告訴状2013(作成途中)_11

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:02:50

しばらくは平成11年の1月から2月頃のことを中心に書いていこうと思っています。やはりこれも記憶がはっきりしない部分があります。平成4年当時に比べればまだ記憶が新しいという感覚はあるのですが、それでも15年の歳月ということになりそうです。

そういうことを考えると改めて被告訴人OKNと被告訴人KYNの果たした役割の大きさ、影響力を重く見なければならず、、また当然に彼らと木梨松嗣弁護士の関係こそが、事案の真相解明と刑罰法令の妥当な適用において、不可欠の事実であると考えます。

これには一連の流れがありました。当初積極的に関わってきたのは被告訴人KYNでした。そういう役柄を託され引き受けていたのだと思いますが、思うように私を動かすことが出来ず、しびれを切らしたように登場したのが被告訴人OKNでした。

それは私が市場急配センターの二階事務所で被告訴人MHK社長と労務の担当者として話を聞いておく必要があるともその場で言った堂野さんの二人と面談した平成11年11月の20日頃を、節目とした動きとして事後的になりますが、捉えることができる変化でした。

その11月20日の面談というか会見についても説明はあとまわしにしたいと思います。そういう事実があったという中身より、周囲の前後の動きとの関連性の方が、重要であり意味のある事実であると私は考えるからです。

資料写真/被告訴人OKNが事務所と言った西宅建の小屋・ストリートビュー/告 訴状の資料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/03/okn.html

先ほど初めてGoogleのストリートビューを使って金沢市桂町周辺を調べてみたのですが、意外なことに問題の建物がほぼ平成11年当時に近い状態で写っているものを発見しました。周辺の事情を含めまとめたものをリンクとして記事にしたのが上記のエントリとURLです。

前々から時々使っている手法ですが、パソコンの画面をそのままキャプチャーしています。ここには閲覧の日時や記録時のパソコンの使用状況も記録されています。一般的なパソコンの画面とは違っているかと思いますが、Linuxを使っているからです。

キャプチャーはスクリーンショットと呼ばれることの方が多いかもしれません。方法は色々あると思いますが、私はjavaで作った自作のプログラムを使用することが多いです。同時にファイル名に年月日と時間が含まれるようにもしています。

だいぶん前に本書で既に説明済みかもしれませんが、PicasaウェブアルバムにもAPIを使って自動的にアルバムを作成しファイルをアップロードするようにしています。Twitterなどもそうですが、APIが公開されていると、外部のプログラムからの操作が可能になります。

幸いなことに同じGoogleのサービスでもPicasaウェブアルバムは充実した機能のAPIが提供されています。ちなみにGoogle+は書き込みのAPIが提供されておらず、アップロードのようなことも出来ないみたいです。

GoogleのブログサービスであるBloggerにもAPIIを使って投稿しています。これは処理が自動化できて便利と言うだけではなく、パソコン内のデータとWebサービス上のデータを同じように管理することが出来るようになります。

Picasaウェブアルバムではアップロードしたファイルのファイル名もそのまま情報として保持されるのですが普通には表示されないという難点がありました。APIでは説明の部分にパソコンのファイル名を情報として加えるようにもしています。

Googleのサービスを含め、個別の記事というかエントリは出来るだけGoogle+ページにまとめるようにしています。自分自身で作成した記事でも時間が経つと探すのに手間取り、馬鹿にならないだけ労力を使い時間も無駄にすると言う経験をしてきたので、検察技術に長けたサービスを活用します。

なお、リンクを記事にしたBloggerのブログでは、リンクとしてスライドショーを使うようにしています。Picasaウェブアルバムの写真を見るには右下のPicasaのマークをクリックして出てきたAlbumのリンクを開く必要があります。

スライドショーには矢印のボタンもついているので、全体を把握しやすく作業の手間も省けると思い、そちらを優先的に使うようにしました。写真を拡大してしっかり見るときはPicasaウェブアルバムですが、ファイルをダウンロードしてから画像ビューのソフトで見た方が便利かと思います。

マイ フォト>資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

上記は以前に作成していたものでした。URLをみると先月に作成した記事のようですが、それさえはっきりとは記憶していない状態になっていました。

なお、この「Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋」というアルバムに含まれている写真ファイルには問題が含まれています。ファイル作成のタイムスタンプの問題です。

画像データ生成日時 2003:02:27 17:22:42 ← このような情報を保持していますが、これはファイルのコピー時に書き換えられたというか新たに生成された情報の可能性が高いように思います。

まず私は仏の人より遙かにパソコン環境の基本ソフト(OS)そのものを入れ替える頻度が高いです。基本的に半年に一度はシステムをまっさらの状態にクリーンインストールしています。

ファイルのコピーの時も元のファイルが保持していた情報をなるべく引き継ぐというコマンドのオプションもあるのですが、以前は余り意識せずに使っていましたし、変に前の情報を引き継ぐのもそれはそれで問題が出るかもしれないと考えていました。

そういうこともあるので私は画像ファイルはファイルの作成時に撮影日時をファイル名に付加するように心掛けています。

デジカメの写真ファイルはExif情報を持っているので、自作のプログラムでその撮影日時を取得して、それを含めたファイル名に置き換えるという処理も行うようにしています。プログラムと言っても手作業を伴うので、必ず実行しているわりません。

また、プログラムといってもその実態は、スクリプト言語によるスクリプトファイルを使っています。Ruby、Perl、Python、Bashなどです。Linuxだとこういうプログラム言語の活用が容易になる環境です。スクリプトは台本の意味ですが、一般的な総称としてプログラムとも書きます。

私がLinuxを使う理由は他にもありますが、EmacsやVimというエディタは、長年慣れ親しんできたもので手放せません。プログラムの開発に使用されることが多いだけではなく、プログラムを使ったカスタマイズも出来ます。EmacsだとEmacs-Lispという言語です。

ブログでもWordPressへの投稿にはVimのプラグインを使い、それを外部のコマンドから呼び出すかたちで使っています。いろいろな場面でそのような独自の使い方をしているので、特性を活かした利用も心掛けています。

本来、メインに投稿しているのはWordPressのブログですが、これはレンタルの個人サーバなので、アクセス数が増えた場合、障害が起こることは目に見えています。しかし、これだと自分が管理するサーバから、MySQLのデータベースとしてデータを取得することも出来ます。

WordPressの投稿に使っているVimのプラグインでは本来ヘッダーと言われる特別な情報の部分があります。そこにブログの記事のタイトル名、カテゴリー、タグの情報も記載されていますが、投稿が成功した際、記事のIDを取得できるようになっています。

この仕組みは他の部分でも利用してきたのですが、とにかく記事を一意に識別できるIDが利用できるわけです。パソコンでは一つの投稿記事を一つのファイルとして保存しています。

同じファイルの内容を最低限、WordPressとBloggerの二つのブログにほぼ同時に投稿するようにしています。コマンドラインからの操作になりますが、Linuxでは端末(ターミナル)からの作業が多いです。コマンドは補完も出来ますし、履歴から呼び出すことも出来ます。

Bloggerの投稿も基本的にはAPIを使っています。だいぶん前に作ったので仕様についてはよく憶えていない部分もあるのですが、こちらではヘッダの部分を冒頭に記載するようにしています。

先ほどのご紹介記事、マイ フォト>資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html を例に説明をします。

他はさほど重要でもないのですが、「"StrID : 4904」という行の部分がWordPressでのデータのIDになります。言ってみればBloggerの記事は原本ではなく、実質を伴った複製のようなものになります。個人サーバのデータベースにもこの情報が記録されているはずです。

なお、WordPressではカテゴリーとタグを使っていますがBloggerではどちらもない機能で、中間的な機能としてラベルというものがあって、そのラベルにWordPressのタグの内容を使うようにプログラムをしています。この辺りは参考例も乏しくオリジナルの部分が大きいと思います。

Linuxだと次のようなコマンドの使い方でファイルを探し出すことも出来ます。→ % grep -r '^"StrID : 4904' ./*

%はコマンドのプロンプトです。もともとFreeBSDが好きだったのでCシェル系の%を使うにしています。一つだけ正規表現を含めていますが、コマンドのオプション指定はしていないので、有効になっているのかはわからないですが、目的の結果は得られました。

./c投稿済み/20140211_0703.txt:"StrID : 4904 ← 相対パスになっていますが、コマンドの実行結果そのものです。

本書の資料データに対応したファイルの作成を始めた当初は、記事のタイトルの一部をファイル名に使うようにしていたのですが、なにかと不都合が多すぎて、このようにファイルの作成日時をファイル名に使うように変更しました。

まずファイル名に意味の通じる文字列を使った場合、問題になるのはファイル名の長さです。制約があります。ファイル名だけでなく、絶対パスの文字数も制約が及ぶと聞いています。LinuxとWindowsでは多少の違いもあるはずですが、後で問題が出た場合、修正するのも大変です。

特にプログラムを使ってあちこちに処理を行うとそれだけ修正の箇所も増えることになります。

ファイルに含まれる特殊文字の問題もあります。半角の記号の多くは使えないか使わない方がよい文字ですが、自動でエスケープが出来る場面だと使えることが多いです。よくあるのが半角のスペースですが、Windowsの環境ではフォルダ名に普通に使われています。

ブログの仕様によっても特殊文字は問題を起こすことが珍しくありません。半角の:(コロン)などその典型でしたが、問題を起こす文字は問題を起こす場面で自動的に全角文字に変換するようにもしています。

厳密に言えば一文字でも違えば検索がうまく行かないはずですが、Web上の検索サービスであれば、うまく対応される場面もあるかとは思います。

しかしながら、私個人の経験としてはブログの検索機能というのは精度がずいぶんと悪く感じられたり、結果の情報量が多すぎて、ほとんど使い物にならないと思っていました。それもあってパソコンのデータとして探せる工夫もしてきました。

インターネットで検索をしていて一番便利で効率がよいと感じたのはTwitterでした。それもあってTwitterを積極的に活用するようになりました。正確にはTwitter自身の検索機能ではなく、Twilogというサービスです。これはいろいろな面でよくできています。

廣野秀樹(@hirono_hideki) - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki ← こちらが私がメインで使っているTwitterアカウントのTwilogです。

Twilogはカウントが自分で登録しないと、普通には使えません。直近のツイートであれば登録のあるなしに関わらず、見れていたように思います。URLで違っているのはアカウント名の部分だけです。正確にはスクリーンネームかもしれません。私の場合はhirono_hidekiです。

画面右上に検索窓があるので、「珠洲警察署 電話」と検索すると、二つのキーワードを同時に含むツイートが列挙されます。これはメモとしても非常に便利なのですが、こういうTwitterの使い方を評価するものは、不思議と見かけていません。

http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=%E7%8F%A0%E6%B4%B2%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E7%BD%B2%E3%80%80%E9%9B%BB%E8%A9%B1&ao=a

上記が検察情報を含んだURLです。日本語の部分はURLエンコードの処理がなされ記号の羅列になっています。「?word=珠洲警察署 電話&ao=a」がリクエストパラメータの部分です。変数と値という書式になっています。

このTwilogの検索結果を見ると私が珠洲警察署に電話をしたのは昨年の12月30日が最後で、今年はまだしていないことになりそうですが、正直なところ、自分でも今年になって掛けているか掛けていないかはっきりわかっていないのです。私が記録したものだけが対象になるからです。

私自身、Linuxのクリーンインストールをやるたび決まってやるのが、「ctrl space」という検索ですが、システム側でCtrl+Spcaceのキーバインドを無効にし、Emacsでマークの記録のキーとして使えるようにするものです。他で調べると時間も掛かりますので、効率的です。

とは言ってもTwitterは140文字の制限があるので、情報の単位としては細分化されすぎて、ふさわしくない場面も多々あります。本来的にはリンクの紹介としての利用が多いと思いますが、コミュニケーションの取りやすいツールでもあります。

Twitterの方は利用者も多く、社会的な認知もすっかり定着していると思いますが、癖の強いサービスでもあり、自分でそれもかなり使い込んでいないと、理解できない部分が多いかとも思います。

* 平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月12日

* 「写真資料> 一件記録・写真/2014年作成/平成7年7月27日付損害賠 償事件判決_金沢地方裁判所裁判官古川龍一」について 2014年9月4日

2014-09-04 木 20:00> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

時刻は9月4日20時00分になったところです。14時過ぎから出かけていて家には19時半前に戻ったのですが、パソコンをつけてまもなく、大きな手違いをやっていたことに気が付きました。

どういう手違いかというとまずは、次の写真付きブログエントリーを公開しました。

こちら→ 2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版: 写真資料> 一件記録・写真/H05_精神鑑定書_金沢大学教授山口成良.html http://hirono2014k.blogspot.jp/2014/09/h05html.html

