告訴状2013(作成途中)_14

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:20:59

一つ印象に残っていることは2トンのトラックを金沢港の近くの倉庫の駐車場に被告訴人大網健二と一緒に返しに行ったことでした。往復ともに無量寺の被告訴人大網健二のアパートから向かったように記憶しています。

その倉庫というのはたぶん「ひまわりチェーン」という小型スーパーの物流倉庫でした。北都運輸の市内配達をしていた頃、そこにも荷物を運んでいた記憶がありましたが、近くにあるリョーショクとかいう倉庫の方が大きく、扱う荷物が多かったこともよく覚えていました。

「ひまわりチェーン」と似たものに「Kマート」というのもあったような気がします。どちらもコンビニのような小型のスーパーのチェーン店という感じで、記憶がやや混同しているところもあるかと思います。

2014-05-11-161448_北陸リョーショク本社.jpg pic.twitter.com/iMK9zqFjKu

Googleマップの画面をスクリーンショットにしましたが、リョーショクという物流倉庫の場所は変わっていないと考えられます。かなり大きな敷地で金沢港に前の道路に面していたので、簡単に移転もしないと感がられるからです。

トラックを返しに行った倉庫というか、配送センターと言ったほうがいいかもしれませんが、そちらはリョーショクの敷地の裏手のほうで、隣接していたかどうかも記憶にはないですが、上空からみて左手にあったように思います。

ざっとGoogleマップの地図をみたところ、次の地点の可能性が高いように思われます。広い道路に面した敷地であったようなこともおぼろげながら記憶に残っています。

2014-05-11-162540_石川県金沢市湊4丁目7.jpg pic.twitter.com/37s5GHSZUf

港のカナカンにも配達に行っていたような気もするのですが、ただカナカンとなると西金沢の大きな葬儀場の近くの倉庫での荷物の扱いの量が多かったことがより印象に残っていて、金沢港ではリョーショクがやはり扱う荷物の量が多かったという印象として残っています。

Googleマップの地図を見てもわかるとおり湊と無量寺は隣接しており、被告訴人大網健二のアパートともすぐ近くでした。

私の記憶には奇妙な点があって、引っ越しを手伝いに行ったことはその時の場面も含めて記憶に残っているのですが、引越し先であるはずの大場町東の一軒家での作業の様子というのがまるで記憶に残っていないのです。

ただ、荷物を運び入れる前か、ほとんど物がないような状況での大場町の一軒家の家の中や、家の周りの状況に関しては、割と印象的に記憶に残っています。

トラックを返しに行ったのは、引っ越しの作業が終わってからのことであったと思うのですが、午後だったとは思うもののまだまだ明るい時間帯でした。改めて考えると手伝いに車で向かった先が無量寺のアパートだったので、作業が終わったあともそちらに戻っていたのかもしれません。

借りた2トンのトラックは宇出津のK村さんのものだと聞いていました。青色の古いトラックだったと思います。初めに見た頃の2トントラックよりはポンコツではなかったような気もするのですが、塗装も純正のままのような当時でもかなり古いタイプのトラックと色でした。

荷物を運ぶので箱はついていたか幌がけだったとは思いますが、まるで2トンのダンプでよくみかけるような感じのもので、トラックとしてはけっこう珍しかったと思います。普通の緑ナンバーの運送会社であれば、それなりの塗装もしてあるのがほとんどだったと思います。

そういうタイプのトラックは市場急配センターでも他にいたとは思いますが、いずれも持ち込みのトラックだったと思います。持ち込みのトラックは通勤も兼ねていて、見かける機会というのもそう多くはなかったような気もします。

そのトラックを返しに行った時点で、K村さんと姫のNKさんは、春に市場急配センターをやめて直に仕事を請け負ってやっているとか、不義理なやめかたをしたとも聞いていたと思います。珠洲市大谷のYSさんも行動を共にしたと聞いていたように思います。

Kマート - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/K%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88

調べてみたのですが「Kマートは日本にかつて存在したコンビニエンスストアとスーパーマーケットのひとつ。」とありました。金沢市近郊に限ったチェーン店かと思っていたのですが、そうではなかったようです。ただ、長距離の仕事でも他県で見たという記憶はほとんど残ってはいません。

一方、「ひまわりチェーン」を調べたところ、こちらは現在も営業しているチェーン店のようです。ざっと見たところ、金沢市近郊というより金沢市内のみの店舗にもみえました。将来変動があるかもしれないのでスクリーンショットを撮っておきます。

金沢市 ひまわりチェーン - Google マップ http://bit.ly/RyVHvt

2014-05-11-170916_金沢市 ひまわりチェーン - Google マップ.jpg pic.twitter.com/typEalAv0o

前から思い出せないことがあったのですが、ようやくだいたいのところを思い出すことができたようです。それは金沢市長土塀3丁目の交差点から金沢駅方向の小路に入ったところであったと思います。

自分の記憶によるとその一角は田舎町のちいさな商店街のようになっていて犀川の方向のほうから小路に入ってくると、左の角にひまわりチェーンの店があったように思います。

余り行くことのない配達先だったので余計に記憶にも残っていたのですが、ある日、配達中にそのひまわりチェーンの近くで、NKさんかYSさんに出会ったと思います。それだけでなくM田かS田、あるいはその二人が一緒に仕事をしていました。

S田とM田についても前に書いていると思いますが、肝心要のことはまだ書いていないと思います。前に書いたのはS田がアルトワークスのことで被告訴人大網健二とトラブルになり、S藤を連れて金沢港のイワシの現場に来たということで、平成1年12月ころのことです。

車のトラブルの話は先に被告訴人大網健二から聞いて知っていたと思います。まだ雪が降りそうもない秋頃に聞いていた話のように思います。被告訴人大網健二はたいへんな不義理を受けたと大いに怒りまくり感情的になって、配達の仕事中のS田を追いかけまわしたような話もしていました。

なぜなのかよくわからないのですが、配達の仕事中のS田を追いかけまわしたという話を聞いた時、私はその場の状況として六枚交差点の近くの中橋陸橋の下の側道の辺りの情景を頭で思い描いていました。それに近い場所の話があったものと考えられます。

六枚の交差点は金沢駅に近く、その駅前からの道路と金石街道が交差する大きな交差点でした。交差点を横切って野々市方向にもう少し行くと、左手に職業安定所があって、その向かいに婦人会館とかいう割と大きな建物がありました。

その婦人会館からもう少し行った辺りで右に入って行くと大和町があって、被告訴人大網健二が昭和55年ころに住んでいたアパートの場所でした。長土塀の商店街のような一角というのも、そこから歩いても近い辺りと思われます。

なにか昔の記憶が重なって、六枚の交差点の近くのことを思い出しただけなのかもしれませんが、被告訴人大網健二が住んでいたアパートからは金沢駅までも歩いてそう時間はかからない距離だったと思います。実際に歩いて行ったような気もします。

近くに古い紡績工場かその跡地があったようなことも記憶に残っていますが、めったに通るような場所でもなかったです。

ついでに書いておくと中橋の陸橋にはもうひとつ思い出があります。さきほどGoogleマップのストリートビューで見たところ、陸橋は跡形もなくなり、高架下になっていました。

中橋の陸橋の付近というのも滅多にというかほとんど行く機会もなかったので、町並みの記憶も薄いのですが、S田を追い回したと聞いた情景では金岩方面に向かって陸橋の右側にその場所があったことになるかと思います。

もうひとつの方は、記憶も新しく具体的にはっきりしているのですが、夕方の遅い時間すっかり暗くなってから被告訴人松平日出男社長が、その場にいた10人ほどを食事に連れて行くと言い出したことがありました。あるいは7,8人だったような気もしますが、メンバーの顔ぶれはさほどはっきりしません。

人数からして最低2台の車には分乗して向かったと思いますが、その時最初に向かったのが、中橋の陸橋の真下付近、金岩方面に向かって左側の場所にある焼き鳥屋のような店でした。赤ちょうちんが出ているような店でしたが、店内の席に空きがないとかいう話で松平日出男は戻ってきました。

そのあと行ったのは、金沢駅東口のできたばかりの飲食店街の中の店でしたが、行きずりで適当に選んだような店でした。いろいろと気になるところはあったのですが、考え過ぎかとも思い。わからないまま引っ掛かりをを引きずるような出来事というか、その場の雰囲気でもありました。

平成4年の1月か2月のことでしたが、前後の状況に照らしても時期を絞り込むことができずにいます。その場には、被告訴人東渡好信の姿もあったように思いますが、東渡好信の精神病者を装うような不可解な行動が始まったのも、そのすぐあとであったように思われます。

まず東渡好信は会社に出てこなくなりました。会社をやめるような話もしていたようですが、東渡を親身に気遣い、心配する話もしながら、東渡好信に関する話を聞かせてくれたのも輪島のHさんでした。

輪島のHさんは平成2年の秋頃、東渡好信とほぼ同時に金沢市場輸送に入ってきた運転手でした。東渡好信の紹介というかたちでの入社とも聞いていました。会社で姿をみるようになったのは、ほとんど同じ頃だったと思います。

すでに書いているかもしれませんが、東渡とは運転手仲間で同じく材木を運ぶトレーラーに乗務していたという話でした。チューとも呼ばれたWも同じ仲間だったと聞きましたが、Wの場合はトレーラーではなく10トン車乗務だとも聞きました。

輪島のHさんは輪島でも海士町の人と言っていましたが、漁師という雰囲気は全くない人で、スナックのような飲み屋を経営していたこともあると話していたように思います。

よりはっきりと記憶にあるのは、本人が売春で刑務所に入ったことがあり、加古川刑務所に服役していたと話していたことです。1年か1年半という短い刑期だったと思います。なぜそんな話をするのか多少不思議には思っていましたが、ごく自然にに話していました。話は一階の休憩室が多かったです。

輪島のHさんのことで印象的だったのは平成3年11月25日の夕方のことでしたが、これはまだ本書では書いていないように思います。

Hさんは、東渡好信に同情的で、東渡好信の妻を批判することもあり「鬼のような女」と言っていたこともありました。平成4年2月の後半か同年3月中のことであったと思います。

私はその東渡好信の妻という人に会ったことがありました。休日の午後だったと記憶していますが、会社裏駐車場の一番奥、入り口から入って右側の位置で、声を掛けられました。七尾市から探しに来たものと思われましたが、なぜほとんど人のいない休日なのかとは不思議に思いました。

当時の休日というのは日曜日だけだったと思います。それに近いのが水曜日でした。中央市場の休日に定められた日です。たぶん月に一度かあるいは2度の水曜日だったと思いますが、第二か第三の水曜日という話だったと思います。

私の記憶にある中で初めのその中央市場が休日という水曜日は、平成3年9月のことでした。% cal 9 1991というカレンダーのコマンドによると11日か18日ということになるかと思いますが、休憩室の工事が途中ではありましたが、正直どちらか判断がつきかねます。

calコマンドの結果をスクリーンショットととして次に掲載しておきます。

2014-05-11-194350_ % cal 9 1991.jpg pic.twitter.com/Xlm4GZuIag

気になって調べたところ、次のような情報を得ることが出来ました。どうも金沢市市議会の公開資料のようです。PDFファイルになっています。

2014-05-11-200011_平成25年金沢市中央卸売市場の臨時休開市日について.jpg pic.twitter.com/m4N4cu8fyw

平成3年当時は月に1回だったように思うのですが、原則は第2,第3の水曜日となっていました。とても気になるところで正確な情報がほしいと調べてみたのですが、月に1回となると、事情も異なりそうです。

その水曜日は中央市場が休みということで、会社もずいぶんと暇そうで運転手の姿も少なかったですが、事務員の被害者AAさんと被告訴人池田宏美は出社していました。それでもずいぶんと暇そうで、早めに退社していたようにも思います。

東京都中央卸売市場 | 市場開場日・休業日年間カレンダー | 平成26年 http://www.shijou.metro.tokyo.jp/calendar/

平成3,4年当時、中央市場は土日が休みだったのか確認のため調べてみたのですが、上記リンクの東京の市場のカレンダーを見たところ、現在においても基本的に土曜日は休みではないようです。

市場急配センターで長距離の仕事をしていたのも平成3年8月の終わりから平成4年4月1日までと長くはなかったですが、その水曜日の市場の休みをはっきりと経験したのは9月と10月だけでした。会社内がいつもと違った雰囲気であったので、強く印象にも残っているのだと思います。

平成3年でも市内配達をしていた7月、8月というのは、水曜日の臨時休市という記憶は全くないので、たぶん9月から始まったものだと思います。

平成3年10月の水曜日の臨時休市では、けっこう多い人の姿がありましたが、市内配達の運転手の姿というのはなかったと思います。普段の退社時間は17時ということになっていたと思いますが、その日は16時ぐらいには退社というか解散していました。

印象的に覚えているのは、会社前から車に乗って出て行く、被告訴人池田宏美と被告訴人東渡好信の姿でした。計画が思いの外順調に進んでいるような満足そうな、それでいて注意深い顔に見えましたが、その顔を見たのもかなりの偶然で、二人とも私の視線があったことには気づいていない感じでした。

その日はまだ人の少ない時に、被害者AAさんに10色入りぐらいの油性のマジックペンをあげたことも覚えています。マジックペンを借りてかなり使ったことのお礼に買って、車かトラックに置いてあったものだと思います。

また、その時も車のフィルム貼りのようなことをやったと思います。あるいはトラックのフィルム貼りだったかもしれません。いずれにせよ、前回のようにAAさんは手伝いには来てくれず、なにかとても申し訳なさそうな顔をしていました。

ちょっと記憶が弱くなっているので自信が持てないのですが、解散という感じで会社に人がいなくなったあと、私は大阪府の高槻市の市場に向けて出発したように思います。積み荷は馬鈴薯だったと思います。当時多かった仕事ですが、高槻の市場というのは馬鈴薯では初めてだったように思います。

