告訴状2013(作成途中)_16

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:24:23

一つ前の写真の真裏にあたると思われる場所のストリートビューが上記の写真です。今初めて気がついたのですが、青色の大型トラックには前方上部に大きく市場急配センターのロゴマークが描かれているようです。ボディのカラーが異なるのが気になるところです。

上記の写真だけ見てもどこなのか全くわかりません。次に角度を変えたものを撮影してアップします。中央市場の裏側、山水運輸の奥で隣り合っていることがわかります。

2014-06-23-120338_市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場方面.jpg pic.twitter.com/ELwU8GXSdS

上記写真でもわかりづらいかもしれませんが、一番奥というか向こう側に中央市場の立体駐車場が見えます。

2014-06-23-121438_市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場裏側.jpg pic.twitter.com/bHckl0Y1fP

これだと山水運輸の建物もわかりやすいと思いますが、山水運輸は中央市場の裏側の道路に面しています。私が金沢市で生活をしていた平成11年ころには既に新しい建物があったと思いますが、いつ頃に出来たのかはわかりません。

平成4年当時にもあったような気がしないではないのですが、建設中の建物を見たという記憶もないです。

以前は中央市場の敷地内で裏側の道路に面した端に大型車を横付けにして、山水運輸はは鮮魚の中継の仕事をしていました。そこで珠洲のYHと話をしていたことも記憶にあるのですが、時期がはっきりしません。最後は平成3年の秋であったような気もするのですが、はっきりとは思い出せません。

時間もそう遅くない時間で夜の23時ころだったような気もします。その時間帯にゆっくりと話をしていたというのも珍しいのですが、なんにしても記憶が曖昧模糊になっています。YHと会って話をしたのもそれが最後だったとは思います。

平成3年の秋から平成4年の3月の間だったとすれば、被告訴人安田敏のことも話題になったとは思うのですが、それも含めて残念ながら思い出すことが出来ないです。その場所は本来、青果物の売り場の方だったと思います。

私の記憶では裏門と同じ位置に、売り場の建物の通路があって、それが鮮魚と青果の売り場の境にもなっていました。ちなみに金沢の市場の鮮魚は競りが3時半からと早く、それだけ早い時間の競りは日本で2つだけと聞いたこともありました。

現在のことは知りませんが、鮮魚は石川中央魚市とウロコ水産にわかれ、青果は石川丸果だけになっていました。全国的にそうだったと思いますが、鮮魚というのは荷受の時間も22時以降とか決まっていることが多かったと思います。

荷物というか市場での品物の扱いにも大きく二通りがあって、売り場への直降ろしと、パレット降ろしがありました。直降ろしの方が少なかったと思いますが、金沢の中央市場ではほとんどが直降ろしになっていたと思います。

直降ろしだと荷受の指示に従い荷降ろしをすることになります。パレット降ろしだと運転手がフォークリフトを運転手て自分で荷物を降ろし、最後に検品だけをうけて受領書のサインをもらうというパターンが多かったと記憶しています。

直降ろしだと順番で長い時間待たされることもありました。石川丸果では直降ろし場合とパレット降ろしの場合があったと思いますが、青果の場合は、ほとんどの市場で荷受の時間に制限というのは余りなかったと思います。

市場急配センターでの山三青果の仕事では、土曜日の夜に荷受けをしてもらうこともありました。日曜日は市場が休みなので、ほかでは余り経験のないパターンでした。出荷する側も土曜日ではなく、日曜日に出していたと思われます。

当時は外食も多かったので野菜の鮮度なども気にすることがなかったと思いますが、直降ろしの青果物というのは野ざらしのような状態になっていました。風通しもよくひんやりとはしていたと思いますが、出荷する側もなるべく鮮度を保ちたいと思うのが、常識かとも思いました。

レタスなどの高原野菜は昭和62年ぐらいから冷凍機付きの保冷車で温度を5度に設定するというのが一般化されていたと記憶していますが、冬場だと特に問題はなかったのかもしれません。

土曜日の夜の荷降ろしということで平成4年2月1日のことを思い出しましたが、重要な事実関係の一つでありながら、本書ではまだ書いていなかったと思います。これも項目を別に立てますが、本筋から離れてしまったついでに、そちらを先に書いておこうかと思います。

時刻は6月24日8時1分になっています。

やはり、裏駐車場のことよりさきに書いておきたいというか、より集中できそうなことがあるのでそれを先に書いておきたいと思います。とりあえず2月1日のことを中心に書くので、裏駐車場の行動の終わりという事実もあります。

本人から話が聞けない以上、想像というか推測になりますが、事実に則して事実を根拠に書いていくので、合理性は十分あると考えています。結論から言えば裏駐車場の駐車の始まりも終わりも、被告訴人池田宏美らの指示を受けた行動だったということです。

裏駐車場に関してはまだまだ書いておくことがあります。自宅の電話に出なくなったのと同時に始まった行動ですが、それは退社のタイミングで直接声を書けてほしいという意思表示であり、その機会を作ってくれているものと考えることが出来ました。

すぐにそう思ったわけではなく、慎重に彼女の行動を見ていましたが、いよいよそれ以外にないと考え、実際に声を書けたのは年が明けた平成4年1月になってからでした。1月中には3回、声を掛け、話をしました。

正確に言うと、いきなり声を書けたのは初めの一回だけだったかもしれません。駐車してある私の担当の大型トラック3068号の助手席に乗ってもらい話をしましたが、「今日は美容院にいかんといけん、また今度」と言われたこともありました。

初めに裏駐車場で声を掛けたのは平成4年1月の10日ころではなかったかと思います。外はすっかり暗くなっていたことも他の時に共通していました。

事務員である被害者AAさんの退社時間というのは17時から17時半の間でした。18時以降に会社にいたころもありますが、それはかなりの例外で、残業という感じではなかったと思います。

その17時から17時半という時間帯は、会社にいる人も少ない時間帯でした。市内配達の運転手のほとんどは16時から16時半ころの間には帰っていなくなっていたと思います。朝の仕事の始まりは5時半か6時ぐらいだったと思います。

日照時間というのは地域的な違いもあるかと思いますが、冬至が確か12月の下旬で、一番日が短い、ということになっていると思います。17時ちょうどだとまだ薄暗さが残っているかと思いますが、17時半となると夜と同じ暗さではなかったかと思います。

17時が退社時間だったと思いますが、17時を過ぎてすぐに退社するということも彼女の場合は少なかったと思います。17時半までいるというのも少なかったと思いますが、その30分の間がほとんどだったとは思います。

例外だったのは平成3年10月12日と思われる土曜日。calコマンドで確認したところやはり土曜日でした。この日のことも独立した項目にしたほうがいいかと思いますが、迷うところです。書き出すと長くなるとは思います。

そして平成3年11月26日、その日は自分の27歳の誕生日だったので、日付ははっきり記憶していますが、前の夜の電話で彼女に自宅に電話をかけることの許可をもらったのです。初めに電話をしたのは同年10月5日の土曜日の夜でした。

その11月26日のことに関しては、被告訴人多田敏明のことも絡んでくるので、独立の項目として書きたいと思います。

裏駐車場に関する項目はこれが2つ目だと思いますが、しばらくの間中断をして、他のことを書き、また独立の項目として記述を再開したいと思います。

2014-06-24 火 10:09> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克の事件への関与、果たした役割について

* 裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日

2014-06-24 火 10:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

自分のパソコンのファイルを探したのですが、ちょっと見つからなかったので、個人サーバで公開状態にあるものをコピーすることで、新たな記事を作成しました。次のブログ記事のタイトルとURLです。

裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト) | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://hirono2013s.blogspot.jp/2014/06/44411ttk.html

普通に取得したブログのページタイトルですが、どうも|の縦棒で区切られて左側が記事のタイトル名、右側がブログのタイトル名となるようです。今までは余り気が付かなかったような気もするのですが、同じBloggerのブログでも書式が別になっていたような気がします。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 報告したから何かがどうなるものでもないのだが、これは要するに、脅しのつも りなんだろうな。/矢部善朗弁護士 http://bit.ly/1mgrmxR

試しに一つ別のブログでページタイトルを取得してみましたが、やはりブログ名が左側になっていて区切りの記号も:になっています。 非常上告-最高検察庁御中_Bloggerのブログの方が前から使っていると思いますが、自分でカスタマイズをしていたのかもしれません。

普通、ページタイトルにブログ名が含まれることは多くないような気もしますが、そういうのもブログサービス毎の仕様になっているはずです。ブログサービスには編集の自由度の違いも大きいですが、Bloggerはカスタマイズ性も高いです。

Bloggerに関して難を言えば、APIでの投稿ができるものの、30件ぐらい記事を連続して投稿するとAPIでの処理を受け付けなくなることです。それを含め、総合的に判断した結果、私は数ある中からBloggerのブログをメインで使うようになりました。

「裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)」というタイトル名にしてありますが、被告訴人多田敏明の供述調書を文字起こししたものです。

元は警察官の手書きによる供述調書です。パソコンのテキスト文字だといたずらに改行が多いように見えるかもしれませんが、縦書の供述調書の内容に応じて改行を入れました。思い出せないぐらい相当前に作成したものだと思いますが、平成21年の9月以降かとは思います。

現物の供述調書をみながら、パソコンで文字を打ち込んでいったものですが、十分な確認はしていないかもしれません。誤記の可能性もあるということです。なので本来的には現物の写真を使いたいところなのですが、なぜか見当たらなくなっています。

平成21年9月より前は、インターネット上でも供述調書の写真を公開していたように思うのですが、当時はマスキングもしておらず、そのままの状態で公開していたように思います。だとすればあるはずの写真ファイルなのですが、私の手持ちのパソコンでは見つからなくなっています。

家の中を探せば供述調書の現物は見つかると思うので、デジカメで写真を撮り直すことも可能ですが、内容重視ということで当面は予定をしておりません。

2014-06-24-111405_WebページをみながらのEmacsでの書面の作成状況.jpg pic.twitter.com/LWJnlXu4ju

上記にスクリーンショットを用意しましたが、EmacsでさきほどのWebページを閲覧しながら、これから説明を書いていきたいと思います。

金沢西警察署において供述した、となっていますが、確か被告訴人安田敏から聞いた話によると、被告訴人池田宏美以外は皆、金沢西警察署に出向いてそこで供述調書の作成をしたということになっていました。

被害者AAさんがいなくなったので、パソコンの操作が出来ず伝票を手書きで書かなければならず、ものすごく忙しく大変な目にあっている、というような話でした。

供述調書の「一」によると「一昨年の八月」から市場急配センターに働いている、という話になっています。つまり平成2年の8月ということになるかと思いますが、市内配達が金沢市場輸送と同じ建物にあった頃には、確かに姿を見た記憶がありません。

平成3年の7月16日までは18歳だったということになりそうですが、高校を中退したとも聞いておらず、勉強は嫌いでまんじゅうつまり0点ばかりだったと自慢していたぐらいなので、高校には行っておらず中卒であると考えられます。

一度だけ、市場急配センターに来る前の仕事の話を聞いたことがありましたが、内装屋のような仕事をしていたと話していました。ちょっと具体性のある内容も含まれていたように思いますが、親方との関係について何か語っていたような気もします。

あえてそういう口ぶりをしたのかもしれませんが、その親方のような人物が、市場急配センターとも関係があって、その縁で市場急配センターに来たような話しぶりだったかもしれません。私から市場急配センターへの入社のきっかっけを聞くことはなかったと思います。

供述調書の「三」では、私の入社時期について昨年の4月頃と供述していますが、実際は6月の下旬だったはずで、けっこうな開きがあります。また、私が入ってきた当時、被告訴人多田敏明は免許停止中で、被告訴人安田敏のトラックに同乗して仕事をしていました。

私が市場急配センターに来る前から、被告訴人多田敏明のことは被告訴人安田敏からちらほらとは話を聞いていたとも思います。もともと被告訴人多田敏明が受け持ちだった内灘・高松コースを被告訴人安田敏がするようになり、それに同乗していました。

免停の原因らしい話としては、彼女と小松市の小松インターの近くのラブホテルに行き、その帰りに高速道路である北陸自動車道で事故を起こしたという話をしていました。ラブホテルを強調していたのも彼らしいと思いましたが、土砂降り雨の中で事故になったとも言っていたように思います。

車はフェアレディZで、それも新型だったような口ぶりでしたが、事故で廃車になったとのこと。単独の事故で免停というのもどうかとは思いますが、そういう関連付けで話をしていたと記憶には残っています。

同じく供述調書の「三」で、よく一緒に食事をしたとありますが、これは事実であるものの、缶ジュースやタバコ代を含め全て私のおごりでした。こだわるつもりはないですが、そういう事実です。

同じく「三」のなかに、「Aちゃん」とありますが、たしかに運転手というか社員の多くは、彼女のことを指したり呼ぶときに「Aちゃん」と言うことが多かったですが、被告訴人多田敏明に限っては「事務員」などと呼ぶことが多かったように思います。

供述調書「四」においては「同僚等」という言い方をしていますが、その同僚として考えられるのは被告訴人安田繁克ぐらいです。たぶん後の方でもそういう言い回しで被告訴人安田繁克のことを語っていたと思います。

私は一番早い方の段階で彼女とのことを被告訴人多田敏明に相談しましたが、そういえば一番最初だったのは被告訴人安田敏に話をしたことでした。9月の終わりか10月のはじめになると思います。ここでいう同僚は被告訴人安田敏を指していることは一応考えられます。

私から相談を受けるようになったのは「今年に入ってから」と述べているようですが、12月の中頃ではなかったかと思います。どの仕事から戻った時であったか思い出せませんが、市場急配センターの会社の前の方にトラックを停めていた時、その車の中で話をしたように記憶しています。

それは割と早い時間帯でもありました。22時とか23時という時間帯ではなかったかと思います。トラックは会社の正面に向けて縦に駐車していました。自分の大型車ではなく、被告訴人多田敏明がよく乗務していた4トン車であったような気もします。ウィング車です。

彼女に対する情報がほとんど入らなかったこともありますが、2つ違いの年下と年代も近いので、彼には相談をしていました。仕事で一緒に行動することも多かったのですが、それも被告訴人らの計画的な采配であり、偶然ではなかったと思います。

そもそも私が被告訴人多田敏明と個人的に話をするようになったのは11月のことで、被告訴人東渡好信が茨城県古河市の青果市場に連れてきたことがきっかけでした。その時に初めてじっくりと話をするようになり、割と親しい間柄になったのです。

