あると聞いていたのでかなり目立つ存在でもあったはずです。しかしながら私が実際にYSKを会社で見かけるようになったのは、噂を聞いてからだいぶん後のことであったような気もするのです。

特に印象に残っているのは平成2年の2月か3月頃ではなかったかと思うのですが、金沢市場輸送の駐車場に雪が積もった寒い朝のことでした。YSKが2トン車を雪でスリップさせていたので、運転をかわって動けなくなっていたトラックを出してあげたことがありました。

その時に初めて見た顔ではなかったという記憶ですが、言葉を交わし接触したのはこれが初めてに近かったような気もします。それ以前にも、ちょっとは言葉を交わしたことがあったような気もするのですが、現在ではこまかく思い出せなくなっています。

平成1年の秋頃のS藤との関係も似たようなもので軽く言葉を交わす機会はあったと思うのですが、余り意識することもなく、細かいことも記憶に残っていません。ただ早い段階で、前に暴力団に入っていたヤクザ者だったとか、入れ墨を入れているという話は耳にしていた記憶があります。

そういえばS藤とは平成1年の秋頃の段階でバイクのことで話をしていたようなことを思い出しました。彼が400CCぐらいの中型バイクに乗って会社に来ていたことがきっかけだったような気がします。

私自身、同じ頃だったと思うのですが、ホンダのNSR250かスズキのガンマという2サイクルのレースマシンのような市販のバイクがむしょうに欲しくなり、自動二輪免許の再取得を真剣に考えた時期があったのですが、妻の反対と事情で断念したということがありました。

初めにあった頃のS藤は前髪を前に垂らした普通の髪型でしたが、あるいは少し茶髪にしていたかもしれません。顔つき自体が悪っぽい感じではありましたが、話し方などおとなしい落ち着いた感じでもありました。名古屋方面の話し方で、そちらから来たという話もしていたような憶えもあります。

入れ墨を見せてもらう機会もありましたが、まるでキャベツのような落書きであれほどひどいのは他に見た記憶がないほどです。素人彫りの入れ墨というのも見てはいたのですが、まるでキャベツにしか思えないもので、色合いもおかしい感じの入れ墨でした。

何時頃、どこで見たのかも記憶にはないのですが、一緒に銭湯に行ったという記憶もなく、上着を羽織らず半袖か長袖のシャツ一枚で過ごせる時期に、シャツを脱ぐではなく、引っ張って広げた状態で見せてもらったような気がします。キャベツみたいだったので強く印象に残っています。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月31日

髪型を変えたS藤に金沢港で会ったことはすでに書いていると思います。それも被告訴人OKN絡みの問題でした。問題の当事者はS藤ではなくS田でした。彼は単なる付き添いだったと思いますが、パンチパーマの髪型はまるで借金の取り立てに来たチンピラヤクザという印象でした。

S田と被告訴人OKNとの間のトラブルは、その時に初めて聞いたのではなく、少し前に被告訴人OKNの方から愚痴のような感じで聞いていたように思います。車の売買を巡るトラブルだったとも知っていたように思いますが、余り具体的な話という印象は受けなかったと記憶しています。

その時点でS藤を連れたS田はトヨタのレビンかトレノという小型のスポーツタイプの車に乗ってきていました。デザインのわずかな違いで名前が違うというタイプの車だったと思います。マーク2とチェイサー、クレスタという感じで昔は多かったと思いますが、最近はほとんど聞かない感じです。

色は白だったと思います。その車に3人で乗って、金沢港の八幡のすし弁の近くにあるコンビニのような酒屋の前を通ったことを記憶しています。自販機も多くある店で、よく利用していた店でもありました。金沢ではコンビニがさほど普及していなかった頃だったとも思います。

髪型も変わっていましたが、かなり久しぶりに会ったという印象も強く、すでに忘れかけていていたような印象も残っています。

色々と当時のことを思い返してみたのですが平成1年はO西さんと一緒にやっていたイワシの運搬の仕事が2月いっぱいか3月に終わってから、私は長距離の仕事には戻らず、元々、小林健一が10トン平ボディでやっていたローカルの仕事をしようとしていたと思います。

その10トン平ボディのトラックは日通カラーになっていました。もともとは日通の仕事を専属でやるために作ったトラックだったと思いますが、私が初めに入社した昭和59年当時にあった新車で同じものが2台あって、原田さんと棟方さんという人が乗務していたと思います。