馬鈴薯と言ってもメークインなどの他の品種の芋も積んでいたと思いますし、あるいは玉ねぎを積むこともあったかもしれません。中央市場の裏口の、道路を挟んで向かい側にある倉庫でイモは積んでいました。

他の運転手が嫌がる仕事であったので余計に回ってきていたのだと思いますが、とりわけ平成3年の秋は多い仕事でした。初めの頃は、東京の市場にも3回ぐらい行くことがあったと記憶していますが、大田の市場ではなかったかと思います。そこから古河の市場に向かったことも記憶しています。

馬鈴薯の行き先として多かったのは名古屋の北部市場と大阪の本場(ほんじょう・福島区)市場と、北部市場でした。名古屋の北部市場は小牧市だったと思います。ほとんどが降ろしてすぐにとんぼ返りで夜中のうちに金沢に帰っていました。

時刻は5月12日10時を過ぎたところです。書いておくことが沢山あるので、とりあえず書いていきたいと思います。昨日の続きになります。

被告訴人東渡好信の妻のことから馬鈴薯の仕事について書いていたところでした。この馬鈴薯というのは石川県産ではなく、北海道から船で金沢港に運ばれてきたものを、中央市場の裏側にある倉庫で保管しているという話を聞きました。中央市場の敷地の中ではなく、道路の向こう側です。

平成3年10月6日、被告訴人安田敏のトラックに同乗して昼に名古屋の北部市場に行った時も、その馬鈴薯を積んでいました。

名古屋の北部市場よりは、大阪に運ぶことが多かったとも思います。名古屋で馬鈴薯を持っていくのは北部市場だけでしたが、大阪は北部市場と福島区の本場があって、どちらも同じぐらいの回数行ったように思います。北部市場は大阪市内ではなかったと思います。

近くには大きなトラックターミナルもあって、中西運輸商にいた頃は、九州西武運輸の荷物を運んでよく行ったという記憶もありました。結婚する前の妻を同乗させていたことも多かったです。

大阪も初めのうちは、名古屋の北部市場と同様に、空荷で戻っていたと思います。午後に馬鈴薯を積んで、夕方に出発、名古屋よりは多少時間も掛かったと思いますが、それでも夜中の2時か3時には金沢に戻ってきていたと思います。

そのうち大阪に馬鈴薯を持って行くと、決まって翌日に和歌山県の、かつらぎ農協からミカンを積んで戻るようになりました。このミカンの仕事は馬鈴薯の仕事以上に嫌われていたので、なおさら集中的に回ってきていたように思います。

私が初めて、かつらぎ農協にミカンを積みに行ったのは平成3年11月の17日か20日ぐらいではなかったかと思います。あるいは20日ころですが、以前は細かいことも具体的に記憶していたはずです。

それはちょうど、被告訴人浜口卓也が市内配達の仕事をやめて、市場急配センターで大型車で長距離の仕事を始めた頃でした。

同じく、津幡のYTも市内配達の仕事をやめ、大型車で長距離の仕事を初めていました。彼は市内配達の古参社員で頼りにされるような存在でもあったと思います。本人が長距離の仕事をしたいと言い出した時、会社からは反対されたそうですが、本人がそれならば会社をやめると突っぱねたと聞きます。

古参と言っても私が最初に市内配達の仕事をした庄和61年にはその姿はなかったと思います。年は私と同じでしたが寡黙な感じでもありました。それでも人当たりもよく笑顔で会話をする姿も見かけていました。被告訴人多田敏明とも仲良くしているという感じでした。

9月に被害者AAさんが2階から降りてきて私のフイルム貼りを手伝ってくれた時、その場にいたのも津幡のYTと被告訴人多田敏明でした。朝の9時か10時ころでしたが、二人は今から大阪府高槻市の市場に馬鈴薯を運ぶと言っていました。4トン車です。

津幡のYTが大型車に乗務したばかりの頃には、一度2台で能登の方に行ったことがありました。羽咋市内のもっと先で、当時は能登有料道路でしたが、余り降りた経験のないインターで降りて、その付近を走行していた一場面を記憶にしています。

能登で仕事によく行っていたのは七尾市ですが、七尾市には急ぎで行く時も能登有料道路の千里浜インターで降りて向かっていたと思うのです。これは羽咋市内の手前側になる場所だと思います。また二人で降りたインターは周りが少し山間になっていました。

能登有料道路は金沢からずっと海岸線沿いやその近くの平地を走り、羽咋市内の先の柳田インターを超えた辺りから、山間に入っていく地理になっていました。いずれにせよ記憶はそこで途切れています。

チューことWが市場急配センターに入ってきたのも同じ頃でしたが、被告訴人浜口卓也や津幡のYTが大型車に乗務するよりは、一週間から半月ぐらい遅れていたような気もします。あるいは11月の終わり頃ですが、同月の中頃からその月の終わりまでの間だったと思います。12月ではなく。

チューことWの姿を見たのはその時が初めてではありませんでした。それよりちょうど一年ほど前の平成2年の11月か12月ころも、しばらく金沢市場輸送のトラックに乗っていたからです。まだウィング車が入る前だったので平ボディ車に乗務したのだと思いますが、短い間でした。

その時は無口で目立たない存在で、一度も言葉を交わしたような記憶もなく、他の運転手と会話をする姿というのも見かけた憶えがなかったです。長くて半月もいたのでしょうか。もっとも長距離の仕事というのは運転手同士顔を合わせないことも多いです。長ければ半年合わないという話もありました。

市場急配センターには時期的にいくつかの区切りをつけることが出来るかと思います。もともとは石川日通、小林運送など数社の運送会社と共同で、金沢の中央市場の青果物の仲買の荷物を配達をするというところから始まったように聞いています。

数社と言っても私がその仕事に参加した昭和61年8月当時は、金沢市場輸送以外の運送会社は2トン車とそれに乗務する運転手が一人ずつだったと思います。それらのトラックは黄緑色に黄色のラインが入ったようなカラーであったと記憶しています。

中には塗装のない元からの紺色か青色のようなトラックもいたように思いますが、金沢市場輸送の大型車や4トン車と同じ、茶色とクリーム色のカラーの2トン車もけっこうな数揃っていたと思います。

昭和59年10月の時点では市内配達の仕事というのは全くやっていなかったので、昭和60年辺りから始まったものと思われます。

市内配達と長距離の区別というのもなく、事務所も同じでした。事務所は中央市場前の2階建てのテナントビルで、その2室が事務所で奥の半分ぐらいはアコーディオンカーテンのようなもので仕切られていました。その奥の方の部屋の事務所は丸ごと社長室で窓際に大きな机が一つありました。

実は、今日の昼に宇出津新港のアルプに行き、100円ショップでみつけたホワイトボードというのを買ってきました。これに簡単な図面を書いて、それをデジカメで撮影したものを説明に使いたいと思います。

昭和59年当時の金沢市場輸送の事務所の間取り_2014年05月12日15時04分42秒.jpg pic.twitter.com/so2OEJptPY

上記画像は、事務所内の大まかな間取りです。事務の机は向かい合わでで全部で6つではなかったかと思います。入って手前の左側の机には配車係の藤村さんが座っていて、入院後は被告訴人本恒夫が座っていたと思います。

左側の一番奥、窓際の机には小島という人が座っていた時期もありました。保険の事など担当しているという話でしたが、何をやっているかよくわからない人で、日通で事務員をしていたとも聞いたことがあります。見た感じ真面目なサラリーマンという人でした。

入って手前の右側の机には社長の奥さんが座っていましたが、常時いるわけではなかったと思います。いるときはメガネを掛けてうつむき、そろばんを弾いたり帳面をつけているような様子でした。周囲を見回すようなことも姿も見た記憶がありません。

ついでに書いておくと、昭和63年のクリスマスイブつまり12月24日だったと思いますが、被告訴人本恒夫の強い指示で、蛸島港にイワシのダンベを積みに行かされたことがありました。それが羽咋郡富来町の西海港での翌朝降ろしの仕事でした。

よく考えてみると次男も割と大きくなっていたと思うので平成1年のクリスマスイブだったかもしれません。いずれにせよ、その時私は具体的に本恒夫への不信感を持つようになりました。

他に年配で子供もいない運転手は暇そうにしていたのに、やたらと強く私に指示を出してきたのです。おまけに蛸島港の市場では、北浜太一さんに、いなくなるな、とか帰るなとか、かなり強く釘を刺されました。申し送りがあったような感じでした。

あえて家族関係に亀裂や波風を立てるような配車にしか思えなかったのです。そういうこともあったので、同じく年末に輪島のMYの代わりに九州に走れと本恒夫に言われた時も、私はきっぱり強く断ったのです。給料の差し押さえを被告訴人竹沢俊寿が小躍りするように喜んでいた時のことです。

私自身、クリスマスイブなどというのはずっと無関心でプレゼントをもらったこともあげたこともなかったのですが、子供も楽しみにする年頃になっていて、実際、戻った時は妻も平静を装いながらも、ショックを受けているような様子でした。

社長の婦人の隣の席には、配車係であった蛸島の北浜太一さんが座っていました。昭和59年のことです。その後やめて蛸島に帰り、浜田漁業の配車係になったと聞いていました。蛸島港にイワシを積みに行き、会ったこともあります。

被告訴人本恒夫は藤村さんが入院するため、代わりに配車係をやってくれと竹沢俊寿社長(当時。後に金沢市場輸送と市場急配センターの会長)と懇願されて、仕方なく引き受けた。給料も下がって大損だが、他にいないので仕方なく引き受けたと、何度も話していたのです。

被告訴人本恒夫が配車係をするようになったのは昭和61年の12月頃のことだったと思います。私は市内配達の仕事をしながら、東蚊爪の運転免許センターに大型免許の試験に通い、9回目だったかにようやく合格したのが11月27日だったのです。

日付をよく覚えているのは11月26日の誕生日の翌日だったからです。合格と同時に大型免許も即日の交付だったと思います。それ以来、受け持ちだった市内配達の仕事をすることはなかったと思いますが、2,3日は継続していたかもしれません。

受け持ちというのは、早朝のマルエーの配達とそのあとの青果の仲買の配達の片町・小立野コースでした。その時のマルエーの配達は魚だったと思います。松任店、根上店、寺井店の3箇所卸ではなかったかと思います。寺井が多少微妙ですが、たぶんです。

平静3年の時もほぼ同じ方面ではありましたが、朝のマルエーの配達は青果物で、寺井店がこれもちょっと微妙な記憶になっていますが、他は小松市内の、若杉店、今江店、本折店ははっきり覚えています。寺井がそうだとすれば4箇所卸だったことになりそうです。

その後の仲買の青果物の配達も、前と同じ片町・小立野コースでした。片町は金沢で一番の繁華街でもありますが、路地も狭かったり配達先も多いなど、もっとも難しい仕事という話も聞いていましたが、人の嫌がるコースということもあって、回されたようです。

仲買の青果物の配達は、午前と午後の2便がありました。平静3年の時は午前中と同じコースでしたが、昭和61年の時は全体的な荷物の量も少なかったので、コースに関わりなく荷物を運んで配達をしていました。例えば野々市や、羽咋郡の志賀町のスーパーに配達に行ったこともありました。

マルエーというのは金沢市近郊だけなく、石川県の加賀地方のほぼ全域に店舗があるようなスーパーでしたが、私は個人的に買い物に行ったこともほとんどなかったので、仕事だけのスーパーでしたが、たぶんテレビのCMも流していたように思います。

たぶん、現在もあると思うので検索で調べてみます。

各店案内 - スーパーマーケット マルエー http://www.s-marue.co.jp/tenpo.html

ざっとみたところ全部で27店舗ほどあるみたいです。私は平静11年の8月以来、金沢市内に住まいをしたことがなく、その当時でもスーパーで買い物をすることはほとんどありませんでした、子供や家族と一緒だった頃を思い出して気が重くなることもあり、足が向かなかったのです。

平静3,4年当時はもちろんインターネットなどあるはずもなく、このように店舗数を調べることも容易ではなかったですが、仕事で聞いていたような話では15店舗ぐらいと聞いていたようにも思います。住んでいる近くに店舗がなかったこともあり、利用する機会もなかったのですが店舗数は多いほうかと。

金沢市場輸送がマルエーの仕事をするようになったいきさつというのは聞いたことがありませんでしたが、一度取引を切られそうになった時、被告訴人竹沢俊寿が単身で乗り込んで、狂人のような振る舞いをやって危機を免れたというような話は聞いたことがありました。

狂人のような振る舞い、というのは適切な表現ではないかとも思いますが、要するにそれらしい非常識なことをなりふり構わずにやったという話でありました。誰から聞いたのかも思い出せないのですが、大げさに言えば自殺の道連れにするような脅迫的な行動をやったらしいです。

見方によれば体を張って会社を守ったということになるのかもしれません。また、マルエー側が取引を打ち切ろうとしたのは、おそらくですが腹に据えかねるだけの、運転手の素行の悪さや呆れ果てるミスが続いたことが考えられます。

これと似たような話は、被告訴人大網健二から被告訴人KYNについて聞いたことがありました。仕事の相手先に乗り込んで居直り暴れるようなことをやったと言っていましたが、被告訴人大網健二はそれを、気が弱いからだと不満そうにしみじみとした感じで、話していました。

被告訴人のうち考えるところもあって、被告訴人KYNに限っては実名の表記に切り替えず、当面匿名で行くつもりです。利用された被害者的要素も彼に限っては当てはまる可能性もあると考えるからです。具体的なことは折に触れても説明をしていきます。あちこちに飛ぶかと思いますが。

被告訴人KYNが乗り込んだ仕事の関係先について、被告訴人大網健二は津幡の会社と話していたような気もします。もっと具体的な話を聞いていたように思うのですが、どうもこの部分の記憶が薄れています。時期も今ひとつはっきりしませんが、Nテックのときの可能性が高いと思います。

