告訴状2013(作成途中)_17

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:25:08

ファイルは探せば今でもあると思いますが、私は少なくとも5年以上一度も聴いたことはないように思います。羽咋市から宇出津に戻ってからは一度も耳にしていないようにも思います。少なくともここ2,3年は全くないはずです。

平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の事件当日のことですが、レストラン十字に入って席につき、早い段階で出た話だったと思いますが、被害者AAさんが、木村さんの紹介で事務員を入れるらしい、というような話をしていました。

それは彼女の後釜を意味するようにも受け取られたからです。そもそもこの当日も彼女の態度はめくるめく急変をしていました。そもそも被告訴人梅野博之や被告訴人池田宏美が不安を煽る発言と注意喚起をしていたからですが、それは彼らが供述調書において述べている事実でもあります。

4月1日に会うことになったのは、3月30日の午後に古河の青果市場から掛けた電話がきっかけでした。古河の市場には敷地の外の人がほとんど通らないような場所に、なぜか公衆電話の電話ボックスがありました。雨にも濡れないような完全な電話ボックスではなかったかもしれません。正面入口付近。

ようやくこの項目の主題を書いたと思いますが、同時に中野さんについても書くつもりでいました。木村さんと中野さんに面識があると聴いた話はなかったですが、その可能性は十分にありそうだと思っていました。

その中野さんですが、私が金沢市場輸送で東北便の仕事をするようになった早い段階で、その東北便の福井中継をやるようになった人でした。私の知る限り、ずっとその福井中継を続けていたし、事件の5日ほど前にはずいぶん久しぶりに姿を見かけたので、なおさら印象に強くも残っています。

私は昭和61年の秋にも頼まれて何度か、東北便に行くことがありました。当時は4トン車が主体の仕事であったようにも思います。時期的なこともあったかと思いますが、荷物も4トン車に十分に積載できるものであったと思います。

昭和59年に金沢市場輸送の4トン保冷者に乗務していた頃にも石巻港や塩釜港に行くことはありましたが、その定期便とは無縁だったと思います。

よく憶えていない部分もあるのですが、初めのうちは石巻の東北陸運の荷物と、塩釜港の宮城陸上の荷物の一部を積んでいたようにも思います。その頃には宮城陸上の自社便も大型車が運行していて、帰り荷に七尾市のスギヨからカマボコかその原料を運んでいるようでした。

宮城陸上の金沢便を全面的に請け負うようになったのは、私が大型の保冷車に乗務した後のことであったとも思えます。つまり昭和62年の4月よりあとのことです。そのうち東北陸運の荷物も増えていきました。

世の中にグルメという言葉も出てきて、食への感心が高まったという時代背景もあったのかもしれませんが、海産物の荷物の量もだんだんと増えていったような気がします。そのあたりのことは本書で前にも書いているかと思います。

そういえば数日前から思い出している人物ですが、河北郡内灘町付近にある地名と同じ二文字を書く人物がいました。何か読み方が違うような話も耳にしたように記憶にはあるのですが、誰かの冗談かと思って真に受けなかったような気もします。

基本的に無口で大人しい人でした。年もそれほどは離れていなかった気がするのですが、20代の後半かあるいは30代の前半と聞いていたようにも思います。顔は現在でも割とはっきり記憶しています。それだけ特徴もある顔立ちだったとは思いますが、能登ではわりといるようなタイプでした。

能登の出身とは聞かなかったように思いますし、金沢の人らしい話し言葉を使っていたような記憶も微かに残っています。一時は4トン車で長距離の仕事をしていたこともあるいはあったかもしれません。

市内配達の仕事をするようになって、そのうち何か責任のあるような立場で仕事を任されるようにもなったと耳にしたような気もします。そのうち鋼材を運ぶ大きな運送会社の社長の娘と結婚しているような話も耳にしましたが、そのうちに辞めたのか、全く姿を見かけなくなった気がします。

特になんということもないのですが、当時のことをいろいろと考えているうちに、その人のことも頭に浮かんできたのですが、はっきり思い出せない部分もあります。大人しく無口であった割に、色々と話が耳に入ってきたような記憶もあり、ちょっと不思議な存在感もあったかと思う人です。

そういえば最初のうちはその無口な人が、福井の中継もしていたように思います。ただ、その頃の福井中継は、受け持ちになっていた人の責任かどうかも忘れましたが、出てくるか出てこないか当てにならないようなところもあったような気もします。

そうこうするうちに中野という人が福井の中継をするようになったのですが、中野さんは休んだという話を聞くこともなく、毎日決まった時間に必ず、中継の場所にいました。トラックの中で寝て待っていることもあったかもしれませんが、必ずいるという感心感も当たり前のことになっていったと思います。

いるはずの福井中継の運転手がいなかったとか、来なかったという話は、現在の記憶では鮮明になりませんが、まあ、何かあったようなことだけは微かに記憶に残っているような気がします。

いつ頃からというのは思い出せないですが、だいたい昭和62年頃には中野さんはいたように思います。それからずっと福井の中継をやっていました。ポンコツの4トン保冷車で中継をやっていましたが、忙しい時期でもそんなに荷物の量が多くて積みこむのに困るようなことはなかったと思います。

わずかな荷物ということも多かったと記憶にはありますが、それで会社として採算がとれるものなのかと考えることもありました。中継の荷物というのは距離は余り関係なく1個50円というのが相場だと聞いていました。

そういう計算も得意ではなかったですが、真夜中に運転手を雇い。トラックの油代と高速代を払うのに見合うだけの、中継の荷物の量があるとはとても思えないことがあったからです。

今計算すると100個の荷物でも5千円にはなるので、どうかとは思いますが、他の運送会社の中継のトラックは、満載にも近いようなかなりの量の荷物を積み込んでいるのも見ていたからです。

金沢市場輸送の福井中継ではひざ下でも空きのスペースが多いような状態が多かったとも思います。なお、富山県の第二の都市、高岡行きの中継は、守田水産輸送に出していたと記憶にあります。

私の個人的な感想ですが、福井中継のその荷物の少なさも、中野さんの存在を不思議に思われるところがあったかと思います。会社としては他の利益もあってやっていたことかもしれず、いまさら詮索しても始まらないことですが。

中野さんは普通に見れば怖い人にも見えていたと思います。後から仕事に入ってきたということもあり、気を使った態度で接していたとも思いますが、それでも時折、怖い人に見えることもありました。話し方や態度はむしろ安心感を与えるものでもありましたが、それもかえって裏がありそうに思えたり。

中野さんは包み隠さずに、昼は喫茶店の仕事をしていて、夜にこの仕事に来ていると話していましたが、その喫茶店の場所を聞いただけで、普通の人ではなさそうだと思いました。

私の聞き違えという可能性も完全には否定出来ませんが、増泉の一丁目か二丁目で喫茶店をやっていると話、だいたいの場所を教えてくれましたが、だいたいそれらしい喫茶店を見たことがあるような場所でした。

私は昭和56年の夏、短い間でしたが被告訴人大網周一とその増泉一丁目の辺りで生活をしたことがあり、ヤクザ者のような人間がどれほど多い割合で住んでいるかもしっていました。その当時ともなると事情もある程度は違っていたのかもしれませんが、その付近の喫茶店というのは独自の雰囲気の店でした。

増泉の一丁目といっても少し離れると畑や田んぼもあったように思いますし、普通の人も多くは生活していたと思いますが、想定される客層とともに、喫茶店の店が持つ雰囲気が、特別だったからです。

木村さんも増泉でコンパニオンの派遣の仕事をしていると聞きましたが、それは市場急配センターに移ってからであったとも思います。誰から聞いた話なのか改めて考えてみたのですが、被告訴人安田敏から聞いたという可能性が、一番かもしれません。

木村さんの紹介で事務員が入るという話は、他にも耳にしていたと思います。はっきり思い出せるのは尼御前サービスエリアでの和田君の話でしたが、4月1日よりは一月以上前のことで、木村さんの紹介という話が出たことも、現在の私の記憶でははっきりとは思い出せません。

それにしても紹介で新しい事務員が入るような話は耳にしていたかと思うので、それが被害者AAさん本人の口から出たことは、それなりの効果もあったと思います。

レストラン十字で席に座ってからの彼女は、不思議に思えるほど、ちょっと前とは一変して安心した様子で、笑顔も見せて話をしていました。

直接会って話をするということは3月30日の古河からの電話より前に彼女との間で決まっていたようにも思います。

その古河から掛けた電話の少し前に、私は当日、古河から名古屋行きの荷物を積んで走り、夜のうちに名古屋の市場で荷降ろしを完了し、翌日の午前中か午後には、知多半島の碧南市からレンガか瓦のような荷物を積んで金沢に戻ることになっていました。

つまりは31日に碧南市から荷物を積んで4月1日に金沢かその付近で荷物を降ろし、運行が終わるということになったのです。そこですかさず私は金沢に戻ったら、あがりにしてくれと頼んだのです。

あがり、というのは帰り荷の荷降ろしを終えた当日、運行には出ないことを意味します。一応定時は17時になっていたかと思いますが、その時間まで会社にいて指示通りの動きをしていれば、翌日の朝まで自由時間ということでした。

普通の会社の仕事では17時に仕事が終わって家に帰ることはごく普通のことですが、長距離の仕事では、あがり、ということになっていました。当日の午後や夕方に荷物を積んで次の長距離運行にでることを「着発」とも呼んでいました。

たまには会社の指示で、前にも書いた馬鈴薯の積み込みの手伝いに出ることもありましたが、通常はトラックの修理、点検に出かけたり、洗車をやっていましたが、ほとんどは自由時間のようなものだったと思います。

金沢市場輸送にいた頃は、夕方遅くにホーム作業で積み込む雑貨の仕事も多かったので、夕方近くまで会社に出てこないこともありました。決まりでは昼過ぎに出てくることになっていたとも思いますが、次の運行がはっきり決まっていれば、さほどやかましく言われることもなかったと思います。

夕方からホーム作業で荷物の積み込みを始めても出発するのは22時ころとかで、夜通し走って荷降ろしをして、作業が終わるのは翌日の早朝ということも普通だったので、夕方の出勤というのも当たり前といえば当たり前のことかと考えてはいました。大手の運送会社でもそんな話でした。

古河の市場から北陸以外の運行というのはその時が初めてだったと思います。静岡県内でも浜松市の市場だったかに荷物を降ろし、名古屋の市場で荷降ろしを完了しました。

それから知多半島に走って、道路標識が碧南市に入ったあたりにコンビニがあってそのあたりは広い駐車場にもなっていたので、そこで仮眠をとりましたが、寝る頃には夜も明けて明るくなっていたと記憶しています。

午前中に起きて会社に電話を入れたところ、予定されていた碧南市での瓦だったかの仕事はなく、小牧市の方からアサヒの缶ビールを積むことになりました。小牧市までは名古屋市内を横断することにもなるので、それなりに時間も掛かったと思いますが、16時か17時前の明るい時間には滋賀県にいました。

小牧市から積んだアサヒの缶ビールの荷物は石川県の小松市降ろしでした。なんとか酒類とか言う会社であったと思います。金沢にも似たような名前の会社はありましたが、小松降ろしになっていました。

金沢市と小松市の距離は30キロ程度だったと思いますが、時間帯やその位置にもよりますが、早くて30分、余裕を見て一時間という感じかと自分は考えていました。一度、金沢の自宅アパートまで帰るのもいいのですが、翌日はあがり、ということもあり、疲れもあったので直接小松に行くことにしました。

金沢に帰ることを考えると往復で2時間ほどの時間が必要になるのですが、直に小松で荷降ろしをするとなると、時間もかなりの余裕が出来ました。その余裕が出すぎたことも悪かったのかもしれません。考え事をする時間も長くなってしまいました。

初め関ヶ原から国道365号線に入って福井方面に向かい、伊吹山を越えて滋賀県に入った辺りで、右手に食堂を見つけ、そこで食事をしました。初めて入った店だったとも思いますが、まだ16時台だったとも思われる早い時間でした。

その後、国道8号線で小松の市内を抜けたあたりにくるまやラーメンがあって、普通は大型トラックが入るような駐車場とも思えなかったのですが、荷降ろしの会社に近いこともあって、その店に入り、たぶん生ビールでも飲んで一気に眠るつもりでいたと思います。

ところが思いとは裏腹にだんだんと目が冴えてきて全然眠れなくなってしまいました。前の晩は、東名高速の御殿場インターチェンジ付近のサービスエリアでも数年ぶりの睡魔に襲われて、運転中久しぶりに危ない思いをしたところでもありました。

休もうと意識するうちに眠れなくなってしまい、そのうち疲れもたまっている状態なので、朝に寝過ごしてしまうことが心配になってきました。それで何時ごろかは記憶にないですが、夜中に荷降ろしの会社の場所まで移動し、そこで休んだのですが、余り睡眠は取れないまま朝になったように思います。

それでも予定通り朝一番に荷降ろしをすることは出来たと思います。それから金沢に戻ってまずは会社に顔を出しましたが、その時点で被害者AAさんの状態が普通ではなくなっているのに驚きました。何か攻撃的な態勢をも感じさせるものでした。

前の古河の市場からの電話で4月1日の夕方仕事が終わってから会って話をする、という返事をもらった時は、彼女は感情を表に出さず、なんでも受け入れるという態度で、何を言っても「はい、はい」と答えていたのです、それはやけくそでふざけている態度にも思えなくはなかったですが、穏やかでした。

それと時間帯的にも似たようなことが数日前にありました。現在の私の記憶だけでは分析も難しくなっていますが、古河から名古屋に行った運行の前の運行か、そのまた前の運行のことでした。3月24日より後のことでもあります。

現在の私の記憶では多分ということになりますが、加賀市の大同工業に栃木県宇都宮市行きの荷物を積み込みに行く直前だったと思います。午前中に行きの荷物を積み込みに行くという事自体、かなり珍しいことだったとも記憶していますが。加賀市の大聖寺まではそれなりの時間も掛かりました。

その大同工業に荷物を積みに行くことに関した用事であったかは現在思い出せないのですが、なにか用事があって被害者AAさんの机に近づいた時のことです。ちょうど彼女は中野さんからなにか報告を受けているような状況でした。

時刻は6月29日11時02分です。少し前まで強い雨が長い時間降り続けていましたが、ようやくあがったような感じです。少しですが、日差しも明るくなってきたような気がします。

さて、昨夜の続きです。平成3年3月の10日ころに市場急配センターの二階事務所で大幅な室内の模様替えがありました。模様替えというのが正しい言葉かどうかわかりませんが、机の位置などを変更しています。

とりあえず模様替えでいきますが、その模様替えで被害者AAさんの席というか机は、それ以前被告訴人松平日出男社長の机がほぼあった場所になりました。事務所の奥、正面道路側の窓際の位置です。事務所全体を見渡しやすい位置だったとも言えるかと思います。