小坂さんという人も同じく10トン平ボディに乗務していたと思いますがその頃は日通カラーではないものに乗務していたように思います。あるいは型の古いイスズの10トン平ボディだったかと思います。この古いイスズの平ボディは私が大型免許を取って間もない頃ミールを運んだりしていました。

昭和61年の8月に入社した頃には棟方さんはやめていなくなっていたように思います。原田さんは私が中西水産輸送にいるときに金沢市場輸送をやめて移ってきました。ツーマンだったように思いますが、売上トップで表彰のようなものを受けていた様子も一つの場面として憶えています。

私の紹介というかたちで中西水産輸送で運転手をするようになり、その後配車係となって、昭和63年の12月頃には私の紹介というかたちで金沢市場輸送に移って配車の仕事をするようになったYTに聞いた話によると、原田さんは別の運送会社に移った後であったように憶えているのですが。

群馬県の高崎市付近の国道17号線で事故を起こし死亡したといいます。これと似たような話は平成15年頃か、被告訴人YSNの口からも聞きました。事故を起こした場所が群馬県の同じ辺りという話でしたが、死亡したという人は、市場急配センターで運転手をしていた大倉という人でした。

社員ではなく4トン車の持ち込み運転手というかたちだったと思います。平成3年の9月の初め、被害者AAさんが大倉さんのトラックに軽四をぶつけられたことがきっかけで、フィルム貼りの手伝いがあり、私とAAさんは急接近することになりました。8月中には意識する感じにはなっていました。

大倉さんもカベヤと同様に被告訴人MHK社長の友達という感じでした。風貌がゴリラーマンという人気漫画の主人公によく似ていると個人的に思っていたのですが、一目置かれるような存在でもあったのか、冗談でもそんなことを口にする人は私の知る範囲いませんでした。

ぱっと見た感じはいかつい顔立ちだったようにも思いますが、話し方や物腰はやわらかかったので、大人しい人とは思っていましたが、交友関係も広そうな感じでした。もとは社長として商売をしていたという話も、あるいは耳にしていたかもしれません。

大倉さんについて書き出して思い出したのですが、平成4年1月の片山津温泉せきや、での新年会のこと。大倉さんが被告訴人TTKら若い社員2,3人だったかを連れて、ソープランドをおごり、戻ってから麻雀で大負けしたような話があったように思います。あるいは20万円程度の負けだったかも。

金沢市場輸送の大きな特徴の一つに夕方17時頃から、毎日のように麻雀荘のようになっていたということがあります。私自身麻雀はおぼえなかったし、しませんでした。二口町に事務所が移転してからのことでしたが、市内配達の社員がいる頃は、そうでもなかったような気もしなくはないです。

中西水産輸送から来たYTもよく麻雀をしていましたが、彼は金沢市場輸送に来てから麻雀のルールをおぼえたと話していたように思います。連日のお決まり行事のようになったのは被告訴人東渡好信が来てからだったかもしれません。彼も常連メンバーの一人でした。

なかには余り見かけない市場急配センターの社員のような人もいましたし、会社とは無関係の人も交じっていたと思います。ゼンゴとか呼ばれた人物は、麻雀で見かけるようになった後に、しばらくイワシ関係の仕事をしていたように思いますが、細かいことは忘れてしまいました。

特に印象に残っているのは小木の元漁師という恰幅のよい人物でした。顔もなんとなく覚えていますが、体型が特徴的でした。マッチョという言葉がありましたが最近は余り聞かなくなっています。ボディビルダーのような体型ですが、それと相撲取りのような肥満型を合わせて割ったような体型。

金沢市場輸送に来た当初から傍若無人な振る舞いをしていた被告訴人東渡好信を小僧扱いでいびるような場面もありました。その割に他の人たちには配慮というか気を遣っているようにも見えました。確かに話し方も小木の人らしい感じでした。

私が生まれ育った宇出津と小木は距離にして10キロ弱で現在は同じ能登町でもありますが、話し言葉や発音にはかなりの違いがありました。他の金沢の人などには区別もつかないかもしれないですが、特有のものが数多くありました。

なかには遠洋漁業の漁師特有の言葉というのもあったように思います。たとえば妻や彼女のことを「じゃーま」と呼びますが、宇出津でも小木の漁師の経験者でもほとんど使う人はいないと思います。前にネットで調べたところ富山の方でも使うようです。

小木の漁師は、北海道の女性と結婚することが多く、母親が北海道の子供が多いとも聞いていました。人見知りをしない開放的な雰囲気というのも小木の方が現在でも強いような気もします。町の雰囲気も昔ほど違いが強かったですが、話し言葉も金沢の方に近くなり、聞かなくなった方言も多いです。

