告訴状2013(作成途中)_09

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:05:42

この給油は市内配達の2トン車や4トン車だけではなく10トンの大型車も同じでした。私自身、平成3年の11月か12月頃までは、金沢市場輸送の事務所に給油に行っていました。金沢市場輸送で給油した方が安上がりだという話でしたが、特に優先するようにしろという指示はなかったと思います。

というのも大型車の仕事の多くは長距離の仕事であり、県外で給油することが多かったからです。関東への運行であれば満タンのまま行き帰りが出来たので、県外での給油が不可欠というわけでもなかったのですが、給油のカードを持っていました。

もともと金沢市場輸送では昭和59年当時から一光のカードを使っていたのですが、途中から太陽鉱油のカードを使うようになったと記憶しています。金沢市場輸送の事務所と一緒に給油機が出来てから太陽鉱油を使うようになったような気もするのですが、はっきりしたことは憶えていません。

一光の場合だと8号線バイパス沿いにカードの使える給油所がありました。Googleマップで確認すると住所は磯部町になるのではと思います。金沢市民球場の近くです。当時は周りに何もないところでしたが、8号線バイパス自体がだいぶん前からにぎやかになってずいぶんと様変わりしています。

この一光の給油所だとどこへ行くにしてもさほど不便は感じませんでした。西念町に事務所があったころは高圧洗浄機もなかったので戦車にもよく利用していたはずです。特に魚を積む保冷車の場合、トラックの洗車自体より、他の荷物を積むための荷台の洗浄がけっこう重要でした。
一方、太陽鉱油の場合は金沢市内にカードの使える給油所がなく、国道8号線沿いではありましたが、河北郡津幡町まで行く必要がありました。富山方面ですが、金沢東インターを離れるとすぐに、国道8号線と高速道路である北陸道は、別の方向に枝分かれしていました。

ちなみに北陸道と国道8号線は富山県内でもほとんど交わることがなく離れた別のルートになっていました。逆方向の金沢西インターも福井方面の国道8号線とは、県境近くの加賀インターまで、かなり離れたルートになっていました。

高速と一般道が大きく外れていたと言うこともあり、通過点として津幡の給油所を利用することは少なく、能都方面の七尾市に向かうときは、さほど遠回りでもないということで、寄って給油することはあったかと思います。後で説明しますが市場急配センターでは七尾市からの積み荷が多かったです。

私の場合、運行の通り道ではなく給油のために津幡まで給油に行くことが多かったのですが、荷下ろしが終わった夜中に行ってそのままトラックで寝ることもけっこうあったと思います。アパートに帰って冷たい布団にはいるよりましということもあり、入浴をすることも出来ました。
長距離の大型トラックが利用するガソリンスタンドでは入浴設備のあることが少なくなかったです。有料というのは経験がないです。それに店員に頼むと、頼んだ時間に起こしに来てくれるので、寝過ごしの心配もなかったです。

自分の場合、平成3年の11月から平成4年の1月の間は、和歌山県のかつらぎ農協からミカンを摘んでくる仕事が多かったです。他の運転手が嫌がる仕事だったので、回ってくる割合が多かったですが、これは茨城県古河市の山三青果の仕事も同じでした。

古河の市場や山三青果についてはこれまでにも説明は書いていると思いますが、市場急配センターのメインの仕事で、この仕事のために長距離を始めたという感じでした。もとは金沢市場輸送でやっていましたが、これもイワシの仕事と同じく、市場急配センターの仕事を金沢市場輸送にやらせるかたち。

金沢市場輸送で山三青果の仕事を始めた頃は、行き荷もセットになってスタートしていました。一つはトナミ運輸の仕事で栃木県の宇都宮市への定期便でした。宇都宮市でも市内の外れか、あるいは住所自体が宇都宮市に隣接した別の市町村だったかもしれません。

もう一つは日通の仕事で金沢の高柳店から埼玉県の岩槻市と千葉県の千葉市の2カ所おろしという定期便でした。日通というのは日本通運のことですが、当時日本一の運送会社とも言われながら、組織や業務形態としてややこしいところがあって理解しがたい会社でもありました。

金沢市では増泉と高柳の日通が大きかったと思います。他にもあったと思いますが、私が仕事に行ったのもこの二つぐらいではなかったかと思います。どちらも支店になっていたように思うのですが、高柳の方は違っていたかもしれません。

金沢市の高柳と行ってもわからない人が多いと思いますが、金沢駅と東金沢駅の間にあって貨物ターミナルとしての物流の拠点という感じにもなっていました。線路の上に乙丸陸橋があって、市内の方に向かっておりた右側が浅野本町、少し行くと金沢東警察署もありました。

乙丸陸橋の反対側はしばらく走ると国道8号線バイパスにぶつかり、そこが田中の交差点とも呼ばれる交通の要所になっていました。右に少し行くと北陸道の東インターがあり、バイパスを突っ切って直進してしばらく行くと、右側に佐川急便の大きな建物がありました。木越という辺りです。

東インターを超えるとすぐ右側にはトラックステーションがありました。ここを左折するとこれも木越の方に行きますが、河北郡宇ノ気に至る農面道路と呼ばれる主要道路でした。木越の辺りは瑞樹団地なども出来てかなり様変わりしていると思います。

宇ノ気は能登路の玄関口のような歴史もあるそうです。現在は高松町と同じくかほく市になっているのかと思います。宇ノ気で国道159号線にぶつかりますが、能登方面に少し走ると、白尾インターから能登有料道路にのることが出来ました。昨年の4月あたりに無料化され、名称も変わっています。

金沢市内から能登方面に向かうにはこの白尾インターを使うことが多かったと思います。白尾インターの先には内灘料金所がありましたが、時間的にも違いは余りなかったように思います。内灘町も河北郡でしたが、隣接する粟崎は金沢市内だったと思います。

農面道路には少し離れた道沿いに金沢競馬場がありました。周囲は田んぼが多かったと思いますが、しばらく走ると右手に浜田漁業金沢工場がありました。金沢港からイワシの運搬をするときは、競馬場のあたりから入って東蚊爪のあたりを通過していました。

東蚊爪は石川県内では知られた場所だと思います。というのも運転免許センターがあったからです。昭和58年の時点では金沢市観音堂の方に免許センターがありましたが、昭和59年か60年あたりに移転していると思います。

私自身、平成21年の1月以来、もう5年ほど金沢市には一度も行っていないと思います。羽咋市から戻ったのがその年の3月の15日のことでしたので、それ以来、羽咋市より南の方にも行っていません。羽咋市は能登にはなるはずですが、石川県に住む感覚としても能登という感じよりは金沢に近いです。

金沢市内で生活をしていたのは平成11年の8月まででした、羽咋市には平成15年の11月の下旬から生活するようになり、金沢市内にはちょくちょく買い物にも行っていましたが、全体的に道も店も増えて、ずいぶんと様変わりしていました。ここでも時間が止まっているようなものです。

とにかく農面道路や競馬場、東蚊爪の周辺も以前は田んぼが多かったです。平成15年を過ぎてから感じたことの一つは、東蚊爪のあたりも工場や会社が増えていたということでした。被告訴人HTNの会社事務所を発見したのも、ほとんど偶然に目についたのがきっかけではなかったかと思います。

社名の方は平成11年の時点で知っていたはずです。運転免許センターの近くですが、用事や買い物で通るあたりではなかったと思います。たまたま気が向いて、車を走らせてみたというのがきっかけだったかもしれません。

反対方向にはなりますが同じく東蚊爪の運転免許センターの近くにあった北陸ハイミールの建物は、気になって目的意識を持って見に行ったことがあったと思います。廃棄物の処理場のようになっていて、昔の面影はほとんど残ってはいないという印象でした。

北陸ハイミールの工場の近くには河北潟が広がっていましたが、どうろから河北潟が見えることはほとんどなかったように思います。浜田漁業金沢工場も少し離れたところに河北潟がありました。浜田漁業金沢工場の前を通過して宇ノ気に行く道とは別に、手前から左折して宇ノ気に行く道がありました。

左折して少し行くと割と大きな橋があり、これが河北潟にかかっていたと思います。この土手のようなあたりで一度、被告訴人OKNに誘われて行き、ゴルフの練習をしたことがありました。平成3年12月22日のことであったと思います。

当日は金沢市場輸送の事務所の近くにあるパチンコオーロラのとなりぐらいにあった花屋に行き、そこで被害者AAさんの自宅に赤いバラの花を10本クリスマスの夜に届けてもらうように注文しました。

初めに行ったのが8号線バイパス沿いの県立中央病院にちかいあたりにある喫茶店のようなレストランだったと思いますが、今考えると、どこで待ち合わせをしたのかと考えてしましました。もともとの習慣として場所を決めて待ち合わせをするということは余りなかったと思います。
被告訴人OKNはその平成3年の4月頃に、それまで住んでいた金沢市無量寺のアパートから、金沢市大場町東の一軒家に引っ越していました。その時も、まず初めに大場町東の家を私が訪ねたように思います。

書いているうちに思い出したのですが、この時も私はどこかの店でショートケーキを買い、それを手土産に持参して大場町東の被告訴人OKNの家に行ったと思います。

大場町東も地理的に金沢競馬場に近い場所でしたが、OKNが引っ越しするまでは車で通るような場所でもなく、こんなところがあったのかという感じの住宅地でした。住宅地といっても古い感じの町で昔からの農家が多いという雰囲気も感じたように思います。

なんとなく記憶に残っている程度ですが、農面道路沿いのように田んぼではなく、大場町東のあたりは畑が多かったような気もします。はっきり憶えていることは、被告訴人OKN自身が、競馬場の話をし、近所には競馬場の関係者が多く住んでいると話していたことです。

記憶に自信がないですがなんとなく思い出したことがあり、その平成3年のいくらか前に、競馬場の関係者が絡んだ殺人事件があり、新聞で大きく報じられていたように思います。OKN自身も、その事件に関連して何か話をしていたような気もするのですが、直接関係のある話としては聞いていなかったです。

被告訴人OKN自身が競馬に行ったとか競馬をしているという話は聞いたことがなかったです。後年を含め仕事の時間つぶしにパチンコ屋に入ることはあると話していましたが、ギャンブルにのめり込んだという話を聞いたことがなく、父親の失敗を見て育っているので兄同様に可能性は少ないと見ていました。

イワシの運搬だけでなくミールの仕事でも、浜田漁業金沢工場に行くときは金沢競馬場の側を通っていたので、なんとなく身近に感じていたと思いますが、私自身、競馬には縁も興味もなかったです。

初めに競馬場に入ったのは、一緒にイワシの運搬をしていたO西さんの付き合いだったかもしれません。既に書いていると思いますが、このイワシの運搬は昭和63年の12月から翌平成1年2月一杯か3月の初めぐらいまでの時期です。このイワシの仕事が終わると、会うこと自体なくなっていったはず。

次の年のイワシの時期はO西さんの姿はありませんでした。同じようにイワシの仕事を一緒にやりながら行動を共にすることが多くなったのが、これも既に書いているはずですが、T林です。彼は金沢競馬場とも強い縁を持つ人物でした。

競馬にのめり込んだ時期があるという過去形の話であったと思います。きっぱり縁を切っていると思ったし、疑うことも全くなかったです。彼とはパチンコ屋に一緒に行くことはあったと思いますが、さめた感じでやっているという印象でした。

ギャンブルとしての競馬にのめり込んだのか、それより馬が好きだったのか、当時の会話はごく断片しか記憶していないのでわかりようもないですが、一番印象に残っているのは、彼の母親が競馬場で働いているとか、働いていたという話でした。

日付が変わっていることを忘れていました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月02日

軽視できないのは被告訴人MHKが来てすぐに、T林がMHKの過去を語り出したということです。T林だけの話ではなかったのかもしれませんが、瞬く間に社内の誰もが知っているような周知の事実のようになっていたという印象が強く残っています。

T林の話によると被告訴人MHKは競馬にのめり込んで会社の金を横領し、クビになったということでした。刑事事件になったとまでは聞いていなかったような気もしますし、私の方からも突っ込んで話を聞くようなこともなかったと思います。

既に書いていると思いますが、被告訴人MHKの姿を最初に二口町の金沢市場輸送の事務所で見たのは、昭和63年の8月の終わりか9月の初め頃でした。その後、初めの頃はちょこちょこと顔を見ていたように思いますが、しばらくするとほとんど顔を見ることがなくなったという印象も残っています。

いずれにせよ金沢市場輸送の事務所にいることは少なかったですし、机や椅子に何かをしているという姿も見た憶えがありません。席自体がなかったのではと思います。顔を合わせて早い段階から車のセールスを持ちかけてきて、少し話をするとすぐに試乗車まで持ってきたことを憶えています。

新型になったカローラだったような気がします。カローラにはカムリという兄弟のような車種もありましたが、テレビのCMでも全く見かけなくなって久しいです。トヨタカローラという呼び方もあったと思いますが、小型の大衆車の代表格ではなかったかと思います。

しばらくすると態度が急変したように全く車のセールスの話をしてこなくなりましたが、私の妻のサラ金の借金のことで難があるとわかったことで態度を変えたという感じでしたが、それがかなり露骨な印象として残っており、むしろ演出というか演技ではなかったのかと考えることもありました。

市内配達の現場は会社ではなく、中央市場内の売り場ということは、市内配達の仕事をしていた経験もあるので人一倍理解はしていたつもりでしたが、それにしても物を書く仕事もあるだろうに、机もなしにどこでやっているものかと、不思議に思うことはありました。それだけ姿を見る機会が少なかった。

市場急配センターの新しい事務所では大きな社長の机がありましたが、そこに座っている姿というのも目にする機会は少なかったです。いつも空いているので、私などはその席に座ることも多かったです。机は大きいだけでなく、色々とおいてある物も多かったという印象はあります。
もともと被告訴人MHKは営業が得意という感じの強い人物でした。横領でクビになったという会社も石川トヨタでした。T林も同じ石川トヨタの社員だったと話していました。T林の話しぶりから察すると部署は違い、直属の上司ではないような感じでしたが、よく知っていると噛みしめてに話す感じでした。

石川トヨタといえば中古車を含め車の販売業界を代表するような会社であったと思います。金沢市内に大きな会社の建物もありました。増泉にも近かったと記憶しています。クラウンも取り扱い車種だったはず。

トヨタのクラウンという車種は現在でもテレビCMで見かけていますが、トヨタの国産車として代表的な高級車という位置づけでした。さらに上位にはセンチュリーという車もありましたが、日産のプレジデントと同様、一般とは異なる特別な車種だったと思います。

日産のプレジデントの方はさほどでもなかったかもしれません。かなり古い感じという印象も残っていますが、中西運輸商の社長の車もプレジデントでした。中西水産輸送と中西運輸商の違いは、昨年中に本書においても説明済みかと思います。

ついでに書いておきますが、被告訴人TSKは中西水産輸送の窮地を救ってやった恩人だと、自慢話をしていましたが、やけに熱の入った語り口でもありました。金額など具体的なことまでは話していなかったように思います。

私は中西水産輸送の社長本人の口から被告訴人TSkのことに触れる姿も目の前で見たことがありました。TSkか・・・と、しみじみ懐かしむと同時に呆れたように口にしただけで、それ以上のことは口にしませんでした。憎めいないやつというようなニュアンスと感謝の念のようなものもあるようには。

中西水産輸送の社長は、一言で言えば猛烈でめちゃくちゃな人物でした。昭和の時代の遺産というか現在ではあり得ないタイプの社長かもしれません。結局、中西運輸商が佐川急便の仕事をやめてからは噂を聞くこともなくなってので、その後のことはさっぱりわかりません。

中西運輸商の社長は見た目も体つきも、寺の門にある仁王像という感じの人物でした。仕事の電話で取引先の相手に、今からお前を海に鎮目に行ってやると、怒りまくっている姿を、目の前で見ていたこともあります。