時刻は5月13日9時52分を過ぎたところです。昨夜も夕方ころに記述を中断して、ほとんどなにもしないで寝てしまいました。書くことが沢山あるのに集中力も足らないようです。夕食もまともにとらず、袋に入った刻んだキャベツを少しと、メンチカツを一つ食べている間に寝ていました。

家の中の片付けもしたいところですが、書くべき予定のことが多すぎて気も滅入ります。少しでも前に進めるように、出来るだけのことを駆け足で書いていきたいと思います。

昨日はNテックのところにそれたところで中断になっていたようです、事実関係があちこちに飛ぶと、書いている方でも現状の把握が難しくなってしまいます。とりあえずNテックのことは後回しにして、市場急配センターの沿革について昨日の続きを書いておこうと思います。

昭和61年の12月ころのことを書いたと思いますが、これはちょうど被告訴人池田宏美や被告訴人梅野博之が入社してきた時期でもありました。当時の被告訴人池田宏美の名前は池田ではなく、少し記憶に自信がないですが吉村であったように思います。

私が金沢市場輸送に二度目に入社をして市内配達の仕事をするようになったことは、免許の点数がなく取り消し寸前であったこと、大型免許の取得のために運転免許センターに通っていたことなど、すでに書いていることだと思います。

その直前まで被告訴人安田敏と岐阜県海津町で山下工務店の仕事をしながらライスセンターの平屋の家で生活していたことも書いていると思います。

なお、そのライスセンターのの仕事というのは本来、9月から12月の10日ころまでと聞いていました。米の収穫時期です。ただ、ライスセンター側の要望があって、ライスセンターの仕事が始まる前の時期にも、工務店の仕事を手伝ってほしいという条件が出ていたと安田敏から聞いていました。

被告訴人安田敏が初めにその海津町のライスセンターの季節労働というか出稼ぎの仕事に行ったのは、昭和60年と考えられます。安田敏が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていると聞き、金沢市場輸送の事務所の前まで行って声を掛けたところ、やめて岐阜に行ったと聞きました。

これもすでに書いていると思いますが、窓から顔を出してそう教えてくれたのは、金沢市場輸送で配車係をしていた北浜太一の弟でした。「おっさま」と呼ばれることが多かったようにも記憶しています。

彼は私が昭和59年1月に初めて金沢市場輸送に入社した頃、大型車に乗務して長距離を走っていましたが、長期の免許停止が決まっていたらしく、すぐに免停になって、荷物の積み込み作業などやっていました。

当時20代の前半だったと思いますが、正確な年齢は忘れました。なんとなくの記憶になりますが、24歳と聞いていたような気がします。その後付き合いがあった可能性は薄いと思いますが、被告訴人大網健二も当時はよく知っている人物でした。

当時私は11月の誕生日前で19歳でしたが、平静1年の初め内浦町松波の港で岸壁から赤色の買ったばかりの軽四で飛び込んで自殺したという蛸島のTSさんとは、改めて考えるとやはり年が近いようです。

ちょっと思い出したのですが、北浜太一の弟の場合も、免停ではなく免許取り消しだったような気がします。その後、免許を撮り直して蛸島で4トンの保冷車を買って白ナンバーで魚を運んでいるというような、噂話のようなものも聞きましたが、これは平静1年頃のことかもしれません。

私が昭和59年の1月に金沢市場輸送に入った時点で、北浜太一の弟は、3,4年かけっこうな年数、金沢市場輸送で運転手をしていると聞いていたように思います。記憶は薄くなっていますが、それでも2年以上とは聞いていたように思います。

その辺りから逆算しても蛸島のTSさんが被告訴人安田敏と同じく石川県立水産高校漁業科を卒業して金沢市場輸送に入社したと聞く、昭和56年の時点でも同じ金沢市場輸送にいた可能性はあるかと思います。

まだ書いていないと思いますが、その金沢市場輸送に入社したてのころの蛸島のTSさんは、当時の内浦町越坂の出身と聞くKSさん(以降、越坂のKSさんとも書きます。)と、一緒にトラックを走らせていたと聞いたことがありました。

私もごく最近になってたまたま知ったのですが、本来の小木というのは思っていたより限られた範囲になっているようです。小木駅のあったあたりが市ノ瀬であることは知っていましたが、もっと小木の街に近いところも市ノ瀬になるようです。

2014-05-13-104213_石川県鳳珠郡能登町小木 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/HqbknGv10r

小木は松波同様に、平静17年だったと思いますが、石川県珠洲郡内浦町から宇出津や姫、真脇、鵜川と同じ能都町、そして柳田村が合併されて鳳珠郡能登町になっています。

2014-05-13-104912_石川県鳳珠郡能登町越坂 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/JCd0X57l5T

次が能登町越坂のGoogleマップの地図ですが、今度は小木との比較対象をわかりやすくするため、航空写真を使いました。越坂は数件のホテルと漁村があって、私も近年知ったことですがキャンプ場もあるようです。

越坂は市之瀬と同じく九十九湾に面していますが、遊覧船の乗り場があるのも市之瀬のほうです。小木駅もその市之瀬にありました。越坂の子供は例外なく小木中学校に通っているとも聞いていました。地理的にも近いですし、地元でも小木の一部のような感覚でいる人が多いのではと思います。

越坂のKSさんは昭和59年当時、中西運輸商の大型保冷車に乗務していました。珠洲市三崎のHMとは中西運輸商の同僚でもあったはずです。

一度私は金沢市場輸送の4トン保冷者で珠洲市三崎のHMを同乗させ、一緒に山形県酒田市に行った帰りだったと思います。柿崎町から新潟県上越市の境辺りの国道8号線沿いに小さな中華料理店があって、そこで3人で食事をしたことがあったと記憶しています。

新潟市内方面から上越市内に向かっていると右側にある店でした。小さな店で本来はトラックが停められるような店ではなかったのですが、国道沿いの路肩に寄せて駐車していました。どちらかが脇に駐車をしていて、見つけたほうが後で店に入ってきたように思います。

それは保冷車の箱に「中西運輸商」と大書きした2台の10トン保冷車のうちの1台でした。その保冷車には私自身昭和62年の3月ぐらいに、一時乗務したこともありました。

2台はどちらも日産ディーゼルのトラックでしたが、1台は改造車で10トン車にトレーラーのエンジンとミッションがつけてあるというトラックでした。ギアは10速とも聞いていましたが、ギア比が低いため最高速度が80キロとか90キロしか出せないとも聞いていました。

保冷の箱の方も通常よりかなり補強した作りになっていると聞いていましたが、中が丸く膨らんでいたような記憶もあります。

それは中西水産輸送の社長ならではのこだわりで作られたトラックでした。主に宮城県の石巻港から養殖ハマチ用の餌(たんにエサと呼ぶことが多かったです。以降もそのように)を四国の宇和島市や九州の大分、宮崎、鹿児島の養殖場のある場所に運ぶ仕事のための特別仕様のあつらえでした。

このエサという仕事については前にも説明をしていると思うので、なるべく端折りたいと思いますが、昭和60年ぐらいまでは金沢市場輸送でも中心的な仕事であると聞いていました。私自身は昭和62年の4月に金沢市場輸送で大型保冷車に乗ってから一度も経験したことのない仕事でもありました。

私が大型車に乗務した頃は、雑貨と鮮魚が中心になっていましたし、保冷車の作りもかなり簡素というか薄っぺらいものになっていました。鮮魚が中心と言っても、それは九州や東北から積んでくる方の仕事が多く、定期便にもなっていました。

今はどうかしりませんが、当時、石川県の港から大型車でまとまった鮮魚を運ぶのは、例年6月から7月ぐらいの間の正味一ヶ月もなかったぐらいの期間で、それもスルメイカでした。最近人から聞いた話ですが、漁をする船も九州や東北から集まってくるそうです。

富山県氷見市に掘安という小さな運送会社があって、鮮魚を運ぶ会社でしたが、被告訴人本恒夫の傭車として金沢市場輸送の仕事をすることが多く、たまに仕事をもらって氷見港から魚を運ぶこともありました。東京が多かったですが、九州に行ったこともありました。

この傭車というのもひとつのキーワードですが、中西運輸商もその傭車を使って仕事を差配するのが中心のような会社でした。前にも書いているはずですが、自社のトラックの運転手は中西運輸商ではなく、中西水産輸送の社員だと聞いていました。なにか税金対策の目的だとも聞いていました。

昭和59年ころというのは社会全体としてもまだ不景気な時代で、雇用の条件とかも厳しいものがあったと思います。仕事内容でも経費削減のため高速道路の使用が大きく制限されたり、遥かにきついところがありました。加えて未開通の高速区間も多くて道路事情遥かに悪かったです。

関越道の関越トンネルが開通したのも昭和60年ころだったと記憶していますし、昭和59年の時点では富山県の朝日インターから新潟県の上越インターまでの高速区間がなく、国道8号線を通るしかない上、親不知付近ではなにかあったときの迂回路もありませんでした。

会社が強気で運転手が弱い立場という一面もあったかと思います。普通免許で乗れる4トン車では、求人での募集と採用も次々の入れ替わりがあり、大型車の方はトラックに乗務する運転手も決まっていて出入りも少なかったので、募集自体もあまりしていなかったようです。

まもなく訪れたのがバブル景気という時代ですが、それは過去を振り返った形で聞くようになった言葉だと思います。当時の自分は新聞もテレビもまともに見ていなかったので、なおさら無知ではあったのだと思いますが、余り意識しないままに仕事が増え、それなりに給料もよくなっていきました。

体感的な世の中の変化としては、ひょうきん族のようなバラエティ番組の登場や、おニャン子クラブの登場があったと思います。食に関する関心も高まっていき、グルメという言葉を聞くようになったのも、同じ過程かと記憶しています。

エサの仕事に関してはいい時はキロ20円の運賃と聞いていました。30トン積んで運べば60万円の運賃になるという計算だったと思います。昭和59年ころになると相場がずいぶんと安くなって割が合わなくなっていると聞いていました。

トラックの性能自体、現在とは比較にならないほど劣っていたと思います。4トン車でも昭和59年に私が乗務した頃の古いトラックというのは、昭和60年当時の新車に比較してもずいぶんと性能に違いがありました。

トラックのメーカーによる個性的な違いというのもありましたが、イスズ車はブレーキが強く、日野のトラックは弱いというのもありました。4トン車でも重量を積んでブレーキを踏んでいると焦げ臭くなって煙が上がり、とても危ない思いもしたものです。

10トン車の場合、ブレーキはエアーになっていましたが、重量を積んで余計にブレーキを踏んでいると、コンプレッサーのエアーがなくなり、ブザーが鳴るとともにブレーキの効きが極端に悪くなって、とても怖い思いをしたものです。

エサなど30トンも荷物を積んでいると、下手にブレーキが効き過ぎるのも恐ろしいことで、急ブレーキを掛けると保冷車の積み荷が箱を突き破って運転席(キャビンとも)に雪崩れ込んできて、運転手が圧殺される事故もあると聞いていました。

なお、丸太をワイヤーで留める木材の運搬の場合、そういう危険ははるかに高くて、死亡事故も多いとも聞いていました。現在では当時のように丸太を山積みにしたトラックというのも規制が厳しくなって走ってはいないのかもしれないです。

余談になりますが、北関東の方では栃木県の山の方から土砂などを山積みにして走る一発屋のようなダンプがいると聞き、60トンぐらい積んでいるとか信じられないような話を聞いていましたが、それらしい山盛りのダンプは、早朝に走っていました。平地でも超低速で。

昭和59年ころというのも、ちょうどトラックの性能が飛躍的に良くなりだした時期であったことも考えられます。チューブレスのタイヤが出るようになったのも昭和60年代だったように思いますが、4トン車にエガーブレーキがつくようになったのも昭和59年でした。

石巻から積むエサの仕事では、仙台港から名古屋港までフェリーに乗り、国道を走って大阪の南港や神戸港の方から南九州までフェリーに乗るとも聞いていました。フェリーに乗っている間は、運転をすることもないですが、名阪国道の天理の坂を下るのは神経が磨り減るとも聞いていました。

今はどうなっているのか知りませんが、平成3年の11月の終わり頃にも私は名阪国道を走ったことがあり、そのころも反対車線は急で長い下り坂が続き、止まるような超低速で坂を下る大型保冷車を見かけていました。

かつらぎ農協からミカンを積んで帰るのに時間帯的に近畿道辺りが渋滞しているかと思って、試しに西名阪、東名阪を走ってみたのですが、明らかに遠回りという感じで、それ以来は素直に近畿道を通って名神高速から戻っていました。

その時は関ヶ原インターから名神高速に乗ったのだと思いますが、北陸道に向かう米原ジャンクションの手前に伊吹パーキングエリアがあって、そのパーキングの公衆電話から被害者AAさんの自宅に電話を掛けたのです。

平成3年11月26日の夕方遅くには輪島のHさんと被告訴人多田敏明と一緒に会社を出発して北陸道に乗り、福井県の武生インターの近くのサービスエリアで落ち合い、そのあと私は大阪の市場に向かいました。馬鈴薯を積んでいたはずです。

翌日にはかつらぎ農協でミカンを積んだはずで、この日だとすると11月27日の夜にAAさんの自宅に電話を掛けたことになります。時刻は19時半ころだったと思います。

なお、今、武生インターの近くのサービスエリアをGoogleマップで調べたのですが、南条というサービスエリアがありました。そういえばそんな名前だったかと思ったのですが、武生インターの手前にあったと記憶にあるサービスエリアが、武生インターの先の位置になっていました。

改めてGoogleマップを見なおして気がついたのですが、手前に当たるインターは武生ではなく、今庄インターでした。国道365号線に通じるインターということは記憶にあったのですが、確かに武生の街からはだいぶん離れていました。

近道ではなかったですが、たまに気分転換で武生市から国道365戦を走って山越えをし琵琶湖の近くの国道8号線に出ることがありました。Googleマップで確認したところ、木ノ本インターのことも思い出しました。ずっと長い間忘れていたのに、スーッと自然に思い出した地名です。