昨夜の繰り返しになるかと思いますが、彼女の机の脇には中野さんが立って、何か報告のような説明をやっていました。そして、私が机に近づいていった時のことです。真剣な面持ちで仕事の話に看看を傾けながら彼女は下の方からおもむろにメガネを取り出し、そのメガネを自分の顔に掛けたのです。

私も驚きましたがよくある彼女の行動パターンなので、また新しいことを考えたのか、という感じでした。被害者AAさんが会社でメガネを掛けた姿というのは、それまで一度も見かけることがなかったからです。

事件後の彼女の両親のどちらかの供述調書のなかであったと思いますが、彼女は少し視力が弱くメガネをかけることがある、というような記載はあったように思いますが、なにか取り調べの警察官の誘導で出てきたような話に見えました。

それまで全く見たことのなかったメガネ姿の彼女だったので、メガネは演出のための小道具以外に考えられなかったです。さらにそのメガネを取り出して掛けたタイミングです。細かいことは思い出せないですが、似たようなことは他にも色々あり、これは特にわかりやすい例ではないかとも思います。

予想外の行動だったので私もそれなりには驚きましたが、むしろ側にいた中野さんの驚き様のほうがすごいと私の目には映りました。漫画に出てくるようなリアクションでした。

その時間帯ですが午前中の11時前かもしれません。長距離運転手である私が、二階事務所にいることは余りない時間帯ではなかったかと思います。

中央市場が休みではない限りは毎日同じことを繰り返しいるはずの中野さんの仕事内容なので、たぶん毎日同じ時間帯に同じように二階事務所に来ているものと考えられました。しかし、そういう場面を見たのは初めてに近いことで、中野さんの姿を見たのもずいぶんと久しぶりだったと印象に残っています。

なお、私は中野さんが以前の福井中継を続けていたという前提で考えていますが、福井中継をやめて他の仕事をしていたという可能性も十分にあると思います。

中野さんは市場急配センターという会社が独立する前から金沢市場輸送にいた運転手です。夜の数時間だけのアルバイトという印象もあったのですが、社員なのかどうか本人にも他の運転手に聞いたこともなかったので、わかりません。

東北便は早い時で夜の23時ころに金沢の中央市場に着いていたと思います。遅い時でも2時ぐらいでしょうか。年の瀬で荷物の量が多かったり、大雪で交通事情が悪くなれば、当然に到着時間も遅れがちになります。

前にも書いていると思いますが、東北便は年の瀬の一番荷物の多い時で大型車4台、4トン車1台ぐらいの荷物がありました。主な荷物はサンマ、タラ、銀鮭、マグロなどですが、貝類やウニ、カマボコなどの練り製品も多かったです。塩釜では北海道の苫小牧からフェリーで来た荷物も中継で積んでいました。

荷物の行き先は、新潟県の糸魚川市の市場、富山市の市場、高岡市の市場、金沢の市場、福井の市場でした。糸魚川市の市場と富山の市場は荷物を積んでいれば、直接立ち寄って卸していました。前に書いたと思いますが、高岡分は守田水産輸送に中継を出していました。

練り製品などは市場以外に、市場の近くの食品会社への荷降ろしが多かったです。石川中央食品、カナカン、イケウチなどがありました。色々と混載で降ろし場所の違いもあったので、慣れないと大変だったと思いますが、やっているうちいつの間にか慣れていたのでなってことはなかったです。

マグロはほとんどが木箱に入った一本物のマグロで大きい物は300キロありました。木箱は大量の氷も入っています。練り製品は濡れないようにする必要がありました。降ろしやすい順番を考えて積んでおく必要もありました。

荷扱には注意しなければならず、ウニの箱などは横倒しにするだけで50万円の弁償になると聞いていました。練り製品もびしょ濡れにすれば売り物にならなくなります。破損等も基本的に運転手本人が負うということになっていたので、自然に最大限の注意を払うという習慣も身についたと思います。

鮮魚に比べると青果というのは、余り気を使う必要もなく荷物の種類も多くはなかったです。トマトやスイカはそれなりに気をつけましたが、荷受けのほうが心得ているのでその指示に従って降ろすというのも多かったと思います。

大型車は積める荷物の量も多く扱う量も多いですが、気分転換の運動という感覚もあって私の場合、さほど苦になるものではなくなっていました。むしろ昭和59年に4トン車に乗務していた頃の方が、慣れていなかったためもあったのか、しんどく辛い思いをしたという記憶が残っています。

経験の積み重ねもあったのだろうと思いますが、普通に仕事をやっているつもりでも、高い評価を受けるようになっていきました。慣れない人や経験の少ない人だとやはり大変なのだと思いますが、楽をしていても経験は積めないというのが私の持論でした。

そういう意味でも仕事の選り好みというのはしないようにしていて、まあ、会社に言われるままの指示で仕事をしていました。

長距離運転手として鍛えられたのは中西運輸商にいた時でした。何度も危ない思いをしたり、劣悪な条件下であったり、限界に挑むようなことをやっていたので、飛躍的に経験値を高めることも出来たと思います。

中西運輸商ではほとんどが佐川急便の広島・九州便でした。当時の佐川急便の社風も軍隊的な特別なものがあったので、厳しいところもありましたが、積み荷に対する責任や時間の緊迫性は一番の仕事が厳しく、特に鮮魚は生物なので何かあったときの影響も大きいと聞いていました。

鮮魚では石巻・塩釜からの東北便が多かったですが、九州の福岡からもウロコ運送と交代で定期便をやっていましたし、青森便もやりました。九州からは大阪や東京の市場に行くことも多かったです。築地の市場は特別な厳しさもあって、色々と得難い経験も出来たと思います。

同時に私の場合、身体的なことで長距離の仕事には限界も感じていました。もともと視力が弱いのですが、目の負担も大きく感じるようになっていたからです。

時刻は7月3日5時59分です。数日ぶりの記述の再開になると思いますが、今日は用事があって朝5時に起きました。昨日はとてもよい天気だったのですが、今日は朝からどんよりとして梅雨らしいすっきりしない天気です。

この項目で書き上げておきたいと思いながら、思い出せなくなったことがあるようで、そのあたりもすっきりしないのですが、書いているうちに思い出すこともあるかと思います。関連した事実や問題の説明に移ると、元の対象の場所にもどるのが難しくなることがあります。

町内のキリコの組み立ての手伝いに行っていました。たぶん初めてのことかと思います。

明日4日と5日は、地元宇出津のあばれ祭りなのです。被告訴人らとも顔を合わせる可能性が一年で一番高くなる日かと思います。身体、生命に関する危険というのも高まる日かと思いますし、それも含めて今日に至っています。

この項目ですが、主に木村さん、中野さん、河野秀美さん、和田君、山下強について説明を交え事実関係を書いてきたかと思います。河野秀美さんと山下強に関しては、まだ書くことを予定しています。

河野秀美さんに関して重要なことは平成4年2月1日の夜、市場急配センターの休憩室にいたかいなかったかということもあるのですが、現在の私の記憶でははっきり思い出すことが出来ません。仮にいたとすれば、それ自体、かなり珍しいことかと思います。

2月1日の夜のことに関しては、被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克がメインになるので、そちらの項目で書こうと思います。二人が供述調書において決定的に事実とはことなる内容を具体的に述べているところであり、彼らの計画性と共謀共同正犯の関係を強く推認させる問題点でもあります。

そういえば山下強がトラックに乗務中のケンカで路上に頭を打ち、被告訴人安田敏が代わりに愛知県の豊橋に走ったという話を書きましたが、説明に不十分なところがあったかと思います。

まあ、何を書いたところで20年以上も前、岡田進弁護士が完全形式的に無視し、木梨松嗣弁護士が実質握りつぶしたような事実なので、検察、警察が動かない限り、陽の目を見ることはないかとも思っていますが、その必要性を社会に訴える告発という意義も大きいです。

どうも山下強は空車で豊橋に向かおうとしていたものと考えられます。彼の自宅が河北郡津幡町にあるということはその前から聞いて知っていました。津幡町は河北郡のなかで金沢市内にも近く一番大きな町かもしれません。富山県の県境にも近く国道8号線沿いという地理的な特徴もあります。

内灘町も河北郡で割と大きくて地元では誰もが知っている場所ですが、海水浴場もあって海に近いです。現在は無料化に伴い名称も「のと里山海道」とかに変更になりましたが、能登有料道路の内灘料金所もありました。

私は2009年の1月以来、一度も金沢市近郊には行っていないので、道路事情も変わっているかと思いますが、金沢市では北陸道という高速道路で金沢西インターと金沢東インターがあって、ちょうどその2つのインターの間は、北陸道の下に国道8号線バイパスが通っていました。

金沢から国道8号線で富山方面に向かうと、金沢東インターを過ぎてすぐ、バイパスは左方向へ、北陸道はそのまま直進して山間部の方向へと枝分かれしていました。さすがにこれは現在も同じかと思いますが、山側環状という新しい動労もできているので、以前ほど主要な道路ではないかもしれないです。

正確なことは地図を見て確認する必要があるのですが、枝分かれして8号線を少し走ったあたりは、金沢市福久という地名だという意識が強いです。他にも町内や地名はあるのだと思いますが、その辺りの大体の場所を指す会話でも、福久ということが多いかと思います。

富山方面というか津幡の方向から国道8号線を走ってくると、福久をこえてすぐ北陸道と交わるあたりで右にカーブしているかと思います。被告訴人安田敏の簡単な説明でしたが、山下強が頭に怪我をしたというのは、その辺だと聞きました。

また一つ思い出したことがありました、説明が途切れた部分の一つです。それは被害者AAさんの両親の供述調書のことです。現在、私が手元にある情報として確認しているのは父親の告訴調書ぐらいでしょうか。添付資料として写真も用意されているかと思います。

家のどこかにはあるだろうと思いながら見つかっていないのは、母親の供述調書です。少し特別な場所に保管しようと思って動いたことを微かに記憶しているのですが、それが仇となったのか、どこに保管したのか忘れてわからなくなってしまいました。2009年の秋頃かとも思います。

被害者AAさんの視力が少し弱くメガネをかけることがあることは、その母親の供述調書に記載があったように思うのですが、それも現物がどこにあるかわからないので、確認することができなくなっています。

なぜ、供述調書のなかに視力のことが記載されたのか、それも少しは気になりますが、身体的特徴というのはなるべく記載しておくというマニュアルがあるのかもしれません。

中野さんと被害者AAさんがメガネの件ですが、事件の5日ほど前のことであったと思います。他にもっと気になることや、重要と考えていたことがあったので、中野さんとメガネことはさほど意識しておらず重要な事実とも考えていなかったと思うのですが、それでも直近に近いので取り調べでも話したかと。

なお、被害者AAさんの母親の供述調書というのは、金沢西警察署ではなく金沢地方検察庁が作成したものであったようにも思います。

私の知る範囲、被害者AAさんの両親と被疑者である私自身の供述調書以外に金沢地方検察庁が作成した供述調書というのは存在しなかったと記憶にあります。社長であった被告訴人松平日出男ですらなかったと思いますが、その松平日出男だけが例外で期日を別にして2通の供述調書が作成されていました。

私自身、割と最近になって気がついたことですが、金沢地方検察庁というか江村正之検察官が裁判所に証拠として提出したと考えられる供述調書というのは、日付にむらというか偏りがあって、金沢地方裁判所に提出されなかった供述調書の存在がうかがえます。

これは本書において、前にも指摘した箇所があるかもしれません。その記憶にも自身が持てないので確実なものにしておくため、改めて指摘と掲載をしておきたいと思います。

Linuxの端末で対象ディレクトリに移動し「% ls -d -1 *乙号供述調書*」というコマンドを実行しました。次がそのスクリーンショットの画像のファイル名とツイッターの写真付きツイートのURLです。

2014-07-03-093430_% ls -d -1 *乙号供述調書*.jpg pic.twitter.com/RevlBzmxuU

端末というのはターミナルとも言いますが、文字ベースのコマンドを使ってパソコンに処理をさせたり、操作するものです。普通にWindowsパソコンを使っていると見ることもないと思いますが、Windowsにもコマンドプロンプトという似たようなものはあります。

パソコンといえばビジュアルな画面で主にマウスを使って操作するものという認識が主流かと思いますが、Linuxでは文字ベースの捜査が多いですし、慣れるととても便利なので手放せなくもなっています。

lsというのはファイルやディレクトリを表示させるコマンドですが、-dというオプションでディレクトリのみに絞りをかけています。見やすく縦一列に表示させるため-1というオプションもつけています。

実際は半角ですが*の記号は、全ての文字に当てはまるものです。正規表現だと直前の文字の0回または1回以上の繰り返しというパターンになるかと思いますが、これは正規表現ではなくワイルドカードなので、Windowsパソコンの検索に使う記号と同じ意味かと思います。

正規表現というのはより高度なパターンマッチですが、grepコマンドでさらなる絞り込みに使うことが多いです。ファイルの数も少ないので、肝順なワイルドカードを使いました。

lsコマンドを-dオプションのみで実行するとちょうど2行になったので、次にそのまま紹介します。

H04-04-02_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-10_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-14_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-16_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-29_乙号供述調書_金沢西警察署

H04-04-09_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-13_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-15_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-18_乙号供述調書_金沢西警察署

これとは別にH04-04-01_自首調書_金沢西警察署がありますが、それ以外の乙号供述調書は全て谷内孝志警部補が単独で取り調べを行い、供述調書を作成したものです。他の警察官が取調室に入ってきた場面すら、記憶にないほどですが、お茶のようなものは持ってきたことがあった気もします。

現在の警察ではそういう対応はなされていないのではと思いますが、もともと随所にずさんさが見受けられる金沢西警察署の捜査と取り調べでした。ごくごく単純な事件として処理したようですが、最終的な判断は江村正之検察官がするという、おまかせ意識もあったのかもしれません。

4月3日から4月9日までの日付の供述調書というものが全く存在しません。個別に供述調書を何度見ていても、まったく気が付かなかったことですが、ディレクトリごとにファイルをまとめると、否応にも目に飛び込んできた現実でした。

ファイル名の先頭にH04-04-02というような日付を入れているのは、順番通りに並んで表示させるためでもあります。厳密に言えばパソコンの文字コードの順番になるのですが、英数字に関しては普通に規則通りに並ぶはずかと思います。漢字になるとほとんど意味のない並び順になるはずかと思います。

気をつけているのは、ここでは使っていないですが、連番をつけるときのことです。01などと桁を合わせて0で埋めておかないと、1の次が2ではなく11になったりして、意図したように並んでくれません。ディレクトリの中のファイルはそのように連番を使っているはずです。

