告訴状2013(作成途中)_12

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:00:18

上記のように検索をかけると、出てくるのはほとんどが小木港に関する情報のようです。

小木港の船の数は昭和の時代に比べ激減していますが、今も遠洋のイカ漁は続いていて、宇出津のスーパーにも小木港の船凍イカは売っています。6月頃に出漁して12月に戻るという遠洋漁業の基本もほぼ同じかと思われますが、今はそれ以外の時期でも小木港で中型イカ釣り漁船の姿をみることもあります。

とにかく平成3年ころの小木港の様子というのが私にも想像がつかないのですが、二百海里問題以降、衰退はしていたもののまだ現在よりは船の数もイカの水揚げも多かったのではないかと想像されます。

とにかく金沢市場輸送では小木港に船凍イカを積みに行くことは一度もありませんでした。古い運転手の話では以前は行ったことがあるというような話を聞いたような気もするのですが、記憶は曖昧です。

金沢市場輸送では浜田漁業金沢工場のイワシの運搬以外では、殆どに近く能登の方に仕事に行くことはありませんでした。正月明けに蛸島港にイワシの鮮魚を積みに行ったぐらいです。あとたまに行くのは七尾市の市場ぐらいでした。果物を持っていくような仕事でした。

七尾市の方によく行くようになったのは市場急配センターで、平成3年の秋11月ころからのことですが、これは被告訴人東渡好信が配車係になったことと、その被告訴人東渡好信の口ききらしく七尾市の丸一運送の仕事をするようになったことがきっかけです。

行き荷のほとんどが七尾市だったようにも思います。積み込むのは七尾市の、能登木材の製材か、林ベニヤのベニヤ板のどちらかでした。積み荷の行き先はすべてが関東だったと思います。

帰り荷としても丸一運送の仕事と聞く、和歌山県かつらぎ町からのミカンが多く、手作業で他の運転手が嫌がる仕事だったので、私には個人的に集中的に回ってきていたようでもありました。これは小松市と七尾市の2箇所降ろしが多かったように思います。七尾市は必ずだったとも思います。

序に書くと、平成4年の2月ころからは石灰を積んでくる仕事があって、それも丸一運送の仕事だと聞いていました。私は栃木県の葛生市の山の方から3,4回、岐阜県の大垣市の山の方から2回ほど運んだように記憶しています。卸先は七尾市内、田鶴浜町、松任市の駅の近くがありました。

本書でも既に書いているところがあるかと思いますが、今年の8月の下旬にバイクで七尾市に行った時、田鶴浜町の国道沿いに、橋本商事という看板の出た倉庫が、当時と同じように存在していました。

そういえば今朝の10時過ぎの石川テレビの番組だったと思いますが、七尾市の市政10周年とかやっていました。旧七尾市、田鶴浜町、能登島町の合併になっていたように思います。中島町も現在は七尾市になっているような気もするのですが、田鶴浜町が以前七尾市とは別だったとは少々意外でした。

なお、金沢市から七尾市に向かうには能登有料道路を千里浜インターで降りて向かうことが多かったように思いますが、行き先が関東だと、そのまま海岸線の国道で富山県に入って氷見市から高岡市の国道8号線に出ていました。

国道160号線ということになるかと思います。石川県七尾市内から富山県高岡市につながる国道で、県境から氷見市の手前辺りまでは海岸線がほとんどだったように記憶しています。

富山県内を走る高速道路つまり北陸道は、石川県との県境から山の方を走り、国道8号線からも離れていました。滑川インター辺りになると国道8号線には近くなっていましたが、ほぼ交わるのは富山県で新潟県の県境の最終になる朝日インターでした。

昭和59年当時はその朝日インターが北陸道の最終インターで、新潟県の上越インターまでは高速道路が未開通になっていました。対面通行でトンネルも多かったですが、その間が開通したのは昭和63年ぐらいかと思います。

昭和60年の時点では関越道も湯沢インターが最終になっていて、その翌年ぐらいに開通したと記憶にあります。日本一長いという関越トンネルの開通でした。

その昭和60年か昭和61年の冬に、中西運輸商の4トン車で一度、湯沢インターから三国峠の国道18号線を走ったことがありました。トラックにはすれ違いも困難な狭いトンネルがありました。カーブも多くてずいぶんと時間がかかったように思います。

馬鹿のように時間も掛かったので、二度と通りたくはないと思うような三国峠でした。その昭和60年以来ということになるのかはわかりませんが、数年ぶりに通ったのが平成4年の2月の終わりか3月の初めのことで、大雪で関越道が通行止めになったために、しかたなく三国峠を走ることになったのです。

七尾市降ろしの石灰を栃木県葛生町から積んでいた時だったと思います。三国峠など国道18号線の方も渋滞がひどくて、湯沢インターのあたりに出たのは翌日の昼頃にもなっていたと思いますが、午後の明るい時間のうちには七尾市で荷物を降ろすことが出来たようにも記憶にあります。

その時は七尾市内の丸一運送の会社の方で、他のトラックに石灰の荷物を積み替えたか、パレットで仮置きをしたように思います。丸一運送の会社にはこの時を含め、2回かあるいは3回行ったことがありました。

どの時だったかわかりませんが、丸一運送の配車係か事務所の幹部社員のような年配の人がいて、被告訴人東渡好信のことをよく知り、あるいは心配するような感じで話をしていました。幼なじみとも思えるような親しく長い付き合いの関係にも見えました。

時期的に、被告訴人東渡好信が失踪をするような不可解な行動をやっていた時期に重なるかとも思いますが、そのことを案じて、私に声を掛けていたようにも思います。やはり心配するような表情であったと今はぼんやりした場面になっていますが、記憶に残っています。

被告訴人東渡好信に関しては後回しにして、今は被告訴人安田敏に関する説明をメインにしています。

七尾市から国道160号線で高岡市の国道8号線に出ると、私は小杉インターから北陸道にのることが多かったと思いますが、その時の気分では滑川インターまで行っていたかもしれません。小杉インターは富山インターの一つ手前で、富山インターの一つか二つ先が、滑川インターだったと思います。

市場急配センターでは基本的に高速道路は自由に利用ができていましたが、被告訴人東渡好信が節約とか言い出して、新潟県上越市から山の中の国道を走って、六日町インターから関越道にのることもありました。その道は金沢市場輸送に頃にもたまに使っていました。

Googleマップで確認したところ国道253号線になるのかと思います。松代とか十日町を通って、六日町の町の手前から関越道にのっていたように思います。3桁の国道でしたが、割と広い道で、豪雪地帯でしたが、特に難所はなかったように思います。

金沢市場輸送の頃は、六日町インターから関越道にのると、群馬県内の花園インターで降りることがほとんどだったとも記憶にあります。茨城県水海道市にアルミサッシを運ぶ仕事が多かったとも思いますが、埼玉県桶川市から移転した新しいアルミサッシの配送センターのような倉庫でした。

Googleマップで確認したところ水海道市は現在、市町村合併で常総市となっているようです。谷和原インターというのも思い出しました。アルミサッシの荷降ろしを終えた後、よく利用していた常磐自動車道のインターだったと思います。

その谷和原インターの近くに最後に行ったのは、被告訴人浜口卓也と一緒に日清製粉の工場に行った時でした。平成3年の11月の中頃ではなかったかと思います。

日清製粉という社名になっていたように思いますが、カップ麺でお馴染みの会社です。国道6号線で取手市だと思いますが、茨城県内に入るとすぐ左側に日清製粉の目立つ工場か倉庫のような建物があることは、以前からそこを通って知っていました。

仕事でその取手市の日清製粉に行ったのは初めで最後だったのですが、富山県の富山市の郊外に位置する富山インターから国道41号線を岐阜県の方に向かって3,40分ほど走った辺りで積み込んだカップ麺の容器のような荷物を積んでいました。

被告訴人浜口卓也とは午後に金沢を出発して、私は富山インターで降りて荷物を積みに行ってのですが、被告訴人浜口卓也はその先のサービスエリアで私が来るのを待っていたように思います。彼も自分の担当になった大型ウィング車に乗務していました。

被告訴人浜口卓也がどんな荷物を積んでいたのか憶えてはいませんが、とにかく一緒に茨城県取手市の日清製粉に行き、国道6号線沿いの日清製粉のすぐそばにトラックを駐めて、どちらかのトラックの中でコンビニで買った弁当を食べながら一緒に話をしながら缶ビールを飲んでいたことを憶えています。

被告訴人浜口卓也も日清製粉の荷降ろしだったと思うのですが、荷物の積み込み先が違っていたか、積み込んだ日が違っていたようです。

茨城県取手市の日清製粉で荷降ろしした後のこともよく思い出せないのですが、私は谷和原インターの付近を懐かしいと思いながらトラックで走行していた場面の記憶は残っています。