中西運輸商の事務所は金石街道沿いの金沢市寺中町にありました。寺中町は畝田とも隣接していたと思いますが、畝田や藤江と違って町内の範囲は狭く、丁目は少なかったと思います。数百メートル先に行くと同じ金石街道沿いで金沢西警察署がありました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月03日

S藤について書いておきたいことがあるのですが、その前に事件の鍵を握る人物の一人、被告訴人TTKについて書いておきたいと思います。その方が、全体として問題の高さも伝わりやすいと考えるからです。プライバシーについてもその都度煩慮していますが、バランスをはかる意味でも参考に。

S藤について書いておきたいことも今から書く被告訴人TTKに関することも、平成4年4月1日の逮捕以降、取り調べや捜査、裁判に少なからぬ影響を与えたと思われる事柄です。あるいは認識を誤る落とし穴になったかもしれませんが、問題を解く重要な鍵になる可能性もあるかと思います。

もっともS藤に関しては偶然の要素が強いと思います。警察が偶然と捉えたかどうかは別問題ですが。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月04日

被告訴人TTKですが、被告訴人YSNが市場急配センターで市内配達を始めた当初、免停中で市内配達に指導を兼ねた同乗をしていたとYSNから聞いていました。内灘・高松コースだったはずです。本当に免停中だったのか、現在は疑問でこんなところもしっかり、調べる必要があると思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月05日

被告訴人YSNですが、市内配達をしている頃は自動車学校に大型免許の教習に通っていました。運転免許センターでの一発試験を強く勧めたのですが、全く聞く耳を持たないという態度でした。自動車学校の費用のことはよくわかりませんが、当時で10万円は最低かかったのではと思います。

そもそもなぜ私が50万円の前借りの保証人になったかというと、昭和58年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市内観音堂の彼のアパートに居候し、食事もよくおごってもらっていたからです。家賃も一円も出していませんでした、昔世話になったということが大きかったのです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月06日

先に書いておこうと思うことがあります。平成9年の11月ぐらいから平成12年の年末一杯ぐらいに、中心的な働きをした可能性の高い、被告訴人KYNのことです。彼の場合、他の被告訴人とは違って、純粋に利用されていた可能性が最も高いのですが、現場実行者のような役割になります。

被告訴人KYNについては平成19年頃まで繰り返し御庁に提出した告発状、告訴状には詳細に書いていると思いますし、それ以上に具体的な事実を上申書などとして金沢刑務所の拘置所にいる平成11年、12年頃に提出しているはずです。ずいぶんと注意深く観察しており、細大漏らさずのはずです。

ところで、何より重要と思うのは平成11年の秋、片町の性的サービスの店のことです。場所は大通りに面したオーロラビルのスクランブル交差点から向かって少し手前だったと思います。あるいはオーロラビルの先だったのかもしれませんが、手前の方だと認識していたと思います。
かたちのうえでは、呼び込みの若い男性に声を掛けられたのだと思いますが、けっこう長い間、その場に足を止めて、あるいは歩道の作のようなところに腰掛け、入るか入らないか思案している様子でした。私に直接、どうするかということは言わなかったように思いますが、かなり不自然な状況でした。

その場をさっそうと足早に歩いていったのが、木梨松嗣弁護士と思われる人物でした。かなりラフな服装でした。セーターの上に羽織る上着は着ていなかったようにも記憶しています。クリーム色のセーターがベースだったように記憶していますが、数秒間のことと思われるのではっきりとは記憶にないです。

うまく表現できないのですが、かなり気合いの入ったような様子で、力強く大股で歩いていたような印象も残っていますが、それ自体がかなり異様にも見えました。連れがいるような様子は全くなかったです。本来、酔客がほとんどとも思えるような金沢の繁華街のど真ん中でのことです。

私も酒は入っていたと思いますが、この時も気持ちは冷め切っていました。当時はファッションヘルスなどと呼ばれていた店だったと思います。女性が口を使って射精させるようなサービスで、その頃、片町でそのような店が増えているという話も、割と有名になっていたかと思います。

本来、金沢市は観光地であり加賀百万石の伝統文化を売りにしているので、繁華街の規制も厳しいと聞いていました。路上の屋台ですら禁止になっていると聞いていたので、片町もずいぶん変わったものだと思っていました。

その場にいたのは被告訴人KYNの設備会社のK君とM君です。K君の話で私が入ってまもなく、飲み歩くようになったと話していました。もともと給料日の日には、KYNの家族連れで焼き肉屋に行ったりするけど、それで終わりだったと以前の不満を口にしていました。

私が被告訴人KYNの会社で仕事をするようになって初めての時も、それまでと同じように焼き肉屋にのみ行きました。それも私にとって思い出深い店でしたが、考えてみるとあの店に行ったのは、あれが初めで最後だったようにも思います。

店の住所は私が以前住んでいたのと同じ金沢市東力だったように思いますが、余り近くもなく、新神田や糸田に近い場所でした。労働基準局のはいる合同庁舎の近くでもありましたが、当時はその周辺は空き地が多く、焼き肉屋は離れたところからも目立っていました。

店の名前は「飛天竜」だったと思います。流行っている感じの店だったので調べていませんが、今もその場所に店がある可能性はあるかと思います。その店に初めて行ったのは昭和59年の12月頃のことで、被告訴人OKNら数人と行きましたが、たまたま入って店という感じでした。

自分の東力のアパートから近かったので他にも行く機会はあったような気もするのですが、周辺には他にも焼き肉屋があったので、特には記憶に残っていませんし、意識することもありませんでした。

その焼き肉屋に対して特別な意識を持ったのは、平成3年の8月の終わり頃だったと思いますが、市場急配センターで飲み会があったからです。このような焼き肉屋の飲み会は、私がいるとき他には一度もありませんでした。

その時の飲み会の目的というか名目は2つほどあったように思うのですが、一つは「北食」とかいう会社から二人の運転手が市場急配センターに入社したということだったと思います。それまでは下請けの社員のような感じで市場急配センターの仕事をしていました。

「ホクショク」と呼ばれていたと思いますが、北のあとの感じははっきり憶えていません。小さい運送会社のような話でしたが、社長が右翼団体の幹事というような話も聞いていたかもしれません。今日まですっかり忘れていたので別のことかもしれず、正確に思い出すことは出来ないです。

もう一つは、浅野という被告訴人MHK社長の友人が入社したことで、それら3人の歓迎会というのが名目だったと思いますが、あるいは他にもなにかあったのかもしれません。本来、歓迎会や送別会をするような会社ではなかったと思います。

焼き肉屋では2階のような部屋の貸し切りだったように記憶しています。8月の終わりということもありますが、まだすっかり明るい時間から飲み会が始まったと思います。被害者AAさんが、ビールのお酌に回って、私にも何か一声掛けてくれたような気もしますが、会話のようなものはなかったと。

皆で焼肉店を出た後、私は被告訴人YSNに強制的にアパートに送り届けられました。飲み会の途中に、ふざけて彼に対して「地獄の○○を知らないか」などと節をつけて歌ったことです。彼は自分がシンナーで精神病院に入った過去などを酔った勢いで暴露されるのを警戒したような態度でした。

忘れないように書いておきますが、片町のファッションヘルスのような店には入りませんでした。店は小さいビルの地下にあるような感じだったと思います。片町のお踊りで地下にある店というのも珍しいように思いました。金劇の方は地下街のようになっていたと思います。

飲みに行くのが増えたのはM君が入ってからでした。彼ももとは同業者の小さい会社の社員で社長も若かったようですが、一応倒産したような話で、失業したところを被告訴人KYNが声を掛けて、すぐに入社したような感じでした。

平成10年の1月だったと思うのですが冬でした。M君が入ったときの初めの現場は河北郡津幡町の日本たばこ産業の現場の仕事でした。そこは金沢市場輸送の長距離の仕事でも何度か行ったことのある工場でした。小さい現場で、長くは通わなかったと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月07日

私が被告訴人KYNのところで配管設備の仕事をするようになったのは平成9年の11月頃だったと思います。被告訴人OKNの口利きというかたちというか、感じになっていました。初めにOKNが話を持ちかけたときは、KYNは仕事関係の人と沖縄旅行中でした。

昼にOKNとKYNの3人で、東京ストア西南部店の近くのそば屋で食事をしたときも、そのような話だったと思いますが、沖縄旅行の前か後かは憶えていません。旅行中を除き戻ってからは、割とあっさり話が決まったように思います。

被告訴人KYNの設備会社での最初の仕事は辰口町の和風のような大きめの旅館の雨樋の補修のような仕事であったと思います。たまたま仕事が終わりかけていたのか、この現場には2,3回しか行くことがなかったと思います。

辰口町は当時は能美郡辰口町だったと思います。現在は能美市になるのかもしれませんが、もともと辰口町自体が比較的大きな町だったので、違っているのかもしれません。金沢市内にも通勤可能なベットタウンのような一面もあったような気もします。

続けて連日のように行くようになった現場が、同じ辰口町の北陸先端大学でした。これはけっこう大掛かりな配管工事という感じでしたが、だいぶん前からやっている様子でもありました。K設備の応援の仕事でした。

K設備は被告訴人KYNの仕事仲間の一人でした。年は私たちより二つほど年上と聞いたようにも思います。私より二つほど年下の珠洲市蛸島出身という若者と二人で配管の仕事をやっていました。

会社といえるのかもわかりませんが、一人親方に近いような業務形態になるのかとも思われます。被告訴人KYNも私が入るまではK君と二人だけでやっていたので、ほとんど同じような感じでした。

違いといえば配管の加工をする作業場をK設備の方は持っていたと言うことです。事務所も兼ねていたと思いますが、プレハブの倉庫に近いような感じでした。周りには水田か畑が多かったので、農業機器とかビニールハウスのようなイメージも残っています。

もともと金沢市の外れか松任市の外れの海に近いあたり農村の人で自宅もそちらの方にあるというように聞いていたようにも思います。そのあたりはスイカなどを栽培する農家も多く、スイカを積みに行ったこともあったような記憶もあります。

金沢市内から美川町の方に行くのに御経塚の交差点からつながる道路を使うことがありましたが、その途中に近いあたりだったと思います。この道は途中で専光寺の方から来る道とも交差していました。左折すれば松任市内の駅の近くに入りました。

右折して専光寺の方に向かい少し行って左に入っていくと、そこは松任市の旭工業団地でした。さらに専光寺の方に進んで左に入っていくと、安原工業団地がありました。旭工業団地には被害者AAさんの父親AKさんが部長をする鉄工所がありました。

安原工業団地にはS設備がありました。被告訴人KYNの仕事仲間では一番大きな会社で細かくは忘れましたが10数人の社員という話でした。ほとんどが20代の若者で年配の人は少なかったです。社長とKYNは気のあった親子というような関係でもあり、共通したのは酒癖の悪さかかと。

私が被告訴人KYNのところで配管の仕事をしていたとき、一番大きな現場は石川動物園と辰口庁舎でした。石川動物園も山手の方でしたが辰口にありました。このどちらもS設備から請け負ったような仕事だったと聞いていました。

午前中Googleマップで調べたところS設備は今でも同じ場所にあるみたいでした。ストリートビューで建物の写真をみることもできましたが、余り印象は残っておらず、確かにこの建物だったという確信は得なかったです。住所は安原ではなく打木町東になっているようでした、安原に隣接しています。

他との区別もあるので以降、安原工業団地のS設備とすることがあります。文字数を減らすため、文脈によっては単にS設備とします。他にもう一つS設備と書く必要がある関連先があるからです。住所は若宮だと思っていたのですが、二口町の可能性がありそうです。

Googleマップで確認すると長田本町とも大豆田本町にも近いようです。私自身、金沢市の二口町と聞くと中央市場の側というイメージが強いのですが、かなり方角の違う場所です。若宮大橋に近いですが、この犀川に掛かる橋を含めた主要道路自体が、平成4年当時には影も形もなかったものです。

二口町と書くと私自身が勘違いする可能性もあるので若宮大橋の近くのS設備と書くことにします。こちらも被告訴人KYNの仕事仲間でした。社長というのは能登町姫の人だと聞いていました。Sというのは姫によくある名前です。全国的にけっこうありそうな漢字の名前です。

以前は遠洋漁船の漁師だとも聞いていたように思います。当時で50歳から55歳ぐらいだったでしょうか。年齢のことも聞いていたように思いますが、よく憶えていません。姫については小木と同様にこれまでも説明はしていると思います。

姫の人間であることは初めの方でしっていましたが、他の人間関係など聞かなかったし、聞かないようにもしていました。なぜなら気になる点が2つはあったからです。

姫のSさんは私たちのちょうど親の世代という感じでもありました。同級生にも同じSという女の子はいましたが、それ以外にもよく聞く名前でした。ただ、KYNの方からも誰それの知り合いなどという姫や周辺での人間関係を耳にすることがなく、世代が違うからと思いながらも少しは気に掛けていました。

若宮大橋の近くのS設備は、けっこうしっかりした感じの平屋の工場を作業場兼事務所にしていました。同じような建物が3つほど並んでいて、Googleマップのストリートビューで写真が見れましたが、自動車修理工場やバイク屋になっているような感じでした。

Sさんのところには他に二人の従業員がいました。安原工業団地のS設備は当時既に株式会社になっていたと思いますが、SさんのところはS設備であり、やはり社名とは考えにくいので社員というのはどうかという判断です。Sの部分はカタカナで4文字になっていたようにも思います。

一人は私と同じ年だったかもしれません。サザエさんのマスオさんのイメージも重なる感じで、見た感じ大人しくまじめそうな人でした。家が金沢市内諸江にあり、その家の前までは行ったことがあるのですが、中に入った憶えはないです。遊びに来るように誘われたこともあったようには思います。

もう一人は年配者で被告訴人KYNが山賊の親父と呼ぶ人でした。お互いに酒が好きで飲み仲間という関係も強そうでした。小柄でしたが野性的な感じで、軽量のプロボクサーとかジャングルに住んでいた旧日本兵というイメージもあったので、KYNもイメージから山賊と呼んでいたようです。

山賊という人は腕のよい配管の職人というイメージもありました。配管工の経験も長いようでしたが、前は別の仕事をしていたと聞いていたかもしれません。もとは安原工業団地のS設備にいたのを、姫のSさんが引き抜いたという経緯も聞いていました。

安原工業団地のS設備の社長は石川県鳳至郡穴水町の沖波の出身だと聞いていましたし、たしか山賊という人もその沖波か、その近くだと聞いていたと思います。話し言葉も能登の人間という感じであったと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月08日

山賊という人は、友達が右翼団体をやっていて、その部下というか手下の扱いや教育に呆れたような話をしていたことがありました。他にも暴力団員との関係があるような話を少し耳にしたような気もしますが、私の中の全体的なイメージとしては昔はともかく、割とまじめな生活をしている。

被告訴人KYNの○○設備工業は金沢市黒田にありまして、割と大きめの自宅を兼ねていました。家の裏の方にちょっとした物置のような早期があり、そこに初めは驚いたほどの仕事道具や配管の部品がおいてありました。小屋の外には家の裏庭のようなスペースがけっこう広かったです。

晴れていればその裏庭で少し作業をしたこともあったと思います。家の裏は川沿いの土手になっていました。犀川の支流です。Googleマップで見ましたが川の名前がわかりません。あるいは伏見川になるのかとは思います。

この川の土手沿いの道は東力に住んでいた私のアパートとも近かったので、昭和60年頃からそのあたりを裏道として通行することはありました。川沿いは辺鄙な場所でもありましたが、ゴミ処理場もありました。