ファイル名には「H07-07-27_判決_金沢地方裁判所民事部A係_15.jpg」というふうに連番を振っていたのですが、一部で間違いがあることに気が付きました。

修正するのもどうかと思ったので、デジカメで撮影し直すことにしました。普段のデジカメの設定は16対9という横長の縦横比にしています。横長だと書面の撮影で無駄になる部分が多く出るので、4対3の縦横比に設定し直すことにしました。

しかし、いくら設定を見直しても4対3の設定項目はなぜかみつからず、手間取っていました。以前は見たはずの設定項目で、説明書のPDFファイルも調べたのですが見つけることが出来ず、最終的には「おまかせモード」というようなものを選択することで目的通りの縦横比にすることが出来ました。

ちょうど正午過ぎから13時ころの時間帯でした。ようやく4対3の縦横比で撮影が出来たものの、一枚だけピンぼけだったので、撮り直してファイル名をコピーしなおしたのですが、連番付きのファイル名変換スクリプトを実行したところ、撮影時刻の関係で順番がおかしくなり、手作業で修正しました。

以前のファイルを使って投稿したものは11時39分という投稿時刻になっていました。新たに撮り直して新しいエントリーとして投稿したものは13時56分という投稿時刻になっています。

朝はヨーグルトの小さいのを一つ食べただけだったので、お腹も減っていたのですが、昼食の時間が遅くなったまま買い物に出かけました。本当は生サンマが食べたいと思ってそれを買うつもりで出掛けたのです。

久しぶりに知り合いのお店に立ち寄って顔を出したのですが、イカ釣りの話などで長居をすることになりました。途中から昼食は抜きにして、夕食にするつもりでいました。

宇出津新港のどんたく宇出津店に向かったのですが、これも久しぶりに宇出津新港の堤防を見に立ち寄りました。ここでも顔見知りの人がアジ釣りをしていたので、かなり長い時間それを見物していました。

そのうち18時を過ぎて暗くなってくると、急に風が強くなりだし、そのうち雨が降ってきました。急いでどんたく宇出津店に行ったのですが、どうも生サンマの色が白っぽくなって鮮度が悪そうになっていて、他にもこれはと思う商品がなかったので、何も買わずに店を出て、Aコープ能都店に向かいました。

Aコープ能都店の方でも生サンマの方は鮮度が良さそうに見えなかったので、結局、半額になっていたホッケの串焼きなどを買ってきました。家に戻ったのは19時20分過ぎだと思います。

パソコンをつけて真っ先にやったことはアメーバピグの収穫でした。よくあることです。それで出かける前に投稿したブログのアクセス数がどれだけ増えているかと思い、タブで開いてきたページを再読み込みしました。

そこで初めて気がついたことが、思わぬ大きな手違いなのですが、被害者の実名を塗りつぶす処理をしないまま、撮影したままの写真をPicasaウェブアルバムにアップロードしてそのまま使っていたのです。

初めは写真ファイルの非公開設定を考えました。そのあとにPicasaウェブアルバムのサイト上での編集で、塗りつぶしの処理をすることを考えたのですが、画像の補正等の処理以外は出来なさそうでした。

意図せず、たまたまそうなったのですが、よくよく考えてみると、その方がいいかなと思うようになりました。

手違いに気がついて、少しした頃のスクリーンショットが次の写真付きツイートです。5分も経っていないと思います。記録にしたかったのはブログパーツによるアクセス数です。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/04 19:51 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/507480988721496065
2014-09-04-195051_ところで、泥棒神社は弁護士界の 歴史的実態ではないかと思っています。.jpg http://t.co/VPO1Y0D9vH

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/04 19:48 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/507480428953890816
2014-09-04-194846_卑弥呼かよ RT.jpg http://t.co/Blf1gisqna

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/04 19:31 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/507476049219682304
2014-09-04-193121_2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版.jpg http://t.co/JDbRlKcEqP

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/04 13:39 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/507387464470630401
平成7年7月27日付損害賠償事件判決_金沢地方裁判所裁判官古川龍一_15.jpg http://t.co/He1t0N1I3d

上記で直近の4件の写真付きツイートをご紹介しました。アクセスカウンターのあるのは3件目のツイートで、19時31分の投稿時刻であることが確認できます。

アクセスカウンターは695件になっていますが、14時過ぎに出かける前は675件ぐらいだったと思います。20件ほど増えたことになるかと思いますが、問題の有りそうな手違いをした割りには、ほとんどないような乏しい反応という分析も出来るかと思いました。

被害者の実名を出してしまったことは、もともと2009年の9月の初め頃までずっと当たり前にやっていたことなので、さほどでもないかと思いましたが、住所や番地までそのままになっているのは、さすがにまずいかと思いました。

しかし、それも周囲の監視の目を強くするという点でも、管轄である金沢中警察署の警備体制の強化を促す点でも、かえって良いことではと思えてきました。

被告発人・被告訴人には、当時の市場急配センターの社長であった被告訴人松平日出男や同じく被害者の上司であった被告訴人池田宏美や被告訴人梅野博之も含まれており、被害者の住所をしる資料も持っている可能性があるかと思います。

事件のキーマンである被告訴人大網健二も、謝罪のため私の母親を連れて被害者の自宅まで訪問したと聞いておりましたし、被告訴人大網健二が住んでいた金沢市円光寺というのは、被害者の自宅に近い場所でした。家の場所はよくよく知っているはずです。

被告訴人大網健二と被告訴人大網周一の兄弟の父親が起こした二人の少年の殺人事件でも、その父親は殺人事件が大々的に報道された後に、美川の被害者の自宅で縁の下に入って、放火未遂を起こしたと、新聞の報道で知っております。

普通に考えて、何かの証拠になりそうなものの存在をなくすために、放火をやったとした考えられないところですが、裁判自体はごく単純な動機による事件として処理され、検察の死刑求刑も無期懲役となって、検察の上告断念で判決が確定しました。

時刻は9月5日7時21分になっています。ツイッターの投稿を確認したところ、昨夜の21時6分から中断していたことになりそうです。項目を新しくして続きを書きます。

2014-09-05 金 07:22> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 「写真資料> 一件記録・写真/2014年作成/平成7年7月27日付損害賠 償事件判決_金沢地方裁判所裁判官古川龍一」について 2014年9月5日

2014-09-05 金 07:24> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨夜は久しぶりにテレビと電気をつけたまま、横になって寝ていました。深夜1時を過ぎたころもテレビを見ていたことは憶えていますが、ちょっとした気の緩みでいつの間にか寝てしまっていたようです。

5時過ぎにテレビの音で目が覚めたのですが、もう一度眠ろうと思ったものの眠れず、7時過ぎになって布団から出てきました。

7時に能登町役場から音楽が流れるのはお決まりなのですが、2年ほど前からだと思いますが、四季ごとに曲が変わるようになりました。起きていてもテレビをつけていれば曲が聞こえることはないのですが、布団に入っていたので聴こえてきました。

「照る山紅葉」という歌詞が含まれるお馴染みの曲だったのですが、朝の音楽にしては違和感を感じました。それで先ほどネットで調べたのですが、やはり曲の出だしが、「秋の夕日に照る山もみじ」となっており、午後や晩秋をイメージさせる曲です。

私がずっと宇出津に住んでいた二十歳前の頃だったと思いますが、当時は朝の6時に音楽が流れ、ずっとずっと同じ曲でした。海や朝日をイメージさせる曲というかメロディでしたが、他にそのメロディの曲を耳にする機会は一度もなく、曲名も何もわかりません。

私が福井刑務所から出てきて宇出津に住まいを始めた頃には、音楽の時間が7時になっていて、7時と12時と18時にそれぞれ、音楽が流れていましたが、曲はずっと同じだったように思います。

2010年の12月の20日頃から小木港にアジ釣りに行くようになり、7時の音楽を聞くようになったのですが、その頃から小木では宇出津と違い、四季ごとに音楽が変わっていました。

朝の音楽といえば、拘置所や刑務所の生活でもお決まりでした。金沢刑務所の場合は拘置所も同じですが、ひと月ごとに音楽が変わっていました。ハワイアンのような音楽など多彩でしたが、四季にあったものが多かったとも思います。

朝の音楽は起床の合図でもありましたが、点呼が始まるまで15分ぐらい音楽が流れ続けていたように思いますし、その間、4,5曲の音楽があったように思います。

福井刑務所の方でもたぶん毎朝音楽が流れていたと思うのですが、どんな曲だったのかもさっぱり思い出せなくなっています。

福井刑務所の場合、未だ印象に強く残っているのは21時の消灯前、5分ほど流れる音楽でした。金沢刑務所も同じように曲が流れていましたが、曲は就寝時もひと月ごとに変わっていたように思います。

福井刑務所ではずっと同じ曲でしたし、終わりにとても暗い感じの女の人の声でおやすみのあいさつが含まれていました。

福井刑務所にいたのは平成6年3月17日から平成9年1月18日まででした。その間、一日も欠かさず、就寝時にはその曲を聴いていたことになるかと思います。

以前はテレビなどでもたまに耳にすることのある曲というかメロディでしたが、ここ数年はまったく耳にしていないと思います。その曲は何かの機会に、曲名を知ることが出来ました。小さい頃の昭和40年台にも耳にしていたような曲です。

8時4分ぐらいから気がついてテレビをつけていたのですが、NHK連続小説ドラマ「花子とアン」で、太平洋戦争突入の臨時ニュースがありました。ドラマの話ですが、戦後のレジームと弁護士の沿革、歴史と重ねて思いを馳せるところがあります。

福井刑務所の就寝時に流れていた曲です。→ シバの女王 レーモン・ルフェーブル La Reine de Saba - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=uoJ-aZeygiU

一度福井刑務所に入ってから満期出所するまで、建物の外に出たことは一度もなかったのですが、例外に近いことが一度あり、それも昨日にわかに私の中でクローズアップした長谷川紘之弁護士との関連性がありました。

まずは昨日の続きからご説明を始めたいと思います。一昨日かあるいはその前の日になるかと思いますが、久しぶりにBloggerのブログでPicasaウェブアルバムの写真ファイルを読み込んでみたのがきっかけでした。

写真ファイルの挿入や表示と言っても、その実質はHTMLのソースコードの取得になります。一度に複数の写真ファイルを挿入できることに気がついたので、それを利用するスクリプトの作成を考えました。

HTMLのソースコードに日本語のファイル名が、URLエンコードしたかたちで含まれていたので、それをURLデコードして使うことも考えたのですが、Twitterでの反応や指摘を期待して、同じ写真ファイルをTwitterに投稿して、それと連携させることにしました。

言葉で十分な説明をすることは不可能にも近いと考えているので、今回もパソコンの操作画面を記録したキャプチャ動画を、YouTubeに投稿することにしました。10分ちょっとの再生時間になっていますが、次のYouTube動画です。

BloggerのPicasaウェブアルバムとの連携とTwitterの写真付きツイートを利用したスクリプトの処理とブログへの投稿と閲覧のご紹介_2014年09月04日11時42分27秒.mp4 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KPXYDOincag&feature=youtu.be

これからになりますが、写真撮影した書面の部分を指摘しながらご説明をしていく予定です。

アップロードが完了してから確認を兼ねて再生をながめていたのですが、そこで初めてファイル名の連番と内容に齟齬があることに気が付きました。6番目にあるはずのものが最後の15番目のものと入れ違っているような感じだったと思います。

スクリプトを使って自動で処理をしていたのだと思いますが、撮り直しで撮影日時のExif情報に食い違いのあるものを、気が付かずに使っていたのだと思われます。

現在使っているデジカメは、今確認したところ2012年9月9日の夕方遅くに、穴水の100満ボルト穴水店で買ったものです。次のPicasaウェブアルバムで確認しました。

2012-09/能登空港航空祭-琴ヶ浜-能登金剛 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/114099790846205945578/201209#

スクーターのバイクで能登金剛や旧福浦灯台まで行った帰り、立ち寄った電化店でなかば衝動買いをしたのですが、ピンぼけせずに書面の撮影をするのが一番の目的でした。

ただ、実際はそれ以前のデジカメで撮影した書面の写真ファイルを使っているのがほとんどかと思います。

供述調書などまとめて2,30枚の撮影をすることも多かったのですが、古いデジカメでは写真がボケて撮り直しをすることが多く、その過程で間違いが生じることも危惧していました。

現在はどうかわかりませんが、供述調書や判決書ではページ番号がふられておらず、ページにまたがる文章で判断するほかはなかったからです。

古いデジカメでは日光が弱いとピンぼけしやすかったのですが、それで明るい場所を選んで撮影をすると、一部日光が反射して、文字が判別しにくくなるということもありました。

巌門は能登半島で一番有名な景勝地かもしれません。能登金剛とも呼ばれているようです。同じ能登半島でもまるっきり反対側になるので、滅多に行くことはないし、今までに行った回数というのも少ないと思います。