私は同じ茨城県の古河市の市場に行った可能性が高いかと思いますが、被告訴人浜口卓也とは別行動の仕事になったと思いますし、そもそも古河の市場で被告訴人浜口卓也と一緒になったことは、一度もなかったようにも思います。

古河の市場の山三青果の仕事はそもそも市場急配センターの仕事のメインだったのですが、私は被告訴人安田敏とも古河の市場では一度も一緒になることがなかったようにも思います。

山三青果の定期便の運賃は大型車で12万円とも聞いていたように思います。もとは平成2年の12月頃から金沢市場輸送に市場急配センターが請け負わせていた仕事だったのですが、運賃がよく売上がいいので、金沢市場輸送に任せるのが惜しくなったという話を聞くこともありました。

本書でも既に説明しているところがあるかと思いますが、金沢市場輸送でやっていたころは、日通高柳店からの埼玉県岩槻市、千葉県千葉市の二箇所降ろしの日通の定期便と、小松店、金沢店の二箇所積みでの栃木県宇都宮市へのトナミ運輸の定期便というほぼ同時期の二つの定期便とセットになっていました。

日通やトナミ運輸では、他に福岡への定期便や仙台への定期便もやっていたので、記憶が混同している部分もあるかもしれませんが、仙台への日通の定期便は、富山県高岡市だったと思います。

富山中央店からの福岡への定期便はウロコ運送との一日交代で前からやっていましたが、西インターの金沢店からも福岡への定期便をするようになっていたかと思います。富山中央店からの定期便とは違い、片道だけの定期便だったとも思います。

その頃は仕事が多いピークの時期だったとも思いますが、すべて金沢市場輸送のトラックでやっていたわけではなく、傭車と言い他の運送会社のトラックを使うことも多くなっていました。

特に多かったのは富山県氷見市の堀安商店という運送でした。大型車4台程度の小さな運送会社でしたが、緑ナンバーだったと思います。もともとは鮮魚専門のような会社でした。

堀安商店の方は、逆に仕事をもらうこともあって、氷見の漁港に鮮魚を積みに行くことがありました。東京の築地が多かったと思いますが、一度、シイラを満載にして福岡と熊本まで運んだことがありました。シイラは全国的にも人気がない魚で、買い手がないという話も聞きました。

堀安商店には3,4人の顔なじみの運転手がいたと思います。6トン車も一台はいたようにも思います。堀安商店の会社にも行ったことがありました。堀安商店の運転手とは福岡の魚市場で顔を合わすこともよくあったように思います。

同じ時期、傭車でよく金沢市場輸送に来ていたのは小木運送の新出さんでした。新出というのは小木や越坂に多い名前でしたが、一度聞いた話では珠洲市の若山に家があると話していました。

その頃は金沢市や県外の方で小木運送のトラックを見かけることも割と多かったように思いますが、金沢市場輸送に傭車として出入りするのは新出さんだけでした。新出さんは10トン車に乗務していましたが、他の小木運送のトラックでは6トン車を見かけることが多かったようにも思います。

小木運送という名前で運送会社のようですが、会社としてのシステムやあり方は、普通の運送会社とは違っていて、小木港での船凍イカの仕事が暇な時期は、自分で仕事を探してきてやりくりするしかない、というような話も聞いていたように思います。

小木運送でも新出さん個人との仕事のやりとりという感じでしたが、金沢市場輸送では小木運送の仕事をすることもなかったし、既に書いたように小木港に仕事に行くことも一度もありませんでした。

被告訴人本恒夫と新出さんとの個人的な関係と言ったほうが良いかもしれません。どこでどのように知り合い、傭車をするようになったのか具体的なことを聞いてはいないようにも思いますが、新出さんとは個人的に話をする機会も割と多かったので、憶えていないだけで聞いていたこともあるかもしれません。

越坂出身だと聞くKSさんも小木運送で大型車に乗務していたと聞いていましたが、その時期というのははっきりしません。同じぐらいの年の女の人と結婚をしていましたが、その妻というのは小木運送の金沢の支店で事務員をしていたと聞きました。

妻は金沢市の出身とうことで、何かの機会にその実家という家に遊びに行くこともありました。西念町でしたが、中央市場からは離れた場所で、北安江に近かったと思います。

KSさんと初めて会ったのは昭和59年の6月だと思います。金沢港のスルメイカの仕事では山形県の酒田市に行くことも多かったのですが、一度、珠洲市三崎のHMを連れて行ったことがありました。たぶん彼は失業中だったと思います。

酒田市は山形県でも日本海側にあります。その帰りだったと思いますが、新潟県の柿崎町から上越市に入った辺りの国道8号線沿いに、右手にラーメン屋がありました。そのラーメン屋で一緒になったのが越坂のKSさんでした。

その時、越坂のKSさんは中西水産輸送の10トン車保冷車に乗務していました。中西運輸商と大書きした2台ある保冷車の一台でした。いずれも日産ディーゼルのトラックで見た目はほとんど同じだったと思いますが、中身はずいぶんと違うものになっていました。

その一台というのは10トン車の車体に、トレーラーのエンジンやミッションを搭載したものでギアが10段あるものの、ギア比が低いため最高速度が90キロしか出ないというような話でした。

同じ頃ではなかったかと思いますが、宮城県の石巻の冷蔵庫で、中西運輸商の保冷車と一緒になり、その積み込みを手伝ったり、話をしたことがありました。当時の長距離トラック運転手としては最高齢に近く、50歳近いような話でした。現在の50歳の感覚とはまるで違います。

名前の方は思い出せなくなりましたが、珠洲市の鵜飼辺りの出身とも話していたと記憶にあります。ちょっと風変わりな人でしたが、サウナに寝泊まりしながら生活しているとも話していました。

その時も冷凍のエサを保冷車に満載にしていました。段ボールケースにも入っていない小魚の冷凍で、メギスのような色の悪い小魚の冷凍物であったとも印象に残っています。

昭和59年で私が金沢市場輸送の4トン保冷車に乗務していた頃のことですが、その頃、石巻に行ったのは2,3回だけだったと思います。その一度は、既に書いていると思いますが、被告訴人大網健二と生マグロを積みに行った時のことで、興勝運輸の仕事でした。

興勝運輸は飾りの多い立派なトラックでしたが、会社の方は石巻港でもずいぶんと離れた場所にありました。昭和61年頃にはすでに倒産して会社がなくなったと聞いていました。

その石巻の冷蔵庫で一緒になったのがトレーラーのミッションをつけた10トン車だったと思います。その運転手の人も、私が中西運輸商で4トン車に乗務していた頃に、しばらく会社に戻って同じトラックに乗務していたことがありました。けっこう気ままに出入りを繰り返しているような話でした。

印象に残っているのは冬だったと思いますが、中国自動車道を走行中にトラックのフロントガラスが全部割れ、顔にタオルを巻きつけて走ってきたと話していたことです。

越坂のKSさんは私より年が3つか4つ上だったと思います。初めは金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも聞いたように思いますが、水産高校を卒業したばかりの蛸島のTSさんと一緒だったとも聞いていたように思います。

すでに書いているかと思いますが、蛸島のTSさんが水産高校を卒業したのは昭和56年のことで、それは私が小木分校を中退して、金沢市に出た年と同じでした。

被告訴人大網周一と二人でいたところ、蛸島のTSさんが運転するジャパンというスカイラインだったと思いますが、それに乗せてもらい、問屋町のガソリンスタンドの寮まで送ってもらったことがありました。その時、助手席にいたのが当時は名前の他あまりしらなかった被告訴人安田敏でした。

そういえばということで思い出したのですが、金沢市場輸送で傭車の仕事をするようになった当初の越坂のKSさんは、中西運輸商でトレーラーのミッションをつけていた10トン車を払い下げで買い受けて、それに乗務していたように思います。

バイクの改造車のように自分でスプレーで塗装したようなボディのカラーになっていて、中西運輸商のトラックという面影はなくなっていたとも思いますが、そういうふうに聞いたように思い出しました。

私の記憶も薄くなっていて余り自信は持てませんが、初めはやはりその10トン車だったとして、金沢市場輸送での傭車の仕事をするようになってからは、そう長い間その10トン車には乗務しておらず、まもなくトレーラーに買い換えていました。

トレーラーの本体は新車だったと思いますが、荷台の保冷の箱の方は古い中古の物を使っていたように思います。10トン車もそのトレーラーも白ナンバーだったと思います。

個人の持ち込みという言い方もされていたかと思いますが、越坂のKSさんが独立して個人のトラックを保有するようになったのは、石巻からエサを運ぶ仕事がしたかったからだと話していました。初めは興勝運輸から仕事をもらっていたとも聞いたようにも思いますが、これも私の記憶がぼんやりしています。

とにかく昭和59年ころまでの大型保冷車の仕事というのは、エサの仕事が多かったと聞いています。私が金沢市場輸送で大型保冷車に乗務したのは昭和62年4月のことで、その頃のはエサの仕事自体がほとんどなくなっていて、私自身、エサの仕事というのは一度もすることがありませんでした。