川沿いの裏道は私が東力のアパートから高畠の被告訴人OSNのアパートに遊びに行くときもよく利用していた記憶があります。誰かに教えてもらった道でしたが、普通は気がつきそうにもない感じの道でした。

被告訴人KYNの会社を兼ねた家はやや細長い奥行きのある建物で、奥行きだけ見ると2軒分の家にも相当していました。向かって左手にある家がそうでした。左隣の奥の方の家には、朝など4,5人の鳶のような作業着の若者が集まったりしていましたが、そのうち人の姿を見かけなくなっていました。

書きながら当時のことを思い返しているうちに、新たに思い出したことがあるので先に書いておきたいと思います。それは一つ年下の姫出身のHのことです。以降、一つ年下の姫のH、文脈の流れで判別できる場合はたんにHと表記したいと思います。

まず学年ごとの人間関係や出来事について少し説明をしておきたいと思います。学年ごとの特色もありましたが、特に際立ったのは私の一つ年下の学年かと思います。最終的には新聞に大きく載るような暴力事件を起こしました。

隣接する柳田村の柳田中学校の生徒と宇出津の万寿山で、白昼、木刀を持ち寄り決闘をしたという事件です。細かいことは憶えていませんが、能都中学校の方は、私より一つ下の学年が10人ほど、二つ下の学年が3人ほどだったと思います。

もともと柳田中の生徒の方ははったりのつもりだったという話も聞きましたが、能都中の生徒は木刀で思いっきり殴りつけたと聞きます。木刀が折れたり、相手の頭が栗のように大きく割れ、血だらけになったと聞きます。

柳田村との公共の交通手段は今も輪島市まで行くバスしかありません。そのバスに血まみれの生徒が多数いたことで、乗客から警察に通報されて、問題化したと聞きます。

私はその現場にいた能都中の複数から話を聞いているのですが、たしか一面の雪が血の色で真っ赤に染まったと話していました。冬ということになりそうですが、3月の卒業の時期とは離れていたように思います。

地元紙の新聞ですが、一番大きく紙面に報じられ写真も載っていたような記憶があります。それでいて、鑑別所に送られるような生徒はいなかったはずですし、その後の高校進学にも本人の志望校という事情もありますが、ほとんど影響がなかったという感じでした。進学をしなかった生徒もいます。

この私の一つ年下の学年が急速に不良化したのは被告訴人OSNの影響が何よりも大きいと思います。OSNの家の方にも頻繁に出入りしている様子を目にすることがあったと記憶しています。

私の学年ではまじめというか勉強に専念する生徒が多かったです。目立った不良というのもいなかったですが、特異な存在が2名ほどいました。その一人が被告訴人KYNですが、もう一人がTYです。この二人は年下から恐れられ、おさえになっているような存在でもありました。

KYNとTYはタイプの違いはありましたが中学校の頃はいつも一緒にいました。私もTYに呼ばれて、よくKYNの家に行っていました。私もKYNに対しては割と好きなことが言えたのですが、TYは暴力で人を支配するような傾向があったので、かなり気を遣っていました。

私だけでなく、他の同級生も同じような感じだったと思います。本当に特異な存在だったのはTYだけとも言えたのですが、どうも年下の連中から見ると、KYNの方もTYと同じように見えていたようです。TYは口数も少ないこともあり、黙っていて人を威圧するような雰囲気もありました。

この二人は年下から恐れられる一方、年上の方からは目をつけられるようなところもありました。実際に被告訴人OSNは、けっこう長い間、KYNとTYの二人に制裁を加えるというようなことを、大々的ではなかったですが、私の前でも口にしていました。

単に生意気とか目立つという問題ではなかったと思います。やはり一番大きいのは被告訴人HTNのことかと思います。プライベートな問題でもあるので、書くのもどうかと迷うところはあるのですが、人間関係の理解をより正確にしておくことが関係者のより大きな利益の保護にも資すると判断しました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月09日

被告訴人HTNのことを書く前に被告訴人KYNの配管設備会社に入ったM君について書いておきたいと思います。M君が入ったのは平成10年の1月か2月のことです。津幡の日本たばこ産業での仕事が初仕事であったことも書いたと思いますが、この現場は規模も小さく短い工期だったと思います。

長野オリンピックにおけるスキージャンプ競技 - Wikipedia http://bit.ly/1jnE7X3 で確認したのですがだ引退競技で日本チームが金メダルをとったのは2月17日のことのようです。

M君が入ったのは津幡の現場の終わり頃だったとも思いますが、次の現場が福井県武生市の現場であったと思います。なにか割と大きな工場の敷地内における新しい工場の建物の工事であったと思います。ここも長い現場ではなく、10日から長くて2週間程度だったかと記憶しています。

県外の現場というのもそれだけでしたが、現場の仕事が始まった初日か2,3日後には急遽、武生市内の民宿に宿泊することがありました。現場での宿泊というのもそれが最初で最後だったと思います。民宿に入る前に、焼き肉屋で食事をしたことも記憶しています。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月10日

福井県武生の現場に通ったのも長くて3週間程度ではなかったかと思いますが、細かいことは思い出せません。ただ、現場での仕事が終わりに近づいた頃だったように記憶しているのですが、長野オリンピックでのスキージャンプの団体競技金メダルがありました。

当日は繰り返し金メダル獲得の場面をテレビで放送していたと思いますが、午後に現場事務所の2階で、その場面をテレビで見ていたことを印象的に憶えています。一棟建ての割と大きな現場事務所で2階が作業員の休憩所になっていたと思います。

他の現場では現場の監督や担当者と打ち合わせをしたり、その親会社の名前を知ることも多かったのですが、武生の現場では、そういう記憶がなく、どこの下請けだったのかも憶えていません。雪の降る寒い時期だったことはよく憶えています。

雪の中での作業をはっきり憶えているのは、津幡の日本たばこ産業の工場の現場とこの武生の現場ぐらいでしょうか。だいたいの時期の特定にもつながるのですが、他の現場では余り雪のことを記憶にしておらず、時期がはっきりしないことにもなっています。

辰口の石川動物園の現場は、雪がかなり積もった状況で一度仕事に行ったことがありました。事前の下調べのような感じで、雪かきなどから始めていたように思います。山間に近かったので、もともと雪の多い場所という感じもありました。

この下調べのような仕事の時は、安原工業団地のS設備のIさんも一緒だったと思います。Iさんについては、まだ説明をしていないと思いますが、S設備の番頭というか現場責任者、社長のナンバー2という感じの存在でした。当時40歳代ではなかったかと記憶しています。

被告訴人KYNが宇出津の山道という配管設備の会社で働いていた頃の先輩で、当時からの長く親しい付き合いだと聞きましたが、私が出会い、知ったのはKYNのところで仕事をするようになってからです。金沢市内入江のアパートに一人暮らしで住んでいました。

そのアパートにも一度は遊びに行ったのでよく憶えているのですが、歩いて近いところにアンカーインというスナックのような飲み屋がありました。KYNに連れて行かれ、その店でIさんに会ったのが初めのはずです。初めのうちは単なる知り合いになった常連客かと思っていました。

被告訴人KYNのところで仕事をするようになって1週間か10日ぐらい経った頃ではなかったかと思うのですが、仕事が終わり家に帰って22時ぐらいになって、電話が掛かりKYNに来るように言われたのもアンカーインでした。

店に行ったのはその時が2回目だったような気がします。店に行って一緒になってからKYNに、今日はお前の誕生日だろう。誕生日祝いに酒の席を設けてやったような趣旨のことを言われました。私自身誕生日のことは意識していませんでしたが、11月26日という日付ははっきりしています。

店に入った最初からそうだったのか記憶にないですが、カウンターの席に座っていたことを記憶しています。店に入ったときKYNの姿はなく、しばらく待ったような気もするのと、OKNもいたような気が少しはするのですが、前後のことや細かいことは現在思い出せません。

一番強く憶えていることは、後の方になってK君の彼女とその友達という女の人が来たと言うことです。あとでKYNがそれらしいことも話していましたが、私に対する彼女の紹介として連れてきたようでした。私の方がほとんど無反応だったので会話にもならなかったと思います。

K君の年ですが、これも現在は思い出せなくなっています。24歳ぐらいだったような気もするのですが、平成4年の時点で16歳だったという話が一番の目安にやりそうです。平成10年を基準に単純に6年をプラスすると22歳ということになりそうですが、二十歳でも未成年でもなかったとは間違いないと。

K君と初めて会ったのは平成9年の1月の終わりか2月でした。私が福井刑務所を満期で出所したのが同年1月18日であったことははっきりしていますが、それからしばらくしてのことです。宇出津の実家にいたところ、ある日の夜、事前の連絡もなくKYNが訪ねてきました。

家の中に招いた記憶もないので、被告訴人KYNはタクシーに乗ったまま訪問し、私に同乗するように誘ったと思います。タクシーはそのまま越坂の「天国」という飲み屋に直行しました。

越坂は小木の一部のような場所です。中学校も同じ小木中学校ですし、日本百景の一つにもなっていると聞く九十九湾があるところで、百楽荘などの観光ホテルもいくつかあるところです。小木も平成9年当時はまだ珠洲郡内浦町でしたが、平成17年より宇出津と同じ能登町になっています。

その天国という店のことは小学生高学年の頃から話としてしっていました。当時、宇出津にはマリモというキャバレーのような飲み屋があったのですが、小学生の子供の間でも何というか当時の世相も反映したかたちで特別な場所、商売として認識されていたのです。

友達の母親が小木の方にある天国というマリモと同じようなキャバレーのような店で会計の仕事をしていると聞いたのが初めでした。その母親は、その前にも小木にあるマルゲンというスーパーでレジの仕事をしていると聞いていました。

マルゲンというのは宇出津の駅前の近くにあったスーパーが本店でしたが、小木の店と同時に2,3年前にいきなり閉店しました。宇出津の方の店は半年ぐらい前かに改装されて、「のむら」という呉服屋の店舗になりました。

書いておこうと思っていたことですが、被告訴人OKNは一時期、そのうしつの「のむら」という呉服屋で仕事をしていたことがありました。2,3ヶ月ぐらいではなかったかと思いますが、私が金沢で生活していることもあり、余り会わない時期でもありました。

「のむら」より前だったように思うのですが、同じ宇出津で「漁運会」の保冷車に乗っていると話していたこともありました。。一応は運送会社のようですが、運転手はトラックの持ち込みで給与体系というか報酬も、かなり変わっているという話だったと思います。

平成26年になった現在でも宇出津の魚市場の近くを通ると漁運会のトラックを決まって2台ぐらいはみかけますが、ずいぶん数が減ったような印象もあります。どこか別のところにトラックの駐車場があって私が知らない可能性もあるとは思いますが、見かける機会も減っているとは思います。

同じ石川県内で鮮魚を運ぶ仕事をしていた時期もありましたが宇出津の漁運会については話を聞く機会もほとんどなかったです。小木運送とは前にも書いたように一緒に仕事をすることもあったのですが、どうも宇出津港からの鮮魚のみを運んでいたのではと思います。

被告訴人YSNも平成9年の1月の終わり頃の電話で、少し前まで宇出津の魚市場で金沢まで4トン保冷車で鮮魚を運ぶ仕事をしていたと話していました。新崎と言っていましたが、私は知らない会社でした。その後意識するようになり、魚市場でそういうトラックを見かけるようにはなりました。

「M君と被告訴人KYNがトラブルを起こした花屋」という項目をGoogleの地図サービスのマイマップに追加しました。URLは次になります。残念ながらURLのパラメータとして項目の特定まではできないみたいです。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

「木梨松嗣弁護士と思われる人物が通行人だった性的サービスの店の辺り」という項目というか目印もついでに追加しておきました。先日に説明済みかと思います。花屋のことはまだでしょう。

「天国」の3女と知り合ったのは昭和58年の1月頃かと思います。昭和57年の9月の初め頃から同年12月一杯まで私は、名古屋市港区にいました。戻ってしばらくした頃だったと思います。場所は被告訴人OSN兄弟の家でした。

本書においてはまだ書いていないと思いますが、OSN兄弟には妹がいました。私より学年で二つ年下です。その年代の女子ではリーダー的な存在で、家の方もその友達や後輩のたまり場になっていました。天国の3女のHMも初めは妹の友達として遊びに来ていたようです。

HMは小木中学校でしたが、OKNの妹とは同級生でした。能都中のこの年代には目立った生徒が3人いまして、この3人も先日説明した万寿山の暴力事件に参加していました。暴力事件の主体は私より一つ年下の年代でしたが、ほとんどがほぼ更正の方向に進んでいました。

同じ暴走族のグループとしての付き合いがあったり、一人は小木の漁師としてよく付き合いのある時期もありましたが、私もOKNも二つ年下の年代との付き合いの方が、多くなっていきました。

被告訴人OKNが妹の同級生の友達であるMちゃんと付き合うようになったのも昭和57年の前半かと思います。これは別の先輩を介したところから知り合ったようです。先輩の親戚が同級生でMちゃんを連れて遊びに来ていたことがきっかけでした。

このあたりはプライバシーに配慮した方がいいと思う問題もあるのでぼかして書きますが、その先輩はもともと被告訴人OSNと仲がよかったのですが、決定的な対立となり、暴力団絡みの他の問題も起こったのですがグループの分裂にもつながっていきました。

昭和57年の春から夏のことでした。OSNが大きなはさみを振りかざして、倒れている先輩の馬乗りになり、突き刺そうとする場面もその場で目撃しています。私がホーク2というバイクに乗っていた短い時期だったので、5月頃のことかと思います。

その昭和57年の春頃になると、私は先輩の家に遊びに行くことが多くなっていました。二つ年上の先輩で宇出津の魚市場の近くに家がありました。そこでは被告訴人HTNとも何度か顔を合わせることがありました。姫のNさんも同様でした。

先輩とOSNが仲直りすることはありませんでした。初めのうちは先輩の方で気を遣っていたのですが、他のことで本気で怒るようになりました。共通の友人知人も多かったのですが、この辺りも人間関係を難しく、煩わしくさせていました。

もともとの原因は被告訴人OSNの父親にあったのですが、それもお金絡みの問題でした。外見的にはかなり似たような問題でOSNの父親は、2少年の殺人事件を起こしています。私が福井刑務所に服役中のことですが、知ったのは平成9年の2月頃でした。

被告訴人KYNがK君と二人で訪ねてきて一緒に「天国」に行った後のことであったと思います。半月ぐらい間が空いていたでしょうか。2月の10日か中頃のことであったように記憶しています。

夜の21時か20時前の石川県内ニュースでした。美川の二少年殺人事件というような見出しになっていたと思いますが、その控訴審の初公判が開かれたというニュースで、割と珍しい姓と聞き覚えのある名前の組み合わせで、O兄弟の父親の名前と顔写真がテレビに出たのです。

本人より先に、すぐに金沢の被告訴人KYNに電話を掛け、どうなっているのかと説明を求めましたが、すごく不機嫌そうに満足な説明はなかったと記憶しています。妹が泣いて大変だったというのが、一番印象に残っている話です。

1月18日には福井刑務所に被告訴人OSN、被告訴人OKN、被告訴人KYNの3人が私の母親を連れて3人で迎えに来ていました。事前の連絡がなかったというのも気になるところでしたが、それ以上に迎えに来たときの3人の重苦しい雰囲気が、ただごとではない気配を感じさせていました。

そもそも被告訴人OSNと被告訴人HTNは兄弟分ともいわれるような仲のよい関係でしたが、中途半端に知る私の立場から見ると、私とOSNの付き合いが始まった昭和56年の夏頃以降は、接点自体が少ない感じでした。能都中の中学時代に特に仲がよかったことは考えられます。

会話の中でHTNの話が出ても長い間会っていないような感じの話しぶりでした。そもそもHTNの人に知られたくはないだろうというヤクザになった経緯を、誰彼なく人前で話していたので、HTNがそれを知っていたとすれば、あきらめの一方、とんでもないと思っていたことでしょう。

