告訴状2013(作成途中)_18

Last-modified: 2021-04-11 (日) 06:26:23

被告訴人OKNは家で晩酌するのも想像しにくいタイプでしたが、被告訴人KYNは必ずという感じで酒とおかずだけでご飯を食べないようなことも聴いたことがありました。このような酒好きは能登ではよくいるタイプです。

もっとも平成4年以前は、私の方が彼らとは仕事の内容も違って時間の不規則な長距離トラックの仕事が多かったので、会うことが少なかったとも言えます。被告訴人KYNの場合は住んでいるところが近かったので、割と気軽には足も向いていました。

これまでに何度か書いていると思いますが、被告訴人OKNは東京と神戸に住んでいた時期があり、その間は地元に帰ってくることも少なかったと思います。

それでも東京にいるときは、チェイサーという車に乗り、東京都内で車を所有していたようです。駐車場の料金の話もしていたように思いますが、働いている喫茶店の給料がずいぶんと安いような話だったので、不思議といえば不思議でした。

喫茶店には住み込みで働いているという話でした。東京の台東区で浅草辺りと言っていたように思います。その住まいにも一度実際に行ったことがあるのですが、ごく断片的な場面しか記憶には残っていません。

昭和58年の7月の20日頃だったと思います。私は自動二輪の免許取り消しが響いて、半年以上遅れてようやく普通免許を取得した直後でした。修理に出した車の代車のポンコツの車で、被告訴人OKNの住む東京に遊びに行ったのです。

被告訴人OKNが付き合っていた彼女のOMとHMを連れていったことははっきりと憶えているのですが、もう一人が姫のDMだったように思うのですが、それはちょっと記憶がはっきりしなくなっています。3人とも同級生の少女で当時16から17歳かと思います。

当日は昼に横浜に遊びに行ったことと、夜に新宿に遊びに行ったことを記憶していますが、泊まった場所ははっきり記憶していないものの、喫茶店の住み込み先以外には考えにくいです。翌日にはその年にオープンした東京ディズニーランドに遊びに行きました。

その年、つまり昭和58年のお盆には、黒のチェイサーに乗って帰省していたかと思います。東京では花屋敷にも遊びに行ったのですが、そこで被告訴人OKNが車を駐車していたような場面を記憶しています。

そして翌年の昭和59年の3月か4月の頃には東京を引き払って地元に戻り、4月頃には私の紹介で金沢市場輸送に入って、一緒に探した東力のアパートで住むようになりました。不動産屋は丸福不動産だったと思います。

既に書いているかと思いますが、7月の宇出津のあばれ祭りで腰に大怪我を負ったといい、中央市場に近い金石街道沿いの波多野整形外科に入院をして、そのまま仕事もやめて遊び回っていました。

その昭和59年の11月から12月頃には金沢市出雲町の北陸地建で土木工事のアルバイトをしていました。Googleマップでは同じ出雲町に同じ名前の会社があるので、当時の会社かと思いますが、建物は場所が変わっている可能性もあるかとは思います。

北陸地建(株) - Google マップ http://bit.ly/1mSxWeS

アルバイトをしたのは一月半か長くて2ヶ月だったと思います。私は札幌から戻った直後でした。このアルバイトには被告訴人OKNの他、HMと富来のOTも一緒でした。北海道から連れてきた滝川市の16歳の少年も途中から参加したかと思います。

HMと書きましたが、彼は何度か名前が変わっていて、最終的にはSMになっていたかと思います。三重県に住んでいたとも聞きましたが、複雑な家庭環境でもあったようです。付き合うようになったきっかけはOTの方が最初でした。

これも既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの観音堂のアパートの同じ並びのアパートに住んでいた珠洲のYHのところに彼女と遊びに来ていたUHが、西念町の古い木造アパートに住むようになっていて、そこに遊びに行っているときに知り合ったのがOTでした。

この富来のOTが本陣住宅に入社したことがきっかけで、被告訴人OKNは本陣不動産で働くようになりました。紹介だと聞いています。本陣グループは他に本陣建設というのもありました。本陣グループとしてテレビのCMにも出ていました。

平成9年の7月の初めに私は被告訴人OKNに世話をしてもらった金沢市北安江の借家に引っ越して来ましたが、その7月の下旬には被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長になっていた金沢市内の建設会社で仕事をするようになっていました。正社員ではなかったかと思います。