% cal 11 1991というLinuxのコマンドで確認したところ、平成3年11月27日は水曜日になっていました。これも正確性を担保するためコマンド実行のスクリーンショットを撮っておきます。

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伊吹パーキングからの電話で私は休みの日に彼女をドライブにでも誘おうかと考えていました。それで休日の予定についても尋ねたように思います。

27日が水曜日だとすると翌日にはもう一度、大阪に向かっていた可能性も高いです。そうすると28日の金曜日の夜に伊吹パーキングから電話をしたという事実が成立しますが、そちらの可能性の方がはるかに高いと思います。

電話を掛けた時、彼女は少し困ったような様子ですぐに電話を切ろうとしていました。今から出かけなければならないと言っていたようにも思えます。

数日前の25日の夜の電話では、初めて電話を掛けてきても構わないというか、「だいじょうぶや」という返事をもらっていたのにです。この平成11月25日のことについても詳しく書いておく必要がありますが、日付をよく覚えているのは自分の誕生日の前の日ということもありました。

そしてその伊吹パーキングからの電話を最後に彼女はまったく自宅の電話に出なくなりました。次に電話に出たのは年が変わった平成4年1月12日の日曜日の夜のことでした。これも日付をよく覚えているのは、片山津温泉「せきや」であった泊まりがけの新年会の翌日のことであったからです。

地理的なことはさほど重要ではないと思いますが、地理的な位置関係も分かっていた方が理解も進むかと思うので、Googleマップでルートを表示してみました。伊吹パーキングに行った時は、三重県の桑名市から関ヶ原インターを経由しているはずかと思います。

2014-05-13-140409_Googleマップ 和歌山県かつらぎ町~滋賀県伊吹パーキング.jpg pic.twitter.com/tZpQpdIQqx

時刻は5月15日23時20分を過ぎたところです。また中断をしていましたが21時30分過ぎに家に戻りました。その10分ほど前でしょうか、考え事をしていると、これまで以上に大きなこと事実を紐解くキーワードと思える問題が頭に浮かんできました。言葉を変えると認識の程度が違ってきたのです。

今夜は疲れていて、他にやることもあるので多くは書けませんが、それは平成4年の事件に置いて、初公判前の弁護人選任のことです。すでに岡田進弁護士が国選弁護人として決まっていたのではないか思うのですが、現在の記憶を手繰ると微妙なところもあるかという感じです。

私の母親は金沢西警察署にいる間に、13回面会に来たと聞いた覚えがあります。誰に聞いたとなると、裁判所の広汎に置いて聞いたように思うのですが、これも現在の記憶では正確に思い出すのが困難です。公判調書では記載を見かけていないようにも思います。

そもそも岡田進弁護士が国選弁護人として選任されたという通知がいつ頃届いかのかも思い出せないのですが、その前に弁護人選任の問い合わせのような通知が金沢地方裁判所から届いていたはずです。これは既に公開済みの書面で日付が確認できるかもしれません。

極めてはっきりしていることは平成4年5月28日に金沢刑務所の拘置所に移送されたということです。本来初公判という日にちでもあったので、これはしっかりと記憶しています。

時刻は5月16日9時30分を過ぎたところです。思ったほどぐっすりとは眠れなかったのですが、疲れはけっこうとれました。天気は良いですが風が強い様子です。昨夜の続きを書いていきます。昨日は気分転換もでき、帰り道では閃きのようなものを得ることもできました。

金沢西警察署での取り調べですが、自分の感覚としては全体の4割程度の間に調書の作成をともなった取り調べが終わり、あとは取り調べがないか、あっても短い時間の雑談のようなものではなかったかと思います。

その時は多少不思議にも思っていたのですが、起訴されると弁護権の侵害にもなるので取り調べはほとんど行われることがないとずっとあとになって知りました。たぶんですが、10日間の勾留延長を経た上での起訴であったと思われます。

起訴状の撮影写真も添付資料の中には含まれていたかもしれません。事件を起こして金沢西警察署に出頭したのが4がu1日の20時23分ぐらいと聞いたように思うので、4月の23日ぐらいに起訴されたものと思います。

おおざっぱに考えますと、起訴されてから一週間ほどで弁護人選任の商会があって、国選を選んだところ、次の一週間ぐらいで岡田進弁護士に決まったという通知が届いたのかもしれません。

早い段階から私は国選でいいと言っていました。肝心の被害者が意識不明の状態で、私選弁護人をつけることは被害者家族をいたずらに刺激し、不信を招き兼ねないと判断したことが大きかったと思います。とにかく被害者の意識が戻ることが当時は最大の関心事でした。

過去に何度も書いてきたことで以前はインターネットでも情報を公開してきたことと思いますが、谷内孝志警部補は取り調べをしながら今後の見通しとして、被害者の意識が戻れば執行猶予と言っていたように思います。

よりはっきりと印象に強く残っている谷内孝志警部補の話は、1年2,3ヶ月ぐらいの実刑で、2年以上行って来いということはまずない、ということでした。妙に自信たっぷりで軽快に話をしていました。

金沢西警察署における留置場の生活では藤井さんと坂井さんという看守のような担当が二人いて色々と話をする機会も多かったですが、運動という時間がありました。金沢西警察署では15分ずつの午前と午後の2回であったかもしれません。

平成11年8月の金沢中警察署の時は、30分で一日一回だったように思うのですが、どちらもずいぶんと前のことになるので、あまりはっきりとは思い出せない状態です。

この運動の時間というのは実際のところ体を動かすというよりタバコを吸うための時間でした。専用の外の景色もほとんど見えず、日差しもまともには入らない場所で運動は行われていましたが、必ず一人の立会の警察官はいました。

その運動の立会の警察官は藤井さんや坂井さんに限らず、他の警察官であったことが多かったように思います。なかには派出所勤務から応援に来たと話す警察官の人もいました。

金沢中警察署で暴力団の係をやっているという人もいました。ずいぶんと胸板が厚く屈強そうな人でしたが、森と名乗られていたことも覚えています。ブスの方がひねくれて性格が悪くなり、美人のほうが素直で性格の良い人が多いと、一般とは異なるような持論も展開されていました。

藤井さんは定年間近だとも話していたように思いますし、かなり年配の人でした。坂井さんは私より年下で当時25歳と言っていたと思います。一人旅で中国旅行に行ってきたとか、筆談でなんとかなるとか話をしていたことも憶えています。

坂井さんの方はまだ50前のはずなので、現在でも石川県警察で警察官をしている可能性は高いと思います。

主に運動の際の立会の警察官だったと思いますが、ほとんどが執行猶予の判決になると予想しているような口ぶりでした。相場も何もわからなかったのですが、初犯であったことと自首したことが大きかったようです。殺人罪でも事情によれば執行猶予になるということも全く知らない状態でした。

そもそも執行猶予という言葉も聞き慣れないもので、警察の人に何度も説明を受けながら、なっとなく理解したという感じだったと思います。実刑の方に傾いていたのは谷内孝志警部補ぐらいでしたが、緊張感を持たせるために厳しい見通しを示しているのかとも考えることはありました。

被害者の意識が戻るということは刑が軽くなるという意味もありました。なにより厳しい見通しを示す谷内孝志警部補ですら、意識さえ戻れば実刑のはずはないというような言い方もしていたように思いますが、執行猶予の可能性以上に、意識の戻る可能性は低いという態度でもあったと思います。

改めて思うと、谷内孝志警部補を含め金沢西警察署の警察官のほとんどは、意識が回復することはないという大前提で、捜査と取り調べをしていたと思います。それが杜撰でおざなりの対応になったのだと思いますが、それもガソリンをまいたが火はつけていない、という状況だったと言えそうです。

別の言い方をすれば、魂の入っていない人形のような状態と言えたかもしれません。国選弁護人となった岡田進弁護士は、公判において江村正之検察官が被害者の意識が戻ったと述べても、そのあと接見にも来なかったし、なんの話し合いもないまま判決が出ました。

その岡田進弁護士の弁護がどのようなものであったか、一言でいえば恫喝です。まさに形だけの話をして、「反省、後悔するぐらいなら初めからするな」と言い放って、睨みつけて帰って行きました。それは悪夢のような光景でもありましたが、まだ被害者の意識が戻らない絶望的な状況下でした。

岡田進弁護士の弁護に関してもこれまでに何度も書いていると思いますし、インターネットでも情報を公開していたはずです。今でも検索すればなにがしかの情報は出てくるものと思われます。正味10分程度の接見時間だったでしょうか。とても完結で短かったので、もれなく記憶し書いていると思います。

私も気弱になっていましたし、迷いもありましたが、弁護士との接見となると話を聞いて立場を理解してほしいとは思いました。そのような切り出しで話を始めようとしました。どんな言葉での切り出しだったのか、ちょっと思い出せませんが、それはボクシングで言うカウンターパンチのような対応に。

そういうことは弁護士としての経験からも場数を踏んでわかりきっているという態度で、すかさず言葉を遮られ、主導権を握られました。そして切り出したのは次の2点の確認のみだったと思います。

一つは、事件を起こす前被害者との間に合意のセックスはありましたか?、という質問。もう一つは、犯行時お酒を飲んでいてアルコールの影響はありましたか、というような質問。どちらも質問というよりは確認だったと思いますし、そのようなことは供述調書にも記載のある事項かと思います。

そのあと、5,6年は言ってくるでしょう。という言い方をしました。突き放すような結果の突きつけという感じでした。量刑を左右しうるのは、先の2点の事項のみという判断であって、他は全く問題にする余地もない全くの無駄という感じが、極めて強く言葉と態度に現れていました。

弁護士というのはすさまじい仕事、商売なのだと改めて思います。はっきり言って私は岡田進弁護士の姿を目の前にすると、自制の自信がありません。躍りだして殴りだしたら止まらず、本当に殴り殺してしまう可能性すらあるとずっと思ってきました。

しかし、それとは裏腹にずいぶんと感情を抑えて岡田進弁護士のことは控えめに書いてきたつもりです。感情論という弁護士がお家芸的に利用する印象操作で、むしろ希釈化される実際のことが伝わりにくくなるだけと考えたからです。歴史的に弁護士が作り上げてきた社会基盤の一つだと現在は考えています。

また、これは岡田進弁護士という個人の人間の問題だけではなく、刑事弁護というものに根ざす反復継続性の高い問題だとも思いました。言い換えれば広汎的に出来上がった市場相場のようなものです。私の問題に目を向けた弁護士はゼロではないかもしれませんが、ほとんどいないという現実もあります。

そういう意味では諦める部分もあったと思います。岡田進弁護士は信じられないような必要最低限の接触しかしなかったので、それ以上のなにかをつかむという取っ掛かりもなかったのです。判決という結果を出したのも裁判所。それもまた弁護士という伝統と文化でしょう。神格された無謬性です。

弁護士が過去にいささかなりでも非を認め、謝罪し、見直しをはかった例があったでしょうか。私は寡聞にしてしりません。相当の情報量を得て注意深く観察してきたつもりですが、どうな問題でも非があるのは裁判所か検察、警察というのが一貫した弁護士のスタイルです。

私にとって弁護士というのは魑魅魍魎というのか悪霊的な妖怪のたぐいです。そう解釈する他ないのが、岡田進弁護士、木梨松嗣弁護士による対応の実体験です。とにかく想像を超えていました。言葉で尽くせない卑劣さと厚かましさです。それは社会に対する背信でもあると私は信じます。それ故の告発です。

客観的にみれば、一審の国選弁護人であった岡田進弁護士と控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士は、同じ金沢弁護士会所属の弁護士であるという以上の、つながりを見つけることはできませんでした。おそらく探偵にでも頼まないと知ることのできない事実かもしれないという諦念もありました。

探偵に頼んだとしても地元であれば、弁護士の利益になるように動く可能性が高いとも考えました。

そういう雰囲気は、被告訴人大網健二に紹介された若杉幸平弁護士にも見て取れました。あの初対面の時の居合の気合をも漂わすただならぬ雰囲気は、岡田進弁護士のそれとも似ていると感じました。

岡田進弁護士の場合も、初対面なのにどうしてあそこまで攻撃的だったのかと、あとあと考えましたが、金沢西警察署の谷内孝志警部補が作成した供述調書の人物像によれば、そうなのかという諦めもありました。

その表現はおかしいと言っても、薄ら笑いを浮かべ同じ意味や、と言ってまともに取り合わなかったのも谷内孝志警部補ですが、当時は取り調べにおける問題が社会問題として表面化するようなこともなかったと思うので、戸惑いと諦めしかなかったです。

そろそろ昨夜、小木港からバイクで帰る道すがらひらめいたことを書きますが、木梨松嗣弁護士が一審での私選弁護人を断った真の理由のことです。

京都の母親の兄弟の親戚がお金を工面してくれるので弁護士をつけろということは、わりと早い段階から説得を受けていたと思います。当時は起訴という言葉も知らなかったので、その意味することの大きさの認識もなかったのですが、刑事裁判となれば弁護士ということは世間並みに理解していました。

やったことに間違いはないので言い訳など必要ないとも考えていましたが、そもそも私は理由を被害者に求めて事件を起こし、それでも満足な答えをもらえないまま、被害者は話のできない意識不明の状態となって、自分は留置場に囚われの身となったのです。

同時になにより事実を知るのは被害者の家族であって、その理解を得ることが最善の方向性だと考えていました。

伊吹パーキングからの電話以来、彼女つまり被害者AAさんが、まったく自宅の電話にでなくなったことは2,3日前にも書いていると思います。平成3年11月30日の土曜日が事実上の始まりだったと思います。

伊吹パーキングからの電話はその前日のことであったと思いますが、会社において不思議な光景を目にしました。午後であったとも思いますが、その場面だけは印象的に記憶に残っています。初めはまた何かの工事が始まったのかと思っていました。