話としては年配の運転手からよく聞いていたのですが、主に石巻港の冷蔵庫からエサを満載に積み、それを鹿児島県や宮崎県あるいは大分県のハマチの養殖場まで運ぶという仕事で、四国の宇和島の方にも行くとも聞いていました。

たいていは片道一週間ほど掛けて、大半はフェリーに乗って、のんびりと運ぶ仕事で、月に4回ぐらいしか出来ないけど、そこそこ収入にもなるような話でした。

本来は大半をフェリーの利用にするというのが常識だったようですが、それを全線高速道路でやろうと考え、トレーラーのエンジンやミッションに改造することを考え、実行したのが中西運輸商の社長の発想だと聞いていました。箱の方も丸みを帯びて変形していたような記憶があります。

これもそういえばということになるかと思いますが、越坂のKSさんは、金沢市場輸送で姿を見かけなくなってしばらくしてから、輪島屋鮮冷の仕事をしているらしいと聞いたようなことも思い出しました。

金沢市場輸送では基本的に鮮魚の仕事が多かったので、KSさんとしてはそれも好きではなかったようです。トレーラーがスピードの出せるものではなく、時間に遅れてしまうことを気にかけていたのかもしれないですが、冷凍物を運ぶのが好きだったようです。

金沢市場輸送では妻子を連れて会社に来ていることも多かったKSさんですが、蛸島のTSさんが自殺をしたという新聞記事が出た時は、他の誰よりも驚き、ショックを受けた様子に見えました。その時は珍しく金沢市場輸送の事務員のいる事務所の中にいて、そこには竹林と大西さんの姿もありました。

他の女性事務員などの姿が見えなかったようにも記憶の場面にはあるので、今考えるとそれは休日だったのかとも思えます。午前中の朝に近い時間だったとも思いますが、そんな時間に運転手が集まっていたというのも、あまりないことかとも思います。

私も朝アパートで新聞を見てその自殺のことを知ってから会社に行ったのですが、朝の早い時間での出社というのも金沢市場輸送では余りなことであったように思います。夜から深夜の時間の仕事が多かったので、そうなるわけです。

運転手は運転手の控室のような部屋があり、勝手口のような出入口があって、ほとんどはそこから出入りをしていました。事務所の方に人が集まっていたのは、あるいは新聞記事を見るために新聞のある事務所の方に集まっていたのかもしれません。

エサの仕事というのはキロあたりの運賃になっていると聞いていました。いい時期はキロあたり20円からそれ以上と聞いていたようにも思いますが、それが12円ぐらいまで下がっていると聞いていたようにも思います。

30トンでざっと計算すると単純に片道60万円という運賃になりそうです。フェリー代などの経費も必要だとは思いますが、フェリーに乗っている分には燃料代も浮きそうです。慣れたらやめられない仕事だと聞くこともありましたが、重量オーパーで捕まる危険も高く、事故の危険も高くなります。

私は4トン車でもブレーキーが焼けて煙が上がるという経験を何度かしているので、よくわかるのですが、運転は下り坂の場合特に神経を使うというより神経をすり減らします。運転技術と腹のすわった注意力も人一倍必要になるかと思います。一度加速がつき過ぎたらその時は終わりかもしれません。

エサの仕事がなくなったとか運賃が安すぎると聞くようになってからは、全体的な運送の仕事が増えていきました。ちょうど日本の国全体がいわゆるバブル景気へと突入していた時期になるのかと思います。

仕事はいくらでもあると言われるような時期になり、そのうち傭車と言って、実際の仕事だけを他に請け負わせて手数料をとるという仕事も増えていったようです。時代の先を読んでいたのか、それを先駆け徹底していたのも中西運輸商かと思います。

既に書いているかと思いますが、自社のトラックや運転手ですら傭車の一部のような扱いの別会社として中西水産輸送にしていると聞き、傭車など配車の手配を主体とする会社を中西運輸商という会社にしていると聞きました。どちらも有限会社ではなかったかと思います。

中西運輸商の真似をしたのか参考にしたのかもわかりませんが、金沢市場輸送の本恒夫も規模は小さいものの似たようなことをやって、傭車に仕事を回すようになっていきました。

そして金沢市場輸送の運転手の中でもトラックの払い下げを受けるなどして、持ち込み運転手として仕事を請け負おう運転手も何人か出てきました。きっかけは持ち込み制度を先駆けていた守田水産輸送の引き抜きでもめたことだったと思います。

2014-10-08 水 08:41> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日

2014-10-08 水 08:42> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

金沢市場輸送から守田水産輸送に行った谷内さんも守田水産輸送で持ち込みをやっていると聞いていました。谷内さんは昭和59年のスルメイカのシーズンに入社しました。たしか初めての運行で新潟あたりの比較的近場だったと思いますが同行したことがありました。

谷内さんは珠洲市若山の人だと言っていたと記憶にあります。大工をやっていたともいい。話しぶりからすると自分で工務店でも経営していたような感じでした。

珠洲市の若山というのは珠洲市の中心部飯田から輪島の方に向かうと大谷峠の手前の辺りです。大谷峠を超えると大谷の町に入りますが、そこは能登半島の先端部分で輪島市内につながる外浦という海岸線になります。

大工を廃業していわゆる出稼ぎに出るという話は、当時小木や姫、宇出津を中心に聴いていたことでした。小木港の遠洋漁業が大打撃を受け、その煽りを受けたかたちで他の商売が立ちゆかなくなったと聞きます。当時はソ連ではなかったかと思いますが、それら国際的な二百海里問題によるものでした。

姫は当時宇出津と同じ能都町でしたが小木とは連接し、小木とは別に遠洋漁業をやっていました。遠洋漁業の良い時期は、石川県で住宅の新築率が1位だったとも聞いたことがあります。私の同級生の家も真脇で大工をしていましたが、ちょうどその頃廃業したと聴いていました。

小木港や姫では遠洋漁船が拿捕され操業ができなくなったとか、銃撃を受けて人が死ぬような事件もありました。八千代丸という船です。

ネットで調べたところ第36八千代丸事件は昭和58年7月28日のことのようです。知り合いも一人乗船していたと聞きますが、水産高校での被告訴人安田敏の同級生です。私の記憶では姫の船と聞いていたように思うのですが、確認できる情報はみつかりませんでした。

宇出津は遠洋漁業ではなく地場の漁港ですが、それでも当時は町の半分の人が漁業の関係者だと聞くこともありました。私の友人知人も、小木や姫の遠洋漁船に乗り組む人が多かったです。また、珠洲市の方でも同様にけっこういると聞いていました。

当時の小木港は珠洲郡内浦町でしたが、珠洲市の中心部の飯田の方とはけっこう離れているので、私の感覚としてはさほど影響もなさそうには思えていたのですが、連鎖的な影響というのはかなりのものがあったのかもしれません。

当時は宇出津の崎山でも自殺や夜逃げが横行していると聞いていました。崎山は私が小さい頃は畑ばかりの風景だったのですが、その後造成が始まり、私が中学生の頃にはすっかり新興住宅地となっていました。住宅ローンの支払いができなくなったということなのでしょう。

私の家は漁業とは無縁で、当時は金沢市で生活をしていたので、具体的実感というのは余りなかったのですが、小木や姫の漁船が拿捕されたというニュースはテレビや新聞でも見かけていましたし、相当に深刻な死活問題という認識はありました。

年々遠洋漁船の仕事をやめて普通の仕事をするようになったという周りの話も聞くようになりました。「丘に上がる」というような表現もします。現在では中型イカ釣り船に地元の若者は少なく、若者はほとんどがインドネシアの研修生だと聞いています。

気になるのは福井刑務所で班長から聞いた話でした。まだT班長がいた頃で、その場にはその後任と綯った班長もいたのですが、そちらの方は急に名前が思い出せなくなっています。と書いているうちにそれらしい名前を思い出したのでY班長ということにします。

ほとんど同時のような会話の状況だったのですが、発言はY班長だったと思います。被告訴人竹沢俊寿について知っている話をきいたときのことでした。能登の方とかで金貸しをして儲けている、という内容でした。T班長もよく知っていると相槌をうつような感じでした。

T班長には直接、被告訴人安田敏のことを知らないかとたずねたこともありましたが、これは知らないと言われました。ちょっと答えにくそうな雰囲気も感じたので、どうかとは思っていたのですが、被告訴人安田敏本人がよく知っていると後日話していたので、本当の答えではなかったことになりそうです。

二人の班長とも被告訴人安田敏が以前片町でバーテンをしていた店の店主の友達とかでよく見せに来ていたという話でした。この会話も録音済みで、記録を金沢地方裁判所に提出している可能性があるかと思います。