その時、被告訴人多田敏明は前の日の夕方、七尾市で荷物を積んでから同じ七尾市内の被告訴人東渡好信の自宅に行き、そこで食事をごちそうになったと話していました。娘の話をしていましたが、姉妹が二人か三人いるという話で、揃って美人だと話していました。

被告訴人東渡好信の娘の話が出た時、私はすぐにぴんと来たので、実際にそれらしい娘の姿を見た一週間後ぐらいではなかったかと思います。被告訴人東渡好信の娘だとすぐに話を聞きましたが、短大生とも聞いたかもしれません。

市場急配センターの一階にいたように記憶していますが、正面からは背を向けた方向で椅子に座っていたように思います。それでも一瞥で顔は見たように記憶しています。どんな顔だったかはすぐに忘れましたが、見たこともない女性の姿でした。

記憶が曖昧になっていますが、ちょうど用事があって二階に上がるところで、二階に上がってすぐに誰かから被告訴人東渡好信の娘だと聞いたような気がします。被告訴人池田宏美の口から聞いたようにも思いますが、娘が来ているという程度の内容だったと思います。

そのあと一階に降りてもう一度、娘らしい女性の姿を見たという記憶はないのですが、この間に起きたのが被告訴人安田敏の工事現場突入でした。わざと突っ込んだ可能性が高いとうことで、突入ということにしています。

これは本来、被告訴人安田敏の関与として記録したほうがよいと思いますので、そのようにしたいと思います。

この項目の記述はいったん閉じておきます。

2014-06-24 火 15:03> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

被告訴人安田敏の事件への関与、果たした役割について

* DONE 平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日

2014-06-24 火 15:15> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

内容としては*裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日?の続きにもなります。

たまたま被告訴人東渡好信の娘らしい女性の姿を見かけてすぐに 2階の事務所に上がり、たぶんそれからすぐのことであったと思いますが、被告訴人安田敏がその2階の事務所に入ってきました。トラックが動かなくなったというような話を始めたと思います。

なにか要領を得ない説明でしたが、会社の近くということですぐにその場に向かいました。その時点で外はすっかり暗くなっていたと思います。たぶん11月の中頃か、あるいは上旬のことなので割と遅い時間だったと思います。

外から戻ってきて被告訴人東渡好信の娘らしい姿を見かけた時点で、外は暗くなりかけていたような気もします。二階に上がると被害者AAさんの姿もあったように記憶しておりますが、はっきりした時間帯というのは記憶にありません。

説明がややこしくなるので、Googleマップを利用して見取り図のようなものを作成したいと思います。

平成3年11月、被告訴人安田敏が計画の一環の行動として大型トラックを突入させた場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?authuser=0&hl=ja&mid=zWXtOqvyZ-Jo.kUMv6UzSOEuU

上記のようにGoogleマップでマイプレイスを作りました。リンクを始めに開くと小さく広く表示され、ポイントが掴みづらいかとも思いますので、私が伝えたい状態でのスクリーンショットを作成しました。次の写真付きツイートです。

2014-06-24-154435_平成3年11月、被告訴人安田敏が計画の一環の行動として大型トラックを突入させた場所.jpg pic.twitter.com/u0LbdDWxHq

普段通勤でも通っていた道路だとは思いますが、なにか側道の工事をやっていたような感じでした。交通の規制とかもやっていなかったと思うので、普通に車で通っていると工事をしていることも気が付かなかったと思います。

現場についた時にはすっかり夜という状態で月明かりもなかったと思います。周りには街灯のようなものもなかったと思うので、なにがどうなってトラックが動かなくなったのかさっぱりわからない状態でした。

被告訴人安田敏本人は、たしかトラックをUターンさせようとバックをしていたらタイヤがはまって動けなくなってしまったと言っていたと思いますが、そもそもそんな場所でUターンをする必要性も理解できるものではありませんでした。

かすかな記憶ですが、初めは被告訴人安田敏を含め3人ぐらいで歩いて現場に向かったように思います。どのような状態でトラックが動かなくなっていたのかも思い出せないのですが、かなり手こずる状態ではあったと思います。

しばらくすると割と大勢が集まってきました。多かったのは金沢市場輸送の事務所で麻雀をやっていたと思われるメンバーでした。細かいことは記憶が薄れているので思い出せませんが、10人以上は集まったと思います。

はまったトラックを引き出すのに活躍したのは金沢市場輸送の配車係兼社長だった被告訴人本恒夫でした。昔、暴走族がよく着ていた特攻服のような作業服姿であったことも印象に残っていますが、引き上げが成功する前後には、一時的な土砂降り雨が降ってきたのも印象的でした。

あの土砂降り雨だけは人為のなせることではないと思いますが、相当に激しい雨でした。ワイヤーをかけて別の大型トラックで引っ張ったように思います。雨は偶然と思いましたが、余りに手際が良かったので、その時点でも予定していた行動を実演したのかという考えも 浮かびました。

強い雨が降りだしたこともあり、引き上げが成功するとすぐにその場で人が帰って行きましたが、被告訴人安田敏は誰一人に対しても、お礼やねぎらいの言葉をかけることはありませんでした。

神妙にも見える態度で黙り、深く何かを考えている様子には見えていました。一般的な理解だと運転でミスをしたことを悔いているのかと思えるところですが、そうでもなさそうな気はしていました。

会社に戻ってから2階に上がり、流しやトイレがある間仕切りの前の辺りにいたのですが、長い時間考え事をしていた様子だった被告訴人安田敏が、口を開きぽつりと、「あの女、東渡の娘やってんなぁ」としみじみ感慨深そうつにつぶやいたのです。

そのあとだったと思うのですが、私が「手伝ってもらったらありがとうぐらいいえや」というと、被告訴人安田敏は「そんな言葉、長い間つこうとらんし、忘れてしもうたな」などと言っていました。

挑発混じりの非常識な言動ですが、このあたりが本格的な始まりだったように思います。徐々に感覚が狂わされたようなところもあったかと思いますが、被害者AAさんのことでも否定的に挑発したり、人の心をかき乱すような発言、言動がありました。

「あきらめや」というのも呪文のような口癖として繰り返していましたが、つねに否定の一辺倒だったわけでもなかったです。具体性のある重要な発言なので、これも独立した見出しの項目にしておきたいと思いますが、手編みのセーターの話です。

被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんから、被告訴人安田敏がスピードを出して危険な運転をしているので、注意をしたほうが良いと言われるようになったのも、工事現場突入の前後だったと思います。あるいはもう少しあとのことであったかもしれません。

被告訴人松平日出男からも同じようなことを言われましたが、三人とも被告訴人安田敏には気を使った様子で、直接注意をすることはなく、私から注意をするようにやんわりと言ってきたのです。

12月になって普通に雪が降る時期になってからだったと思いますが、その時も被告訴人安田敏がスピードを出して危ない運転をしていると被告訴人東渡好信から言われた時だったと思いますが、被告訴人安田敏は吹雪の中、関越道をゆっくりと走っていると当然のことのように話していました。

どれぐらいのスピードを出しているのかと聞くと、80キロというのですが、彼はそれをものすごくゆっくりしたスピードのように話していました。市場の仕事をしていると吹雪でも80キロ以上で走行することはありますが、とてもゆっくりという感覚では通常ないはずです。

これも同じく平成3年の秋頃だったと思いますが、被告訴人安田敏の出勤の時間が遅いとか連絡が取れないと、苦情のようにこの時も、被告訴人松平日出男や被告訴人東渡好信が私に言ってきたことがありました。

電話を掛けても確かにつながらなかったのですが、後で聞くと電話機のコードを差込口から抜いているという話でした。

ちなみに被告訴人安田敏の家というかアパートの電話機ですが、当時でもほどんど見かけることのない、手回しのダイヤル式の黒電話でした。妻となった彼女のアパートだったので、そちらの持ち物だったのかもしれませんが、変わっているとは思っていました。

腫れ物に触るという感じではなかったですが、被告訴人安田敏が非常識なふるまいをしても、直接注意するものはおらず、紹介者である私の方にどうにかしろとか、どうにかしたほうが良いという、話を持ってきていたのです。

工事現場の話でもうひとつ書いておきたいことがあるのですが、被告訴人安田敏ではなくその場にいた人物の話です。独立した項目にするほど強い関連性があるという判断材料もないのですが、気になる存在の人物であり、多少なりとも事件との関連もあるかと思われる人物の一人です。

やはり独立した項目として配置しておこうと思います。被告訴人安田敏に関しては、平成4年2月14日の白菜散乱の件として項目を立て、工事現場突入以降の言動とつながりについても併せて記述をしたいと思います。

2014-06-24 火 17:15> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

事件の舞台となった市場急配センター株式会社と金沢市場輸送株式会社について

* DONE 新しい事務員を紹介予定だったという運転手について_平成26年6月24日

    CLOSED: [2014-07-06 日 11:44]

2014-06-24 火 17:29> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

内容的に一部*平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日?の続きになります。

被告訴人安田敏が身動きできなくした大型トラックを引き上げた時には、夕立のような強い雨が降っていました。夕立と言ってもすっかり暗くなった時間帯です。雨は引き上げる前から降っていたと思いますが、引き上げに成功すると皆すぐにその場を立ち去りました。

私はその時、誰かと一緒に側にいたワゴン車に乗り込み、それですぐ近くではなりますが、市場急配センターまで送ってもらいました。誰の車かもわからなかったのですが、運転をしていたのは顔をよく知る人物だったので、ワゴン車はその人の車だったのだと思います。

その人は木村という名前で呼ばれていたと思います。今思えば名前をちょくちょく耳にする機会はありました。金沢市場輸送にいる時から姿は見かけていて、顔も知っていたと思いますが、その頃には名前も知らなかったと思います。

かなり前から顔は見ていたと思いますが、いつ頃からとなると記憶ははっきりしません。まだ市場急配センターの建物がなく金沢市場輸送に同居していた頃から、見かけていたような気もしますし、そうでもない気もしますので、その辺りの記憶はかなり曖昧です。

市場急配センターの事務所が出来てそちらに移転してからも、市場急配センターの運転手の姿は、金沢市場輸送の給油機のところで見かけることがありました。

そういえばその木村さん本人が、石川県加賀市の片山津温泉「ながやま」での慰安会の世話をしたものの、被告訴人竹沢俊寿に代払いしたお金を踏み倒されたような話をしていたことがありました。信じられないとんでもない人間だという話しぶりでした。

その話は市場急配センターの一階休憩室で聴いたようにも思いますが、差し向かいで直接話をしていたわけではなかったように思います。直接言葉を交わしたことは一度もなかったような気もしますが、その時は会話の輪の中で聴いたような気もします。

あるいは平成4年1月11日の夜のことで、場所は片山津温泉「せきや」の客室のなかでした。出入口に近い方に小さい部屋があって、そこで数人が集まって麻雀をやっており、木村さんもメンバーとしてその場の麻雀に参加していました。

強面という風貌の人でもありましたが、普段はあえてそれを隠しているのかと思えるほど、地味な格好の作業服姿でまるで農家のおじさんという出で立ちでしたが、客室で麻雀をしているその時だけは、黒い革のチョッキを羽織り、ギャングかマフィアの要人にもみえるぐらいでした。

酒も入っていたのかもしれませんが、普段は無口なのに、割と陽気な感じでもあったと記憶しています。その時は近くで言葉を交わす会話に私が加わるようなことはなかったと思います。

年齢は60代にも50代にも見えたので、はっきりしたことはわからず、年齢の話を聞くこともなかったと思います。

割と早い段階で、コンパニオンの仕事をしていると聞きました。増泉とも聴いたと記憶しています。加賀温泉のホテルに派遣するようなコンパニオンの仕事だったと思います。

どちらかといえば金貸しにも見えるようなタイプで、お金に困っているようにはとても見えませんでしたが、運動でも兼ねていたのか運転手をしていました。それも社員ではなく、ポンコツの2トン車を持ち込みにして仕事をしているような話でした。

そのトラックは何度か見かけていましたが、相当かなりのポンコツにみえました。宇出津のK村さんや姫のNKさんが、同じく持ち込みで乗っていた2トン車もポンコツには見えていましたが、それと比較しても状態が悪いようにみえるトラックでした。

さきほど片山津温泉「ながやま」の慰安会について書きましたが、時期は平成2年の6月の後半ではなかったかと思います。これも一つの目安になっていますが、被告訴人浜口卓也が来る前だったと思います。いればいたはずの姿がなかったからです。それにいたらどうなっていたのかと思うこともありました。

配車係の一人だったYTの姿もその慰安会の時点ではあったように思います。あとになってラウンジのような場所で飲んでいて、イワシのダンプにも乗務していたSSと、ケンカになったとかケンカになりかけたという話を誰かに聞いた覚えがあります。

なんとなく7月にはYTはやめていなくなっていたという感覚があるのですが、同じく配車係の仕事をしていたFHも一緒にやめたはずです。そういえばFNの方は、多少なり被告訴人松平日出男と仕事上の付き合いもあったようで、年も近く気が合う関係だったことも考えられなくはないです。

2月の初めに福岡に行った時も、帰り荷はそのFNの関係でした。中西運輸商で一緒だった二人の人物とも、電話で話をする機会がありましたが、一人は九州の人でした。九州に駐在員かちょっとした支店をおいているような話だったと思います。

河北郡津幡町に会社がある運送会社だと聞いていましたが、今Googleで調べたところ、それらしい情報は見つかりませんでした。運送会社の名前も一部記憶がはっきりしなくなっています。

あれも平成4年の1月か2月頃だったと思いますが、北陸ハイミールでその会社の大型トラックを見ることがありました。その時の運転手ですが昭和59年に私が初めて金沢市場輸送に入社した時にいた運転手だったと思います。

言葉を交わすことはありませんでしたが、その人に間違いはないと思いました。彼は免許取り消し中で、私のトラックに同乗して指導などしていたことがありましたが、まもなくやめていなくなりました。

ながやま 大江戸温泉物語ながやま【公式サイト】 石川県 http://bit.ly/V8y4fz

片山津温泉のながやまはホームページも見つかりました。数年前はテレビのCMでも見かけていたような気がしますが、そういえば最近は温泉旅館のCMというのもほとんど見かけなくなっています。

私が子供の頃は、一番良く見かけるようなCMが石川県内の温泉旅館のCMでした。バブル景気の崩壊で大打撃を受けた業界とも聞いていますが、数年前の一時期はちらほらとCMを見かける時期もあったかと思います。今はネット社会なのでテレビCMの必要性も低くはなっているのかもしれません。