社会保険に入ったように思うので正社員になっていたものと考えるのですが、その年の10月頃にはやめていたので、短い間でした。小さな会社でしたが金沢市の下水の仕事を請け負っているとかで、伸び盛りの会社という感じでした。

SMに関してはプライベートな部分にも触れることになるかと思うので、会社の住所や会社名は書かないことにしておきたいと思います。ただ、金沢市でも四十万の方で北安江からもけっこう離れていました。四十万よりは手前になるかとは思います。

SMは部長という肩書きになっていたと思いますが、どうも営業の方をやっているような感じで、現場で姿を見ることも少なかったと思います。社長の下に番頭のような人がいて、珠洲の蛸島の人だと聞いていましたが、5つぐらいの年上だったかと思います。

SMはその蛸島の人と仲良くなって長い間一緒に仕事をしていたらしく、名前はだいぶん前からちょくちょく耳にしていたように思います。ちょっと特徴のある名前でもありましたが、下の方の名前だったと思います。

いつころとなると現在思い出すのも難しいところがあるのですが、長い間仕事もせずに遊び回っていたSMが、まじめに仕事に取り組むようになったのは土木の仕事だったと思うのですが、東金沢というか鳴和の方の会社だと聞いていたような記憶があります。

SMと知り合ったのは昭和59年の夏頃かと思います。OTと知り合ってすぐでした。OTは金沢駅西口に近い広岡町のアパートに住んでいましたが、けっこう豪勢で新しい建物と部屋で階数が2階建てだったような気がしますが、マンションという感じの住まいでした。

そこに彼はMNという少女と同棲していました。少女といっても当時のことで年は私たちより2,3年下ではなかったかと思います。富山の高岡市の出身とも聞いていましたが、のちに被告訴人OSNの鳶の有限会社でナンバー2の番頭格になった宇出津のHSのこともよく知っている用でした。

ナンパされて付き合いがあったらしいですが、真脇の私の一つ年下のKHのこともよく知っているようなことを話していました。その後も1年ぐらいはOTを交えて付き合いがあったと思います。

昭和60年の秋の終わりか初冬の頃には、しばらく私の東力のアパートに二人で居候していた時期もありました、OTがガス代を払うと見得を切って実行してくれなかったおかげで、私は長距離から夜中に帰ったとき、2度ほど水風呂に入ったことがありました。雪の降るような時期だったと思います。

私自身、当時は中西運輸商の仕事で東力のアパートには帰ることも少なかったので、一緒に生活していたような実感も残っていないのですが、どうでもいいようなたまり場になっていましたし、誰が生活しようとさほど気にせずにいたと思います。

そこ頃だと思いますが、SMが牛のもも肉のステーキをニンニクを使った手料理で振る舞ってくれたことがありました。その時も以前に板前の修業をしていたと話していました。

知り合った当時のSMは北安江の大きな交差点の側の大きなマンションで、金沢市畝田町の一つ年下ぐらいの女と同棲をしていました。私が知り合ってからも半年ぐらいは付き合いが続いていたような気もしますが、別れたらしくそのうち話も聞かなくなりました。

OTもSMも仕事をしていない時期が長く、お金に困る生活も続いていたようです。ただ、今考えると北安江のマンションの後のSMの住まいは把握し出来ていないところもあったかと思います。もともと金沢市彦三の方に家があるようなことも話していたかと思いますが、親戚の家とも聞いていたかも。

石川県金沢市彦三町 - Google マップ http://bit.ly/1ejVTUg ← 改めて調べると彦三というのはこのあたりでした。私自身漠然と尾張町と瓢箪町との間ぐらいという認識しかありませんでした。

もともと地図を開いて金沢市内の住所を調べると言うことはほとんどやったことがなかったのですが、電信柱に書いてある住所を見て、どこがどのあたりということを把握していましたが、彦三の辺りというのは滅多に行くこともなかったかと思います。

親子関係とかその辺りも複雑な家庭環境のように聞いていたと思うのですが、どこか金沢地方裁判所の近くの養護施設で生活していたようなことも聞いていたように思うのです。これには被告訴人YSNと関係した人物で、他の話も印象的に憶えていました。

SMは割と気さくに自分の家庭の事情を話していたと思うのですが、私自身も立ち入ったことは聞かないようにしていたように記憶しています。もともとずいぶんと古い記憶なのですが、語られる内容を一方的に聞いていたような情報なので、どうもはっきりしない部分もあるかと思っています。