巌門の場合も国道沿いではなかったと思いますが、以前は羽咋郡富来町になっていたと思います。数年前に羽咋郡志賀町に合併されていると思いますが、テレビでたまたま見た情報なので、よくはわかっていません。

富来町 (石川県) - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9D%A5%E7%94%BA_(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)

上記のページに「2005年(平成17年)9月1日に、志賀町と新設合併して新しい志賀町となり、自治体としては消滅した。」という情報がありました。

バイクで行った時は、次の能登中核工場団地の入り口の場所まで行きました。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/05 09:59 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/507694472864362497
能登空港航空祭-琴ヶ浜-能登金剛_2012年09月09日17時10分57秒.jpg http://t.co/55cRRIqsvU

能登中核工場団地は、志賀町の工業団地と呼ぶことが多かったと思いますが、平成14年の11月の下旬から一年半ぐらい通ったように思います。既に本書で書いていると思いますが、人材派遣の仕事で羽咋市の派遣会社の寮であるアパートから通っていました。

時期がはっきり思い出せないのですが、2004年には派遣先が、志賀町の別の電子部品の工場になっていました。時期を確認できるのは次の情報です。

スマトラ島沖地震 (2004年) - Wikipedia http://bit.ly/1uCxH8G

その地震と大津波の報道があった翌日か翌々日には、その志賀町の工場での仕事も終わりになったのですが、どれぐらいいたのかはっきり思い出せません。たぶん3ヶ月ぐらいだったと思うので、その年(平成16年)の9月ころまでは、志賀町の工業団地の方に通っていたように思います。

今調べてわかったのですが、どうも今年の3月に閉鎖になったようです。次の情報です。

志賀の古河電工子会社工場閉鎖へ 3月末  - 石川のニュース - 都道府県別 - 47NEWS(よんななニュース) http://www.47news.jp/localnews/ishikawa/2014/01/post_20140116040200.html

「アクセスケーブル」という社名になっていましたが、茨城県の古河市に本社があるようなことは聞いていましたし、茨城県の方から単身赴任しているような社員の人もいました。

また、悪い癖が出て項目のタイトル名から外れた方向に進んでしまいましたが、アクセスケーブル株式会社に通っていた頃は、よく御庁つまり金沢地方検察庁に電話をしていました。担当者は天山さんの次の二人目で、タウエさんだったと思います。

田上という漢字になりそうですが、漢字の確認はしておらず、田植という可能性も否定は出来ないと思います。

ちなみに金沢市には田上と書いて「たがみ」という地名というか町名がありますが、田上といえば金沢刑務所の代名詞にもなっているかと思います。住所も金沢市田上公一番地になっていました。

先ほどの能登中核工場団地の入り口の写真は、金沢市方面の羽咋市から来る方とは、反対側の出入口になります。以前はちょうどその辺りにここから富来町というような道路標識の看板があったと記憶しています。

通勤とは反対側の出入口だったので滅多に行くことはなかったのですが、昼休み時間にそちらの富来町に入った辺りまで車で行って、そこから金沢地方検察庁のタウエさんに電話をして話したことなど印象的に記憶しています。

その富来町に入った辺りの国道沿いにはガソリンスタンドもあったのですが、すっかりと廃墟となり草が生い茂っていたのも月日の流れを感じさせる印象的な光景でした。

タウエさんには私が提出した書面で、とてもいいと思うところがある、と言われながら、どの部分なのか具体的に教えてもらえなかったことも、とても印象深いことの一つで、その後にも大きな影響を受けてきたと思います。

当時は謎かけ問答の答えを考える余裕もなかったと思いますが、今はいつ提出した正面のことなのかもわからなくなっています。あるいはそこに弁護士に対する不信と問題性が、指し示されていたのかもしれませんが、全く気が付かなかったと言えます。

能登中核工場団地というか志賀町の工業団地に感しては、もうひとつ触れておきたいことがあるのですが、全国的にも有名な志賀町原発の敷地内に、ビニール溶接の講習を受けに行った話です。

時刻は9月8日6時56分になっています。中断をしていましたが、新たなテーマで一つ書いておきたいことが出てきたので、そちらを先にしたいと思います。

2014-09-08 月 06:58> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 「弁護士会に会員の監督義務はあるが、今回、法的な違反はない。原告の独自の見解だ」という福岡弁護士会の対応にみる金沢弁護士会の責任 2014年9月8日

2014-09-13 土 10:20> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

時刻は9月13日10時20分になっています。9月8日の日に見出しを書いたまま中断をしていました。いろいろと考えていたのですが、他に優先すべきことがあるので、続きはまたの機会にしたいと思います。とりあえず、取り上げないと思ったページを次にご紹介しておきます。

高橋浩文元弁護士の詐欺横領被害者が福岡県弁護士会を提訴した1回目の裁判 - 弁護士と闘う - Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/nb_ichii/34981480.html

2014-09-13 土 10:24> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月13日 :POST:

2014-09-13 土 10:41> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

先日、「写真資料> 一件記録・写真/2014年作成/平成7年7月27日付損害賠 償事件判決_金沢地方裁判所裁判官古川龍一」という写真資料を写真の撮り直しで新たに作成したところ、その作業で一部内容が目に入りました。

それまでの予定だと木梨松嗣弁護士が有無をいわさず実施させた山口成良金沢大学教授による精神鑑定書の内容について問題点を指摘するつもりでいました。

被告訴人である木梨松嗣弁護士に焦点を当てる以上、そういう順番で考えていたのですが、改めて思ったのは事実関係を無視し、侮蔑的挑発的としか理解のしようがない長谷川紘之弁護士の対応の異常性です。まずその異常性を紐解かなければ、衆人の理解も無理があると考えるようになりました。

写真資料としては新たに次のブログの記事にまとめました。問題の重大性に鑑み、あえて手を加えず、そのままの状態で公開しました。

2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版: 2014-09-13_写真資料> 一件記録・写真/2014年作成/訴状 原告訴 訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中.html http://hirono2014k.blogspot.jp/2014/09/2014-09-13-2014-675-html.html

Twitterの方では文字数オーバーになったので、ブログ名の方を削除しました。

記事のタイトル名にhtmlという拡張子を加えているのは、画像を表示するためのhtmlタグを含んでいるという意味です。本書においては極力、htmlタグは含めない方針です。

htmlタグを含めると文章が読みづらくなるだけでなく、特殊記号が別の場面で意図せぬ働きをして問題を起こす可能性があるからです。

本書においてはhtmlタグを使わないので、画像というか写真ファイルそのものを特定することは出来ませんが、ブログの記事の方で合わせて掲載しているTwitterの写真付きツイートで、対象を指し示しながら説明をしていきたいと思います。

私自身目を通すのは数年ぶりですが、訴状という書面の内容に目を通しながら、まずは特に指摘をしておきたい部分を押さえておこうと思います。

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一件記録・写真/2014年作成/訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中
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投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510586915817410560
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_01.jpg http://t.co/y7PHB7Ea5F

あらためてみると3810万円余の請求金額となっています。判決の認容額の方は確認はしていないものの私の記憶では3600万円台になっていたかと思います。印紙代が17万円余というのは、初めて見た時から印象に残っていました。現在は印紙代の額も当時とは違っているものと思います。

送達場所が福井刑務所になっていますが、確かにこの訴状という書面を受け取ったのは福井刑務所に間違いはないですが、今気がついたことに平成6年7月5日付の訴状が、私の手に渡ったのはその年の11月の上旬ではないかということです。

本書で何度か説明を書いてきたと思いますが、いきなり民事裁判の書類が届いたと言われ、房内で所持閲覧をするには、雑居房から独居房に移る必要があると条件をつけられたことで、それが11月に入ってからのことでした。

今、calというカレンダーのコマンドで確認をしたのですが、1994年11月の第一土曜日は5日、同じく日曜日は6日になっています。土日や祭日で刑務作業のない日のことを、免業日と呼びます。

当然ながら免業日は刑務作業のある人は時間割が違います。その一つに昼食後に午睡という時間がありました。布団を敷いて横になれる昼寝も出来る時間ですが、昼寝をする人もいるぐらいなので、起きていても静かにしていなければいけない時間でした。

免業日の午睡の時間は、金沢刑務所では2時間あったのですが、福井刑務所では1時間でした。時間も短かったので、私は昼寝をすることもほとんどなかったのですが、福井刑務所ではその昼寝の時間を格別楽しみにする受刑者も多いという感じでした。

その日はよく晴れた日差しの明るい午後だったのですが、かなり肌寒さを感じ、もう11月に入ったのだと思っていたのですが、同じ雑居房の受刑者には、パジャマを着て毛布と布団をしっかりと首元までかぶる受刑者がいる一方。

シャツとパンツの下着姿で、毛布一枚をかるくかぶる受刑者がいて、驚きました。年配の名古屋の人でしたが、心臓病の持病があるらしく、ニトロを所持しているとかで、心臓病にニトロを使うというのも、その人から話を聞いて初めて知ったことでした。

もしその免業日のことがなかったら、11月に入っていたという時期の特定も単調な刑務所の生活では難しかったかもしれません。

雑居房から独居房へは、週の終わりの方に知らせを受けてから土日の免業日を挟んで、週明けのはじめの方に移ったという記憶もありますが、独居に移ったその夜には、ビデオの録画放送があったので、月曜日ではなく火曜日か水曜日のはずです。

初めに移った独居が2階であったか3階であったか思い出せませんが、当時の福井刑務所では火曜日と木曜日に2階と4階でビデオの録画放送を流し、3階ではその翌日の水曜日と金曜日に、同じ放送をやるという妙な決まりになっていました。

1階のことはよくわからなかったです。南寮の1階は、炊場など不規則な時間帯の生活をする受刑者がいるような話を聞いたようなことはありましたし、北寮の1階は、懲罰と取り調べの独居房として使われることがほとんどだったので、普通の生活をする受刑者はいなかったはずです。

私自身、独居房の生活はほとんどが3階であったと記憶しています。それも手前から3番目ぐらいの房がほとんどでした。2階の独居には新入時の分類審査の時にいましたが、これは奥から2番目ぐらいの房でした。

すでに何度か書いていることと思いますが、独居房に移って一週間ぐらいの時に、今度は母親から郵送で、木梨松嗣弁護士から送ってきたという一件記録が差し入れられて来ました。

平成6年当時のことなので、今となっては思い出すのも困難ですが、母親の話だと、いきなり木梨松嗣弁護士から送り届けられ、刑務所の方に送ってあげたら良い、というような連絡があったような話でした。

その話は、面会の時に聞いたように思います。3ヶ月に一度の割合だったような気もしますが、母親は能登から面会に来ていました。今考えると、日帰りは難しいようにも思えます。

他に木梨松嗣弁護士から連絡を受けたという話は聞いたことはなかったですが、とても長谷川紘之弁護士の損害賠償の代理人の件と関わりのない、ただの偶然とは考えられなかったです。

その訴状を含めた裁判の資料には甲5号証というような名前もふってあったと思いますが、それらのものは長谷川紘之弁護士から私のもとに直接郵送されたものではなく、金沢地方裁判所の方から郵送されたらしいということが理解出来ました。

民事裁判というのは初めての経験で、後にも先にもなかったのでわからないことがほとんどですが、普通に民事の裁判所が、そういう手間を掛けるものなのかというのは疑問に思っていました。

民事の裁判は個人間の問題なので、裁判所が経費で事務処理をするとは考えにくかったのですが、すべてのお膳立てを長谷川紘之弁護士方でやっていて、形の上で裁判所が手続きをしたような仕組みになっているのかとも、考えはしましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。

もうひとつ気になったのは、初めの時かどうかはわかりませんが、金沢地方裁判所の民事部からの郵送物の封筒には「A係」と書いてあることがありました。Aの部分は丸で囲んであったかもしれません。

そんなこともあったので、正式な民事裁判の手続きとは思えないところがありました。

2014-09-14 日 11:50> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月14日 :POST:

2014-09-14 日 23:52> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

まもなく日付が変わるので、明日に持ち越しです。

2014-09-14 日 23:53> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月15日 :POST:

2014-09-15 月 22:00> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日の続きになるかと思います。22時02分になっていて、夕食もまだなので本日中には少ししか書けないと思いますが、本日付の見出しの方をツイートしていたはずなので、少しは書いておきたいと思います。

今になって気がついたのですが、写真付きツイートの順番が逆順としてご紹介していたようです。これはどうもブログの記事の方も間違っていそうです。

ブログの記事やツイートの方は訂正も難しいですが、本書の方は昨日の分も修正をしました。写真付きツイートをAPIで取得すると、後の番号が先の順序になってしまうのです。スクリプトの方ではその辺りも処理しているのですが、単純には今まで気が回りませんでした。