金沢市場輸送での温泉での慰安会というのは、私が経験したので2回だけでしたが、いずれも全員参加型になっていました。それまでも希望者だけを募ってやってはいたようですが、ほとんどが麻雀好きのメンバーの参加だと聞いたこともありました。

ながやま、での慰安会の時点で、私は被害者AAの存在を意識していたように思います。彼女の姿はありませんでしたが、不参加なのかと考えたようにも思います。

金沢市場輸送の事務所で彼女の姿を見かけるようになって一月あるいはそれに近いぐらいの経過があったようにも思います。市場急配センターの事務員という意識はなかったようにも思うのですが、部分的にそのことは自分の意識の状態として記憶に残っています。

次も同じような時期ではなかったかと思いますが、翌年つまり平成3年のことです。その時の慰安会は同じ加賀温泉でも山代温泉であったと聞いたように思います。運転手以外の事務員や社長だけでの慰安会があり、それには被害者AAさんも参加したように聞きました。

被告訴人竹沢俊寿がその慰安会の時に、被害者AAさんに自分の車である2枚ドアのジャガーをやるとか言っていたという話も聞いたように思いますが、これは別の機会にも聞いた覚えがあり、彼女本人から聞いたようにも思います。温泉の時とは聞かなかったとは思います。

その話を誰から聞いたとなると、被告訴人安田敏から聞いた可能性が高いと思いますが、そういう情報の多くは、被告訴人多田敏明から聞いた話らしく、被告訴人安田敏もそのように話すことが何度かあったと記憶しています。

被告訴人安田敏がいつ頃から市場急配センターで仕事をするようになったのかはっきり思い出せないところもありますが、初めに接触をして来たのは4月の終わり頃だったとは記憶しています。

その後、まだ務めていた輪島屋鮮冷の運転手として4トン車に乗って金沢市場輸送に来て、荷物の積み替えをしたことも記憶しています。冷凍物だったと思いますが、パチンコオークラの駐車場の敷地での積み替えでした。給油機のブロック塀の裏側です。

遅くても5月の10日頃には金沢市場輸送の入社が決まって、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになっていました。50万円の前借りの保証人であり紹介者である私にも説明がないまま、当然の事のようにすぐに市場急配センターでの仕事が決まっていました。

金沢市場輸送の社員として金沢市場輸送での仕事というのは一日もなかったように思います。金沢市場輸送は長距離が主体の運送会社ではありましたが、前にいたYTとFHの二人の配車係も、配車係の仕事というのは被告訴人本恒夫にほとんんど与えられなかった様子でありながら時々の仕事はしていました。

私の知らないところで打ち合わせができていたとしか思えないような事の運びでしたが、私が市場急配センターに移った直後、たぶんその初日から毎日、市場急配センターで被告訴人池田宏美の姿を見るようになったのも、偶然とは思えませんでした。

それまでは毎日、金沢市場輸送の事務所で姿を見ていて、運転手なのでいつも事務所の中を見ていたわけではなかったですが、席を外している姿を見たことがなかったような被告訴人池田宏美だったのです。市場急配センターの仕事をしていたというのは説明はなくても納得出来ましたが。

その後も市場急配センターでは被告訴人池田宏美が席を外す姿というのは、滅多に見かけることがなかったと思います。被害者AAさんとは違い、いつも割と遅い時間まで事務所で仕事をしていました。18時ころは普通に事務所にいたとも思います。

19時ともなれば二階の事務所に電気が付いている事自体、かなり稀だったとは思いますが、被告訴人池田宏美が帰っていく姿というのも余り見かけなかったような気もします。

被告訴人池田宏美はいつも会社事務所の正面前に車を駐車していました。一階の休憩室から外を見ていれば、姿は見えていたと思いますが、帰っていく姿というのは余り見かけることがなかったように思います。

長距離の運転手は当日の運行がない場合、一応は17時が定時の退社時間ということになっていたかと思いますが、タイムカードというのもなかったと思いますし、そのあたりはかなりいい加減だったと思います。

早く帰ってもすることがないし、17時から18時というのは道路が渋滞で混み合う時間帯でもあったので、時間を潰すことも多かったと思います。アパートに戻ってテレビを見ようとは考えたこともなかったと思います。

一階の休憩室にも、半分近くが畳の座敷になっていて小さなテレビが置いてありましたが、そのテレビをつけてみること言うことはほとんどなかったと思います。

それだけに平成4年4月1日の事件当日、そのテレビで全国的に話題の注目選手になっていた松井秀喜選手の金沢の星稜高校と昔、芸能人が多いと聞いていた東京の堀越学園の高校野球の試合を見ていたことは、そのテレビが点いているもの余り見た覚えがないということで、強く印象に残っています。

そのテレビは赤い色の小さいテレビだったと思います。平成3年の9月、被告訴人安田敏と二人で8号線バイパスの電化のコジマに行ったのですが、店に入って少しすると被告訴人池田宏美とAAさんが来ました。テレビはその時に被告訴人池田宏美らが買ったものだと思います。

休憩室の内装が完成した直後だったと思いますが、その建築工事中に、被害者AAさんのフイルム貼りの手伝いがありました。テレビと電化のコジマのことは9月の20日頃かと思います。

自由テーマのような感じになってきて、何を目的に書いているのか自分でも把握しづらくなってきました。この項目では木村さんのことがメインテーマだったと思いますが、関連した雑多な事実関係も盛り込んでおこうかと思います。

当時は、ホテルながやま、という名称であったようにあったように思い、ながやま、だけではわかりにくいと思うので、ホテルながやま、ということで書いていこうと思います。

木村さんが世話をしたというホテルながやま、の仮払代金を被告訴人竹沢俊寿が踏み倒したという木村さんの話は後日談でありますが、私自身、ホテルながやま、の慰安会で木村さんの姿を見たという記憶は残っていません。

そもそも私にとってそのホテルながやま、での慰安会は記憶の少ないものでした。旅館に入ってから大浴場に入ったような記憶も微かには残っているのですが、夕方に宴会がありました。これもなんとなくは記憶していますし、市内配達の社員との合同であったことも覚えています。

ただ、その宴会の途中に私はものすごく眠くなりました。直前の仕事や運行のことも記憶にはないのですが、たぶん酒を飲んだので急激に眠くなったのだと思います。

私は誰にも告げず、宴会場を抜け出し、部屋に戻って布団に入って眠りました。熟睡していたと思いますが、何時間か寝ているうちに起こされ、急かされて車に乗り込み、そのままホテルながやま、を出て金沢に帰ってきました。

状況がのみこめないまま、一緒に車に乗って金沢に帰ってきたのですが、それから金沢市場輸送の給油機の前辺りで、けっこう長い時間話をしていました。だいたいの推定ですが、ホテルながやま、を出たのは22時から23時の間ではないかと思います。

長い時間、金沢市場輸送の前の給油機の辺りで話をしたあと、その場にいたたぶん全員で、8号線バイパスの住所は諸江になるのではと思いますが、そこの「くるまやラーメン」に行って夜中にラーメンを食べたことを印象的に記憶しています。

給油機の前辺りの会話では、なぜホテルながやま、を抜けだして帰ってくることになったのか事情を理解することが出来ました。

宴会場ではなかったと思いますが、その後に行った酒を飲むような場所というか店でのことであったと思います。どこまで具体的な話を聞いたのか細かくは思い出せませんが、話を聞いた私としてはそのような理解でしたし、宴会場というのは止める人も多いので考えにくいと思います。

なにが原因だったのか話を聞いていてもはっきりとはわからない部分がありましたが、金沢市場輸送の運転手と市場急配センターの運転手の間で、衝突というかケンカがあったという話でした。社員ではなく運転手と書いたのは、双方に運転手ではない持ち込みの運転手が含まれていたからです。

そのケンカの構図は市場急配センター対金沢市場輸送ではなく、むしろ能登の内浦対能登の輪島という構図にも見えました。

輪島というのは輪島市ということでわかりやすいと思いますが、内浦というのは、能登半島の外浦との区別で使われる言葉です。要するに富山湾に面した宇出津や小木、松波辺りを指す言葉ですが、その意味では珠洲市の飯田や蛸島も含まれるはずではあります。

その珠洲市は狼煙に近い禄剛崎灯台の辺りを境に、外浦と区別されているかと思います。珠洲市でも折戸、高屋、木ノ浦海岸、馬緤海岸、大谷という辺りは外浦になります。

大谷は小さなスーパーもあるその辺りでは町らしい町で、その先の真裏海岸が輪島市との境です。輪島市に入るとそこは割と知名度も高い景勝地、曽々木海岸です。それから輪島市全体を外浦というと思いますし、富山湾とは反対側の富来町など羽咋郡の海も外浦に含まれていると思います。

富来町には能登の景勝地として有名な巌門などもありますが、能登金剛とも呼ばれているかと思います。外浦に共通していることは、風が強く波が荒いことでもあります。その点、富山湾に面した内浦は海も遥かに穏やかです。

平成17年辺りに市町村合併があって、それまで珠洲郡内浦町であった松波や小木は、私が生まれ住む宇出津の鳳至郡能都町、それと柳田村と合併して、鳳珠郡能登町となりました。

ちなみに同じ頃だったと思いますが、富山湾とは反対側でもあった同じく鳳至郡の門前町は、輪島市に吸収されました。宇出津から輪島市の曽々木海岸までも距離的には22キロ程度なのですが、小さい頃の感覚が未だに残っていて、ずいぶん遠いところという感覚が私には残っています。

宇出津より珠洲市の飯田の方が町としては大きいですが、宇出津には、あばれ祭り、という割と有名な祭りがあり、それと石川県立水産高校という寮もある高校もかってはありました。小木港は北洋の遠洋業業の中心地で、それらが人のつながりにもなっていたと思います。

金沢市場輸送には輪島の運転手が、M、O、Y、H、S、Kと5人いました。いずれも大型車の運転手ですが、Yは初め4トン車に乗務していました。都合よくダブりがなかったので苗字のイニシャルで列挙することが出来ました。

Oが輪島崎という他は、海士町の者だとだと聞いていました。最近では余り聞かないことですが、輪島市でも海士町というのは特別な存在でした。輪島崎も海士町と同じく輪島市内の漁師町ですが、海士町とは仲が悪く、Oはかなりの例外とも聞いていました。

おまけではないですが、もう一人海士町でYという運転手がいましたが、彼だけはなぜか例外的に鮮魚を運ぶ保冷車には乗務せず、大型車でも平ボディ車に乗務していました。仕事の内容も異なるので、仕事で一緒になることも比較的少なかったと思います。

事件とも関連が薄いのので説明から除外してもいいぐらいなのですが、ひとつだけ気になることがあったので、そのことを先に書いておきたいと思います。

それは平成3年の9月、市場急配センターの一階休憩室が完成した直後のことであったと思います。その輪島のYがその休憩室に来ていたのですが、その場には被告訴人安田敏もいました。Yが一緒に来たのは被告訴人安田繁克ではなかったかと思うのですが、このところ思い出すこともなかったので。

このところ思い出すこともなかったので、はっきりとは思い出せないのですが、同行者がもう一人いて、私にはかなり意外な組み合わせにも思えました。

彼女か結婚の話題になった時、被告訴人安田敏が彼女がいることについて、「好きな人がいても言えないので不自由」という趣旨の発言をしました。その口ぶりを聞いた時、被害者AAさんのことを指しているようにも思いましたが、同時にかなり演技臭い台詞にも思えました。

微かではあったと思いますが、被告訴人安田敏が何かを企んでいるのではないかと、ふと感じた最初の機会であったようにも思います。横恋慕をしているのかと考えたこともありましたが、そうとは考えにくい言動も感じられていましたし、同棲している彼女がいるのにという思いもありました。

その横恋慕に関しては同じく、被告訴人東渡好信により強く感じることもありましたが、あるいは本気の部分もあったのかもしれません。その被告訴人東渡好信も彼女がいると話していましたし、平成4年の正月明けの深夜には入江の八幡のすしべん、でその彼女と一緒にいる姿も目撃していました。

やはり輪島のYと被告訴人安田繁克は一緒に来ていたと思うのですが、同行者として一緒にいたのは、私の過去に作成した正面の内容が正確だと自信を持って言えます。現在の私の記憶では、このことに自信を持って断定することは出来ません。

あるいは電化のコジマのテレビと同じ日であったようにも思います。どちらも午後の比較的夕方に近い時間であったと思います。あれも偶然ではなかった企ての一つだった可能性があるとは思いますが、冬至の私にはそういう警戒的な意識もなかったので、見落としもあったものと思われます。

輪島のMは、その後に続く輪島の若者の入社のきっかけとなった人物ですが、本書ではMYと表記してきたかと思います。そのMと竹林は、慰安会のようなものは大嫌いなので絶対参加しないと言っていたので、たぶん参加もしていなかったと思います。

竹林に関しては、ホテルながやま、の慰安会の時点で金沢市場輸送に在籍していたのかも微妙な時期かと思います。たぶんやめていなくなっていたと思います。

ただ、竹林本人が慰安会のような温泉の一泊旅行に対する否定的な意見を強い訴えとして聞かされていた記憶があるので、どうなのかなとは思った次第です。一言で言えば変わり者という一面でしたが、ふとしたことに強いこだわりを持ち、理屈で説明をするような人物でした。

時刻は6月25日10時29分になっています。ほぼ昨夜の状態を維持して、続きを書いていこうと思います。書いているうちに思い出すこともあるかもしれませんが、20年以上前のことなのでしんどいところもあります。

夜にホテルながやま、から一緒に戻ってきたメンバーとして、はっきり記憶に残っているのは輪島のO、同じくH、同じくSでしょうか。加えてたぶんいたと思うのが輪島のY。はっきりしないのが輪島のKで、Kは金沢市場輸送に入るのも一番後であったと思いますし、いたのかも時期的に微妙。

いたような気もするしいなかったような気もするのが平ボディ車に乗務していた輪島のYでした。彼は輪島のyや同じくh,同じくk、同じくhらより、学年で一つ年上と聞いていたと思います。前者の4人は確か私より学年で2つ年下と聞いていたように思います。

もう一人いたと思う人物でその場にいたのが意外に思っていたのが、珠洲郡内浦町新保出身と聞く、KOでした。KOに関しては本書において、これまでに何度か書いていることがあると思いますが、私が大きく重視するのが、関越道での勘違い飛び降り自殺のことです。

仮にその話が作り話であるとすれば、KOは金沢市場輸送と仕事以外の特別な関係があり、組織的な工作活動員であった可能性も出てくるのではと考えています。重要なことだけに割とぼかした表現で中途半端に書いていたところもあるかと思います。警察や検察なら簡単に確認できるはずですが。