被告訴人HTNに関しては昭和55年の6月頃、小木分校を退学になったのも、ずいぶんと不本意なことであったと聞いていますし、原因になった松波の同級生を長い間、すごく恨んで不満を繰り返し口にしていた姿は、私自身とても印象的に憶えています。

被告訴人KYNのところのM君ですが、彼も個性的な人物でしたが、いくつか被告訴人HTNに似ていると思うところがありました。はっきり共通する事実として耳にしたのは、M君も以前金沢市内の暴力団に所属した組員であったことがあるということで、それもHTNと同じ松元組でした。

M君をK君以上に重視する理由として、M君が仕事上のミスにかこつけて私に危害を加える可能性を仄めかしていたことです。態度や行動のことですが、仄めかしたと表現してよいでしょう。それを咎めもせず、協力、支援するような態度を見せていたのも被告訴人KYNでした。

最後の手段として作業事故を装い私を殺すか、酔っぱらった上でのケンカ沙汰を装って、これも傷害致死にするという可能性が考えられました。それはKYN個人の考えや意志と言うよりは、その方向に向かって背後から利用されていると言うことも考えられました。

そのような自分にとって最悪の結果を想定し念頭に置いた上で、私は彼らと仕事をし付き合いをしていました。とにかく、M君が入ってから飲みに行く頻度がすごく多くなったし、M君の粗暴な振る舞いも、常に喧嘩に発展する可能性がつきまとっていました。

ほとんど一緒にいたK君は笑いながら、いつも弱そうな相手に絡んでいるとも言っていましたが、地ならしのような事実の既成化であって、本番の示し合わせた相手だと傷害致死という目的に向けた、いろいろな演技演出もできるはずです。

M君が本当に松元組に所属していたかどうかも不明ですが、計画の材料だとすればHTNのことを意識したものであった可能性はより高いと言えるかもしれません。

そもそも私は平成9年1月18日に福井刑務所を出所してから一度も被告訴人HTNに会っていません。これは彼だけでなく周囲もかなり気を遣った上でのことであったことが考えられます。

実際は平成10年の宇出津のあばれ祭りの時、私はキリコを担ぎながら被告訴人HTMと思える人物を認め、手を振るか合図を送りました。相手は目を泳がせるように視線は逸らせ、気づかないようにしていました。本来盛り上がっているはずの祭りで、とても醒めた反応にも見えました。

被告訴人HTNと思しき人物は円を描くようなかたちで数人とたむろをするように座っていました。高田醤油屋の前です。ここは祭り2日目のメインとなる梶川の橋のすぐ側でした。橋の上から神輿を川に落とすのが、見所のひとつで人も大勢集まるところでした。

私が担いでいたのは被告訴人KYNの町内、酒垂のキリコでした。酒垂は町と呼ばれる9つほどの町内の一つで、これは宇出津の魚市場から警察署の範囲に相当しますが、昔からこの町の町内があばれ祭りの先頭を仕切るという決まりがあるのです。

つまり祭りの序盤でのんびりした時間帯でありました。酒垂のキリコは長い時間、梶川の橋の上にもとまっていましたし、こちらに歩いてくれば顔を合わす可能性も高かったはずですが、引き返してまで声を掛けようとは思わなかったので、それっきり会うこともありませんでした。

M君においては仕事中の手抜きも甚だしいものがありました。配管の仕事というのは最終的に専用の機器で漏れの検査をやらねばならず、機器に異常が出る間は、漏れの箇所を探し出して補修する必要がありました。

配管のつなぎ目の漏れの原因はいくつかありましたが、その一つが締めの足りなさです。場所によっては作業が困難な上、つながっている配管の継ぎ手の向きが変わって逆に締めすぎてしまうかもしれないという判断も必要であったかと思います。

配管というのはネジキリとも呼ばれる旋盤を使ってねじ山を作ることが多い作業でした。短い間隔で複数の部品を取り付けることも多く、そういうのは現場内における特定の場所で、ちょっとした作業台のようなものを使って組み立てることが多い作業でした。

実際の取り付けとなる現場では身動きもままならないということもあるぐらいで、そうでなくても高所の空中であったり、水も溜まった地下のピットの中であったり、まあ、作業のしにくいことが普通でした。なお、高所では脚立や高所作業車を使います。

M君は作業台を使ったネジ締めでも、「こんでたくさんやぁー」と言いながらゆるゆるのいい加減に目地を締めていることもありました。とにかく何をしようと被告訴人KYNがM君を咎めたり、注意することはなかったと思います。

M君が来て間もない頃の福井県武生市の現場においても、配管の漏れによる手直しはあったように思います。高所作業車で作業できたので比較的ましだったとは思いますが、配管が複雑だったので、一つの箇所を直すのに、すごい数の手直しが必要だと思い知らされたような記憶があります。

辰口庁舎の現場でもあったように思いますが、配管の漏れの箇所を探すだけでも、丸一日、あるいは2,3日と時間をつぶすことがあったと思います。M君が関わった場所に限って、そういう問題もあったと思います。基本的に辰口庁舎の担当はK君でした。

M君が担当ということになっていたのは石川動物園の現場でした。現場の作業が大詰めになった頃であったように思いますが、ここでも配管の漏れで、調べ回るという仕事に明け暮れたことがありました。この時、気に掛けたのは目の前の配管の爆発でした。

配管には大きく3つのつなぎ方がありました。ネジ式と接着剤とガス溶接の3つです。ビニール系の配管はほとんどが接着剤を使ったものでした。

他の観点からは給水、排水という区別も出来たと思います。排水では水圧の問題は余りなかったと思います。給水の場合は流れる水圧に応じた耐久性の違いがあったと思います。

私の記憶では一平方ミリセンチあたりに17キログラムの圧力が掛かるというのが、テストにおける最大の基準だったと思います。それはずいぶんとすごい圧力だとKYNらから説明を受けていました。あるいは平方センチだったのかもしれないですが、17㎏というのはよく憶えています。

消防車の放水した時の水圧はMAXどのくらいですか? - Yahoo!知恵袋 http://bit.ly/1nothND で調べてみたのですが最大で10㎏平方センチと書いてありました。普通の人が一人では持っていられないそうです。

17㎏の話を最初に聞いたのは河北郡高松の現場でした。現在は「のと里山海道」という名称になっているのかと思いますが「能登有料道路」を走行中にも見える建物だったと思います。Googleマップで調べると出てくるかもしれません。名前もなんとなく一部を記憶しています。

石川県かほく市高松丙1-5 山越(株) - Google マップ http://bit.ly/1h2SX55 ← こちらでした。

外から見るとライスセンターのような建物でしたがかなりの高さがありました。私たちが作業をしていたのは反物を保管するような倉庫で、鉄骨の骨組みのようなものが3メートルほどの間隔でならんでいました。骨組みの高さは20メートルと聞いていました。

消防法で義務づけられたスプリンクラーの設置が仕事でした。反物を出し入れする1メートル半か2メートルぐらいの間隔でスプリンクラーを取り付けていたように記憶しています。大動脈のような本管は直径が15センチではなかったかと記憶しています。

配管はインチで呼ぶことが多かったようにも思います。おおよそ2,5ミリが1インチだと聞いていたので6インチになるのかと思います。定尺の長さは5メートルになっていたと思います。少し前までは7メートルのものがあったけど、廃止になったような話を聞いていました。

鉄製のような配管でしたがライニング管だったようにも思います。コーティングがされていて重量も重く値段も高いと聞いていました。一人で持つのはきつい重さでもあったと思いますが、正確な重量は知らないか、聞いても忘れました。

配管用炭素鋼管・ステンレス鋼管 http://www4.ocn.ne.jp/~katonet/kagaku/paipu.htm ← こちらを参考に調べてみたのですが6インチは内径で1メートル辺り20㎏近くになりそうです。5メートルだと100㎏近く。

100㎏もあったら持つのは普通の人に不可能だと思うのですが、かなりの重量感はありました。こんなのを落とすと大変なことになる、音もなく鉄砲玉のようなスピードで落下し、破壊力ももの凄いだろうと想像しました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月11日

文字というか言葉だけの説明だと伝わりにくいこともあるかと思いますし、より的確に問題点をご理解いただくためにも、なるべく写真や画像の資料を使いたいと思います。昨年中から準備はしていたのですが、一歩進めて次のようにインターネットを活用したいと思います。

マイ フォト>資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

マイ フォト>金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post_11.html

ブログの記事にしておりますが、これだとURLも適度な長さで、リクエストパラメータに特殊文字も含まれておらず、将来的に無効になるかもしれない短縮URLも使わずに済んでいます。Bloggerのブログは動的ビューとして、全体を見渡しやすいようにすることも出来ます。

石川県かほく市高松丙1-5 山越(株)/告訴状の資料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post_4251.html Googleマップのリンクも使うようにしてみました。

山越という社名になっていますが、これは私の記憶とも一致するもので周辺に建物も少ないので、まず間違いないかと思います。山越という会社の業務内容までは調べていないのですが、当時、反物を保管する倉庫のように聞いたように思います。

もともと金沢周辺では繊維業が盛んだったらしく、昭和59年頃も繊維の反物を運ぶような仕事もちょくちょくやった憶えがありますが、そういう事実より、当時の私の認識をベースに説明をしておきたいと思います。

この山越の現場に通った時期ですが、現在あまり思い出せない状態です。後々こういうこともあるので、具体的なことは細かいことまで記載するようにも心がけ、これまでも記憶において心掛けてきたつもりです。

この現場に通うようになった頃は、M君は入社していなかったと思います。この現場におけるM君の話を聞いたのは、けっこう後日だったとも思うので、そういうことから考えるとこの現場に通ったのは平成9年12月中の可能性が高いかと考えられます。

その前と思われる北陸先端大学の現場も、そう長い間は通わなかったと思います。現場の仕事自体が終わりに近い時期にも思われました。もともとK設備の応援だったので、忙しくなくなれば応援の必要もなかったのかもしれません。

K設備のKさんについて先に書いておきますが、Kさんとは平成4年の2月ぐらいに、被告訴人KYNの金沢市内黒田のマンションで会った記憶がありました。仕事の打ち合わせに来ていたのだと思います。個人的に言葉を交わすこともなかったですが、顔はだいたい覚えていました。

金沢市黒田についても次のようにGoogleマップを利用した地図をブログの記事として作成しました。

石川県金沢市黒田/告訴状の資料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post_3884.html

私自身、今初めて知ったのですが金沢市黒田は1丁目と2丁目しかないようです。被告訴人KYNの自宅兼事務所は1丁目でしたが、平成4年当時住んでいたマンションは2丁目です。地図で確認すると西金沢4丁目に近く、これもちょっと意外でした。

マンションといっても古い集合住宅という感じの建物でした。5階建て以上はあったかと思います。県営や市営の団地という感じが強かったですが、普通のマンションだと聞いていたと思います。KYNは1階に住んでいました。

この黒田のマンションには、自分の東力2丁目のアパートから近かったこともあり、余り間を開けず、よく遊びに行っていた記憶があります。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月12日

被告訴人KYNは同じ宇出津ですが、小学校、中学校だけでなく、高校も同じ石川県立水産高校小木分校無線通信科に進学しました。鉄道の通学だったので登下校時も一緒になることも多かったと思います。

小学生の頃も何度か遊んだことがありましたが、中学生の頃はたまり場にもなっていた彼の家によく遊びに行っていました。高校1年の時もそれに近い感じだったと思いますが、高校2年になった頃から学業に専念するようになった感じで、以前ほど遊びに行くこともなくなっていたと思います。

私自身は高校一年生で留年となり、しばらくもう一度一年生をやったあと、昭和56年の6月頃に自主退学しました。勉強しなかったのも原因ですが、欠席と遅刻が多くて単位が足りなかったようにも聞きました。入学したのは前年の昭和55年4月になるはずです。

中学校時代のKYNは剣道部の部活動にも熱心に取り組んでいました。剣道部は男子と女子が一緒になっていて女子の方が多かったような気もします。部活のリーダーというまとめ役で後輩の指導も熱心に取り組んでいたようです。

能都中学校には体育館が二つありました。普段学校の行事にも使われる行動とは別に、古くてやや小さい第二体育館がありました。ステージはなく、更衣室があって、更衣室の間にマットなどがおいてある用具室がありました。

講堂のある体育館ではバレー部とバスケット部。第二体育館では剣道部と卓球部が、毎日放課後になると部活の練習をしていました。私自身は、相撲部で水産高校本校の方に練習に行っていたので、放課後に校内に残っていたことは少なかったという記憶です。

そういうこともあって、放課後の部活の練習風景については記憶に残っていることも多くはないですが、校舎と通路をあわせると口の字になったような校内の廊下を各部員が走り回っているというのがいつものことでした。

被告訴人HTNは一つ年上でバスケット部でした。同級生の間でいじめのようなことをする乱暴者だとは聞いていました。私たちが1年生の頃も、3年生の方がまじめな生徒が多くしっかりしていて抑えもきいている、という感じでした。

それこそ戦前などの伝統を継承しているような時代で、年々薄れていたとは思いますが、上下関係も厳しかったです。基本的に登下校時は先輩を見ると挨拶をしなければならず、さん付けで呼ぶことになっていました。

金沢に出るとそういう上下関係はないと聞いたのも意外でしたが、当時は方言も強く、普通の日本語とはかけ離れたような言葉を普通に話していました。ずいぶん前から、学校の方でもしっかり標準語を教えるようになったとも聞いていますし、昔のような話し方をする人はいなくなっています。

上下関係のけじめがきつかったことや3年生の抑えがきいていたことを考えると3年生が卒業して、自分たちが2年生になってからだったと考えられますが、被告訴人KYNとTYが下克上のようなことを起こし、被告訴人HTNに体育館で土下座をさせたという話が広まりました。

土下座をさせる前に暴行があったのか否か、暴行があったとしてその程度はどれぐらいだったのか、ということを含め、私は詳しいことをしらなかったのか、憶えてはいません。土下座という言葉自体なじみがなく、聞いたことがなかったような気がします。

それだけ被告訴人HTNのいじめがひどかったというようにも聞いていましたが、当時の先輩後輩の関係の中で、土下座をさせられたHTNの屈辱感も並々ならぬものとして伝わり、詳細を聞くのがはばかれる、話題にするのもはばかれるというような雰囲気があったと記憶しています。

KYNはもともとガキ大将のような存在でしたが、中学生の頃になると率先して模範的な行動をするような一面もあったかと思います。たしか3年生の時は、生徒会長にもなっていたような憶えがあります。部活での後輩の面倒見もよい感じだったので、その延長で土下座をさせたのかもしれません。

TYの方は野球部でした。ふだんは外のグラウンドで練習をしていましたが、雨の日はどこで練習をしていたのかよく憶えていません。体育館でやっていたことも考えられます。KYNとTYの関与の度合いも、どちらが主導的だったのかも私にはよくわかっていません。

同じギターの趣味もあったので夜にはよくKYNの家に遊びに行っていましたが、そこでもHTNを土下座させたことを話題にするようなことは一度もなかったと思います。

体格のよかったTYらが相撲部に入部すると私はまもなく相撲部をやめました。熱心に誘われて入部してきた期待の選手で、体格も小さかった私は戦力外もいいところだったので、いるだけ無意味という気持ちにもなってやめたのです。

もともと好きで相撲部に入ったわけではなく、小学校の5年生ぐらいから付き合いのあった近所に住む一つ年上の先輩に誘われ、入部したのです。初めは同級生の部員は私ともう一人の二人だけでした。もう一人は100㎏を超えるような恵まれた体格で、期待の新人でした。

