告訴状2013(作成途中)_15

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:22:00

ちょっと長い説明にもなるかと思いますし、ストレートに掛けない分、多少ややこしくなるので後回しにしてきましたが、ついでもあるので先にこの説明を行っておきたいと思います。被疑者、被告人という立場で十分な弁解が出来なかった、大きな理由の一つでもあります。

まず、加藤整形外科の場所ですが現在も同じ場所にあるのではと思います。割と最近Googleマップで少し見た覚えがあります。神田か新神田にあった自動車学校がなくなっていたのに気がついた時とお名瀬だったと思います。

加藤整形外科の道路を挟んで向かい側には高中(たかちゅう)こと高岡中学校がありました。そこに中学校があるということも知らないでいたと思いますが、被告訴人多田敏明の話を聞いて初めて知ったようにも思います。

2014-05-28-192435_加藤整形外科 金沢市.jpg pic.twitter.com/YdId8Wz3EY

あらためてGoogleマップの地図を見ると、かなり斜めにずれた場所に高岡中学校はあるようです。ほぼ真向かいと思っていたのですが、確かに大豆田大橋の大きな通り沿いに住宅らしい建物はありました。

被告訴人大網周一ら4人で加藤整形外科に行ったのは昭和59年の10月ころだと思います。当時私は16歳で車の運転もしていなかったので、金沢の地図には明るくなかったのですが、覚えやすい病院名だったということもあり、あとになってその場所があの病院だと思い返したように思います。

病院にお見舞いというか面会に行った相手は、少女二人の知り合いで面識はなかったのですが、本人ではなく乗っていたというバイクには印象に残る記憶がありました。次の辺りの増泉の借家のような家の前によく停まっていたバイクだったからです。

2014-05-28-195628_第一島崎アパート - Google マップ.jpg pic.twitter.com/VqYWLUobPk

Googleストリートビューの使い勝手が悪くなっていて、バッテンマークが出て前進が出来ず、クリックをすると真っ黒な表示になっていました。それで場所の確認にも手間取ったのですが、この第一島崎アパートという辺りが、ちょうど昭和56年当時の被告訴人大網周一のアパートでした。

2014-05-28-200631_石川県金沢市増泉1丁目の昭和56年当時の記憶に残る風景.jpg pic.twitter.com/wgbbBuURER

次はGoogleストリートビューです。マウスホイールの拡大で確認したのですが角にあるのは「山上美容室」となっていて、唯一記憶に残る建物です。右手の小路が突き当りになっていて、その右側の一番奥に被告訴人大網周一のアパートがあったと記憶しています。

「山上美容室」の前の並びの通りですが、その美容室から参考画像に見える奥行きで、だいたい50メートルはどのところに問題の借家のような家がありました。暴走族のたまり場になっている家でしたが、ずいぶんと古い建物でまるで江戸時代の怪談を思い起こさせるような雰囲気の建物でした。

たぶん平屋だったのだと思いますが、それもずいぶんと天井が低そうな建物でした。江戸時代の武家屋敷は屋内で刀を振り回しにくいようにあえて天井を低くしていたとは聞きますが、民家らしい建物でそれらしいものをみたのは、後にも先にもその建物だけです。

二方向の通り道(反対方向は石坂(いっさか))の一つなので、よく前を歩いていましたが、その民家の前ではホンダのCB400Fがよく停まっていました。昭和56年の当時既に幻に近いような名車という感じになっていたと思います。

ホンダ・ドリームCB400FOUR - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0CB400FOUR

上記ホームページに情報がありましたが、1974年の発売だったというのは私自身初めて知りました。「生産台数はFOUR-Iが約1,000台、FOUR-IIが約5,500台とされている。」というのも知らなかったのですが、もともと数に限りがあって希少性が高かったようです。

当時はバイク好きの誰もが憧れるような、実際に見かけることも少ないバイクだったので、なおさら印象に残っていたというのもあります。

ある夜、その民家の前を通りかかった時、少女MKら6,7人が外に出ていて、民家を追い出されるとかなんとかと話をしていたのです。細かいことは憶えていないですが、それならという感じで、そのメンバーが被告訴人大網周一のアパートに転がり込むことになりました。

男というのは当時19歳だった岐阜の少年、私とは同い年だった羽咋郡富来町の当時16歳だったYYという少年。岐阜の少年に関しては現在名前も思い出せなくなっていますが、けっこう年上に見えていました。

少女というのは松任市の同い年のSKが同じく16歳だった他は、全部が17歳になっていたかは不明ですが、学年で私より一つ年長だと聞いていたように思います。七塚のMKと東金沢のMSをあわせて少女は全部で6人だったように思います。

転がり込んでから連日連夜の大騒ぎで3日目ぐらい8月28日の早朝に、通報を受けた金沢中警察署の警官が来て補導されました。新聞には13人と出ていたように記憶しています。ちょっと前にたまたま来た当時21歳かあるいは24歳ぐらいの穴水町出身の男も補導というか成人なので逮捕されていたと。

岐阜の19歳の少年は警察が来るとすぐにトイレに入って、そのまま逃走しました。それも10月ころだったと思いますが、入江のアパートで被告訴人浜口卓也に警察を装った訪問で、肝を冷やしていたのも記憶にありますが、その時は彼女と二人固まった感じで逃げようとはしませんでした。

その時付き合っていた彼女とは松任市の少女SKでした。他の少女はみな金沢市内と聞いていたように思いますが、七塚のMKは中村町の姉のアパートにも住まいをしていて、鑑別書を出てからはその姉のアパートにも遊びに行った記憶があります。

前にも少し書いているように思いますが、入江のアパートというのは七塚のMKが服役中の暴力団員に、鍵をもらって自由な出入りを許されているというアパートでした。何度かそのアパートで鑑別書を出た後もシンナー遊びをやっていた頃に、加藤整形外科病院に行ったのです。

8月28日、金沢中警察署に連れて行かれたのは男女13人で、小立野の少年鑑別所に家裁から連れて行かれたのは、少女一人のほかは、私と被告訴人大網周一、それと伽のYY,それと私より1つ年上のTAで、少女一人の全部で5人だったと思います。

午前中には金沢中警察署で取り調べを受けていましたが、午後になってバスに乗せられ、連れて行かれた先が家裁で、その後にはバスで鑑別書に連れて行かれました。まったく想像にもしない急展開でした。

私は全くの初犯でしたが、自分以外のシンナーの吸引を認めず、また警察が連絡をした母親がたまたま不在だったということで、一緒に鑑別書に送られたようです。独房に入れられた時は、正直涙を流しました。

鑑別所では28日以内に審判があって処分が出ると聞いていたと思います。私は母親が面会に来た時の態度が悪くて職員を驚きもさせたようです。それにニグロという細かいパーマの髪型にしていましたが、不利になるとは聞いていたものの髪型も変えず、切りませんでした。

少年院に行くことになるかもしれないと言われていたのですが、確か26日目に審判があり、試験観察という処分が出て、釈放というのは鑑別所を出されて自由の身になりました。当日の夕方遅くには宇出津に帰っていたと思います。

時刻は5月29日11時36分を過ぎたところです。再開します。

2014-05-29-112559_金沢家庭裁判所 Google マップ.jpg pic.twitter.com/L8sn1DSPhM

上記は金沢地方裁判所の建物をGoogleストリートビューでスクリーンショットしたものです。中程に見える3階建ての建物がそうだと思います。左手にみえる仮設の建物は新築工事中だった金沢地方裁判所の一部と思われますが、工事はだいぶん前に終わって新庁舎になっているはずです。

どうも2つまえの写真付きツイートを含むツイートが、投稿に反映されていないようです。

直接、ブラウザからTwitterに投稿をやってみたのですが、サーバ内部エラーが出ました。なにか問題のある文字列が含まれているのかもしれません。URLだけで試してみます。これでエラーがでるようならが、Twitterの仕様変更が考えられます。

pic.twitter.com/L8sn1DSPhM

なぜか今度はうまくいったようです。

2014-05-29-112959_金沢地方検察庁の周辺 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/wdptJdWeml

今度は問題なくうまくいったようです。前回の「2014-05-29-112559_金沢家庭裁判所 Google マップ」の投稿では、たまたまエラーで失敗をしたものの、投稿が成功したのと同じ情報が残されていて、重複した投稿と判断されたのかもしれません。

「金沢地方検察庁の周辺」をみれば一目瞭然かと思いますが、金沢地方検察庁と金沢地方裁判所は近くにあって、その間に挟まれるようなかたちで金沢家庭裁判所もあります。

金沢地方裁判所の前の建物と金沢家庭裁判所の建物の間には、お堂のような古い建物があって、それが金沢弁護士会の建物だったのですが、数年前の取り壊しになったようです。陪審員裁判が最後に開かれたとか、はっきりは忘れましたが、歴史的な意義もある建物だったと何かで見ました。

それと、昨夜のGoogleストリートビューで画面が黒くなるという現象ですが、Firefox固有の問題で発生していたようです。今日はGoogle Chromeでやってみたところ、以前通りにクリックで前進することができました。

金沢弁護士会の古い建物ですが、私はそこに出向いて相談する弁護士の紹介を受けたことがありました。平成9年の秋だと思いますが、その時に紹介を受けて事務所を訪問したのは、「畠山美智子弁護士」だったと思います。

2014-05-29-123921_畠山美智子法律事務所.jpg pic.twitter.com/lpSvZNxvfx

今度も投稿がうまくいったようでよかったです。尾張町に近い場所ということで私の記憶とも一致するような場所ですが、住所が大手町になっているらしく。これはいささか驚きました。大手町というのは自分が思っていた以上に範囲が広いようです。木梨松嗣弁護士の事務所も大手町だったかと。

当時は同じ頃に、西村依子弁護士、小堀秀行弁護士にも相談に行きました。西村依子弁護士に関しては、本書において既に記述をしているかと思います。畠山美智子弁護士と同様に、受任を断れたものの、相談料もいらないと言われました。

畠山美智子弁護士には主に民事裁判としての損害賠償請求について話をしたという記憶がありますが、なにか驚いた様子で、「あなたの方が詳しい」などとも言っていました。厄介払いに必死だったという印象もその場の場面として記憶にあるのですが、午後の時間で薄暗い状況だったようにも。

昭和56年の話に戻します。

2014-05-29-131538_告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所.jpg pic.twitter.com/LwbPFPdM5c

告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

Googleのマイプレイスという地図サービスを使って目印を作成しました。風船のようなマークが出ていると思いますが、見出しの部分にある色分けとマークの位置が対応しているはずです。加藤整形外科に関しては検索結果の住所位置から自分の地図に追加をしました。より正確かと思います。

マイプレイスのレイヤーを別にして「主に平成4年以降に関連のある場所」というマップを作成しました。以下はスクリーンショットとマップのURLです。

2014-05-29-134853_主に平成4年以降に関連のある場所.jpg pic.twitter.com/AeOzl6BXuA

告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

どうもレイヤーの表示の仕方を別にしても、URL及びリクエストパラメータの値は同じようです。ページのタイトルも同じです。

URLとタイトルのすべてが同じだったので、Twitterの投稿に失敗していたようです。面倒ですが、マイプレイスを別に作成しておいたほうが、あとあとの誤解や混乱を避けれるかもしれないです。

19時11分を過ぎたところです。しばらく中断していました。マイプレイスのコピーを試みたのですが、十分にはうまくいかず、そのあと母親の入院している病院に行く用事があったのでそれを済ませてきました。

マイプレイスというのはマイマップを新しくしたGoogleの地図サービスのようです。kmlファイルとして保存したり、それをインポートしたような経験はあったので簡単に出来ると思っていたのですが、マイプレイスではkmlの情報をそのまま読み込むことが出来ないようです。

マイプレイスの作り直しも考えたのですが、作成したマイプレイスのタイトル名とレイヤーの名前を変更することにしました。結果は次のスクリーンショットとWebページのURLのようになりましたので、今後はそちらの方を前提に説明を進めていきたいと思います。

2014-05-29-190840_告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所.jpg pic.twitter.com/WrluPbwBWK

告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

少し話題を変えますが、直近のこととして少し書いておきたいと思います。母親のいる病院の帰りに私が住む宇出津に一件だけのコンビニに立ち寄ったのですが、週刊文春はありませんでした。しばらくは他の週刊誌を眺めていたのですが、斜め向かいにある書店に行くことにしました。

コンビニの道路を挟んで斜め向かいにある書店は、梶川の橋の工事に伴って更地として撤去され移転した千間書店なのですが、現在は「千間啓文社」というお店の看板になっていました。移転してから一年以上は経つと思いますが、店に入ったのは今日が初めてでした。

「週刊文春 5月29日号」ではなかったかと思いますが、あるいは5月30日号で、開いてみたのですが、佐藤博史弁護士をタイトルにした記事は見当たらず、グラビアの一部としてPC遠隔操作事件に関する記事がちょっとだけ載っていました。

ここで調べ直したところ、自分の勘違いに気が付きました。千間書店には置いていなかった最新号が、佐藤博史弁護士に関するタイトルの記事を掲載したものであったようです。次のWebページです。

週刊文春2014年6月5日号 | 最新号 - 週刊文春WEB http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4006

私が注目し、普段支払い以外には滅多に行かないコンビニに立ち寄った目当ての記事のタイトルは「社会 片山被告PC遠隔・佐藤博史弁護士の拝金主義」です。いつ発売なのかわからないですが、ぜひこの記事には目を通しておきたいと考えています。

宇出津のコンビニでは、以前より沢山の種類の週刊誌が置いてあるように感じました。中には売り切れでたまたま見ていなかったというのもあるのかもしれません。

コンビニでは見かけなかったのですが、千間啓文社では週刊文春が2冊程度だったのに、週刊新潮は6冊か7冊ほど置いてあったので、これも少々意外に感じました。宇出津でもそれなりに社会の問題に関心を持っている人がいるからこそ、相応の数の雑誌の入荷があるものと想像されたことです。