新潟運輸の長距離運転手で、石川県珠洲郡松波の松波中学校出身。昭和53年頃には松波中学校の相撲部で個人戦の優勝候補とも目されて活躍、という具体的な事実をKOは私に話していました。

私は昭和52年の4月に能都中学校に入学し1年生になったようです。昭和55年の4月に水産高校小木分校に入学したことは記憶がはっきりしているので、そこから逆算してみました。35年以上前のことになるので、思い出すのも容易ではありません。

能都中学校に入学してすぐに相撲部に入部しましたが、時期としてはっきりと覚えているのは9月の10日頃にあったと思う羽咋郡富来町の富来中学校での新人戦でした。この時は民宿に一泊しましたが、民宿に泊まったというのはその時生まれて初めての経験だったと思います。

他にも相撲の大会はいくつもあったのですが、何月頃だったかとなると記憶にありません。相撲では外でほとんど裸に近い状態ですが、特に寒い思いをしたという記憶もないので、10月以降3月などには大会はなかったのではと考えられます。4月でもまだけっこう寒そうです。

他に強く印象に残っている大会が松波大会でした。松波中学校の場所ですが、私は2009年ぐらいになって初めてその場所を知りました。バスで珠洲市に行くようになり、松波中学校の前のバス停にも停るようになったからです。

その場所は割と町外れで、松波から新保の海岸線経由で小木港の方に行く道路の初めの方にありました。もう少し行って左に入って行くと、松波の自動車学校があって、そこには若い頃よく行くことがあったのですが、松波中学校の場所というのは気が付かなかったです。

松波には他にも説明の箇所があるので、Googleマップのマイプレイスを作っておこうかと思います。

告訴状の説明に伴う旧珠洲郡内浦町松波付近の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/0/edit?mid=zWXtOqvyZ-Jo.kmNqnYbHRmoQ

上記がリンクです。地図を作成しました。作成の過程で私はこれまで長い間、大きな勘違いをしていたことに気が付きました。

それは新保の場所です。ざっと地図を見回していても発見できなかったので、検索機能の「現在のビューの場所の近くを検索する」というのを使いました。これは今日初めて知った選択肢です。

すると一発で新保の場所にマークがついたのですが、自分がそれまで新保だと思っていた場所とは異なり、その辺りの海岸線では全く反対方向の位置でした。

私は小木から向かって行くと、白丸の先に新保があって、その辺りが道沿いの海岸線の終端だと思っていました。ところが実際は小木から越坂の少し山間の道を抜けて海岸線に出た初めの辺りが新保で、五色ヶ浜海水浴場より手前側にあるのに驚きました。

どうも越坂の隣がすぐに新保になるようです。同じ能登町でも細かい地名があって、どこなのか知らないものもありますが、やはり隣接している可能性が高そうです。

小木から一ノ瀬、越坂の辺りは九十九湾周辺ということもありますが、小木と同じという意識が強いです。中学校に通うのも小木中学校と決まっていると聞いていました。

KOから以前、新保では小木中学校、松波中学校とどちらでも選べると聞いていました。私は新保が白丸の先で松波の町に近いと考えていたので、KOはあえてより離れているとも考えられる小木中学校を選んだのかと考えていたのです。

前にも書いていることと思いますが、KOは私が当然に関越道から飛び降り自殺した松波の昭和53年当時相撲部の有力選手のことを知っているような前提で、話を始めたという印象があり、これがずいぶんと長い間気になってきました。

小木港から海岸線で松波に向かうと、白丸を過ぎた辺りから海岸線を離れ、田んぼや山間の道に入っていきます。その辺りには立壁や川尻という地名もありますが、松波中学校への通学範囲と考えられます。

個人的な感覚ですが、その立壁や川尻から小木中学校への通学を希望するというのはよほどの事情がない限り無理があると思いますし普通にないことだと思います。

繰り返しますが、私はなぜか勘違いをして新保を白丸より少しだけ松波の町に近い在所だと思い込んでいました。仮に白丸だとしても私はどこの小学校の通学範囲なのかわかりません。白丸小学校というのは聞いたことがあったかもしれませんが、あったような気はします。

その相撲部の有力選手は白丸の周辺に家があって、KOとは幼なじみか小学校が同じ関係で、有力選手は松波中学校を選択し、KOは小木中学校を選んだんとかと考えることもありました。二人が学年で同級生であることは間違いないと思います。

松波での相撲大会ですが、これはやはり昭和53年で私が中学校2年生の時と考えられます。先ほどから説明している松波中学校の有力選手は学年で私の一つ上でしたが、優勝候補の一人だと聞いていました。私が1年生の時の3年生のメンバーの姿というのも思い浮かんでは来ません。

他に珠洲市の緑ヶ丘中学校にも優勝候補と目される選手がいましたが、かなりの巨漢でした。松波中学校の有力選手の場合は体格はいいものの、オリンピックの水泳競技の水泳の選手によく見かけるような体型であったと記憶に残っています。

私としてはKOに中学校の時相撲部にいたという話はしていないと思うのですが、あるいは珠洲市大谷のYSさんのことで話すことはあったかもしれません。KO自身が相撲部に関係していたという話は全く聞いた覚えが無いですし、それはまずなかったと思います。

KOは珠洲市大谷のYSさんのことをよく知っている口ぶりで話をしていたような記憶があります。その時はさほど気にも留めなかったので詳しい話は聞かなかったように思いますが、小木の遠洋漁船で知り合ったような関係だと、私は捉えていたように思います。

KOは自分で、小木中学校を出てすぐに遠洋漁船の漁師になったと話していたと思いますし、漁師をやめて初めての丘の仕事が金沢市場輸送だと話していたように思います。丘というのは出漁したあとの海の上での生活に対応にした陸上での生活のことです。

昭和59年の10月の時点ではKOの姿はありませんでしたが、ほぼその直後に入社したとも聞いたように思います。小木港の船に乗っていたと言う割には、付き合いのある親しい共通の友人、知人という話は聞かなかったようにも思います。仕事以外でもKOの名前はほどんど聞くことがなかったと。

高校に行っていれば、昭和57年の春に卒業して社会に出ていると思いますので、4年ぐらい小木の船に乗っていたことが推定されます。誰かの紹介で金沢市場輸送に入社したという話は聞かなかったですが、職安を通して入社した可能性が高そうだとは思っていました。本人に確認はしていませんが。

姫のNKさんが金沢市場輸送に入社して4トン車に乗っていると話を聞いた頃にも、そのKOの入社時期は重なっていると思います。KOは割と親しげな感じでNKさんの通称を呼んでいたような気もするのですが、そうだとすれば漁師をしていた時に付き合いがあったことも考えられるかと思います。

初めは4トン車に乗務していたともKO本人から聞いた覚えがありますが、私が二度目に入社して初めて知り合った頃には、冷凍機付きの三菱ふそうの大型車に乗務していました。その頃は三菱ふそうのトラックというのはそれ一台だったと思います。

KOが小木中学校で学年が私の一つ上でしたが、その当時の小木中学校の相撲部の人とは面識もありました。KOがいることはなかったと思いますし、いたというような話も聞くことはありませんでした。

私は能都中学校でしたが、その辺りでは大きい中学校でした。一学年200人前後の生徒がいました。小木中学校の規模というのははっきりわかりませんが、生徒数も3分の1ぐらいかとも考えられます。直接小木中学校に行ったことはなかったと思いますし、現在の校舎とは場所も違うのかもしれません。

いろいろと育っていた環境も異なるので一概には言えないことですが、能都中学校でも他の部活の大会のことが話題になったり、他校の有力選手について話題になることは、まずなかったと思います。

KOがなぜ松波中学校の有力選手の名前を知っていたのか、たまたま親戚関係があったとか、親戚の近所に住んでいる子供で一緒に遊んだことがあったという事情でもあったのなら別ですが、宇出津でも普通には考えにくく、聞いたこともない話です。

その松波中学校の有力選手の名前ですが、1年ほど前までははっきり憶えていたものの、数カ月前からやや記憶に自信が持てなくなっています。前に松波の町中をバイクで走っていて、同じ名前の店を見たのですが、久しく松波には行っていません。

今は松波にバイパスの道路があるので、珠洲市に行く時も町中を通らずに行くことがほとんどです。松波に用事があることもないですし、買い物に行くような店もありません。

宇出津から松波に行くのは十八速(じゅうはっそく)と呼ばれる山間の道路が国道249号線でもあり最短です。小木経由の海岸線だと倍ほど時間もかかるかと思いますが、バスは2つの路線があって、本数も少ないので時間のかかる小木経由でも乗ることが多かったです。

十八速から珠洲市に向かうと松波の町の手前からバイパスに入って海岸線から離れた道を走って飯田の町中まで入るのが普通です。以前は必ず松波の町中を通って恋路海岸を通り、ほとんど海岸線に近いところを走って飯田まで行くのが普通でした。

松波の周辺は小さい山のような地形が多かったり起伏があってて、割と複雑かと思います。Googleマップでも航空写真にしないとわかりにくいところがあるかと思います。

昭和53年と思われる松波の相撲大会の記憶ですが、松波駅に近い場所で小高い山のなかに相撲大会の場所があったと記憶しています。その辺りは金沢の兼六園にも似た自然の風景で、宇出津の遠島山公園にも似ていました。

割と最近になって、松波駅があったバス停の正面の小高い山の上に「松波城址」というような看板があって寺院のような建物も見えていました。相撲場があったのはあの辺りかと考えていたのですが、今日Googleマップの航空写真を見たところ、違うように思いました。

寺院と隣接して職業訓練校の建物があるのも意外でしたが、思いの外海にも近く、相撲場があるようなスペースもあるとは思えなかったからです。その大会の時に、松波中学校の有力選手の話も誰から聞いていたという記憶があります。

今日改めてKOのことを考えてみると、同じ鮮魚の運転手をしていた当時でも、出先ではあまり一緒になることがなかったような気がしました。出先で運転手が一緒になることが多いのは、定期便のある塩釜港、石巻港、それと九州の福岡、長浜の魚市場です。

それでも金沢の中央市場での荷降ろしでは割と一緒になることがあったように思いますし、そういう場合、荷物の積み下ろしを手伝い合って、終わってから一緒に食事をするのが多かったのですが、彼にも何度かおごってもらっていたような気もします。

彼は妻帯者で、輪島の運転手は全員が独身だったという違いもありますが。他の運転手とは生活のスタイルも違ったり、一緒になるようなことも割と少なかったと思います。会社にいてぶらぶらしていることも少なく、アパートも近かったので必要以外は会社にいないようにしていたのかもです。

思い出しましたが、彼は無線が趣味というか熱心で何か大きなグループに所属していたと思います。トラックにその無線のグループのステッカーを貼っていたかもしれません。

ちょっと思い出したので次のように検索をしてみました。インターネットも携帯電話も普及していない時代のことだったと思いますが、情報は散見されるようです。

石芽クラブ - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E7%9F%B3%E8%8A%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96

「石芽会」というスッテカーを運転席のガラスの前においているトラックを見ていたようなことも思い出したのですが、やはり記憶は曖昧で、KOが所属していた無線のクラブとは違うかもしれません。

割とはっきり覚えていることはKOが、自分の使っているハンドル名について「不動の番人」とか言っていたようなことです。全国的にも名の通った大きなクラブだったようには覚えているのですが、記憶は断片的で薄くなっています。

KOがやっていたのはパーソナル無線ではなく、本格的なCB無線だったと思います。ただ、金沢市場輸送でKOと同じ無線仲間というのは私の知る限りいなかったと思いますし、話を聞くこともなかったと思います。

KOの無線仲間については余り話を聞いた覚えがありません。どこの運送会社に多いとも聞かず、それらしい仲間と一緒にいるような姿も見たことがなかったです。

中央市場の近く、もう少し絞って言えばウロコ運送の近くだったと思いますが、無線のショップがありました。子供の頃に行っていた水産高校の文化祭での実習室のことを思い起こすような店内だったと記憶にありますが、倉庫に手を入れたような店内でもありました。

その店には何度か行くことがあったのですが、KOとも一緒に行ったようなことを憶えています。関越道からの飛び降り自殺の話を聞いたのもその頃だったと思うのですが、今考えると無線仲間から得た情報であったのかもしれません。

平成2年の春から夏の時期であったかもしれません。輪島の運転手もほとんど無線をやっていたと思いますが、彼らだけの仲間内でやっていたと思う反面、本格的なCB無線をやっているような話もあるいはきいたかもしれません。

私は輪島のSにパーソナル無線を安く譲ってもらい、それをトラックにつけるようになったのですが、余り使うことはなかったです。

無線といえば、被告訴人多田敏明も無線のクラブに入っているようなことを話していましたが、自分から具体的な話をすることはなかったように思いますし、乗務しているトラックに無線機を付けたいたという記憶もはっきりしません。無線をやる場合は、トラックにアンテナもつけていました。

ある日、夕方の遅い時間に市場急配センターの一階休憩室で、西口がいたのですが、被告訴人多田敏明に連絡をとったところ、無声のクラブの集まりで金沢港の近くにいるような話をしていました。その時、被告訴人多田敏明は無線をやっているのかと、かなり意外に思ったような記憶があります。

断片的な記憶なのでつながりも思い出せないのですが、その後に被告訴人多田敏明が来て、3人で北安江に焼肉屋に行ったのだと思います。平成4年3月の中頃のことでした。この時の西口の登場も、偶然ではないと思います。

西口の登場というのは主なものだけで、その時が3回めでした。初めが平成3年11月26日のことです。次が平成3年12月の28日と思われる日のことです。その時は西口と被告訴人多田敏明の二人に誘われる形で、被告訴人浜口卓也のアパートに行き、そのあと諸江の焼肉店に行きました。

被告訴人多田敏明が平成3年の秋頃から主に乗務していたのは日野の新型のモデルで、4トンのウィング車でした。初めは被告訴人梅野博之と交代で乗務していることが多かったようにも思いますが、平成4年ころになるとほぼ専属のような常務になっているような様子でした。

免停が明けてからの被告訴人多田敏明は、受け持ちの仕事を持たず、いわばフリーの運転手として、その時々の荷物を運んでいたようです。大型車に同乗して荷物の積み下ろしを手伝うこともありましたが、話し相手以外の必要性などほとんどないものと思われます。

事実上、被告訴人多田敏明は私の動静を監視し、情報を収集するための工作活動に従事していたものと思われます。

事件を起こしたあとに思い出したことかと思いますが、当日の平成4年4月1日、私は翌日の運行の指示として東京行きの引っ越しの荷物を積み込むことと、被告訴人多田敏明を同乗、同行させることを受けていました。