金沢西警察署での取り調べが始まって少なくとも半月、だいたい20日の間は連日取り調べがありました。そして私の記憶では毎日午後から夕方、供述調書の作成が行われていたはずなのです。

当時は取り調べの意味もわからず、刑事裁判の仕組みも知りようがなかったですが、江村正之検察官が証拠調べを請求した供述調書のみが金沢地方裁判所に提出され、その全ての内容を私が認めたこととされていたようです。

金沢地方裁判所に提出されなかったということは弁護士人の目にも触れなかったものと考えられますが、私の手元にある、あるいはあった供述調書は全て、弁護人の閲覧しうる状況にはなっていたものと考えられます。

当時の私を含めた世間の常識では、弁護人が当然に閲覧つまり目を通していたものと考えていたと思いますが、まともな閲覧を弁護士に期待することがそもそも大間違いであった可能性もありそうです。儲けにならないことは目を背け、見向きもしないという習性も強そうな職種かと思います。。

本書でずいぶん前には書いているとは思うのですが、なくなるはずのない供述調書が相当の数、消失している可能性が高いです。大方は羽咋市のアパートに住んでいる間のことでしたが、処分するはずもないのに、なくなっているものが相当数ありました。

基本的には3部の供述調書がありました。最初は平成5年12月ころの時点で東京の国選弁護人斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられたものでしたが、供述調書は全て縮小版になっていました。この縮小版に関しては、明らかに消失したというものを私は確認していません。

どこかにしまい忘れてしまったという被害者AAさんの母親の供述調書というのも、その縮小版であったと記憶しています。

これはとても重要な資料なので確認も兼ねて再度書いておきますが、斐川雅文弁護士から郵送されたものは、上告趣意書の下書きや法規に関する書籍のコピーを別にすれば、もっとも数が少なく最低限の供述調書のみであったと思います。

次に差し入れを受けたのは平成6年の11月頃のことでした。ちょっとややこしかったのですが、金沢地方裁判所の民事部から原告代理人の長谷川紘之弁護士の書証の控えとして送られてきたものと思われました。

民事での損害賠償請求裁判の提起に伴うものでしたが、当時も理解に苦しむところが大きかったです。自分自身で理解の出来ない問題だったので、適切な説明も対応も出来なかったと思いますが、真相解明の手段としてその役割を果たさなければならないのかと、考えるのが精一杯でした。

長谷川紘之弁護士に関しては、今でも理解の出来ない存在ですが、ずいぶんと侮辱的な対応にも思え、好意的に理解するという努力が自分の納得になることは決してなかったです。

拘置所も同じでしたが、舎房の室内に何かを持ち込むのは、物品の受領や保管とは別の手続きが必要でした。郵送での差し入れもそうだったと思いますが、領置という手続きがあって、これは刑務所側での保管にもなっていたはずです。

領地の時点では物の差し入れがあったという告知だけで、現物を見せられることもなかったと思いますので、手にすることが出来ません。

舎房内に持ち込むには別に「仮下げ」という手続きが必要でした。これは房内所持の許可を伴うものでした。扱いとしては郵送や面会で差し入れられた本や雑誌、また所内で購入した本や雑誌も扱いとしては同じだったと思います。

金沢地方裁判所の民事部から郵送されたのではないかと思われる書類は仮下げでの房内所持の条件として、独居房への転房が必要だと言われました。初めに差し入れがあったという告知から2,3日後のようになんとなく憶えていますが、それまでいた南寮306号の雑居房から北寮の独居房に転房しました。

独居房に移ると同時に、仮下げを願い出ていた裁判資料のようなものが与えられたのですが、量が多かったためか、どこの家庭でもあって洗濯物を入れることが多いと思われるプラスチック製の網カゴに入れられていました。サイズもよくあるサイズという感じでした。

2段に分けてその網カゴにちょうど収まるという分量であったと記憶しています。高さは少しはみ出す程度だったとも記憶にはありますが、高くて25センチぐらいかと思います。サイズとしてはほとんどがB4用紙の袋とじだったので、B5の用紙と同じサイズのはずです。

言い方を変えると2つの綴りになっていたと思います。用紙のサイズは当時の裁判所の定型であったB4用紙の袋とじです。はっきりとした時期は忘れましたが現在も同じと思われるA4用紙の横書きになったのは、平成11年より後であったと思います。

その民事で金沢地方裁判所から送られてきたと思われる書類に関しては書証とか書いて番号も振ってあったように思いますが、表紙の部分がどこにいったのかも現在わからないので、確認は難しいかもしれないです。

またその内容物ですが、ひと通りの供述調書は揃っていたように思いますが、多かったのは医学的なデータや病院の領収書などでした。医学的に専門的なことがいろいろと沢山書いてありましたが、あれもどこに行ったものか、長い間見かけていないです。

北寮の独居房に移ってからは、出所までずっと独居房の生活になりました。2階と3階のいずれにも展望になったと思います。そういえば被告訴人安田敏の知人と後になって聞いた二人目の班長も隣かその隣の独居房になったこともありました。

福井刑務所の北寮と南寮については、本書において以前詳しい説明を書いていると思いますので、詳しくはそちらでご覧頂きたいと思います。

独居房に転房になったのは平成6年の11月の10日ころとも記憶にはありますが、11月の初め頃であったというのは間違いないと思います。それから一週間も経たない頃であったと思いますが、示し合わせたように今度は母親を介して木梨松嗣弁護士から記録が届きました。

厚い紙の表紙のようなものに挟まれた一綴りの書面でした。表紙の部分には「一件記録」とかいう記載もあったように記憶しています。これは以前、デジカメで撮影し、インターネットでも公開していたようにも思うのですが、現在のところ私自身確認を出来ていません。

その編綴された書面はそれもほとんどがB4用紙の袋とじになっていたと思いますが、厚みというか高さが30センチに近いだけあったと思います。数時間前になりますがいつも釣ってきた魚の大きさを測るのに使ってる巻き尺で、だいたいの長さを確認しました。

金沢東インター付近で山下強が怪我をしたという話から、別の説明に外れていってしまったかと思います。しっかりと脈絡のある説明や事実ばかりではないので、思い出したことをを思い出した時に書くというのも一つの方針です。

はっきりいって私としては断片的にしかわからないことも多いです。弁護士による説明や話など、かき集めてもごくごく短い時間であり、簡素な内容でした。事実上の幽閉状態だったとも言えますし、人質司法を検察批判として攻撃する弁護士サイドから、その警察検察の落ち度も含め最大限の利用といえます。

木梨松嗣弁護士の刑事弁護にかこつけた権利侵害の攻撃性は、人の生命身体に向けた重大な法益侵害として、殺人未遂の法的評価に十分値するものだと考えておりますし、求める処罰は仮釈放もない無期懲役の一点のみ、娑婆終いの娑婆捨て峠が目標です。

必要な事柄に関しては漏れなく記載するというのが大前提なので、項目の振り分けにかかわらず書くことがありますが、なるべくなら見出しに対応した項目の内容で、おさらいのような触れ方は、少なくともするように心がけたいと思います。

やはり思い返してみたのですが、金沢市花里の被告訴人安田敏のアパートに行き、ネックレスのプレゼントを被害者AAさんに渡してくれるように頼みに行った時と、山下強の代走の電話があったのは同じ夜だったと思います。

ネックレスのプレゼントの事自体、まだほとんど説明をしていないと思いますが、私は直接ではなく、被告訴人池田宏美を通じて頼んでくれと、言ったように思います。実際、被告訴人安田敏からは後日それらしい説明も受けたのですが、被告訴人池田宏美の供述調書とは隔たりというか違いもあります。

平成3年12月21日が土曜日だったので、夜になって被告訴人安田敏のアパートに行って頼み事をしたのは22日の日曜日の夜だったと思います。思いますというか、カレンダーを見ればすぐに確認できることです。

Linuxにはcalという便利なコマンドがあって「% cal 12 1991」と端末でやると、すぐに曜日を確認することが出来ます。やはり土曜日になっていましたが、初めのコマンドの実行では勘違いして1992とやってしまいました。

他にはっきりと覚えていることは、12月24日のクリスマスイブの朝、私は東京都練馬区で荷降ろしをして、池袋あたりから首都高速に乗り、そのまま茨城県古河市の山三青果に向かったということです。

練馬区で降ろした荷物は、石川県七尾市の林ベニアから積んだベニアの荷物だったと思います。同じく七尾市の能登木材からは製材のような荷物を積むことが多く、どちらもほとんごが関東での荷降ろしというか、行き先が関東だったと思います。関東以外というのはちょっと思い出せないです。

これは七尾市に住む被告訴人東渡好信が紹介した仕事で、丸一運輸からの下請けのようでした。丸一運輸の会社事務所には何度か行きましたが、わかりづらい目立たない場所にある会社でしたが、ずいぶんと大きいのに驚きました。割合よく見かけるトラックではありましたが、目立たない感じでもありました。

一見すると、その丸一運輸の仕事を手土産に市場急配センターの配車係におさまって楽をするというのが被告訴人東渡好信の当初の目的と思われました。

ところが、平成4年になると被告訴人東渡好信は無断欠勤を繰り返したり、理解に苦しむ言動や、さらには精神病者を装う演技とも見える、態度振る舞いを見せることもありました。被告訴人東渡好信に関する多くの開設は輪島の浜上さんから聞いていた話でもありました。

そのような被告訴人東渡好信の言動や振る舞いは、被告訴人安田敏の非常識な言動振る舞いとも、似たような時期に足並みを揃えるところがあったかと思います。被告訴人安田敏のそれは憐憫を誘うような要素もあり、同情に持っていくような方向性がありました。

言い方を変えると、正論だけと私(広野)が厳しすぎて、被告訴人安田敏がいじけて悪い方向に進んでいるという印象操作がうかがえました。それは私と被害者AAさんの関係にも通じるもので、その場の状況に即し、効果的なものであったと考えられます。

平成3年12月21日は、七尾市でベニヤか製材の積み込みに行ったことも微かに記憶に残っています。積み置きの関東行きの荷物で、月曜日降ろしだったと考えられます。ベニヤや製材の荷物で、日曜日に荷降ろしをしたという記憶はありません。建設現場でも荷おろしというのもなかったと思います。

ベニヤは倉庫降ろしもあったと思いますが、製材はほとんどが木材店のような敷地での荷おろしでした。事務所の建物自体は小さいのに、敷地がかなり広いという共通した特徴もあったと記憶しています。

ベニヤに関しては東京都の東大和市に行ったこともありましたが、時期の記憶がはっきりしないものの、被告訴人東渡好信の紹介というかあるいは周旋で七尾からの仕事を始めた最初の頃であったようにも思います。

神奈川県に大和市がありますが、東大和という地名を知ったのはその時が初めてで、どこがどう違うのかと考えたことも頭の片隅に残っています。大和市の近くには綾瀬市というのもありますが、柳瀬というのは似ていると考えてこともありました。

ヤナセといえばドイツ車の関係で当時既に知られた会社だったと思いますが、被告訴人安田敏の説明で柳に瀬と書いて「ヤナセ」と読むのは、なるほどと思ったのも印象的でした。妻になった彼女の名前だと被告訴人安田敏は言っていました。

結婚するというより12月の25日ころが予定日で子供が生まれるという話を被告訴人安田敏はしていましたが、それも12月に入ってからであったかもしれません。あるいは11月中ですが、話を聞いてから出産までの間というのも、余りなかったという印象が残っています。

被告訴人安田敏のアパートにちょくちょく行っていたのは、まだ市内配達の仕事をやっていた頃で、9月より前が多かったと思います。12月22日の夜まで、その妻となった彼女が私に対して、頑なに顔を見せないようにしていたことは、本書でも既に書いている部分があるかと思います。

父親の遺影のことや、金沢市諸江の辺りに住んでいたということはまだ書いていないように思います。いちおうアパートということにしていますが、民家の二階をまるごと間借りしているような住居でした。内装はアパートにしか見えなかったですが、外から見るとアパートには見えなかったと思います。

金沢市花里のどのあたりか、前にGoogleマップで調べたこともあったのですが、車で通っていた道はだいたい記憶にあるものの、住宅地図ではどのあたりか、はっきりわからないところがありました。

前には割と広い道路があって、その斜め前のあたりに、団地のような建物があって、被告訴人安田敏はそれを警察官の家族が住む団地と話していたように思います。あるいは別の公務員ですが、後日新聞で見た情報も私の記憶に混じっているのか、検察官か裁判官の官舎という話もあったかもしれないです。

花里というのは地図上の範囲も狭かったと思いますが、町名としても聞くことがなかったので、石川県民でも知らない人が多いかもしれません。涌波の近くと言ったほうが、通りが良いかもしれません。

時刻は23時42分になっています。朝起きるのが早かったためか久しぶりに長い一日だと感じています。夕方には姫の高倉漁港にアジ釣りに行ってきました。夕方の遅い時間から雨が本降りになり、ずぶ濡れになりました。

さきほど思い出したことですが、平成4年3月30日と思われる午後、古河の市場の電話ボックスから電話を掛けた時、被害者AAさんは、なかばやけを起こしたような、抗議の気持ちを全面に打ち出すような態度で、私の問いかけに対して、すべて「はい、はい」と答えていました。

時刻は7月4日6時55分になっています。たまたま早く目が覚めたのですが、天気もすっきりしません。インターネットの天気予報を見ると今日の15時ころに強い雨が降りそうです。

涌波が出たということで書いておきたいこともあるのですが、実名で書くかどうか迷っていました。関係者の関係者ということにもなるのですが、仮名にしておこうと思います。

事件との直接のつながりは見えないものの、今後の対応を含め地域社会的にも影響の想定される人物の関係者なので、正確な情報データとして、実名にしておくことも検討したのですが、仮名にしておこうと思いました。

その人物とは堂野さんのことです。現在市場急配センター株式会社の社長になっている可能性のある人物ですが、同一人という確認はしておりません。軽く9割以上の確率で、普通に考えて同一人の可能性は高いと考えますし、そういう前提でも取り組んでいきたいと思います。

まず堂野さん自身ですが、平成10年11月20頃の時点で、自ら市場急配センターの労務の担当者として、私の事件や裁判について話を聞く必要があると言っていました。被告訴人松平日出男を交えて3人で会見をした時のことです。

次のようにcalコマンドで確認したところ、22日が日曜日なのでその日だった可能性が高いと思います。→ % cal 11 1998

堂野さんは平成15年以降においても、被告訴人安田敏との接触がうかがえました。それは被告訴人安田敏との会話から出てきた話でしたが、私がインターネットで市場急配センターを舞台にした事件について情報を公開していることについて、名誉毀損で訴えることもできる、と言っていたそうです。