自宅の電話に出なくなったことと同時に始まった会社で彼女が車を会社の裏にあるトラックと運転手の車を停める駐車場(以降、単に裏駐車場とも)での駐車のことです。

彼女が裏駐車場での駐車をやめたのは平成4年2月3日のことでした。ちょうど私が24トンのミールを積んで九州の福岡市に向けて出発した日のことです。

その日は月曜日でしたが、ミールの荷物は土曜日の2月1日に積み込んでいました。休日前に荷物を積むことは「積み置き」と呼んでいましたが、よくあることです。ただ普通、この場合、荷降ろしまでの時間的な余裕が大きいので、経費削減のため一般道を多く利用するのが普通でした。

九州への運行は金沢市場輸送の時に多く経験していましたが、積み置きではなくても翌日降ろしではない中一日の余裕があると、一般道を走り、福井県の敦賀から国道27号線、京都府の福知山で国道9号線、鳥取、島根と一般道を走って、山口県の山口インターから高速道路に乗るのが普通でした。

金沢市場輸送では山口インターか小郡インターから九州の高速道路の利用が認められていました。他の運送会社だと関門トンネルを走って全線下道の会社もあると聞いていたので、その点はまだ恵まれていたとも言えそうです。

下関で重量オーバーの冷凍物を積むと、台貫に引っ張られて捕まる可能性を避けるため、島根県の益田市まで海沿いの国道を走ることがありましたが、一部でも高速道路を使うのとでは倍ぐらいの時間が掛かったような感覚があります。時間帯にもよると思いますが。

市場急配センターでは金沢市場輸送より高層道路の利用も緩やかに認められてはいましたが、全く長距離の経験のない松平日出男社長が指示を出すこともあったので、そのあたりもかなり緩やかだったと思います。本恒夫とはしばしば衝突することもありましたが、自腹で高速を使うことはほぼなかったです。

その時も会社の指示に従ったのですが、土曜日に積んだ荷物を月曜日の朝に会社に出社してから出発しました。大阪か神戸の夕方のフェリーに乗船することが決まっていました。

その時は考え事が多かったので気が付かなかったのですが、敦賀から高速を降りて一般道を走るつもりでいました。それが時間的にかなりキツイかもしれないということに気がついたのです。会社を出たのは10時ころになっていたようにも思います。

大阪のフェリー乗り場といえば南港だと思いますが、たぶんその時は神戸の魚崎からフェリーに乗ったのだと思います。敦賀から一般道を走るのは、米原バリアでの検問を避けるためでした。

フェリーの時間に遅れて国道2号線で一般道を走ることになれば、重量違反で捕まるリスクも高まるし負担も大きいので、そのまま北陸道で米原バリアを通過したのですが、ちょうど検問をやっていて重量違反で反則切符を切られました。

一度捕まると、社名やトラックのカラーを記憶されて狙い撃ちにされる可能性もあるので、なおさらへこみました。反則切符を切られたのも数年ぶりだったと思います。

冷静に普段通りに考えていれば、昼間に敦賀から国道161号線や京都市内を通って、フェリーの時間に間に合うことがきついことは計算できていたのですが、その時は仕事にも集中できず、現実的に物事を考えるのが難しくなっていました。

そういう経験というのはそれまでにも多少はありましたが、自分一人で運転するしかないので、判断ミスの負担も大きく自分に跳ね返ってきます。

取り乱すほどではなかったですが、集中できない状態になっていたのは、出掛けの彼女の駐車のこともありますが、2月1日の夜に被告訴人安田繁克に会ったことが大きかったです。彼女に対する不信感というより得体の知れない恐怖心のようなものを感じる状態になりつつありました。

どれだけ手紙で頼んでも話にすら応じなかったのが控訴審での木梨松嗣弁護士の態度でしたが、上告審になるとあっさりと東京で国選弁護人になった斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられてきたのが、被告訴人らの甲号供述調書でした。

縮小版でした。とにかく選任されてすぐに送ってきたと思うので、木梨松嗣弁護士から申し送りがあったのかとも考えました。木梨松嗣弁護士の場合は控訴審の判決が出る前も出てからも、さっぱり連絡がなくなって事実上の音信不通になっていたので、理由を考える取っ掛かりも見出だせない状況でした。

出たのは公訴棄却という判決だけでしたが、拘置所に戻ってすぐに問題を起こしたので、そのまま保護房に入れられ革手錠を付けられました。49時間ぐらい革手錠を付けられ、外されたあともまる一日ぐらい保護房に入られていました。物凄い判決に対する不服がありましたが、挑発的な母の言葉が原因でした。

「人権擁護委員を呼んで来い」と言って、アクリル板を拳で殴りつけたことは憶えています。母の言動は前々から誰かに指示を受けているようなところがあり、頭が混乱するので本当にやめて欲しかったのですが、それは事件の時の被害者に対する行動にも共通する苦痛の余りの反応でした。

その後も母親とはまともな話をすることもなく、母親は正気を失っていきました。認知症とも聞きましたが、体も付随になって寝たきりの状態が続いています。

本当は聞きたいこともありましたが、どこまで本当のことを話してくれるかもわからず、事実を聞き出すには相応の説明も必要かと思いましたが、そうすれば取り乱して危機を煽り、不則の事態を招くことも考えました。世話にもなっていた被告訴人大網健二や被告訴人KYNの関与が大きいからです。

プライバシーの強い問題なので書こうか迷いもあったのですが、私が福井刑務所にいる間に、頭がおかしくなった父方の親戚の人がいました。宇出津で被告訴人大網健二、被告訴人大網周一の大網兄弟とは同じ大橋組という町内でもあったので、小さい頃からよく知る間柄でもあったはずです。

大橋組は中町という町内と並んで宇出津の中心部の商店街のある場所で、今は昔のような賑もなくなってはいますが、以前は商売をやっている家の多い町並みでもなりました。地図には書いてない町内なので地元以外の人には極めてわかりにくいとは思います。

町内が一番の意味を持つのは宇出津のあばれ祭りの時かもしれません。小学校の頃までは父方の親戚とも多少の付き合いはありました。宇出津の祭りも大橋組のその親戚の家に行っていました。親戚であることは被告訴人大網健二もよく知っていたはずです。

平成9年の1月18日に私が福井刑務所にを満期出所したことはこれまでにも何度か書いたと思います。そしてその年の7月の1日か2日の夜に、宇出津まで出向いてくれた被告訴人大網健二と被告訴人KYNの二人に手伝ってもらって、金沢の北安江の借家に引っ越しをしました。

引っ越しをするまでの間、何度か金沢に行ったこともありましたが、ほとんどは宇出津の家にいましたし、車もバイクも自転車もなかったので、家から出るということも少なかったと思います。

そんな時に、ときどき家に来ていたのが頭のおかしくなった親戚の人でした。疑いもなく精神病のような状態でしたが、人が誰かもほとんど認識ができていない様子で、会話も成り立たない感じでした。

私が母親から聞いた話では、なにか選挙の運動員のようなことをやっていて、選挙違反のような問題で警察の追求を受けたところ、深刻に悩んでいるような様子が続いて、そのうち壊れたような状態に発病したとのことでした。

その後、少し小耳に挟んだ2件ほどの地元の人の話では、そのような選挙の話もなく、真偽の程もわからないのですが、とても気になり引っかかることがあるので、事実の確認も私には難しいですが、この事実は他に被害を及ばさないためにも、明らかにしておこうと思います。

それは控訴審の公判における小島裕史裁判長の一言でした。軽く笑ったような感じで、親戚に精神病の人はいませんか?と私に質問をしてきたのです。それは木梨松嗣弁護士が一方的に請求した精神鑑定の実施が決まった直後の発言だったようにも思います。それ以外は考えにくいです。

その時の公判は始まってまもなく3人の裁判官が出てきた法廷の机の後ろのドアの向こうに引っ込み、2,3分か長くて5分、やはり2分もないような短い時間だったと思いますが、もとの机の席に戻ってすぐに、小島裕史裁判長が精神鑑定の採用を決定として告知したのです。

控訴審では被害者の兄が傍聴席で暴れて以来私は弁護人の席の前に長椅子をおかれてそこに座っていました。テレビなどをみていると現在はそれが主流になっているようにも思えるのですが、以前はテレビのドラマでも被告人は傍聴席の前で、裁判官に真正面で向き合うのがごく当たり前になっていたはずです。

自分で決めれるようなことでもなく、また説明もなかったのですが、付き添いの刑務官に連れられるままに弁護人席の前で長椅子に座るようになりました。長椅子では隣に刑務官が座るのは同じです。

傍聴人の前に座っていると、裁判官は正面になりますが、傍聴人席は真後ろになるので、着座や離席の時以外は傍聴人席の様子というのはわかりにくかったと思います。横に刑務官もいるので、後ろを振り向くわけには行かず、公判が始まっていれば裁判官から注意を受ける可能性も意識するものかと。

なんであれ被害者の兄が暴れたことで、座る場所が変わったのですが、おかげで法廷の全体を見渡せるようになりました。そのための演出だったのかと考えることもありましたが、木梨松嗣弁護士の指示、采配であるということも可能性としては考えることもありました。

前にも書いたことがあると思いますが、被害者の父親はずっと公判の傍聴に来ていたわけではありません。控訴審の初公判の時も姿はなかったと思いますし、一番印象に残ったのは、本来関係者が最も関心を寄せるはずの、判決公判にその姿がなかったことです。

その前回の公判では父親だけではなく、母親らしい人の姿もあり、ずっとすすり泣いているような様子でもありました。

判決公判に姿を見せなかったのはあえて解決を先送りにしたとも解釈出来ましたし、それが面会にも説明にも来なかった木梨松嗣弁護士の態度にも歩調を合わせるように重なってみえることもありました。

木梨松嗣弁護士の面会というか弁護人としての接見については、前にも記憶をまとめ整理するようなことをしたように思います。ただ、その内容に関しては触れないままお流れにしてしまったように思います。

木梨松嗣弁護士の接見というのは一度も事前の連絡がなく、いきなりの訪問だったと思います。時間的にも短いものだったと思います。ただ、初めての接見に関しては、事前に今日あたりに弁護士が来るということは、聞いて知っていたと思います。

たぶん面会に来た母親から聞いていたのだと思います。ちょうどお盆休みの終わりの頃だったとも記憶しています。

8月18日ではなかったかと思います。カレンダーで確認すると17日は月曜日なので、その可能性もあるかもしれません。

同じ日だったように思うのですが、京都の親戚の人が面会に来て、その前に別の面会がありました。拘置所の規則として面会は一日1回という決まりがあったので、事前にしっかり調整をして連絡を入れておくようにと、刑務所の職員からきつい注意を受けたことでもよく憶えています。

遠く京都から来たということでしぶしぶと許可を出したらしいのですが、その前に別の面会をやっていたのです。午前中のことであったのかもしれません。今の記憶でははっきりというかすっきりと思い出せないのですが、松平日出男の面会があったのもお盆過ぎの同じ頃だったと思います。

拘置所への面会はそれが最初で最後でした。すでに何度か市場急配センターの会社に手紙を送り、被害者AAさんの意識が戻ったらしいということも伝えてあったはずです。

金沢西警察署の留置場にいる頃は、3回か4回ぐらい面会に来ていました。終わりから2回目の時は、被告訴人浜口卓也と二人で一緒に来ていました。他に会社から面会に来たのは、被告訴人安田敏が一回だけでしたが、本人の意思ではなく、周りからあれこれ言われて仕方なくやってきたという感じでした。

時刻は5月17日7時31分を過ぎたところです。昨夜は,PC遠隔操作事件の真犯人からメールがあったというニュースを21時前のEテレの手話ニュースで知って、それに関する情報を見て回ったりして、そのまま眠ってしまいました。

自称真犯人からのメール(本日午前11時37分に送付されてきた) - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 (id:yjochi / @yjochi) http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20140516#1400218482

上記は落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログのURLと記事のタイトルですが、普通には取得できないものです。ツイートのボタンをクリックして、送信用のウィンドウに出てくる文面をコピペしました。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)本人が理解した上であえてそうしているのかも不明ですが、Hatena::Diaryの設定を日記形式にしているため、日付形式のタイトル名しか取得できないはずです。ブログ設定を選択すれば、普通にブログの記事としてのタイトル名を取得できるはずなのですが。

他に気になる反応もありましたが、いずれも弁護士、ジャーナリストの姿勢としてとても参考になるものです。次はジャーナリスト江川紹子さんの気になるツイートを3つまとめてスクリーンショットにしたものです。これは自称真犯人のメールではなく、当日の公判に関したコメントでした。

2014-05-16-224106_【PC遠隔操作事件】江の島の監視カメラ映像を解析した警察官が証言。.jpg pic.twitter.com/buLTmnON6s

自称真犯人からのメールに関しては、意外な弁護士からの意外な反応もツイートで見るとが出来ました。本音という感じかと思いますが、本職の弁護士の見解、分析として参考になるもののいずれも一つです。

2014-05-16-223524_本当に真犯人からのものだとしたら、検察は赤っ恥。.jpg pic.twitter.com/7zhDdawUBU

2014-05-16-223402_私が真犯人なら、もう少し裁判所や検察官を泳がすな。日本の裁判所や検察官の事実認定能力が白日の下にさらされる。.jpg pic.twitter.com/JjzOJqr0vT

谷山智光弁護士のツイートですが、かねて注目している弁護士のお一人です。まめにチェックをしているわけではないですが、ツイート数も多くないのでたまに気がついた時にブックマークを開いて見ています。

京都弁護士会の所属ということも注目理由の一つですが、刑事弁護に熱心に取り組まれ、司法修習生の指導のようなこともされているそうです。次の世代の弁護士に影響を与えうる存在としても、それなりに注目していますが、刑事弁護の本質に関わるようなツイートも散見されます。

次は初めての試みになったかと思いますがTwilogでの検索結果をスクリーンショットしたものです。ツイートの日付もわかりやすく、全体と流れを把握しやすいので、これは好都合だと思いました。Twilogの新たな活用法の発見です。