あるいは私の早とちりだったのかもしれないですが、東京への運行に同乗させていくものと考えていました。「トッチを連れて行け」というような言葉での指示であったと思います。

被告訴人多田敏明に関しては、被害者AAさんの父親の仕事について弁護士だと私に吹き込んでいたことも、徹底的に検討するべき問題の一つですが、いずれも別の項目にて言及したいと思います。

ホテルながやま、での説明に戻ります。片山津温泉でもホテルながやま、片山津温泉の外れの方では北陸道の片山津インターからもそれだけ離れていましたが、国道8号線にはより近い位置でもありました。高速道路を使ったのか国道8号線を走ってきたのかも思い出せないですが、誰かの車に乗って金沢へ。

誰の車に乗って帰ったのかも記憶にないのですが、車の中での会話というのはほとんどなかったようにも記憶にはあります。前にも書いたように、金沢に戻り金沢市場輸送の事務所の前の給油機の前辺りから道路の辺りで、しゃがんだりした状態で話をした場面が記憶に残っています。

すべては私が一人客室の布団で寝ている間に起こったことのようでした。市場急配センターの運転手と金沢市場輸送の運転手の間で、ケンカになったという話でしたが、どこか要領を得ないところがありました。まず、誰一人多少なりとも怪我をした様子はなかったです。

双方ともに小木港の遠洋漁船の漁師をしていた者が多かったので、かなり腕力のありそうな者が多かったです。殴り合いがあったとはとても思えなかったのですが、彼らの話を聞いていても、その辺りがわからず掴みどころないものを感じていました。

市場急配センターの側でそのケンカに参加したと聞く人物は、姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさん。さらに誰かの口から被告訴人安田繁克らしい男も加わって、その威勢がよく、あるいは暴れていたような話であったと思います。

姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさんの二人に関しては、輪島対内浦という因縁の対立という構図として、十分に理解できるものがありました。普段抑えに抑えていたものが、酒が入ったこともあり爆発したものと考えられたのです。

まず姫のNKさんのことですが、曽々木海岸あたりをドライブしていたところ、輪島の暴走族とトラブルとなり、ずいぶんと屈辱的な思いをしたと伝聞ですが聞いたことがありました。神野のKMから聞いた話の可能性が高いと思います。

現在の私はかなり以前に比べると人との付き合いもめっきり減っているので情報量も少ないですが、輪島市の海士町について話を聞くこともほとんどなくなりました。海士町は海女の町でもあり、全国的にも規模が大きいということでテレビでも見かけることはありましたが、別のイメージが強いです。

聞いた話ですが、本来の海士町は舳倉島で海女漁などをして暮らし、海が荒くなる冬場は漁も出来ないので本土の輪島市内で生活していると聞きました。以前は海女漁の話より、暴力団もものともしないような攻撃的、暴力的な集団として名を馳せていました。

歴史的にも近新婚を繰り返し、集団としての結束がとても強く、年配者を敬い厳しい環境で育っているとも聞いたことがあります。泣く子も黙るとは大げさかもしれませんが、能登半島でも特別な地区だと知られていました。

歴史的には九州の福岡県から流れてきた男女が輪島の海に住み着き、そのうち加賀藩の前田家からもお墨付きをもらって、海女漁をするようになったと聞きます。いずれにせよ、輪島市と言っても海士町はとりわけて特別な地区でした。

海士町は漁師町でもありましたが、どういうわけかほとんどの若者は、北洋の遠洋業がある小木港の遠洋漁船に乗り組むとも聞いていましたが、金沢市場輸送で運転手をしていた輪島の若者も、輪島崎のOと平ボディ車に乗務していたYを除いて、小木港の遠洋漁船に乗り組んでいたと聞きました。

地元小木港の話では、海士町の若者は気が荒く手に負えないので、一つの船に二人かあるいは一人以上は乗せないことになっていると聞いたこともあります。二人か一人かの違いは、私自信の記憶の状態によるものです。20年以上前に聞いていた話なので、記憶もはっきりしません。

海士町の話は地元の宇出津や、小木港の遠洋漁船に乗っている漁師の間でも聞いていましたが、より物凄いと感じたのは、被告訴人安田敏と金沢の観音堂のアパートで遊んでいた頃のことでした。既に本書で書いてある部分もあると思うのでなるべく省略したいですが、藤江の陸橋の付近の溜まり場のことなど。

金沢で暴走族のリーダーをやっていたKTは、どちらかといえば貧弱そうな体型で腕力があるとはとても思えないタイプでしたが、事実上統率力はあって、暴走族のリーダーにもなっているという感じでした。

時刻は6月26日13時05分です。あらためてこの項目の見出しを見てみたのですが、新しい事務員を紹介する運転手、のことになっていました。これはもちろん木村さんのことですが、ずいぶんと外れた内容を書いていたようです。

どうしたものかと思いますが、木村さんのこともKOらのことも、事件そのものと関係があるとは断定できない点で、その他というような共通項はあるとおもいます。また、個別には無関係に見えても、全体としては看過できないつながりや事実が含まれています。

木村さんに関しては中野さんのことも併せて書くつもりでいました。二人とも実名にしましたが、それも私の考えぬいた上での判断です。事件の音の深いところで関わりのある人物という可能性もある一方、全くの無関係でありながら、しがらみからも影響を受ける可能性も考えられるからです。

実名にするのは必要最低限という配慮は常にやっております。実名にしたからと共犯者としての嫌疑が濃厚というわけではなく、また、匿名にしたからと言ってそれが薄いわけでもありません。ありのままの事実を書いておりますが、理解を超えている部分や断片的な認識しかない部分があります。

そういう中で誤解を生じ、混乱を招かないためにも特定すべきところは特定しておくというのが私の方針であり、ツイッター等での反論意見の場も事実上用意されています。警察、検察に相談するのもよいことでしょう。タイトルにも金沢地方検察庁御中と看板を掲げています。

とりあえず、見出しに対応した内容のことを書き上げ、次のことに移りたいと思います。新しい事務員の話です。

平成4年の2月の中旬から3月の中旬の間ではなかったと思うものの、割と最近になってこの部分の記憶があいまいになってきました。その時期としては、かなり天気の良いさわやかな天候でした。

これもWとかを改めて実名にしますが、和田くんと二人、それぞれの乗務する大型ウィング車で、北陸道を福井県鯖江市に向かってきました。たぶん積み荷はミールだったと思います。浜田漁業金沢工場よりは北陸ハイミールの可能性も高いという気もします。

ミールは倉庫移動という地場というかローカルの仕事も多かったのですが、福井に行ったのはその時、一回だけだったと思います。

片山津インターと加賀インターの間だったと思いますが、尼御前サービスエリアがあって、そこに入りちょっとした休憩をしました。福井に向かっている時のことです。

その尼御前サービスエリアのなかで和田君が話しかけてきたことですが、新しく事務員が入るらしい、Aちゃんは話しかけても余り喋ってくれんし、返事だけ、というようなことを言っていました。

和田君の口から被害者AAさんのことが出たのはそれが2回めだったように思います。現時点での私の記憶なので、忘れていることもあるかもしれません。

余り日にちの近接はなかったと思いますが、同じ頃に、和田君と被告訴人多田敏明の3人で、確か長野市の市場まで行ったことがありました。何を持って行ったか思い出せないのですが、果物だったようには思います。それと日通の増泉支店で荷物を積んだような記憶も場面として残っています。

日通の増泉支店に行ったこともずいぶんと久しぶりだったような気もしますが、昭和59年ころは割と行く機会があったと思います。前にも書いていると思いますが、展示会の荷物を積んで福島県いわき市の大黒屋というデパートに行ったことがありました。

そしてこれも既に書いているのではと思いますが、被告訴人竹沢俊寿が以前、日通と関係があって社員であったような話も聞いたことがありました。土建屋の社長とかヤクザの組長だったという話とは、普通に合わないとは思いますが、どちらも被告訴人竹沢俊寿の過去として聞いていた話です。

いくらかはっきりしていることは小島という事務員が昭和59年当時にいたことです。日通から来たと聞いていました。保険の係をしていると聞いていましたが、小さい会社で度々保険の仕事があるとは考えにくく、電話番以外に何をやっているのかよくわからない存在でした。

顔の方もいまでもなんとなく記憶に残っていますが、真面目でおとなしいいかにも事務職と行った感じの人だったと思います。年齢は40代にも見えましたが、若いのか年配なのか、どちらにも見えるようなタイプでした。体型はがっしりして見えました。肩幅も広く。

これも前に書いていると思いますが、昭和59年の時点で日通カラーの大型平ボディ車が2台いました。1月に私が入社した時点であったようにも思いますが、どちらも最近に納車された真っさらの新車という感じでした。

乗務していたのは棟方さんと原田さんでした。変わった名前だとお守ったこともあり棟方さんの名前は憶えていますが、無口でおとなしい感じの人でした。北海道から来た人と聞いたような気もします。庄和61年の8月には既に姿が見えなくなっていたと思います。

原田さんは前にも書いていると思いますが、そのあと中西水産輸送の運転手となり、中西運輸商で配車係もしていたYTから聞いた話では、国道18号線の群馬県高崎市付近で、追突事故だったかで死亡したと聞きました。

被告訴人安田敏から聞いた話で、大倉さんが事故を起こして死んだと聞いたのも、同じ高崎市付近という話であったと思います。大倉さんは以前、割と大きな会社を経営していた社長とも聞いていました。どんな仕事をしていたのかは、よくわからない説明を受けました。

大倉さんは金沢市場輸送での麻雀の常連メンバーにもなっていたと思います。被告訴人安田敏の工事現場突入の時、ワゴン車で現場に来ていた木村さんも、たぶん金沢市場輸送で麻雀をしていたのではと思われます。

ただ、私自信の記憶では金沢市場輸送で木村さんが麻雀に参加している姿というのは見かけていなかった気もするのです。それもあって片山津温泉せきや、の客室で麻雀をやっている姿を見た時は、その普段とは違う服装とも相まって、かなり意外に映ったのだと思います。

会社で木村さんの姿を見かけていたのも、金沢市場輸送の給油機でトラックに給油している姿や、市場急配センターの裏駐車場で仕事を終えて帰っていくような姿を、たまたま見ていたもので、いずれも割と早い時間で16時前だったとも考えられます。

和田君のことですが、これも前に書いているところがあるかと思います。平成3年の11月の20日頃だったかに、市場急配センターに入って大型ウィング車に乗務していました。確かそれまで被告訴人東渡好信が乗務していたトラックに乗務しましたが、いきなりだったかはわかりません。

今まで結びつけて考えたことがなかったのですが、思えば、被告訴人東渡好信が古河の市場でベルトコンベアーに指を詰めたとか言い出し、トラックの仕事をやらなくなってから、配車係になったのも同じくその頃だったと思います。

ベルトコンベアーの件に関しては、私はその場にいました。いきなり大きな声をあげて怪我をしたと騒ぎ出したのですが、傍で見ていて呆れるほどわざとらしい演技のようなものでした。怪我をすれば血が出なくても内出血なりするはずと思いますが、怪我をしていない手で抑え続けるだけで見せなかったです。

東渡が乗務していた大型ウィング車というのは、金沢市場輸送でその平成3年の4月ぐらいに入った日野の新車でした。それまでの金沢市場輸送のトラックのデザインやカラーとは一新して、ベースが白で赤と青のラインがデザインされていました。

これは2台同時に入った新車で、どちらも日野のトラックだったと思いますが、もう一台に乗務したのが輪島の浜上さんでした。浜上さんも海士町の出身だと聞いていました。被告訴人東渡好信とは長い付き合いという感じで、共にトレーラーで木材を運ぶ仕事を多くやっていたような話でした。

どこに書いたのか記憶にはないですが、本書では既に書いていると思いますが、被告訴人東渡好信が市場急配センターの事務所やその周辺の路上で、包丁を手に握り、被告訴人松平日出男を追いかけまわしたという原因になったのも、その日野の新車のことだと聞いています。

同じく書いていると思いますが、石川丸果の売り場で、荷受けのじいさんの首根っこをつかまえて、キャベツの箱のなかに押し込んだということもありました。まるで海面に沈めて溺れさせるような行為です。無言でいきなりやったので、じいさんもさぞや驚いたことだと思います。

じいさんの姿は、今でもなんとなく記憶に残っているのですが、市場では珍しいぐらいの高齢の人でした。荷受けをやっていたところを考えると石川丸果の社員であった可能性が考えられます。平成3年の春のことなので、他の雇用形態というのも考えにくそうに私は思います。

被告訴人東渡好信と浜上さんと河野秀美さんの3人が、市場急配センターに来たのは9月に入ってからだったと思います。いずれも金沢市場輸送で乗務していたトラックともに移ってきたと思います。

河野秀美さんに関してはもともと金沢市場輸送で鮮魚を運ぶ保冷車に乗務していました。少なくとも私が金沢市場輸送にいた6月20日ころまではそうだったと思います。

今、市場急配センターで河野秀美さんがどんなトラックに乗務していたのか、思い出すのに集中しているのですが、残念ながら思い出すことが出来ません。新しいトラックでなかったことは間違いないと思いますが、平成4年になってから被告訴人浜口卓也と同じく日産の新車に乗務したかもです。

この3人は金沢市場輸送を退社したのではない扱いで市場急配センターに移動したとも聞きました。私の場合は、金沢市場輸送をやめてから新たに市場急配センターに入社したことになっていると、聞かされたのですが、誰に聞いたのかはっきりしませんし、真偽もどうなのかと思っていました。

3人は9月に入ってすぐに来たようにも思うのですが、9月中というのは長距離の仕事も本格的にはなっていなかったようにも思います。古河の市場の山三青果の仕事も、ローテーションでまわるような状況にはなっていなかったように思います。

9月中は東京の晴海埠頭や有明から外果の果物を運ぶ仕事が多かったとも記憶していますが、9月、10月、11月というのは、中央市場の裏の倉庫から馬鈴薯を運ぶ仕事が多かったと思います。利益が出るとは考えにくい仕事で、間に合わせという感じでもありました。

改めて考えてみると、古河の市場で河野秀美さんと一緒になったという場面を思い出すことが出来ず、あるいは一度もなかったのかもしれません。浜上さんも余りなかったような気がします。この二人は特に仕事の選り好みも強かったようです。