参考までにプログラムの処理としては、「tdata=tfile.each_slice(3).to_a」という処理で空行を含め3行ごとになっているデータを、3行を1件として配列に取り組んでいます。さらに「tdata.reverse!」で配列の内容を強制的に逆順にしています。

プログラムを使わず手作業では膨大の時間のかかる作業ですし、その過程においても間違いが生じやすいと思いますので、このような思い違いや修正のための処理が必要ということでご紹介しました。参考になるような情報もなく、手探りでやっている作業でもあります。

初めのデータで改行が入らないというバグを発見したので、試行錯誤で手直しを試みたのですが、「tdata.last.push("")」というのを加えることで、とりあえず問題は解決できたみたいです。データが配列の配列になるということと、改行の処理に意図せぬところがあってややこしいです。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510586915817410560
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_01.jpg http://t.co/y7PHB7Ea5F

改めまして上記ツイートが、写真資料の一枚目になります。数日内の同じ内容になるのでツイートとしては、やはり投稿されていませんでした。これはこれまでもこの先もありがちなことだと思います。一定期間内同一内容のツイートは投稿が成功しません。

訴状の一枚目は表題部のようになっています。中身のある内容は二枚目以降になります。平成6年当時も裁判所に提出する書面はB4袋とじの縦書となっていました。現在はA4の横書きになっているはずですが、私の記憶のみで言えば、およそ平成11年以降の変更になっているはずです。

平成11年の事件の地裁判決も、元は縦書になっていたかもしれません。正確を期す必要もあるかと思うので、調べて確認してみます。

日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:裁判文書A4判化書式 http://www.nichibenren.or.jp/contact/information/saibanbunsho.html

上記ページによると、「平成13年1月1日から、裁判文書のA判横書き化が実施されます。」とありました。つくづくインターネットは便利だと思いますが、拘置所や刑務所では人一倍不自由な思いも経験しています。その辺りがくどい説明にもなっているかもしれません。

今でも同じなのかわかりませんが、平成5年9月7日の名古屋高裁金沢支部の小島裕史裁判長の判決書を見ても、ページ番号のようなものが見当たりません。初めの一枚目が表題部のようなB5サイズ一枚になりますが、以降の袋とじの部分はそれの2枚分になるので、説明がややこしくなってしまいます。

現在ではB4用紙の袋とじというのを理解できず、想像も難しい世代が増えているように思います。なんであれ平成13年1月1日より前は、それが主流だったので、それに見合った説明も必要になるかと思います。

割印は現在でも必要かと思いますが、袋とじをするという作業も馬鹿にならない労力と時間の浪費でした。

2014-09-16 火 00:01> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月16日 :POST:

2014-09-16 火 00:04> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587024911249409
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_02.jpg http://t.co/DXgPmH2S5Z

現在も同じかどうかわかりませんが、民事裁判の判決書は、請求の趣旨と請求の原因に分かれるものだと勉強していました。請求の趣旨が、刑事裁判における主文と同様に判決の結果に相当する部分で、請求の原因が結果を導く理由のような部分であったと、間違いはあるかもしれませんが私は理解しています。

その辺りも独自に勉強をしたので、心もとない部分もあるのですが、請求の趣旨に関しては、裁判で求める結果であると同時に、一事不再理のような法的効果も伴うとなにかで読んだことがありました。同一内容での訴えは繰り返しが出来ないということになるので、理解が不十分な分慎重にもなりました。

この件に関しては、ただ一度、福井刑務所の出所後に訪問をした木梨松嗣弁護士の法律事務所で、木梨松嗣弁護士に直接確認もしました。記憶がやや曖昧になっていますが、「君なら一人でやれる」というような木梨松嗣弁護士の発言もあったかと思います。

訪問の経緯に関してはよく思い出せない部分もあるのですが、けっこう同様しているような印象も受けました。私としても相手の真意と状況が読めなかったので、とりあえず、帰り際に手を握って、感謝と信頼の態度を印象づけておきました。その場の状況判断で出た行動です。

続いて、請求の原因一の1には、「訴外市場急配センター」という文言が見受けられます。これも木梨松嗣弁護士の謎かけ染みた態度と共通するものがあると、改めて思いました。わざわざ「訴外」とつけるのは、いかにも意味ありげです。

本当の目的は訴外市場急配センターの責任の追及と事案の解明であって、すべてはその目的のための手段であると、いわんばかりの思わせがあると思いますし、当時の私も理屈の上ではそのように理解し、受け入れようという努力もしました。

続く「夫々勤務していたものである」という部分が、当時は極めつけの示唆とも解釈されました。「夫々」は夫人とも夫婦とも関係があるように読めますし、「それぞれ」と読むことを知るには、まるで暗号の解読のような手間と時間がかかりました。

どうやって探しだしたのか今は思い出せないですが、ずいぶんと手間と時間のかかったことは印象的に憶えています。当時の私は明治大正時代のカタカナ混じりの判決文を調べながら読む機会も多かったので、普通は全く見かけないような漢字もかなりの程度は読めるようになっていました。

たとえば「所謂」、「序に」、「寧ろ」、「此処に」、「茲に」、「而して」などが現在でも思い出せますが、目にする機会はほとんどないものばかりです。「夫々」は、それよりさらに珍しいものでした。

当時の判決書などで用いられる文章の体裁は「文語体」と言い、それではわかりづらいので裁判員制度の合わせて、「口語体」による体裁を推奨しているような情報も見かけたことがありましたが、それにしても昭和初期以前の漢字を使うとは、専門家の慣行は知らないものの理解を超えています。

戦後の判例もかなりの数目を通していましたが、やはり「夫々」というような古典的な表現を使った例は全く見かけたことがなく、どう考えてもあざといトリックじみた仕掛け以外には考えにくいところです。まあ、インターネットが普及して専門家以外の目に触れるとは全く想定していなかったのでしょう。

「一の2」では「被告は、かねてから原告に好意を抱いて交際を求めていたが、原告から断れていたものである。」という記載があるので、原告代理人という立場の発言で見ると、当事者としてもそれ以外の解釈の余地はないような、衝撃的な事実の明示でした。

全体的に見ると、私自身が認めるかたちになってしまった金沢西警察署の調書や確定判決の事実認定を指し示しただけという風にも見えなくはなく、そういう理解も出来なくはなかったのですが、言葉の持つ暴力性の方が、当時の私にははるかに大きいダメージであり、同時に重くのしかかる謎でした。

何が謎かというと、当事者であり経験者である私自身以外にはわからない事実がほとんどかと思いますが、重要な事実が一切合切、無視され切り捨てられているのです。それは被害者の真意や気持ち、そして事実関係も同じです。

どうしてこれほどのデタラメが出来たのか、弁護士としての職業性にも目を向ける必要を感じ、私はそれをかたちにして指し示すために、多くの時間と労力を費やして来ましたし、それが未だ手違いが入り込む余地が若干はあるもののプログラムを利用した効率化としても結実したものとなっております。

他の社会、業種ではまったくあり得ないような不誠実さとデタラメぶりだと思います。不誠実という次元の話ではないと思います。人を社会を獲物のように舐め腐った超絶的なおごりと独善、利己主義のかたまりではないかと思います。

弁護士に対して常識的ふるまいのの一欠片の期待があれば理解は不可能かもしれないです。関連的に理解に資するような情報は多々見ることができますが、ストレートに的を射たものは、未だお目にかかったことがありません。

私は時折、弁護士の棲む業界のことを「泥棒神社」と比喩していますが、まさにまったくそのとおりだと、日々確信を強めることが多いです。

泥棒が奪ったものは金銭的な利益にとどまりません。人生そのもの生活そのものを奪い、まったく顧みる気配もないという現状です。また、それが普通に通用しているようなので、重ね重ねて戸惑いも増し、大きな時間の浪費にもつながってきました。

現在においても、検察、警察が弁護士らの期待通りに無視し続ければ、さらに忘却の彼方に追いやられてしまうだけの問題だという危機感のみを募らせてもおります。否定された時の自分自身に跳ね返るダメージが、自分自身にも計り知れず大きいことを、人生の大きな節目において幾度か経験して来ました。

先に進めます。「二、不法行為の1」という部分に関しては、まったく警察の調書の引用そのものと思われます。結論を先に述べると、私の反論のような主張に対しても、長谷川紘之弁護士は何一つ答弁のような対応をしておりません。

そればかりか、福井刑務所の庁舎内でおこなわれた私本人の、被告尋問とかにも、姿は見えず、当然に反論を受けるような機会もありませんでした。実質、刑事裁判の確定判決の記録のみで3千600万円とかの損害賠償判決が、古川龍一裁判官によって出されたことになります。

マスコミに司法界最大の汚点とも評された大問題の当事者となった現職の福岡高裁判事が、古川龍一裁判官その人でもあります。

本人の問題というよりは妻のストーカー事件が原因ではありましたが、そのもみ消しに奔走したような疑いが持たれ、事後の対応として世間の注目にさらされ、責任を問われることにもなったはずかと思います。弾劾裁判とかにもなったはずですが、細かいことは調べないと正確には思い出せないです。

たしか福岡高裁の前任地が金沢地方裁判所で、私の民事判決を出したのもその時だったと思います。中途半端なインターネット上の未確認情報では、ストーカー事件を起こした妻は、金沢市あるいはその近郊の医師の娘という情報もありました。

あまり信用のおけそうもない未確認のインターネット上の情報ぐらいしか、プライバシーの問題もあるので、判断の材料として得ることは出来なかったですが、私の裁判ともなにがしかの関連性のあることは、一つの可能性として思いを巡らした問題ではあります。

一方の長谷川紘之弁護士も、刑事事件に巻き込まれている事実があります。これも妻の方が主体の事件でしたが、強盗事件の被害者として新聞に報道されていました。

私自身、福井刑務所の中で同じ受刑者から聞いた話だと、同じ福井刑務所で受刑中の強盗事件の加害者が、長谷川紘之弁護士に妻に対して強姦もやっていると吹聴していたとのことです。あくまで話なので真偽は不明ですが、新聞の報道でも気になるところはありました。

近いうちに図書館での確認の必要性を考えているところでもありますが、その強盗事件の犯人は長谷川紘之弁護士の家に強盗に入る前、たしか当時の能美郡の方だったと思いますが、そこで強制わいせつ事件だったかと起こしているはずです。

確認の必要が大きいですが、私のおぼろげな記憶では、午後に長谷川紘之弁護士の家に強盗に入る当日の午前中に起こした事件であったようにも思っています。

新聞の報道では、強盗事件のあったときの長谷川紘之弁護士の家というのは、建築中の新居のための、仮住まいとなるマンションの一室ではなかったかと思います。金沢市内でも円光寺とかの近くであったという記憶も残っています。

長谷川紘之弁護士の妻が強盗の被害にあったことは、服役中であった福井刑務所で知っていました。事件のことを知ったのは長谷川紘之弁護士が自分が訴えられた民事裁判の原告代理人の弁護士であるということを知ったことの後でもあったはずです。でなければあれほどしっくりと理解はしなかったはずです。

本書でも既に何度か書いていると思いますが、受刑者の場合、読売新聞に限られてはいましたが、比較的自由に新聞の閲覧が出来、金沢刑務所と違って福井刑務所の場合は、夕食後の夜間にも居房に新聞の閲覧が回ってきました。基本は独居房でも10分程度だったと思いますが刑務官が回収に来るまでの時間。

刑務所の居房には時計はなかったですが、長い時は15分から20分以上、回収までの時間があって、気になる記事は十分に読む時間があったと思います。前にも書いたと思いますが、これは金沢刑務所との大きな違いでもありました。

出所後にも図書館の方で、その事件のことを北國新聞の縮小版で調べたことがありました。宇出津の図書館でも羽咋市の図書館でも、そのことは調べたように記憶にあります。

当時はそれほど深く関連付けて考えてもいなかったのですが、私が民事の裁判を起こされるより前の事件であることを確認したような記憶が残っています。当時は訴状が手元に来た平成6年11月を基準にして考えていたように思いますが、強盗事件はその年の6月、あるいは7月となっていたように思います。

先日の確認で意識するようになったことですが、訴状が金沢地方裁判所の民事部の提出された日付は平成6年の7月5日となっているようです。訴状を作成して提出するまではそれなりの準備の期間もあったはずなので、確認が必要だと繰り返しますが、代理人の受任をした後の事件である可能性が高そうです。

時刻は9月16日8時50分になっています。他にも写真資料は沢山あるので、どれを本書で取り上げるかも迷うところですが、少しでも先に進めたいと思います。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587138207805440
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_03.jpg http://t.co/blsWt5JcDX

上記「訴状」の写真資料3枚目、「二の2」の部分になるのだと思いますが、「抗拒不能の状態であるのに乗じて、姦淫しようと企て」というくだりがあります。これは準強姦罪の構成要件の当てはめそのものと思われますが、江村正之検察官が作成した文言の丸写しであるはずです。