2014-05-17-075249_弁護士 谷山智光(@taniyama)/「お茶屋」の検索結果 - Twilog.jpg pic.twitter.com/MQwEfgdZuu

今私が使っているノートパソコンは15.6インチの画面ではなかったかと思いますが、Twitterの画像をクリック拡大しても余り大きくはならず、正直文字の判別がしにくいです。

ディスクトップパソコンの大きな画面だと、Twitterの画像の拡大表示は横幅で1024ピクセルになっていたように思います。それだけあれば文字の判別に困ることは少ないように思います。

参考までに私はノートパソコンのディスプレイを1920x1080(16:9)の設定にしています。

参照にURLを指して提示しているのはツイッターの非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)のアカウントの写真付きツイートですが、同時にGoogleの写真サービスPicasaウェブアルバムにも同じ写真をアップロードするようにしています。

細かく言えばPicasaウェブアルバムにアップロードしてからツイートしています。自分が作ったスクリプトの関係で、Picasaウェブアルバムのアップロードに成功すると、ファイルのタイムスタンプが変更されて、ファイルブラウザでのファイルの並び順が変わってくれるので、確認にしています。

「お茶屋」というのは私自身、割と最近まで余り馴染みのなかった言葉で、余りピンとこなかったのですが、たまたまテレビで見た番組や特集のこともあって、金沢の茶屋街のことを意識するようになりました。

谷山智光弁護士の指す茶屋街というのは、京都のことで有名な先斗町のような花街で、舞妓さんとか芸子がいる古い伝統的なスタイルのお店のことかと思います。

LinuxでMozcという日本語変換ソフトを使っているのですが、先斗町と変換できず、確認も兼ねてネットで調べたのですが、どうも自分は北斗町と書いて「ぼんとちょう」と読むものと軽く勘違いしていたようです。詳しいことはしりませんが、知名度は高くイメージも共有されているはず。

本書においても金沢の茶屋街のことは被告訴人竹沢俊寿の家があるらしい(あったらしい)野町や、その周辺の石坂(いっさか)のことで書いていることがあると思います。石坂の周辺は市内配達の仕事でも通ることがありましたし、割と馴染みはありました。

増泉一丁目ではないかと思いますが、町から外れた通り沿いに、小さな漬物の工場があって、そこに野菜を運んだことが何度かあったのです。石坂とも近いので、花街と漬物の組み合わせというのも妙なものだと考えることはありましたが、漬物も金沢の名物の一つでもありました。

予定外の方向にずれてしまいましたが、白紙の状態の人にはわかりようもないことなので、私が体験した金沢市場輸送の実態に関する説明に、横道ですが舵取りをしたいと思います。それがより多くの人に影響を与え、対応の判断にも資するところがあると考えるからです。

本書においても何度も繰り返してきたように思いますが、本件事件の舞台となった市場急配センター株式会社の前身は金沢市場輸送株式会社です。

改めて整理をすると平成1年の秋頃ぐらいに、金沢市場輸送の市内配達が独立して市場急配センターが出来たと聞きます。新会社の設立というのは具体的な実感を伴うものではありませんでした。事務所もそれまでと同じ場所で全く同じように共有をしていたからです。

より大きな感心事は、会社が2つにわかれたことで、被告訴人竹沢俊寿が金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったという話でした。

ここで気がついたのですが、「被告訴人竹沢寿俊」と単語登録したものを使っていたところ、「被告訴人竹沢俊寿」の間違いを登録していたようです。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)にツイートしたものは変換できませんが、本書の前行までは正しいものに置換します。

ここで手違いで失われた部分を告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートからコピーします。同時にこの直前の行が、ツイートされていないあるいは投稿に心配したことに気がついたので、さきにそちらをツイートします。以下はコピペの内容です。

念の為開いていたEmacsのファイルをいったん終了して、viエディタでファイルを開いて、次のコマンドを使って文字列置換を実行しました。

:1,.s/竹沢寿俊/竹沢俊寿/g

置換の方法はsedと同じですが、1,.の部分はファイルの一行目から現在カーソルのある行まで、という指定になっています。そのあと現在行の後方にも意図せぬ間違いがないかは確認しました。

重要なファイルの変更にはEmacsを使わず、viを使うようにしています。一般的には常識かと思いますが、キーボードを打てばボタンに対応した文字が入力されます。これで意図せぬ文字が入ってしまうことを回避する癖がついています。

vimだと文字の挿入モードとコマンドモードが明確に分かれています。置換にはコマンドモードのみを使い、編集後は保存をしてファイルを閉じています。

Mozcの単語登録の方も修正しましたが、ATOK X3 for Linuxの辞書から引き継いだものから間違いを重ねていたようです。相当前からと思われますが、気がつくにも時間がかかったようです。

ついでの説明になりますが、本人は被告訴人竹沢俊寿の俊寿を「しゅんじゅ」と読むと私に話したことがありました。平成2年下3年ころのことだったと思います。それまでは「としひさ」と思い込んでいたので、ふざけた冗談で言っているのかと半信半疑のままでいました。

それに似たことがあったので、ついでにそれも書いておきたいと思います。これは検察官の対応としても考えさせられる要素があるのですが、常識からは外れると思うものの、なにが正しいのか本人でなければわからないとは思います。

それは告訴か告発のことで、検察事務官を一人伴い、金沢刑務所に聴取に来た浜崎はじめ(漢字が不明なので、ひらがなにしておきます。以降同じです。)検事の発言でした。

発言というよりは多分、私が郵送で提出した書面を読み上げていた時ではなかったかと思われます。被告訴人安田敏の敏を浜崎検事は「びん」と読み上げたのです。今の段階ではわざとらしい間に合せの対応しかできないですよ、という暗黙の意思表示にも理解されました。

ところが最近になって昭和の時代の右翼の活動家、赤尾敏という名前の瓶の字が、「びん」と読むとしったのです。なにかのニュースか話題に触れて、検索をしている時のことだったと思います。

以上でコピペで復元した部分の記載は終わりです。最後の行で「名前の瓶の字が」となっていたことも気がついたのですが、これは「名前の敏の字が」の間違いです。

本当はTwilogからコピペをしようとしたのですが、そこで一つの問題に気が付きました。プログラムで使われる特殊記号の文字が欠落した状態でTwilogに保存されているらしいということです。これも怪我の功名のようなたまたまの発見でした。

わかりづらいところもあるかと思いますので、端末の画面をスクリーンショットにします。

2014-05-17-110500_% tac kk_hirono140517。csv |cut -d’,’ -f3 | sed ’s/”//g’ | tai.jpg

jpgのスクリーンショットのファイル名は、自作のスクリプトの中で特殊記号のサニタイズ処理をしています。手っ取り早く全角記号に変換しました。今思えばサニタイズ用の関数でも探して処理したほうが良かったかもしれなかったです。

サニタイズのことをサニタライズとか思っていたのですが、間違いを書いてもいけないので、いつのもように確認のためネットで調べたところ、サニタイズは消毒という意味があることも新たに知りました。

まだ説明は書いていなかったように思いますが、このスクリーンショット用のスクリプトは、事前にマウス等で範囲選択した文字列の初めの31文字分だったかを、自動で抜き出してスクリーンショットの取得時刻と拡張子の間に挟むという仕様というか書式にしています。

なぜ日付時刻を先頭にしたかというと、ファイルの並び順をわかりやすくするためです。更新日時などで並び替えをすると、ちょっとした編集をしたことでも並び順に齟齬が生じてしまいます。

スクリーンショットということで初めはデジカメの写真ファイルとも区別するため、pngのファイル形式にしたのですが、ファイルサイズが大きすぎて一つ2MBを超えるものまで散見されたので、jpg形式に変更しました。

その前にpngのファイルサイズを縮小するためのソフトを使ってみたのですが、大して小さくならなかった上に処理に時間も掛かり、おまけにファイルの更新日時が変わってしまって収拾がつかなくなってしまいました。jpgに戻してからは問題ないと思います。

ちょっと勘違いしてスクリーンショットのファイル名だけにしていたようです。改めて掲載をやり直します。ファイル名から大体の意味はつかめる文字数にはなっていると思います。

2014-05-17-110500_% tac kk_hirono140517。csv |cut -d’,’ -f3 | sed ’s/”//g’ | tai.jpg pic.twitter.com/4TMj0CUJ97

ファイル名の文字数を控えめの数にしているのは、このように写真付きツイートのURLを、告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートに含めるためです。

画像ファイルは非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に投稿したものですが、文脈の流れでの引用は告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートになります。

httpなどは含まれていませんが、Twitterの仕様としてリンクになるだけではなく、写真・画像ファイルそのものも、あたかもそのアカウントで投稿したのと同じように表示されます。

これもスクリーンショットとしてお見せしたほうが、ごちゃごちゃ書くよりわかりやすかと思います。文字列もファイル名の一部として利用します。

2014-05-17-114212_これもスクリーンショットとしてお見せしたほうが、ごちゃごちゃ書くよりわかりやすかと思います。文字列もファイル名の一部として.jpg pic.twitter.com/uzBZUIizD6

なお、意識してパソコンを使っている人は多くないと思いますが、ファイル名の長さには制限があります。私自身最近までOSの違いかと思っていたのですが、どうもファイルシステムのフォーマットで違ってくるようです。

Windowsパソコンの一般的なフォーマットはNTFSだと思いますが、Linuxではext4が主流のようです。古いWindowsパソコンやUSBハードディスクではFAT32でフォーマットしている例もあるかと思いますが、ざっと調べたところ、文字数制限に大差はないようでした。

DVDに焼くとき、Windowsパソコンでは扱えないファイル名が含まれています、などという警告が出ることもあるので、その時はファイル名を変更するなどの対応をしたいと思っています。

またファイル名の文字数の制限にはファイルの絶対パスの文字数も制限があるので、フォルダをコピーする際のパスの階層の深さにも注意が必要かと思います。さらに言えばWindowsによくあるフォルダ名に半角スペースが入るフォルダの階層は避けたほうが無難かと思います。

次は写真付きツイートをクリックで拡大した場面のスクリーンショットです。慣れていない人だとそういうことに気が付かないかもしれないので、念の為にご紹介しておきます。元の画像部分のマウスでのクリックになります。

2014-05-17-115735_次は写真付きツイートをクリックで拡大した場面のスクリーンショットです。慣れていない人だとそういうことに気が付かないかもしれ.jpg pic.twitter.com/kcB3flavSM

拡大した画像は右上のバツ点マークをクリックしても元に元に戻せますが、画像以外の余白の部分をクリックしても同じかと思います。またこの種のブラウザでの画像の拡大はボタンもない全画面表示になることもありますが、ESCキーを押せば元に戻ることがほとんどかと思います。

そういえばPicasaウェブアルバムのURLをまだご紹介していなかったと思います。間があくと操作方法も忘れ面倒なので「参考資料」は使わずに、タイトルとURLを掲載します。なお、これに限っては後日変更の予定もあるので、それもご説明しておきます。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/DgRfAJ

Picasaウェブアルバムでは一つのアルバムに2000枚までの写真・画像ファイルをアップロードできるという情報も見かけてはいるのですが、余り数が増えすぎると管理も取り扱いも面倒になると思いますので、一定の期間の区切りで別のアルバムにするつもりです。既に作成さたのが次です。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット/2014年4月27日から同年5月8日分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/201442758

「写真: 71 枚 – 45 MB」という説明があるのもわかりやすくて助かります。比較的データサイズが大きいのは、先ほどご説明したところのpngファイルが含まれているためです。

他でもだいぶん前に説明したようにも思いますが、全角スラッシュで区切られているのはDVDにも保存する予定のフォルダの階層です。実際私のパソコンの中では次のようなパスになっていますが、これはUNIXのパスなのでWindowsユーザには馴染みがないかもしれないです。

/home/a66/kk_hirono/告訴状の内容に関連したスクリーンショット/2014年4月27日から同年5月8日分

kk_hironというフォルダを丸ごとDVDに保存して添付提出する予定ですが、そこからの相対パスをPicasaウェブアルバムのアルバム名に対応させていることがお分かりいただけると思います。スラッシュの記号は半角のままだと問題を起こすことがあるので全角に置き換えています。

なお、Linuxを含めたUNIX環境ではWindowsパソコンで言うフォルダのことをディレクトリと呼ぶのですが、ディレクトリという言葉も最近は見かけなくなったので、一般的にフォルダとも呼びますが、違いがあるといえばあるかもしれないです。

ついでなのでLinuxのフォルダブラウザについても、スクリーンショットでご紹介しておきたいと思います。見た目はWindowsのそれと大差はないと思います。種類がありますが、これはnautilusというアプリです。

2014-05-17-123855_ついでなのでLinuxのフォルダブラウザについても、スクリーンショットでご紹介しておきたいと思います。見た目はWindow.jpg pic.twitter.com/NngSW2NoVj

さきほどファイル名名やパスの文字数に制限があると書きましたが、正確には文字列のバイト数だったと思います。WindowsパソコンとLinuxでは使用される文字コードも違っています。LinuxはUTF-8です。文字コードの問題は奥が深くてかなりややこしいです。

Picasaウェブアルバムだとファイルがファイル名を含めてアップロードする前と同じ状態で保存されておりますし、Exif情報も残っているようです。元のファイル名のままダウンロードすることも出来ます。

Googleにログインしていない状態だと、Google+の写真として表示されるかもしれません。同時に「Picasaウェブアルバムに戻る」というリンクが表示されることもあります。写真自体はGoogle+の写真として見たほうが見やすいかもしれません。

ほとんど見かけないので知られていないことかと思いますが、Google ChromeやFirefoxといったブラウザだと、Picasaウェブアルバムの場合、日本語を含むファイル名のファイルが拡大表示できないようです。出来ないというか画像のあるべき部分が真っ黒に表示されてしまいます。

どうもGoogle+だとそういう問題もないようです。アルバムの管理をする場合はPicasaウェブアルバムを使っていて慣れてもいるのですが、写真の閲覧に関してはGoogle+をそのまま使ったほうが良さそうです。