週刊現代、週刊ポスト、アサヒ芸能、週刊朝日、他に名前は忘れましたが1冊か2冊の週刊誌にざっと目を通しましたが、PC遠隔操作事件の真犯人自供に関する記事の扱いは概ね小さく、そういうものだったのかという確認と納得が自分なりに出来たことを、書くておくというか報告しておきます。

宇出津の梶川の橋のたもとに千間書店があった頃、千間書店の真向かいには被告訴人大網健二と被告訴人大網周一兄弟の家がありました。中学生の頃までのことです。向かい合う道路に面した2階の部屋が被告訴人大網健二の部屋だった頃のことです。

夕方にその千間書店で漫画の立ち読みなどをしていると、被告訴人大網健二が顔を出し、話をしたり、そのまま彼の家に遊びに行ったような断片的な思い出も印象的です。昭和56年にも近い時期でした。

昭和55年ぐらいではなかったかとも思いますが、大網プロパンとしてガス器具の販売の店にもなっていた千間書店の真向かいの家の部分は、父親の借金のかたに売却されたらしく、スポーツ用品店になっていました。

裏の方にある大網自動車の整備工場を含めた家の敷地全体では3分の1か4分の1の部分だったと思います。数年後には自動車工場を含めた家の全体が売却され、整備工場のあった部分は解体のうえパチンコ店の駐車場になっていました。

そのパチンコ店は千間書店の隣でしたが、梶川の橋の工事に伴う移転の対象にはならなかったものの、2年ほど前に閉店し、そのあと解体され、現在はパチンコ店の経営者の住宅が新築されさほど日数が経過していないところです。

何年か前までは被告訴人である大網兄弟の家の建物の一部が現存していて、なにか選挙事務所のような看板が出ていたと思いますが、いつの間にか取り壊しになっていました。宇出津にはいたと思いますが、解体の工事の現場は見ていなかったようにも思います。

昭和59年の話に戻します。

新聞には一番大きな記事で、「シンナー吸って大騒ぎ」というような見出しになっていたと思います。昭和56年8月28日の早朝に金沢中警察署が踏み込んで補導された事件でした。

その数時間前だったと思いますが、たまたまという感じで、当時、金沢高校の学生だった被告訴人大網健二が寿司屋の出前持ちをしていた同級生と二人で、増泉の被告訴人大網周一のアパートに遊びに来て、被告訴人大網健二もシンナー遊びを始めたのです。

被告訴人大網健二にしてみても間が悪かったというか、それで人生の軌道が大きくずれたとも思えます。金沢中警察署が踏み込んだ時、その場にいたので被告訴人大網健二も補導されたのですが、私が鑑別所を出ておよそ一月ぶりに再開した時には、金沢高校を退学になったと聞いていました。

頻繁に被告訴人大網健二の家に遊びに行くようになったのもそれからのことです。金沢高校を退学になったことで被告訴人大網健二も宇出津に戻って家で生活するようになっていました。被告訴人大網周一も私が鑑別所を出た2,3日後には同じく試験観察という処分で自由の身となり宇出津に戻りました。

被告訴人大網健二は保護観察の処分になったと聞きましたが、その保護観察は被告訴人大網健二が二十歳に近くなる頃まで続いたようで、保護司のところに行ってくるという話は、昭和59年ころにも聞いていました。

被告訴人大網周一と同じ試験観察という処分でしたが、私の場合はその昭和56年の12月ころには再度審判があって、不処分という結果が出たので保護観察になることもありませんでした。

調査官の人の名前は忘れてしまいました。割と近年までは記憶にしていたようにも思いますが、今現在は少しも思い出せません。初めはずいぶんと厳しく熱のこもった対応を受けたのですが、終わりには優しい言葉も掛けられ、不処分ということにもなったのです。

その調査官とは試験観察後の審判が出る前、七尾市の家庭裁判所で面接したことも憶えています。より印象的だったのは被告訴人安田敏とその母親と、待合室で顔を合わせ話をしたことです。

その時、様子がおかしいとは感じたのですが、2ヶ月ほどあとかと思いますが、シンナー遊びで発狂して松原病院に入院したと聞きました。待合室であった時は、やせ細って青白い顔色で幽鬼のような様相を漂わし、言動にもおかしなものを感じていました。

七尾市の家庭裁判所の待合室での被告訴人安田敏の母親の姿も、友だち関係に敵意を向けるようなものが感じられ、母親に会ったのはそれが一回限りでしたが、複雑に印象に残っていました。本当はとても優しそうな母親というイメージもありました。

その被告訴人安田敏の母親のイメージというのは、活字以外にまったく情報が無いですが、私の中ではPC遠隔操作事件の片山祐輔被告の母親のイメージに重なるところがあり、佐藤博史弁護士に人生を翻弄、利用されたというイメージも強いです。

私の家裁の調査官はいろいろと情報を得た上で、私に面接していたのだと思いますが、厳しいだけではなく大仰とも思える態度でした。心底驚いているようにも見えましたが、それは当時の宇出津近辺の私を取り巻いた環境というのも大いに影響していたのではと思われます。

簡単に説明は出来ませんが、時代の変化という意味でも昭和56年当時の宇出津近辺と現在の宇出津近辺とは隔世の感があります。つくづくどうなのかと考えるぐらいの様変わりでもあります。

他にも、昭和56年に取り調べを受けた金沢中警察署の取調室は机や壁の一面が傷だらけで、物凄いものがあったと強い印象が残っています。鑑別所も似たようなところがあって、独房は主に彫刻刀で掘られたような落書きだらけでした。

「ドテチン、瀬戸少にいく」というようなものもあったと記憶に残っていますが、つまり愛知県の瀬戸少年院に行くということと思われます。他にも山口組系一会北友会というような所属と思われる暴力団名も多かったと記憶にあります。

初めは独房に入れられて涙も流した鑑別所での生活でしたが、10日ほどで雑居房に撮され、けっこう楽しく過ごしたという思い出のほうが、正直強くもあります。丸ごと骨付きのサバの唐揚げには驚きましたが、週に一回の白米のカレーライスがとても美味しかったという思い出もあります。

いきなりですが、先ほど次のようなことをやりました。

2014-05-29-211135_その人権ということで、私はモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)ことあなたを名誉毀損で石川県警に告訴する必要性を感じ、.jpg pic.twitter.com/lPUhFPuUmZ

現在の時刻は5月31日の14時05分を過ぎたところです。買い物のついでに立ち寄った新しく出来た宇出津の図書館でノートパソコンの持ち込みが許可された聞き、早速持ち込んでみたところです。インターネットにはスマホでWi-Fiデザリングというのをやってみました。

家のほうが午後になると西日が強くてかなり暑くなります。昨日も輪島で31度を超えたとか話が出ていました。

Aコープ能都店での買い物の前に立ち寄った時には北國新聞の縮小版で昭和56年当時の記事を見ました。一つは昭和56年8月28日の夕刊になっていました。記事の内容も自分が見たものとは少し違ったような気もしたのですが、左側の方に2番めに大きい扱いという感じになっていました。

いずれにせよ私がその記事を見たのは鑑別所を出た後のことで、誰かから見せてもらったのだと思います。あるいは北陸中日新聞の記事を見ていたのかもしれませんが、個人的には北國新聞しか読むことがなく、家で購読していたのもずっと北國新聞だったと思います。

ただ、夕刊というのは家で購読したことが一度もなく、他にも夕刊を目にする機会というのは少なかったと思います。

もう一つの記事というのは少女の暴走族の摘発のものでした。これは自分が見た記事とも一致する感じでしたが、やはり9月の終わり頃の記事になっていました。顔から下の少女の写真が七塚のMKだと説明されながら誰かに見せてもらった記事でした。

その記事の内容には河北郡出身で金沢市中村町に住む少女がリーダーで、同じアパートの住む同じ河北郡出身の少女がサブリーダーということになっていました。同じアパートに住んでいるような書き方になっていましたが、MKがサブリーダーという話は仲間内でも聴いてはいました。

MKも中村町のアパートには住んでいたようですが、姉のアパートに居候しているという話だったので、少し記事に間違いがあるような気もしましたが、リーダーと思われる少女は少女の中でただ一人、私達と一緒に鑑別所に連れて行かれた少女だと思いますが、河北郡という話は聞いていなかったかと。

鑑別所を出た後もそのリーダーという少女には一度も会うことがなかったと思います。うわさ話は少し耳にしていたようにも思いますが記憶にはありません。また、記事によると鑑別所を出てすぐに暴走行為で補導されたような書き方もされていて、これも記憶にはなかったことです。

本当は他にリーダーという少女がいるようにも聞いていたのですが、実際会ったことはなかったです。ただ、私が鑑別所にいる間のたまり場では、顔を出すことも会ったと聞いたように思います。

8月28日の夕刊には高校生が一人含まれていたと書いてありましたが、これは被告訴人大網健二のことだと思います。本人から金沢高校を退学になったとは聞いていましたが、かなり早い時期に学校に行かなくなり宇出津に戻ってからも、宇出津の友人を連れて、金沢のたまり場に遊びに行っていたようです。

告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

上記のマイプレイスに「鑑別所を出た後たまり場になっていた古いアパート」という印をつけましたが、これは私が鑑別所を出た後に何度か遊びに行ったアパートでした。

その古いアパートは金沢中警察署が踏み込んだ時に便所の窓から逃走した岐阜の19歳の少年の友達のアパートのようでしたが、近くの自動車修理工場か板金工事に通っているらしく真面目に仕事をしているような人でした。

たまり場がそこに移る前も、被告訴人大網健二らは頻繁に金沢に遊びにゆき、他に補導されたメンバーらと遊びまわっていたような話でした。細かい話を聞いたようにも思いますが、記憶にあることは少ないです。

その金沢のたまり場に被告訴人大網健二が連れて行ったというのは、HMや神野のKMです。神野のKMに関してはこれまでも何度か書いていると思いますが、山水運輸にも働いています。私は昭和60年の5月ころまで付き合いがあったのですが、ちょっとあって絶縁関係になりました。

神野のKMはUTという少女と付き合うようになり、そのうち金沢市大額のアパートで同棲するようになっていました。UTは宇出津の私の家の近所でもありますが、被告訴人大網健二の妹や妻となったOMとは同級生であり、仲の良いグループでした。

被告訴人大網健二の結婚式でUTの姿を見ましたが、姿を見たのもそれが最後だったと思いますし、神野のKMの話も聞かなくなっていきました。UTと結婚したとか、子供が生まれたような話も聞いてはいたように思います。

HMも私の同級生ですが小木分校に通っていた昭和55年当時もよく遊んでいました。ほとんどの場合一緒にいたのがHSでした。二人とも小木分校の受験に落ちて水産高校の本校の方に通っていたのですが、乗船実習に行くのが目的だから実習に行ったらすぐに学校をやめるとは話していました。

その言葉通りに実習から戻るとすぐに水産高校をやめたようですが、時期ははっきり思い出せません。水産高校の機関科と漁業科には加能丸での乗船実習があり、3ヶ月ほどハワイやシンガポールに行くことになっていました。成績の良い生徒がハワイと聞いたようなこともありました。

二人とも初めに小木分校の無線通信科を受験していたはずなのですが、無線通信科と本校の製造科には乗船実習はありませんでした。製造科は9割以上のほとんどが女子という特徴もありましたが、無線通信科は4分の1ぐらいの割合で女子がいました。

HMとHSはいつも一緒に行動していましたが、被告訴人大網健二が連れて行った金沢のたまり場に入り浸りになって、家出のような状態になったと聞きます。実際に、心配した父親と母親があちこち探しまわっていました。

HMもHSも水産高校をやめたのはほとんど同時期だと思うのですが、金沢で遊びまわるHMにHSはついていけなくなった感じで、愛想も尽きたようです。他にもなにかあったのかもしれませんが、その辺りを境にHMとHSが一緒にいる姿も見かけなくなりました。

両親がとても心配してあちこち探しまわったことで、周囲に迷惑を掛け、またそれに対する態度も悪かったのかと思いますが、HMの姿自体を見かけなくなり、話も聞かなくなっていきました。結果的にかえって真面目な生活をするようになったのかもしれないですが、情報もなかったのでわからないです。

今年の2月ころに、宇出津で仕事をしているという話を聞きましたが、海に近い仕事場と聞きました。前を通りかかることも多いですが、確認しようと考えてこともありません。ヤリイカ釣りの堤防で同じく昔の知人から聞いた話です。

HSとはその後も付き合いは続きました。免停の講習に観音堂の運転免許センターに行き、講習中の態度が悪いと注意を受け、乗ってきていた車に乗って帰ろうとしたところを、無免許運転として摘発され免許取り消しとなりました。

さらに金沢市馬替の従兄弟のHSさんのアパートで、HSさんの車ではなかったかと思いますが、その車の運転を始めて蛇行運転をしていたところ、民家の車庫に突っ込んでそれを突き破り、となりのブロック塀にぶつかって車を大破させたのです。その時私は助手席に乗っていたのですが怪我はなかったです。

そんな事故とかで車のローンなどの借金がかさみ、嫌々ながらやむなく小木港の遠洋漁船に乗ることになったのです。漁師になってから友だち関係も正確もだいぶん変わったとも思いますが、被告訴人浜口卓也との関係も親密になっていたのが、特に印象的でした。

その後、2,3年は漁師をしていたのだと思いますが、昭和61年のはじめぐらいを境に、会うこともなくなっていたと思います。それまではたまにアパートに訪ねても来ていたのですが、私の方の付き合いが悪かったので、そのうち来なくなったようにも思います。