あくまで被告訴人安田敏の話なので事実かどうかはわからないですが、被告訴人安田敏がいうにはT班長も元と言っていたようにも思いますが、暴力団員で滝本組の組員だという話でした。

Y班長の方は自分で元組員とか、本当は組員のままになっているが執行猶予をもらって少しでも早く出所するために、組をやめたと偽っているとか話していました。同じく滝本組と聞いていたようにも思いますが、紺谷組と聞いた風にも思うのです。あるいは昔、紺谷組にいたという話だったかもしれません。

Y班長とそういう会話をしている時、私は被告訴人安田繁克のことを思い浮かべていました。被告訴人安田繁克も暴走族のリーダーをやっていた他、ヤクザの組員をしていたという話もしていたからです。

被告訴人安田繁克のその時の話では、事務所の方に顔を出さなくなり自然消滅のようなかたちでヤクザをやめ、その後世話になった兄貴分のような人物に顔を合わせたけど、何も言われずに済んだと言っていました。平成4年2月1日の夜のことです。彼と膝を突き合わせるような会話をしたのはその時だけ。

T班長に被告訴人安田敏のことをたずねたのは、T班長が片町で有名な人物で薬物事件に関わっていたからです。T班長に関しては既に本書で取り上げているところがあるかと思いますが、平成13年頃には金沢刑務所で私の運転手仲間だったYKと6工場で仲良しになっていると聞いていました。

能登での金貸しの話に戻します。そういえばと思い当たることがありました。昭和61年の秋のことかと思います。

2014-10-10 金 15:58> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月19日

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:34 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587244990590976
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_04.jpg http://t.co/pmGi8JbPwT

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:34 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587349109993472
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_05.jpg http://t.co/i53lXy5beM

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:35 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587438578667520
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_06.jpg http://t.co/RmaVvWoGer

再審制度と刑事弁護に対する社会の認識と実情に関して

* ジャーナリストの江川紹子さんの最高裁裁判官の国民審査に関するツイートから考えたこと 2014年12月17日 :POST:

2014-12-17 水 12:40> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

迷いもあったのですが、「経緯及び社会の反応」というレベル2の階層の下にレベル4という項目の位置づけで、この項目を作成しました。

なぜそのような構成による配置にしたのかというと、元をたどればモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)との2008年当時の関係とも、係る部分があるからです。大きな一つの流れの支流として捉えたほうが、良いかと考えました。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては既に本書で言及していることも少なくないと思いますが、同じ内容を繰り返すことはできるだけ避ける方針です。もともと本書はその全てを読まないと、満足な理解は出来ないものとして考えるほかはありません。

既に膨大な記述になっていることは重々承知なので、同じ内容を繰り返して膨れあがることは、極力避けるのがよりよい対処であると考えています。私の頭の中には今後も書くべきことが沢山あり、泉のように湧き出ています。

記事としては"2014k_9660","江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国民審査"が始まりになるかと思います。

最初の始まりとなる発見はツイッターになるのですが、次のツイートがそれになりますが、私がリツイートした時刻が2014/12/08 19:59 となっております。

リツイート)→  投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹) 日時:2014/12/08 19:59 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/541909830051454976
RT @tsuda: 江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国>民審査は「わからなかったら×(バツ)」で(江川紹子...
http://t.co/mbXlGzVWrw
元のツイート)→ 投稿者:tsuda(津田大介) 日時:2014/12/08 07:39 ツイート: https://twitter.com/tsuda/status/541723580686274560
江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国民審査は「わ
からなかったら×(バツ)」で(江川紹子...
http://t.co/mbXlGzVWrw #NewsPicks

これも本書でご説明済みかと思いますが、TwitterのAPIを使った自作のスクリプトで、APIで得たデータを独自に加工した書式となっております。

津田さんもジャーナリストの一員ということになるのかと思いますが、情報社会学のような分野での大学の先生でもあったと思います。そういえばテレビで姿を見かけなくなったとも思い出したのですが、ひと頃はNHKをはじめテレビで見ることも多く、著名な人かと思います。

ツイッターに関しては第一人者としてメディアで解説をされることの多かった津田さんですが、その津田さんがジャーナリストの江川紹子さんのツイートを紹介していることにも、興味をそそられました。

まわりくどい説明をしているといたずらに文字数も増えるので、ずばりと簡潔に説明をしていきたいと思いますが、江川さんのツイートを読んで、まず頭に浮かんだのは、これまでも再審請求の報道に際して、極端に裁判官を批判したり、褒め称えたりしていたことです。

批判に関しては「名張ぶどう酒殺人事件」の再審請求の棄却決定も印象的でしたが、どうもご自身が支持する事件についてはそれだけで決定的な評価を下す傾向があるように感じておりました。

再審請求の認容、再審開始の決定自体めったに出るものではないと思いますが、褒めちぎっていたのは記憶にもまだ新しい袴田事件の再審開始の決定でした。

そういえばその袴田事件の再審開始もまだ半年も経つか経たないぐらいで今年の重大ニュースの一つかと思いますが、12月に入って年末に今年の重大ニュースや報道を振り返る情報番組の特番でも、さっぱり取り上げられてはいないように思いました。

再審開始の決定に対する検察の即時抗告があったと思いますが、これには大きの批判も寄せられしばらくの間は話題にもなっていたかと思います。

同じ再審請求の事件で再審開始の決定が出て、その決定が覆された事件もありました。再審開始を取り消すという決定ですが、当日には批判の声があがったものの、不思議なぐらいぴたりと報道がなくなった事件がありました。福井女子中学生殺害事件のことです。

弁護団の活動としても情報をみなくなったように思いますが、私の場合個人的に特に関心の強い事件なので時々思い出しては検索で調べるようなこともしていたように思います。

マスコミの報道には他にも不可解と思えるところがあるのですが、ある日ある時を境にぴたりと報道がなくなったり、目立たないようなかたちで小さい扱いとして続報される事件があります。小さい扱いだと気が付かずに過ぎてしまうことも多いかと思いました。

そういうことを強く感じたのは舞鶴女子高生殺害事件で無罪判決が確定した男性が起こした傷害かあるいは殺人未遂容疑での事件でした。考えてみるとかなり経過しているので、起訴の判断も出ているはずですが、訴因が傷害になったのか殺人未遂になったのかも報道を見ていない気がします。

続報として小さい記事をネット上で見たのは、被害者に対する暴力行為の動機がわいせつ目的だったというニュースでした。当初の報道はテレビでも実に大々的なものでしたが、元雇い主の女性との間の金銭トラブルか、お金に困ったことでの犯行という印象を強くさせる報道でした。

一日かあるは二日間の間は、無罪判決の不当性を強く感じさせるような報道が舞鶴女子高生殺害事件の被告人であったことと併せて、大々的に報じられていましたが、それがぴたりとやみました。

情報を得る手段もないので確かなことはわかりませんが、一つの可能性として、弁護士らがマスコミの報道に対して人権を盾に強く抗議した可能性というのもあるのではないかと私は想像しています。

実際にそのようなマスコミ批判を言う弁護士もインターネット上ではいたと思いますし、思い出しましたがジャーナリストの江川紹子さんも、そのような批判をあるいは疑問というかたちでやっていたように思います。

まだ3ヶ月も経っていないように思いますが、はっきりした時期も思い出せないものです。わいせつ目的というニュースは、ニュースの関連記事として、たまたま偶然に近いかたちで知ったもので、見出しだけで舞鶴の事件との関連など全くわからないものになっていました。

私の中では、舞鶴の女子高校生殺害事件もそうですが、刑事弁護と弁護士に対する不信と疑問を決定的に大きくさせたものです。

刑事手続としては「疑わしきは被告人の利益」という刑事司法の大原則を貫徹させた弁護側の歴史的大勝利という結果として評価される事件なのかと考えますが、ネットで見た細かい情報を見ると、捜査の妨害とも思えるようななりふり構わぬ、弁護士らの姿が私には見えてくるのです。

残念ながら舞鶴の女子高校生殺害事件は判決が確定しているので進展の可能性はほぼないように思われます。一事不再理ということでわかりやすい前例を作ったことが、社会の共有財産とも思いますが、マスコミの報道を見ていてもその点は控えめな印象もあって、社会に普く浸透はしていなそうです。

我々国民としても裁判所が決めた確定判決に対しては尊重すべきなのかとも考えなくはないですが、わだかまりなく受け容れることが出来るという人はそう多くはないように思いますし、司法に対する不信や疑問として解消されることなく沈殿していく事件の一つのように思われます。

舞鶴の事件に関しては弁護士らの支援も大きかったと思いますが、ぶれずに強力に容疑を突っぱねた被告人の意思と行動力も報道を通じて感じさせるものがありました。それが真犯人であるかどうかは別として、冤罪のパターンとしては無実なのに認めてしまう人もいると夙に知られています。