被疑事実が準強姦罪になっているので、プライバシーの保護が最大限に尊重あるいは優先されるケースになるのだろうと思いますし、私自身、そういうことをこれまで身をもって経験してきました。無視という反応が一番多いのかもしれません。

本書ではまだ事件当時の状況の具体的な詳しい説明はしていないように思います。

現在の私の記憶では曖昧になっていますが、二人でレストラン十字を出たのが、平成4年4月1日の19時20分から30分。金沢港の大野埠頭で致命的な大怪我を負わせ、そのまますぐに病院への救急搬送を目的に金沢西警察署に向かいました。

金石街道と呼ばれる道幅の広い道路の反対側ですが、ほぼ金沢西警察署の正面付近に自己所有の軽四輪自動車アルトワークスを停車させ、助手席に横たわる被害者に、今から警察署に入ると声を掛けました。

「俺、お前のために人生棒に振ったようなもんやな。今から警察行って、刑務所に行くかもしれんけど。最後に一つだけきくけど、本当に車停めておった覚えないがか?」などと声を掛けました。金沢西警察署の供述調書でも概ねそのように記載されていたように思いますが、しっかり確認はしていません。

彼女は不思議なほど、痛いとか、やめてとも言わず、ただ黙っていたのですが、私が声をかけると、すぐに反応し、「わたし、そんなん知らんよ。なんの話や、それ?」というような返事をしました。

走行中の車内で初めに彼女を殴りつけた時も、「Aちゃん、何思って会社の裏に車とめておったん?」と問い詰めたことがきっかけでした。

現在の私の記憶でははっきりした言葉を思い出せなくなっていますが、「なんの話や? わたしそんなん知らんよ。」というような返事であったと思います。この返事が、私になんとしてでも納得の行く話を聞き出す他はない、このままでは自分も彼女も本当におかしくなってしまうという決意をさせました。

本書でもある程度のところまでは説明済みと思いますが、裏駐車場のことは、自宅での電話対応の拒否と連動していました。中心的な期間は、平成3年11月30日と思われる午後から、平成4年2月1日と思われる土曜日までになります。

終了したのが平成4年2月3日の月曜日の朝、ということにもなるのですが、これは私が24トンのミールを積んで、九州の福岡県福岡市に出発する直前のことでした。

土曜日の2月1日夜には初めて、彼女つまり被害者AAさんのことで、当時は存在のない言葉でしたが今風に言うと元カレという被告訴人安田繁克と話をする機会がありました。

これは偶然ではなく完全に仕組まれた計画であったと言えます。ひとつの橋渡しのような役割をしたのも被告訴人多田敏明でした。

当日の土曜日のことですが、午前中の11時ころぐらいに、被告訴人東渡好信がさりげなく、今夜22時か23時ぐらいに、トッチ(被告訴人多田敏明)が、古河から荷物を積んできて金沢の市場で空車になる、というような話をしていました。

時刻は17時06分になっています。中断をしていました。午前中に宇出津の図書館に行き、予定していた長谷川紘之弁護士の家の強盗事件について、北國新聞の縮小版を調べてきました。

こちらは蛸島のTSさんの松波港での自殺の件とは違い、実にスムースに記事を見つけ出すことが出来ました。当初予想していたのは平成6年6月だったので、その6月と5月の縮小版を棚からテーブルへと運び、まず5月分の索引から調べたのですが、これが一発で的中しました。

過去に何度か目を通している記事なのですが、意外に忘れていたことや気が付かなかったこともありました。一部記憶が変容しているようなところもあったり、別の事件のこととすり替えるようにかんちがいしていたこともありました。年月が長くなるだけの変化というものを実感した気分です。

まず、事件は平成6年5月16日午後0時47分ころ、金沢市大額で発生したことになっていました。時間帯の方は記憶通りでしたが、場所を何故か円光寺から山科辺りという、泉ヶ丘通りのはずれの方と勘違いしていました。

金沢市の大額というのは金沢市の南の外れとも聞いた覚えのある四十万の一つ手前の町内というか地名という印象ですが、個人的には初めに金沢市場輸送に入社して4トン車の長距離運転手の仕事を始めた昭和59年、神野のKMが宇出津のUTと同棲していたアパートによく遊びに行っていた印象が強いです。

宇出津のUTが私の近所で、二つ年下、同級生の被告訴人大網健二の妻とも仲良くしていたことなど、被告訴人大網健二の結婚式にも出席していたことなど、既に一通りのことは記述していると思います。

当時、神野のKMは山水運輸で4トン車の大阪定期便の仕事をやっていましたが。高井水産から山水運輸に社名が変更になったというのも、その頃だったと思います。KMは被告訴人安田敏との接点もありますが、個人的に付き合いをしたという話は、私の知る範囲聞くことはありませんでした。

本書で書き漏らしをしているかもしれないですが、昭和58年の10月頃、神野のKMも被告訴人安田敏と一緒に、中央防災の消火器売りの仕事をしたことがありました。10日かあるいは2週間の見習い期間の間だけで、それがすむとすぐに辞めていきました。

見習い期間中は、売上に関係なく日当が5千円もらえていたと思います。あとは完全歩合制だったと思います。ガソリン代などの経費も行動するグループで折半する決まりになっていました。

被告訴人安田敏は再度、シンナーに手を出して精神の状態がおかしくなるまで、その消火器販売の仕事を続けていたようです。本人の話では、自分で体に異変を感じ、自ら病院に行って、再度松原病院に入院することになったと話していました。

話をよく聞いていなかったためか、2回めの松原病院での入院期間や時期がはっきりしないのですが、退院してまもなく金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったと、噂で聞いていました。

市内配達と言っても、青果物の配達ではなく、氷などを運んでいるような話でした。氷の仕事は私や被告訴人大網健二も、昭和59年の夏頃、長距離の仕事の合間によくやらされていた仕事ではありましたが、規模が大きくなって、他と合わせて市内配達の専属としてやるようになったと聞きました。

中西運輸商のトラックで金沢市場輸送の前に行き、被告訴人安田敏のことを尋ねたところ、少し前にやめて岐阜にいったところだと、北浜太一の弟の人に言われました。これが昭和60年の8月の下旬と思われます。ちょうど岐阜県海津町のライスセンターの出稼ぎの仕事が始まる時期でした。

昭和58年の12月のクリスマスの頃までは、ちょこちょこと被告訴人安田敏に会って、一緒に遊んでいました。被告訴人安田敏は出張と称する県外の仕事が多くなったと言い、会う機会も少なくなりました。当時はもちろん携帯電話などなく、連絡をするのも容易ではなく、直接の訪問が多かったと思います。

今考えると、当時のアパート住まいの友人でもアパートに固定電話をつけているのは少なかったように思います。それが普通になっていたので、さほど不便にも感じていなかったように思いますが、被告訴人安田敏もいきなり訪ねてくるようなことが多かったと思います。

消火器販売の仕事で安定した収入を得るようになった被告訴人安田敏は、増泉一丁目と野町の境の辺り、「いっさか」と呼ばれるあたりにアパートを借りて住むようになっていました。そのアパートにも何度か遊びに行った憶えがありますが、次第に疎遠になり会うこともなくなっていきました。

岐阜に行ったというのも行き違いになりましたが、昭和59年の1月に私が金沢市場輸送に入社してからは、たぶん会うことはなかったように思います。被告訴人安田敏のうわさ話を聞くこともなくなっていたと思います。

次に被告訴人安田敏と会うようになったのは、昭和60年の12月に入ってからだと思います。岐阜のライスセンターの出稼ぎの仕事から戻ったところだと話していました。出稼ぎ手帳をもらい、出稼ぎが終わった後も失業保険のようなお金がもらえるとも話していました。

ちょくちょくと私の東力二丁目のアパートに遊びに来るようになりましたが、その場で中西運輸商の配車係になり、そのあと金沢市場輸送の配車係にもなったYTや、被告訴人KYNとも私のアパートで顔を合わせることがありました。

そうやって考えると、被告訴人KYNが宇出津で配管設備の仕事をやめて、金沢に出てきたのは庄和61年の秋ということになりそうです。

昭和61年の5月ころの時点で被告訴人KYNは、金沢市松村にアパートを借りて生活をするようになっていました。ずいぶんと古い家で、アパートというよりは借家という感じであったようにも記憶にあります。骨董品を感じさえるような建物でした。

片町の金劇の建物の飲み屋で、松波のAKさんと3人で被告訴人安田敏の送別のような飲み会をやったことも既に本書で書いていると思います。多分になりますが、昭和61年の春先頃と思われます。

被告訴人安田敏は決意の旅立ちのようなことも語りにしていたので、その印象が強いのですが、どこへいく話だったのかも思い出せません。

その後のこともよく思い出せないのですが、昭和61年の6月には、私は被告訴人安田敏を頼って、岐阜県海津町へ行きました。岐阜の方へ連絡したのではなく、その前に金沢市で落ちあって岐阜に行く話を決めていたのだと思います。

このあたりも本書で既に記述しているところだと思いますが、8月の20日頃には私は岐阜から戻り、その3日後ぐらいには、たまたまの思いつきで電話をした金沢市場輸送に入社をして、市内配達の仕事をするようになりました。

そのあと、被告訴人安田敏との関係では連絡がなくなり、会うことのない期間が長く続いたように思います。

金沢市場輸送で大型保冷車に乗務するようになったのは昭和62年の4月に入ってからでした。時期がはっきりしないのですが、大型車の仕事にも慣れ、生活も安定した時期だったように思います。

金沢市の繁華街、片町で「サムライ」というディスコがオープンしたと聞き、これはかなり話題になっていたようですが、いわゆる黒服とかホストという男性による接客の走り、時代の変化のような節目でもあったと記憶しています。

それまでにもディスコというのは聞くことがありました。初めて金沢市に出てきた昭和56年の夏の時点で、「バナナビーチ」というディスコが片町にあると知っていましたが、服装や髪型に厳しく、不良のような若者は拒絶されると聞いていましたし、それがディスコというイメージもなっていました。

サムライというのはディスコのイメージも変えましたが、時代はその頃からバブル景気に入っていたのかもしれません。都会のことはわかりませんが、テレビでディスコのお立ち台とか踊る若い女性の姿を見かける社会現象が到来するよりは、前の頃の話です。

サムライというディスコは若い男性がメインで接客をすると聞いていましたが、ずいぶんと久しぶりにうわさ話を耳にした被告訴人安田敏が、そのサムライというディスコで仕事をするようになったという話がありました。

たぶんになりますが、共通の友人関係からもその話を聞いたのは、被告訴人大網健二の可能性が高いと思います。すぐにやめたような話を聞いたようにも思います。一月か長くて3ヶ月と聞いたような気もしますが、もっと短くすぐにやめたのかもしれません。

すでに被告訴人安田敏がサムライをやめたことは知っていた時期だと思いますが、私はそのサムライというディスコに一度だけ行く機会がありました。

久しぶりに集まったというより、私だけが久しぶりに参加という感じにもなっていたと思いますが、被告訴人大網健二、被告訴人KYN、富来のOT、のちに金沢市高尾の建設会社の部長になったHMもいたと思います。HMはその後結婚してSMになりました。

当時の私は長距離トラックの仕事でテレビをみる時間も少なかったのですが、初めて入ったサムライというディスコの店内は、広く別世界のように印象的だったという記憶があります。昭和58年の7月に東京ディズニーランドに行った時に、感じた感覚にも似ていました。

酒の入る付き合いというのは極力避けるようにしていたので、私にしてみると当時は数少ない片町に飲みに出るという機会だったのですが、それだけに数の少ない機会として特定も比較的容易にはなるかと思います。

金沢では私が子供の頃から大和というデパートが有名で大きくもあったのですが、その後、香林坊の方に移転しました。現在も同じかどうかわからないですが、アトリオという名前になっていたように思います。

移転する前の大和デパートは建物がそのままで、記憶に自信がなくなっていますがラブロとかいう名前になっていたように思います。昭和57年の時点ではまだそこが大和デパートでした。

香林坊の方から片町のスクランブル交差点に向かうと、メインの道路が右にカーブしていて、そのカーブの手前左側の方にナンバーワンビルとかいう幅の狭い高い建物があって、カーブのすぐ先の同じ左側のビルの中にサムライがあったように記憶しています。

カーブの手前の左側にあるのが旧大和のデパートでした。サムライに行った時だと思うのですが、私は被告訴人大網健二と被告訴人KYNの二人を連れて、被告訴人安田敏が働くという飲み屋を探したことがありました。

それより前に被告訴人安田敏から電話で連絡があって店のことを知っていたのだと思いますが、旧大和デパートの裏の方に店があると聞いていました。右の方にもう少し進むと、香林坊の映画街になりましたが、その片町寄りの辺だと思っていました。