久しぶりに会ったのが、本書において既に書いていると思いますが、従兄弟のHSさんの結婚式の会場の外でした。建物の2階で、私は長男だけを連れていた場面を記憶しているのですが、被告訴人大網周一の姿も記憶に残っています。

その時、従兄弟のHSさんと結婚したのが姫のDMで、被告訴人大網健二の妹や妻の同級生であり仲の良いグループのメンバーでした。

被告訴人大網健二がお盆休みに神戸から来た時も、夜に初めに会ったのは金沢市八日市のHSさんとDMが同棲しているアパートでした。そのアパートの建物には、他にも年の離れた宇出津の先輩が住んでいると聞いていたようにも思います。

あるいはMSさんがそうだったかもしれません。アウディが何とかという話も少し頭に残っています。MSさんは今でも宇出津で顔を合わすことがありますが、平成9年の2月ころか、被告訴人大網周一や被告訴人大網健二と家に遊びに行ったのが、印象に残っています。

平成9年になると同級生のHSは、金沢の被告訴人大網周一の鳶職の会社でナンバー2のような立場になっていました。被告訴人大網周一とはそのかなり前から親密な関係が続いていたようです。

金沢市内の上荒屋に家を立てて住んでいると聞きましたが、それも被告訴人大網健二がかなりの世話をしたような話でした。

それより前で、あるいは平成4年より前だったという気もするのですが、従兄弟のHSさんも被告訴人大網健二に不動産か住宅のことで世話になったような話を聞いたように思いますし、ほかにもそういうのがけっこうな数あるように聞いていました。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-155457_被告発人HTNの運送会社の駐車場.jpg pic.twitter.com/n7oNmP1Mk3

だいぶん前に作成したものですが、マイプレイスのURLと該当箇所のスクリーンショットです。被告訴人大網健二からその駐車場の話を聞いたのは平成9年7月に金沢に出てから、だいぶんあとのことでした。その前は一緒に何度も車で通っていたはずなのですが、教えられるまで全くしらなかったです。

被告訴人浜口卓也が市場急配センターで配車係をしているという話は被告訴人大網健二の口からも聞いていたと思いますが、トラックの駐車場があるということはすでに独立していたことにもなるはずです。

そのトラックの駐車場は周りのほとんどが空き地だったので、けっこう目立っていました。保冷車か冷凍機付きと思われるトラックが多い時で5台以上はいたような気がします。2トン車と4トン車がいたと思いますが、いずれも塗装をしていないのか白い色のトラックでした。

双葉湯のすぐ近くでもありましたが、その辺り一帯は昭和59年ころにくらべるとすっかり様変わりしていました。双葉湯自体は、一度、松浦さんと愛知県のK村さんの3人で風呂に入った思い出があるぐらいなのですが、すぐ近くには金沢市場輸送のつけもきく、飛鳥食堂がありました。

松浦さんというのは今までMなどと実名を書かずに来たと思いますが、事案解明の重要度の高い人物なので実名ということにしたいと思います。下の方の名前ははっきり思い出せないのですが、漢字2文字で上のほうが健だったようには思います。

初めに金沢市場輸送でイワシのダンプに乗るようになった人物です。平成9年の11月の20日ころの会見で、労務の担当者として話を聞く必要があると同席した堂野さんも松浦さんの紹介だと聞いていました。

その松浦さんの愛人という女性の息子で、金沢市場輸送に入社し市内配達の仕事をするようになったのが、重大なキーマンの一人である被告訴人安田繁克です。被害者AAさんの元彼氏という話にもなっていましたが、事実自体を捏造していた可能性がすこぶる濃厚です。

K村さんに関しては匿名にしておきます。私が金沢市場輸送に2度目に入社した昭和61年の8月の時点には既にいたように思いますが、長距離運転手として大型車に乗務していました。

イスズの7180号という10トン保冷者に新車で乗務したのもK村さんだったと思います。イワシのダンプよりはだいぶん前に入っていたように思いますが、同じくイスズの新型車でした。ただ、その前となるとK村さんがどのようなトラックに乗務していたのか思い出すことが出来ません。

松浦さんに負けないぐらい暴力団というかヤクザものらしい感じの人物でしたが、彼も被告訴人竹沢俊寿がヤクザをやっていた頃の組員だったとも聞きました。もっとも松浦さんは少年にも近いような若者で、すぐにいなくなったような話も聞いたことがありました。

K村さんは運転手の間でも評判が良くなかったですが、キレやすいタイプであるだけではなく、異常な行動もちらほら耳にしていました。福井県の敦賀市から京都府の舞鶴市にかけて国道27号線というほとんど対面通行の国道があるのですが、反対車線で追い越しを掛け続け対向車が反対側に出て避けるとも。

K村さんはイスズの新車に乗務していましたが、高速道路の走行ではクラッチを踏まないでギアチェンジをしているとも聞きました。この話は山田さんに聞いたと思いますが、万一ギアが壊れてエンジンにロックが掛かったらどれほどの惨事になるものかと、想像してみたこともありました。

金沢の市場の鮮魚の売り場で、上半身裸になって入れ墨を見せ暴れ、大勢に袋叩きにされた挙句、市場の人の仮設の小屋のような建物を、フォークリフトで持ち上げたというような話も聞きました。これで出入り禁止になったという話も聞いたかもしれません。

大きな犬を連れて事務所にいる姿も見かけていました。テレビ化何かで見たフランダースの犬のような大人しそうな救助犬のような犬でしたが、長距離のトラックにも同乗させ、本当かどうかわかりませんが、気分が悪くなってくると憂さ晴らしで殴りつけているというような話も聞きました。

そのうち会社で姿を見かけなくなって、なにやら会社や被告訴人竹沢俊寿らともめているような話は聞いていたのですが、そのうち事件を起こし新聞にも出たようです。

その事件というのは、金沢市場輸送の駐車場に停まっていた多数のトラックか乗用車のタイヤを千枚通しのようなものでパンクをさせたというものでした。トラックと乗用車どちらが多かったのかも思い出せないですが、私の車かトラックのその場に駐車されていたものの被害はなかったのです。

なにか逆恨みの犯行のような話にはなっていましたが、耳に入ってくる情報を吟味しても不可解さの残る腑に落ちない話でした。その頃にはずばりトラックを運転しながら覚せい剤をやっているという話も耳にしていましたが、覚せい剤に関しては不思議と大きな話にはなっていませんでした。

その金沢市場輸送の駐車場というのは、丸北青果の道を入った後に金沢市場輸送の事務所が出来た辺りにあった駐車場です。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-165519_金沢市場輸送の事務所があった場所.jpg pic.twitter.com/SFHaTaTlh3

ちょっとTwitterとの連携に齟齬が生じ、順序が入れ替わってしまいました。投稿したつもりがしていなかったのかもしれません。

上記のスクリーンショットを見ていただければわかると思いますが、丸北青果の間の道に入ると、現在は十字路の先が左斜めの鋭角になっていてその角が金沢市場輸送の新しい事務所になっていました。建物自体は現在もそのまま残っている可能性が高いと思います。

以前はその十字路がまっすぐに伸びていて、左右が田んぼか畑になっていて、畦道という感じもするぐらいでした。その十字路の先の左手に金沢市場輸送の駐車場があったのですが、舗装もされていないような駐車場でした。砂利がしいてあったような気もしますが、水たまりもあったような。

時刻は17時56分を過ぎたところです。図書館は17時まででした。またAコープ能都店で少し買い物をして帰ってきました。家にいるよりは集中できると思いましたし、暑さもましでした。まだ本格的に冷房の入る時期にはなっていないようですが、温度調整はされているのではと思います。

家の方も天気が良い割には、昨日、一昨日とくらべると暑さはだいぶんましなように感じます。さほど気温は上がらなかったのかもしれません。テレビでは大分県で35度以上の猛暑日になったとか、NHKで行っているところです。

熱中症の疑いで2人が死亡とも出ていました。5月としては記録的な暑さとのことですが、冷房のない生活なのでこの夏も体調に気をつけながらなんとか乗り越えないと思います。

さて、ぼちぼち続きを書きたいと思います。

K村さんに関しては姿を見なくなってだいぶん経ってから、また金沢市場輸送に復帰知るかもしれないという話を聞きましたが、それは実現せず、その後忘れられた存在になっていたと思います。

そんな頃になって初めて、愛知県の瀬戸市にいるということを聞きました。それまでは名古屋の人とか愛知の人という話は聞いていたと思いますし、普段からかなり訛りの強い名古屋弁のような話をしていました。私自身、昭和57年にしばらく名古屋で生活したことがあったので、馴染みもある方言でしたが。

そういう話は被告訴人池田宏美の口から聞いたような気もしています。池田といっても当時は違った名前だったと思います。初めは吉村と名乗っていたように思いますが、本人が4度目の結婚で池田という姓になったと話していたぐらいですから、あるいは私が知る間にも3回変わっているのかもしれないです。

K村さんが戻ってくるかもしれないという話を聞いたのも、まだ西念町の中央市場前に金沢市場輸送の事務所がある頃で、その2階の事務所の中で話を聞いたという記憶が残っています。二口町に事務所が移ってからは、話題にすら聞いていないような気がしますが、特異な存在感がありました。

金沢市場輸送の事務所が移転する前だったと思うのですが、一時期50メートル道路の一部を臨時の駐車場のように使っていた時期がありました。会社から指示が出てそうしていたのだと思いますが、なぜなのか深く考えることもなかったと思います。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-183354_臨時の駐車場だった場所.jpg pic.twitter.com/2E5UIm0cIe

上記のスクリーンショットは、久しぶりにログインして編集で追加した印のものです。重なっていてわかりづらいと思いますが、交差点の名前は「駅西本町一丁目」となっています。金沢駅の西口から国道8号線バイパスに伸びる一直線の広い道ですが、50メートル道路とも呼ばれていました。

「駅西本町一丁目」という名称は記憶にないですが、中央市場の方向から来ると十字路ではなくT字路の交差点になっていました。バイパスの方から来るとその交差点の手前で、道路が半分か3分の1ぐらいに分かれ、左側の部分が臨時の駐車場のようになっていたのです。

道路の車線との分岐点はガードレールで仕切られていたようにも思います。道路全体が拡張工事の途中だったようにも思うのですが、詳しい状況は記憶に残っていないです。

中央市場の方角から来たT字路の突き当りには6階建てか7階建てぐらいと思われるマンションがありました。けっこう古い建物に見えましたが、一階には喫茶店のような店があって、夜は飲み屋になっているような話も聞きましたが、竹林が常連にしているとも聞いていました。

私も一度、その喫茶店には入ったように思うのですが、竹林に連れて行かれたもののそれは昼間のことであったと思います。そこで酒を飲んだという記憶はないですし、夜にも入った記憶がありません。

その店では金沢市場輸送の社員同士のトラブルがあって竹林が殴られたような話も小耳にはさみましたが、詳しいことはわからず、誰かに尋ねるようなこともしませんでした。

あるいは竹林以外の、二人の間での諍いであったかもしれません。SSとYTが心当たりの人物ではあるのですが、ずいぶんと前のことで思い出すこともあまりなかったので、ちょっと思い出せなくなっています。やはり竹林が殴られたという話だったとは思うのですが、相手がはっきりしないです。

YTに関しては竹林のことを「ちくりん」と呼んでいましたが、特に折り合いが悪かったとも思えません。SSも同じイワシの運搬の仕事で金沢港で仕事をしていたので、そう折り合いが悪かったとは考えにくいのですが、この二人以外には該当者がなかったようにも思います。

時刻は6月2日10時54分を過ぎたところです。ここ2,3日長めの中断をしていたと思いますが、ようやく期待以上の収穫を得ることが出来ました。それはプレゼンテーションの活用です。URLの紹介とともに内容のテキストの部分は本書と連携させたいと思います。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/市場急配センター編 - Google スライド

https://docs.google.com/presentation/d/1paR5XyQxpFQe3Gv_lLX5przUwzyo2bNwcdQOxqIhGJk/edit#slide=id.p

あと二文字の142字でエラーが出て告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)に投稿できなかったので2つに分割をしました。大事なところなので短縮URLと併せたタイトルも掲載しておきます。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/市場急配センター編 - Google スライド http://bit.ly/1okxUdk

Google スライドというプレゼンテーションのサービスを使います。初めは同じGoogleの表計算のサービスでいろいろやっていて、行き詰まりもあり悪戦苦闘していたのですが、プレゼンテーションの方をやってみたところ、しばらく勉強すると予想以上に活用できそうだと思いました。

画像や写真、動画、それにURLリンクを交えた説明に特化したのがプレゼンテーションだと思います。裁判員制度でも活用されているという情報は見かけていました。

本書においてこれまで主にTwitterの写真投稿を活用してきましたが、画像の表示サイズとファイルとしての保存にも難があります。

それ故にPicasaウェブアルバムを併用してきたのですが、本格的なGoogleサービスの活用となればいっそのことGoogleドライブに含まれる他のサービスにも目を向けたのです。

初めにとりかかっていたの次の表計算です。同じGoogleドライブの表計算を使って公開をしています。ついでなので先にご紹介しておきたいと思います。

「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中」の記事一覧リスト - Google スプレッドシート

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1Eb0nNzmolB0WmPzK7ULhFSc1qMhWqu00npLwnF3Xlfk/edit#gid=32882546

「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中」の記事一覧リスト - Google スプレッドシート http://bit.ly/1okALTE