冤罪事件のパターンとしては捜査段階で自供をしてしまい公判が始まってから否認をするというケースも大きと聞いています。富山の氷見強姦冤罪事件もそのパターンであったように思います。というか公判でも明確な否認は出来ず、認めた形で判決が確定した事件であったようにも思います。

福井の女子中学生殺害事件に関しては独立した項目で言及をしたいところですが、最高裁での特別抗告棄却のニュースが降って湧いたように出たのは先日12日のことであったと思います。

本書でも既に触れているかと思いますが、福井女子中学生殺害事件で逆転の有罪判決を出したのは、私の平成4年の事件の控訴審と同じ、名古屋高裁金沢支部の小島裕史裁判長でした。

事件の内容に関しても時代や背景の共通性や類似点があったり、それが真逆の形になっていたりといろいろある事件なのですが、ある意味正当な再審請求事件という位置づけも出来るのではと思います。実際、日弁連が支援をする事件としても指定されてきたという経緯があります。

私自身、平成15年まで実際の刑事手続として再審請求を金沢地方裁判所に行い、同じ方向、道筋を歩んできたようなところがありました。私の場合は無実の事件でも冤罪でもないのですが、その違いを説明をする上でも、参考になる事件、裁判かと思っています。

やや脱線気味で修正の必要も感じるところですが、この項目で対象にしているのは、ジャーナリストの江川紹子さんによる最高裁の国民審査の問題です。

最高裁の裁判官に対する国民審査のことはかなり前から知っていました。実際のその国民審査による不支持で罷免になった最高裁判事がいないことも知っていました。

私がジャーナリストの江川紹子さんの態度で問題に思うことは、審査の判断において資料となる情報と、個々の裁判官に対するプレッシャーです。裁判官にもいろいろな人がいて、随分と問題のあるような人がいるらしいということも、これまでは情報として受けてきました。

私自身、小島裕史裁判長によって人生を狂わされたという一面も認識の一つとして有しておりますが、より冷静に問題を考え、その問題をより正確に伝えたいと考えております。

ジャーナリストの江川紹子さんの報道のあり方、姿勢に対して疑問を持つようになったのは、いわゆるPC遠隔操作事件の容疑者が逮捕され、冤罪の主張が始まってからのことです。

このPC遠隔操作事件も私の事件とは、似たような経過と真逆のような対応がありました。判決の方は確か来年2月ということで、まだ一審の裁判が終わっていない事件ですが、佐藤博史弁護士とその弁護団による支援がことのほか強烈で印象的な事件でもありました。

本質的な部分では私の事件、問題とは共通性もないので、変な誤解を招かないためにも単独で取り上げるのはどうかとも思われる事件ですが、なんらかのかたちで、独立した記事として取り上げたい事件です。

裁判官個人に対する批判というのはこれまでいくつか見てきたように思うのですが、とりわけ印象に強く残っているのが、御殿場事件での女性裁判官のことでした。ジャーナリストの江川紹子さんのツイートを読んで真っ先に頭に浮かんだのもその女性裁判官の名前でした。

今現在の私の頭の記憶ではすぐに正確に名前を思い出せないのですが、下の名前がとりわけ記憶に残るもので、「龍子」となっていました。今までずっと「りゅうこ」と読むのだと疑いも感じないできたのですが、改めて取り上げると「たつこ」と読む可能性もありそうだと気づきました。

コマンドを使ってデータベースから調べてみます。「% h-mysql-python-2014k-query-search-title.py 龍子」というコマンドの実行です。該当したデータは次の一件だけでした。

こちら→ "2014k_4248","です。櫻井龍子は御殿場事件の4人の上告棄却をした時も裁判長。/ジャーナリスト江川紹子","http://hirono2014k.wordpress.com/?p=4248"

インターネットに接続できないので確認も出来ないのですが、これは最近になってツイッターの検索で調べたものを記事にしたものと思われます。

御殿場事件は最近ほとんど情報を見かけず、すっかり忘れていることも多かったので、知らない人も多い事件かと思います。

私がブログというサービスの存在を知り自分でもブログを始めた2005年の11月、12月頃に世間の注目を集めていた冤罪事件だったという記憶です。

当時は、テレビ朝日の女性キャスターがこの御殿場事件を大々的に取り上げ、ご自身のブログの方でも取り上げ紹介をしていました。長野智子という名前だったと思いだしましたが、そういえば最近はテレビでも見かけていない気がします。

御殿場事件の内容をここでご紹介することは致しませんが、その報道を見る限り、警察、検察に絶対的な非があって、有罪などあり得ないだろうというものでした。

テレビ朝日の一部の番組が独占的に取り上げた事件という印象もあるのですが、冤罪という割には不思議と弁護士の姿が見えてこない事件で、弁護人の名前というのも見ることはなかったような気もします。

集団による強姦事件だったと思いますが、それも未遂ということになっていたとも思います。被害者の少女が夜遊びの言い訳で被害をでっち上げ、少年らを巻き込んだというような長野智子さんらの説明になっていたと思います。

記憶の方も薄れているのであやふやなことも書けないのですが、報道が一方的すぎて、全体像が見えてこないという印象も残る事件でした。その辺りは福井女子中学生殺害事件と共通性があるようにも思います。

福井女子中学生殺害事件の逆転有罪判決が出たのは、私が福井市内にある福井刑務所に服役中のことだったとも思います。先日、正確な日にちを調べたのですが、それも忘れてしまいました。

服役中の同じ工場の受刑者の中には、その事件の関係者と面識があるような若者もいました。願い出による法律相談を受けた福井市内の弁護士も、その弁護団の一員だと話していたことも印象に残っています。言葉以上に直に接した空気感のようなものがありました。

相談の内容などもほとんど記憶にはないのですが、その場で話題になったことから逆転有罪判決からまだ日の浅い頃か、弁護団の具体的な対応が新聞の記事にも出ていた頃だったと思います。

福井女子中学生殺害事件に関しては日弁連が支援をする他、なんとか救済とかいう団体が全面的な支援をしていて、政治性、思想性、党派性の強い事件という印象も私は抱いていました。

平成7,8年ころのことだと思いますが、当時の情報源というのは新聞がほとんどでした。福井女子中学生殺害事件に関しても週刊誌で取り上げられているのを見たという、明確な記憶は残っていません。ごく断片的な情報しか得ていなかったように思います。

福井女子中学生殺害事件について詳しく知ったのは、インターネット以上公開されていた再審請求書を読んだことが最も大きかったと思いますが、他にも熱心に問題点を取り上げる弁護士のホームページは見ていたと記憶しています。

TwitterやFacebookのようなSNSはおろかブログさえまだ存在はしていない頃であったようにも思います。ブログが出る前はhtmlの知識がないと、インターネットでの情報発信は無理だったように思います。

出回る情報量も今よりはるかに少ない時代であったと思いますが、それだけにひときわ目立つサイトやホームページはあったとも思います。

さきほど書いたように私は2005年の11月の初め頃にブログというサービスの存在を知り、すぐに自分でも始めました。それがgooのブログで、同じく12月の初めにはHatena::Diaryのブログを初めて、それからかなり長い間メインのブログ、情報発信の場として使っていました。

櫻井龍子裁判官の話に戻しますが、とにかく初めは被告人らの請求を斥ける場面として法廷の映像をテレビで見たという記憶が鮮明に残っています。

とんでもない裁判官として酷評される情報だけ見ていたのですが、数年後には最高裁の判事になったという情報に接したことを憶えています。

御殿場事件の報道ではいかついイメージが残っていたのですが、先日、ネットで検索をして写真画像など見ていると、おだやかで優しそうな女性に見えるものもありました。情報が一方的に偏っているので御殿場事件の当否も、結局私にはわからないことです。

昔、「鬼龍院花子の生涯」とかいう話題の映画があったためか、龍子という名前はそれも連想させるもので、その名前のインパクトも強かったと思います。映画も見てはいないので内容は知りませんが、任侠映画の一つという感じでした。

正直に言うと初めにテレビで櫻井龍子裁判官の姿を見た時、不動明王と火炎のようなイメージが重なりました。人間離れした突っぱね方が理解を超えていたとも言えるのですが、今は前提となっていた冤罪報道のあり方にも疑問を思えます。無実にせよそれを取り扱うあり方です。

もともと釈然としないところが強かったのだと思いますが、それと一部共通性もある報道がなされたのもPC遠隔操作事件でした。腑に落ちない割り切れなさもあって、より多くの情報を求めて時間を割き、そして自分なりに検証をしていました。

長野智子さんはテレビ報道番組の司会も勤めるような立場で、性格的にもジャーナリストの江川紹子さんとの違いは大きいと思いますが、事件の問題性に迫るアプローチというのは、どちらも感じるところでした。

長野智子さんについて詳しくはしらないですが、独立はしておらずテレビ朝日の社員という可能性があるかと思います。一方のジャーナリストの江川紹子さん場合は、フリーのジャーナリストして弁護士と同じく自営業なのではと考えられます。