当時の被告訴人安田敏との会話の全部ではないですが、主要な部分はICレコーダーに録音し、それを御庁にも提出したと記憶しています。音声ファイルとして当時はCDを使って記録媒体として提出したかと思います。

そのどれぐらいか前の時の被告訴人安田敏との会話ではなかったかと思いますが、堂野さんが運転手として市内配達をしているとも被告訴人安田敏は語っていたと記憶しています。

被告訴人松平日出男は一回だけ金沢刑務所の拘置所に面会に来ましたが、パンツなどの雑貨を数点差し入れてくれました。それも領置ということで告知があり、帳簿のようなものに指印を押すひつようがあるのですが、そこには職業として「会社従業員」と書いてあったのがとても印象的でした。

平成4年8月18日の面会ではなかったかとも思うのですが、木梨松嗣弁護士が初めて接見に来た日と近接していて、同じ日であった可能性もあるかと思います。その辺りは京都の親戚の面会ともかぶって刑務官に注意を受けたことなど、前に本書で説明を書いた部分もあると思います。

私は平成4年と平成11年の2回、金沢刑務所の拘置所に入りましたが、平成12年の11月頃から平成13年12月31日の満期出所までは、金沢刑務所で受刑もしています。思えば金沢刑務所での受刑中は、母親の面会も一度もなかったと思います。足が悪くなったとは聞いていました。

北九州市など大きな規模の都市になると刑務所と拘置所は別の施設になるらしいのですが、金沢のような地方都市では刑務所の中に拘置所がありました。刑務官というか職員もほぼ同じだったと思います。たぶん面会室も同じだと思います。

平成4年6月30日の金沢地方裁判所での公判の時だったと思いますが、絶望視していた被害者AAさんの意識が戻ったと、公判の初めに江村正之検察官から説明がありました。それで一転して気を取り直し、事件に至った経過について深く考えるようになりました。

それまでは拘置所の独房にいても、こぼれ落ちる砂のように思考の像がまとまらない状態でした。

それは予想を超えた形勢の逆転にもなっていたようです。

金沢西警察署から金沢刑務所の拘置所に移送されたのは平成4年5月28日でした。本来は初公判の期日指定になっていた日付なので、これはよく憶えています。

独居房に入る時、あるいは入れられた直後、連行された若い刑務官に、「突然、大声を出したくなるかもしれないが、決して大きな声を出さないように。」と言われました。それだけ不安的な精神状態に見えたのかとも思います。

当然ですが拘置所というのは人の出入りがあります。土日祭日の免業日の決まった時間帯にはラジオ放送も流れますが、平日の日中というのは昼食後の短い時間のラジオ放送だけだったと思います。

たまに草刈機の音がうるさく聞こえますが、ほとんどは静かな状況なので、新規に独房に入る人に刑務官が説明をする声も聞こえることが何度かありましたが、私のように大声を出すなとか言われているのは、聞くこともなかったと思います。

被告訴人松平日出男の面会ですが、金沢西警察署では4,5回あったと記憶しています。少なくとも4月中に2回、5月中に2回はあったと思います。

同じ金沢西警察署の留置場での生活でしたが、4月と5月ではかなり違いもありました。当時は理解していなかったことですが、起訴後には取り調べがほとんどなくなっていました。ある日を境にぴたりと取り調べの呼び出しがなくなったので、変だとは思っていました。

5月の前半だったと思っているのですが、被告訴人松平日出男が被告訴人浜口卓也を連れて二人で面会に来たことがありました。被告訴人松平日出男は私からの問い掛けの機会を減らすために、被告訴人浜口卓也を連れてきたという感じに見え、安堵の表情がうかがえました。

被告訴人浜口卓也がしみじみと「ヤマにあがるんやな」と口にしたのが印象的でしたが、どうも金沢の暴力団の世界では、金沢刑務所や拘置所のことを、ヤマというようです。地理的には富山県との県境の山間部にも近いとは思いますが、山という意識はなかったです。

金沢刑務所といえば、田上として知られていました。だいたい場所は人から聞いていて、近くまでは市内配達の仕事でも行くこともあったのですが、実際にその前まで行ったのは、中に入る時が初めてでした。

今思い出しましたが、たぶんまだ書いていないことです。山下強がケンカで路面に頭を打ったという話を聞いた時も、すぐに思い出したのは被告訴人浜口卓也の傷害事件でした。

市場急配センターで仕事をするようになって半年も経っていない頃だったという記憶もあるのですが、前後に被告訴人浜口卓也と会わない期間が割と長かったという気もします。誰から聞いたのかも不思議と思い出せないのですが、金沢市場輸送にいるときに聞いた話であったことは間違いないです。

片町の飲み屋とも聞いたように思いますが、見知らぬ相手とケンカになり、頭蓋骨骨折の怪我を負わせたという話でした。それで警察の留置場に入ったとも聞きましたが、10日間入っていたとも聞いたので、当時は知らないことでしたが勾留延長はなかったものと考えられます。

罰金刑になったともその後で聞いたように思いますが、その後もしばらくの間、被告訴人浜口卓也本人に会う機会はなかったので、直接その話を聴くことはなかったと思います。

金沢市場輸送の運転手でも、輪島のMYやYAは、被告訴人浜口卓也のことをよく知っているという感じでしたが、小木港の遠洋漁業で知り合ったという感じでした。新保のKOも同じく知っているようでしたが、嫌いというだけではなく何か個人的に恨みつらみがあるようにも感じる話しぶりでした。

基本的に金沢市場輸送と市場急配センターの運転手の接点というのはほとんどなかったと思います。強いて考えると、橋渡しのような話題を持ってきた人物として当てはまりそうなのは、被告訴人松平日出男ぐらいかと思います。

そういえば輪島のMYも金沢市場輸送で麻雀をやっていたことがありました。ここで書いておく必要を感じながら、機会を逸したうえ忘れていたことを思い出すことが出来ました。形式にこだわり後回しにしていると忘れたまま終わっていたかもしれません。思い出すこともなく。

一時期で半月から長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、MTの紹介で輪島のAという人物が大型の平ボディ車に乗務していたことがありました。MTと一緒に麻雀のメンバーとして参加している姿を、2,3回見たと記憶しています。

無口なタイプで会話をしている姿も見かけなかったので、それだけ目立たない存在でもあったのですが、確か大型の平ボディ車に乗務しているような姿は、別に見ることもあったように記憶に残っています。

見かけない顔でしたがMTと並んで麻雀をし、年格好も似ていたので、友達を連れてきているような雰囲気は感じていました。たぶんになりますが、輪島のYAから聞いたのだと思いますが、その名前を聞いた時は驚きました。

昭和58年の秋に聞いていた名前でした。◯田という名前で◯の中の感じは、たぶん小学校の低学年で習う誰でも知っている馴染みのある漢字ですが、その一文字の漢字自体、名前に使われることは少ないと思いますし、◯田という名前は後にも先にも他に聞いたことのない名前なので、印象的でした。

すでに何度か説明を書いているはずですが、場所は藤江の陸橋近くの輪島の暴走族の溜まり場でした。そこには被告訴人安田敏と一緒に何度か行きましたが、常に10人以上の若者は集まっているような溜まり場でした。

何人かに分かれて思い思いの会話をするような助右喬でもあったのですが、半分はたまたま耳に入ってきた話でした。その場にいた一人が輪島の○田という男に何か詐欺の被害にあったような話をして不満と焦りをぶちまけていたのです。本人にすれば相当深刻な被害という漢字でした。

その場には神野のKMがいたと思います。その溜まり場には被告訴人安田敏と3回ぐらいは行っていたと思いますが、KMが一緒だったのはたぶん一回だけだったと思います。その場にKMがいなければ、聞き流し、なんの話か知ることもなかったと思います。

神野のKMについてもこれまでに説明を何度かやっていると思います。山水運輸にいたことなども書いていると思います。姫のNKさんとも、彼を間にいれた付き合いが多かったとも思います。

彼は中学校の同級生でしたが、中学生の頃の彼はテニス部の部活にも熱心な様子で、クラスも一緒になった憶えもないので、中学校の頃の付き合いというのはほとんどなかったと思います。なお、当時の能都中学校のテニス部というのは全国大会で優勝することもあるような実力でした。

KMとの付き合いが多くなったのも高校に入ってからだと思います。35年近くも前の話になるので、細かいことは思い出せないですが、宇出津の城野町のHSのところで会うことが多かったと記憶しています。

当時私は石川県立水産高校小木分校に通っていましたが、神野のKMは柳田農業高校に行っていました。能登では他に聞いたこともなかったのですが、全寮制の高校だと聞いていました。休日以外には会う機会もなかったと考えられますが、その割には一緒に遊ぶ機会も多かったように記憶にあります。

彼も学校の勉強より、遊ぶことを優先する遊び仲間でしたが、彼も私が被告訴人大網周一とともに小立野の金沢少年鑑別所に入っている間かその前後に、高校を退学したはずです。城野町のHSも前に書いたHMも同じ頃に水産高校の本校を自主退学しています。

被告訴人大網健二も同じ頃でしたが、彼の場合は8月28日のシンナーの事件で、金沢高校を一発退学になったと聞いたように記憶しています。金沢高校をやめたことで被告訴人大網健二は宇出津に戻り、宇出津を中心に生活するようになりました。

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いが始まったのも、私が鑑別所に入っている間であったと思います。KM自身がHMらと金沢に遊びに行っていたことを話していました。七塚のMKや東金沢のMSらがいたらしい溜まり場です。

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは、城野町のHSや私を介したものが多かったと思います。もともと気が合わない関係というか、根本には被告訴人大網健二の差別意識があったものと考えられます。

それは被告訴人大網健二や被告訴人大網周一に限った話ではなく、私が子供の頃にはまだ割と強く残っていた風習にも近いものなのですが、宇出津には近隣の農村部の地域や農家を「ザイゴ」と呼んで蔑視する傾向がありました。

具体的な対象としてわかりやすかったのは柳田村や神野です。神野と言ってもこれは地区と思われ、地名ではないとも考えられるので地図を見てもわからないかもしれません。姫や真脇を高蔵地区と呼ぶのに似ているとも考えられます。

具体的には宇加塚、藤ノ瀬、鶴町、曽又等の集落の総称として神野と呼ばれていたかと思いますが、神野小学校というのもありました。同級生でもほとんど例外がないぐらい家が農家だと聞いていました。現在でもほとんどが田んぼのような風景です。

神野公民館 - Google マップ http://bit.ly/1mYnguD

神野公民館というのをGoogleマップでみつけましたが、鶴町が神野の中心部だとも聞いていました。神野小学校があったのも鶴町でしたが、ずいぶん前に廃校になっているものと考えられます。

地図をみると宇出津のすぐ近くに見えるかと思います。宇出津と輪島市内も地図を見ると近くに見えますし、距離的にもさほど離れていないはずですが、子供の頃の感覚が抜けないのか、全国を走った長距離運転手の経験もあるものの、未だに輪島というのは遠いところという感覚があります。

神野は地理的に柳田村にも近いですが、買い物などはほとんど宇出津に来ているものと考えられます。柳田村となると地理的に輪島市により近いということもありますが、それだけに輪島の方との交流も多いとは聞いたことがあります。

輪島市でも町野という辺りは、風景も町並みも柳田村に似ていたので、生活スタイルを含め、湊町の宇出津よりは共通する部分も多いのかと考えられます。その辺りは個々人の性格や習慣などにも現れている部分はあるかと思います。

その一つの括り方が「ザイゴ」という差別意識にもつながっていたのかもしれません。私自身、母方が京都の親戚なのと、宇出津の父方の親戚との付き合いも中学生になった頃にはほとんどなくなっていたので、同じ宇出津でも感覚が根本で異なっているのかもしれません。

被告訴人大網健二や被告訴人大網周一の場合は、宇出津の中心部に住んでいたので、なおさらその傾向や意識が強かったのかと考えられますが、そういう傾向は同じ世代では珍しいぐらい、残っていたと思います。

そんな感覚も成人してからはなくなっていたと考えられますし、やはり性格的に合わなかったことも考えられますが、神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは聞いたことがなかったです。

二人だけの関係で考えれば何でもない話なのですが、結婚した妻同士がとても仲の良い関係だったので、その辺りはどうなのかなと考えるところがあります。前に書いていると思いますが、被告訴人大網健二の結婚式にもKMの妻は出席していました。

学年としては私の2つ年下になるのですが、上の世代や下の世代のことを考えても、とりわけて仲が良いというか、結びつきの強さを感じさせる関係がありました。

神野のKMは柳田農業高校に行っている当時にも、多少輪島の方と付き合いがあったようです。輪島の方から来ている同級生がいるような話もしていたかと思います。地理的に近い分だけ、輪島に対する関心や親近感も強かったのかもしれません。

現在は廃校になっているのかと思いますが、輪島には町野高校がありました。町野の町は柳田村との境にも近いですが、町野高校はその町野の町からは離れていて、海に近く、観光地でもある曽々木海岸の側にありました。建物は現在でもそのまま残っていると思います。

町野自体が輪島市でしたが、それよりはいくぶん近い輪島高校の辺りも、輪島の中心部からはけっこう離れていました。宇出津から柳田村を通って輪島市に向かうのに、海岸線の国道にぶつかったところが曽々木で、左に行くと輪島市内、右に行くと珠洲市です。

私自身最近になって改めて気がついたことですが、曽々木の交差点から宇出津に向かうとすぐに看板があって、宇出津まで22キロと書いてありました。柳田村までは13キロになっています。距離をみるとずいぶん近く感じるのですが、やはり遠く感じるところです。

私の同級生でも町野高校に行ったのは一人だけだと聞いていました。極端に大人しく無口な生徒だったのでなぜ町野高校を選んだのか話を聞くこともありませんでした。

私の一つ上の学年でも男子が一人、町野高校に行ったのですが、その話を聞いた時は、なぜ誰もいかないような遠い高校を選んだのかと不思議に思いました。TUという名前でしたが、割とよく一緒に遊んだ時期もありました。

私が能都中学校の相撲部に入部するきっかけにもなったHMを介した付き合いがあったのです。二人は同級生にもなります。TUもその頃は近所に住んでいましたが、まもなく宇出津の錦町の方に引っ越して行きました。

HMとは私がちょうど辺田の浜から宇出津の小棚木という町内に引っ越してきた頃に、たまたま赤灯台の海岸で知り合い、仲良くなりました。引っ越してきたのが小学校5年の春で、出会ったのが夏であったと思います。

彼もわりと最近に金沢市から転校してきたと話していたように記憶しています。他の宇出津の子どもとは異なる雰囲気もありましたが、なぜか気もあってよく遊ぶ関係になりました。同じ町内でもありましたが、家はそれほど近くはなかったです。