最近では減りましたが私は魚釣りで小木に行くことが多いです。宇出津より魚も釣れるし水深や風向きでも釣りがしやすいからです。特に大きいアジを狙えます。したがって今でも小木の人の話し方を耳にすることはありますが、年配者でも以前ほど、際だった特徴は薄れていると思います。

私が石川県立小木分校に入学した昭和55年頃は、クラスメイトとなった小木の女子が、「ゲッサァー」などと連発しているのに驚いたものでしたが、まったく耳にすることがなくなった言葉です。そういう言葉よりアクセントや方言の使い方に特徴が強かったと記憶しています。

金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKは最も常連の麻雀のメンバーでした。17時を心待ちにして麻雀を始める姿など見ていたので人一倍麻雀が好きなのだとは思っていましたが、彼の場合、配車係として配車の仕事を仕切るという意味合いでも会社にいる時間が長かったので仕事と一体化していました。

被告訴人MTKについては富山で飲み屋を数店舗経営していたことや静岡でサラ金をやっていたことなど、昨年中にいろいろ書いておいたことがあると思います。彼自身が語った経歴をあわせても、天才詐欺師のような雰囲気を身にまとっていました。

昭和59年の時点で金沢市場輸送で最古参の運転手だと聞いていましたが、それでも入社して7年か8年目という話であったとはっきり記憶しいています。それだけ人の出入りも多かったということになりそうですが、免許の停止や取り消しなど点数を失うリスクも多かったはずかと思います。

何時の時点であったかはっきり思い出せないですが、被告訴人MTKは50歳になったと話していました。まだ金沢市場輸送の社長になる前ではあったと思います。そのいくらか前だったと思いますが、運転手の武田さんから被告訴人TSKが還暦を迎えた赤いチャンチャンコを送るという話を聞きました。

当時の私は還暦という言葉の意味もわかっておらず60歳になった祝いということを初めて知ったようにも憶えています。それより辛口の評価が多かった武田さんが、TSKに贈り物をするという話をした方が、意外にも感じられました。

昔のことをいろいろ考えているうちに、マルモ整備のことを思い出しました。社長という人は当時50代だったと思いますが、柳田村の出身と話していました。現在は宇出津と同じ能登町ですが、以前は石川県鳳至郡柳田村でした。これも数年間長い間、すっかり忘れていたみたいです。

昭和59年の時は、武田さんは10トン車ではなく6トン車に乗務していたように思います。6トン車は2台いてもう一台に乗務していたのが越田さんでした。越田さんは10トン車に乗ることなくずっと6トン車に乗務していたと思いますが6トン車がなくなってからは4トン車に乗っていたかもしれません。

平成2年秋頃には金沢市場輸送にいたと思うのですが、もともと無口で存在感が薄い人でもあったので、いつのまにか辞めていなくなっていたのかもしれません。かなり地味な感じでしたが、話しかけると割と明るく受け答えしていたような印象もあります。

たまに会社に来ていた被告訴人TSK会長とは、ちょくちょく将棋をさすのを見かけていました。会社で将棋をするような人は他にいなかったと思います。ちょっと不思議な存在でもありましたが、6トン車は仕事内容も異なることが多い感じでした。

武田さんは昭和61年の8月に私が再度入社した時点では、10トン車に乗務していたと思います。保冷車なので他の運転手と同じく鮮魚の仕事が多いぐらいでした。野菜でも冷凍機をつけていないと積ませてもらえないとことになったのは昭和63年ぐらいからだと思います。

武田さんは被告訴人MTKよりいくぶん年が若かったと思いますが、いくぶん老けて見えたかもしれません。運転手というより技術者という雰囲気もあったように思いますが、本人も昔は電気工事の仕事をしていたようなことを話していたかもしれません。

武田さんとは仕事でよく一緒になりましたし、いろいろと話もしました。かなりの倹約家でもあり食堂に入って食事をするようなタイプでもなく、これも他の運転手とは異彩を感じさせるところでした。地味にも見えたのですが、連れ添いの年上の女性は派手でした。

水商売の女性のように見えましたが、とにかく衣装も化粧も際だって派手でした。独自の他には見ない服装で、いったいどこに売っているのかと不思議に思ったことも憶えています。戦後の一昔前の雰囲気を濃厚に持つ年配の女性でした。

はっきり聞いたのか、それも今となっては正確に思い出せませんが、正式な夫婦ではなく内縁関係にあるような感じでした。たまに長距離の仕事に同行していました。長崎県の長与農協で一緒になったことも憶えていますが、近所のスーパーに一緒に弁当を買いに行き、トラックで食べたと思います。