時刻は5月18日9時34分を過ぎたところです。昨日は14時ぐらいかに電話があって、パソコンの調子がおかしいので見てほしいと頼まれて、結局それ以降、中断になりました。

昨日はいろいろと書いて、あちこちに飛んで、ごちゃごちゃになったかと思いますし、私自身、把握が普段以上に難しくなっています。金沢市場輸送と市場急配センターの成り立ちとその周辺事情について書いておきたいとも思っていたところではありました。とりあえずそのあたりから再開です。

MARK-ID-6>>> #LINK-ID_6 金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

やはり重要なところは「*参考資料?」を使おうと思います。一覧的なまとめがあったほうがわかりやすいと思ったからです。ちょっと使い方を忘れていて、調べるのに時間が掛かりました。結局調べても見つからなかったのですが、C-c cとやってみるとうまくいきました。

URLのリンクを探すためにページ内アンカーを辿るのも非効率と思いますので、さいどタイトルとURLのみを掲載しておきます。「参考資料」は索引的なものとして、ご利用いただければと思います。私自身も作成の過程で、重複の内容に活用したいと思います。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/_20130905

あらためてPicasaウェブアルバムのアルバム名を見ると昨年の9月5日の作成となっているようです。今年のはじめの方だったかとは思っていたのですが、それよりかなり前のことで、けっこう意外でした。Googleマップのスクリーンショットだったと思います。

Googleマップの紹介だけでは年月の経過で内容が変わってしまうということも考えたからです。きっかけは前波の堤防であったかもしれません。

石川県鳳珠郡穴水町前波 - Google マップ : http://bit.ly/1gdF0RD

上記Googleマップの前波港ですが、今から3年ほど前に何度か魚釣りに行っていました。漁港の入り口の海に向かって右側の方に割と新しい堤防があったのですが、私が初めに行った時から地続きでした。

ところがGoogleマップで見ると、その堤防が付け根の部分が陸と繋がっていない、いわゆる離れ堤防だったのです。今日見たGoogleマップの航空写真では私が見たのと同じ地続きの堤防にはなっていました。

そんなこともあってGoogleマップやストリートビューの撮影日についても検索で調べたのですが、思うような情報は見つかりませんでした。

一月ほど前でしょうか、テレビでたまたまGoogleのストリートビューにヒストリー機能がついたというような情報に接したのですが、大都会や観光地あるいは東北の被災地から手始めというような話だったので、一般的になるのはまだまだ先と思われました。

私が2010年の12月20日ころから魚釣りに行くようになった小木港でも、姫側の一番大きな堤防は、数年前まで離れ堤防だったという話を聞きました。

小木の地元の人に何人か聞いたことがあるのですが、その堤防の名前もはっきりしないようです。方角としては西側にはなるはずです。また、私は1年ちょっと小木分校の高校にも通いましたが、ほとんど小木の海を見たという記憶が残っていないのです。

町の中の港の方はなんとなく憶えていますし、当時は船の数も多かったです。特に12月の後半から春に遠洋漁船が出漁するまでは、沢山の船が港にいましたし、船の姿で港の海も記憶に残らなかったような気もするぐらいです。

その港も港のは入り口の右側に白い灯台のある堤防がありました。この堤防は今もあります。出漁を見送る際、ホーク2というバイクで、足場板一枚になっていた堤防に駆け上がったことを覚えているのですが、港の外側の風景というのは不思議と記憶にありません。昭和57年のことです。

海に行っていろいろと話を聞いていると、小木でも自分の住む宇出津でも、かなりの場所が以前は海であったり、埋め立てになったと聞きました。昔は聞いたこともない、話題になったこともない話だったので、身近でもわからないでいることが多いものだと思いました。

私の中で小木港というのは昭和59年に金沢市場輸送にいた頃、当時の中央市場の風景とも重なるところがあります。関係者の多くが小木の遠洋漁船に乗り組んでいたことも、これまでに何度も説明を書いていると思います。

GoogleマップではなくGoogleストリートビューの画面をスクリーンショットした先ほど紹介のPicasaウェブアルバムですが、スクリーンショットを実行した時の感想としては思った以上に昭和59年当時と変わっていないという印象でした。作業に集中していたのでよくはみていないですが。

Picasaウェブアルバムでは個別の写真・画像ファイルの説明もしにくいと思うので、同じファイルをTwitterに投稿して、それで説明を行いたいと思います。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日01時43分36秒.jpg pic.twitter.com/X5PhOLDLrs

上記画像のほぼ中央正面の2階建ての建物が金沢市場輸送の事務所のあったテナントビルです。ペンキが塗り替えられたのかもしれないですが、駐車されている車に注意でもしなければ、昭和59年当時と見分けがつかないようにも思えるぐらいです。

2階に窓が見えますが、右側から3番目か4番目が金沢市場輸送の事務所のあった部屋です。右から1番目や2番めの部屋というのは昭和59年当時も使われているのかいないのかもわからないような部屋でした。隣に社長室の部屋があったことも説明済みと思いますので、繰り返しはしません。

この画像の中の写真を見ても、商店とか市場という雰囲気が伝わるかと思います。当時の金沢市場輸送もそんななかに溶け込んだような雰囲気はあったと思いますし、活気のようなものも感じられる時代でした。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日01時45分47秒.jpg pic.twitter.com/egpEFadijn

上記次の画像は、もう少し範囲を広げて左方向へとずらした状況です。車の数が多いので午前中の過能性が高いと思います。午後になると車の数も減り、夕方になると車も人の姿もほとんどないということが多かったと思います。

金沢市場輸送の事務所のあった建物と道路を挟んだ向かい側にも似たような建物がありますが、その裏側は中央市場の敷地内になります。先に説明をしておきたいと思うのは、その左側の建物の手前辺りのことです。自販機という文字も見えるかと思います。

時刻は5月19日8時20分を過ぎたところです。再開します。

建物の2階の正面から見て3番目か4番目の窓ガラスの部屋が金沢市場輸送の事務所であったことは昨日も書きました。左隣の部屋がアコーディオンカーテンで仕切られた社長室であったことも前に説明していると思います。

その社長室の左隣ではなく、私の記憶の感覚では間に1つかあるいは2つ挟んだ部屋が、市内配達の事務所のようになっていた時期がありました。全体の建物の真ん中よりは右側の方に部屋があったようにも思いますが、そんなに長い建物ではないので、だいたい中央付近だったのかと思われます。

いつ頃にその市内配達の部屋が出来たのかもはっきりとは思い出せませんが、市内配達の責任者のような立場で現場をしきっていた高田が、姿をくらました後であったと思います。会社かなにかの金を持ち逃げしたような話もありました。

昭和63年の7月と思われる時期に、二口町に金沢市場輸送の新しい事務所ができるまで、市内配達の事務所も継続していたはずですが、私は一回か二回ぐらいしか、気まぐれでその部屋を見物に入ったことがあるだけでした。

金沢市場輸送の長距離の仕事と市内配達のの仕事というのは接点もほとんどなかったと思います。強いて言えば春のたけのこの時期に、同じ中央市場内からタケノコを積み込んでいたぐらいかと思います。もともと別会社が同居しているような感じでした。

ついでに書いておきますと、被告訴人浜口卓也が2トン車で新潟県内にタケノコを運んでいるという話を聞いた時期がありましたが、タケノコを積む現場では顔を合わせていなかったように思います。

今、とくダネ!という朝の情報番組を横目で観ながら書いているのですが、「YAH YAH YAH」という曲が1993年の夜のヒットスタジオとして流れていました。平成3年の終わりか平成4年の初めころに、よく耳にしていた曲だという印象が強いです。

チャゲアスという歌手はほとんど関心がなく自分でカセットテープに録音した記憶もないのですが、歴代の楽曲の売上枚数の変化が紹介されていて、その激減ぶりに驚きました。市場急配センターは右肩上がりに急成長したはずなので、対照的にも思われました。

「あなたが泣くことはない」という曲は1万9千枚だったという。

ちなみに平成4年当時も、トラックも軽四も音楽を聴くのはCDではなくカセットテープでした。家にCDはあったので、レンタルレコード店から借りてきたCDをカセットテープに録音していたと思います。

「YAH YAH YAH」(1993年発売)というような文字がテレビの画面に出てきました。これはテレビの間違いではないかと思います。

CHAGE and ASKA - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/CHAGE_and_ASKA

上記ホームページなどで調べたのですが、たしかに平成5年の発売のようです。ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌の方は私の記憶とも一致し、平成3年だったようです。

「YAH YAH YAH」という曲を耳にすると決まって平成3年の終わりから平成4年4月1日までの被告訴人多田敏明との関係を思い出すのですが、どこかに記憶の混同があったのかもしれません。たまにあることですが、自分の記憶に不安を感じることもあります。

「YAH YAH YAH」という曲を耳にしていたのは長渕剛の「しゃぼん玉」という曲がヒットしていた時期と重なると思っていたのですが、長渕剛のアルバムの方は、カセットテープに録音してトラックで聴いていたと思います。

「YAH YAH YAH」の方は録音もしていなかったはずですがよく耳にしていたという憶えがあり、それは「愛は勝つ」というヒット曲にも似ていました。録音はしていませんでしたが、よく耳に入ってくる曲でした。ラジオが多かったとも思われます。

長渕剛 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B8%95%E5%89%9B

で確認したところ、「10月25日、シングル『しゃぼん玉』リリース。ミリオンセラーとなる。」となっていました。思っていたよりは1,2ヶ月先に出た曲だったようです。ドラマもあったようですが、ドラマのことは記憶にありません。

そういえば平成9年の2月か3月ころに、長渕剛が主演の2時間ドラマをテレビで観たことがあり、数年ぶりに刑務所から出てくるような話ではなかったということを思い出しました。

同じホームページですが、どうも「1月24日、『とんぼ』の続編に当たるテレビドラマ『英二ふたたび』が放映。」の部分のようです。1997年になっているので、平成9年です。

あるいは首都圏と石川県では放送日が異なっていたということも、ありえないことではないのかもしれません。私が福井刑務所を出たのは1月18日なので、これでは早すぎるという気もします。

また、その長渕剛が主演の2時間ドラマを観た日の前後に、突如被告訴人KYNとK君が宇出津の家に来て、越坂の天国に行ったということも、自分の記憶の感覚としては残っているのです。

よく考えてみると、たしかに被告訴人KYNが訪ねてきたのは、福井刑務所に迎えに来てから一週間ぐらいあとだったかもしれません。配管の仕事で宇出津に来ていると話していました。

他にも宇出津の方で配管や水道の修理のような仕事を請け負うことがあると話していましたが、私が一緒に仕事をしているときは、一度もなかったと思います。

同じ頃と言いますが、平成9年の前半ですが、被告訴人大網周一ともちょくちょく宇出津の新村の銭湯で顔を合わせていました。彼もこちらに仕事に来ていると話していましたが、柳田中学校の体育館の工事とか、より具体的な話はしていたち思います。

この新村の銭湯というのは2年ほど前にボイラーが壊れたらしくいきなり店じまいになりました。新村というのも住所ではないので普通に調べてもわからないと思いますが、数馬酒造の斜め向かいです。建物は今も残っています。

市場急配センターの話に戻します。高田がいなくなってから、市内配達の別の部屋ができたと思うのですが、現場を管理する責任者が不在になったようなかたちでもあり、臨時代行のような立場になったのが被告訴人梅野博之という話も小耳にはさみました。

長距離運転手の間で、市内配達のことが話題になることはほとんどなかったと思います。接点自体がなかったので、話題自体が出にくかったとも思います。被告訴人梅野博之の名前も聴くことはなかったですが、たぶん小林健一あたりから聞いたのではとも思われます。

被告訴人梅野博之に関しては、顔を合わせると彼の方から愛想よく一言二言、言葉を掛けられることはあったと記憶していますが、目立たない存在でもありました。

前にも書いていると思いますが、初めに会社で姿を見るようになったのは、被告訴人本恒夫が配車係をするようになった頃で、昭和61年の12月ころと思われます。被告訴人池田宏美とも同じ頃ですが、思えば竹林も同じ頃だったと思います。

いままでいずれもたまたま偶然に入社時期が似たような時期になったものと考えていたのですが、改めて考えると偶然ではなかったという可能性もあるかと思いますし、竹林の存在というのも今一度気になってきました。

被告訴人梅野博之に関しては市場急配センターへの入社時期を、金沢西警察署の供述調書において、昭和ではなく平成と述べたのか、そういう記載になっていたように思います。初めに見た時にすぐおかしいとは感じていました。

被告訴人梅野博之に関して他に記憶に残っているのは、山中温泉の慰安会に参加していたことです。着いてすぐに大浴場に入ったのですが、そこで姿を見たという場面の記憶だけが残っています。

その慰安会は一泊でしたが、私には金沢市場輸送で初めての慰安会でした。新年会などもなかったですが、強いてあげれば昭和61年か62年の年末に、片町の居酒屋のような場所で飲み会のようなものがありました。雪国という曲が、巷で大ヒットしていた時期だと思います。

雪國 (曲) - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9C%8B_(%E6%9B%B2)

によると「「雪國」(ゆきぐに)は、歌手・吉幾三が1986年に発表した作品。」ということで、昭和61年のようです。ロングヒットにはなったと思いますが、それほど耳には馴染んでいない時期だったと思うので、やはり昭和61年の可能性が高そうです。

片町でも昔、相撲茶屋輪島という店があったときく辺りの店で、バナナビーチというディスコもあったのと同じビルではなかったかと思います。

2次会のような感じでそのビルか、左隣のビルの上の方の階にあるスナックに行ったような場面も記憶しているのですが、HとUの姿があったことは記憶に残っています。Uに関しては長野からリンゴを積んで一緒に滋賀県大津市の市場らしい場所で夜中に荷降ろしをしたということでも既に書いていると。