ここで忘れられない事件を紹介しておきたいと思いますが、ある不可解な事件の真相を追った元警察官のジャーナリストがいました。事件の処理に対して警察の責任を追従し、私財まで投じていたようですが、事件の解決には至らず、自殺という巻切れになりました。

その人はツイッターもやっていましたが、亡くなった後もアカウントはそのまま残されているらしく、割と最近にもそのアカウントを見ることがありました。確かフォロー返しを受けていたと思います。

よくはわかっていないのですが、ツイッターでログインした状態で別のアカウントのページを開くと、自分をフォローしている共通のアカウントが複数のアイコンとして表示される仕組みになっているようです。そんな時にそのアカウントのアイコンが出てきて気が付きました。

あるいは自分がフォローしているのと共通のものが複数表示されるのかもしれないのですが、私の廣野秀樹(@hirono_hideki)のアカウントの場合、基本はフォロー返しによる相互フォローなので、完全ではないですがフォローしているアカウントとフォロワーは一致します。

その事件は岩手県の三陸海岸の地方都市を舞台にしていたと思いますが、事件の呼び名は画一していなかったように思います。批判の対象は宮古警察署だったように思いますが、事件そのものは東日本大震災の大津波の前のことで、事件の資料も津波で流され散逸したような情報も見ています。

その事件も福井女子中学生殺害事件の背景、特に人間関係に共通するような部分のあるものでした。私の事件も同じなのですが、その岩手の事件の方は福井の事件以上に真相の解明と解決は望めない感じなのですが、相違点もあるとはいえ、私にしてみれば他人ごとではない問題です。

真相を追っていたジャーナリストの人が亡くなってしまった以上、新たな情報が出てくることも難しいと思われ、記録化された資料というのも余り残ってはいないように思われます。

確かこの三陸岩手の事件も、テレビ朝日の番組で長野智子さんらが取り上げていましたが、もう何年前だったのかも思い出せなくなっています。番組の名前もはっきりしないのですが、あるいは「ザ・スクープ」だったかもしれません。

以前はジャーナリストの人の生活とか収入について深く考えることはなかったのですが、ジャーナリストの自殺となったその事件では、一部に取材に投資をやりすぎて経済的に行き詰まってしまったという話もあったかと思います。

警察にとって不都合な問題を追いかけまわしたことで殺されたのかもしれないという他殺説も、当初は出ていましたが、それは遺族の方が丁寧に否定されているのを見て、そういう憶測も消えていったという印象が残っています。

時期的に近かったようにも思いますが、ロス疑惑で無罪となった人物が、アメリカの方で再捜査を受けるようになり、警察署の留置場で死んだというニュースもありました。自殺という報道になっていたと思いますが、警察に殺されたという主張を強く訴える関係者もいたかと記憶にあります。

ロス疑惑といえば当時の大々的な報道を見ていたので記憶に残る事件の一つですが、弁護人のことを知るようになったのは、比較的最近のことで陸山会事件のあとであったように思います。

そういえば昨日あたりも、そのロス疑惑の弁護人の本のアマゾンのレビューなどを見ていました。ブログの記事にもしていると思います。と思ったのですが確認すろと記事にはしていなかったようです。

"2014k_9805","勝率ゼロへの挑戦-史上初の無罪はいかにして生まれたか-八田-隆 出版社からのコメント/","http://hirono2014k.wordpress.com/?p=9805" ←こちらは記事にしました。

上記の記事になっているアマゾンの書籍のレビューで、関連商品という感じで目にしたのが、ロス疑惑の弁護人に関する本でした。

刑事弁護の現状と沿革を知る上で、とても参考になる情報でもあるので、あとでもう一度調べなおして記事にしておこうと思います。弘中惇一郎弁護士のことです。

時刻は17時27分になっています。あと一時間もすれば自宅に戻っていると思いますが、この項目の主題にした国民審査に関する言及は不十分なもとのなり、他にそれることが多くなってしましました。絡みあうところもあるので、その辺りも別の機会に言及します。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては、本人の自覚はともかく、客観的に見て、裁判官にプレッシャーを与える目的が強いように思われます。もうひとつ前々から思っている重要な要素は、司法の批判や検証はしても、弁護士のそれはほとんどしないということです。

そういうことを問題にしている人も、たまたまなのか私としてはほとんど見かけることもないのですが、かなり不思議な現象とも思えるところです。

他の視点あるいは問題点に立脚したアプローチもあるので、この項目の問題はこれで締めようかと思います。そろそろ帰宅の支度にも取り掛かれなければならないし、歩いての帰宅の道すがら、他のテーマというか項目についても考えたいと思います。

2014-12-17 水 17:39> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

告訴事実

被告訴人木梨松嗣弁護士の犯罪性と厳重なる捜査の必要について

添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士について

一件記録・写真/H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://bit.ly/18vw85u

* 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_01.jpg について 2013年7月13日

ファイルはDVDとして提出しますが、インターナット上でも次のURLでご覧になれると思います。H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUtVP 拡張子にjpgもしくはjpegとあるものは、そのまま写真画像のファイル名です。

この写真はもともとだいぶん前に撮影したものだと思います。写りがあまりよくないですが、平成4年10月26日と弁護人 木梨松嗣、という文字が読み取れます。事前準備書の表題部です。

* 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg について 2013年7月13日

同じく次のURLからご覧になれると思います。H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUvoT

どうも不都合があるみたいなので、新規アルバムで同じファイルをアップロードし直しました。→ 一件記録・写真/H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://ow.ly/mUHp4

* 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg について 2013年7月17日

H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/12U0g2D

上記URLでWebで閲覧できますが、今回から方法を変えました。これまでは直接、GoogleウェブアルバムのURLを短縮URLにしたものを使っていましたが、これだとファイル名がわかりづらい。httpsのためか短縮URLに登録できない場面があるという問題がありました。

そこでGoogleウェブアルバムの写真のページをリンクに同じGoogleのサービスであるBloggerのブログに、リンクを記事として投稿することにしました。写真・画像のファイル名をそのまま記事のタイトル名にしました。

書面の全体はPicasaウェブアルバムのページで右上の方にあるアルバム名のリンクを開くことで一覧を開くことが出来ます。これは写真2枚ですが、内容はB5サイズの紙3枚です。当時はB4サイズを袋とじにしたものが裁判所に提出する決まりでした。現在はA4になっているはずです。

この事前準備書と題する書面は日付が平成4年10月26日になっています。一審の金沢地方裁判所の判決があったのが同年8月3日。控訴審の私選弁護人となった木梨松嗣弁護士と始めて接見したのは8月17日頃だったと思います。選任の経緯などはのちほど詳しく述べます。

この書面は木梨松嗣弁護士から郵送で拘置所の方にも差し入れがあったと思います。事前の打ち合わせのようなものはなかったと思いますので、精神鑑定の問題にされていることを知ったのも、この書面を見たのが初めてであった可能性が高いです。

精神鑑定について、当時拘置所の独居房にいた私には手持ちの辞書で単語を調べるぐらいしか知識がありませんでした。これより後になるのではと思いますが、「犯罪精神医学」という専門書を母親に差し入れてもたったことがあります。今、この本を探したのですが、簡単には見つかりませんでした。

調べたところこの本は現在でもAmazonにあるみたいです。この情報では発売日が1987/10になっていました。→ Amazon.co.jp: 犯罪精神医学: 中田 修: 本 http://amzn.to/13hPuXc

かわりに発見がありました。控訴審にはいって早い段階から私は手紙で母に法律の勉強をしたいので本を差し入れて欲しいと何度もお願いをしていました。ようやく差し入れてもらった本の一冊らしいものを見つけたのです。

あいまいになった記憶ですが、法律に関するとても初歩的な本が2冊ほどと、小六法があったと思います。数ヶ月後になると思いますが、標準六法というよりコンパクトなサイズのものも差し入れられた記憶があります。

差し入れの方法は面会の時と、郵送があったと思いますが、どちらも手元に来るまでは願箋という手続きと数日の時間が必要になります。私本閲読許可ということになるのですが、本の最後のページに許可証が貼り付けられ、期間が印字されています。

確か閲読許可の期間は月刊誌・単行本で一月、学習用の許可が出たもので3ヶ月、辞書が6ヶ月だったと思います。これらは同時に所持できる冊数にもなりますが、ぜんぶひっくるめて10冊ぐらいではなかったかと思います。

私本交換というのもあったので、交換しながらもう少し多い本を読めたような気もしますが、細かいことは憶えておらず、時代と施設ごとの違いもあるかと思います。学習用の許可が出ると延長も出来たと思います。その都度、許可証が上に貼り付けられていきます。