コンビニで買った弁当をトラックで食べるということはよくあったと思いますが、仕事先でスーパーに入って弁当や惣菜を買うという発想も経験もほとんどなかったと記憶しています。深夜の時間帯など近くに食べるところがなければ、コンビニの弁当で済ませるという感覚でした。

普段は倹約をしているけど、たまには連れ合いの人と、一人一匹の蟹を買ってきて贅沢に食べるとも話していましたが、長距離の仕事中の食事は、ずいぶんと切り詰めていたようです。今考えると一般の感覚ではそれが普通なのかもしれないですが、当時はずいぶんと変わって見えました。

その倹約ぶりというのは当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKの夫人にも通じるところがありました。吝嗇というのか徹底した倹約ぶりと聞いていましたが、その話の大半も武田さんに寄るところが多かったとも思います。

武田さんは金沢市内の寺町に住んでいるとも聞いていました。持ち家かアパートなどかとまでは聞いていなかったように思います。寺町は金沢の中心部にも近く、神社仏閣の観光地というイメージもあります。

チャンチャンコを贈ると言ったこともありますが、TSK夫妻とは特別な間柄なのかもしれないと考えることもありました。実際、会社のスパイではないかと言葉を漏らすような運転手もいたような憶えもあります。

TSK夫妻の家が金沢市の野町、それも石坂(いっさか)にあるということはしばしば聞いていました。地理的にも寺町に近いはずですが、昔の遊郭とか伝統のある場所とは聞いていました。近年では金沢の三大茶屋街の一つ西の茶屋街として知名度も上がり、観光地のようにもなっているようです。

TSKの夫人も以前は片町でスナックのような小さな飲み屋をやっていると聞いていました。昭和59年頃に聞いていた話では、暗い感じの店で、二度と行きたくないような店だという運転手もいました。若くない女の人が他に一人か二人いるような話でもあったと記憶しています。

TSKの夫人自体が、当時は地味で暗い印象でした。顔立ちなどはもともと美人だったという気もしますが、とにかく会社ではメガネを掛けて、机に向かってのみソロバンをはじいているという感じで、他の人と話をしたり周囲を見渡す様子も見た憶えがありません。

前にも書いていると思いますが、片町というのは金沢で一番、おそらく北陸3県でも一番の飲み屋の集中した繁華街です。そこで飲み屋をやっているとなると、華やかな印象も抱きがちですが、無愛想でギスギスした印象しか、当時は残っていません。

一つには金沢市場輸送の経営自体が、相当深刻に厳しい状態であったということが考えられますし、実際にそのような話を聞いていました。北浜太一さんの弟のように、給料日に給料がもらえるだけましという人もいました。

風向きが変わったのは金沢市場輸送だけでなく、日本社会自体が世に言うバブル景気に突入したというのが、何よりも大きな要因だったと思います。やり手の被告訴人MTKが配車係になったというのも金沢市場輸送としては大きかったというのも否定できない要因かと思います。

既に書いていることと思いますが、金沢市場輸送の事務所が西念町のテナントから二口町の新築事務所に移転したのが、昭和63年の7月だったと記憶しています。それと同時に、TSK夫人は片町の飲み屋の仕事をやめ、金沢市場輸送の会社の仕事にのみ専念することになったとも聞きました。

その頃よりTSK夫人の性格も別人のように明るく変わっていったという印象が残っていますが、とりわけ私に対しては、どうかと思うぐらい好意的に感じることがありました。長い間の苦境から脱したという安堵感と、業績を改善してくれたという感謝の気持ちが強かったようにも思われます。

近年になってより強く思うようになったことですが、そういう夫人の私に対する感情と評価はAAさんにも影響を与えたことだと思います。実際、平成3年の終わりか平成4年になった頃からは、輪島のHさんや被告訴人HTNが、TSK夫妻が私を養子にして会社を任せるつもりだとも言い出しました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月01日

S藤のことですが平成1年の12月にS田とともに金沢港で会って以来、ほとんど顔をあわす機会はなかったように思います。特に意識する相手でもなかったということもありますが、仕事内容も異なるので会う機会が少なかったということもあります。

大きな変化は市場急配センターの事務所が中央市場の裏側の側に出来て、運転手がまるごとそちらに移転したということでした。関係が続いたと言えば、市場急配センターのトラックが金沢市場輸送に給油に来ていたと言うことでしょうか。給油機の鍵は別になっていたと思います。