馬鈴薯でも河野秀美さんの場合は、大勢の人を動員して、市場周辺から壊れて捨ててあるパレットを拾い集めでそのパレットの上に荷物を積み込んでいました。荷降ろしさの市場に着いてからは、フォークリフトで降ろして指定された場所に並べるだけで済むそうです。

私はかえって面倒そうにも思っていたので、全くではなかったかもしれませんが、やることはなかったと思います。そこまでやるというこだわりには感心し理解も超えていましたが、それぞれにこだわりを持つというのは運転手の考えと経験にもよるもので、強くありがちな傾向です。

河野秀美さんは金沢市場輸送でも権利意識の強い運転手だったようで、それで配車係の被告訴人本恒夫とも衝突することがあるとか聞いていました。仕事ぶりはともかく、会社の側では扱いづらい運転手でもあったようです。

人それぞれの考え方もあることで、労使関係というのは本来そういうものなのかもしれませんが、どうもそういう権利主張の傾向がある人で、独自のこだわりももっていたようです。余り評判の良い話としては耳に入ってこなかったような気もしますが、曲者的なところもあったかと思います。

多かれ少なかれ他の運転手もクセのようなあったと思いますが、基本的に個人プレーのような仕事内容なので、見えない部分も沢山あったと思います。同じ会社の運転手でも半年に一度も顔を合さないことがあると聞くこともあったぐらいです。エサをやっていた時代の話だとは思いますが。

もともとそういう自己主張の傾向が強かった河野秀美さんなので、被告訴人東渡好信や浜上さんとは方向性も同じく気があったようです。平成3年春の金沢市場輸送のストライキにもまっさきに参加していたように思います。

ストライキに関してもまだまとまった説明は書いていないかな、と思いました。どさくさのような状況でもありましたが、その時に連絡を寄越してきたのが被告訴人安田敏でした。計画された行動であった可能性があるので、徹底解明が必要と思います。

時刻は6月27日22時14分となっています。本日は人様との関わりにおいて、私の人生のおいても特別な経験をする日となり、思いを致すところがありました。プライバシーを尊重するうえでも具体的な内容については触れませんが、関わりの中で今後を含め社会に向けた影響もあると思います。

昨日になりますか、河野秀美さんについて書いていたと思います。私自身、真意を疑う衝撃的な発言ではありましたが、ありのままの客観的事実として、記録に記しておきたいと思います。被害者AAさん及びその家族の人生に対しても影響を与えた可能性があるとりわけ重要な事実であることを申し添え。

平成3年で、11月のことかと思います。不思議と前後の事実とのつながりが記憶として喚起できないのですが九州産と思われるミカンが市場に出始めた時期だったと記憶にあります。たまたまだったのは天候も良くなく、寒い日だったという記憶も残っていて、12月ではなかったかと感覚的に思えることも。

その日は珍しい仕事として会社から指示を受け、たぶん金沢の中央市場からであったと思いますが、ミカンを大型ウィング車に積んで、私の地元である宇出津のAコープ能都店に運びました。かなりの確率で私が乗務していた3068号であったとも思います。

宇出津のAコープ能都店には夕方遅くすっかり暗くなった時間に着いた場面も割と鮮明が聴くとしてありますが、Aコープ能都店は改装工事中だったのか、向かい側に仮店舗として営業していたことを印象的に記憶しています。

私はその飛び込みのような臨時の仕事に、河野秀美さんさんと一緒に、二人で同じ一台のトラックに乗務して出かけていました。

その仕事の帰路で七尾市付近を走行中のことであったと思います、まず近所のレンタルビデオ店で、たまたま被害者AAさんと出会ったことを話していました。女友達と一緒だったとも言っていましたが、これはまず11月26日と同じKNさんのことであったと思います。

11月26日のことについては特別枠として項目を立てて、詳しい記述を予定しています。浜上さん、被告訴人東渡好信、西口が絡んでくる事実です。

諸江と思われるレンタルビデオ店で被害者AAさんと出会ったという話の後であったと思います。耳を疑うと言いますが、衝撃な気な話を耳にしたので、前後の記憶が飛んでいるようなところもあるかと思うので、想像で適当に補うわけにもいかず、それはそれとして明確にしておきたいと思います。

ということで、会話の前後の脈絡が正確に思い出せないのですが、河野秀美さんの口から、笑いながら娘が強姦されたら嬉しい、という発言があり、その後同じく笑ったような感じで、「とてもよい人生経験になるから」というような、とってつけたのではないかと思われる理由付けがなされていました。

私も河野秀美さんも独立した大型車の長距離運転手でした。少しでも楽をさせたいとか協調性を育む場として、会社の方針、配慮があったということも理屈上100%の否定は出来ないと思いますが、同時に計画された工作活動の一つであったという可能性もあるのではと思います。

家族としても深く考えさせられるところがあるのではと思います。これはこれまでの記録においても何度か記述してきた事実のはずです。一見すると都合次第で他者の尊厳をも冒涜した言い分に映るかもしれないですが、紛れもない事実です。反論を受ける用意を含め、大々的に公言をしておきます。

ミカンに関しては九州から何度も運んできたという経験があります。近年スーパーの売り場を見ていると品種改良のためか、温室栽培以外のミカンでも、出始め、終わりともに店頭に並ぶ期間が長くなっているように思われます。

市場急配センターにおいては、九州からミカンを運ぶことはなかったですが、和歌山県のかつらぎ農協へは何度もミカンを積みに行きました。ただ、意外に早い時期1月の中頃にはほとんどミカンの出荷がなくなって、イヨカンか何か類似の別の果物に切り替わっていたように記憶しています。

時刻は6月28日7時59分になっています。改めて見出しの内容に沿って書いていきたいと思います。

和田君のことに関して書いていたと思いますが、彼の場合、独立した項目を立てて書くような必要性は感じていないので、なるべく関連の有りそうなことを早めに書いて片付けておこうと思います。事件と関わりを持ったということは事実ですが、本人の自覚の程度というのも不明かと思います。

現在日付まで正確に思い出すことは出来ませんが、以前は特定できていた事実の一つだと思います。平成3年の年末の一番最後の方の仕事の時であったと思います。夕方でしが、17時20分か30分ころになっていたように思います。年末の忙しさで被害者AAさんは残業をしていたのかもしれません。

その頃になると似たようなことは何度かあったと思いますが、現在はそれも思い出せなくなっています。事務所一階の休憩室にいたところ、二階から呼び出しの電話が掛かりました。二階の電話とは親子電話のようになっていましたが、当時は珍しく珍しくおもえるものでもありました。

乗り降りした東名高速のインターは豊川インターだったと思います。どちらが先立ったかも記憶がはっきりしなくなっていますが、初めて行った時、指定された場所にトラックを停めて寝ていると、真夜中に小林運送のYさんに起こされて、手短に説明を受けたと記憶しています。

これは全く予想外のことで、しかも熟睡中にいきなり起こされたので、夢か現かという感じでした。Yさんは実際の年齢より気も若く、見た感じも若く見える人でした。はっきりした年齢は忘れましたが、私が助手をやっていた頃、既に大型車に乗務していたので、少なくともその時点で21歳以上のはず。

やんちゃでケンカ好き、小林運送の社長となった息子とは年も近く、二人で中央市場の近くの百万石うどん、の板前に営業中に殴りこみを掛けたというような話も聞いたことがありました。Yさんの方が小柄でしたが、俊敏そうな腕力もありそうな感じでした。社長は体じたいが大きかったと記憶しています。

私が助手になった時点で、社長となったばかりの息子はヤクザをやめて家に戻り家業の運送会社を引き継ぐことになったと聞いていました。

昭和61年の8月、2度めに金沢市場輸送に入社して市内配達の仕事を始めた頃、市内配達が数社の運送会社の集まりでありながら束ねていたのが高田という当時50代ぐらいに見えた人物で、トラックの数が圧倒的に多いのも金沢市場輸送でした。

はっきり思い出せないものもありますが、小林運送、石川日通、など5つぐらいの運送会社が2トン車を運転手とともに出していましたが、いずれも一台ずつだったと思います。小林運送も一台だけでしたが、その運転手がYさんでした。

小林運送に関しては社長となった息子の母親が気の強い人で、青果の仕事の奪い合いのことで金沢市場輸送に怒鳴りこんできたという話も聞いたことがありました。既に金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した頃であったと記憶に残っています。

私自身、YTと一緒に小林運送の事務所に連れ込まれることがありました。一番の近くで道路の譲り合いでトラブルになった相手が小林運送の息子で、そのまま事務所に連れて行かれ、いろいろと言われたのですが、直接的な内容でもなく意味のわからないところがありました。

たぶん前に助手をしていてその後、金沢市場輸送で運転手をしたいることも知っていたはずなのですが、知らない相手を前提にしたような対応で、それに直接相手にしているような感じでもなかったと記憶にありますが、理解のできないところがあったとその場の記憶として残っています。

もともと中央市場の青果物の仕事は小林運送が仕切っていたという感じでした。トラックにも宝船のような野菜の絵や、「金沢中央卸売市場」と割と大きな文字でどのトラックも書いてあったと記憶しています。平ボディ車が多かったとも思いますが、そちらは絵を描くスペースはなかったかも。

高田という人物もとても真面目そうに見える反面、訳ありの人物にも思えていました。特に悪い話というのも耳にはしていなかったと思いますが、忽然といなくなり、会社の金を持ち逃げしたような話を耳にしたこともありました。

富山の右翼団体の青年が高田を探しに来たことも、本書では既に書いているように思います。呉服屋とかのいかにも番頭という感じの人物で、今でも顔は不思議とはっきり記憶に残っていますが、その後噂を聴くこともなく、今考えるとちょっと不思議なぐらいの自然消滅という感じでした。

会社の金の持ち逃げに関しても曖昧な話しか耳にしませんでしたが、被告訴人竹沢俊寿が実害を受けたらしく怒っているという話は耳にすることがありました。被告訴人竹沢俊寿としては割と珍しいことです。

被告訴人竹沢俊寿が運転手のことを悪く言ったり、批判することは余りなかったと記憶しています。

例外として過去にはまず、能都中学校の2つ年下のOTがいました。宇出津の近くですが住所は宇出津ではないところに家がありました。今もあるとは思いますが。昭和56年から58年ころまでは個人的な付き合いも多い間柄でした。

久しぶりに会ったのは昭和60年の夏頃だったように思いますが、金沢市高畠の被告訴人大網周一のアパートでした。岐阜の帰りに山道を通り、4トン車を崖下に転落させて、そのまま逃げてきたというような話をその場で聞いたように記憶しています。

金沢市場輸送の4トン車のことですが、その後私は被告訴人竹沢俊寿が、そのOTの名前を出して、許さない懸賞金を出して探しだすなどと息巻いている姿を、金沢市場輸送の事務所で見た記憶があります。

思えばOTの姿を見たのもそれが最後だったような気もします。その後ほかの友人とともに大阪の方に行き、共同生活で仕事をしていたという話も聞きましたが、そのあと友人との付き合いもなくなったらしく、さっぱり話を聞かなくなりました。

その時に大阪の方に行ったグループというのは小木港で遠洋漁船に乗っていた連中なのですが、地元には全く帰ってこなくなったのか、さっぱり噂話も耳にしなくなりました。

伝聞の上、断片的で要領を得ない話ではありますが、遡ると被告訴人大網周一が金沢で鳶の仕事を始めたきっかけにもつながるようです。大阪に行って以来、交流があったという話も聞いたことはないのですが、私からすれば忽然といなくなったようなグループです。事情もあったことかとは思いますが。

OTの件に関しては、崖に転落させたトラックを放置して逃亡したのですから、被告訴人竹沢俊寿の怒りももっともかと思いましたが、それでも本気で怒っているような感じにも思えないことはない、という感じでした。

高畠のアパートにHMと同棲していた頃の被告訴人大網周一ですが、直市商店という金沢港の仲買人の魚屋の運転手をしていました。4トンの保冷車です。運送会社ではないので白ナンバーのトラックです。

雪が降る時期で昭和61年の1月か2月だったと思いますが、ある日の夜中、私は九州方面から来て金沢に向かっていました。福井県の敦賀インターから先が大雪の影響か何かで通行止めになっていたので、国道8号線を走りました。

途中までは海岸線の多い国道で、その海岸線のカーブだったと思いますが、道路に魚を満載にした4トンの保冷車が横倒しになっていました。箱の後ろの上部が壊れて発泡スチロールのケースが見えていたので、満載であることはすぐにわかりました。

その事故を起こしていたのは直市商店の4トン車で運転していたのは被告訴人大網周一でした。その場で話をしたのですが、誰にも言うなと言われたので黙っていたところ、数日すると自分から人に話していました。

さらにしばらくすると直市商店をやめたとかやめさせられたと聞きましたが、積み荷の弁償のことなどは責任を問われなかったようです。直市商店をやめたあとの被告訴人大網周一の仕事となると、すぐには思い出せなくなっています。

まもなく高畠のアパートにもいなくなったように思いますし、同棲していたHMとも別れたと風のうわさを聞いたような気がします。その後もしばらくは金沢で仕事をしていたのかもしれませんが、そのうちに東京に行ったと聞くようになりました。

東京での仕事で岡山県に出張中に交通事故を起こし、けっこうな大怪我をしたと聞きましたが、金沢市入江の八幡のすしべん、の裏の病院に入院するようになっていました、このあとのことも既に本書で書いているところがあるかと思います。

他に被告訴人竹沢俊寿ににらまれた運転手として記憶に残るのは昨夜も書いたところの河野秀美さんでした。

河野秀美さんの場合は、中西運輸商からトラブルを引きずったままのいわくつきの入社であったとも聞いていましたが、これも話を聞いても要領を得ないものであったと記憶に残っています。別の言い方をすると、合点がいかないというか腑に落ちない話でもありました。

私はその話のほとんどを金沢市場輸送のなかではなく、当時中西運輸商で配車係をしていたYTに聞いていたと思います。自宅に固定電話はありましたが、携帯電話など全く存在しない時代でした。自宅の電話で会話をしたという記憶もあまりないのですが、YTから何らかの連絡があったのだと思います。

YTに関してはこれまでも書いている内容量が多いと思います。平成3年の夏から秋頃には、被告訴人安田繁克を臨時の運転手として仕事をさせていたようです。アルバイトに近い感じという話にも被告訴人安田繁克の説明からは聞こえましたが、実際のところはわからないです。

YTと最後に会ったのは平成3年12月の初めころだったと思います。私が山形県の寒河江市からリンゴを積んできたところで、石川丸果の売り場で出会い、話をしましたが、そのあと一緒に食事に行ったことがあったようななかったような感じで、記憶ははっきりしません。