ずっと前から気になっていた問題なのですが、他人のプライバシーにも関わる事柄であり、どこまで踏み込むかずいぶんと迷ってきました。これは木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNとの関係において特に気になる重要部分にも触れる可能性があるので、項目を別にして書いておきたいと思います。

ここでは被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てて書いておきたいと思います。自分自身の記憶の整理もありますが、人間関係も整理しておいた方がよいかと思います。

被告訴人KYNは石川県立水産高校小木分校を卒業したあと、一年間ぐらいは父親の漁船に一緒に乗り漁をしていたと聞いています。朝鮮との境の辺りまで行き、数日間を海の上で過ごすとも聞いたことがありました。

そのうち家族の大反対を押し切って漁師をやめ、宇出津で水道屋というか配管お仕事を始めたと聞きました。

この間、何度か宇出津の被告訴人KYNの家に遊びに行って直接話を聞いたりしていたのですが、そういう機会も回数は少なかったと思います。私自身金沢に住んでいて宇出津には滅多に帰らなくなっていたからです。

宇出津の水道屋で働いていたというのも一年ぐらいだったかと思います。ずいぶんと不満があるらしく不当な扱いを受けているようなことも会ったときに話していました。

昭和58年の夏、私は白色のローレルという車に乗っていたのですが、そういえば夜にその車で遊び回っていたところ、宇出津駅の近くで夜間工事をする被告訴人KYNの姿を見たような記憶があります。

彼はその昭和58年の春先に高校を卒業しているはずなので、それを考えると家の船に乗っていたというのはもっと短い間であったことが考えられます。一年ぐらいと彼の口から聞いたような憶えもあったのですが、その場の思いつきで話していたのかもしれません。

秋になると私は同じローレルですが、黒と銀色の当時流行のツートンカラーの車を、輪島の若者から購入していました。輪島まで夜に車を取りに行ったことも憶えています。

白いローレルは宇出津の一つ年上のSさんから買っていたものですが、何度かぶつけて保険で直したりもしていたのですが、買い換えた方が良いという判断で廃車にしたと思います。

金沢市観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込んだいた頃でした。藤江の輪島の暴走族のたまり場で、知り合った関係から売買が成立し、輪島まで車を取りに行ったのです。

その輪島の暴走族のリーダーがKTだったことは既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの方が親しい関係でした。どういうつながりだったのか今は思い出せなくなっている部分もありますが、誘われて集団暴走にも何度か参加したことがありました。

私は被告訴人YSNの車に同乗しての参加でした。よく憶えていることは滝本組の参加と聞く暴走族の司(つかさ)と対立しているらしく、暴走中に出くわすことがあれば徹底的にぶちのめしてやれ、というような訓辞も受けていました。

藤江の陸橋の側の大きなアパートをたまり場にした輪島の暴走族の集会に被告訴人YSNと参加したのは2,3回ではなかったかと思います。リーダーであったKTが観音堂の被告訴人YSNのアパートに直接来たこともありましたが、何時どこで集会があるので集まらないかという誘いだったと思います。

一度、少し出世をしたような話を聞く若い暴力団員のアパートに遊びに行ったこともありました。だいたいの場所ですが、直線距離で観音堂のアパートと藤江のアパートの中間ぐらいの場所にあるアパートの一室だったと思います。住所は松村かと思いますが、お踊りからずいぶん外れていました。

けっこう大柄で背中に般若の面の入れ墨を入れた暴力団員でした。組の名前も当時は聞いていたと思うのですが、私がすぐにピンと来るような組の名前ではなかったように思います。珠洲のYHが一緒にいて彼の知り合いとしてそのアパートに遊びに行ったように思いますが、記憶は断片的です。

当時の金沢の暴力団というかヤクザの組としてよく聞いていたのは、福島組、紺谷組、松元組、滝本組、北野組でしょうか。たぶんそれ以外だったと思います。

石川県金沢市畝田西1丁目93 - Google マップ http://bit.ly/PJYi4W ← その観音堂のアパートがあったのはこの辺りかと思います。観音堂という町名は今もあるようですが、この場所は畝田になっているようです。

今、Googleマップで確認したところ当時、運転免許センターがあったあたりは、現在大徳中学校の敷地になっているようです。免許センターのすぐ近くであるだけにとても目立つ場所でもありました。

ちょっと絵を描いて説明しておく必要もあるかと思っているのですが、そのアパートは古い2棟のアパートが向き合って建っていました。平屋だったという記憶がある一方、最年長者らしい人物の部屋だけは2階にあったような記憶があります。