期待されただけの実績は残せず、大会で上位になったという話も聞かなかったと思いますが、体格や資質を買われたのか、相撲部の選手として金沢市の金沢高校に進学しました。推薦か何かは憶えていないですが、とにかく相撲をするために進学したと聞いています。

当時、地元における相撲の人気は根強いものがあったと思われます。大相撲では能登出身の横綱輪島関が現役で活躍している時代でもありました。輪島と言っても輪島市ではなく、七尾市の石崎の出身だということです。

相撲部の練習はほとんどが水産高校で高校生と一緒にやっていました。半透明のトタンで作ったような小屋に土俵が一つある練習場でしたが、私が中学一年生の年には金沢市の卯辰山の全国大会で、準優勝になっていました。練習も厳しかったです。

その4,5年前には同じ卯辰山の大会で全国優勝しました。考えてみると私が宇出津に引っ越した後だったと思います。町を挙げて祝福したり、パレードのようなこともやっていたような記憶があります。辺田の浜から宇出津の小棚木に来たのは昭和50年の4月でした。

静岡県の富士宮東だったかに決勝戦で負けて準優勝になったのは昭和53年の大会と思われます。そうやって考えると、全国優勝した人たちとも、これまで思っていたほどは年が離れてはいなかったようです。小学校4年生の時の高校3年生ということになると、これまでの認識と違いはないですが。

そういえば、被告訴人HTNが宇出津のあばれ祭りで、神輿にちょっかいを出し、強い制止を受けてけっこうな怪我をし、しばらく入院していたということがありました。怪我をさせた相手が全国大会で優勝した時の大将だと聞きました。あるいは個人戦でも全国優勝していたかもしれません。

高等学校相撲金沢大会|歴代優勝校・優勝者 http://hk-event.jp/sumou/winner.html ←こちらに資料があったので確認できました。私の記憶には間違いがあり準優勝は昭和52年、優勝したのは昭和49年の大会になっていました。個人戦の優勝もなかったようです。

宇出津のあばれ祭りというのは現在7月の第一の金曜日と土曜日になっていますが、10年ほど前までは7月の7日と8日に決まっていました。祭りで怪我をしたHTNは、持木病院に入院したと聞いていたように憶えています。

同じ年ではなく翌年ではなかったかと思うのですが、輪島の祭りでも怪我をして、持木病院に入院していました。一度、病室に見舞いに行ったのもこの輪島での怪我の時ではなかったかと記憶しています。

どちらも金沢のヤクザをやめた後のことであったと思います。輪島の祭りというのは私自身見に行ったこともないのですが、近年の情報によると輪島大祭と呼ばれ、8月の23日から25日の3日間にわたって行われているようです。

7月も8月も本来、小木や姫の遠洋漁船の漁師は地元にはいない時期だと思います。中には日本海と呼ばれ、北海道の小樽港には行くものの一月に一回ぐらい陸に上がるか小木に戻っている漁もあると聞いていましたが、稼ぎも少なく若者は余り乗らないとも聞いていました。

輪島の祭りでは金沢でのヤクザ仲間数人といたらしく、「輪島がなんぼのもんじゃい」と啖呵を切ったところ、一緒にいた仲間が逃げ出していなくなり、大勢に袋だたきにされ、バットで殴られたという話も聞きました。

グループ同士で喧嘩になって、一緒にいた仲間が一斉に逃げ出して、袋だたきになり半殺しにされたような話は、他にも何度か聞いたことがありました。

大怪我にはならなかったようですが被告訴人KYNも片町で似たような目にあったと話していたように思います。それとは別に、ヤクザとトラブルになり面倒なことになったと話していたこともありましたが、それも黒田2丁目のマンションに移った後のことだと記憶しています。

当時の彼は災難続きだったのか車の事故のことでも、どこかの家に謝罪に行き、相手の家族がしゃぶしゃぶを食べていたとか話をしていました。一方的な彼の話だけ聞いていたのですが、相手が金持ちなのに理不尽なことになったような話だったと思います。

同じ事故の関連だったのかは憶えていませんが、自分の車を板金の修理に出したところ、エンジンを載せ替えたと言われ、びっくりするような請求を受けたと話していました。金沢市の専光寺の方にある川上板金という工場でした。「かわかみ」でしたが、漢字ははっきり憶えていません。

金石から松任市内に行く主要道から少し入ったところでしたが、周囲が田んぼばかりだったので、大きな建物ではなかったですが、割と目立つ建物でした。板金屋としては割と大きな工場だったと思います。

この板金屋のことは昭和58年頃から知っていたと思います。金沢市内観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込んでいた頃のことですが、8号線バイパスの藤江の陸橋の側に、2階建ての割と大きなアパートがあり、輪島の暴走族のたまり場になっていました。

被告訴人YSNが乗務していたトラックのペンキの塗り替えで彼とこの川上板金に行ったのは平成3年の秋で、10月中ではないかと思います。あるいは11月中です。これには驚きましたが、YSNに昔話をすることはなかったと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月13日

被告訴人YSNの乗務していたのは2313号というナンバーだったと思います。ちょっと記憶に自信が持てなくなっていますが、以降2313号として説明します。三菱ふそうの10トンウィング車だったと思います。

既に書いているはずですが、平成3年1月17日に納車された日野の10トンウィング車に私は乗務しました。この車番というかナンバーが2315号だったと思います。登録順に番号の数が増えていくとも聞いたことがありますが、ほぼ同時に納車されたトラックです。

私が乗務したのは日野のトラックでしたが、同じ日野のウィング車がもう一台ありました。そちらの車番の方は記憶にしていませんが、それまでずっと保冷車に乗務していたKOが初めに乗務したと記憶しています。しかしそれも短い間で、次に乗務したのが小坂さんだったように思います。

なお、前にも少し触れていると思いますが、昭和62年の4月に納車されたイスズの10トン保冷車は「石」ナンバーでした。翌年の昭和63年に納車された10トン冷凍車は「石川」ナンバーになっていたはずです。なお、冷凍機付きの冷凍車は88ナンバーにという違いもありました。

冷凍機付きの保冷車と書いた方が良かったかもしれないです。たぶん現在では冷凍機付きでない保冷車というのは、ほとんど存在しないような気がします。昭和63年頃から冷凍機が積み荷の条件となりつつありました。レタスなどの野菜でも5度の低温で輸送するという指定です。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月14日

2313号に初めに乗務したのも小坂さんだと記憶しています。それまで小坂さんはずっと平ボディ車に乗務していたと思います。経験や好みも大きいのですが、平ボディ車は大きなシートを掛けることが多く、水濡れも常に気に掛けないといけないので、嫌がる人も多かったです。

一方で保冷車のような屋根がないので、パレットに載った荷物や、機械などフォークリフトで積み込んでもらえる荷物も多いので、その方が良いと考える人もいたようです。保冷車や冷凍車は箱車とも呼ばれていましたが、荷物の手積みが多いです。やはりそれを嫌がる人も少なくはなかったようです。

先に山越のことについて続きを書いておきますが、山越の現場での仕事が始まった頃、天井付近でのメインのような配管の仕事が多かったです。作業に必要なものはウィンチという機械で、天井から釣り上げることが多かったです。5インチと思われる配管ですが、あるいは4インチだったかもしれないです。

4インチだと内径は約125ミリということになるかと思います。それも配管としては大きく重いものです。そのほとんどはすでに天井の方に配置されていたように記憶しています。継ぎ目などの加工した配管はウィンチで吊り上げたような記憶もあります。

山越の現場での仕事が終わりの方になった頃のようにも記憶しているのですが、初めに定尺のメインのような配管を天井付近に吊り上げたのはM君もいたそうですが、M君はその配管をミスで落下させたと聞きました。あり得ないとも思いました、重量的にもとんでもない事態が想像されたから。

金沢市入江のアンカーインについてもまだ書いておくことがあるのですが、被告訴人KYNと安原工業団地のS設備の社長が、スナック内の床にビールをまき散らすなどして、出入り禁止になったと聞きました。一度はその場にもいたようにも記憶していますが、動機は全く不明のままでした。

山越の現場におけるウィンチのことですが、普通は重量物を取り扱う工場に設置されているUFOキャッチャーのような道具を想像されるかと思います。そうではなく携帯して手動で吊り下げて使う道具でした。おそらくはレンタルのものかと思われます。重量も2,30㎏程度かと思われます。

何が言いたいのかというと建物に構造的に組み込まれ設置されたものではないので、ただでさえ人為的なミスが発生する可能性は高かったと言うことです。言い換えれば危険性も高い作業です。

配管のパイプというのは定尺で5メートルではなかったかと思います。あるいは既に4メートルと書いているかもしれないですが、ちょっとはっきりとは思い出せません。鉄筋の場合は7メートルという定尺もあったかと思いますが、混同している部分もあるかもしれません。

いずれにせよ長いものなのでバランスが大事です。4インチの定尺のパイプを20メートル上の天井付近まで吊り上げる様子は私自身、見たような記憶がないですが、2点吊りでも、相当に危ない作業であったことは容易に想像がつきます。ウィンチの操作は安定したものでも難しいところがあります。

そもそも20メートルの上までウィンチで引き上げたのも疑問に思えるぐらいなのですが、たしかにこの現場の作業では、最初の方に天井付近でメインというか一番太い配管の作業をしました。

図面か写真でもあれば説明も容易かと思うのですが、絵を描くのも苦手なのでうまく表現できません。イメージで言えば、テレビゲームの中に出てくるステージのような現場でした。鉄骨のような骨組みは4つか6つのブロックになっていたと思いますが、ブロックの間の間隔は3メートル程度かと。

この間隔は通路にも相当するものでしたが、何か昇降式のフォークリフトのようなもので、倉庫の保管物を出し入れするという感じでした。天井から床の間の空間というのも、その通路部分だけだったので、その間にウィンチを据え付けていたはずです。

階段のようなものもなかったので、骨組みの間を上り下りしていたと思います。かがんで作業していたようにも思うので一段あたりの高さは高くても1メートル50センチ程度かと思われます。最終的には一段ごと1.5メートル間隔ぐらいでスプリンクラーのノズルのような配管を取り付けたと。

この現場では他にも変わったことがありました。私たちが作業していたのはたぶん外から見ると25メートルほどの高さの建物でしたが、奥の方には平屋の工場のような部分もあって、いろいろな業者が集まった現場になっていました。

他の現場と違って親会社の監督らしい人とのうちあわせというのも私は記憶していません。小さな現場事務所があったような気もしますが、中に入った憶えもなく、作業員の休憩所というのもなかったか、利用することがなかったように思います。

ただ、朝の朝礼には何度か出た憶えがあり、朝礼に出るようなお達しも出ていたように思います。ある程度の規模の現場になると、他にもそういうことは多少はあったと思いますが、とりわけこやかましい面があるようでした。おそらくその反感や反動があったものと思われるのですが、とんでもないことが。

現場には仮設のトイレがありました。大便用のボックスで2つぐらいだったでしょうか。この数は、比較的少ない感じでもありました。小便器の方は横にあって、外にむき出しの状態になっていたのですが、ある日、その小便器に一人分とは思えないような大量のウンコがしてあったのです。

誰がやったのかという話も聞きませんでしたが、現場における特殊な空気とその積み重ねがもたらした所産のようにも思えました。他の業者の人と話をする機会もなかったので、何もわからなかったですが、ほかにはない経験の現場でした。総括の監督に対する仕返しのようなことは耳にしました。

また、上からの落下物の可能性が際立って高い現場でしたが、そんなことに関する注意を監督の訓辞から受けた憶えもなく、現場のことを全く理解も把握もしていないように思えましたが、熱弁で演説をするような光景は、朝礼で目にしていた記憶が残っていますが、内容はさっぱりです。

この山越の現場の仕事は、若宮大橋の近くのS設備の応援だったと思います。応援のようでしたが、下請けに近かったようにも思え、S設備の人と一緒に作業をした回数も、少なかったような気がします。仕事自体にも慣れていない時期で、高所では気も張り、色々と余裕のない時期でもありました。

M君がこの山越の現場にいたという記憶はないのですが、M君のことを知ってすぐの頃、M君らが4インチの配管の搬送をしたと聞きました。その際に、配管を落下させたような話も既に書いていると思います。M君に対して不信感を持っていた時期ではなかったので、さほど真剣に話しも聞いていなかったと。

あの大きくて重いパイプを落下させたという話を聞いたときは驚きましたが、どの程度の高さから落としたとか、壊れたものがあったのかという話は聞いておらず、なにも質問することもなかったと思います。おかしいと思い始めたのは、配管の漏れと検査の問題が出るようになってからです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月15日

私と同じ日野の10トンウィング車に乗務したと記憶しているKOですが、彼も小木の遠洋漁船の元漁師でした。私が2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年8月の時点では、既に10トンの保冷車に乗務していたと思いますが、昭和59年10月の私が初めに辞めた時点では会社にいませんでした。

KOも小木中学校だったと本人から聞いていましたが、家は海岸線で小木と松波の中間に近い新保だと聞いていました。当時はいずれも珠洲郡内浦町でしたが、町役場があるのも松波でした。新保だと小木中学校にも松波中学校も好きな方を選べるけど、自分は小木中学校に行ったと話していたと。

何度も書いていると思いますが、小木も松波も平成17年に市町村合併で宇出津と同じ能登町になりました。紛らわしいですがそれまでの宇出津は鳳至郡能都町でした。「のとちょう」と「のとまち」と読み方も違っています。松波も宇出津から距離にして10キロ程度かと思います。

宇出津から小木も10キロ弱だと思いますが、そのまま小木を経由すると松波までは中間に近いという感覚があります。国道沿いに宇出津から松波に向かうのは国道249号線ですが、地元では途中の地名で「十八束」と呼びます。珠洲行きのバスは十八束経由と小木経由があります。

私たちの世代では宇出津と松波の交流は乏しく、小木との交流は多かったです。地域性のようなものもあったかと思いますが、相性がよくないという気もしました。近い割に情報も少なく、なじみも少なかったです。新保の周辺には白丸や川尻という集落もありますが、さらに知らない土地でした。

私の記憶にあるところ、KOはずっと一台だけだった三菱ふそうの10トン保冷車に乗務していました。確か冷凍機がついていたので冷凍車だったと思います。入社したての頃は、6トン車に乗務していたという話もしていいたかもしれません。

他に身近なところでは知り合った頃から、宇出津の私より一つ年下の女性と結婚していました。正確に言えば崎山だと聞いていました。たぶん住所では宇出津と崎山は区別されているように思いますが、地元では宇出津と同じ感覚ですが、宇出津のあばれ祭りでも参加の町内になっています。

崎山台地は私が小学生の低学年、昭和40年代の後半から造成された住宅地です。能都中学校から水産高校の方に行くときも崎山台地を歩いて通っていました。台地の斜面の宇出津港に面した辺りは、酒垂や大蔵町という宇出津の町内です。高台にある酒垂神社の社殿も崎山台地の一部という感じです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月16日

KOは北安江のアパートに住んでいたようです、何かの機会にアパートの前まで行った憶えがあるのですが、中になることはなかったです。木造の古いアパートで家賃も安そうでした。余り行くことのない辺りでしたが、平成9年頃にはそのあたりも随分と変わっていたと思います。

平成9年になると、北安江は中央市場の方から来る新しく広い道も出来ていました。その頃になると近くにアルプラザ平和堂という大きなデパートが出来たこともあり、金沢市内でもけっこうな一等地という感じになっていました。元々、駅西という金沢駅の近くだったのですがアパートの相場も安かったかと。

金沢市の駅西というのは元々、駅の裏手で辺鄙な感じだったのですが、大きな西口が出来てそのあたりの駅構内の店も増えていました。そのうち香林坊の近くにあった石川県庁が、駅西から8号線パイパスをこえた辺りに移転になりました。地名は鞍月だったかと思いますが、以前は田んぼだったと思います。