現在985件の記事のリンクデータがあるようです。ブログの記事のリンクの一覧ですが、こういうのは情報として入手がしづらいものです。

Googleclのコマンドや何か他の方法でもタイトルとURLの組み合わせを取得できるのですが、どちらも最近の500件までという制限があるようです。

初めはLibreOfficeのcalcという表計算ソフトでGoogleclコマンドで得た情報を読み込んだのですが、URLの部分が自動でリンクにならなかったのです。マクロやlibreoffice basicというプログラム言語を使ってなんとかしようとしたのですが、自動処理はうまくいきませんでした。

プログラムの自動処理としてリンクを生成する関数のコードも生成したのですが、コードとしては実行評価されず、単なるテキストになっていました。

LibreOfficeでURLに自動でリンクをつけるのはオートコレクトという機能なのですが、マクロを含めた自動処理では適用されないようでした。ちょっとした編集を加えるとリンクがつくことを発見したのですが、調べたネットでの情報も少なく、たまたま幸運な発見のようなものでした。

1000件弱のデータに一つ1秒も掛からない処理でも、相当の手間と時間がかかるということも再認識しました。効率の悪いことは他にもやっているなと考えながら、プレゼンテーションの活用に本気で取り組んでみようという気持ちにもなったのです。

LibreOfficeのcalcのデータはGoogle スプレッドシートでインポートしました。本当は同じLibreOfficeのプレゼンテーションソフトのImpressのデータもインポートするかたちにしようとやってみたのですが、画像ファイルが読み込まれていませんでした。

パワーポイントという有名なプレゼンテーションソフトのpptxというファイル形式に保存したものをインポートとしたのですが、ローカルの画像ファイルだとリンクが切れるのかもしれません。プレゼンテーションのファイル本体に埋め込まれるのではないことが考えられます。

時刻は15時55分を過ぎたところです。天気は良いですが余り暑くはないので助かります。この時間、Google スライドでいくつかのスライドを作ってみたのですが、そのスライドのURLをスライドのタイトル名とともに取得する方法を作り出しました。次のような感じです。

※ マイ フォト>資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ

https://docs.google.com/presentation/d/1paR5XyQxpFQe3Gv_lLX5przUwzyo2bNwcdQOxqIhGJk/edit#slide=id.g3489f7d54_4336

※ マイ フォト>資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ http://bit.ly/1u7oWDQ

URLが長いので今回もTwitterの一つのツイートには文字数がおさまりませんでしたが、URLというのは意味のある情報なので、なるべく短縮URLは使いたくないのです。

一つのリンクの紹介に3行、3つのツイートを要してしまいましたが、これも無駄があるのでこれからは短縮URLを使った場合、補助的に次のツイートに本来のURLだけを掲載していきたいと思います。

Google スライドではGoogleアカウントにログインしていて編集可能な状態だと、スライド内の文字列を範囲選択していると、キーボードの操作で文字が置き換わってしまいます。これは困るのでいったんクリップボードにコピーした文字列をタイトルとして使うようにしました。

ブラウザでの処理を行うのはJavaScriptというプログラム言語です。これにキーボードのショートカットを割り当てています。具体的には<F12>cがクリップボードの内容を使ったものです。プログラム中には次のような部分があります。

var txt = "※ " + pasteText + " " + d.location.href;

変数に値を設定しているのですが「※ 」という二文字と取得したクリップボードのテキスト、それに半角スペースをはさんで、取得したURLを加えています。肝心なのは「※ 」の部分ですが、本来のWebページのタイトルとは区別するため、このような印を使うことにしたのです。

Google スライドを使っていて気がついたのですが、スライドというのはプレゼンテーションにおける一つのページになっていて、それが固定URLになっていて、スライドの順番を変更しても変わらないようなのです。本来は変更を加えるとURLも影響を受けることが多いかと思います。

これは実に好都合かと思いました。事実上独立した一つのWebページのような扱いができるからです。一枚のスライドには先にも説明したとおり、写真や図形、動画、リンクなどテキストはもちろん、さまざまな形式の情報を詰め込むことができるからです。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/金沢弁護士会編 - Google スライド http://bit.ly/T6HaYY

https://docs.google.com/presentation/d/1BbD4rowIMfMugZGBRxRJmI7y_Wygl_9G9Xvxs8__fWY/edit#slide=id.g3894a05f1_2_18

※ マイ フォト>告訴に至る経緯と資料及び社会の反応/金沢地方検察庁御中/金沢弁護士会 http://bit.ly/1kAkGVR

https://docs.google.com/presentation/d/1BbD4rowIMfMugZGBRxRJmI7y_Wygl_9G9Xvxs8__fWY/edit#slide=id.p

時刻は6月3日10時45分を過ぎたところです。いろいろと起訴を固めた上で取り掛かりたいと調べたり考えたりしてきたのですが、その一つとしてPicasaウェブアルバムの活用の一部を次のように変更をすることとしました。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/DgRfAJ

これまで上記のアルバムに非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の写真付きツイートと同時に対象ファイルのアップロードをしてきました。このやり方自体は変えないのですが、なるべく早い時点でアルバムの移動をすることで固定的な整理することにしました。

そっそくですが、次の2つのアルバムを作成し、そちらにデータの移動を行いました。各ファイル名には頭の部分に年月があるので、それに他意をした形で振り分けを行います。これはPicasaウェブアルバム上での手動の作業になります。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット 2014年5月分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20145

告訴状の内容に関連したスクリーンショット 2014年6月分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20146

何年何月分というアルバムに移動させた時点でウェブ上でのデータの位置を固定された扱いにすることにし、URLを参照したいと思います。それに伴い、次のような形式でデータを参照したいと思います。これもURLの取得際にプログラムの処理を施したものです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え」とか言われることがありますが.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20146#6020507137007680082

これにともない、これまでとは違う告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)への投稿法を採用することにしました。上記のタイトルとURLは172文字あって、編集中のEmacsから呼び出している自作のプログラムでは文字数オーバーのエラーが出て投稿できません。

本来Twitterは140文字という制限があってそれ以上の文字数の投稿を受け付けないのですが、URLに関してはここ一年ほどの間かとも思いますが、大きな仕様の変更があったらしく、ツイート上の文字数とは別の扱いとして、処理することになったようです。

以前はTwitter独自の短縮URLのようなものもありましたが、詳しいことはわからないものの内部で紐付けのような処理が行われているのか、実質的に短縮URLの文字数のような扱いで投稿が出来るようになったのです。

2014-06-03-110943_実質的に短縮URLの文字数のような扱いで投稿が出来るようになったのです.jpg pic.twitter.com/nJYdNfWtAi

言葉では説明しにくい部分もあるので、上記にスクリーンショットをご紹介しました。マウスオーバーをすることで、本来のURLが確認できるという仕様にもなっているようです。

次にPicasaウェブアルバムでの説明をします。先ほどの例で「Picasaウェブアルバム) 」という冒頭の部分が私がプログラム的に自動で付加したものです。Emacsでは「行頭接頭辞」という言葉も見かけた経験がありますが、そんな辺りも参考にしています。

次に「ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え」とか言われることがありますが.jpg」という部分ですが、Picasaウェブアルバムで範囲選択した文字列の内容をプログラム的に使っています。

2014-06-03-111721_ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え.jpg pic.twitter.com/hHErG48mEl

これも説明のため上記にスクリーンショットを用意しました。右上の方に文字列が反転している部分が、範囲選択の状態です。スクリーンショットのスクリプトも範囲選択中の文字列を利用しているので、そのまま使われています。

ちなみに利用者が圧倒的に多いWindowsパソコンではコピーした文字列はクリップボードとして管理されますが、Linuxではクリップボードとは別に、範囲選択した文字列をセレクションとして、扱うことが出来ます。中ボタンクリックで貼り付けとかですが、プログラム的にも利用できます。

時刻は6月11日11時31分を過ぎたところです。またしても長い中断になりましたが、作業環境としては大きな進歩改善がありました。

改めて確認したのですが、この項目は5月1日からの記述になっているようです。このあたりも改める必要があるかと思いますが、今後はブログとの連携も強化し、全体的な見通しを良くしたいと考えています。

項目をブログの一つの記事に対応させるわけですが、その項目の数も一日に2,3以上を目標にしたいと考えています。項目の数が増えるということは自ずと、内容の細分化にもなるかと思います。方針の転換ですが、他にも色々と考えており、すでに実行していることもあります。

連携している告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)で確認したところ、6月3日以来の再開のようでした。どうもアカウントの切り替えを忘れたままリツイートしていたものもあったようです。

突然ですが、「ガラス張りの庁舎に感動 地裁を小学生が写生」をいうのをテレビでやっています。石川県内ニュースのようです。新庁舎を正面から見たのはテレビでの映像でも今回が初めてでした。

6月6日の午後に光通信の工事がありました。住んでいる能登町で開設、工事費等が無料ということで申し込んでいたものです。

それまでのADSL回線と比較してさほど大きな違いは感じてはいないのですが、アップロードは劇的に早くなりました。特にYouTubeでの動画のアップロードでは大幅に速くなりました。アップロードよりその後の動画の処理に時間がかかるので、閲覧できる状態になるまではそこそこ掛かりますが。

偶然ですがさらなる特典のような感じで、パソコンの画面を録画するソフトで、すごく使い勝手のよいものをたまたま見つけることが出来ました。以前はかなり時間をかけて調べても見つけることができなかったものです。

それまではずっとrecordmydesktopというソフトを使っていたのですが、ogvとかいうファイル形式でしか保存できず、それも処理にずいぶんと長い時間が掛かり、ファイルサイズも大きなものでした。ごく短いものでも60MB以上はありました。

さらにogvだとYouTubeでは扱えないので、ffmpegというコマンドを使ってflvのファイルを別に作って、それをYouTubeにアップロードしていました。ファイルサイズはogvの半分程度で、処理の時間も割と早くはありましたが、手間とパソコンへの負担も気になる作業だったのです。

新しく見つけた動画キャプチャのソフトではほとんど時間も掛からずmp4のファイル形式として保存でき、mp4だとそのままYouTubeにアップロードすることも出来ます。ただ、アップロードしたあとの処理に時間がかかるので、flvにしてからアップロードした方がいいのかとも考えています。

以前のものを含めると次の動画を3つめのGoogleアカウントにアップロードしています。URLと文字数の関係で、直接、Twitterに投稿します。

2013-10-13_PythonスクリプトでPicasaウェブアルバムにアップロード,http://www.youtube.com/watch?v=hmXEm-Nkor8&feature=youtube_gdata

スクリーンショットを作成して写真付きツイートするスクリプトの実行の動画,http://www.youtube.com/watch?v=YPjMi9evglg&feature=youtube_gdata

金沢弁護士会_Google検索\2014年6月3日,http://www.youtube.com/watch?v=RNIIawJ7DJ0&feature=youtube_gdata

刑事司法の基本を少し勉強された方がいいでせう/ジャーナリスト江川紹子,http://www.youtube.com/watch?v=eFJy50TnNJA&feature=youtube_gdata

今朝の朝日が佐藤博史弁護士のロングインタビューをやっているが、このインタビュアーが酷い/ジャーナリスト江川紹子,http://www.youtube.com/watch?v=2YDSMb_tA3M&feature=youtube_gdata

取材(初めての場合)、各種相談申込専用電話(基本的に留守番電話対応)/落合洋司弁護士(東京弁護士会),http://www.youtube.com/watch?v=iy4ggg3VC4w&feature=youtube_gdata

自作スクリプトを使ったツイッターの埋め込みコードを含む内容ののBloggerのブログへの投稿状況 2014年6月8日,http://www.youtube.com/watch?v=5ROMFyXtEZ4&feature=youtube_gdata

落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています、 で「アッコにおまかせ」をキーワード検索_2014年6月8日,http://www.youtube.com/watch?v=5nN_1dB722U&feature=youtube_gdata

落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています、 で自分の3つのTwitterアカウントのブロック状態を確認,http://www.youtube.com/watch?v=qLbjJ5OmUGI&feature=youtube_gdata

弁護士による法律サービスに市場原理が導入されると需要者の側も淘汰されることは、当初から指摘してきたことです。、という小倉秀夫弁護士の一連のツイート,http://www.youtube.com/watch?v=xJeSjIdkasY&feature=youtube_gdata

Emacsでキーバインドした自作のコマンドを使って、googleclコマンドで取得したブログの記事リストを個別にツイートする一連の作業_2014年6月9日,http://www.youtube.com/watch?v=3pEL5PI4hB8&feature=youtube_gdata

木梨松嗣弁護士   Google 検索   2014年6月9日,http://www.youtube.com/watch?v=t-bF6NM_tQw&feature=youtube_gdata

PC遠隔操作事件の真犯人全面自供に関連した刑事弁護、刑事裁判に関する小倉秀夫弁護士のツイートのまとめ 2014 06 09 14:30:09,http://www.youtube.com/watch?v=pKD-tpLl41I&feature=youtube_gdata

廣野秀樹(@hirono hideki)/「週刊文春」の検索結果 2014 06 09 22:23:16,http://www.youtube.com/watch?v=wapWSOUueQQ&feature=youtube_gdata

岡田進弁護士  Google 検索 2014 06 09 23:01:33,http://www.youtube.com/watch?v=9PfFIJSeNQE&feature=youtube_gdata

Shoko Egawa(@amneris84)/2014年05月22日   Twilog 2014年5月19日から22日のツイートの記録/ジャーナリスト江川紹子_2014年06月10日15時54分50,http://www.youtube.com/watch?v=iXoc2CzXoSE&feature=youtube_gdata

名誉毀損での告訴の検討対象であるモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)とのやりとりをTwilogから探し出し調べた作業の記録_2014年06月11日10時24分06秒,http://www.youtube.com/watch?v=Hd5a0H7zoh0&feature=youtube_gdata

最後の2件以外は文字数制限に掛からず、APIから投稿できました。その2件だけタイトルの書式が異なっていると思いますが、スクリプトを使った処理で作成したファイル名から拡張子が除かれたものです。