石川丸果の売り場にいたのは22時とか23時とか比較的早い時間で、そういう時間に石川丸果の売り場にいることは珍しくもあり、割と混み合って忙しそうだったという記憶も残っています。

古河の山三青果の仕事でも、昼過ぎに出発するときは、似たような時間には石川丸果の売り場に入ることはありました。夕方に競りがあると出発は20時から21時の間になって、石川丸果に入るのは朝方に近い時間になることもありました。

山形に行った運行ですが、行きの荷物は城西運輸の仕事であったと思います。羽咋市の平鍛造とかいう会社からなにか鉄鋼製品か部品のようなものを積みました。

平鍛造ですが、調べたところ現在は他の会社と合併をして社名も変わっているようです。次のホームページに書いてありました。

羽咋丸善株式会社 鍛造部 http://tairatanzo.co.jp/

城西運輸ですが、金沢では町中でもよく見かける大きな運送会社でした。重機関係のトラックが多かったと思いますが、建設、建築現場でクレーン車を見ることも多くありました。

こちらも調べてみました。能登の宇出津に住んでいるとトラックや重機を見かけることもないですが、次のホームページをみたところ、以前よりさらに大きな会社へと成長しているという感じです。

JOUSAI│クレーン、トレーラー、高所作業車のレンタル・リース http://www.jousai.co.jp/

ホームページのタイトル名をみるとレンタル・リースも手がけているようです。一時は噂話を耳にすることもあったように思いますが、内容も忘れてしまいました。

山形行きの荷物は羽咋市の平鍛造の工場で積み込んだと記憶していますが、その前に安全靴が必要だと言われ、被告訴人松平日出男の指示でどこかの城西運輸の小さい営業所のようなところに行き、靴紐のない半長の安全靴を借りたことを憶えています。

その時の被告訴人松平日出男の話しぶりでは城西運輸の担当者とは気心もしているという感じで、被告訴人松平日出男から安全靴は返さなくても良いと言われたので、そのまま返さずに使っていました。事務所のドアに穴を開けたのもその安全靴です。鉛が入っているので軽く蹴っただけで開きました。

行き先は山形と言っても、山形市の少し先で天童市ではなかったかと思います。住所は自衛隊の基地の近くだったので、自衛隊の門番のようなところで道を尋ねました。外に出てもさほど寒いとも思わなかったのですが、道の濡れたところががちんがちんに凍っていたのも印象的に憶えています。

思えば、市場急配センターのトラックで東北に行ったのもそれが最初で最後だったと思います。金沢市場輸送では宮城県の塩釜港、石巻港の定期便が多かったので、山形市内は通過する場所としてしょっちゅう行っていました。

被告訴人松平日出男の前身としては、石川トヨタで営業の仕事をしていたというのと、そのあと自分で中古車店をやっていたというのを聞いていましたが、城西運輸に知り合いがいるというのも、意外と言えば意外でした。

城西運輸の仕事というのは、後にも先にもその時一度だけだったような気もするのですが、それとは別に、以前羽咋市の平鍛造から大掛かりな何かの移動のような仕事がありました。

羽咋市には平鍛造の工場がいくつかありました。見た感じどれも似たような建物だったような気もします。そのどこかから何かの荷物を積んで、同じ石川県内ですが小松市の方まで運びました。

まだイワシの運搬の時期だったとも思いますが、イワシの運搬の運転手が総出で取り掛かるような仕事でした。松浦さんや堂野さんの姿もあったと思います。日報に記載する必要もあるので、荷主の名前は聞いていたはずですが、城西運輸であったかどうかを含め、記憶には残っていません。

小松空港より加賀市に近い工業団地のような場所で、コマニーだったかもしれません。コマニーには他にもトラックの仕事で荷物を積みに行くことがあったので、記憶がはっきりしない部分がありますが、品物ではなく設備の部品のようなものを運んだ気もします。

ぼんやりとした記憶ですが、やはり山形から積んできたリンゴの荷物を降ろし終えたあと、どこかでYTと食事をしたような気がします。YTは被告訴人浜口卓也とも一緒に食事というか飲みに行くことがあると聞いたこともありました。

すでに書いたあることかと思いますが、YTは被告訴人安田敏とも顔見知りだったはずです。私がまだ中西運輸商で4トン車に乗務していた昭和60年の12月から昭和61年の2月ころの間になるかと思います。何度か私のアパートで顔を合わせることがありました。

同様に被告訴人KYNもYTとは顔を合わせることがあって、被告訴人KYNの方ではYTの名前も憶えていたと思います。

私が見た範囲では被告訴人安田敏とYTは余り言葉を交わすこともなく、意気投合するような感じではなかったのですが、YTというのは一時一緒に中西運輸商で仕事をしたこともあり、珠洲の三崎のHMとは親しい関係でした。

知り合った頃のYTは彼女と同棲して、どこか米泉あたりの古い民家の一室のようなところで生活をしていました。久安にも近い辺だったと記憶にあります。栃折組というちょっと派手なダンプの会社で仕事をしていて、夜のアルバイトとして中西運輸商で佐川急便金沢支店のホーム作業に来ていました。

栃折組のダンプは目立つということもあったと思いますが、ダンプの会社としては珍しく4トン車のようなダンプも所有していてYTはそれに乗務していると話していました。まもなく私の誘いもあって中西運輸商で長距離トラックに乗務するようになったのですが、それも初めのうちは4トン車でした。

年も私の1つ下年下だったと思うので、まだ大型免許は取得できない若さであったとも思います。私の場合、自動二輪での免許取り消しを受けていたので、普通免許を取得するのも半年ほど遅れていました。

普通免許を取得したのが昭和58年の7月の20日ころだったと思いますが、大型免許を取得したのは昭和61年の11月27日になっていたかと思います。

私が中西運輸商をやめたのは昭和61年の2月いっぱいではなかったかと思います。差し向かいで中西運輸商の社長と話をしてやめることにしました。給料のことは事務の方で決めるので自分は知らないというようなことを言っていましたが、あれこれ差し引かれてごく僅かな額になっていました。

具体的なことは現在忘れてしまいましたが、結婚式をあげたのが3月の10日ころでした。その結婚式の時には失業中になっていたと思いますし、120日と90日あるいは60日ぐらいの免停がダブルで来ていました。

その免停が明けた頃に、被告訴人安田敏の誘いに乗って、岐阜県海津町に出稼ぎに行ったことも、だいぶん前にもなりそうですが、本書で既に記述しているのではと思います。

被告訴人安田敏は色々と珠洲方面にも付き合いのある男でした。岐阜での出稼ぎの仕事も珠洲の人間との付き合いの中で出てきたと聞いていました。珠洲からは宇出津の石川県立水産高校に通っていた生徒もけっこうな数はいたと思います。

観音堂のアパートには、ちょくちょく蛸島のSMが遊びに来ていました。被告訴人安田敏はミッチョと呼んでいましたが、男です。年は被告訴人安田敏と同じではなかったかと思います。

ぼんやりとした記憶ですが、その頃は母親が蛸島で飲み屋をやっていて、彼女と一緒にそれを手伝っていて、たまに金沢に遊びに来ているという話であったと思います。その彼女の一人がHとRのどちらかであったようにも思います。

はっきりしていることはいつも一緒にいる仲良し女友達のHとRの一方は、金沢市内神田のアパートで珠洲のKと同棲していました。Kが遠洋漁船に乗るという決心をしたことで、彼女はずいぶんとショックを受けている様子でした。私はそのアパートで実際にその姿も見たのですが、深刻に悩んで見えました。

30年近くも前の記憶になっているのではっきりしない部分もありますが、そのHとRは野々市のアパートに住んでいて、UHと二人で金沢市場輸送の4トン車に乗ってぶらぶらしている時に、そのアパートに行き、中には入らなかったように思いますが、二人の女をトラックに乗せて、ゲームセンターに行きました。

マルモ設備のすぐ近くのゲームセンターだったので、マルモ設備の待ち時間などのそのゲームセンターに行くと、HとRのことを思い出すことがありました。酒やシンナーの匂いというのはなかったと思いますが、ちょっと錯乱にも近い状態で陽気でもありましたが、以前見た時とのギャップも大きかった。

UHに関しては金沢市場輸送の4トン車に同乗させて、岐阜の中心部に行ったことも夕方に近い街の景色として記憶に残っています。新潟か関西方面にも連れて行ったことがあったかもしれませんが、細かくは思い出せません。

そのUHにしても三崎のHMのことはよく知っていたように思います。そういえばUHも初めにHMが中西運輸商の4トン車に乗務していた頃、トラックに同乗してどこかに行ってきたと話していたかもしれません。同じ三崎出身のSKに関しても、同乗してどこかに行ってきたという話は聞いたと思います。

既に書いているかと思いますが、私もHMの中西運輸商の4トン車に同乗して、山口県の宇部市から静岡県の清水市まで行ったことがありました。静岡からは山梨を通って長野、新潟県の糸魚川市に出て、富山の方から金沢に戻ってきました。

昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめるときも、その少し前に私の紹介というかたちで、三崎のHMは金沢市場輸送に入社していました。これも既に書いているかと思います。

そして昭和61年の2月いっぱいで中西運輸商をやめるときも、その1,2ヶ月ぐらい前でしょうか、その時も私の紹介というか口利きという感じで、再び中西運輸商に入社をしていました。この間にYTとは仲良くなったのだと思いますが、住まいが近かったのも大きいと思います。

中西運輸商で仕事をするようになるとYTは金沢市黒田のアパートに住んでいたと思います。そのうち長女も生まれていたので、結婚もしていたと思いますが、よくわからないところもありました。

YTの彼女というか妻とは、私の前妻が仲良くしていて、初めの家での時も少なからず影響を受けたような話であったと思います。その辺りは被告訴人KYNの妻との関係にも似ているところがあると思うのですが、東力2丁目と黒田ということで、歩いても遠くない距離だったと思います。

三崎のHMはその前から黒田の広い道路沿いのアパートの2階に住んでいました。あれは昭和58年の秋になるかと思います、珠洲市の三崎の彼の実家まで一緒に行って、引っ越しの手伝いなどしたので、よく憶えています。

YTは私が金沢市場輸送をやめたあとも、しばらくは金沢市場輸送にいたように聞いていますが、ちょうど景気もよくなり始めた時代でもあったのか、4トン車で100万円あるいは120万円ぐらいの売上をあげて、歩合給ももらっているという話を聞きました。

昭和59年、私がまだいたころの金沢市場輸送は売上が80万円を超えると歩合がつくような話でしたが、運賃も安くて不可能に近いというような話を聞いていたと思います。不可能ではないにせよ、かなり難しいような話でした。

私は昭和60年には中西運輸商で4トン車で178万円の売上をあげたと褒められたような記憶がありますが、荷物が普通の大型車より沢山積み込めるような4トン車だったので、それもあったかと思います。それでも給料は大したことはなかったと思います。

当時は大型車の運転手で給料が30万円と聞くだけでも大きな額だと思っていましたが、まだ景気のよくない時代であったと思います。そのうちバブル景気にも入って、いろいろと相場も様変わりしていきました。

市場急配センターの場合、仕事内容は以前と比べると比較にならないぐらい楽でした。あちこちに高速道路が開通したり、バイパスが出てきて交通事情が良くなったのもありますが、高速道路の利用が大幅に認められるようになっていました。

昭和59年当時は鮮魚を積んでいても富山県内はずっと国道を走っていました。夕方の混みあう時間にも重なっていたので、金沢東インターから朝日インターまでの高速道路の利用とは、2倍から3倍近くの時間もかかっていたと思います。その先の親不知は国道8号線だけの一本道でした。

積み荷の条件も大幅に悪かったと思います。ただ、そういう経験があとあと役になったというか、何をしても大した仕事に思えないことも多かったです。その辺りも後から運転手を始めた人や他分野の運送をしていた人とは感覚の違いにもなっていたのかと思います。

東北便にしろ、笹谷トンネルが開通して山形市内まで有料道路か高速道路が伸びて、どれだけ楽に思えたか大きかったと思います。冬場など何もなければ新潟市内に近づく時間にも、まだ山形県にも入れないこともあったかと記憶にあります。鮮魚なので緊張感も高いです。夕方になると路面も凍結したり。

HMですが、その後、守田水産輸送と輪島屋鮮冷を行ったり来たりしていました。守田水産輸送とは1年間ほど青森の定期便を交代でやったこともありましたが、そのうち顔を合わせても、以前のように話はしなくなったと思いますし、顔を合わせることも少なくなりました。

ずっと4トン車に乗務していたと思いますが、姿を見かける終わりの方は守田水産輸送で大型車に乗務している姿を見たかもしれません。金沢市場輸送の事務所が二口町に移ってからは、出会うことも滅多になくなっていたように思います。

二口町に移転した当初は、守田水産輸送のトラックが金沢市場輸送で給油をしていたこともありました。何があったのかはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、ある辺りを境に仕事の関係はほとんどなくなったように思います。

どういうわけかこれもはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、平成3年に入ったあたりでしょうか、輪島屋鮮冷とは多くはなかったと思いますが、仕事上の関係が出てきました。

輪島屋鮮冷の大型車の運転手と一緒に自衛隊の基地で爆弾の荷降ろしをしたような記憶も残っています。宮城県の岩沼市だったか、あるいはそれより福島県寄りの自衛隊の基地であったと思います。

輪島屋鮮冷の大型車が北陸ハイミールにミールを積みに来ていることもありましたが、それは平成4年の1月ころだったかもしれません。たしか福岡県行きのミールを積んでいると聞いたように思います。

平成3年の春頃には、なんどか冷凍物の小口の積み替えのようなことを、輪島屋鮮冷のトラックとの間でやることがありました。私がたまたまその場に見ただけで何度かあったので、けっこうな回数ではやっている感じでしたが、なにかよくわからないような仕事内容でもありました。

前にも書いたと思いますが、そんな中で被告訴人安田敏も輪島屋鮮冷の4トン車に乗って、金沢市場輸送に積み替えか何かの仕事に来たことがありました。

気がつくとまたしても見出しとはかけ離れた内容に突き進んでいたようです、どの辺りから外れていったのかも、ちょっと思い出せないぐらいです。

和田くんのことと山下強のことではあったと思います。いったんそちらの方に戻して説明をしたいところですが、どこからYTや三崎のHMの話になっていったのか、書いている自分でもすぐには思いさせない状態です。

まあ、山下強がもう一度、北陸ハイミールに倉庫移動の仕事に戻るような話になりかけたのですが、その日の倉庫移動の回数は彼が一番多くなっていたようで、そういうことをポツリと言いました。