店を見つけることはなく、電話番号を調べて連絡するということも思いつかなかったのですが、被告訴人大網健二も被告訴人KYNも酔っ払って、ずいぶんと上機嫌だったことなど、その場面のことは印象的に記憶に残っています。

2014-09-17 水 09:00> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月17日 :POST:

2014-09-17 水 09:01> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

ラブロ片町 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AD%E7%89%87%E7%94%BA

ラブロという名前にも記憶に自信が持てなくなっていたので、確認を兼ねて調べてみました。アトリオに移ったのは昭和61年9月とのことです。個人的には、たぶんラブロになってからは一度も店に入ったことがない気がします。

飛び降り自殺があって客足が遠のいたという話も聞いたことがありました。大和デパートの頃は、屋上に近い階にレストランがあって、そこに何度か行ったという記憶が残っています。

そのラブロの裏辺りのスナックのような飲み屋でバーテンをしていると、不意に被告訴人安田敏から電話があったはずです。その電話のことは余り記憶には残っていないのですが、昨日書いたようにラブロの横の方から歩いて店を探したことが鮮明な記憶になっています。

店の名前は「ハートブレイク」だったと思います。わかりやすい名前で、昔聴いていた曲の歌詞にもある言葉でした。

よく考えてみると、その「ハートブレイク」という店で仕事をしているという被告訴人安田敏が、電話を掛けてきて、支払いはいらないから遊びに来いと誘ってきたこともありました。2回ほど同じような電話があったような気がしますが、これも記憶がはっきりしなくなっています。

誘われても店に行くことはありませんでした。長距離運転手という仕事柄、自宅アパートでは不在が多かったはずで、たまたま電話を掛けてきた時によくいたものだという気もしますが、妻から被告訴人安田敏から電話があったという伝言を聞くことはなかったように思います。

内藤として別になると思いますが、妻からの伝言で、被告訴人安田敏が内灘の海岸で車が砂にはまって動けなくなったので助けに来てほしい、という電話があったと聞いたことはありました。これは時系列で終わりの方の電話だったと思います。

その後、また電話があったのだと思いますが、電話のことは思い出せないものの、その時は初めて会う約束をしました。たぶん日曜日だったと思います。当時は記憶をしておく必要も考えてはいなかったので、時期がはっきりとは思い出せないのですが、平成2年の秋だったと思います。

それまでも忘れた頃に被告訴人安田敏から電話での連絡はありましたが、会うことは一度もなかったと思います。サムライというディスコで働き出したといううわさ話を聞く前から会ってはおらず、その時点を基準にしても一年以上は会っていなかったような気がします。

夕方でもまだまだ明るい時間、神田の陸橋の手前のバス停からバスに乗って片町に向かったことを憶えています。たぶん、その日の午後に被告訴人安田敏から電話があったのだと思います。

東力二丁目のアパートには昭和59年の4月頃から平成4年の4月1日まで8年ほど住んでいたことになるかと思いますが、車がないと不便があったものの、バスを利用するというのもほとんどないことでした。

初めにどこで待ち合わせをしたのか記憶にはないですが、片町のスクランブル交差点、当時もあったかどうかわかりませんが、ミスタードーナツがある建物の2階か3階あたりの店に入って、ラムネの瓶のような酒を飲みました。バーボンなのかと思います。

被告訴人安田敏に勧められるままに飲んだのだと思います。店員と話をするようなスタイルの店でもなかったですが、古い時代のアメリカのような雰囲気の店で、ジュークボックスがおいてあったと思います。

その店で話をした時だったと思いますが、バーテンの仕事をやめたと話していました。かなり不本意そうな様子で、愚痴をこぼしていましたが、会話の内容は今ではほとんど思い出せなくなっています。たぶん失業中だったのか、他に仕事をしているような話をしていたような気もするのですが。

この時、私は「ハートブレイク」という店のことだと思って話を聴いていたように思います。店でごたごたがあってやめるようになったという話だったと思いますが、ずいぶんと未練もありそうでしたし、悲しそうに話していました。

そのあとだったと思いますが、被告訴人安田敏の住んでいるというアパートに行きました。片町では他にも店に入ったような気もしますが、食事をしたかどうかを含め思い出せなくなっています。

被告訴人安田敏はアパートの住所を金沢市十三間町と言っていたように思います。片町の路地裏のはずれのような場所でしたが、その辺りには池田町というのもあります。瓢箪町のNMと末町のTHが住んでいたのも池田町でした。

Googleマップで確認をしたのですが、十三間町の方が犀川沿いに近いようです。その界隈の路地裏としては車も通るような比較的広い道で、店も何もなくなってしばらく歩いてから交差点の左側の角にあるようなアパートだったと思います。

アパートと言っても普通のアパートのような集合住宅という感じの建物ではなく、古い建物で下宿というイメージが強かったと記憶にあります。被告訴人安田敏の部屋は2階でしたが、それも普通のアパートのような間取りではなかったです。

雑然とした屋根裏部屋のような印象もあるのですが、アメリカ人のような生活スタイルというか、昔漫画の場面で見たアメリカの貧民街の部屋の一室のような、雰囲気になっていました。横長の部屋であったような印象もありますが、襖とか障子もなかったような気がします。

趣味のアクセサリー関係の物や衣服が多かったように思いますが、ずいぶんと物が多いという印象も受けました。いつからどれぐらい住んでいると聞いたようにも思いますが、それも私の記憶には残っていません。

そのあと、小立野の方に行きました。金沢大学附属病院の辺りで、ちょうどその正門の前辺りだったと思います。小立野は市内配達の受け持ちコースでもあったので、土地勘もありましたが、病院の前に飲み屋があるのも意外でした。

正確に言うと飲み屋というよりは、洋風のレストランと喫茶店の中間にも見えるような店でした。本当ならば海際の観光地によくありそうな建物の店でしたが、それが小立野にあるというのも、ずいぶんと意外でした。

半年ぐらい前になりますか、Googleマップのストリートビューで、小立野の大学病院の前あたりを見たことがあるのですが、すっかりと様変わりして以前の面影はあとかたもなくなっているという感じでした。

兼六園の裏の方から広い道が一直線に伸びていて、小立野辺りは古い町並みの商店街のようにもなっていましたが、兼六園の方から向かうと、左折して50メートルほどかの突き当りに大学病院の正門がありました。

その正門の手前左側の辺りに店はあったと記憶しているのですが、正門につながる広い道路より、左手の路地に入ったような一角だったという気がします。小立野の周辺というのは大学生が多いという印象もありますが、飲み会に使うような店はその辺りに集まっているような気もしました。

被告訴人安田敏に連れて行かれたその店でも、バーボンのようなウィスキーを飲んだように思います。ワインの瓶にも似ているかと思いますが、そういう瓶に入っているウィスキーを置いている店というのは、他には見たことも行ったこともなかったと思います。

かなりマニアックな凝った雰囲気の店でもありましたが、その店の被告訴人安田敏の友達か知り合いのような店主と思しき人も、ずいぶんと個性的な雰囲気でした。矢沢永吉によく似ていましたが、なりきりのようなこだわりも感じられました。

被告訴人安田敏はそういう飲み屋の雰囲気が好きだったのだと思いますが、本人の話では酒はそれほど好きではなく、晩酌のようなことをすることもないと言っていました。

今考えると被告訴人安田敏は余り酒が強くはなかったのかもしれません。たぶん昭和57年の鵜川の祭りでも、酒に酔って座り込む姿を見たことがありました。

私も当時は酒というかアルコールは飲む量が少なかったと思いますが、被告訴人安田敏もそれほど注文を繰り返して飲んでいるようにも見えなかったように思います。

どれぐらいの時間店に店にいたのかもはっきりとは思い出せませんが、店の外に出たところで、被告訴人安田敏がへたりこんでしまったのは印象的でした。座ったまま動かなくなったのですが、受け答えはしっかりしていて、ろれつが回らないようなこともなかったと思います。

被告訴人安田敏は私にタクシー代をくれたように思います。大丈夫だというので、そのまま帰って来ました。はっきりとは憶えていないですが、別れたのも22時とかそういう時間だったと思います。

中島みゆき わかれうた 歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000701/l005ee2.html

ふと思い出して上記のように曲の歌詞を調べてみました。「途に倒れて誰かの名を叫び続けたことがありますか」と、上記ページでは道路の道ではなく途になっていましたが、その時もこの曲のことを思い出していたのかもしれません。別れ際に後ろ髪を引かれるような思いはありました。

小立野の手前が石引ですが、松原病院は石引が住所になっていたように思います。シンナー中毒で精神病院に入ったことで、被告訴人安田敏は周囲から偏見や仲間はずれを受けてきたような、一面もありました。

今思うとその後も私の方から連絡をすることはなかったのですが、しようと思っても直接アパートを訪ねる以外、方法はなかったとは思います。車で行けないことはない場所でしたが、片町の近くで酔っぱらいに車を蹴飛ばされる可能性もあり、駐車の場所もないので、車で行く気にはならなかったです。

人生の悲哀が漂った被告訴人安田敏の姿でしたが、その後彼からも連絡はありませんでした。

次にまた忘れていた頃に連絡を寄越してきたのが、平成3年の4月の終わり頃だったと思います。前回の別れが後ろ髪を引く、良心の呵責をおぼえるものであったことも、その後に影響をしたのだと思います。

2014-09-18 木 09:02> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月19日 :POST:

2014-09-19 金 08:33> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日の18日になりますが、午前中に宇出津の図書館に行き、北國新聞の縮小版を調べてきました。今回調べたのは平成3年の5月、6月、8月の縮小版でした。目的は被告訴人安田敏が多少関係があるように話していた違法薬物の密売事件のことです。

それと思われるものは6月に大麻の密売事件があって片町のディスコが舞台とも書いてあったと思います。ただ、内容を読んでいて、あまり関連もなさそうに思えたので、新聞報道の日付も確認せずに来ました。

関連の可能性がよりありそうだと思ったのは平成3年8月1日の記事にある事件でした。「覚せい剤 手配の密売人逮捕 金沢中署 喫茶店主に数グラム譲渡」「寺井署も5人逮捕」という見出しになっています。

内容を読むと金沢市の繁華街片町とは関係がなさそうですが、覚醒剤の譲り受けで公判中の被疑者が、以前支配人らがディスコに働いていて、覚せい剤の密売にも関わっていたことがわかっている、ときじにあります。

初めに6月だったと思われるディスコの密売事件の記事を読んだときは、大麻の密売だけという印象でいたのですが、いずれにせよかなりの数の被疑者の名前が出ていたものの、知っている名前や、聞き覚えのある名前は一つもありませんでした。

片町での丸西水産輸送の射殺事件は7月30日の記事になっていました。事件の発生も同日の2時台のことであったようです。

同日の新聞記事を読んだ時か、テレビのニュース報道で受けた印象で勘違いをしていたのだと思いますが、私はずっと射殺事件の起きた場所を、片町でも竪町に近い辺だと思い込んでいました。

2014-09-25 木 09:01> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月25日

2014-09-25 木 09:13> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

記述は9月19日の続きになるかと思います。丸西水産輸送の社長の射殺の事件は北國新聞によると、場所が片町でもラブロ裏、新天地と呼ばれる辺り、ということになっていました。

この新天地という地名ですが、私はけっこう最近になって知りました。インターネットで石坂について調べていたところ、その新天地なる場所の情報が出てきたのが初めてでした。石坂については本書で、何度か取り上げていると思います。被告訴人竹沢俊寿の家があると聞く、辺りでもありました。

金沢市片町 新天地 - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82%E7%89%87%E7%94%BA%E3%80%80%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0

上記のキーワードで検索をするといろいろ情報が出てきましたが、やはり平成3年12月21日の夜に、被告訴人浜口卓也に連れて行かれた確かおでん屋のような店のあたりということになりそうです。

片町でも私はほとんど足を踏み入れたことのない場所でした。もう少し香林坊の映画街の方に行くと、車でよく通行していた長町の方に出る裏道のような狭い道路があったとは記憶しています。

長町の辺りというのは、武家屋敷があってちょっとした観光地のようにもなっていると思いますが、その辺りは市内配達の仕事でも、通行することがありましたので、土地勘もあったつもりですが、余り行くような場所ではなかったです。

自分の場合、市内配達でも片町は受け持ちのコースだったので、他の辺りの小路は配達のトラックでもよく通っていました。竪町の長崎屋というスーパーにもちょくちょく配達に言っていましたし、スナックのような飲み屋でもフルーツにするような果物を配達するような店もあったかと思います。

被告訴人安田敏が最初に片町でバーテンをしていたという「ハートブレイク」という店に関しては、彼の説明を聞きながら、ラブロの裏の辺だという認識でいました。

一方で、その後でバーテンの仕事をやっていたという「ラバズバ」という店は、被告訴人安田敏の話しぶりによると、片町でも外れの方で、竪町から金沢市役所の裏の辺りと聞いていたように思います。