ソフトで保存するときデフォルトで「Screencast 2014-06-11 10:24:06.mp4」という書式になっているものを、スプリクトで変換処理しています。初めのファイルへの保存時間が記録されているのだと思います。

最近のLinuxではスクリーンショットの画像保存でも使われている書式なのですが、プログラム的に処理するとエラーが出る半角スペースとコロンの文字が含まれています。

実際に端末で自作のスクリプトで処理をする際にも、引数と指定する際、次のようにエスケープをしています。→ h-filename-date-format.sh Screencast\ 2014-06-11\ 10\:24\:06.mp4

あとあと面倒も起こりうるので、日本語の日付を使ってファイル名に含めるようにしました。なお、この動画ファイルに関しては、パソコンのディスク領域や処理に伴う負担もあるので、保存はしない方向で考え、すでに削除したものもあるかと思います。

ひとつので動画ファイルでも再生時間が11分14秒で665.7 MB となっているので、添付資料のDVDへの収録は見送るつもりです。必要があれば提出しますし、YouTubeからダウンロードする方法もあるかと思います。

試しに58Mのmp4のファイルをflvに変換したところサイズが82Mになって、それをYouTubeにアップロードしてみたのですが、やはりアップロード後の処理に結構な時間がかかっていました。

時刻は6月12日10時26分を過ぎたところです。記述の方針を大幅に変更することにしました。

「拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道」という項目名だったのも「拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目」に変更しました。

2014-06-12 木 10:33> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

事件の背景と経緯、事件の関与者及び関係者との関係について

事件の主要な役割を演じ真相を握る一人被告訴人YSNについて

* 平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月7日

ずいぶん間をおいた書面作成の再開になります。他にも早めに書いておきたいことがあるので、今回はおおまかな流れを説明することで、問題点を指摘しておきたいと思います。ざっとみたところ9月5日以来の記述ということになるのかもしれません。

被告訴人YSNから電話で連絡があったのは平成3年4月の下旬だったと思います。4月末からのゴールデンウィークに入る少し前でした。彼から連絡があったのも半年以上間があいていたと思います。その前回は、連絡だけではく金沢市の繁華街片町で直接会っていました。

片町で被告訴人YSNと会ったのは数年ぶりのことでした。彼とはほとんど連絡のない状態が長く続いていました。すぐに思い出せるのは昭和62年の春先頃のことで、確か片町の金劇の中にあるスナックで、私より二つ年上のAKという人と3人で飲んだことを憶えています。

その席は被告訴人YSNの送別会のようなものでした。支払いは被告訴人YSNが持っていたはずです。暫く当分の間会えなくなるような感じで、被告訴人YSNの一大決心のような話も聞かされたような気がするのですが、細かいことは思い出せません。

その場にいた二つ年上のAKさんは、被告訴人OSNと被告訴人OKNの家でプロパン配達の仕事をしていたこともあり、また、その後は長くOSNの鳶職の会社で働いていたとも聞いています。作業中に一緒に作業をしていた仲間が落とした鉄パイプが太ももに突き刺さる怪我をしたとも聞きました。

その鳶職の仕事中の怪我については、平成10年頃、配管の仕事で世話になっていた被告訴人KYNから聞いていたと思います。すでにその時は被告訴人OSNの会社を辞めたと聞いていたと思いますが、直接会う機会もなかったと思います。

彼は姫のNとも親しくしていたはずですが、その後の友達づきあいなども私にはわかりません。被告訴人YSNとの関係も同じです。このような公開の場では書くのをためらうようなつながりや接点もあるのですが、被告訴人YSNとのつきあいが続いていたという可能性もあるかとは思います。

二つ年上のAKさんは、私と同じ宇出津で被告訴人OSNと同じく一つ年上の女の人と結婚していました。彼女も被告訴人OSNとは特に親しい間柄でしたが、平成3年12月21日の夜、被告訴人HTNに連れて行かれた片町の飲み屋で働いていた二人の女性の一人もこの女の人でした。

被告訴人YSNが珠洲市飯田のシーサイドの近くでブルーバード510を横転させ、ギンギラギンにさりげなく、と歌をうたい始めたという話も既に書いているかと思いますが、その車に同乗していたのも、その飲み屋の二人の女性だと聞いています。

二つ年上のAK夫妻は、昭和62年頃、金沢市保古のアパートに住んでいました。私の東力2丁目のアパートとは歩いても行けるぐらいの距離だったので、何度か遊びに行ったこともおぼえています。当時彼は、川元急送というような会社で2トン車に乗務して市内配達の仕事をしていました。

昭和61年の夏から秋、私が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていた頃、配達先でちょこちょこ顔を合わすこともありました。ニュー三久(さんきゅう)というスーパーで会うことが多かったと思います。

今、こうやって書きながら当時のことを思い出していると、自分の仲間内で金沢市で市内配達の仕事を始めたのは二つ年上のAKさんがさきがけだったとも思えますが、運送会社の性質や仕事の内容は違っていたとも思えます。

川元急送というのはけっこう大きな会社でトラックの数も比較的多かったと思いますが、私個人としてはどういう会社なのか話を聞くこともなく、余り知らないという事情はありました。メインの仕事もわからなかったですが、スーパーの配達が多いという感じでした。

ニュー三久の専属の運送会社という感じでした。最近のことは知りませんが、金沢市近郊では店舗数の多いスーパーでした。金沢市場輸送の配達でも荷物は多い方でした。本多町、城南店、三ツ口店、淺の川店などが自分の配達先でした。

金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めたのは昭和60年頃のことですが、もとはといえば、石川日通、鷺富、小林運送などの運送会社も2トン車一台ずつぐらいの割合で参加していました。自分が市内配達をしていた昭和61年のことです。

はじめは共同事業のような感じでやっていたそうですが、トラックの数が多く、配車係のような責任者を置くのが金沢市場輸送でした。もとはといえば寄せ集めから始まり、もめ事もあったと聞いたように思いますが、金沢市場輸送に一本化した上で、独立したのが市場急配センターでした。

金沢市場輸送というのはもともと長距離一本の運送会社でしたが、昭和60年頃から金沢中央市場の市内配達を手がけるようになり、市場内の仲買など中央市場の関係者から出資や援助を受けているような話も聞いていました。自分が知らない経緯もあるかと思うのですが、意外に感じることもありました。

昭和63年頃、金沢市場輸送の10トン車で鮮魚の長距離輸送をしていた頃、夜中に荷下ろしが終わって、市場の中にトラックを止めたまま食事に行っていると、フロントガラスに大きな張り紙で駐車禁止の注意書きを受けることがありました。

聞いた話によると、金沢市場輸送だけがちょっとした会費の支払いを拒んでいるため、中央市場に出入りする業者では金沢市場輸送だけがそういう扱いを受けているというとのことでした。当時のT社長の一存で拒んでいるという話でした。

金沢市場輸送には昭和59年当時、ちょこちょこ会社に顔を出す、上出という年配の人物がいて、周囲からは株主だと聞いていました。彼はその後、加賀能登の物産展の仕事を手がけるようになったようです。この物産展の仕事は金沢市場輸送がよくやる仕事の一つで、トナミ航空の請負になっていました。

全国各地のデパートでやる物産展の道具や商品を運ぶ仕事でした。私自身、平成4年の1月13日頃には東京の池袋のデパート。三越ではなかったかと思いますが、金沢から荷物を運び。同じく1月の終わり頃には、同じ池袋のデパートから荷物を引き上げる仕事をしました。

いつ頃かははっきり思い出せないですが、岩手県の盛岡のデパートから荷物を引き上げる仕事の時、上出がいたことを憶えています。その頃になると会社で上出の姿を見ることはなく、金沢市場輸送や市場急配センターとの関係も不明でしたが、癖のある人物でもあり、あえて関係性を目立たせなくしている

のか、と考えることもありました。宮崎県のデパートでも顔を合わせたかもしれません。都城だったような気もします。青森市内のデパートでも顔を合わせたような気がするのですが、だとすれば青森が最後に見た姿だったような気がします。平成3年の頃かとも思います。

上出のことは昭和59年当時、ちょくちょく事務所に来ていたのでよく知っていたのですが、その後は不思議に思うぐらい、話を聞くこともなくなっていました。金沢市場輸送とは縁を切っていたことも考えられますが、市場急配センターの被告訴人MHK社長の関係など気になる人物です。

金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃は、午後、事務所の入っている建物の前の大通りにトラックを駐車させ、そこでワゴン車などに運ばれてきた物産展の荷物を積むことがほとんどだったと思います。

だいぶん説明が逸れてしまったので、被告訴人YSNの話に戻しますが、被告訴人YSNは昭和60年の夏頃、金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めた頃に、市内配達の仕事をしていたと聞きます。人伝の話だったので、細かいことも憶えていないですが、長くて3ヶ月程度ではと思われます。

氷の運搬の仕事が多かったような話も聞いたように思います。この氷の仕事は私も昭和59年の夏頃、長距離の仕事の合間にちょこちょこやらされていました。白菊町の冷蔵庫や金沢港の漁連に氷の固まりを運ぶ仕事でした。一つ100キロ以上ある氷の固まりをポンコツのトラックで運んでいました。

どういう経緯で、被告訴人YSNがその時、金沢市場輸送で仕事をするようになったのか、要領を得るような話は聞かなかったと思います。本人に直接尋ねたはずですが、それでも誰それの紹介とか、はっきりした説明はなく、あるいは職安に求人が出ていたので、応募したという話だったかもしれないです。

被告訴人YSNとの間には、珠洲市三崎出身のHMという男がいました。年は私の一つ上でした。昔は被告訴人OSNと兄弟のように仲が良くいつも一緒に行動をしていた時期があると、聞いたこともあり、名前だけは昭和56年の頃から聞いていたと思います。京都に行ったとも聞いていたと思います。

私が珠洲のHMと初めて会ったのは昭和58年の9月か10月頃でした。場所は被告訴人YSNの金沢市観音堂のアパートでした。そのアパートに彼がちょくちょく顔を出していたのです。彼は観音堂に近い金沢市寺中町に事務所のある中西水産輸送で4トン車で長距離に乗務していました。

一度、誘われて長距離の運行に同行し、山口県の宇部市まで行ったことがありました。帰りは大阪まで国道2号線を走り、広島から積んだ荷物を静岡県内でおろし、山梨県から長野県、新潟県の糸魚川に出て、富山県から金沢に戻ってきました。

彼はその後、金沢市黒田にワンルームのアパートを借りて住むようになり、そのアパートにも何度か遊びに行っていました。彼は私が金沢市場輸送を昭和59年の10月中頃にやめる、半月か一月ほど前に入社し、同じく4トン車の長距離に乗務していました。一応、私の紹介というかたちの入社だったと。

彼はその後、守田水産輸送にいましたが、輪島屋鮮冷との間を、行き来していたはずです。金沢市場輸送と守田水産輸送は1年半ぐらいの間、仕事のやりとりが多く、私も青森の鮮魚の定期便をやっていました。

金沢市場輸送の事務所が西念町から二口町に移転してからも、およそ半年ぐらいの間は、仕事のやりとりが続き、守田水産輸送のトラックは金沢市場輸送の事務所で給油までやっていました。その後仲違いしたのか、仕事のやりとりもなくなりましたが、詳しいことは忘れました。

珠洲のHMは、短かったですが、私の紹介で中西運輸商に戻り、しばらく4トン車に乗務した時期もありました。短かったですが、当時住んでいた黒田のアパートと、YTの妻が働く店が近かったこともあり、短期間に親しくなったような様子でした。喫茶店のような店でしたが夜はスナックのような話でした。

このYTについては、本書においても既に触れているかと思います。元々は佐川急便のホームで、作業のアルバイトに来ていたのを誘って、運転手になり、免停か取り消しがきっかけで配車係になって、その後は金沢市場輸送の配車係にもしていた人物です。年はたぶん、私の一つ年下ではなかったかと思います。

そういえば免停中であったのか、警察の検問を突破しようとして警官に軽い怪我を負わせ、10日ほど留置場に入っていたということもありました。金沢市場輸送にいた頃だったと思いますが、はっきりした時期は憶えていません。

それから暫くした頃かと、思いますが、請負で市内配達の仕事をしていた被告訴人HTNが、片町で酒を飲んでいるときに喧嘩をして、相手に頭蓋骨骨折の怪我を負わせ、同じく10日ほど留置場に入っていたという話を聞いていました。詳細不明ですが、罰金で済んだような話だったかと思います。

YTは平成3年頃になると、守田水産輸送に手形の裏書きをしてもらったような話で、3台ぐらいの10トントラックを保有し、子会社のようなかたちで、守田水産輸送の仕事をしていたような話でした。都商事という名前だったと思いますが、同じ名前で守田水産輸送は、鮮魚の中継の仕事もしていたはず。

中継というのは九州や四国など遠方からの荷物を、富山、高岡、福井のような別の行き先の荷物を小口として運ぶ仕事でした。最低でも一箱50円の運賃という相場だと聞いていたように思います。

金沢の中央市場では、山水運輸、ウロコ運送、守田水産輸送が鮮魚の中継をやっていました。金沢市場輸送でも石巻・塩釜の定期便で高岡行きの荷物は、守田水産輸送に中継を出していました。福井は自社便が出ていて、そのうち市場急配センターの仕事になりました。

はじめに市場急配センターの事務所が更地の状態として利用が決まった頃は、YTとFHの二人は、ここで中継を始めると断定的に話していました。FHは中西運輸商でトレーラーの運転手をしていた人物ですが、確か免許取り消しになり、YTと同じ頃、同じように配車係をするようになり、