県庁が移転する前の感覚で言うと、駅西の真ん前あたりは別に、北安江を含め少しでも離れると、貧乏人や低所得者が多く住むというイメージあったかと思います。アパートの家賃の相場も安かったと思います。買い物など生活上の不便もあったかと思いますが、店も増えては行きました。

中央市場のあるあたりは西念ですが、昔から土の質が悪く畑にも適さないやせた土地であったと聞いたこともあります。周囲を含め、少し離れると空き地や田んぼ、あるいは畑の多い地域でしたが、平成9年の時点でもずいぶんと変わったものだと思っていました。

私自身、平成9年の7月の初めから北安江の借家で住むようになったのですが、それも思いも寄らぬことではありました。住むことが決まったのは入居する一月ほど前だったと思います。とんとん拍子でことが運んだのも被告訴人OKNのおかげではありました。

石川県金沢市北安江4丁目15-30 (株)北栄 - Google マップ http://bit.ly/1mlfz2N ← 思い出して調べてみたのですが住所はほぼ違っていないと思います。一時期、市内配達でよく行っていた配達先でした。

KOのアパートもこの北栄の近くであったと思います。北栄にはよく行っていましたが、長距離の仕事ではなかったと思うので、北都運輸の市内配達をしていた平成1年の春から秋だと思います。マヨネーズやドレッシング、ジャムを主に運んでいました。業務用が多かったとも思います。

KOが10トンウィング車に乗務したようなことは、割とはっきり記憶にあるのですが、その後、仕事でも余り顔を合わせなかったような気がします。今改めて考えてみると、平成3年の秋以降に、会うこともなかったような気もします。保冷車というか魚を運ぶ仕事に戻ったとは耳にしたように思っています。

既に書いたと思いますが、茨城県古河市の山三青果の仕事が始まったのは平成2年の12月の初め頃で、本格化したのは平成3年の1月に入ってからだと思います。私が乗務した日野のウィング車はイラク攻撃が始まった1月17日の朝に、納車になりました。

栃木へのトナミ運輸の定期便と、千葉と埼玉県岩槻市の2カ所おろしの日通の定期便があって、その2便が、復路の山三青果の仕事とセットになっていました。基本的に毎日大型車2台の積み荷というなっていたと思いますが、大型車一台分の荷物というのも少なくなかったと記憶しています。

山三青果の仕事では行き先というか荷物のおろし先が4カ所と決まっていました。富山、高岡、金沢、福井です。2台入っているときは、基本的に2カ所に分けて積み込んでいたと思います。一カ所だけ極端に荷物が多い場合は3カ所と1カ所になっていたと思います。

これが1台となると、4カ所おろしになりました。仕事内容はかなりきつくなりますが、1カ所おろしでも運賃も給料の歩合も違いはなかったと思います。今考えると、私は4カ所おろしが多かったという気がするのですが、嫌がる運転手が多かったので、これも集中的に割り当てられたのかと思います。

高岡の市場は高速道路である北陸道のインターからも離れていたので、それも手間でした。鮮魚では滅多に行くことはなかったですが、青果物では行くことの多い市場でした。富山の市場は高速のインターに近く、鮮魚の時も必ずに近く立ち寄っていました。

4カ所の場合でも福井の分は、金沢で4トン車に中継に出すことになっていました。ほとんどの場合、中継に来ていたのは被告訴人UHKか被告訴人TTKでした。被告訴人HTNは一度だけ来たようにも思います。福井まで同行したような記憶も残っています。

希に4トン車には乗りきらないほどの福井分があるときがあり、3回ぐらいでしょうか。被告訴人TTKを10トンウィング車に同乗させて、福井までおろしに行くこともありました。以前はこまかい日付まで、ほぼ特定できていたかと思います。

(株)古河中央青果地方卸売市場 - Google マップ http://bit.ly/1b9GkSS ← それらしい名称になっていますが、山三青果が入っていた市場とは違っています。建物も比較的新しく見えます。ストリートビューで見ることが出来ました。

私の記憶にある古河の青果市場はバイパスではない国道4号線沿いで仙台方面に向かい、古河の中心部を抜けてすぐ、新幹線のような高架が交差する陸橋の手前を右に入った左手にある敷地でした。敷地の中には食堂も一軒ありました。山三青果を含め10にも近いような業者の数だったと思います。

茨城県猿島郡境町塚崎2817 山三青果店 - Google マップ http://bit.ly/1bVm8iI ← 古河の市場の中の山三青果は出張所という感じで古くて狭い事務所でした。会社の住所はこのように猿島郡になっていました。

平成3年の9月にはいると、山三青果の仕事は金沢市場輸送から離れ、市場急配センターの仕事になりました。それにともない金沢市場輸送から被告訴人東渡好信と、輪島のHさん、諸江に自宅のあるKさんが、市場急配センターに移動してきました。

金沢市場輸送で乗務していたウィング車と一緒に移ってきたように思います。東渡とHさんは、その年の3月か4月に納入されたウィング車に乗務していました。どちらも日野だったと思いますが、あるいは東渡の方は三菱ふそうだったかもしれません。2台ともそれまでとは違うカラーとデザインでした。

諸江のKさんですが、初めにどのトラックに乗務していたのか思い出せません。しばらくして東渡が配車係をするようになってからは、それまで東渡が乗務していたウィング車に乗るようになっていたような気もします。長距離の出先の仕事で一緒になることもほとんどなかったように思います。

東渡ら3人が市場急配センターに来るような話は、実際に来る一月ほど前から話が出ていたと思いますが、被告訴人IHKも被告訴人UHKも当初は、不安そうなそぶりを見せたり、面白くなさそうな態度を見せていました。

被告訴人東渡好信が白昼に包丁を振りかざし、被告訴人MHK社長を追いかけ回したという話は既に書いていると思いますが、その原因と言うことになっていたのは、東渡が金沢市場輸送で乗務していた新車のウィング車を取り上げ市場急配センターに持って行くと話を決められたことに腹を立てたことでした。

被告訴人TSK会長と被告訴人MHK社長が相談も断りもなく勝手に決めたことに逆上したということになっていましたが、それが本当の事実とは思えませんでした。移動先の市場急配センターの方で反発を予想して、威嚇を込めた演出とも考えましたが、3者で通じているだろうとは思っていました。

実際に私が金沢市場輸送を辞めようと思った動機の一つは東渡好信の勝手な振る舞いがありましたが、市場急配センターに移ってからは割り切って考えるようにもなっていました。ただ、彼らが来るなら私が辞めると言い出すことを、彼らが予想したことは十分に考えられるとは思います。

そういえば思い出しましたが、平成4年の1月か、2月に入ってから日差ディーゼルの新車のウィング車が2台入ったように思います。一台は、被告訴人HTNが乗務したように思います。もう一台が諸江のKさんだったような気もしますが、2台だったかも記憶がはっきりしなくなっています。

ついでに思い出しましたが、3月になると保冷車か、それに冷凍機までつけた10トンウィング車が新車で入って、それに輪島のHさんが乗務したようなことを思い出しました。当時は鮮魚も運べる10トンの保冷のウィング車というのは珍しかったし、値段も高いと聞いていました。

金沢市場輸送のトラックはほとんどが極力安上がりに作られていました。冷凍機でも本来は6トン車に取り付けるものを10トン車に取り付け、体裁を取り繕っているとも聞きましたし、急ぎの鮮魚や冷凍魚など重量物を運ぶ運送会社としては、かなり珍しくターボ車を使っていました。

保冷車のエンジンはV型エンジンで8気筒のV8か10気筒のV10がほとんどでした。ターボ車は馬力はありましたが、坂道での力強さに欠け、下り坂でのエンジンブレーキのききもよくはなかったです。V型エンジンに比べると燃費が極端に良かったことも、会社にしては好都合だったようです。

イワシを運ぶトラックやダンプはすべてV型エンジンにはなっていたと思います。他にも細かいことまで色々ありましたが、極力安上がりのトラックするというのが金沢市場輸送の伝統的方針でしたが、市場急配センターのMHK社長の方は割と気前の良いところもありました。

初めに金沢市場輸送から市場急配センターに来たウィング車は、三菱ふそうのウィング車で車番が2313号だったと思います。2313号については、数日前にも説明を書いていると思います。9月に入る前の8月の終わり頃でした。

その2313号の初めの運行で、私は被告訴人YSNと二人で神奈川県に荷物を運びました。運行自体は9月にまたがっていたようにも思います。何を積んでいったのか憶えていませんが、貸し切りの雑貨のような荷物だったと思います。

神奈川県でも厚木市ではなかたかと思います。配送センターのような倉庫の前の広い駐車場にトラックを止めていたのですが、夜中に騒がしい音や声で目が覚め、外を見ると敷地内にあったファミリーレストランの店員が、酒盛りをして騒いでいました。

帰りの荷物は、荷下ろしをした午後に、東京の晴海で外果の果物を積みました。外国から輸入されてきた果物を外果と呼んでいましたが、バナナやオレンジ、キウィ、パイナップルなどがありました。

平成9年の9月から10月頃は、このように東京から外果を積む仕事が何度かあり、晴海の他、豊海にも積むところがあったような気もしますし、有明には2,3回行っていると思います。

金沢市場輸送で東京の港から外果を積むような仕事はなかったような気もします。大阪や神戸の方では時期的にけっこうあったと記憶しています。市場急配センターでも一度、泉北とかいう辺りの泉佐野市だったかにキウィを積みに行ったことがありました。

この泉佐野市の倉庫から会社に電話を掛けたときも、電話のなかで印象に残ることが被害者AAさんとの間にありましたが、これも現在は具体的なことが思い出せなくなっています。

このあと会社の指示で、被告訴人YSNと同乗して長距離の仕事に出たという記憶は、現在明確には浮かばないのですが、9月に入ってから市内配達の仕事をすることはなかったと思います。

考えてみると日野の新車のウィング車である3068号が納車されたのは平成3年10月12日だったので、それまでの間、どのトラックに乗務していたのか、どんな仕事をしていたのかも、現在はすっきり思い出せず、記憶の衰えを改めて感じました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月17日

3068号が新車で来たときのことを書いたので、ついでに当日の様子も書いておきたいと思います。昨夜まですっかり忘れていましたが、前後のことを計算に入れても10月12日で間違いないと思います。カレンダーでも確認しましたが土曜日です。

なおカレンダーはパソコンのLinuxでcalというコマンドを利用しています。「cal 1991」とコマンドを押すと、平成3年のカレンダーが表示されます。間違っているようなことはまずないと思っています。

新車は午後に日野の方から市場急配センターの会社に持ってきたと記憶しています。しばらく待たされたようなことも憶えています。被告訴人IHKと被害者AAさんが事務所にいて、IHKがトラックが来たら私たちを乗せて欲しいと言いましたが、私は返事をしませんでした。

IHKの発言にすぐに反応するようなかたちでAAさんは、「わたし、運転してみたいぞいね。」とも言っていました。この時も彼女はおだやかでしたが、ちょっと反省しているような感じでした。

私が初めてAAさんに付き合って欲しいと言ったのは、ちょうどその一週間前の平成3年10月5日のことで、これも土曜日でした。当時はまだ大きな会社や銀行などをのぞくと土日休みの週休二日というのは、さほど社会に浸透していなかったと思います。

9月の中頃に、フィルム貼りを手伝ってもらったことがあり、その後も会社で彼女の方から話しかけてくれることが何度かあったのですが、私は8月に離婚していたことも隠していたので、対応に戸惑い、満足に返事をすることもなかったのです。

8月に入った頃の段階で彼女のことは意識するような存在になっていました。まさかという思いも強かったのですが、彼女が仕事を中断してフィルム貼りの手伝いに来てくれたときは、本当に驚きました。

その場の目撃者は、被告訴人TTKと津幡のYTという運転手、そして被告訴人MHK社長の友人で頻繁に会社に出入りしていたカベヤとも呼ばれた人物。カベヤの直後には被告訴人TSK会長も歩いて通りかかり、ずいぶんと驚いた反応を見せていました。

一番わかりやすかったのは「カベヤ」ですが、「お前ら、夫婦やったんか?」と反射的な感じで声を掛けてきました。この質問自体があり得ないという気もしたのですが、演技をしていたようにも思えませんでした。

それと前回、マルモ設備について書いたときに思い出したのですが、マルモ設備のパンチパーマの整備士も、もの凄く驚いた顔をしていました。。私としても忘れかけていた人だったので、久しぶりに姿を見ただけでも驚いていました。

前回、どういう流れでマルモ設備のことを書いたのか、ちょっと思い出せないのですが、金沢市場輸送にいた頃、よく行っていた整備工場です。ちょっと説明しにくい場所なのでGoogleマップで調べてみます。金沢市なのか野々市町なのかも、微妙なあたりかと思います。

調べているところなのですが、私が金沢市内だと思っていた御経塚が、現在は野々市市になっているようです。御経塚までもが野々市市であれば、マルモ設備があった場所も野々市市内に間違いはなさそうですが、そもそも野々市市は最近出来たもので、以前は石川郡野々市町でした。

スーパーオートバックス・金沢野々市店 - Google マップ http://bit.ly/1frUnPJ ← だいたいの場所になりますが、このカー用品点は隣にゲームセンターがあって、そのどちらかの裏手のちょっとはいったところにマルモ設備がありました。

つい最近新しくなったGoogleマップでは関連した店舗の写真を見ることが出来ましたが、野々市店だとすると平成の初め頃とは店舗がまるっきり違っていますし、駐車場自体がずいぶんと広くなっています。8号線バイパスに面しているはずですが、当時は店舗自体もほぼバイパスに面していました。

マルモ設備にはちょっとしたトラックの修理にも行っていたと思いますが、ほとんどはオイル交換が目的はなかったかと思います。会社の指定でオイル交換に行っていました。大きな不調とかになると、日野やイスズのトラックのメーカーの工場に行っていました。

私は2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年の8月以降は、移転した市場急配センターを含め、保険を使うような事故は一度も起こしていないので、事故の修理についても記憶には残っていないのですが、ちょっとした修理はマルモに行っていたと思います。

トラックのオイル交換は1万キロ毎、ということになっていたと思います。一月に1万5千キロぐらい走ることが多かったと思いますので、2ヶ月に3回という頻度で、マルモ設備にオイル交換に行っていたということになりそうです。

初めの頃は、直接トラックに乗ってマルモ設備に行っていたという記憶が多いのですが、そのうち会社に取りに来てもらうようになっていたような気もします。よくわかりませんが、平成2年頃になるとマルモ設備にはほとんど行っていなかったような気もします。

マルモ設備には何かのついでに行くことも多く、妻子を同乗させていることも多かったように思います。それでマルモ設備の整備士も、私の妻子のことはよく知っているはずで、それだけに驚きも多かったのだと思いますが、こちらが驚くぐらい衝撃を受けたような様子でした。

当時のことを思い出しているうちに、ぼんやりとですが、その後オイル交換は、会社で運転手が自分でするようになったような気もします。2回に一回だったかのオイルフィルターや、その取り外しの道具のこともなんとなく思い出しました。会社にオイルのドラム缶があったような気もしてきました。

20年以上前となると、細かいことで思い出すのも困難なことがありますが、地図や住所などを見ていると、わかっているはずの自分でも調べるのが困難で、時間が掛かりすぎると感じることもあります。

当時のマルモ設備は、いかにも自動車工場らしいという建物でしたが、同じような建物が敷地内に隣接していて、隣の方も別の自動車工場であったような記憶もあります。社長が一人と、整備士が2人の小さい工場で、整備士は2人とも、当時20代後半と聞いていたような気もします。

社長が柳田村の出身であるということは、既に何かの折りに書いたように思いますが、けっこう年配で50歳代にも見えました。昭和59年の段階では、マルモ設備というのはまるで縁のない工場で、全然知らなかったと思います。