当時は宇出津の町内で大棚木が一番大きく、小棚木が二番めに大きいと聞くこともありましたが、その後、大棚木でも遠島山公園に近い部分は、城山という町内として独立したという話を聞いたこともあるので、現在は小棚木が一番大きく広いのかもしれません。小さい町内は家が20件とも聞きますので。

HMとの付き合いがなくなってからは被告訴人大網周一らの不良グループで目立つ存在にもなっていました。再び付き合いをするようになったのも、昭和56年の秋以降だったと思いますが、HMだけでなくその同級生も以前とは違い被告訴人大網周一とは距離を置くようになっているという感じでした。

昭和58年の春頃でしょうか。その頃になるとHMと私の個人的な付き合いというのもはとんどなくなっていたように思いますが、金沢市藤江の外れにあったHMの借家にもちょくちょく遊びに行く機会は昭和57年の頃からあったと思います。それも神野のKMと一緒が多かったとも思います。

それには別にはっきりした理由もあって私は昭和57年の6月に1年間の免許取り消しになっていました。たまたまHMを後部席に乗せていた時に78キロのスピードオーバーで捕まり、当時は12点の減点だったと思いますが、他に点数も引かれていたので一発取り消しになりました。

金沢西インターに近い2つ年下のMKのアパートにいるときに、HMに出会い、一緒に松任方面に行った帰りに捕まったことも記憶に残っています。天気の良い日で、捕まる前にたまたま松任警察署の前を通ったことも記憶に残っています。

被告訴人KYNに頼まれて、バイクで彼を金沢に連れてきた時のことでもあったと記憶しており、彼の頼みがなければ取り消しになることもなかったとは思いますが、ずいぶんと無謀な運転もやっていたので、命を落としていた可能性もあるかとは後々考えていました。

自動二輪の免許を失ったのも痛かったですが、普通免許の取得も半年以上遅れてしましました。ほとんどの同級生は昭和58年の春前には普通免許を取得していたと思います。昭和58年の1月頃の時点で、被告訴人大網健二は家の自動車工場にあるポンコツのコロナを乗り回し、私もそれに同乗していました。

バイクも車もなかったので、特に金沢市での行動は他の友人より大幅に制限されていました。同乗で行動することが多かったのもそのためかと思います。

同じ昭和58年の春とは言っても、小林運送の長距離助手の仕事もやめたあとで、初夏に近い6月頃の時期だったとも思いますが、畝田のTUのアパートにいることが多かったと記憶しています。

金沢市での藤江は北や南があって広かったですが、畝田も西などがあってけっこう範囲が広かったと思います。TUのアパートは畝田でも外れのほうで桂町にも近かったと思います。周りにほとんど店がないのも不便でした。店があってもお金がなかったのか、周囲で買い物をした記憶もほとんどありません。

TUのアパートと聞いていましたが、TU本人の姿を見ることは本当に少なかったと記憶にあります。神野のKMが自分のアパートのように使っているという感じでした。TU本人はなにか出張の多い仕事をしていると聞いていました。

石川県金沢市畝田中2丁目2 - Google マップ http://bit.ly/1otgNHL

Googleマップで調べたところTUのアパートがあったのは上記の辺になるのかと思います。アパートの裏には空き地のようなトラックの駐車場があり、その前の道路の向こう側は広い田んぼが広がっていたかと思います。

トラックの駐車場というのは中西水産輸送のものでしたが、宇出津でよく見る保冷車であったのも、印象に残っていました。中西運輸商に入社した最初のころもちょっとだけその駐車場を使うことがありました。

出張が多かったというTUの仕事ですが、一時期、さきほどのHMや真脇のSも同じ会社で同じ仕事をしていると聞いたことがあったかもしれません。4トン車というトラックの話も聞いたように思いますが、運送会社とは聞かなかったです。

なお、これまで昭和58年の秋頃の被告訴人安田敏のアパートのことを観音堂のアパートと書いてきましたが、性格な住所は畝田であった可能性もあるかと思います。金石街道にまたがって畝田は広い町名でした。

畝田から金石に近いところに寺中町がありましたが、これは範囲も狭いという感じでした。中西運輸商の事務所の住所はその金沢市寺中町になっていましたが、堂野さんが住んでいると聞いたのも寺中町だったと思います。一度その辺りまで頼まれて車で送り届けたこともありました。

言われた場所に車を止めると車から降りていったので、アパートなのか家なのかもわからなかったですが、その辺りに住んでいるという話は他にもしていたように思います。

TUは真面目に仕事をしているという感じでしたが、町野高校時代の友だち関係で、輪島の暴走族の集団暴走にも参加することがあるとか、他の同級生も参加したとか神野のKMに話を聞くことがありました。そこには私より一つ年上のHSさんの名前も具体的に出ていたと記憶にあります。

その輪島の暴走族のリーダー格がKTであることは、これまでに何度か書いてきたと思います。彼も私よりは1つ年上と聞いていましたが、高校を出たのか出ていないのか、細かいことは知らないか、聞いていても忘れてしまいました。

輪島の暴走族と言っても、海士町とは別で、KT自身も海士町のことをひどく恐れている様子でしたが、金沢で活動する輪島の暴走族も輪島に帰ると海士町の連中には頭があがらないだけではなく、てひどい扱いを受けているとも聞きました。

ずっとあとになって輪島のMYから聞いた話ではなかったかと思いますが、海士町の男が、輪島の暴走族らを集めて、その場に全裸にさせ、着ていた下着で車の洗車をさせることもあったと聞きました。

輪島の暴走族のリーダー格であったKTですが、戦国武将のような変わった名前だったので未だに名前は憶えています。

これもまだ私が内心で予定しながら書いていないと思いますが、鶴来のHとも付き合いというか交流があったと聞きました。何かの話題でKTのことが出てきた時、最近一緒に飲みに行ったという話もしていました。

鶴来のHに関しては輪島のMYとも以前からの知り合いで付き合いもあったような感じでした。もう一人鶴来の男を加えた4人で、内灘に海水浴に行ったこともありました。

もう一人の鶴来の男はいくつか年下だったと思います。あるいは19歳という少年であったかもしれないです。本書で既に書いていると思いますが、高田が金沢市場輸送の事務所で父親が死んだといきなり伝えた相手です。

何の前置きもなく、いきなり父親が死んだと告げたので、まったく心の準備もなく聞いた方もさぞや驚いたのではと思ったのが印象的でした。

鶴来のHの方は、全国的にもありふれた名前なので未だに名前は憶えていますが、仮名にしておきます。覚えているのは上の名前だけですが、下の方もあるいはですが、勝であったかもしれません。年は私と一緒かあるいは1つ年下だったと思います。

金沢市場輸送で市内配達をしていましたが、入社してきたのは輪島のMYとほとんど同じ頃で、昭和61年の9月ころだったと思います。MYはサンテラスで恥をかいたということで、すぐに長距離に移りましたが、わりと長い間、4トン車に乗務していたとも思います。

ずいぶん前のことなので正確に思い出すことは出来ませんが、MYが4トン車に乗務していたのも半年ぐらいであったかもしれません。あるいは1年ぐらいだったかもしれませんが、鶴来のHが会社にいたのも同じぐらいの期間で、いつの間にかいなくなっていたという感じです。

山中温泉のキャッスルバーデンホテルでの慰安会にも鶴来のHの姿はあったような気もします。ややこしい名前の温泉ホテルですが、当時のテレビCMでは、山乃湯ともなっていたという記憶もあります。

その慰安会には七尾のなんとかの姿もありました。名前を覚えているつもりでしたが、思い出せなくなっているので仮名のイニシャルもつかえません。佐川急便で市内配達をしていたという男で、年は私の1つ年上でした。

普段から威勢のよい大きいことも言うような男でしたが、他の宿泊客とケンカになった時、涙を流しながら縮こまっていた姿が印象に残っています。逆に肝が座って堂々とみえたのが、◯西さんの息子と、仲裁のような行動に出た寺川さんでした。

既に書いてある部分もあると思っていますが、平成3年春のストライキの時、被告訴人東渡好信らが集まっていたのは、その時仮名にした寺川さんのアパートでした。はっきりした場所はわからなかったですが、同じ頃に被告訴人浜口卓也が住んでいたアパートともかなり近かったと思います。

被告訴人浜口卓也のそのアパートに関しては供述調書の住所でも金沢市南新保になっていたと思います。金沢市内には新保という町名もありましたが、金沢西インターにも近いまったく別の場所でした。

輪島のMYが初めにYAと輪島崎のOTが紹介で金沢市場輸送に入社させた時に、たまたま出会った場所がその新保あたりのアパートと話していたという記憶もあります。満足にご飯も食べれない状態になっていたので、誘ったとも話していたと思います。

OTの方はMYと同級生と聞いていましたが、どちらも私の学年で2つ上と聞いていました。YAの方は私の2つ年下と聞きましたが、YAの兄はMYと同級生と聞きました。北都運輸でその兄とも出会いましたが、体が大きいものの大人しくおっとりした性格という感じでした。

さきほど焼きそばを作って食べていたのですが、意外に早く簡単に七尾の男の名前を思い出すことが出来ました。白石だったと思います。全国的にはさほど珍しい名前ではなさそうですが、石川県や私の周辺で同じ名前を聴くことはなかったと思います。

自分の結婚式に被告訴人竹沢俊寿とその夫人の夫妻に出席してもらったとも話していましたが、他にそのような話を聞いたこともなく、普段の言動の中にも虚言癖の傾向が少し感じられていたので、本当なのかと思うことはありました。

白石もいつの間にか、姿を見なくなってやめていったのかという感じでしたが、私の記憶では金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからは姿を見た記憶がないので、山中温泉の慰安会の直後にいなくなっていったのかとも思います。顔の方もなんとなく記憶にありますが、目が細かったという気がします。

山中温泉の慰安会は6月の下旬だったと思います。それより少し先の時期になると金沢港のスルメイカや、その前の筍の出荷で忙しく、ほとんどの社員が仕事を休むという調整も困難ではなかったかと思います。

はっきりと覚えていることは、まだ西念町に金沢市場輸送の事務所がある頃でした、北國銀行中央市場支店のちょうど前辺りから送迎のマイクロバスに乗り組んだからです。私の妻が忘れ物をもって駆けつけてきたことも場面として記憶に残っています。

何を忘れてきたのかも思い出せないのですが、当時妻はまだ車の免許も取得していなかったとも思えるので、どうやって来たのかも不思議です。誰かに頼んで車に乗せてきてもらっていたのかもしれません。

山中温泉の慰安会に行ったのは6月として、昭和62年だったのかと考えます。思えば金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも7月の初めころだったという記憶があるのですが、慰安会とは近接していなかったようにも思います。

改めてのことですが、初めに被告訴人松平日出男の姿を見たのも、金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも2ヶ月ほどの間があったという感覚が記憶に残っています。これはやはり昭和63年のことかと思いますが、油断するとちょっとしたことも記憶の整理が難しくなると改めて思いました。

山中温泉の慰安会で高田の姿というのも記憶には出てきませんが、すでにいなくなっていたのかどうかははっきりしません。被告訴人梅野博之の姿は大浴場でみたという記憶が残っていますが、当時は目立たないというか控えめな存在でもあったという気がします。

被告訴人梅野博之はその後、若い運転手の間で「うめじい」とも呼ばれていました。高田がいなくなって市内配達の事務所が別に出来た頃には、事実上代行の責任者という立場にもなっていましたが、山中温泉で姿を見てからは、けっこう長い間があったとも思います。

白石ですが前に書いた小林運送のYさんと、石川日通の田村の4人で、車で片町に遊びに行ったこともありました。石川日通の田村は私の一つ年下だったとも思いますが、わりと長い間市内配達の仕事をしていたと思います。

家は金沢市内の小立野とも聞いていました。石川日通をやめて正式に金沢市場輸送の社員になったという話を聞いたような気もするのですが、そのうち姿を見なくなり、いつの間にかいなくなっていたという感じでした。

はっきりしないところもありますが、私の記憶では二口町に移った金沢市場輸送の事務所で姿を見かけたという記憶は、まったくないではないですがかなり薄くなっています。

田村より一つ年下と聞いたかもしれません。大久保という運転手もいました。家が同じく小立野だと聞いたことがあり、田村の後輩なのかと考えたこともありましたが、確認までするようなことはなかったと思います。

よくいるような若者でしたが、彼も割と長い間、市内配達の仕事をしていて、彼の姿は二口町に金沢市場輸送の事務所が移ってからの方が、なんとなく印象に残っているのですが、西念の事務所ともまたがっていたものと思います。

西念町の事務所での姿が記憶になく、二口町に移ってからよく見かけるようになったのは、S田とM田の二人の運転手でした。S田に関しては被告訴人大網健二との関わりもあるので、ある程度のことは既に書いているかと思います。S藤と二人で金沢港に来て、初めは私に苦情をぶつけるような態度でした。

S藤に関しては面倒ですが、彼の泥棒としての前科もあるので仮名にしておきますが、S田とM田に関してはここで実名に切り替えたいと思います。疑惑があるというわけでもないですが、重要な接点もあるので明確にしておいたほうが良いと判断します。

S藤の泥棒のことに関しては、たぶんまだ書いていないと思います。2,3ヶ月前だと何を書いたかある程度は記憶に残っているのですが、それ以前となるとはっきりとは思い出せません。

偶然以外には考えられない事実でもあるのですが、私は金沢西警察署の留置場でほとんど入れ替えに近い時期に生活をしたようです。留置場の警察官との雑談の中で、ちょっと前までいた泥棒の話をしていたのですが、会話の中の何かをきっかけに私はそれがS藤ではないかと直感しました。

確かめたところやはりS藤に間違いはなさそうだったのですが、警察官らがかなり微妙で際どいと予想するなかで、彼は執行猶予付きの判決を受けたとも聞いていました。

次は偶然とは思えず、警察の作為が介在したことも考えられることです。それはちょうど拘置所に向かうのに、金沢西警察署の二階の刑事課の部屋から出る時、出くわしたのがS藤でした。「おい、金返せや」とだけ一声掛けましたが、向こうも驚いたというか意外そうな顔をしていました。

彼は刑事課の部屋に入ってくるところだったと思います。私の曖昧な記憶ですが、普通部屋にはドアがあるのですが、当時の金沢西警察署の2階というのは正面側に広い通路があって、その先がそのまま部屋になっていたように思います。

笹田と峰田というのは顔は余り似ていなかったと思いますが、背格好も似ていていつも一緒にいる二人でした。他の市内配達の運転手とは違って、夕方遅くに休憩室でくつろいでいる姿を何度か見たという印象も残っています。

冬に近い時期だと外が暗くなる時間というのも早かったと思いますが、外が暗くなったような時間に市内配達の運転手の姿を見ることも少なかったと思いますし、16時頃の早い時間でも、伝票のようなものをを整理してすぐに帰っていく運転手がほとんどであった思います。