YTが金沢市場輸送に来ると、すぐに後を追うような感じで金沢市場輸送に来て、同じく配車係をするようになっていました。当時の運送会社の社員としては年配で、50代になっていたような気もします。

更地で中継の仕事をすると聞いたのは平成2年の3月ぐらいではと思います、金沢港のイワシの運搬の仕事もダンプを除きなくなりかけた頃であったかと思います。

金沢港でイワシの運搬の現場監督のようなことをやっていた市場急配センターの社員、小林健一が暇を持てあますようになったのも同じ頃からでした。金石街道から中央市場方面に入ってすぐのところに、掘っ立て小屋のようなラーメン屋があり、そこでよく一緒に食事をしたのですが、

昼間から焼酎を煽っていたような気もするのですが、市場急配センターの社長であった被告訴人MHKに対する不満や愚痴を口にすることが多くなっていました。当時はかなり珍しかったパソコンにデータ入力する仕事もやらされ、他にできるものもいないと話していました。

これは私の事件の被害者となったAAさんが、受け持ちとする仕事であったので、彼女が入社する前であったことはほぼ間違いないと思います。小林健一はまもなく会社から姿を消したのですが、ちょうど入れ替わりのようなかたちで、彼女の姿を金沢市場輸送の事務所で見かけるようになりました。

YTとFHが事務所から姿を消したのも、それに近い時期であったと思いますが、小林健一より一月ぐらい後だったように思います。なんとなく6月頃だったという記憶が残っています。AAさんの姿とはしばらくの間、同じ金沢市場輸送の事務所内でみることがあったような気がします。

YTが金沢市場輸送に来たのは昭和63年の12月頃だと思います。その12月の20日頃に、10トン車に同乗させて一緒に宮城県の石巻に行ったことがありました。ハローなんとかいうチェーンのおもちゃ屋に、新規開店の商品を運ぶ仕事でした。同じ店の仕事で、四国の高知市に行ったこともあったので、

ほぼ全国にチェーン展開している店で、あったと思います。金沢市内でも八日市のあたりに、同じ系列の店があったように思います。当時は珍しい感じのチェーン展開のおもちゃ屋でした。

YTは金沢市場輸送に来る前、私に連絡を寄越し、金沢市場輸送で配車係をしたいので紹介してほしいと、かなり強い希望という感じで話を持ちかけてきました。国道八号線沿いで松任市(現在の白山市)の寺井町より最果てにあるような団地にも、妻子と一緒に行ったことを断片的に記憶しています。

YTの目的は、中西運輸商の仕事の中心として請け負っていた佐川急便の広島九州便を、中西運輸商に取って代わって請け負うことでした。だいぶん前から中西運輸商は事故も多くて佐川から切られるのは時間の問題という話は聞いていました。

私は昭和59年12月から昭和61年3月、昭和62年1月から同年4月頃まで、中西運輸商にいました。先に入ったときは年齢の制限にも掛かっていたので、普通免許で4トン車に乗務。二度目の入社では大型免許で10トン車に乗務していました。この時は、YKもFHも運転手をやっていました。

仕事の中心が佐川急便の広島九州便であったことは同じですが、広島県東広島市にある西日本運輸興業という会社の請負だと聞いていました。その後、この親会社が倒産したとも聞いたのですが、細かいことは憶えていません。

そのうち中西運輸商がついに佐川から切られたという話は聞きましたが、広島九州便は九州運送がやるようになったと聞いていました。

YTは金沢市場輸送に来てまもなく、九州から運転手を7人か8人ぐらい連れてきました。結局、慣れない雪道の東北便が多いと言うこともあって、ほとんどはすぐにいなくなってしまったと思います。一人だけ残った運転手がいて平成3年の春頃も、金沢市場輸送で姿を見かけていた覚えがあります。

だいたいの名前も憶えていますが伏せておきましょう。確か北九州市でちょっとした事故を起こし、相手が悪くてずいぶんともめているという話を耳にすることがありました。この時も、事故のトラブルは市場急配センターの社長であった被告訴人MHKが担当しているような話だったと思います。

被告訴人MHKは中古車販売の店を経営していたこともあり、事故の保険に関してはずいぶんと慣れているような話で、金沢市場輸送の事故の処理も任されていたようです。私が初めて市場急配センターの事務所に入ったのも、金沢市場輸送の同僚運転手のつきあいでしたが、事故処理の話でした。

私はさいわい保険を使うような事故は昭和61年の入社以来は起こさなかったので、直接、被告訴人MHKと保険の話をするような機会はなかったです。相当に顔が広く、口が利き、やり手だという印象は持っていました。

金沢市場輸送で佐川の仕事をすることについて、配車係から金沢市場輸送の社長になった被告訴人MTKは当初から乗り気ではないという感じでした。それでも私自身、一度は金沢支店から九州便の仕事を金沢市場輸送のトラックでやったことはありました。中西運輸商の仕事としてやったような気もします。

被告訴人MTKが金沢市場輸送で配車係をするようになったのは、昭和61年の12月頃からだったと思います。それまでは運転手でしたが、配車係の藤村さんが手術のため数ヶ月入院することになり、さんざん頼まれて仕方なく引き受けたと言っていました。私がちょうど大型免許を取った頃のことです。

ついでに書いておくと、女性事務員として被告訴人IHKの姿を見るようになったのも同じ頃で、被告訴人UHKの姿を市内配達の運転手として見るようになったのもだいたい同じ頃かと思います。

被告訴人MTKが配車係として仕事をするようになったのは、ちょうどバブル景気の景気上昇とも重なっていたはずです。当時社長であった被告訴人TSKに拝み倒されて配車係をするようになったが、給料の面でも満足な待遇は受けておらず、運転手の時より悪くなったと、繰り返し話していました。

当時の金沢市場輸送の給料システムでは基本給が10万円で、年間1万円のベースアップがあり、8年目の彼は他の運転手と比較してずいぶん恵まれていたような話をしていました。歩合というのも他とは変わっていて、荷物を積んで走った距離に大型車だと20円を掛けるような計算でした。

その後、事務所が二口町に移転してから給料の計算方法が変わり、距離ではなく運賃の売り上げを計算するものに変わりましたが、基本給の部分が大きくなり、歩合の幅は逆に少なくなったような気もします。

給料というのは理解のできないような計算結果になっていましたが、総額で50万円を超えていることはなかったように思うのですが、手取りは最高で43万円を超えることもありました。給料計算上の休みというのはほとんどなしでした。

予定している運行を行かないと言われるのが一番困るので、会社としてはそういう曖昧な基準で休日の計算をしていたのだと思います。丸一日の休みとなると少なかったとは思います。

市場急配センターにおいては基本給が50万円ということになっていましたが、手取りで40万円を超えることは一度もなかったと思います。離婚したので税金の引かれる額は増えたのだとは思いますが。どうかと思う明細ではありました。

金沢市場輸送においては4トン車や大型車に乗りたての頃の方が、仕事もきつく、給料も安かったと思います。高速道路の利用もずいぶんと制限されていました。一般道だと2,3倍の時間が掛かることもあります。道路事情も大幅によくなり整備されていきました。

YTとFHの二人は、事務所で暇を持てあますような姿を見ることが多く、荷物の積み替え作業を手伝ったり、雑用に近いような感じに見えていました。被告訴人MTKが配車係としての仕事を手柄を独占していい気になっているような話は、比較的若い女性事務員の口から話を聞くこともあり呆れた風でした。

銭湯に行って中断していましたが、銭湯の中で考え事をしながら思い出したことがいくつかあります。一つは、YTの姉の旦那という義理の兄が、金沢市場輸送で10トン平ボディ車に乗務していました。結構長かったと思います。あるいはやめる前に自分の方が市場急配センターに移動したかもしれないです。

もう一つはYTの父親のことです。父親の話というのはYT本人から余り聞いてはいなかったように思いますが、他の運転手からYTの父親がイワシの運搬をするようになったと聞き、それらしい人の姿を北陸ハイミールの台貫場で何度か見かけていました。遠目にしか見たことがなく顔の認識もないです。
YTの父親のことをしったのは、平成3年の12月からのイワシのシーズンだったと思います。比較的小型のダンプに乗務していたように思います。小型と言ってもダンプはすべて10トン車でした。ダンプもトラックも大型化するほど総重量が増え、法定の積載量は少なくなっていました。

* 平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月8日

昨日に書いたとおり、金劇の飲み屋で3人で酒を飲んで以来、被告訴人YSNから連絡というのはほとんどなく、数年の間一度も会っていなかったと記憶しています。なお、そのスナックのような飲み屋は金劇のビルの地下の方にあったように思います。

そのスナックには二人の女性が働いていました。店を任されているという感じではなかったかと思います。その頃には親しい付き合いはなくなっていたのですが、昭和56年の11月頃に知り合った女友達で、宇出津に住んでいた期間も長かったです。

二人とも年は私より一つ年下ではなかったかと思います。あるいは同級生で誕生日が早かったのか知り合った頃は16才だと聞いていました。金沢市内で一人は末町、もう一人は瓢箪町に実家があるという話でした。

昭和58年の初め頃だったかと思いますが、ある日の朝、二人の少女が住んでいた片町の近くのアパートに遊びに行ったことがありました。するとその時、昨夜ここで遊んでいた友達がアパートを出た後、南町あたりで大事故を起こしたと驚いた様子で話をしていました。

タクシーと衝突したとかで、死人こそ出なかったものの3人だかが意識不明の植物人間状態だと聞いたのは、その事故を起こしたというUH本人からであったかと思われます。昭和58年の秋から冬頃、彼女と二人でよく観音堂のアパートに遊びに来ていたUHでした。

UHの姿を被告訴人YSNの部屋で見たという記憶も余りないのですが、気さくに話をする間柄ではありました。UHが顔を出していたのは珠洲市鵜飼あたりが出身と聞くYHでした。YHはその後、中央市場の鮮魚関係の山水運輸で働くようになりました。

先に山水運輸でトラックに乗るようになったのは同じ珠洲市のSKという男で私とは同級生だったと思います。当時は金沢市神田のアパートに、小松市の女と同棲していました。同じアパートにもう一組の男女の友達がいて、それが被告訴人YSNが昭和61年の12月頃、ヤクザになって人が変わったと話していたKという男。

神田のアパートに遊びに行った頃、昭和58年の秋だったと思いますが、Kは遠洋漁船に乗って一儲けしてくると抱負を語り、彼女は涼んだ様子で部屋にうずくまっているように見えたのが印象的で、被告訴人YSNからそんな話を聞かされてもいました。

Kの彼女にはいつも一緒にいる女友達がいて、二人とも下の呼び名は憶えていますが書かないです。先の金劇のスナックの二人の元少女とも関係が似ていたので、よく憶えています。金劇の方は二人ともフルネームを記憶しています。

Kの彼女の相方は、珠洲市蛸島のSMという男と付き合っていました。被告訴人YSNとは同級生でもあり、ちょくちょく被告訴人YSNのところに遊びに来ていました。読売新聞の勧誘をやっているという話だったと思います。金沢で「暴狂悪女」とかいう暴走族に入っていたような話も聞きました。

昭和58年の春頃、被告訴人OSNが宇出津で一時期乗り回していたハコスカという改造車も、そのKが所有し改造した車だと聞いていましたし、顔見知りでもあったとは思います。珠洲方面の同世代との付き合いは以前は多かったとも聞いていましたし、珠洲市三崎のHMもその一人でした。

細かく書けば他にもいろいろつながりはあるのですが、他の人間の付き合いの程度や関係の有無というのは、ほとんど把握できないものです。親兄弟以上に密接な関係だったのが疎遠になったり、その逆も十分ありうるとは思います。

能登の宇出津というのは一つの中心で、当時は石川県立水産高校があったのも人間関係の上で影響があったと思います。珠洲市大谷出身のYSさんも水産高校でしたが、私は相撲部にいた関係で中学校1年生のころから知っていました。大谷というのは珠洲市でも輪島市に近いところです。

思えば昭和59年の春か夏頃も、YSさんを金沢市場輸送に紹介したことがあったような気がします。入社してもすぐにやめたと思いますが、短期間東力のアパートに滞在していたこともあったかと思います。

彼はその後、佐川急便関係の長距離トラックの仕事をしていた時期もありました。一度、野々市のマンションのような自宅に遊びに行ったこともあったのですが、当時金沢市保古町のアパートに住んでいた前出のAKさんが一緒だったような気もします。昭和60年か61年頃のことかと思います。

能登の人間関係には当時もう一つ大きなつながりがありました。それは小木港の遠洋漁船でした。小木は現在は宇出津と同じ能登町ですが、確か平成17年に、市町村合併する前は珠洲郡内浦町小木でした。小木は現在でも中型イカ釣り漁船がいますが規模は遙かに縮小しています。当時は鮭鱒漁もありました。

内浦町小木には宇出津同じく能都町の姫という地区が隣接していますが、こちらも小木港と同じような遠洋漁業をやっておりました。姫というのは半島のような地形になっているのですが、主要道路沿いだと小木の隣は真脇という感じかもしれません。

姫も真脇も高倉地区と呼ばれていました。小学校は真脇小学校でしたが、中学校は宇出津にある能都中学校でした。小木には小木中学校があるので、親戚でもない限り交流や付き合いが始まるのも、中学校卒業以降のことでした。当時は中学を出てすぐ遠洋漁船にのる少年も何人かいました。

どちらかといえば、高校を中退して遠洋漁船にのる少年の方が多かったと思います。当時は稼げる仕事でもあったのですが、昭和59年あたりに二百海里問題が起こると、状況は一転して悪化し、小木や姫の船がソ連や北朝鮮に拿捕されたとか、操業停止になったというニュースが多くなりました。