似たような関係の会社で「金沢デンソー」という小さな会社がありました。従業員もいないような会社にみえました。主に電気系というの問題で、修理などに行っていました。昭和59年当時も何度か行っていたのですが、平成になった頃には縁も切れたのか、全く行かなくなっていたように思います。

しかし、個人の客として行ったのだと思いますが、平成4年になってから乗っていたアルトワークスの軽四のカセットの修理で店に行っていたように思います。当時はCDはカーオーディオとして普及していなかったので、カセットで音楽を聴いていました。

修理でカセットを直してもらったのは、平成4年4月1日の事件当日だったようなことも思い出してきました。

金沢デンソーのことで一番憶えているのは、昭和62年の4月頃、新車で乗務してまもなかった10トン保冷車の7599号で、カセットが鳴らなくなり、持って行ったところ、カセットの中から大量の小銭が出てきたことでした。これには主人も驚いていましたが、同乗していた長男が詰め込んだものです。

同じく事件当日は、西念町の歯医者にも行きました。50メートル道路に面した大きな交差点の角のようなところにある大きなマンションの上の方の階にある歯医者でした。中央市場に近いと言うことで、数年前から通っていました。

仕事をしていた妻の関係で、長男を連れて何度かその歯医者に行ったこともあったのですが、一度、黙ったまま診察室にはいると、長男が泣きながら後を追ってきて、数人の看護婦さんたちに取り押さえながら、手をさし伸ばしていた光景が印象的でした。

事件当日は新しく引っ越しをするワンルームマンションの入居の契約がスタートした月初めでもありました。鍵が使え自由に出入りできるようになった初めての日ということで、引っ越しは次の土曜日に予定していて、被告訴人OKNと被告訴人KYNも手伝ってくれることになっていました。

それまで住んでいた東力2丁目のアパートは、昭和59年の4月頃からずっと住んでいました。初めに被告訴人OKNと一緒に借りて住み、家賃を折半していたことも、昨年中には本書においてもすでに書いているかもしれません。契約上の名義は初めから私になっていたはずです。

結婚をし子供が生まれてからも、ずっとその東力のアパートで生活をしていました。6畳2間で風呂付きでしたが、家賃も比較的安かったです。初めは2万8千5百円でしたが、大家さんの好意らしく古くなったということで、途中から2万6千5百円になっていました。

平成3年10月12日のことに説明を戻します。時雨模様で雨が降っていたような気もするのですが、天気の良くない午後でした。新車のトラックが来ると、すぐに石川護国神社にお払いをうけに行きました。金沢市の中心部で兼六園の裏の方、Googleで確認すると住所も金沢市石引になっていました。

そのあと会社に戻ってから何をしていたのかよく憶えていないのですが、他の運転手の荷物の積み込みの手伝いに行っていたような気もします。私としては自分の荷物は一人で積め、という考えだったのですが、市場急配センターでは大勢でやることが少なくなかったです。

その日はなぜか遅い時間まで会社に被害者AAさんがいました。普段彼女は17時過ぎから遅くても17時半には帰っていたので、かなりの例外の一つです。10月の12日ということを考えると、日の暮れる時間というのも、まだそう早くはなかったのではと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月18日

宇出津・恵比寿の堤防/フグ・マハタ・キジハタ釣り_2013年10月12日 http://bit.ly/1dFcq8y ← 参考としての日が暮れる時間です。Picasaウェブアルバムを使っています。

私は3つのGoogleアカウントを取得しているのですが、こちらは一番前から使っているものであり、プライベートななものを取り扱うようにしています。事件用に2つ目のアカウントを取得してけっこう長い間使っていたのですが、プログラムで写真をアップロードしていて不具合を見つけました。

大幅な手直しや混乱が生じると考えたので、3つ目のアカウントを取得し、写真資料に関しては、そのアカウントを使うようにしています。写真のアップロードの方も、直接、PythonのAPIを使うようにしました。自分のパソコンのデータとPicasaウェブアルバムを整合的に管理しています。

宇出津・恵比寿の堤防/フグ・マハタ・キジハタ釣り_2013年10月12日17時47分08秒.jpg http://bit.ly/1eK6tmg こちらが最も日暮れに近い時間帯の写真でした。

このファイル名にはデジカメの撮影時間を含めるようにしています。デジカメのファイルにあるExif情報から時刻を抽出しています。ファイル名全体も、まとめて一括に変更するようにしていますが、プログラムをスクリプトとして使っています。

PicasaWebアルバムについても別の機会にご説明を書きたいと思いますが、Google+に登録していると、一定のサイズ以下の写真及び画像ファイルはデータ容量にカウントされなくなり、事実上、使い放題という感じです。FacebookのようにExif情報が消されることもないようです。

ところで先に書いておきたいことがあるのですが、昨夜見ていたテレビドラマの中に気になる場面がありました。「隠蔽捜査」という番組ですが、来日するアメリカ大統領の暗殺を狙うテロリストグループと日本人協力者という内容の展開でした。

そのなかで、警察の厳重な警備態勢の中、大きな交通事故が起こり、追突事故のトラックの運転手が現場から行方不明になるという場面がありました。2人死亡しているので、動転して逃走したというが上司を含め大方の見方でしたが、偏屈ものの刑事が疑問を持ち一人で調べを始めます。

数日前から私は本書において、旧珠洲郡内浦町松波について、割とくどい説明をしてきたかと思いますが、それは蛸島のTSさんが自殺をした現場というだけではなく、他にも理由があるからです。距離的にも10キロ程度しか宇出津とは離れていませんが、余り縁のない土地であり、情報も乏しいです。

新保のKOですが、彼から以前とても気になる話を聞かされたというか聞いたことがありました。ある人物が新潟運輸の運転手としてトラックに乗務していて、関越自動車道の群馬県内、渋皮インター付近で居眠り運転をしていたところ。

蛇行していたような話であったと思いますが、後続のトラックがそれを避けようとして横転。居眠りをしていた運転手が駆け寄ったところ、横転したトラックの運転手は反応がなく、死んだあるいは殺してしまったと思いこんだ居眠りの運転手は、自責の念に駆られ。

近くの陸橋から飛び降りて自殺したという話でした。あるいは渋皮インターではなく沼田インター付近と言っていたようにも思います。どちらにせよ、その辺りは坂道が多く、カーブは比較的緩やかなものがおおいですが、とんでもなく高い陸橋がいくつかあることは、よく知っていました。

その居眠り運転をして後続車を横転させ勘違いで自殺したという運転手は、松波中学校の私の一つ年上の人でした。KOとは同級生にもなるはずですが、KOの方は小木中学校に通っていたと聞いています。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月19日

私の知る限り、当時金沢市内に新潟運輸の支店や営業所はなく、あるのは8号線バイパスから松任市内に入る道路沿いで、バイパスから入ってすぐに右手に大きな建物がありました。住所としてはあるいは野々市町になっていた可能性もあるかと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月20日

ちょっとパソコンの作業環境をWindows7の方に移行しようと準備を進めています。Windows環境のUNIXの対応は以前よりかなり悪くなっている感じもあり、長い時間を掛けたもののうまくいかなかったこともあって、仮想マシンをインストールしました。

このようなパソコン環境の話は個人的な問題のようですが、サイバー攻撃を受ける可能性もあるので、何かの場合はそくざに対応し、容赦も仮借もなく徹底的に相手を突き止めてください。そのための資料提供と、私自身のメモとして書いている事柄です。また、私個人の情報公開としての担保。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月21日

ここ2日ほどの間、Windows7でUNIX環境を構築していたのですが、予想以上に手間取ることが多く、時間も大幅に浪費してしまいました。以前はWindows8.1にまでアップグレードしていたのですが、TVチューナーを使えるようにするためWindows7をインストールし直しました。

結局、Windows7のEmacsからは自作のスクリプトでTwitterに投稿が出来なかったのですが、仮想マシンのUbuntuに共有フォルダのファイルとして同期し、そのUbuntuのEmacsからTwitterに投稿するようにしました。

Windows7の環境で作業する限り、今後は文章を書きながらその都度、ツイッターに投稿することは困難となり、ある程度まとめてから、Ubuntuの方でまとめて投稿することになると思います。

これまでたぶん半年以上、Windowsはほとんど使ってこなかったのですが、普通に使われているパソコン環境でもありますから、あまりブランクを長くするのもどうかと思いました。

それとUbuntuでの日本語の入力における漢字の変換効率が良くないのも、前々から不満に思っていました。UbuntuではATOK X3 for Linuxというのを使っていますが、インターネット上で購入してから、もう7年ぐらい経っていると思います。やはり効率が良くないです。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月22日

今日は16時ぐらいにようやくWindows7のEmacsで、Twitterに投稿するスクリプトの実行に成功したのですが、夜からはUbuntuに戻っています。日本語の変換効率はともかく、操作性や文字の見やすさは、やはりUbuntuの方が良さそうです。

Windows8.1をアンインストールしたことで、それまでの環境が失われましたが、Windows7をインストールし直してから、UNIX環境が随分と運用しづらくなっていると感じました。アプリやライブラリのメンテナンスが滞っているの一因かと思われますが、余計に手間も掛かりました。

Windows7では仮想マシンとしてUbuntuをインストールしましたが、日本語変換にmozcというGoogle日本語入力のLinux版を使ってみたところ、アップデートで驚くほど機能が低下、制限されていました。他にも色々ありましたが、勉強になることが多かったです。

Linuxは特に無償のボランティアに支えられている部分が大きいので、メンテナンスがされなくなると、使えなくなる機能も出てきそうです。Windows環境ではそれをいくつか目の当たりとして経験しました。

Linux 版 Adobe AIRのサポートが終了してからそのような傾向を感じてはいましたが、残念であるとともに、Windowsパソコンの良さと不便さ扱いづらさも、改めて感じています。

平成15年当時、ハッカーに関する論文で、Windowsでプログラミングすることはギプスをはめてダンスを踊るようなもの、という表現は今も当て嵌まっているし、ある面その傾向も強まっていると感じました。重ねて残念です。

新たなWindows環境では、javaの開発環境もインストールして、以前自作したプログラムを実行できるようにしました。そもそも自作のjarファイルを忘れたまま削除していて、別のサーバに保存していたものを探し出したり、改めて勉強になったり、経験を積み重ねることが出来ました。

そもそも私がLinuxと出会うことが出来たのは、被告訴人KYNの設備会社に勤めていた頃で、辰口の石川動物園や辰口庁舎の現場に通っていた頃のことでした。たまたま時間があって入った辰口の王様の本という書店で、たまたま見つけた本体660円の本がきっかけでした。

「パソコンを鍛える」という本ですが、今数年ぶりに手にとって開き確認したところ、1998年10月19日第二刷発行になっていました。この発行以前とは考えにくく、雪が降る前の割と暖かい時期だとも記憶しているので、平成10年の11月頃に買った本だと推測されます。

この本で私はUNIXに出会ったのですが、本の中にあるLinuxは、自分が所有しているパソコンがNECの98パソコンだったのでインストールが出来ず、駅西の書店で見つけた情報で、同じUNIX系のOSであるFreeBSDをインストールして使い始めました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月23日

辰口の大型書店でUNIXに出会う本を買った頃というのは、平成10年の秋になるはずですが、それはちょうど被害者の父親のAKさん宛にゆうパックの段ボール箱一箱分のものを辰口から郵送した頃でした。細かくは記憶にないですが、郵便局から郵送したはずです。

それよりいくらか前になると思いますが、しばらくの間、松任市の旭工業団地にもちかい、主要道路の大きな交差点の角近くにある工場の現場に通う時期がありました。工場の名前は憶えています。以前はテレビCMもやっていたような気がするのですが、最近は社名を見かけなくなっています。

今も同じ場所に工場が残っているのか確証は持てないですが、Googleマップで調べてみます。その方が、情報も正確になるかと思います。私の曖昧な認識や記憶にこそ、意味がある場合もあると考えていますが、そういう必要はない問題です。

36.547277,136.574777 - Google マップ http://bit.ly/1mAgVHh 石川県白山市宮永新町316 ← この辺りかと思います。Googleで検索したのですが、工場というかその社名自体の情報が見かけられなくなっていました。

社名は「若狭美術印刷」だったと思うのですが、「わかさ」の部分はあるいは別の漢字になっていたかもしれないです。東蚊爪の運転免許センターの近くにも同じ会社の建物があったような記憶もあるのですが、建物も小さく工場という感じではなかったです。

8号線バイパスから来る道と金石から来る道が交差して、松任駅の近くや美川方面にもつながる大きな交差点が「宮永」であったことは今回調べて気がつきましたが、近くに北陸道の白山インターが出来ていることも初めて知りました。

近くの工業団地も旭工業団地という現在の私の記憶は間違っていて旭丘が正しいようです。Googleマップでは、旭丘工業団地という名称はないようで、石川県白山市旭丘付近の工業団地と出ました。安原工業団地とは違うようです。

宮永交差点付近の印刷美術の現場では、大きな鉄の配管の溶接が仕事のメインになっていました。大きくて重い配管を支えて仮づけするのを手伝っていたのですが、わざとなのかわからないもののM君に何度か感電させられたことも印象に残っています。

溶接作業の感電は電気ショックのような衝撃を受けます。また、溶接作業中にも感電で死亡事故が起こることがあり、昔ほど多かったとも被告訴人KYNらに教えられていました。

仕事に余裕が出来たような時期にも思えたのですが、被告訴人KYNが私に、アーク溶接の練習と免許の試験合格を強く奨めた時期がありました。だいたいは平成10年の夏の終わり頃から秋の初めの方の時期だったと思います。

今、被害者の父親AKさんが当時部長をしていた旭丘工業団地の鉄工所についてインターネットで調べてみました。現在はグループという形態になっているようですが、規模がそれほど大きくなっているとは思えずグループも2社のようです。

ホームページを見たのも平成11年以来になるかもしれません。ホームページの内容も以前とはまるで違った印象も受けます。当時はAKさんの名前も記載され、職業安定所などの求人広告でも、AKさんが面接の担当者のように名前が掲載されていました。

現在も能登工場が珠洲市内にあると紹介されていますが、住所が珠洲市三崎町になっていました。能登半島の先端に近い辺りですが地図で確認すると三崎のなかでは手前側のようでした。以前は確か住所が正院になっていたような記憶があります。

廃止前の鉄道では、飯田駅の次が珠洲駅、その次が正院駅で、次が終着駅の蛸島駅だったと思います。蛸島は大きな魚市場のある漁港です。蛸島の先には鉢ヶ崎海水浴場があって日本の渚百選の一つにも選ばれていると聞きます。現在は近くに大きなホテルもあるようです。

私が子供の頃というのは、珠洲市に行くのに宇出津は国道沿いの通り道だったのですが、平成に入った頃には穴水から珠洲市に向かう山沿いの道が主要道路になりました。珠洲道路という看板もありますが、昔は農面道路とも読んでいました。舗装のない箇所もあったぐらいで、裏道に近い感じでした。

珠洲市の中心部は昔から飯田ですが、珠洲駅のあった辺りは野々江という地名のようです、買い物などに用事で行くときは野々江の方が多いです。珠洲市総合病院もその辺りになります。携帯ショップ以外でどうしても珠洲に買い物に行く必要はないのですが。

2011年の12月一杯ということになるかと思いますが、宇出津新港にあった橋本ホームセンターが閉店しました。同じ建物にホームセンタームサシがオープンしたのは昨年2013年の春頃ではなかったかと思います。

1年3ヶ月ぐらいの間、私が住んでいる宇出津の町にはホームセンターが不在でした。シメノドラッグというドラッグショップもあったのである程度のものはまかなえましたが、ホームセンターに行くため、珠洲に行く機会も何度かありました。