今日発見したのは次の本だと思います。自分のものは明日香出版社に。→ Amazon.co.jp: 法律のしくみが「3時間」でわかる事典 (アスカビジネス): 堀越 孝, 大野 寿三枝: 本 http://amzn.to/13sZQ2a

写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/法律のしくみが3時間でわかる事典 | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/14bGyVn

今回は写真ではなくアルバムに対するリンクを使いました。法律のしくみが3時間でわかる事典_2013年7月17日撮影_3.jpgに私本閲読許可証を接写したものがあります。冊数外というのは学習用や辞書のことだと思います。基本的に一度に房内で所持できるのは3冊でした。

期間が半年になっているみたいです。当時同じ金沢刑務所の拘置所で所持していた国語辞典を確認したのですが期間が1年間になっていました。すると学習用は3ヶ月ではなく半年の期間であったことになるかと思います。

平成4年の9月30日に許可が出たことになるかと思います。同日に房内で所持することになった可能性が高いですが、9月の最後の日であり、思っていたよりかなり遅かったです。よく考えてみると小六法の差し入れは、これより前の機会であったかもしれません。

あるいは、小六法の差し入れのあと、この「法律のしくみが3時間でわかる事典」らと一緒に差し入れされたのが標準六法だったかもしれません。どちらの六法も内容的に大差はない感じでしたが、標準の方はかなりのコンパクトサイズでした。

どちらも捨てた憶えはないので、探せば家のどこかで見つかるかもしれません。重要なのは本そのもの存在より閲読許可証に記載された期間の日付です。

ひとつ気になるのは居室という項目に「3-6」の見える手書きの記載があることです。とここまで書いて気がついたのですが、これは金沢刑務所の閲読許可証ではなく福井刑務所のものです。よく見ると期間も平成6年になっているようです。

「3-6」というのは建物の3階を意味すると思ったのですが、自分が金沢刑務所の拘置所でいたのは全て2階の独居房でした。次に気がついたのは139という称呼番号です。平成4年に金沢刑務所の拘置所にいたときの番号は57番だったからです。

福井刑務所の場合、受刑者の居住区は南寮と北寮という建物があり、南寮は全て雑居房、北寮は全て独居房というわかりやすいことになっていました。確かに3階の6号室あたりの雑居房にいました。平成6年の11月の10日頃までの半年ぐらいの間です。

ここで気になるのがなぜ、福井刑務所で受刑中にこのような極めて初歩的な法律の本が差し入れされたかということです。他にも感じていたことですが母親が誰かの相談や指示を受けて、差し入れを行っていたということです。

ここでまた別の発見がありました。「新法律学辞典」という古い本のことです。これも福井刑務所にいるときに母親から差し入れのあったものです。今確認すると、昭和43年6月20日の新版になっていました。ここまで古いものとは、今まで気がつかずに来たようにも思います。

我妻栄が編集代表者にもなっていました。知る人ぞ知る史上最も権威と知名度のある民法学者ではないかと思います。辞典と書いてあるだけあって相当な分量ですが、福井刑務所にいるとき、これの全てを読んだような記憶もあります。まんべんなく全体的な知識を身につけておこうと思いました。

それだけ情報の収集が難し時代と、刑務所という制約の大きな環境でしたが、当時は現在ほど怠惰でもなかったです。コンピュータの活用も福井刑務所に移送される前に母親にパソコンに関する本の差し入れを頼んでいました。

撮影した写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/新法律学辞典 | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/1924Y5z

ファイル名: 新法律学辞典_2013年7月17日撮影_16.jpgをみると平成6年8月23日に初めて手元に入ったようです。南寮3階6室と当時雑居房にいたことも確認できます。自分の記憶では11月の10日頃に独居房に移り出所まで独居房の生活でした。

独居房に移ることになったのは損害賠償の民事裁判を被害者から起こされ、郵送されてきた書面を房内所持するためでした。金沢地方裁判所の民事部から郵送されてきたものであったと思いますが、元々は原告代理人の長谷川紘之弁護士の提出のものかと思います。

独居房に移ると、ちょうど銭湯によく置いてある脱衣所のプラスチック製の長方形の網かごに、それをちょうど満たすような分量の書面を受け取ることになりました。長くて一週間後ぐらいだったと思いますが、次は木梨松嗣弁護士から記録が郵送されてきました。

これも木梨松嗣弁護士が直接郵送してきたものではなく、母親のところに送られてきたものを母親が送ってくれたというかたちでしたが、木梨松嗣弁護士から送られてきたのでそちらに送ったというような簡単な説明しか受けることがなかったです。

被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について

* 被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について 2013年7月18日

はじめに母親から私選弁護人をつけるように薦められていたのは、まだ金沢西警察署の留置場にいる頃でした。京都の親戚の人が費用を工面してくれるのでお金の心配はいらないとも話していたと思います。それを断って国選でいいと言っていました。

なぜ国選にこだわったかというと、自分の事件のことを誰よりも知るのは被害者の家族だし、保身のために余計なお金を掛けるつもりかと受け止められると、ただでさえ決定的に悪くなった印象をさらに悪化させてしまうことをおそれたからです。

しかし、それほど深く考えていたわけでもなく、ただただ当時は金沢西警察署出頭直後の緊急搬送時に意識を失い、意識不明で植物人間になるかもしれない状態になっていると聞く被害者の容体の回復ばかりを考えていました。

刑事裁判や弁護士の役割に関する知識もほとんどなかったです。平成4年当時というのはパソコンすら個人的なものとして普及はしておらず、携帯電話も最近になって会社に一台導入した、という話を聞く程度でした。現物もみましたが、ずいぶんと大型なものだったと記憶しています。

長距離トラックの運転手をしていたこともありテレビを観る機会も少なく、弁護士が出てくるような裁判もののドラマを観ることは皆無ではないものの、かなり少なかったかと思います。

それでも鮮魚や青果の長距離輸送という仕事柄、現地に泊まり込んで時間を潰すことも多かったので、コンビニにおいてあるような週刊誌はよく読んでいました。泊まると言ってもほとんどの場合は、トラックの中で寝ていました。九州や東北が多かったです。

そんな週刊誌のなかが多かったように思いますが、弁護士と言えば悪徳弁護士という言葉をよく覚えていました。そういうイメージも少なからず影響はしていたと思います。何よりも被害者家族の理解を得ること、これが唯一の最善の道だと考え、疑いを持つこともなかったです。

* 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月28日

被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。

それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。

初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。

同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。

印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。

起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売

をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。

今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。

浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。

もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。

被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。

被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。

被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。

はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。

昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。

被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。

被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の

旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、

すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。

13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。

試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。

その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。

YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。

首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、

現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。

関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。

昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、

不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。

彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、

とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。

彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。

二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。

その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定

されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人

がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。
かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。

しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。

はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという

人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。

姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。

姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。

* 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月29日

さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw

私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという

可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。

当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。

一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、

借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。

元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。

当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。

後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。

宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。

話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。

確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。

次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。

かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。

書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。

当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。

会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、

という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。
怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。
担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。

その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。

まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。

彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、

天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。

持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。

波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。

私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。

3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。

それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。

はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。

2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。

一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、

という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃

でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。

それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。

たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。

金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、

午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。

ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと

思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。

そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。

当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。

なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。

金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、

あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。

人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。

被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような

生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。

当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、

河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。

書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、

片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては

いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。

もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。

わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような

気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。

実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。

その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。

昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では

なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。

被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、

やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。

そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。

被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて

もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。

ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。

この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも

あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。

東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。

彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、

もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。

もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。

珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。

初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。

西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。

三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。

Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。

プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。
Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、

という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。

OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。

いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。

TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。

どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。

賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。

もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。

ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。

そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。

なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。

つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。

Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。

被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。

書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。

なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。

黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。

昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。

私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。

当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月30日

昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。

金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。

早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。

この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。

午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。

この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。

この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。

合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは

なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。

中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。

大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。

私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。

昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。

昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。

浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。
普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。

浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。

7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。

昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い

Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。

総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。

Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。

イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に

なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。

イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。

そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。

ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。

名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた

可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。

なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の

監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。

* 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月31日

小林健一は初め10トン平ボディ車でローカルの仕事をしていたと思います。今少し思い出したのですが、金沢市内高柳陸橋の下にある運送会社と関わりのある仕事をしていたかもしれません。北陸通運という会社だったかも、これは別の人のことだったかもしれないですが、専属的に仕事を

やっていたように思います。彼は金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃からいましたが、仕事が終わるとすぐに帰宅していたためか、事務所で顔を合わせた記憶というのはほとんどないです。会社の前の道路の向こう側で、話をしたことを記憶しています。

私は昔、昭和57年の9月から12月の年末まで、名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていたことがあったのですが、一度客に、まるで白バイのようなバイクに乗ってきた人と話をしたことがありました。正統なバイクマニアという感じで、福島県の出身と言っていたことも印象的に憶えていました。