竪町の周辺というのはファッション関係の店も多く、若者が多く集まる場所というイメージがありますし、実際に行くと見かけるのは若者の数が多かったと思います。市役所の近くでもあったので、そういう用事なので、幅の広い人が集まるイメージもありました。

私がその辺りにちょくちょく行っていた頃というのは、まだ石川県庁も金沢市役所の道路を挟んで斜め向かいあたりにあったので、県庁が鞍月の方に移転してからは人の数も減ったり、その辺りの雰囲気も変わってはいるのかもしれません。

いずれにせよ、被告訴人安田敏は「ラバズバ」という店の場所について、やたらと詳しく具体的に説明をしていたと思いますが、私の記憶が薄れてはっきりしなくなっている部分もあります。

「ラバズバ」という店については、被告訴人安田敏が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってから話を聞くようになったはずです。

そもそも被告訴人安田敏から連絡があったのはゴールデンウィークの少し前で、平成3年の4月の下旬だったと思います。4月の終わりから連休が始まるはずですが、その直前には、被告訴人安田敏の金沢市場輸送への入社が決まっていたという記憶があるからです。

夕方でも遅い時間で外もすっかり暗くなっていましたが、金沢市場輸送の運転手の休憩室の外から入ってすぐの机の場所で、被告訴人安田敏が私の立ち会いのもと面接を受けていたという場面が記憶に残っています。

金沢市場輸送の社長になっていた被告訴人本恒夫が主に面接をしていましたが、周りに3,4人の人の姿があったようなこともぼんやりと憶えています。誰だったのか思い出せなくなっていますが、いずれも会社では発言力もあるような立場の顔ぶれだったと思います。

あるいは被告訴人松平日出男の姿もそこにあったのかと思いますが、被告訴人本恒夫と犬猿の仲とも言われていた被告訴人松平日出男の姿が、その場にあったということは、割と珍しかったようにも思えます。

麻雀のメンバーとして被告訴人松平日出男の姿を見ることもあったようには思いますが、金沢市場輸送の事務所で被告訴人松平日出男の姿を見かけることは、数の少ないことで、私自身数回しか経験していなかったようにも思います。

麻雀のメンバーとしてしょっちゅう見かけていたのが被告訴人東渡好信でしたが、それはちょうどストライキのごたごたがあったころで、ストライキを先導した首謀者とも言える、被告訴人東渡好信がその場にいたことは、可能性が低いとも思えます。

当時の状況を具体的に説明するにも23年以上経過した現在では限界もありますが、記憶が新しいうちに詳細に記述したとおり、ストライキは、被告訴人安田敏を招き入れるための計画的なお膳立てだった可能性が高いと思います。

初めに被告訴人安田敏から電話での連絡があってから、その金沢市場輸送への面接までの間、4,5日ぐらいだったようにも思いますが、一週間から長くて10日ぐらいあったかもしれません。

初めに電話を掛けてきた時、被告訴人安田敏は同じ金沢市内の運送会社「輪島屋鮮冷」で4トン車の長距離をやっていると話していました。

その数日後、実際に被告訴人安田敏が輪島屋鮮冷の4トン車を運転して、金沢市場輸送に来て、冷凍物の積み替えをするということもあったので、本当に4トン車で長距離の仕事をしているのだと、私は疑いもなく信じました。

金沢市場輸送と輪島屋鮮冷の間で、仕事のやりとりが始まったのは、その平成3年のはじめかあるいは前年の平成2年の終わり頃だと思われます。

今改めて考えると、時期的にも被告訴人東渡好信と関連があって始まった輪島屋鮮冷との仕事の関係だったのかもしれません。

輪島屋鮮冷のトラックを初めに見るようになったのは、金沢港の県漁連の売り場の前でした。早ければ私が長距離の仕事を始めた昭和59年のことです。時期は6月か7月だと思います。

ごくまれに他の時期もありましたが、金沢市場輸送で金沢港に鮮魚を積みに行くのは、毎年6月か7月の初めのスルメイカの時期だけでした。

金沢港では鮮魚の出荷はほぼ毎日あったはずですが、夜の22時とかのセリで、新潟、名古屋、大阪への運搬がほとんどで、それは運送会社ではなく、セリの仲買いである新田商店や直一商店が自分の会社の白ナンバーのトラックで運んでいました。

金沢市場輸送で例外的に鮮魚を運んだ時も、荷主は新田商店でした。

昭和59年の時は、中央市場の丸中水産の仕事としてスルメイカを運んでいた記憶があります。若旦那のような若い社長の姿もありました。

既に書いていると思いますが、昭和61年には丸中水産の仕事はなくなっていました。毎日の新潟定期便があったのですが、丸中水産の方から守田水産輸送に乗り換えられたという話でした。

8月だったような気もするのですが、昼前に金沢港でスルメイカではないサバなどの魚を大型車に積み込んでいたことがあり、新田商店の若い社員のフォークリフトの運転で危ない思いをしたことから、私が文句を言ったところ、蛸島のTSさんが飛んできて威嚇を受けたようなことがありました。

それが蛸島のTSさんに会った最後だったと思います。私は昭和63年の12月の20日頃まで、7599という車番のイスズの10トン保冷車に乗務していました。サバなどを積んでいたのもその保冷車です。

金沢市場輸送では担当のトラックが決まっていて、特に大型車では自分が担当するトラックを他の運転手が乗務することはなく、私の場合も私が担当である間、私以外に乗務することはなく、仕事を休んだという記憶もほとんどありません。

蛸島のTSさんが珠洲郡内浦町の松波の港で、買ったばかりの赤い色の軽四で海に飛び込んで自殺をしたという新聞報道を見たのも、最後に金沢港であってから半年ぐらいあとで、やはり平成1年の1月ころと思われます。

先日も他の記事の探しもので宇出津の図書館に行った時、平成1年1月の北國新聞の縮小版を、丹念に調べ直したのですが、蛸島のTSさんの自殺の記事を見るけることは出来ませんでした。

輪島屋鮮冷の話に戻しますが、初めは4トン車を2台ほど見かける程度でした。次のホームページにもトラックの写真がありますが、基本的なデザインは、初めて見た時からほとんど変わりがないように思います。

輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/index.html

ホームページにあるのは大型車のそれもトレーラーのようですが、箱に書いてある文字の大きさの割合が、以前よりは若干小さくなっているような気もします。いずれにせよ大きな文字で書いてあるので、目立つと思います。

中西運輸商の保冷車も「中西運輸商」と大きな文字では書いてありました。

企業情報|輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/company-history.html

上記ページの「沿革」には、「昭和60年 4月 金沢市神野にて資本金7,600,000円で設立」とあります。

金沢の国道8号線バイパスで、小松方面に向かうと金沢西インターを超えると、すぐにバイパスが左に大きくカーブし、北陸自動車から分岐しているのですが、そのカーブを超えてすぐ左側に、新しいアパートがあって、それが輪島屋鮮冷の会社というか事務所になっていました。

場所としてもよく通る目立つ場所でしたが、全くのアパートを会社の事務所にしているというのも、他には見たことも聞いたこともなく、型破りな会社として目立つ存在でした。

宇出津に住んでいると目立つ輪島屋鮮冷のトラックを見ることもなかったので、一年ほどまでしようか、ふと思い出して検索で調べたところ、全国展開するほどに大きくなっていて驚きました。

序になりますが、数年前までは宇出津の近くでもたまに見かけることのあった蛸島の浜田漁業のトラックを見かけなくなったと思いだし、同じく検索で調べたところ、倒産情報があり、それがほとんどリアルタイムに近い情報で驚いたこともありました。

金沢市神野の輪島屋鮮冷のアパートの事務所には一度行ったことがありました。他に経験のないことですが、面接に付き合いを頼まれて同行したのです。面接の同行など聞いたこともなかったので驚いたのですが、そういう経験もありました。

面接の同行を頼んできたのは、宇出津の1つ年下のKでした。思えばKともあれ以来会っていないようにも思いますが、何をしているのかどこに行ったのか、噂にも聞いたことがありません。

Kは宇出津の城野町に家があって、私の1つ年上の兄がいました。その兄は小木分校に行っていたので、被告訴人KYNもよく知っているはずですが、その兄の話も全く聞いたことがありません。今はほどんどがそうなっていますが、早い時期から話を全く聞かなくなりました。

Kとは当時、多少の付き合いがあったのだと思いますが、久しぶりの再会でもあったと思います。どこで再会したのかも思い出せないですが、私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめてすぐの頃、Kも金沢市場輸送に入社して、しばらく4トン車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。

面接の同行に関しては、似たような話を聞く機会が一度だけありました。普通はあり得ないことだと思うのですが、アパートを事務所にしているような会社であれば、慎重な様子見ということで、そういう気にもなることがあるのかもしれません。

Kにしても面接で即決で採用にはなったものの、仕事には行かなかったように思います。

輪島屋鮮冷に関してはその頃にもうわさ話のようなものを聞いていたと思いますが、社長として輪島屋鮮冷を始めた人物は、丸西水産輸送で配車係をしていたという話でした。運転手をしていた頃、事故を起こし飼い殺しのような状態になっていたとも、聞いたような気がしますが、真偽は不明です。

早い段階で七尾市の石崎(いっさき)の出身だとも聞いていましたが、石崎ではなく和倉のボンボンと聞いたこともありました。和倉温泉は全国的にも知名度の高い、温泉地だと思います。「加賀屋」は以前、テレビでもよく取り上げられていました。

中西運輸商の社長も七尾市の石崎の出身だと聞いていましたが、こちらは違うという話も聞いたことはなかったです。

石崎も和倉も、七尾市の一部にはなるはずですが、七尾市の町内ではなく、独立した町というイメージが強いです。石崎に関しては「石崎奉燈祭り」として聞くことが石川県内では多いかと思います。

同じ能登でも、かなり離れているので余り知らないのですが、漁師町で気が荒く、話し言葉も汚いと聞いていました。輪島市の海士町と似たようなイメージだったので、輪島港ほどではないにせよ、それなりに大きな漁港をイメージしていました。

石川県立水産高校小木分校で同級生だった波並の同級生が、高校を卒業して七尾市の石崎の魚屋に就職したという話も聞きました。別の高校の能都中学校の同級生の女子も和倉温泉の加賀屋に就職したという話を聞きましたが、同じ高校卒業直後の時期だったと思います。

石崎の魚屋に就職をしたという同級生には、昭和63年ころだと思いますが、一度、富山県氷見の魚市場で、たまたま顔を合わせたことがあり、相手も驚いていました。7599の大型保冷車に乗務していたときのことです。

普通、金沢や羽咋市から宇出津に向かうには七尾市内は通過しないのですが、七尾市内から宇出津に向かうと和倉温泉駅の前を通り、その付近では電柱に「石崎町」という住所の看板は見かけていました。

一月ほど前の8月の下旬、穴水町までバイクで買い物に行ったのですが、思ったような商品が見当たらず、思い切って七尾市まで足をのばしたのですが、その時に初めて石崎の漁港を探して行ってみました。

予定外のことで下調べもなく、適当に見当をつけて走っていると、能登島まで渡ってしまいましたが、その能登島大橋を渡ったのは2度めのことで、平成3年の5月か6月に家族を連れて、のとじま水族館に行って以来のことかと思います。

能登島には小木分校の高校一年生だった昭和55年に、水産高校の「おおとり丸」という船で、40人ほどの無線通信科の同級生と行ったことがあったのですが、その頃は橋もなく、橋が出来るという話も聞いておらず、完全な島という状況でした。

看板を頼りに石崎の漁港と思わえる場所に行ったのですが、余りの港の小ささと漁港らしくなさに驚きました。魚市場のような建物もありましたが、松波の漁港より小さく、船の数も少なく見えました。

ずっと前に一度来たことのある場所だという気もしましたが、誰かの車に同乗している時に来て見た風景だとは思いましたが、石崎の港という認識はなかったように思います。

伝統のある江戸時代の名残も残っていそうな漁港をイメージしていたのですが、思い描いていたものとはまるで違い、漁港というよりヨットハーバーに近いような印象でした。

石崎に向かう前には、和倉温泉の方にもバイクで行っていたのですが、和倉温泉の方は想像していたよりはるかに規模が大きい温泉地で旅館の数も多く、セブンイレブンのコンビニまであるので驚いていました。

和倉温泉には昭和61年の1月、中西水産輸送の新年会で旅館に一泊したことがあったのですが、たぶんそれ以来ではないかと思います。それ以前にも行ったのはダクト屋の仕事で、美湾荘に行った記憶があるぐらいですが、当時はほとんど関心もなかったのか、記憶に残る風景も僅かなものでした。