何かの割引券のような紙を沢山集めて机に向かっている姿をよくみけていました。伝票らしいものはウェルマートぐらいだったという記憶も残っていますが、それは私自身の市内配達での記憶です。

ずいぶん時間を掛けて机に向かうそんな姿も見かけていたので、よほど大変なことをしているのかと思っていたのですが、実際に自分がやるようになると割と単純な作業だったので、なぜそこまで時間がかかっていたのか不思議にも思いました。

笹田と峰田とは、顔を合わせれば多少言葉を交わす関係であったと思います。大久保とも似たところがあったと思いますが、彼女を交えた個人的な付き合いもあると、誰かから後になって聞いたこともありました。

笹田と峰田は私より6つ年下だったと思います。これは後になってから知ったようにも思いますが、被害者AAさんや被告訴人安田繁克とも同じ年になるものと思われます。

時刻は17時04分、歩いて銭湯にも行っていて中断をしていました。

笹田と峰田の二人ですが、家は金石の方とも金沢港の方とも聞いたように思いますが、どちらであったかはっきり思い出せません。どちらも共通しているのは海の近くということですが、金石の方も漁港のようにはなっていたと思います。

それとは別に守田水産輸送の小柄で年配の運転手と、石巻港の魚市場の前にとめたトラックの中で長話をしていたことがありました。60歳近い年齢とも聞いていたように思います。50代の長距離運転手というのは、当時珍しかったと思います。確か「まっちゃん」と呼ばれていました。

まだ、守田水産輸送との共同で青森定期便が始まった頃だったとも思います。金沢の中央市場から秋田、青森の市場に鮮魚を運ぶ定期便は、もともと守田水産輸送がやったいた仕事でした。

細かい話は忘れましたが、青森県の下北半島の付け根の方であったか地名は忘れましたが、そこから養殖の帆立貝を積んで九州の方に持って行き、九州で荷物を積んで北陸に帰ってくる仕事が守田水産輸送の大型車では多いと聞いていました。

一度出るとけっこう長い運行になるので、月に数回の運行になるとも聞いていました。九州からは鮮魚を積んできたり、時期にはミカンを積んでくるとも来たように思います。

ホタテの仕事がどうなったのかは聞かなかったですが、その青森の定期便を金沢市場輸送と一日交代ですることになり、帰り荷として石巻から東北陸運の定期便をすることになったのです。東北陸運と宮城陸上については、これまでに何度か説明を書いていると思います。

その守田水産輸送との共同の定期便は1年ほど続いたと記憶にありますが、金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してしばらくすると守田水産輸送との仕事上の関係自体がなくなったので、その辺りから逆算すると昭和62年の9月頃から守田水産輸送との共同の青森定期便が始まったものと考えられます。

ちなみにこれと似たことは同じ金沢のウロコ運送との間にあって、それが福岡の定期便になっていました。それも一日交代でしたが、富山中央のトナミ運輸から雑貨を積んで、北九州市と福岡市の西武運輸まで運び、翌日の早朝から長浜の魚市場で鮮魚を積み込んでいました。

それは昭和59年に初めに私が入社した頃に始まっていたようにも思います。そして私が金沢市場輸送にいる間は、ずっと続いていたように思います。福岡の魚市場ではフリーとして入って鮮魚を積むことも多かったですが私の場合、北陸ではなく、大阪や東京行きが多かったと思います。

ウロコ運送も同じく石巻から東北の定期便をやっていましたが、それは松川運輸の仕事でした。石巻ではかなり大きな運送会社だと聞くこともありました。松川運輸は塩釜港の方にも会社があったと思いますが、ウロコ運送が塩釜の方にも立ち寄っていたかどうかは、記憶もはっきりしません。

そのまっちゃんという人との会話の中でたまたま出てきた話なのですが、その人の息子が金沢市場輸送で市内配達をしている笹田や峰田と同級生で友達というような内容でした。どこか場所の話も出ていましたが、それは金沢港の近くであったと思います。

いつ頃、誰に聞いたのか現在はっきりと思い出せないところもあるのですが、被害者AAさんはその笹田か峰田の紹介で市場急配センターの事務員になったという話を聞いたことがありました。まだ、私が被害者AAさんのことを余り意識していない時期に聞いたような気もするので、なおさら曖昧です。

紹介というのは笹田ではなく峰田として聞いたようにも思います。被告訴人大網健二ともめたのは笹田の方です。二人ともなんとなくは姿や顔を覚えているのですが、いつもいつも一緒にいたので、どこかで記憶が混同している部分のあるかもしれません。

また、二人とも当時は特に意識するような存在でもありませんでした。市場急配センターの事務所が中央市場の側に出来て、市内配達の運転手がそちらに移ってからは、どの運転手とも顔を合わせる機会は少なくなりましたが、前に何度か書いたように給油には金沢市場輸送に来ていたので、そこで見ることも。

ただ、笹田と峰田に関しては新しい市場急配センターの事務所に移ったと思われる時期以降、ほとんど姿を見た覚えがありません。

かなり久しぶりに姿を見たのは平成3年の夏頃だったと思います。私がまだ市内配達をしていた頃であったと思いますが、だいたい次の場所で会いました。会ったと言っても声も掛けていなかったと思うので、見かけたというのが正確かもしれないです。

石川県金沢市長土塀3丁目22-23 - Google マップ http://bit.ly/1vEEaPt

改めてGoogleマップを見ると自分の記憶とは一致しないような部分もあるので、場所に余り自信は持てないのですが、中央通りから片町のスクランブル交差点につながる道の方から入ると、ちょっとした商店街のようになっていて、コロッケの売っている肉屋等があったような気がします。

それをもう少し先に行くと左の角に「ひまわりチェーン」のような小さいスーパーがあったように思うのです、そこに配達に行くことがあったと思うのですが、稀に行く配達先で、自分の配達範囲なのかも微妙に思える場所でした。

道は小路でちょっと複雑になっていたと思いますが、そのスーパーから少し離れた道路にトラックをとめて笹田か峰田が仕事をしていました。その場で声も掛けていないので、その後他の誰かに話をして、聞いたのだと思うのですが、K村さんや姫のNKさんと一緒になって、仕事をしているような話でした。

2トン車のトラックを持ち込みで仕事をしているとも聞いたように思いますし、荷台で作業をしている姿をみたトラックというのも新車のような箱車であったと思います。被告訴人浜口卓也と同じようなトラックだったとも思いますが、特に箱が同じに見えたように思います。

外見が白い一枚の板のように見える箱車であったと思います。金沢市場輸送の2トン車というのは4トン車や大型車の保冷車と同じく、細かく波打ったようなアルミの箱が多かったと思いますが、そうではないタイプでした。

保冷になっていたのかもわかりませんが、被告訴人浜口卓也の場合は保冷とも聞いたように思いますし、ワイドボディの2トン車でした。幅広の2トン車というのは初めて見たような気もしました。

4トン車だと中西水産輸送でも昭和60年当時に幅広のワイドボディに乗務していましたが、4トン車の場合通常は2つのワイパーが3つのワイパーになっていたと思います。

被告訴人浜口卓也の場合は、初めに2トン車の新車を購入して持ち込み運転手の仕事を始めたと思いますが、トラックの値段というのは全部で300万円とも聞いたように思います。

珠洲の大谷のYSさんも、そのうち同じような新車に乗務していたと思いますが、始めてから長い間はかなりポンコツの2トン車に乗務していたと思います。

笹田か峰田の2トン車を見たその場所でも、そのYSさんか姫のNKさん、あるいは宇出津のK村さんの姿とトラックを見たような気もするのですが、これも現在記憶がはっきりしません。

姫のNKさんと宇出津のK村さんに関しては、ずっと古いトラックに乗っている姿しか見てはいなかったような気がします。被告訴人大網健二が大場町東への引っ越しに借りてきて一緒に返しに行った2トン車も、青色か紺色のそんなトラックでした。

笹田か峰田と書きましたが、その二人が一緒にいて、二人を同時に見たという可能性もあると思います。とにかくその二人は、いつもセットのように一緒にいる姿を見ていたという印象が残っています。

特別な仲良しという感じで女の子では金沢でよく見かける関係でしたが、男となると他に思い出すことも出来ない気がします。

峰田に最後に会ったのは平成3年の年末のことでしたが、その時は笹田の姿がなかったようにも記憶にあります。名前も知らないし言葉を交わした記憶もないけれど、以前は金沢市場輸送の市内配達としてよく見かけていた小柄な若者の姿は記憶にあります。ずいぶん久しぶりに見たという気がしました。

それは前に少し書いていると思いますが、偶然とは思えない成り行きで、被告訴人多田敏明と西口の二人が率先して、被告訴人浜口卓也の自宅アパートに行き、それから焼肉店に行った時のことでした。名前は聞いたことのあるような人気という感じの焼肉店でした。

以前に作成したGoogleマップのマイプレイスがあったと思います。マイプレイスになる前の旧サービスの時に、作成したものであったかもしれません。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/1/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&authuser=1&hl=ja

思いの外早く探し出せましたが、現在余り使っていないGoogleアカウントとして作成した地図です。ここに「諸江の焼肉店」とラベルがあるのが、その場所です。6,7人と説明にあったので、すっかり忘れていたことですが、役立つ情報になりました。

時刻は7月5日9時15分。昨日とは一転して、編めが不理想にない良い天気です。一日雨の心配がなさそうな宇出津のあばれ祭りというのは、何年ぶりか思い出せないぐらいです。少なくとも2009年の祭り以来は、毎年二日間の祭りを通して一度もなかったような気がします。

昨夜はとても大きな収穫がありました。事件の事実関係をまだ優先したいので後回しですが、先にそのツイートを紹介しておきます。

2014-07-05-003421_でも裁判ってもともと真相解明のための手続きではなくルールに従って裁判所が目の前の事案を判断するだけのもの。.jpg pic.twitter.com/CAvAoAwsWN

Twitter / sakamotomasayuk: 被害者遺族が被告人が被告として出廷しないことを非難するという ... https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/484988904228274176

2014-07-05-003459_この操作は許可されていない可能性があります。 ページを再読み込みしてお試しください。.jpg pic.twitter.com/obM3ejcS7u

独自に作成したコマンドでファイル名に日時を含めたスクリーンショットを作成していることは既にどこかで説明していると思います。用途は色々とありますが、もうひとつ大事なところを記録しご紹介しておきたいと思います。

2014-07-05-094034_市場急配センター株式会社│代表者 堂野俊一.jpg pic.twitter.com/gtZO9qrzks

昨日は初めに涌波について書くつもりで、関連した説明を始めるとあちこちに飛び飛びなってしまったかと思います。私がこれから説明をする市場急配センターの堂野さんは、平成10年11月22日に自ら労務の担当者として話を聞く必要がある、と言った人物です。

現在の市場急配センターの担当者とホームページに掲載されている堂野俊一という人物と同一人という保証は出来ないですが、その可能性は一般的な判断として疑いの余地はないものと思いますが、可能性が0ではないことは、先にお断りをしておきますので、その旨ご留意願います。

私はこの市場急配センター株式会社という存在自体を、社会的な問題の対象として告発しなければなりません。その会社の現在の代表という立場と、事件そのものの事実やその関係者との関係というのも峻別しておく必要があるとも考えます。会社が個人の持ち物ではないという意味を含め。

被告訴人安田繁克から涌波に住んでいると聞いたのは、当時、金沢市場輸送でイワシの運搬をやっていた堂野さんの愛人という女性の息子でした。はっきりしたことは聞かなかったと思いますが、堂野さんの実の息子とは聞いておらず、当時16歳で市場急配センターで働いていました。

私自身、最低でも一回はその16歳の少年を2トン車での市内配達に同乗させて一緒に仕事をしたことはあったと思います。私の場合、その少年よりもその少年の同級生で高校の夏休み中のアルバイトと聴いていた少年を、同乗させることが多かったことを、書いてすぐたった今思い出しました。

愛人の息子という少年、それは私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めてから知ったことで、被告訴人安田繁克に聞いていました。当時は他にそういう話を聞く相手もいなかったので、それは間違いないことだと思います。

当時ははっきりと意識しなかったようにも思いますが、被告訴人安田繁克が堂野さんのことをよく知っている人物のように話していたことは、改めてかなり不自然にも思います。なぜなら当時の堂野さんというのは一緒に仕事をした私でさえ、会社との関係がほとんどわからない人物だったからです。

まず、堂野さんが金沢市場輸送の社員ということは考えられないと思っていました。彼は松浦さんの紹介でイワシの運搬をするようになりましたが、私の記憶ではシーズンの終盤になっての登場であったように思います。

堂野さんはダンプの持ち込みと聞いていました。最初に姿を見た時からそのダンプと一緒でしたが、そのダンプというのも割と珍しいタイプだったので余計に印象に強く記憶に残っています。

私自身、ダンプというのは建設現場などで4トン車までしか乗ったことがなく、専門のダンプの運転手として仕事をした経験もないので余り知らないところがあるのですが、町でよく見かけるダンプというのは土砂積みのダンプです。

それとは別に土砂積み禁止というタイプのダンプがいました。多いのは木材のチップを積みようなダンプで、かさばる割に重量が軽いので荷台もずいぶんと高く、それ専門となるとぱっと見は箱車で、上に網を掛けているものが多かったと思います。

網まで書けるようなチップ専門のダンプとなると金沢ではほとんど見かけていなかったように思います。金沢港も木材の多い港ですが、チップ専門の工場がないためか、少なくとも私の記憶では見かけることはなかったか、ごく稀だったと思います。

金沢市場輸送のダンプというのはその木材チップ専門に近い感じのダンプでしたが、完全なそれとは違っていました。補強についてもずいぶん考えられたような作りで、見た目もそれだけ頑丈そうに見えましたが、ダンプ自体の重量も重かったと思います。

トラックの重量に関する法律もずいぶん前に大幅な変更があり、規制自体が変わったと聞いているので違っているところも多いかと思いますが、当時の大型車に関しては車体の総重量に対する積載量が決められ、その重量がステッカーとして後部に貼り付けてありました。

正確な記憶はないですが、例えば金沢市場輸送の大型保冷車の場合、「最大積載量9250」などとステッカーが貼り付けてありました。平ボディ車だと10800とかになっていたような気もします。

冷凍機付きで頑丈そうな大型保冷車だと8トン台になっているのが普通だったと思いますし、中には7トン台というのも見かけていたように思います。細かく言えば箱の高さも長さも車検上の限界はあるものの、トラックごとにまちまちでした。

トラックの高さは3.8メートルと決まっていました。中西運輸商というかその社長が普通の考えではない証左の一つですが、扁平率の低いタイヤを車検時に使ってトラックの高さをごまかしているという話を聞きました。箱の内積量を少しでも増やしてより多くの荷物を積めるようにするためです。