最初に会った頃の小林健一も正統なバイクマニアという感じで、どこか共通するものを感じていました。まあ、初めの頃は顔を合わす機会が少なく、存在自体を忘れかけた時期もあったかもしれません。会社の他の運転手とはかなり雰囲気が違っていました。育ちは良さそうな感じでした。

初めに聞いたのがいつ頃であったのか思い出せないのですが、言葉を交わすようになったすぐの頃かもしれません。小林健一は、前職が石川県警の交通機動隊員で白バイに乗っていたと話していました。いかにもそういう雰囲気であったので、その頃は疑うこともなかったです。

あれは昭和62年の5月の下旬頃ではと思います。山中温泉のキャッスルバーデンホテルで一泊の慰安会がありました。この時は一人一万円の実費であとは会社が負担するという話ではなかったかと思います。全員ではなかったと思いますが、ほとんどの社員が出席していました。

午後にホテルというか温泉旅館の送迎バスが、中央市場前の北國銀行の前あたりに迎えに来ていました。あまり大型でもないマイクロバスであったと思います。たまたま私はバスの一番後ろの方で小林健一とほぼ並んで座っていたのですが、彼はバスが出発してすぐに飲酒を始めたらしく、

北陸道の片山津インターを降りた頃には、すっかり酔っぱらっていました。それも尋常な酔いかたではなかったのですが、すこぶる陽気で笑い続けながら、多弁になにかを喋っていました。そのようなタイプの酔っぱらいというのは余り見た憶えもなかったので、珍しくもありました。
片山津インターを降りてしばらくした頃には、窓から小便をすると言いだし、あるいは、次に手に持っている袋に小便を入れると言い出したように思います。なにぶん昔のことなので、こまかいことは憶えていませんが、周囲を驚かせ、皆でなだめて大人しくさせようとしていたことは憶えています。

旅館というかホテルに着くと、ほとんどがすぐに大浴場に風呂を入りに行きました。なぜか脱衣所に若い女の子が3,4人いて、それも珍しく、目的や意味がつかみかねていました。その時点でも小林健一の普段と別人のような行動には、疑問と戸惑いが続いていました。

あれほどバスの中で大騒ぎしていた小林健一は、その後ホテルの中で姿を見かけることがありませんでした。その宿泊ではかなりの大きさの大部屋で大人数の布団がひいてあったことを憶えています。まるで修学旅行のような状態でした。とにかくホテルに着いてから小林健一が起きている姿は見なかったと

思います。部屋のなかで爆睡していたような記憶もあるのですが、これも記憶が不鮮明になっています。この慰安会では他の宿泊客との間でケンカ沙汰のようなトラブルもありました。それでよく憶えている顔ぶれもいます。

* 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年9月1日

山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。

移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl  のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。

事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。

昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。

当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。

平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。

金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い

とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように

思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。

自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。

昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。

いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。

その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。

その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。

福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。

私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。

被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。

被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも

自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。

人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。

金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも

来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。

Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。

Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。

保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。

その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。

被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。

* 被告発人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告発人OKNとの関係 2013年9月5日

時期がはっきりと思い出せないのですが、平成11年の春頃ではなかったかと思います。金沢市北安江のアルプラザ平和堂の大通りを挟んで向かい側の大通り沿いにソバ屋だと思います。それこで被告発人OKNに食事をおごってもらいました。何か用件があってその店に入ったような気もしますが、

現在細かいことは思い出せないです。重要なのは食事を終えて店を出た直後のことでした。時刻はすっかり夜で20時ぐらいではなかったかと思います。何かの会話の流れから、私はやや強引に、金沢市場輸送の社長であった被告発人TSKのことを憶えているかと、OKNに問いかけました。

すると彼はそくざに、ややあわてたような感じで、まるっきり知らないと否定しました。わざとらしく否定してこちらの反応を窺ったようにも思えなくはなかったですが、強く否定して会話はその先に進みませんでした。わざとらしいという問題だけでなく、本来は知らないはずがないという事実です。

そういえば市場急配センターの被告発人MHKが、被告発人OKNについて「いい男やな」と言っていたこともありました。時期がはっきりしないのですが、平成9年の春のことであったかもしれません。

被告発人OKNの方から、被告発人MHKについて「お客の引っ越しのためトラックを借りに行くこともある」と話したこともありました。探りを入れるような感じでもありました。これも平成9年の春頃だったように思うのですが、あるいは別の時期であったのかもしれません。

アルプラザの近くのソバ屋のことですが、いかにもサラリーマンが利用するような店でした。その時店に入ってのは初めてではなかったような気もするのですが、目立つ場所にもありそこに店があることはよく知っていました。隣沿いのすぐ近くに昔からやっている24時間の酒屋がありました。

まだコンビニという呼び名が世の中に出ていない頃だったようにも思います。昭和59年にはすでにあったように思います。サークルKとかが出てくる前だったと思いますが、店の内容は酒類がメインであるものの、ほぼコンビニのような品揃えになっていたと思います。昔はその店ぐらいしか

金沢市内で深夜に酒類の買える店はなかったように思います。うどんをメインにした弁当のチェーン店八幡のすしべん、には缶ビール程度はおいてあったような気もしますが。なお、ソバ屋もその24時間の酒店も住所は金沢市諸江だと思われます。北安江との境にもなっていると思いますが。

北安江というのは金沢駅の裏側、駅西とも呼ばれていますが、その東金沢側に位置する町内です。8号線バイパスの方向だと西念町にも隣接していると思います。中央市場自体も西念町ではないかと思いますが、その正門前の道路沿いにある前の金沢市場輸送の事務所の住所は西念町でした。

さらにいえば「金沢市西念町リの1」という番地だったような記憶も残っています。西念町というのはかなり広く、その外れの方に、「飛鳥(ひちょう)」という食堂がありました。すぐ近くには双葉湯という銭湯もありました。昭和59年当時のそのあたりは、田んぼや空き地も多かったと記憶しています。

TODO 元金沢弁護士会会長でもある若杉幸平弁護士の事件への関与と疑惑について

2014-03-26 水>

* 若杉幸平弁護士と被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟との関係、勧められた面談

2014-03-26 水 10:28> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

時期としてははっきりと思い出せないのですが、平成11年の2月頃だったと思います。不思議なぐらい前後のことが思い出せなくなっているのですが、ある意味それだけに考えさせられた問題であり、そこに意識が集中していたため記憶の周辺がはっきりしなくなっているのではと思います。

当日の状況は今でも鮮明に覚えています。まず午前中だったと思います。意外なほどあっさり短時間で北安江の借家に送り届けられ、往復で1時間は掛かっていなかったと思います。借家に戻ったのが11時頃だったようなことも憶えていますが、なんとも言えない気分に浸っていました。

まだ十分な説明をしていませんが被告訴人OKNの誘いでNテックの仕事を始め、それも終わりの頃ではなかったかと思います。

Nテックに関しては平成11年の1月の20日頃に被告訴人OKNから誘いがあったと記憶しています。予めしっかりと計画された段取りの運びという感じでした。当時の私は被告訴人OKNが見方なのか敵なのかも迷っていましたが、結果的には見極めることにもつながったと考えています。

Nテックに関しては別の項目でしっかりと説明をしておきたいと思います。ここでは若杉幸平弁護士が説明のメインです。

まず被告訴人OKNから、自分の裁判のことで納得がいかないのであれば、弁護士を紹介するので相談してみればどうかと勧められました。具体的に相談という言葉を使っていたのかも、現在ははっきりと憶えてはいませんが、話をしてみれば、という感じではなかったかと思います。

被告訴人OKNがそんな話を持ちかけてから実際に若杉幸平弁護士に会いに行くまでは、時間も短かったと思います。あるいは3,4日前、あるいは前日だったような気もしますが、前もって考える時間というのは余りなかったという印象です。

当時、被告訴人OKNはボルボという会社に乗っていました。確かスエーデンの車でとても頑丈な車だとも聴いたことがありましたが、他の外国車同様に日本車とは異なり、モデルチェンジも少ないとは聴いていました。左ハンドルであったようにも思いますが、記憶ははっきりしません。

平成9年の2月から4月頃には、割と新しい感じのマークⅡのような国産車に乗っていたことも記憶していますが、いつからボルボに乗るようになったのかも、現在ははっきりしません。

はっきりしていることは平成10年の11月ぐらいまで、かなり長い期間、会ったり連絡をする機会がとても少なかったことです。ちょうど西金沢駅の近くの一水(いっすい)という小料理屋に行った頃が、被告訴人OKNとの関係の変化の始まりだったと思いますが、これも別の項目で説明を書きます。

Nテックの仕事と言っても、実際には仕事らしいものでもなく、結果的に私が受けた収入というのも0円でした。残ったのは15万円かあるいは20万円の被告訴人OKNに対する借金でした。当初は月に20万円ぐらいの収入は保証するというような話もしてはいたのです。