2014-09-27 土 07:03> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月1日

2014-10-01 水 07:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

いつ頃から輪島屋鮮冷のトラックが金沢市場輸送の仕事をするようになったのか、はっきりとは思い出せないのですが、なにがきっかけで仕事上の付き合いが始まったのか、話を聞くことはなかったし、運転手の間で話題になるようなこともなかったと思います。

輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の関係については話を聞かなかったのですが、輪島屋鮮冷という会社に関しては運転手の間で話題になり、話を聞くことがありました。幾つか話を聞きましたが、どの話を誰から聞いたのかとなると、はっきりしないところがあります。

輪島屋鮮冷というのは、その名の通り同じ石川県の能登半島にある輪島市をイメージする人が多いかと思います。もうひとつは私が中学生の頃の昭和50年代前半に大相撲で北の湖とともに横綱として活躍した石川県出身の横綱輪島がいました。

私自身も昔は普通に輪島という名前の通り、輪島市出身の人物かと思っていたのですが、そのうち誰かから七尾市の石崎の出身だと聞きました。意外感もあったので、石崎のことも併せてよく憶えています。

輪島大士 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%A3%AB

上記ページに詳しい情報がありました。思っていたよりまだずいぶんと若く、昭和23年生まれの66歳とのことです。姉か妹の金銭問題が大きく取り沙汰されていたのは、やはり昭和57年ころとなりそうです。

金沢の片町に「相撲茶屋輪島」という店を姉か妹が開き、それがトラブルの原因になったとか、閉店したとか聞いていたように思います。バナナビーチというディスコがあったビルと同じか、隣接したビルの一階にある店だったと思います。

ついでになりますが、その「相撲茶屋輪島」があったと思われるビルのあたりでは、昭和61年の年末に、金沢市場輸送で忘年会が開かれたことがありました。元は同じ店だったのかもしれないと思っていました。「雪国」という演歌の曲が流行っていた頃のことです。

それと同じビルか、もうひとつスクランブル交差点側のビルの3回ぐらいの若者向けの飲み屋では、被告訴人大網健二の結婚式の打ち上げがありました。生のバンド演奏もあったように思いますが、そういう雰囲気の店でした。

その店の方では結婚式に出席していなかった友人も集まっていて、その中には後に片町の飲み屋を舞台にした薬物売買で逮捕されたと大々的に報じられたOYの姿もあったと思いますし、薬物犯罪の舞台になったという片町の飲み屋かディスコも、同じ辺りの場所だったという私のイメージになっています。

平成9年か平成10年に、被告訴人KYNが、そのOYのことを、連中はもっと悪どいことをやっていると言いながら、薬物売買の事件のことを吐き捨てるように話していたことは印象的なのですが、その薬物事件の時期というのは、私の記憶がはっきりとせず、まだ調べていません。

私がOYと会ったのは、私の長距離トラックの仕事が忙しくなってからで、多くて4,5回程度ではなかったかと思います。その殆どで東力の「かつとし」がいたように思います。ずっと気にかけているのですが、未だに上の方の名前を思い出すことが出来ません。

「かつとし」は大柄な体格だったと思います。父親が日通の幹部社員のように聞いていたようにも思います。既に本書でも触れたことがあると思いますが、「かつとし」という名前は出してはいないと思います。OYと違い、名前を思い出せないので、特定が困難です。

OYもかつとしも、同じ歳の同級生だと聞いていたように思いますが、他にも関係性などいろいろ聞いていたように思いますが、思い出せることはほとんどありません。

最後に東力の「かつとし」の話を聞いたのは、会社を定年退職した父親と一緒という話だったようにも思うのですが、その退職金とかで、金沢市の大額の大通りに居酒屋のような店を出したという話でした。

金沢市三馬の方から四十万にその大通りを向かうと、左側に店がありました。私はその店を見ていますし、一度店にも入ったような気もするのですが、実際に店に入ったのか、店の中の様子を想像した場面だったのか、記憶がはっきりしなくなっています。

店の名前はよく憶えています。とてもわかりやすい平仮名二文字の店の名前だったからです。「輪島」にもイメージがゆく店名ですが、名づけた理由などに関しては話を聞くことはなかったように思います。

3,4ヶ月ほど前になりますか、その店の名前で検索をしたことがあったのですが、同じ名前の店は出てきたものの、金沢市内でも西金沢駅に近い辺りだったように思います。

「さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。」(前出のWikipediaページからの引用)

昭和61年5月ということで上記の問題は、私が被告訴人安田敏を頼って岐阜県海津町に行くより前ということになりそうです。同じ年にプロレスに入り、更に読むと昭和63年12月に引退したようです。

輪島屋鮮冷の4トン車で長距離乗務をするようになっていた珠洲市三崎のHMが、元横綱輪島の不祥事が世間の注目を集めていた時期で、東京都内を輪島屋鮮冷のトラックで走行していると、信号待ちで注目されることが多くて恥ずかしい、と話していたことがありました。

何度か書いていると思いますが、珠洲市三崎のHMは、輪島屋鮮冷と守田水産輸送の間を何度か、行き来していました。

守田水産輸送は金沢市西念の中央市場の前に会社があって、中央市場のなかでの仕事が多かったので、ちょこちょこと顔を合わせることはあったのですが、輪島屋鮮冷のトラックを中央市場のなかで見ることは、ほとんどなかったように思います。

金沢市場輸送と同じ保冷車でも、鮮魚を積むことはほとんどなく、冷凍物がほとんどだと聞いていましたが、目一杯重量を積んでいるとも聞いていました。これは守田水産輸送の4トン車と同じでした。守田水産輸送の場合は鮮魚の定期便もやっていたという違いはあります。

金沢市場輸送でも冷凍物は運んでいましたが、割合は少なかったです。ここでは冷凍食品と冷凍物の違いを、私独自の視点から説明したいと思います。

冷凍食品も運ぶことがありましたが、私の経験ではどんな冷凍食品でも割と軽いもので、かさもあるので満載にしてもさほどの重量にはならなかったと思います。

例えば、下関から珍味の原料となるカワハギの冷凍を運ぶことがありましたが、個々のケースは割と重みがあると思うものでも、満載に近くして18トンぐらいだったように思います。

重みのある冷凍物は、イカや蒲鉾の原料となる鱈の冷凍すり身でした。イカは外国からの輸入のものがほとんどだったように思います。蒲鉾の工場は、金沢や富山の市場の近くにもありました。

重量で言えば、冷凍の牛肉も重かったですが、当時は輸入の肉を運ぶということもたまにしかなかったように思います。ブロイラーと呼ばれる鶏肉は昭和59年ころは、金沢市場輸送でよく運んでいました。あれは余り重くはなかったような気もします。

守田水産輸送や輪島屋鮮冷の4トン車では、8トンから10トンの積載をすることが多いと聞いていました。当時の4トン保冷者というのは正味3トンも積めなかったと思いますので、普通に2台分から3台分の荷物を一台で運んでいたことになります。

輪島屋鮮冷に関しては、何を主に運んでいるのか、よくわからなかったですが、それだけの重量となると普通の冷凍食品とは考えにくいと思っていました。トラックもよく見かけていましたが、冷蔵庫のほかは特定の会社とかは余りみなかったように思います。

誰から聞いたのか思い出せなくなっていますが、輪島屋鮮冷の社長というのは、丸西水産輸送で配車係をしていたといい、元は運転手をしていた大きな事故を起こし、飼い殺しの状態になっていたとも聞いていたように思います。伝聞なので情報の正確性も不明ですが、聞いたのは一人で一度だけ。

親戚に大手の冷凍食品会社の幹部社員というか上の立場の人がいて、その取引関係をつてに独立して輪島屋鮮冷を始めたとも聞きました。ニチレイと聞いたようにも思いますが、これも真偽は不明です。

私の経験としては初めに輪島屋鮮冷の4トン車を見かけるようになったのは、前にも書いているはずですが、金沢港の県漁連の前でした。食堂の前辺りだったと思いますが、いつものように2台か3台の同じ輪島屋鮮冷の4トン車が駐車していました。

ただ、売り場の方でスルメイカというか鮮魚を積み込んでいるような状況は見た記憶がなく、その辺りもちょっと不思議に感じていました。富来の西海港の「牛若丸」という4トンの白ナンバーの保冷車が駐車していた場所と時期も重なるように思います。

輪島屋鮮冷の4トン車は普通の保冷車で保冷の箱の容積が他より大きかったとは思えませんが、冷凍食品だとどれだけ満載にしてもさほどの重量にはならず、せいぜいで5トンぐらいではなかったかとも思われます。

冷凍食品といってもいろいろとありますが、私もいろいろの冷凍食品を積み込み取り扱った経験があり、普通に考えてもずっしりと思い氷の塊のような冷凍食品というのは、加工食品として考えにくいと思います。

重量のある冷凍物として有名だったのは今もありますが、宇出津に近い小木港の船凍イカ(船内凍結イカ)でした。私自身、小木港に船凍イカを積みに行く機会は一度もなかったので、実際に小木港から運んだことは一度もありませんでした。

小木港には今もあると思いますが、小木運送というトラックがあります。緑ナンバーの運送会社のようになっていましたが、実質は運転手が個人でトラックを保有し、会社としての名義で緑ナンバーを取得しているような話になっていました。

私がトラック運転手を始めた昭和59年には、白ナンバーの社会問題は過去のものになっていましたが、以前はいろいろと問題にされ、摘発にもなっていたと聞いていました。

中西水産輸送もその白ナンバーの問題で摘発され、会社が潰れたと聞いていました。復活した中西水産輸送では佐川急便の雑貨の仕事をするようになっていました。物置にされたいた古い保冷車の箱には大洋マルハとか書いてあり、マルハの冷凍物を運んでいたとも聞きました。

2014-10-02 木 20:40> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月2日

2014-10-02 木 20:54> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日になりますが、小木港にアジ釣りに行ってきました。次が昨日現在の能登町小木港の写真です。以前は珠洲郡内浦町小木でした。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/10/02 20:53 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/517643657050980352
2014-10-01 14.42.47.jpg http://t.co/3ML0nU8aZ9 

小木港に行ったのは本年9月15日以来で、ちょうど半月ぶりになるかと思います。小木港では9月15日はちょっと特別な日で、アオリイカ釣りの解禁日です。解禁を設けているのは私の知る限り、小木港だけです。

その前回の時も同じだったと思いますが、大雨の影響と思われ、姫と小木の間の古いトンネルが通行止めになっていました。迂回するのは比較的新しい道で、新しく出来たトンネルもあります。

トンネルの出口の方の壁に刻印があって、確認すると平成6年12月完成とありました。なるほど平成4年以前は開通していないトンネルで、古いトンネルが主要道になっていたようです。

古いトンネルは現在もそのままかと思いますが、道幅が狭く乗用車でもどちらかがトンネルの手間で待機して、トンネル内を対面通行ですれ違うということがありません。

そのトンネルは高さも低いため、大型車の通行はかなり困難かと思いますが、昭和の時代など以前はその道しかなかったので、大型車でも通行をしていました。多分になりますが、車検が通る限界の3.8メートルの高さでは、トンネルに入ることが無理とも考えられ、そう聞いたような記憶も少しあります。

現在その古いトンネルは大型車が通行止めになっていて、4トン保冷者でもその古いトンネルを通行するのを見かけることはありません。

2014-10-06 月 10:16> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日

2014-10-06 月 10:17> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

平成3年当時と現在とでは小木港の様子もずいぶんと違っていると思いますが、平成3年当時の私は金沢で生活していて実家の宇出津に戻るのも年に数回だったので、小木港に行くこともほとんどなかったと思います。

私が頻繁に小木港に行くようになったのは2010年の12月の20日頃からのことです。小木港の釣具店でアジング用の釣り道具を揃え、それからちょくちょくと小木港にアジを釣りに行くようになりました。

小木港では宇出津とは違い大きなアジが釣れるので、宇出津でも小木港までアジ釣りに行く人がいるとは聞いていたのですが、いくら魚が釣れても小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

その2010年の9月の初めからはアオリイカ釣りを始めていました。アオリイカも小木港のほうがよく釣れるとは聞いていましたが、バイクで小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

アジ釣りを始めた当初が、アジングでも大きなアジがよく釣れ、脂が乗って味がとても良かったのです。それまで食べてきたアジという魚の味の認識を根本から変えるような味でした。

また、小木港でアジ釣りをしていると昭和50年代、60年代の交友関係、友人関係についても記憶の喚起に役立つと思うようなこともあり、雪の降る寒い中大変ではありましたが、バイクで小木港に通うようになりました。

既に何度か書いていることだと思いますが、昭和の時代の小木港は遠洋漁業が盛んで、船の数も多く、遠洋のイカ釣り船と北洋のサケマス船がいました。サケマス漁の方は、「中部船」と呼ばれ、船体の色がオレンジ色になっていました。

小木港は今でも「イカの町」という看板が出ているほどイカ漁と縁のある町ですが、そのイカというのが船凍イカです。

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