普通に考えると、思い重量を積むトラックほど頑強な補強も必要になるのですが、その補強材がずいぶんと車体の重量を増やすと聞いていました。まともにやると僅かな最大積載量のステッカーを貼らなければならなくなるので、どこもかなり誤魔化しているのが普通だと聞いていました。

過積載のトラックの危険性というのは実際に運転を経験したものでないとわからないところがあるかと思います。ブレーキー性能の良くなかった時代となるとなおさらのことです。ブレーキーが焼けて煙があがることもあります。

基本的にはトラックもダンプも同じかと思いますが、大きな違いの一つはダンプの場合デフが2つだと聞いていました。普通の10輪のトラックの場合、デフというか駆動しているタイヤは横から見て後方の手前側のタイヤだけです。いずれもタイヤはダブルになっていますが、その後ろは引きずりと呼ばれ。

乗用車でいえば4輪駆動にも近いと思います。私自身、2デフというのはほとんど運転したことがなかったですが、エンジンブレーキの効き具合も全然違うとは聞いていました。雪道でも歴然とした違いが出ます。

引きずりの10輪だと、雪道の坂の上で止まってしまうと、動けなくなるということが普通にありました。そうではなくても重心が前に掛かりすぎていると、急で長い坂道を登り切れないことがありました。

一般には知られていないか、普通に聞くこともない話なのでついでに説明をしましたが、冬場の長距離トラックの仕事というのは、そういうことでもずいぶんと神経を使います。事故や渋滞、通行止めの可能性も雪が降る時期だと高くなります。どこへ行くにも山間部を通ることは多いです。

長々と説明しましたが、金沢市場輸送のダンプというのは2台だけでしたが、イワシをより沢山運ぶために考え抜かレたような設計になっていました。本来、加工イワシの本場というのは石巻港などですが、同じようなダンプというのも見ることがなかったと思います。

石巻港には鮮魚の定期便があったので数日おきのように年間を通じてしょっちゅう行っていました。港に近い河口に日和大橋という大きな有料の橋がありました。その橋を渡って魚市場の方に入ると料金所があるのですが、その周辺というのはイワシや鯖の加工と思われる独特の匂いが強烈でした。

石巻港の場合、イワシに限らず小魚を冷凍加工して、養殖の魚のエサにするという工場が多かったようです。既に書いていると思いますが、それに近いことは金沢港でもダンベとしてやっていました。生の状態で水槽に入れて運ぶものでしたが、平ボディ車の仕事でした。

ダンベの行き先のほとんどは三重県でした。そこは個人のような小さい工場で、養殖用のエサの加工をやっていることが多いという感じでした。三重県も養殖漁業の盛んなところだと聞いたことがありましたが、石巻のエサでも行き先はほとんど四国と九州と聞いていました。

日本海側と太平洋側では都市の規模も港の規模もまるで違いますが、イワシに関しては漁獲の時期が、地球の裏と表のように入れ替わっていると聞いていました。

太平洋側の港でイワシの仕事が多いのは、福島県の小名浜港、宮城県の石巻港、青森県の八戸港、北海道の釧路港だと聞いていました。

時刻は7月6日11時22分です。雑多な番外編ともいえる内容になったかと思いますが、他に重要な問題も出てきたので、この項目を締めます。

2014-07-06 日 11:25> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

主に平成9年から平成11年に行われた被告訴人らの計画的行動と事実、及びその関係者について

主に被告訴人KYNによる計画的と思われる行動、関与について

* 再審請求をやめ仕事に専念するか、会社を辞めるかの二択を迫った被告訴人KYNの言動 2014年03月12日

既に大まかな流れは書いてきたと思いますが、見出しと内容の対応を重視する方針に転換したので、これまでの説明の流れがつかみづらいと思います。これからは見出しに付加された作成年月日を今まで以上に意味のあるものとして、念頭に置いて頂きたいと思います。

構成が変わったからと言って一から同じ説明を繰り返すのも無駄があるので、おさらいもしながらポイントを押さえつつも、これまでの記述の時系列に従って反復展開するかたちで、説明や事実の記述を進めていきたいと思います。

被告訴人KYNの設備工業での配管の仕事についてはこれまで紙面を割いてかなりの分量の説明を書いてきたと思いますが、まだまだ不十分なところがあります。15年以上の年月も経過しているので、当然記憶の劣化もありますが、大まかにポイントを押さえておきます。

まず彼のところで仕事を始めたのが平成9年の11月頃のことで、翌年つまり平成10年の1月頃にM君が入ってきました。その入社の経緯についてもより詳しく書いておく必要性を感じていますが、それは後回しにします。

その後、被告訴人KYNに長男が生まれました。上は女の子が二人でした。長女の方は平成2年頃の生まれではないかと思います。次女については生まれると聞いたこともなかったので、平成4年4月より後の出生であったことが考えられますが、それほど年の差があるようには見えなかったです。

長男の誕生に関しては喜びもひとしおだったと思いますが、不思議なぐらい長男のことを口にしたり、話題にすることもなかったと思います。静かに大事に育てているとは思いましたが、余り泣かない大人しい子どもでもあったのか、話題にもならず印象にも余り残ってはいません。

その長男の誕生のことでとても印象に残っていることがありました。秋の11月から仕事を始めたとして2回目か3回目ぐらいに給料をもらった頃であったようなその場の記憶もあるのですが、天気が良く暖かい感じの風景であったような場面の記憶も残っています。

あるいは仕事を初めてすぐの頃でまだ11月中のことであったのかもしれません。出産祝いということで祝儀を渡したのですが、これから世話になるということもあって5万円包んだような気がします。あるいは3万円かと思います。

被告訴人KYNはその時もあまり反応を示さずに祝儀を受け取っていました。身内の祝いという意識が強いようにも感じましたが、いくらか違和感は感じていました。彼は長男の誕生を力強く喜ぶとともに、なにか覚悟を決めて吹っ切れたようにも思えました。

今改めて考えると不思議にも思えることですが、被告訴人KYNの長男については妻がだっこしているような姿しか思い出すことがありません。半年ぐらいすれば、はいはいで動き回ったりするのではと思いますが、自ら座っているような姿も思い出すことがありません。

印象に残っていることと言うのは、弟子のような親子関係のようなつながりであったK君が、祝儀はおろか何もお祝いをしていないと、当然のように軽く笑いながら話をしていたことです。私の質問に対して答えたものであったと思います。玄関先でした。

それだけの親密な関係が築かれているのかと思うのと同時に、仕事の働きで十分に義理は果たしているような自信にも思えました。

K君の正確ですが、大人しくて人当たりも良い、口数は少ないタイプでしたが、意固地で譲らない一面もあると被告訴人KYNから聞いていましたし、私もできるだけ角の立たないように接していたこともあり、衝突は一度もなかったですが、わりと自意識の強い若者とは思っていました。

人に対する気遣いもよく出来ていたのではと思います。他の人と衝突するような姿をみたことがなく、M君のことも暖かく見守るような感じでした。しかたない、というような言葉も時々使っていたようにも思います。若い割には大人びていて、しっかりしている方だと思っていました。

K君は平成4年から被告訴人KYNのところで配管の仕事を始めたと聞いていました。不良という感じではなかったですが、高校を中退したと聞き、あるいは高校に行かなかったと聞いたかもしれません。もっと具体的な話を聞いたようにも思うのですが、忘れてしまいました。

平成4年の4月1日に私は逮捕され、平成9年の1月18日まで警察の留置場や刑務所にいました。被告訴人KYNに最後に会ったのは平成4年の3月の20日過ぎかと思いますが、細かいことは思い出せなくなりました。酔いつぶれて朝まで寝ていたことを憶えています。起きるとKYNの姿はなかったです。

起きたときKYNの姿がないことに意外性を感じたことも憶えているので、それは日曜の朝だった可能性が高いと思います。暦を確認すると3月22日の可能性が高いのかな、と思いましたが、今は自分の記憶のみでの事実の整理は難しいです。

起きると被告訴人KYNの妻と子どもだけだったので、すぐに帰りました。アパートに帰ってから近くのコインランドリーに洗濯に行ったと思います。午前中に市場急配センターに行き、シャッターがほとんど閉まって、誰もいないような状況でしたが、意外なことに被告訴人YSNの姿がありました。

シャッターは完全に降りてはおらず、人がかがんで通るぐらいに開いていたのではと思います。シャッターが降りていること自体、あまりなかったような気がするのですが、日曜日以外には考えにくく、日曜日でも市内配達で仕事に来る人の姿は、それまでにも少ないですが見かけていました。

* 被告訴人KYNとの最後の会見と会話の録音

TODO 被告訴人OKNと被告訴人HTNとの関係について

* TODO 被告訴人OKNがバックアップを頼んできたノートパソコンにあった新築工事見積書のファイル

2014-04-04 金 06:54> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

これはわりと短い周期で繰り返し思い出している事柄なのですが、先ほど次のYouTube動画を視聴したこともあり、先に書いておくことにしました。一週間から10日に一度は、私の頭の中で思い出していたことで、そういうのは他にも多いです。

PC遠隔操作事件 片山被告が語る『事件の真相』 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wXZkgrIcdtQ

これも時期が今ひとつはっきりしないのですが、Nテックの仕事を被告訴人OKNが持ちかけてきた頃で、パソコンでチラシの広告を作っていた頃ではなかったかと思われます。

ちょっと記述の開始時刻を入れ忘れたので、多少遅れますが、記入しておきます。

PC遠隔操作事件ですが、この事件には前々から関心があって、私のこの事件との関係性もずいぶん強く意識しているのですが、本来的には無関係な事件であり、どこからどの程度踏み込んで本文中に記載するのかも迷いがありました。今のところはほとんどやっていないかと思います。

上記のYouTube動画は私自身初めて視聴したものでした。あとでテレビ番組の録画らしいと気がついたのですが、私の住む石川県では放送されていない番組か、BS朝日と言うことらしいので、特別な受信契約をしていないとそもそも視聴できない番組なのかもしれません。

このPC遠隔操作事件に関しては過去に冤罪事件で活躍した佐藤博史弁護士と、冤罪との判断でけっこうな数の無罪判決もだしたらしい元裁判官でもある弁護士の木谷明弁護士がタッグを組み、痛烈な検察批判をしていることでも注目しています。

その弁護士らの主張に呼応するようなジャーナリストの活動もありまして、もともと注目していたのがオウム真理教の事件で一躍有名になった江川紹子というジャーナリストです。Twitterで多くの情報を発信しています。テレビで見る機会は、ごくごく少なくなりましたが。

ジャーナリストの江川紹子さんは検察の不正の追及にも熱心な取り組みをされてきたかと思います。いわゆる村木裁判として著書も出版されているようです。余り詳しくはしっていないのですが、検察の威信を低下させる転換点になった裁判かとも思います。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては、ご本人に対するお知らせもかねて、別の項目で書いておきたいと思いますが、もっとも重要視したのが、「検察のあり方検討会」のような公的な集まりのメンバーでもあったことです。正式な名称なども調べた上で。

ジャーナリストの青木理さんについては、私自身最近になってしった人物なのですが、注目しつつある人物であるとともに、彼自身がそのジャーナリストというプロの立場で、投げかけている刑事司法に対する不信や疑問には、対処するかたちで進めることを意識するようになりました。

本題に入りますが、紹介したYouTube動画で気になったのは、真犯人が片山祐輔被告のパソコンを自由にのぞき見る状態で、そこで得た情報を使って、一連の事件の犯人に仕立て上げていったというくだりです。そう信じ込んでいるようにも見える女子アナの発言も見受けられました。

PC遠隔操作事件に関しては、パソコンやプログラムという点でも、私には関心の高い事件でしたし、プログラムに関してはそれなりの経験もしてきているので、他の人とは違った見方もしている、あるいは出来ているのではないかと考えています。

私自身、自分のパソコンが他人にのぞき見られる可能性を意識しながら生活した時期がありました。

まず私がパソコンに感心を持った時期ですが、平成6年の2月頃には具体的に考えるようになり、何がきっかけであったおかは細かくは憶えていないですが、母親にパソコン関係の本の差し入れを手紙で頼んだように思います。

これが丁度、判決の確定時期にも重なっていたように思います。余り思い出せなくなってしまいましたが、悪すぎるタイミングが重なって、差し入れてもらった本を、実際に閲覧できるようになるまで、ずいぶんと日にちが掛かりました。

あるいはになりますが、3月17日に福井刑務所に移送され、一週間程の分類審査と、それに続く2週間の新入教育を受けた後、ようやく資本を仮下げて閲覧できるようになったのかもしれません。

拘置所も刑務所も同じだったと思いますが、差し入れされた本は領置という手続きをとり、仮下げをした上で、閲覧することが出来たかと思いますが、どれかの手続きがストップされていたので、すごく長い間待たされました。

パソコンの雑誌が2,3冊と入門書のような漫画の本が一冊ありました。MSーDOSとかコマンドの解説が多かったので、Windows95が発売される前でした。付録には5インチのフロッピーディスクがついていましたが、出所後も5インチフロッピーが使えるパソコンは見たことがなかったです。

ついでに書くと、Windows95の発売のニュースは雑居房のテレビで日曜の夜、大河ドラマが終わった後のニュースでみました。夏ではなかったかと思いますが、松本サリン事件の報道を最初に見たのも、同じ頃の同じ時間帯のニュースであったと思います。平成6年の夏頃です。

刑務所の受刑中であっても本の購入は出来ましたが、そのあとはパソコンに関する本を買うことはなかったと思います。右も左も方向性が全くつかめなかったので、後回しにして他の法律の勉強などに専念しました。

私本の購入は月に2回の機会があり、単行本などの書籍は一度に6冊まで注文できていたと記憶していますが、6冊注文しても入るのは2冊がいいところで、一冊もはいらないこともあったと思いますが、刑務官の判断も働いているように感じられることはありました。

福井刑務所を満期出所したのは平成9年1月18日でしたが、10日か半月ぐらいで、ワープロ専用機を買いました。宇出津の駅に近い新谷電気でした。10万5千円ではなかったかと思います。

なにかきっかけがあったのだと思いますが、細かいことを忘れました。ある日の夕方7時ぐらいに、新谷電気に電話を掛け、ワープロ専用機の話を聞いて、まもなく店に駆けつけたことを憶えています。

お金は母親に無理を言って都合してもらいましたが、京都の親戚の人に出してもらったのだと思います。

ワープロ専用機を新谷電気で買って数日が経ち、夕方の早い時間に宇出津駅の方から新谷電気の店の前を通りかかったので中に入ったところ、自分が買ったのより新しいワープロ専用機が7万8千円か8万8千円ぐらいで売っているのを見て驚きました。