明るく仕方がなさそうな感じでもありましたが、私の目にも被害者AAさんが独断で強引に、私以外の運転手に北陸ハイミールに行かせようとしているように見えました。それが裏駐車場の行動とも重なりましたが、少なからず他の運転手にも迷惑を掛けているだろうという自覚はありました。

その頃になると被害者AAさんは、自分の軽四を裏駐車場でも乗用車や2トン車を並べる側ではなく、大型車は4トン車を並べる側に多く駐車するようになっていたと思います。それは間違いないことですが、時期的なこととなると、今はっきりと思い出せない部分もあります。

Googleマップというかストリートビューや私が以前撮影した写真でも、大型車の姿というのは見当たらなかったので、わかりにくいと思いますが、長さの長い大型車は車体を斜めにして駐車する必要がありました。

これだとたとえ小型の軽四自動車の一台でも、かなりのスペースの無駄として邪魔になっていたのです。それは被告訴人松平日出男や被告訴人池田宏美の協力と同時に、被害者AAさんのわがままや身勝手な振る舞いとして映ることもありました。

ちなみに車検証を見ると大型車の長さというのは通常12メートルぐらいになっていました。4トン車でも私が中西運輸商で乗務していたものは荷台の箱の長さで9メートル20センチ。全体としても12メートルに10センチほど短いだけという感じでした。

市場急配センターの4トン車というのは4トン車としては標準的な長さだったと思いますが、正確に何メートルぐらいであったかとなると、記憶にはありません。平成4年当時は4トン車の数も少なかったです。新しいウィング車は2台だけだったような気もします。

砂利道の駐車場でもあり、大型車の駐車場としてはもともと狭かったようにも思います。長距離なので入れ替わりの駐車が多かったとは思いますが、他のトラックの駐車スペースにも気を使う必要があったと思います。

私は彼女の身勝手な行動で他の運転手に迷惑をかけるわけにもいかないと思い。二階に上がって、彼女に北陸ハイミールには自分が行くと伝えました。彼女は見たことのないような顔と目で、私の顔を下の方から見上げていました。精神的に参って神経が張り詰めているようにも見ました。

実際、彼女との関係では私自身そういうことが多かったです。精神的な負担が強く、神経が張り詰めているような感覚になりました。

怒っているようには見えなかったのですが、訴えかける目線というのか、そんなのを感じていました。この年末の彼女は特に、そういう不安定な状態が多かったと思いますが、泣き出しそうな顔を見せることもあったり、外をさまよい歩くような姿もあったと思います。

年末最後の大掃除の時であったと思いますが、いつまでも玄関のガラスの拭いているようなこともありました。私はそのすべてを彼女自身の内心の問題だととらえていたように思いますが、被告訴人池田宏美らの影響も大きなものがあったとも考えられます。

そのあたりのことは、また別の項目で書きたいと思います。裏駐車場と連動した自宅の電話に出ない対応にも関係していますが、彼女は19時ころを含め、電話に出ないことを「寝てたんじゃないか」ととぼけていました。常識でとぼけていたとしか考えられないことです。

結局、私は和田君と二人で北陸ハイミールに行くことになったのですが、私の大型ウィング車の助手席に彼が同乗しての付き合いだったと思います。

他に市場急配センターでの仕事では余り記憶にないことですが、私は日栄運送の前の道路を通って、突き当りの金沢港の道路を右折しました。

日栄運送の前を通ったであろうことはそれ以外の道がないということで間違いないと思うのですが、昭和59年当時を含めその道は、藤江の陸橋の辺りから側道に入り、金沢西高校だかの正面辺りを左折して田んぼ道を走るという裏道でした。金沢港に行くのによく使っていた裏道です。

金沢西高校というのもその前か後で学校の名前が変わっていたような気もします。あの辺りは近くに県庁が出来て移転したこともあり、原型をとどめないぐらいに様変わりしているのではと思いますし、いつ頃にどう変わったのかも、思い出せないところがあります。

金沢港の広い道にぶつかると通常は左折して県漁連の市場などに行くことが多かったのですが、その時は右折をして北陸ハイミールに向かいました。

後の方でも会社から北陸ハイミールに向かうときは、東インターの方に8号線バイパスを走って田中の交差点から内灘に向かい、内灘の陸橋の手前の広い道を右折して行くことが多かったように思います。その陸橋の手前の広い道が、金沢港からつながっている広い道です。

通った道のことなどどうでもいいのですが、ちょうど金沢港に出た道を右折するのに大きく大型車のハンドルを切り返していたところだったと記憶にあります。

不意にチューこと和田君が、「広野さん。嫁さんおらんかったら不便やろ。会社のAちゃんなんてどうや」と言い出したのです。私自身どのように受け答えしたのか、今はすぐに思い出せなくなっていますが、適当にごまかしたような返事で、会話の続きを打ち切るようにしたように思います。

彼とはその後も何度か付き合いがあって、彼の自宅というアパートに遊びに行ったこともありました。諸江と聞いたように思いますが、浅野川の土手の道路にも近い場所で、内灘駅に向かう電車の浅野川線の側ににあるアパートだったと記憶しています。

あと、1月12日の午前中、片山津温泉せきや、から戻るときも彼の乗用車に乗って帰ったことを憶えています。二人で帰ったと思いますが、なぜ二人になったのかとなるとおもい出せないところがあります。

何人かはそのまま福井県の三国ボートレース場に競艇をやりに行くという話も出ていたかと思いますが、誰が行ったのかもよくわかりませんでした。

和田くんは自分の乗用車で高速道路を180キロのメーターを振り切るようなスピードで走っていたので、会社に着くのも早かったと思います。それでもチェックアウトまでもたもたしていたところもあったので、10時頃にはなっていたかもしれません。

ほどなくだったように思いますが、3,4人の年配の市内配達の運転手に混じって被害者AAさんも帰ってきました。彼らの車に同乗して帰ってきたという様子でした。少しして休憩室の電話から諸江の女友達のところに電話を掛けているような様子もありましたが、細かい事実は思い出せなくなっています。

3月の14日ではなかったかと思われる土曜日には、和田君が苦しそうに裏駐車場でゲロを履いているような様子を見かけたこともありました。ピンポイントでその部分だけ現在の記憶に残っていますが、他にも何かあったような気はします。

夕方に西口が来て、そのあと被告訴人多田敏明の3人で北安江の焼肉店に行ったのも、その土曜日のことであったように思います。当日かどうか、被告訴人安田繁克のものらしい車を会社の前で見かけましたが、その姿はみかけませんでした。

被告訴人安田繁克のものと思われる車のことに関してはできるだけ詳しい状況を書いておきたいのですが、以前からインターネットで車種について調べておきたいと思っていたものの、まだ実行はしておらず、車種の名前もわかりません。

被告訴人安田敏が150万円とかで新車で買ったという車についても同様のところがありますが、被告訴人安田繁克の車はなんとなくトヨタの車だったという気がして絞り込みが出来そうですが、被告訴人安田敏の車に関してはより難しいかもしれません。

当時かなり珍しい感じのデザインの車で、第一次世界大戦当時のドイツ軍の軍用車にも見えるような車だったという印象は残っていますが、普段生活をしていても長年、それらしい車を見かけることはなく、すぐに絶版になったのかもしれないです。

Googleで画像検索をしていたところ、被告訴人安田敏が150万円で買ったという車は日産のパオという車ではないかと思えてきました。しかし、平成2年に生産を終了したという情報もあって、被告訴人安田敏は新車で買ったと話していたようにも思います。

日産・パオ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AA

後ろの方の見た感じが私の記憶とは違っているようにも思うのですが、水色の絵の具のような色の車というのは、当時珍しかったと思いますし、まさにこんな感じの色の車ではあったと思います。

日産・フィガロ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AC%E3%83%AD

上記の車だと「フィガロ (Figaro) は、日産自動車が1991年と1992年に販売していた乗用車である。」ということで時期的にも一致しそうですし、後ろの部分がそんな感じだったような気もするのですが、被告訴人安田敏の車は2枚ドアではなく4枚ドアだったような気もします。

被告訴人安田敏の買った車などどうでもいいといえばどうでもいいことなのですが、タイミングとして私が2月14日の白菜散乱のことで25万円だったかを被告訴人安田敏の50万円の前借りの保証人として会社に一括払いしてしばらくした2月の終わりか3月の初めの行動でもありました。

現在の私の記憶では北國銀行中央市場支店のATMで私が引き落としたのは多くて25万円、少なくて20万円なのですが、それは2月14日の午後のことで、12月の時点では被告訴人安田敏が理由をつけてまだ会社に一円も前借りを返していないような話を被告訴人松平日出男から受けたように思います。

私は20万円か25万円の現金を被告訴人松平日出男に渡し、被告訴人安田敏に関してはもう一切責任も負えないし、本人に自覚も反省もないので大きなことにならないうちにヤメさせたほうがいいと思う、などという話をしたと思います。

思ったよりずいぶんと手間取り、これだと思うものも見つけることが出来なかったのですが、被告訴人安田繁克の乗っていた車は、次の車の可能性が高いのではと思います。

【カーセンサーnet】「ハイラックス シングルキャブ」に関する中古車情報|中古車ならカーセンサーnet http://bit.ly/1rJr8jl

どうもダットサンというのは日産の車種で、それに近いモデルがトヨタではハイラックスということになるようですが、車種も年代ごとに細かい違いがあったり、輸入車なども混在しているようです。

歴代のダットサンの写真もGoogleの画像検索でかなりの数見たのですが、それらしい型式はなかったので、やはりハイラックスの可能性が高いかと思います。荷台の方の側面のボディにも丸みがあったような記憶がありますし、他にもデザインとして丸みを強調する部分はあったような気がします。

こうやって考えてみると、事件を起こしたのに近い3月の後半には和田君と会う機会も少なかったような気もします。事件当日に少しだけ姿を会社で見たような気もするのですが、いろいろと記憶の減退も改めて感じます。

前に書いたように福井県の鯖江市だかに向かう北陸道の尼御前サービスエリアで、和田君が事務員の探しているらしい話をしていたということは書いたと思いますが、よく考えてみると木村さんの紹介という話は出たのか出なかったのか、現在の私の記憶では判然としないところがあります。

それは私がミールを積んで徳島県小松島市に行ったのと近い時期であったとも思えてきました。その日のことは確か前後の運行の状況から日付も特定できていたように思います。

なぜだか日付が近いような気もしましたが、そうではなかったような気もしてきました。徳島に向けて出発した日は、なんとなく天候も悪かったような気がするのですが、そういう天気と同じようにめくるめく、彼女に対する見たかも変化の激しい時期で、一喜一憂でもあったと思います。

これも大事なところなのでまた別の項目でも記述をしておきたいと思いますが、被告訴人松平日出男は17時なるとすぐに帰宅しようとした被害者AAさんに、声を掛け次のように言いました。

「Aさん、今からKNさんのところか、それとも例の彼氏と今からどっか行くんか?」。

被害者AAさん本人の耳にはどこまで聞こえていたのかも不明ですが、出入口のドアから出ようとした時に声を掛け、彼女は足も止めず、振り返りもしないでドアの先の階段を降りて帰っていったように思います。

すぐに被告訴人池田宏美が困ったような声で、「あの子、彼氏なんかおらんよぉ」などと言ったところ、被告訴人松平日出男は自信ありげな意味有りげな口ぶりで、「わっしゃあ、いい彼氏紹介したんや。かたい。」などと言いました。

その時には被害者AAさんの姿は完全になくなり話が聞こえることもなかったと思います。あるいは階段を駆け下りる彼女の足音から、階段を降りて外に出て行ったことがわかるような状況であったのかもしれません。工事現場にも似たものがあるような鉄板の簡素な階段だったと記憶しています。

彼女は勢い良く飛び出すように帰ってきました。17時になるのをずっと待っていたような感じにも見えましたが、前後のことは余り記憶に残っていませんし、私はちょっと前に外から戻り、二階に上がったところだったようにも思います。今考えても何かあったという感じではあったと思います。

18時か18時半頃には徳島に向けて出発をしたように記憶しています。雨が降っていたような状況も一つの場面として記憶には残っています。たぶん重量オーバーでの検問を避けるため、遠回りですが金沢東インターから北陸道に乗ったのだと思います。

徳島県の小松島市のことはなんとなく記憶に残っています。荷物のミールを降ろしたと思われる場所の記憶というのはあまりないのですが、自衛隊の基地の前のようなところを通ったような記憶が残っています。天気も良かったと思います。

徳島というか小松島市で荷物を降ろすと、すぐに松山市に向かったように思います。あるいは金沢を出る前に松山に行くことは決まっていたのかもしれません。

午後の4時ぐらいには愛媛県の新居浜市のあたりにいたと思います。名前は記憶にないですが高速道路で、どこかのパーキングに入って、そこから会社に電話を掛けました。

今、ふと思い出したのですが、私は被害者AAさんが電話に出る時間帯を狙って16時以降に会社に電話をすることが多かったように思います。14時から16時前の時間帯は、金沢市場輸送に行っていていないことがあったとも記憶にありますが、これにも何か変化が出たことを印象的に憶えてはいます。

それは私が出先のことではなく、会社にいる時だったと思いますが、彼女は私のいない時間に合わせて、金沢市場輸送に仕事に行くようになったと記憶していますが、それも2月の初めに裏駐車場での駐車をやめたあとに、始めたことであったと思います。

これも細かいことは思い出せないですが、愛媛県内のパーキングからの電話でも、2月の初めの福岡県内からの電話の時と同様に、やたらと被告訴人梅野博之が電話に出て、面白がったようなわざとらしい対応をやっていました。

被告訴人梅野博之ほどではなかったとも思いますが、河野秀美さんも薄ら笑いを浮かべて面白そうに見物していることがありました。初めにそれをはっきりと感じたのは12月21日の夕方のことであったと思います。二階事務所の正面道路に向かって左側の隅の方に何人かでいましたが、彼の顔だけ特に。

事件後、金沢西警察署に面会に来た時の被告訴人安田敏の話であったと思いますが、その被告訴人梅野博之と河野秀美さんの二人が、私に対して厳しい意見を述べ、会社への復帰を反対したと聞きました。被告訴人梅野博之に至っては殺してやるようなことも口走っていたと聞こえました。

平成16年ころだったような気もしますが、被告訴人梅野博之との会話は録音したものを御庁に提出したと思います。被告訴人安田敏も被告訴人KYNも同様ですが、被告訴人安田敏とのやりとりが特に時間も長く、録音の回数もあったように思います。