時刻は5月28日9時29分を過ぎたところです。長い間中断していました。10日近くで10日までは経っていないように思っていましたが、連携投稿しているTwitterで確認したところ、ちょうど9日目だったようです。

2014-05-28-092656_告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター.jpg pic.twitter.com/XnTY4WLsIL

フォロワーの整理もしたところです。廣野秀樹(@hirono_hideki)と告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)は基本的に相互フォローをすることにしています。

PC遠隔操作事件の真犯人が自供をしたか、その前に警察が河川敷でスマホを埋めるという不審な行動を見つけて検察が保釈の取り消しを請求するというニュースを見たのが5月の20日ころではなかったかと思いますが、様子見も兼ねてお休みをしていました。

現実的な問題として参考になる反応があり、それは期待を大きく超えた収穫であると同時に、自分が取り上げる告発等の問題はいっそう理解が難しいのかもしれないという気分にもなりました。客観性の記録としてのことを重視しました。いくつか挙げておきます。

社会・世相・時代の参考情報/落合洋司弁護士(東京弁護士会)/自称真犯人からのメール(本日午前11時37分に送付されてきた) - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/1137

142文字ということで一つのツイートにはおさまらなかったので、タイトルとURLを別々のツイートとして分割しました。短縮URLを使えば済む話でもあるのですが、永久保存版的な意味を感じてのご紹介なのでURLもそのままに。

社会・世相・時代の参考情報/落合洋司弁護士(東京弁護士会)/遠隔操作事件で、被告人が全面否認から全面自白へと転じ、弁護人も嘘をつかれて騙されていたと赤裸々に語って - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/vTCsYC

社会・世相・時代の参考情報/PC遠隔操作事件/そんないい加減な男に騙されて裁判を続けていた自らの責任についてはどう取るのか/かつて佐藤弁護士、片山についてこう語っていた - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/PC04

こまかいのはすべて非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートをしています。かなりの数になっていると思いますし、いちいち言及は出来ませんが、後日のための記録でもあります。刑事弁護、刑事司法の歴史的な資料としても参考になるのではと思っています。

まず第一に言及したいツイートのスクリーンショットがあるのですが、比較的早い段階だったと思うものの、探し出すのに少々手間が掛かりそうです。9日以内というのは確実なのですが、情報の数が多いからです。とりあえず次のようにコマンドを使うことにしました。

2014-05-28-095653_kk_hirono/告訴状の内容に関連したスクリーンショット.jpg pic.twitter.com/XgYvOSPFJZ

lsというのはファイルやディレクトリの一覧を表示させるコマンドです。普通にlsと使うと名前順に並ぶのではと思います。先頭に日付データを使っているので意図したとおりになるようです。更新日時順にするときは-rtというオプションを使うことが多いです。

2014-05-25-072305_「真実の犯人は自分だが無罪を主張してくれ」と言われたときに、無罪主張に最善を尽くさなければならないのが刑事弁護の倫理です。.jpg 、というファイル及びそれに関連した情報であることは見つけました。

日付がわかったのでTwilogで、まとまったというか塊になっているはずの情報を確認しておきたいと思います。カレンダー的なデータの検索や表示はTwilogの得意とするところです。

非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)/2014年05月25日 - Twilog http://twilog.org/s_hirono/date-140525

自分の活用が不十分なのかもしれないですが、Twitterだけだと日時的な横のつながりを調べるのが不可能だったりします。Twilogでもツイートの日付の部分がTwitterの固定URLへのリンクになっているので、そちらから開いてご紹介をしておきたいと思います。

2014-05-25-085956_刑事弁護人の責務(義務)、そして倫理.jpg pic.twitter.com/WhAOmKE7Lf

2014-05-25-085249_江川さんの報道は警察批判が目的でなく、警察・検察の立証が十分かどうかの反証を試みていたと思います.jpg pic.twitter.com/rr6BAgWekH

2014-05-25-084932_まれに弁護人が有罪意見を述べて懲戒されるのはそういうケースです.jpg pic.twitter.com/BN08deXJM1

2014-05-25-084536_弁護人が漠然と公正を考えて反証を加減するなどということがあれば、却って公正が害されるのです.jpg pic.twitter.com/SA47W6n7fC

2014-05-25-081539_非常上告-最高検察庁御中_ツイッター.jpg pic.twitter.com/OtRR8p8AJF

2014-05-25-081025_片山被告人にだまされた格好の佐藤弁護士について、「意味不明な弁護人批判(非難?)が出てくるのは必至だし可哀想過ぎる・・・」.jpg pic.twitter.com/kPimPVPbqw

2014-05-25-080957_櫻井弁護士は「鍛えられた刑事弁護人はマスの評価は気にしないから大丈夫だと思いますよ」と記し、佐藤弁護士への信頼を示していた.jpg pic.twitter.com/BgbtISBqz2

2014-05-25-080349_法律は、「ばれなきゃ罪にならない」と定めているのではなく、「証拠がないと有罪にできない」と定めています.jpg pic.twitter.com/lc2fAYzBM8

2014-05-25-074403_佐藤弁護士が被告人の無罪獲得のために全力を尽したことは、刑事弁護人として「見込み違い」「軽率」等と批判や揶揄されたりする理.jpg pic.twitter.com/F30Gn4FwJl

2014-05-25-072305_「真実の犯人は自分だが無罪を主張してくれ」と言われたときに、無罪主張に最善を尽くさなければならないのが刑事弁護の倫理です。.jpg pic.twitter.com/HefMHol0xV

以上になるかと思います。Twilogは写真のサムネイルをクリックすると、Twitterのツイートがブラウザの新しいタブで表示されるようです。今までもそうやって使っていたような気もしますが、改めて仕様を確認できました。よく出来ているサービスです。

もう一週間は経っていると思っていたのですが、5月25日だったとは意外です。3日前ということになるのでしょうか。それに朝の8時前後にスクリーンショットを投稿していたようです。画像の保存と投稿は同時に自動でやるようにスクリプトも変更しています。

櫻井光政 (okinahimeji)さんはTwitterを使っています https://twitter.com/okinahimeji

名前がなかなか覚えられなかったのですが、ツイッターアカウントを自分のFirefoxのブックマークに登録しました。けっこう注目している弁護士ではあったのですが、これまではブックマークもしていなかったし、ツイートはリストのTLに流れてくるものをたまに見ていた程度です。

弁護士名の確認とブックマークの登録が目的だったのですが、気になるツイートを2つ目にしたので、ご紹介しておきます。

2014-05-28-105100_ブレーキがなければもっと速く走れるのにって感じですねRT@avocadosk 会社に法務部があると業務効率悪化する旨の発言.jpg pic.twitter.com/Ny9jnXh5xT

2014-05-28-105137_・・・PC遠隔操作事件、STAP細胞の件から考える弁護士のPR問題 http://.jpg pic.twitter.com/vlRMOu4iRG

櫻井光政弁護士のTwitterのプロフィールは次のようになっています。140文字でおさまらなければ2つのツイートに分割します。

渋谷・桜丘法律事務所の所長弁護士。認証保育所「きらきら保育園」理事長。会計人コース/中央経済社と季刊刑事弁護/現代人文社にコラムを連載中。季刊刑事弁護のコラムをまとめた単行本「刑事弁護プラクティス」,好評発売中。

自分のスクリプトの文字数のカウントでは106字と出ました。少なくとも1年以上前から見てきたプロフですが、とりわけ私が注目をするのは「渋谷・桜丘法律事務所」の部分です。

H12-05-22_上告審国選弁護人山口治夫の手紙_01.jpg pic.twitter.com/vXBsmZVwCX

改めて確認しましたが東京都渋谷区桜丘町で南渋谷法律事務所でした。一時は同じ事務所なのかと思ったこともありますが、東京だと同じ住所の町内でも沢山の法律事務所があるのだろうと想像します。

金沢市でも法律事務所がある町内は尾張町、大手町,小将町などが多いと思いますが、いずれも金沢地方検察庁、金沢地方裁判所の近くです。有名な兼六園も近く、金沢の中心部の一つです。

渋谷区桜丘という思い出深い共通点もありますが、櫻井光政弁護士の場合、Twitterのプロフィール写真の見た目が、小堀秀行弁護士(金沢弁護士会)に似ていると感じたことも大きいです。運命的とまでは思ってこなかったですが、とりわけ個人的に記憶に結びつく色濃いイメージがありました。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「okinahimeji」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=okinahimeji&ao=a&order=allasc

2014-05-28-121008_廣野秀樹(@hirono_hideki)/「okinahimeji」の検索結果 - Twilog.jpg pic.twitter.com/jDpo9DCRoH

確認したところ、2012年06月25日(月)に私が初めて櫻井光政弁護士のツイートをリツイートしたようです。アカウントの存在を知ってからリツイートするまでは時間的にかなり近接していたものと思われます。

17時57分になりました。午後はいろいろあって中断していました。昨夜の次のブログ記事に対するコメントが原因です。結果的に久しぶりに珠洲警察署に電話かけて相談することにもなったので、それはそれで良かった面もあるかと思います。

佐藤弁護士赤っ恥。(花田紀凱) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/hanadakazuyoshi/20140524-00035636/

一時はFacebookのアカウントにペナルティを課されたのかとも思ったのですが、どうもブログ主が私のコメントを非表示にして、コメントを拒絶する設定にした可能性が高そうです。一連の経過は、次のスクリーンショットとしてPicasaウェブアルバムにまとめました。

経緯及び社会の反応/坂本正幸弁護士/FBのほうだが、刑事弁護を泥棒神社のこと?とか書いてきたやつがいたのでブロック - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/FB

結構前にTwitterの方でブロックされているのと同姓同名の弁護士だったのですが、本能を示していたことに昼ころになって気が付きました。

刑事弁護を泥棒神社のこと?とか書いてきたやつがいたのでブロック_FBログインなし_2014年05月28日15時04分54秒.jpg pic.twitter.com/yiSZL80aLh

上記があとで撮ったスクリーンショットですが、次のような刺激的なコメントをしていたので、ちょっと黙っていられなかったのです。

引用)→ これを赤っ恥といってしまうあなたは刑事事件をそして刑事弁護を全く理解していない。恥をさらしたのはあなただ。

ありがちな弁護士の発言なのでそれほど驚きはしなかったのですが、真剣な取り組みを自覚させてくれたことが、珠洲警察署に電話をしたきっかけにもなりましたし、今後もすばやい対応で連絡を入れるという話にもなりました。

佐藤博史弁護士やPC遠隔操作事件に関しては、言いたいことも沢山ありますが、その都度、廣野秀樹(@hirono_hideki)でツイートをしたり、別の形でも記録を残しているので、必要に応じそちらの客観的な資料を参考にしていただければと思います。

櫻井光政弁護士に関してはNHK連続テレビ小説あまちゃん、のことでも書く予定がだいぶん前からあったのですが、中途になっていたと思います。まだ、櫻井光政弁護士の名前を出していない段階だったかもしれません。

告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)/「あまちゃん」の検索結果 - Twilog http://bit.ly/1k1r6lp

上記のTwilogで確認したところ、「10:18 - 2014年5月6日」に「あまちゃん」というキーワードがありました。全部で今日の分を含め3件の該当でしたが、昨年の8月27日となると、本書の連携スイートなのか確認を要します。

今一度、廣野秀樹(@hirono_hideki)のTwilogで「あまちゃん」に言及した部分を調べてみます。前回の5月6日にも検索をしたのですが、別の方向に筆が走ったまま、中途になっていたようです。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「あまちゃん」の検索結果/Page 3 - Twilog http://bit.ly/1k1t1GC

2014-05-28-183820_廣野秀樹(@hirono_hideki)/「あまちゃん」の検索結果/Page 3 - Twilo.jpg pic.twitter.com/kxCl1cUzxo

私のTwilogでは2013年06月19日(水)のリツイートになっているので、これを見た時、自分の記憶違いかとも思ったのですが、どうもこの時刻は私がリツイートをした時点での時刻のようです。本来のツイートは残っていると思いますので、次にご紹介します。

Twitter / okinahimeji: 「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい ... https://twitter.com/okinahimeji/status/345364182486634496

2014-05-28-184306_「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい不快感を抱いてしまう。.jpg pic.twitter.com/FvrcuwCdmR

ご本人のツイートは「11:16 - 2013年6月14日」になっています。再度自分のTwilogを確認したところ、つぎのように初めて「あまちゃん」をみたというツイートの日付が6月12日なっていました。

2014-05-28-184826_NHKの連続ドラマ「あまちゃん」、初めてみた。印象的なオープニングの音楽。.jpg pic.twitter.com/X8ZpvM0hsG

これが正しいとすると、私は重ねて記憶違いをしていたようです。櫻井光政弁護士のツイートをたまたま見たのが、視聴のきっかけという趣旨のツイートは、別の機会にも行っていました。次のように。

2014-05-28-185454_HKの連続テレビ小説を見るようになったのは、「あまちゃん」の途中から、弁護士のツイートで母親役を批判していたのがきっかけ。.jpg pic.twitter.com/4qLHdziOit

問題のツイートは「0:59 - 2014年4月18日」が投稿日時になっていました。割と最近のことで、やはりどこか勘違いしたままツイートしていたのかもしれません。

まあ、そういうこともありうるということが勉強にもなったので、テキストのコピーよりスクリーンショットの撮影を多用するようになりました。

問題のツイートの内容は次のとおりです。

引用)→ 「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい不快感を抱いてしまう。少年事件扱っている他の先生方は平気なのだろうか。

私自身、昭和56年の8月28日の事件で、金沢少年鑑別所に入って、その時に担当になった家裁だと思いますが調査官の人の対応が、その後の岡田進弁護士の対応の理解に、相当の影響を受けたという経緯もありました。

昭和56年夏の終わりことで影響を受けたのは調査官のことだけではありません。けっこう前に書いていると思いますが、当時17歳だった七塚の少女MKと東金沢の少女MSのことです。その二人と被告訴人大網周一の4人で行った、加藤整形外科病院へのお見舞いに付き合ったときのことです。