店の主人もよほどまずいところを見られたと思ったらしく驚いていましたが、私はとっさに確か500円ぐらいのヘッドフォンのようなものを手に取り、レジの前に立ったところ、代金はいらないと言われたので、そのまま帰ったのですが、腸が煮えくりかえるとはこのようなことかと実感しました。

店に置かれた新しいワープロ専用機にはMS-DOS対応と大きな札のようなものがつけられていました。最初はよくわからなかったのですが、どうも保存したデータをそのままWindowsのパソコンでも開けるのがMS-DOS対応の意味だったようです。

ワープロというかキーボードに触れたのもその時が初めてでした。当時はまだパソコンよりワープロ専用機の方が文書の作成において主流であったのではないかと思います。

集中して取り組んだこともあり、一月もするとかなりのペースで文書を作成できるようにもなっていました。そのワープロ専用機で作成した書面も再審請求として提出したように思います。

3ヶ月程前になるでしょうか、片付けをしていて段ボール箱に入った当時の書面を見たのですが、ずいぶんな量だったので自分でも少し驚きました。段ボール箱の中に入れてあることは憶えていたのですが、感熱紙を使っていたこともあり、中も見ずに置いてありました。

感熱紙の印字が数年で消えるという話は早い段階で知っていました。必要もなしになるべく空気に触れさせない方がよいかとも思いさわらない状態にしていたのです。印字は薄くなったものとそうでもないものがありましたが、思っていたよりは悪くない保存状態でした。

読めば思い出すこともあるとは思いましたが、量が多すぎることもあり全く読んでいませんし、今のところ読もうとも思っていません。記録として御庁(金沢地方検察庁)に残されている可能性もあるかと思いますが、今時間を掛けるだけ意味のあることとは思わないからです。

むしろ今の自分の記憶のままに書くことの方が意味のあることではないかと思っています。重要な見落としはあるのかもしれませんが、その前に書いておくべきことは、まだまだたくさんあります。

同じ平成9年の4月にはノートパソコンを買いました。このことは数日前にも少し書いているように思います。父親が残してくれた家屋敷の手付け金として受け取った100万円を使いました。これも勝負が早かったです。お金をもらったその場で、金沢に走りました。

契約に同席していた被告訴人OKNが金沢に帰る車に乗せてもらいました。金沢の若宮のパソコンの館という店で買いましたが、あるいは午前中の開店前に店の前で待っていたような気もします。

この時も金沢の入江のビジネスホテルで宿泊し、そこから歩いて若宮のパソコンの館に行ったように思います。犀川というのは金沢の中心部を流れる川ですが、若宮大橋というのも平成4年当時には影も形もなかったものでした。

店はその若宮大橋を渡った先にありましたが、事前に場所は調べていたのだと思います。店では余り迷わずにNECのノートパソコンを買いました。48万円ぐらいだったと思いますが、定価は60万円を超えるぐらいでした。

ノートパソコンとプリンター、スキャナーを買いました。全部で60万円ぐらいの買い物でした。ノートパソコンはそのまま持ち帰りましたが、プリンターとかは能登の宇出津の家まで郵送を頼んだように思います。

思い切った買い物でしたが、再審請求に対する意気込みと、効率をあげるための投資として完全に割り切っていました。

パソコンは絶対に必要だと思っていました。拘置所や刑務所にいる頃は、それこそ明治時代と同じで紙とペンしか使えませんでした。コピーをとるにもカーボン紙で、効率の悪さは嫌というほど痛感していました。

同じ平成9年の7月の初めに金沢に引っ越してきて、それから半月ぐらい経って頃には、同じパソコンの館で、ディスクトップのパソコンを買いました。同じNECの98シリーズのパソコンでしたが、35万円ぐらいだったと思います。

次にパソコンを買ったのは金沢刑務所を出所後の平成14年の4月頃だったので、けっこうな間だったとは思いますが、平成11年の8月12日に金沢中警察署に逮捕されてからは、平成14年の正月までパソコンは使えない状態でした。

金沢刑務所を出所して宇出津の家に戻ったのは平成13年の12月31日でしたが、パソコンに電源を入れたのは数日後のことで、あるいは一週間ぐらい経っていたかもしれません。すぐに使えるとも思っていなかったので、起動して作業が出来る状態になったときは、不思議な気分にもなりました。

次に買ったのはソーテックのディスクトップパソコンで、10万円ちょっとぐらいだったと思いますが、これはインターネットの通販で買いました。

費用を工面するのに七尾市に行き、プロミスという信販会社で10万円借りたのだと思います。当時もよく借りれたものだと思いましたが、就職が決まった直後かと思います。

「株式会社みさき」というような社名になっていたかと思います。社名のみさきも、珠洲市三崎町に関係していたはずで、一度4トン車でその三崎町辺りにある古い工場か倉庫のような場所から、何かを運んだこともありました。

会社が珠洲市内であったことは間違いないと思いますが、仕事先は宇出津のボーリング場の跡地でした。電子部品の工場でしたが、他にも宇出津電子など数社の従業員が集まった共同事業のような工場でした。

9割以上が女性で、それも若い女性が多かったと思います。生まれ育った宇出津ですが、自分の同級生や顔見知りのような人はいなかったと思います。中国人の研修生の割合も多かったとは思います。

職安からの紹介で面接に行きましたが、仕事を始めるようになったのもすぐだったと思います。4月の10日頃だったと思いますが、その数日前には鵜川に住んでいた被告訴人YSNと会って、話をしていました。

偶然なのだと思いますが、被告訴人YSNと合った翌日に、今度は職安で被告訴人YSNと顔を合わせました。ちょうど彼の用事が終わって帰って行くところだったと思いますが、その時点で高岡市(富山県)の方で、仕事が決まったような話をしていたようにも思います。

その時も被告訴人YSNは古くて大きなパジェロのような車に乗っていました。たぶん日産の同じような車種ではと思われましたが、私自身わかるのはパジェロぐらいで、そういうタイプの車には興味もなかったのです。運転していたのは彼の妻でしたが、姿ははっきりとは見ませんでした。

思えば身を隠したりわかりにくい格好をするのが得意なのか、被告訴人YSNの妻の姿というのは平成4年以来見ることがなかったように思います。平成4年の初めには一度、花里のアパートで出産後の姿を見たように思いますが、あやふやになっている記憶です。

一つはっきりしていうことは、夜に花里の被告訴人YSNのアパートから東力の自分のアパートに戻った直後だったように記憶しているのですが、近くの東力ストアーで追突事故を受けたことがありました。自販機でタバコを買うのに左折する際、減速したところで追突を受けたのです。

そういえば思い出したことですが、被告訴人TSKが、東力ストアーとは親戚になると話していたことがあったような気がします。話を聞いたときはさほど気にもとめませんでした。

東力ストアは大豆田大橋から西金沢方面に至る道路沿いにある古くて小さな店でしたが、なんどか店に入ったことを記憶しているものの細かいことは記憶にありません。目立たない店でしたが、店の前には自販機がまとまって置いてあり、夜間はたまに利用する機会もあったかと思います。

金沢市内に住んでいれば同じ金沢市内に親戚がいると聞いてもまったく普通の話だと思いますが、福井刑務所では被告訴人TSKのことを朝鮮からやってきた朝鮮人で、それも成人になって日本に来たような話を聞いたので、思い出すとどうかとも考えるようになったのです。

もともと被告訴人TSKに関しても謎の多い人物です。朝鮮から来たという話はにわかに信じ難いと思いました。自分の子どもの頃の近所にもそういうおばさんがいましたが、話し方のイントネーションがまるで日本人とは違っていたからです。

被告訴人TSKはとくに年配の人が話すような金沢弁のイントネーションが特徴でした。妙なところでアクセントを付けたり、語尾をのばす話し方は、個人差もありますが、あえて強調するようなタイプでした。まねるのがうまければ不可能ではないとは思いましたが。

現在は韓国と北朝鮮は明確に区別されているという印象ですが、以前はけっこうごっちゃにして話す人も多かったように思いますし、核実験などで北朝鮮の名前が知れ渡り感心をもたれるよりも前の時代であったようにも思います。

朝鮮人といえばパチンコ屋というイメージも強い時代でしたが最近はさっぱり聞かなくなった話です。パチンコ屋の利権は戦後の混乱期に成立したものであったとも聴いていますので、根拠のしっかりした話でもあったはずかと思います。

被告訴人TSKが朝鮮からやってきたという話は、福井刑務所で一緒だったNという人物に聞いた話です。かなり癖の強そうな人物でもありましたので、真偽の程も不明であるばかりではなく、他の目的のいわばエサとしてちらつかせてきた話であったこともありうるかと思います。

Nとは同じ2工場でしたが同じ雑居房でもありました。私の方が後から入ったのですが、一月か二月ぐらい経った頃か、2級生になって4階に転房して行きました。2級生が南寮の4階にあがることは、前にも説明をしているかと思います。

TK班長も2級生になっていましたが、同じ雑居房になったとも聞いたか見ていたと思います。見ていたというのは雑役の作業場に、居房毎に名前の書いた札が並べられているような場所があったからです。

福井刑務所では金沢刑務所とは違って、休憩時間は工場内で自由な行動が出来たということもありますが、雑役の作業場には他にも用事があって行くことがちょくちょくありました。

TK班長についてもこれまで何度か触れてきていると思います。そういえば福井刑務所を出た後、お金を持っていたNが出資をして、TK班長と商売を始めたとか、それが当たって大儲けをしているというような話も耳にしていたように思います。

なにか女の子をつかった新手の商売を始めたと聞いたような気もするのですが、TK班長自身も片町で飲み屋を経営しているとか経営していたとか話していたはずで、4店舗ぐらい店を持っているようなことも言っていたような気もします。

話を聞くところ、スナックのような小さな店ではなく、クラブというのか大勢の客を収容できるような店という感じで話をしていたような気もします。20年近く前になっているので、記憶も曖昧ですが。ミスター片町とも呼ばれていたことは自分で話していたように思います。

同じ片町の飲み屋で仕事をしていたという被告訴人YSNについて尋ねたとき、しらないと即答していたTK班長ですが、出所後電話で被告訴人YSNと話をしたとき、よく知っているというのと同時に、すぐに滝本組という金沢の暴力団の名前を出していました。

滝本組に関しては最終的に被告訴人KYNと会ったときの状況が思い出されます。これまでの悪い傾向として色んな事実が細切れのごっちゃになっていると思うので、これからはorg-modeのページ内リンクを活用してテーマに応じた分散的な記載を心掛けたいと思います。

滝本組に関しては姫のNKさんについても書いておきたいことがあります。それぞれにリンクを張るようにしたいと思いますが、先に被告訴人KYNににいて*被告訴人KYNとの最後の会見と会話の録音?として書いておきたいと思います。

org-modeの記法を使って見出しのリンクを張りました。テキスト文書としては二重の半角カギ括弧で挟まれているかと思います。また、頭に半角のアスタリスクがあるかと思いますが、これはorg-modeで見出しの階層の数を表すものです。

この項目では主に被告訴人OKNと被告訴人HTNの関係について書くつもりだったのですが、パソコンについての説明を書いているうちに主題から外れてしましました。ここで一旦この項目の記述を終了して、別の項目を書いてからまだ戻って再開したいと思います。終了時刻を入れます。

2014-04-04 金 12:12> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

2014-04-04 金 12:22> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

さきに訂正しておきたい箇所があるので補充的な追記をしておきたいと思います。上記にアスタリスクの数について書きましたが、それは見出しそのものにおけるorg-modeの記法になります。

見出しに対するリンクも同じかと思っていたのですが、これは階層に関係なくアスタリスクを一つ付けることで、見出しのみをリンクのジャンプ先にする決まりになっているようです。

アスタリスクをつけないで2重のカギ括弧で囲んだ文字列は、ファイルの先頭から最初の同じ文字列がリンクのジャンプ先になるようです。つまり本文中であってもそちらに移るので意図せぬことにもなりそうです。

気をつけますが、見出しにまったく同じ文字列を使う可能性は少ないと思うので、*をつければ関連する見出しへのリンクとして機能してくれると思います。このリンクを活用できるのはorg-modeを扱えるEmacsを使った場合か、エクスポートしたHTMLファイルに限定されるかと思います。

ファイルそのものはorgという拡張子がついているので、通常のWindowsパソコンであればシステムと関連づけのない形式と判断され、起動するアプリケーションの選択を迫られるのではないかと思います。

ファイルの中身そのものはテキストファイルなのでメモ帳でも開けますが、文字化けすることと改行が反映されない可能性が高いかと思います。文字コードがUTF-8であり、改行がUNIXになっているからです。

比較的バージョンの新しいワープロソフトであれば、普通のテキストファイルとして開いて閲覧することは出来ると思いますが、余計な記号も表示されるので、読みづらいのではないかと思います。

もっとも最終的には印刷用のファイルとして整形する予定でいますが、そちらもリンクは機能しないはずです。リンクを活用するにはHTMLのファイルをブラウザで開いて閲覧することをお奨めしますし、ネットで公開する文書もHTMLを前提に考えています。

また、試してみたところ*を付けなかった場合、見出し以外の本文中にもリンクができると書きましたが、文字列中に該当する文字列が含まれる場合まで含まれるわけではないようです。文字列だけの一行で試してもみましたが、リンクにはならなかったようです。十分に理解できていない機能です。

2014-04-04 金 13:00> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

TODO 被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係について

* TODO 平成9年当時における被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係

2014-04-06 日 17:21> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

すでに何度か書いてあるはずですが、平成9年1月18日に満期出所した私をワゴン車に母親を連れて迎えにきたのは、被告訴人OSNと被告訴人OKNと被告訴人KYNの三人でした。

今思うと平成4年当時はそれほど被告訴人OKNと被告訴人KYNの付き合いというのはなかったようにも思えます。仕事の内容もずいぶんと違っていましたし、同じ金沢市内でしたが住んでいる場所も離れていました。

中学生の頃を振り返っても二人の付き合いというのは余りなかったと思います。被告訴人KYNの家で被告訴人OKNの姿を見たような記憶もないですし、被告訴人OKNの家で被告訴人KYNの姿を見たのわずかでした。

それでも二人とも私の結婚式にも出席していましたし、被告訴人KYNの結婚式にも被告訴人OKNで出ていて、被告訴人OKNの結婚式にも被告訴人KYNが出ていたので、やはり親密な関係ではあったと思います。

ただ、二人とも個性と自我が強いので、二人だけでの付き合いや行動というのは、私としても想像しにくいものがあったとは思います。

共通する趣味となると、酒を飲むことかと思いますが、被告訴人KYNの方は酒そのものをこよなく愛する感じで日本酒を飲むことが多かったと思います。被告訴人OKNの方は飲んで騒ぐことが好きな感じでした。