姫は住宅の新築率が石川県内一と聞いたこともありましたが、姫や真脇の同級生の家に遊びに行くと、宇出津の友達の家とはまるで違うぐらい裕福そうでした。漁業がふるわなくなると、家も建たなくなり大工が廃業、地域の経済そのものが著しく悪化して、宇出津でも自殺や夜逃げが増えていると聞きました。

福井刑務所で同じ班だったTKとYKは、確か口をそろえるような感じだったと思うのですが、金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが能登など田舎の方で金貸しをして儲けている、あるいは儲けていたという話をしたこともありました。どこまで本当の話かわかりませんが、

TKは被告訴人YSNのことを知らないと、はっきり言いました。あらかじめ用意したように返事が早かったので、この時は逆にどうかとは思っていました。あいまいな感じの受け答えで探りを入れているように感じられることもあったからです。

私が被告訴人YSNと一緒に市場急配センターの市内配達の仕事をするようになったのは、平成3年の6月か5月の下旬のことです。私自身の記憶では5月なのですが、拘置所で入手した金沢市場輸送の運行表によると5月中から6月前半は金沢市場輸送の長距離運行があったので、6月になりそうです。

朝一番の仕事は、夜中に山水運輸が中継をやっているあたりの売り場で積み込みをやっていました。市場の敷地内には高瀬商店というパンやおにぎりを売っている小さな売店のような店があって、毎日のようにその店に行っていたのですが、その店から積み込み場所に歩いて戻る途中、

被告訴人YSNが突然、自分がバーテンで働いていた片町の店が、薬物売買の事件で警察の摘発を受けたとか言う話を始めたのです。唐突に切り出したという感じもありましたが、話の内容が要領を得ない感じで余り理解できなかったと記憶しています。聞き流した程度で、尋ねることもなかったと思います。

あるいは店の客が摘発を受けたとか、店が警察の捜査を受けたような話であったかもしれませんが、探りを入れて反応をうかがう気配も感じられなくはなかったです。ただ漠然と彼自身が薬物に手を出すことはないだろうと判断したようには思います。また、売人ということまでも考えなかったはずです。

被告訴人YSNがシンナーで発狂し精神病院に入ったいたことは前にも書いていると思います。本人の話によると一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよったということでした。これは昭和56年の12月か昭和57年の1月頃のことだと思います。

彼はその後にも、シンナーに手を出し、すぐにおかしくなったそうですが、自覚があって自分から病院に行ったような話でした。それにその2回目の時は、入院の期間も短かったようです。あれこれ事実を当てはめていくと、彼は二度目に精神病院に入ってから金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたことが考えられます。

消火器の仕事で出張中にシンナーに手を出したような話で場所は新潟市と聞いたような気もします。新潟の精神病院にいたという話は聞いていないので、だとすると自分で金沢に戻ってから病院に行ったことになりそうです。それとは別に、消火器販売で警察に連れて行かれたという話も聞き、

それも場所が新潟市だったような気がするので、私の方で記憶を混同している部分もあるのかもしれません。彼が消火器の仕事を始めたのは昭和58年の10月頃だったと思います。その年一杯ぐらいはちょこちょこ会ったりしていたのですが、そのうち連絡もなくなり付き合いもなくなっていました。

私が被告訴人YSNの観音堂のアパートを出たのは昭和58年の11月の10日頃だったと思います。彼は消火器の仕事に専念するようになり、出張と称して県外に出ることが多くなっていました。詐欺に近いような訪問販売でした。

先輩に消防署の方から来ましたというのは、消防署の方角から来ましたという意味なので、いざというときはそう言い張れば通用すると言われ、まったく受け入れている様子でした。理解に苦しむところがあり、感覚的にもついて行けないと思うようになり、疎遠になっていきました。

本人は違法という自覚も全くない様子で、むしろ防災のための社会貢献をしているという自負心さえ持っている様子で、充実した仕事としていきいきとやっていたようです。消火器は一本1万5千円で売りつけていたのではと思います。くわしいことは忘れましたが、一本売ると、

7千円以上の現金収入にはなるという話であったと思います。いいときは一日で10万円ほど儲けたという話もあったように思いますが、被告訴人YSNが始めた頃は、社会問題として認識されつつあり販売がやりにくくなって、余り売れなくなっているという話でした。

全国各地で消火器を売り、その場所のホテルに宿泊し、トルコ風呂に行って遊ぶというのがお決まりのパターンだったようです。ソープランドという名前になったのはもう少しあとだったように思います。会うたびに、そういう話をしていました。

彼はそのうち、金沢市増泉の通称「いっさか」というあたりに新しいワンルームのアパートを借りて住むようになっていました。増泉の一部と野町の一部にまたがるそのあたりは、昔、遊郭があったという伝統もあるらしいのですが、売春街のような界隈でした。

そのあたりはもう何年も行ったことがないので、現在はどうなっているのか知らないですが、当時は古くて小さな飲み屋が多く建ち並んでいる小路で、夕方明るい時間から店の前に、ど派手な女の人が立っているのが当たり前の光景でした。

詳しくはしりませんが、その「いっさか(たぶん石坂)」でも野町の方は、西の茶屋街とかで現在は観光地でテレビで紹介されたりもしているようです。金沢市場輸送の社長であった被告訴人TSKの家も野町のその辺りにあると聞いていました。謎の多い人物でしたが、ヤクザの組長をしていたという

話もあります。運転手の間で野町の家に行ったとか見たという話は一度も聞いたことがなかったですが、どのような暮らしぶりをしていたものか、今となれば気になるものです。

被告訴人TSKの夫人は、昭和59年頃は片町で飲み屋をしていると聞いていました。夜に飲み屋の仕事をして、昼は事務所で経理の仕事をしているという感じでした。かなりぎすぎすした感じで無愛想、机に座って机の上だけを見てもくもくとソロバンをはじいているという印象でした。

平成4年の傷害・準強姦被告事件についての事実と被告訴人らの関与について

被害者AAさんの言動と関わり、事件へと至る経緯

* DONE 市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになった行動_2014年6月13日

    CLOSED: [2014-06-23 月 08:59]

2014-06-13 金 09:33> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

基本的な事実は、前に記述した伊吹パーキングエリアからの電話の続きになります。きりがないのですでに書いてあることは概ね説明を省略します。全体に目を通さなければ正しい理解も把握も出来ないと思いますが、そういう問題とも考えています。

本当はプレゼンテーションソフトでPDFファイルを作って、説明をしたいとも考えていたのですが、時間的にも余裕があれば、また検討してみたいと思います。実況見分調書的なものをつくろうと考え、それはそれで必要性は感じておりますので、できればと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

とりあえずは上記のPicasaウェブアルバムを使ってご説明したいと思います。ただ、思っていた資料がアップロードされていない可能性に気がついたので、それをちょっと調べてみます。

時刻は10時54分を過ぎたところです。過去のファイルを探していたのですが、パソコンから見つけ出すことは出来ず、Microsoft社のOneDriveとかいうストレージサービスからダウンロードしました。前はSkyDriveというサービス名だったとも思いますがLinuxから使えます。

ダウンロードしたファイルのファイル名をスプリクトで一括変更し、それをPicasaウェブアルバムにアップロードしたのですが、アップロードが始まるところまでの作業を録画しましたので、これは別の項目で説明をしておきたいと思います。

なお、これまでと方針を変えて、同時進行でも記述の開始時間と終了時間を使っていきます。一つ一つの項目はできるだけシンプルに独立性を保ち見出しの趣旨に対応したものにしたいと思います。プログラムにおけるモジュールの独立性という感じです。

時刻は6月14日9時13分になっています。昨日は書き始めてすぐに使いたいと思った写真ファイルが見当たらないことに気が付き、探しだすのも時間がかかりましたが、その後にPicasaウェブアルバムに関する説明を書いたりしていました。前からやっておきたいとは考えていたことです。

[[*スクリプトでファイル名を一括変更し、Picasaウェブアルバムにスクリプトでアップロードする資料作成の手順の紹介と記録_2014年6月13日 ]]

[[*Google+とPicasa ウェブ アルバムの利用方法と違い、及び本文中で使用するURLについての説明_2014年6月13日 ]]

昨日はこの項目の下準備として上記2つの項目を書いておきました。org-modeの見出しへのリンクを入れたのですが、Emacs23だとHTMLのエクスポートでもページ内リンクが作成されていました。

末尾に「」という部分のある見出しはBloggerのブログに記事として投稿済みという印です。org-modeではタグという扱いになるようです。タグの部分はEmacs23でのHTMLには反映されていませんでした。org-modeのバージョン自体もことなるかと思います。

ひとつは昨日の再掲になりますが、主に次の2つのPicasaウェブアルバムの写真を使って、実況見分調書的な説明をやったみたいと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

資料写真/2007年7月21日撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721

まず前提としての説明をしていきたいと思いますが、金沢西警察署の捜査でも金沢地方裁判所、名古屋高裁金沢支部、最高裁を含め、さらには再審請求を含めて、事実上ほとんど皆無に、問題にされなかった問題です。

そもそも問題にされなかったことが不思議でしょうがないような問題なので、その辺りから説明をしたほうがいいかと思いました。あるいは刑事司法、刑事弁護の構造的に重大な欠陥が、ごく当たり前のように現れただけの問題であったのかもしれません。

解釈、ご理解は各自におかませするしかないと思いますが、私は実際に経験した裁判というものを、具体的に説明する必要性を感じています。

時刻は6月15日10時55分になっています。ほぼまる一日、記述を中断したかと思いますが、改めていろいろと考えさせられる機会もありました。関連もあるのでこの項目でそのまま書くことも考えたのですが、別に項目を作って書きたいと思います。戻ったら見出しをリンクにする予定です。

2014-06-15 日 10:59> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

2014-06-17 火 08:37> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

テレビのとくダネ!で、「小保方氏パートナーが会見 「STAP細胞の証拠ない」」というのをやっているのですが、それに関連していると思われる弁護士のツイートを一つ紹介しておきたいと思います。刑事弁護とはなにかと改めて考えさせられる問題でもあるからです。

2014-06-17-074612_0.0001%でもあるとしたら、ないというのはウソをつくことになるから。.jpg pic.twitter.com/1587I38j8X

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: ないことが証明できないのは当然で、誠実な科学者であればそれを断言はしな い。 0.0001%でもあるとしたら、ないというのはウソをつくことになる か/坂本正幸弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/06/blog-post_1572.html

上記リンクはブラウザからの投稿でも-6文字になったので、「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中:」というブログ名の部分を削りました。

誠実な弁護士、なにに対して誠実なのか、ということについても色々と考えさせられるところがあります。翻って木梨松嗣弁護士は何に対して、何に向かって弁護活動を行ったのかという視点を、常に持ってこれからかく私の説明を考えてもらえたたらと思います。

まずは、被害者AAさんが自分の軽四自動車を会社の裏にあるトラックや運転手の乗用車をとめる駐車場にとめるようになった始まりから説明をしたいと思います。それは平成3年11月30日の土曜日の可能性が高いです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日18時00分17秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223173987773522

同じような写真が3枚ほどありましたが、説明に使いたい肝心の部分が写っていませんでした。自分で撮影したものですが、そこまで利用方法を具体的には考えていなかったようです。日付はExif情報に記録されたものかと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942953012467659602

こちらのアルバムで説明に丁度よいものを一つ見つけました。個別の写真のURLにはGoogle+のURLを使うと書いて来たかと思いますが、古く登録されたものだとPicasaウェブアルバムの方が探しやすいので、個別の写真でもPicasaウェブアルバムのURLを使いたいと思います。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日01時28分09秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942953012467659602

同じ写真をAPIを使った自作のコマンドでアップロードしたのですが、相対パスがファイル名に含まれたようです。ファイル名が長すぎるとエラーが出る可能性もあるかと思いますが、これはこれでわかりやすかと思われます。

./資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ/市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日01時28分09秒.jpg pic.twitter.com/jAEmvuIeSg

Twitterに投稿した写真を遣って説明をしていこうかと考えたのですが、Emacsでは画像ファイルの表示も出来るので、ウィンドウを分割して、それを見ながら説明を書きたいと思います。スクリーンショットをとりました。次のような感じです。

2014-06-17-095510_Emacsでは画像ファイルの表示も出来るので、ウィンドウを分割して、それを見ながら説明を書きたいと思います。.jpg pic.twitter.com/y7jdMjNexT

実際にこの角度から眺めたことはほとんどなかったかもしれません。Googleマップの写真自体にも屈折が感じらるので、遠近感を含め実際とはやや違いがあるようにも感じられます。左手に微かに建物の一部が見えますが、平成4年当時に建物はなかったはずです。

この写真は裏駐車場の裏側の出入口という言い方も出来るかと思いますが、私自身この裏側からトラックを出入りさせることは余りなかったと思いますし、他の運転手でも見た記憶というのは少ないかと思います。

この写真を見るとトラックの姿というのは一台もありませんが、この写真を見て向こう側の駐車スペースがトラックで、手前側が運転手の車の駐車スペースになっていました。特に指示があったわけでもないですが、ごく普通にそういう使い方がされていました。

手前の乗用車の駐車スペースには2トン車のトラックも駐車されていましたが、車の大きさ自体もさほど変わらないものでした。

トラックの駐車スペースには10トン車と4トン車が主に駐車されていましたが、スペースを有効活用するため斜体を斜めにして駐車をしていました、これだとたとえ軽四一台であっても大型車一台分のスペースを奪うほど邪魔になることもありました。

この写真の手前の端に銀色の乗用車が一台止まっているかと思います。会社正面の出入口から見れば、一番奥の右手、右手は事実上乗用車用の駐車スペースです。

平成3年11月30日と思われる日の午後だったと思いますが、この角に被害者AAさんの軽四と被告訴人池田宏美の車が並んで駐車されていました。池田の車は1000ccか1300cc程度の小型の普通車であったと記憶しています。