決定的に珠洲に行く必要性が出来たのは、宇出津にあった能登警察署が珠洲警察署に統廃合されたことです。昨年だったかなとも考えたのですが、ネットで調べると一昨年の2012年4月になっていました。

ついでに説明を書いておきますが、5年ちょっと住んでいた羽咋市から宇出津に戻ったのが2009年の3月15日のことで、そのあと珠洲市とは縁がありました。まず5月から8月の3ヶ月の間、パソコンの職業訓練で珠洲市飯田に通いました。バスで通いました。片道で900円ぐらいだったと思います。

ちなみに宇出津にあって珠洲市内にないものが宇出津新港にある職業安定所でした。羽咋市から戻った当初は真剣に仕事を探していました。その過程で職業訓練のことを知り、珠洲市に通うことになったのですが、委託された鉄工所の一部屋のような教室で、受講生も10人弱だったと思います。

宇出津の周辺で本格的な職業訓練所という施設は松波にありました。応募の面接などで2,3度、松波の職業訓練所にも行きました。募集の時期もずれていたので、パソコンでは珠洲の教室以外の選択がなかったのです。

結果的にワープロと表計算、どちらも2級の検定試験に合格することが出来ました。バスに乗って珠洲まで合格証書のようなものを取りに行ったのが、8月の20日過ぎではなかったかと記憶しています。

それからわずかに一週間ぐらいあとのことだったと思います。前の日の夕食に母親とサンマを焼いて食べたのですが、その翌日の朝、寝ている部屋に何度声を掛けても返事がなく、おかしいと思って部屋を開けると、ベットの上で母親が、少しも声を出せないぐらいにもがき苦しんでいました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月24日

今日の昼過ぎ、台所で昼食の支度をしているときに思いだしたことがあるので先に書いておきたいと思います。茨城県古河市の山三青果の定期便を金沢市場輸送が始めた頃のトナミ運輸の栃木便ですが、荷物を積むのは小松と金沢の二カ所ではなかったかと思います。

勧進帳

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月25日

石川県の小松市と行っても他県の人は全くわからない人が多いと思われます。石川県では金沢市が有名で人口もその周辺に集中していますが、小松市は金沢に次ぐぐらいの規模で距離にして30キロほど離れていると思います。

私がよく知る平成4年以前とは道路事情も含め随分と様変わりしているとは思いますが、以前は普通に小松市内の国道8号線を通過していました。市内の中心部は片側2車線の広い道でしたが、まもなく対面通行になり、もう少し行くと加賀市の看板が見えてきました。

その加賀市の境あたりの国道8号線沿いにトナミ運輸はあったと思います。福井方面に向かって国道の左側でした。自分の記憶では加賀市の看板を過ぎていたような気もするので、あるいは小松市内ではなく住所は加賀市内なのかもしれません。

金沢の会社からだと時間帯にもよりますが余裕を見て1時間の所要時間であったかと思います。福井から関西や九州方面に向かう場合は、福井の県境に近い加賀インターから北陸道に乗っていたはずです。金沢市場輸送では滅多にない経路だったと思います。

やはり小松で荷物を積んでから金沢に戻り、西インターの近くのトナミ運輸で追加の荷物を積んでいたはずです。この金沢のトナミ運輸からは、一時期、仙台か九州の福岡便もやっていたような気もするので、記憶があいまいにもなっています。

雑貨の仕事というのは夕方からの積み込みがほとんどでした。だいたい18時頃にはホームにトラックをつけて、積み荷が出来る状態にしていたように思います。高岡や富山の方が多かったと思いますが、よくあるパターンの仕事でした。

石川県金沢市神野町東202 トナミ運輸(株) 金沢支店 - Google マップ http://bit.ly/1hNepv3 ← 現在も同じ場所にあるようです。住所は森戸かと思っていたのですが神野町になっているようです。そういえばそういう地名もあったかと思いました。

その金沢のトナミ運輸で事故を起こした社員の運転手が、幌車の荷台で首吊り自殺をしたという話を聞きました。これも内浦町新保のKOから聞いたように思うのですが、現在の記憶では判然としません。

ただその話を聞いたとき、私は具体的に金沢のトナミ運輸のホームで、ホームの前の方に駐車してあるトナミ運輸のトラックのことを、頭の中で具体的に想像していたことを、割と鮮明に記憶しています。

金沢の西インターのトナミ運輸がある敷地は、結構広く、今考えると石川県では一番広い運送会社の敷地だったような気もします。そこはトラックターミナルとも呼ばれたか、そのような看板が出入り口の辺りについていたような気もします。

他の運送会社も数社入っている敷地で、ちょっとした工業団地に近いものだったと思います。入り口左側に若松梱包があって、そこにも金沢市場輸送の仕事で一時期、何度か行ったように思いますが、その辺りの記憶も曖昧になっています。

一番行くことが多かったのも印象に残っているのもトナミ運輸だと思いますが、その金沢のトナミ運輸に行くようになったのは、私が大型車で長距離の仕事をしていた終わりの方であったと思うのです。定期便の仕事も増えた時期でした。

なお、トナミ運輸の雑貨は、九州の北九州と福岡ではいずれも西武運輸のホームに荷下ろしし、福島県の郡山と宮城県の仙台はいずれも第一貨物のホームに荷下ろししていました。

これとは別に、中越運送の定期便があり、これも郡山と仙台おろしだったと記憶していますが、砺波の雑貨のどちらかが、仙台市の手前の名取市おろしだったとも記憶しています。仙台の方は4号線沿いのとても大きなホームの第一貨物でした。

中越運送の定期便というのも雑貨でしたが、こちらは私が大型車で長距離を始めた初めの方にやっていて、その後いつの間にかやらなくなっていた仕事のように記憶しています。昭和63年の1月の時点ではまだやっていたと思います。

その後、仙台市内の国道4号線から塩釜方面に向かう広い道沿いの左側の運送会社ホームに雑貨の荷物をおろしていた記憶もあるのですが、それは日通の仕事で高岡市からのホームから積んでいた雑貨の仕事であったように思います。

その近くにはアルミサッシをよく持って行く倉庫もありました。アルミサッシの仕事も多かったですが、高岡市だけで新日軽、三協アルミ、館山アルミの仕事がありました。黒部市の吉田工業へも行きましたが、回数は少なかったと思います。

メイホグループ|明穂輸送株式会社 http://www.meiho-group.jp/meiho_yuso/ からもらうアルミサッシの仕事が特に多かったように思います。必ず付き添いで荷積みを手伝ってくれる人がいましたが、当時でも高齢に近かったと思います。パチンコ好きの人でした。

アルミサッシの仕事は九州が多く、福岡県内の他、鹿児島県の隼人町にも行っていました。明穂の仕事であったかどうかは記憶にないです。そのうち新日軽の仕事がアルミサッシでは多くなってような気もします。比較的小矢部市に近い辺りの工場での荷積みでした。

アルミサッシで思いだしたのですが、関東に行く仕事も多かったです。毎日かどうかは忘れましたがそれに近い感じで持ち回りをしていたと思います。おろし先ははじめ埼玉県の桶川市の古い倉庫のような場所でした。

それがその後、水海道市に変わりました。新社屋の配送センターという感じだったと思います。住所は茨城県になっていたかと思いますが、千葉県にも近いところで、かなりの町外れに配送センターはありました。

東京ストアの定期便は、このアルミサッシの仕事と組み合わせになることが多かったと思います。まだ、神田市場の頃でした。東京ストアの仕事は週3回と聞いていたように思います。丸二とヤマリという仲買から荷物を積んでいました。どちらかが野菜で他方が果物だったと思います。

秋葉原にも近い神田の市場はいつも混雑していて、ほぼ積み荷の時間に合わせて昼間に現地に入る必要もありました。都内だと待機する場所を探すのもままならず、豊海あたりに待機することも。その点、大田市場だと時間を問わずトラックを駐車できたので、ずいぶんと気も楽になりました。

東京ストアの荷物は金沢の市場の近くの古くて小さい倉庫に、早朝ずいぶんと早い時間に荷下ろししていました。ほとんどが暗い時間に荷下ろしを始めたことしか記憶にないぐらいです。東京ストアは金沢市内にチェーン店のあるスーパーです。

そのうち市場の近くの倉庫では荷下ろしをしなくなったように思います。一方で、都内の外れ高島平の近くにある板橋の市場から深夜に荷物を積む仕事が増えていきました。昼間から時間をつぶして、周辺で食事などしていたことも憶えております。

深夜の何時頃であったか憶えていないですが、板橋の市場で積み込む荷物というのは多くはなく、大半は早朝の8時ぐらいかに、長野県の山奥みたいなところまで行き、高原野菜を積み込んでいました。上田市の山の方であったと思います。

そのおろし先は新しくなった東京ストアの配送センターで、松任市の旭丘工業団地の中にありました。これは冷凍機付きの必要もあったと思うので、108号に乗務していた時期かと思います。ちなみに野菜の場合は、冷凍機の温度が5度指定になっていました。

早朝に長野で荷積みを終わって、午後には松任市の配送センターで荷下ろしをしていました。出来たばかりのような新しい建物だったと記憶しています。私としては野菜をおろす場所と言うより、カマボコ工場のようなイメージが拭えない建物でもありました。

七尾市のスギヨの仕事をしていたのもそれに近い時期かと思います。スギヨはカニかまを初めて製品にしたことでも有名かと思いますが、最近でもテレビのバラエティ番組で見ることがありました。全国的にも割と有名かと思います。私は、カマボコの類は滅多に食べないのですが。

七尾市は能登半島で一番大きな町ですし、歴史的には奈良時代から開け金沢より歴史があるとも聞いています。全国的に一番有名なのは、和倉温泉の加賀屋かもしれません。ずいぶんな記録を持っている老舗旅館ですが。テレビで見る以外、入ったこともないです。

七尾市は漁業の町でもありますが、それ以上に木材の港という印象が私としては強いです。魚を積むような保冷車で目立っていたのは共栄運輸でした。このトラックは1年ほど前にも、小木の漁協で見かけていますし、トラックのデザインも昭和の時代から変わっていない感じでした。

同じ保冷車か冷凍車ばかりの大きな運送会社に小林運輸があり、トラックの数も多いのか見かける機会が多かったですが、その小林運輸がスギヨの専属だと聞いていましたし、トラックの箱にもスギヨと書いたり、カニかまをイメージするカニの絵が描かれていました。

Gooleで「七尾市 小林運輸」と検索してみたのですが情報は少なかったです。会社自体は現在も存在しているようですが、ホームページは公開していない様子で、見覚えのあるカラーのトラックの写真を見つけたものの、スギヨの文字は入っていないようです。

金沢市場輸送でやったスギヨの仕事は、宮城県塩釜市の宮城陸上の請負ではなかったかと思います。私が大型車に乗務した頃は、宮城陸上の荷物の福井分とか一部を、東北陸運の荷物と積み合わせで積んでいたような記憶があり、4トン車でまかなえる荷物も多かったと記憶しています。

その頃は宮城陸上の自社便の大型車が金沢まで荷物を運び、帰りに七尾のスギヨから荷物をもらって塩釜に帰っていると聞いていました。塩釜市はカマボコだけでなくおでん種のような練り製品の本場のような土地柄でもありました。

私が昭和59年に金沢市場輸送にいた頃は、宮城陸上の仕事も東北陸運の仕事もなかったです。石巻には行きましたが、興勝運輸から仕事をもらっていました。立派なトラックのある会社でしたが、まもなく昭和62年頃には倒産したように聞いていましたし、トラックも見かけなくなっていました。

その興勝運輸の仕事で石巻の魚市場から生のマグロを積み、翌々日おろしで名古屋の市場まで運んだことがありました。被告訴人OKNと一緒にマグロを積み、彼の荷物の行き先は山梨県の甲府ではなかったかと記憶しています。

国道4号線を東京に向けて走り、翌日の午前中に栃木県の小山市で別れたと思います。私は国道50号線から前橋方面に向かいました。途中、福島県の二本松あたりのセブンイレブンの前の公衆電話から、東京の板橋に住むという同級生に電話を掛け話をしたことも記憶に残っています。

板橋で郵便局に勤めていると聞いたようにも思いますが、その年の夏のお盆に行われたと思う成人式で会ったのが最後ぐらいで、噂話を聞くこともなくなったように思います。なお、案内が来たこともありましたが、私は一度も同窓会などに出席したことはありません。

昭和61年の8月に2度目に金沢市場輸送に入社して市内配達をしていた頃も、何回か臨時で頼まれて、4トン車で石巻に行ったことがありました。その頃には宮城陸上の仕事も東北陸運の仕事も始まっていたと思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月26日

東北陸運は石巻と塩釜にありました。塩釜の方が本社だったと思います。苫東陸運というトラックもあってカラーやデザインが同じだったので、子会社化関連会社だと思います。もちろん北海道の苫小牧のことだと思っていました。フェリーで中継の荷物を積んできていました。

東北陸運に関しては半年ぐらい前にGoogleのストリートビューで見ることが出来たのですが、どちらも平成の初め頃と同じ場所に所在するようでした。

塩釜の方は建物も以前と同じに見えました。しかし本来は震災の被害を受けている可能性が高いと考えられるので、建物がそのまま残っているとは考えにくいとも思いました。塩釜の方は海から比較的離れていたとも思いますが、海抜はほとんどないような平地だったと思います。国道45線よりは海側でした。

信頼を得て任されるようになったのか、東北陸運の仕事はどんどん増えてきました。ちょうどバブル景気が始まった頃で、グルメとか美食という文化も出てきたご時世だったので、海産物の流通量自体が飛躍的に増えていたのかもしれません。

時期によっても荷物の量には違いがありました。サンマが多かったり種類による違いもありましたが、年末は特に荷物が多く、大型車4台でも乗り切らないことがあったと記憶しています。4トン車も入っていました。

東北便は、まず新潟県の糸魚川の市場で荷物をおろしました。面倒でしたがほとんど必ずあったと思います。面倒以上に困ったのは北陸自動車道の糸魚川インターの乗り降りでした。糸魚川に限ったことではないのですが、台貫場があって、重量違反の取り締まりを受ける可能性があったからです。

幸いなことに私自身は一度も台貫に引っ張られたことはなかったと思うのですが、同じ金沢市場輸送の他の数人が台貫で反則切符を切られ、その際の受け答えに問題があって、それが会社の不利に働き、なにか制限を受けるようになったと聞きました。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月27日

糸魚川インターでの重量オーバー違反ですが、同時またはほぼ同時に3人ぐらいの運転手が反則切符を切られたと聞いたように思います。ただ、断片的な情報で理解しがたいところがありました。今改めて考えると捕まったのは全部が4トン車だったような気もします。

やはり3人はいたような気もするのですが、しばらくの間けっこうもめていたようです。運行の状況にもよるのですが同じ社員の運転手でも半年ぐらい顔を合わせないことがあると昭和59年当時は聞いていたぐらいですから、一定期間、他の運転手と顔を合わさなかった可能性もあると思います。

昭和59年当時は大型車の仕事内容もずいぶんと違っていましたので、同じように見ることは適切ではないと思いますが、一月ぐらい顔を合わせないことは普通にあったような気もします。全ては配車係の采配であり、とりわけ権限を独占しワンマンでやっていたのが被告訴人MTNでした。

断片的に私の耳に入ってきた情報では、詰まるところ金沢市場輸送の会社や被告訴人MTNに対する不満を、糸魚川の警察でぶつけ、それが会社の不利益になったような話だったと思います。

具体的にはイワシの運搬に専属するため新車で納入された5台の平ボディ車になにか影響があったという話でした。名義と登録できず、浜田漁業に一時的に肩代わりをしてもらったような話であったような気もしますが、このあたりも記憶がかなり薄れています。