工事か何かで一時的に車を移動したのだろうとその時は思っていました。わざわざ一番端っこにとめてあるのはどうかとも思いましたが、たまたまその場所が空いていたということで、疑問は解消したと記憶しています。

時刻は6月21日9時9分です。2,3日中断していたかと思います。どうしようか迷いますが、いったん区切りをつけて項目を別にしたいと思います。

2014-06-21 土 09:12> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* DONE 市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになった行動_2014年6月21日

    CLOSED: [2014-06-24 火 10:09]

2014-06-21 土 09:14> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

被害者AAさんが会社裏駐車場の駐車を始めるようになったのは繰り返しますが平成3年11月30日土曜日の午後が始まりでした。記憶が薄れていますが、それが彼女の意思表示であり何かを訴えかける行動であることに、気がつくまで3日から長くて一週間ほど掛かったのではと思います。

車の駐車場所を変えたのと同時に、彼女は自宅の電話にまったく出なくなりました。平成3年11月25日の夜の電話では、初めて正式に自宅に電話をかけてくることを、「いいよう。ぜんぜんだいじょうぶや」と了承した上での行動です。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日00時55分54秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942952371719892898

上記写真が市場急配センターの事務所建物と、その前の駐車場です。決まりとして告知があったわけでもないですが、常識的に事務員は会社前に乗用車を駐車していました。これは仕事中の用事で車を出入りすることも多かったからです。

特にAAさんの場合、パソコンのデータ入力で毎日、金沢市場輸送の事務所に行っていました。市場急配センターの事務所にはパソコンはなかったのです。

こまかく言えば平成4年の3月ころに、市場急配センターの事務所にパソコンが入り、業者のような人がAAさんに説明をしていたことがあったのですが、導入には至らなかったのか、そのあと会社でパソコンを見ることはなかったと記憶しています。

平成3,4年当時のパソコンですから現在のものとはずいぶんと違っていますし、一般には馴染みのないもので、どれぐらいの値段がするものかも聞いたことがなかったですが、相当高額であったとは思います。

金沢市場輸送の事務所には平成元年ころからパソコンはあったと思います。あるいは平成2年に入ってからですが、いつの間にかあったという記憶です。

誰がそのパソコンの操作をしていたのかも私の記憶には残っていないのですが、とても印象的なことがひとつありました。その事実は時期を確認する上でも、とても参考になるものです。

元石川県警察の機動隊員でもあり、最高裁判事の息子という小林健一が、金沢港でイワシの運搬の仕事の現場監督のようなことをやったいたことについては、本書で繰り返し書いてきたことかと思います。

私自身イワシの運搬の仕事をやったのは2シーズンだけでしたが、小林健一は1シーズンだけでした。金沢港周辺でまとまった量のイワシが採れる時期に合わせた仕事でした。

12月の初めから4月の初めころまでと聞いていましたが、初めと終わりの方の時期はイワシの漁獲量も少なく、金沢市場輸送ではダンプだけの仕事になっていました。フル稼働は12月の下旬から2月いっぱいではなかったかと思います。

3月中もまだダンプ以外のイワシの仕事はあったような気もしますが、余り記憶もはっきりしません。まだそれなりに忙しい時期ではあったと思いますが、私はイワシの仕事から離れていたようにも思います。

4月になるとダンプでもイワシの仕事が入るのは稀で、仕事自体がとても暇になって残っているのはごく一部だったと思います。ちょうどそんな頃だったと思いますが、会社で暇を持て余す小林健一の姿をよく見るようになりました。

平成2年の4月と思われる時期のことです。私は石川88の108号という冷凍機付きの保冷車に乗務していました。冷凍機付きのナンバーは88になります。長距離乗務です。

当時の行き荷は、トナミ運輸や日通の雑貨が多くなっていたと思います。夕方6時とか7時からのホーム作業で積み荷を始めるという仕事でした。

午後は会社で時間を潰していることも多かったと思いますが、そんな時、何度か小林健一と近くのラーメン屋に行くことがありました。パチンコオークラの近くにあるまるで屋台のような小さい建物のラーメン屋でした。店内はカウンターのみで8席ぐらいあったのかなと記憶しています。

今思えば30代ぐらいだったのかと思いますが、割と若い感じの女の人がやっている店でした。私もちょくちょく利用していましたが、他の運転手も行っていたと思いますし、昼から酒を飲んでいるような人もいたかと思います。

2014-06-21-110823_パチンコオークラの近く小さなラーメン屋があった辺り.jpg pic.twitter.com/JEaviVZiV6

Googleストリートビューでスクリーンショットを撮ったのが上記の画像です。屈折というか歪みを感じますが、現実に近い撮影かと思います。

ここは金石街道から中央市場の方に入ってすぐのあたりです。左手にパチンコ屋の駐車場とその出入口が見えますが、平成4年当時は道路と駐車場のつながりがなく、何か別の建物がたっていたように思います。

この画像の道路の左手に2階建てのアパートのようなものが見えますが、小さいラーメン屋があったのは、だいたいその辺だったと思います。この中央市場に向かう道路に面していました。

もう少し先に行くと左手に「市川タイヤ」があって、そこを左折すると30メートルぐらいでパチンコオークラの駐車場と、右折してすぐに金沢市場輸送の会社がありました。

「市川タイヤ」に関しては書いておきたいことが2つあります。ひとつは被害者AAさんが自分の軽四で私を迎えに来てくれたこと、もう一つはミールの清水倉庫での被告訴人安田敏のタイヤの爆発問題です。そういえば工事現場突入の件もまだ中途でした。

私は今まで「清水倉庫」と書いてきたように思いますが、Googleマップで調べてみたところ、「水島倉庫」が正しいのではと思います。8号線バイパスで手取川よりは手前の辺り松任市の外れと記憶していましたが、水島という地名を見つけました。そういえばという気もしました。

小林健一とパソコンの話からずれてしまいましたが、小さなラーメン屋で何度か一緒に食事をする頃になると、彼はしきりに会社に対する不平不満を口にして語るようになりました。それは被告訴人松平日出男個人に向けた不満や批判とも言える内容だったと思います。

被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長でしたが、小林健一も金沢市場輸送ではなく市場急配センターの社員として、金沢港のイワシの運搬の仕事に来ていると聞いていました。

そもそもイワシの運搬は市場急配センターの仕事で、ダンプやトラックでの運搬は金沢市場輸送にやらせているという契約になっているとか聞きました。茨城県古河市の山三青果の仕事も初めは同じように聞いていたと思います。

やたらと被告訴人松平日出男や会社の不満や悪口のようなことも口にしていたと思いますが、なにか話に具体性は感じられず、真剣さも伝わらなかったことが印象に残っています。

そんな不満の一つに、小林健一は、他に誰も出来る人がいないので頼まれて事務所のパソコンのデータ入力をやらされている、というものがありました。

なお、小さなラーメン屋でも小林健一は昼間から、焼酎を注文して飲んでいたような気がします。当時はまだ焼酎というのは一般的ではなかたっと思いますが、すでに酎ハイというのは若者の間にも広まっていたと思います。

むしろ焼酎というのはといえばレモンジュースのような炭酸飲料で割ったイメージが強かったので、そうでないスタイルで焼酎を飲む、小林健一の姿というのも私には珍しく映っていたのです。

その小さなラーメン屋では、銅かアルミの取っ手がついた割と細長いカップで焼酎を出していた記憶もあるのですが、それも私の目には他に見たことのない珍しいものだったと記憶しています。

同行者を含め、その小さなラーメン屋で焼酎を注文していたのは小林健一以外には考えられないのですが、確実な場面の記憶というのは残っていません。

より鮮明に記憶しているのは、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車に、大きなペットボトルの焼酎がおいてあり、小林健一がそれを飲んでいたことです。コップや水のようなものを見た記憶はないので、ストレートでラッパ飲みをしていたのだと思いますし、そんな場面も微かに記憶にあります。

時刻は6月22日10時12分になっています。昨日は被害者AAさんの事務員としての所用の外出について書いていたところ、小林健一に関する説明にポイントが移動したかと思います。

小林健一は気になるというか不思議な存在感がありましたが、男女の違い、容姿容貌の違いがあるものの、どこかに共通点のようなものもあって、私はそれを長く引きずってきたと思います。うまく説明ができずもどかしくもありますが、不信感と言い換えてもいいかもしれません。

ほかに共通点といえば、性格的に真面目で仕事もそつなくこなしていた、ということが挙げられるでしょうか。育ちの良さや品の良さのようなものも共通しており、身だしなみもしっかりしていたという印象があります。

会社の雰囲気自体がベースにあったので、異分子のような違和感もあったのかと思いますが、どこか新鮮でもあり、不思議さも感じられるような存在でした。

被害者AAさんに関しては、ラフな服装も多かったと記憶しています。ジーパンを履いていることも多く、スカートを履いている場合でも、上には市場急配センターの作業服のジャンバーを羽織っている姿をよく見かけたと印象に残っています。

プライベートでは未知の部分が多かったのは被害者AAさんでした。余り話題にされにくいようなタイプであったとも考えられますが、基本的に無口で近寄りがたいようなところもあったかと思います。

彼女は平成2年の春頃から金沢市場輸送に出入りしていました。パソコンのデータ入力に来ていたのだと思いますが、市場急配センターの事務員であるということに気がついたのは、初めに姿を見かけるようになってからずいぶんと後のことであったと思います。

誰かの口から市場急配センターの事務員だと聞いたという記憶も私にはありません。金沢市場輸送の運転手の間で、話題になることもまったくなかったと思います。割とシャイな人が多かったということもあるかと思いますが、彼女の性格、存在感というのもあったのだろうと思います。

金沢市場輸送の運転手をしていた当時、市場急配センターの事務所に入ったのは一回だけだったと記憶しています。その時に机に向かって仕事をする被害者AAさんの姿を見たような記憶が微かに残っていますが、全く縁のない遠い存在なのだとぼんやりと考えていたような気もします。

被告訴人本恒夫との衝突で金沢市場輸送をやめることになり、被告訴人安田繁克の50万円の借金の保証人になっていたことで、被告訴人松平日出男に 話をしに行ったのが、2度めの市場急配センターの事務所に入った時だったと思います。

平成4年、拘置所に入った頃の私の記憶では、5月下旬のことだったのですが、その後入手した金沢市場輸送の運行表で6月下旬であったとわかりました。6月の20日ころまでは金沢市場輸送で長距離の運行をしていたという記録があったからです。

月の下旬であったということははっきりしています。市場急配センターの給料は月末25日締めの翌月5日払いでした。私は初め被告訴人松平日出男に一日1万5千円のアルバイトとして誘われ、その条件で仕事をすることになったのです。

アルバイト言うことでしたが、2,3日もしないぐらいで市場急配センターの社員になることが決まったと記憶しています。アルバイトとして仕事をしたのは3日分だけでした。

今、Linuxのcalコマンドで調べたところ平成3年の6月23日が日曜日となっているようです。給料計算の始まりが26日だとすると、3日分の別枠というのは休みを一日挟むと6月22日の土曜日からの仕事であった可能性が高そうです。アルバイトの話が決まったのも前日の午後だったと思います。

時刻は6月23日9時7分です。

できるだけ項目の見出しと内容を一致させたいのですが、周辺の事柄の説明をしているとそれだけでもけっこうな分量になり、主題がわかりづらくなるとも気にかけています。

見出しに沿った内容に心がけ、周辺の事実や問題もなるべく独立した項目として配置をしていきたいと思います。裏駐車場のことが項目では見出しの主題なので、そちらに軸を移したいと思います。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日18時09分05秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223878791236930

上記は、中央市場の立体駐車場から撮影したものです。裏側ですが市場急配センターの事務所建物との位置関係もわかりやすく、距離感も目の視界に近いものかと思います。残念ながらトラックは2トン車と4トン車ばかりで、10トン車というか大型車の姿はないようです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日17時59分24秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223118950956146

次は斜め前方から市場急配センターと中央市場が写った写真です。と、ここで気がついたのですが、Picasaウェブアルバムのリンクだといちいちリンクを開く必要もあって、わかりにくいと思います。

以前もやっていた方法と思いますが、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートしたものを使いたいと思います。

撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日17時59分24秒.jpg pic.twitter.com/D0T7GEWBRk

上記が写真付きツイートです。わかりづらい部分もあるかと思うので、一覧の作業をキャプチャー動画にしました。YouTubeにアップロードしているところですが、処理が完了次第、説明をしたいと思いますが、独立の項目として書いておきたいと思います。

*非常上告 最高検察庁御中 ツイッター(@s hirono)に写真付きツイートする作業の紹介と記録_2014年06月23日?

上記項目に写真付きツイートに関する説明を書きました。HTMLエクスポートだとページ内リンクになっていると思います。Emacs24のバージョンでエクスポートすると、項目のリンクに見出し名はなく、階層の連番になっていました。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

上記も再掲になるかと思いますが、参考にしていただければと思います。トラックの姿が一台も見当たらないのも気になりますが、会社の所在地自体が移っているようです。

私は今年に入ってからそのことに気がついたように思いますが、事務所の建物自体は前のところにあって、そこで事務員が仕事をしているのかも不明です。

2014-06-23-113304_市場急配センター(株)石川県金沢市駅西本町5丁目10-20.jpg pic.twitter.com/qv3jqT76V6

上記はGoogleマップのスクリーンショットですが、市場急配センターの新しい住所地であるものの、会社の住所地にリンクした写真が古いものになっているようです。

2014-06-23-114455_市場急配センターの新しい配送センターと思われる場所.jpg pic.twitter.com/ma3H9V0R5N