その最年長者らしい人物の部屋には、多分一度だけ入った頃があり、羽咋のIという男がヤクザをやめたお祝いという名目での集まりでした。

羽咋市にある雷神という大きな暴走族の元メンバーだったとも聞きましたが、知り合った頃は確か紺谷組系の暴力団員でありながら、組からも警察からも保険金詐欺の容疑とかで逃げ回っているという話の男で、年は私の一つ年上だと聞いていました。色の黒い男でした。

そういえば、被告訴人YSNからそのIに関する話を最後に聞いたときは、羽咋市に戻って食堂をやっているような話でした。私は平成14年の11月から平成21年の3月まで羽咋市内に住んでいましたが、思い出して考えることもなかったと思います。

羽咋市は能登では七尾に次いで大きい町だと思いますが、店も多い割には外食をする食堂も少なかったという印象があり、なかなか不便にも感じて生活していました。Iが働くような店のことを考えたこともなかったと思います。

昭和58年の8月の下旬だったと思いますが、宇出津の二つ年上の先輩DKさんの家で被告訴人YSNと再会したときも、そのIとナンパをしたような連れの女の子が2人いました。4人で来ていたのですが、その場で観音堂のアパートのことを聞き、遊びに来るように誘われたのです。

Iが所属していたと聞いていたのは山本総業ではなかったかと思います。当時はけっこう有名な暴力団事務所で、広小路の坂の途中、アーケードの一角のようなところに組事務所がありました。小さい建物でしたが目立つ場所で、選挙事務所のような感じもあったかと思います。

山本総業は紺谷組ではなかったかと思いますが、当時の若者の間では「やまそう」と呼ばれていました。Googleマップで場所を示しておこうと思いますが、とにかく目立つ場所でした。商店街の一角とも言えるかもしれないです。

石川県金沢市野町2丁目30-8 - Google マップ http://bit.ly/PK6u5l ← ヤマソウこと山本総業の暴力団組事務所があったのはだいたいこの辺りかと思います。大通り沿いです。

今回、Googleマップで調べてみて私自身初めて知ったのですが、金沢市に広小路という町内名はないようです。片町にもつながる大きな交差点を広小路の交差点とも読んでいましたが、正式には野田広小路になるのかもしれません。

ヤマソウがあった並びが野町になるというのも意外でしたが、よく見ると「にしの茶屋街」という大通りを挟んだ反対側も同じ野町2丁目になるようです。

本書でも前に触れているように思いますが、その現在観光地のようになっている「にしの茶屋街」の辺りの野町の一部と増泉1丁目の辺りは「いっさか」と呼ばれる特別な地区でもありました。昔は遊郭があってその後は赤線地帯とかにもなっていたようです。

「いっさか(石坂)」でも増泉1丁目でない野町の辺りは、以前から伝統芸能の観光地のような雰囲気がありましたが、被告訴人TSKの家はその辺りにあるとも聞いていました。実際にどの辺りか調べたことはないので、どんな家なのかもわかりません。

被告訴人TSKが自分の妻のことを、昔、その石坂のあたりでパンパンのリーダーのようなことをやっていたと話したこともありましたが、まともには聞いていなかったので、真偽の程も不明です。パンパンというのは死語になっていると思いますが、必ずしも売春婦ではないとは思います。

伝統のあるヤクザの家で組長をやっていたという話も聞きました。松葉会といような名称も聞いたように思いますが、同じ名前で全国的に有名な組織もあったはずなので、これもまともには聞いていませんでした。

人を食ったように虚実を織り交ぜたような話をするということでは、ほとんどが被告訴人TSKに対して同じような印象を思っていたと思いますが、実があればこそ会社の社長にもなっていたはずで、デタラメばかりではないはずですが、真剣に被告訴人TSKについて調べたような話も聞かなかったです。

被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係というテーマからだいぶんずれてきたようですが、まったく関連性がないような話でもありません。そもそも一番肝心なのが木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNの関係であり、間接的にも参考や手がかりにもなりうる事実や人間関係だと思います。

被告訴人OKNがことさらに親密な関係を口にしていたのが姫のNKさんでもありますし、被告訴人MHK社長とは確実につながりがありながら、私の目からは関係を意識させないように振る舞っているようにも見えていました。直接向かい合って話をする姿も見たことはなかったです。

私は必ずしも姫のNKさんや宇出津のK村さんが事件に関与している怪しい人物であると言っているわけではありません。人間関係として接点があるのも間違いのない事実であり、真相を隠すため盾のように利用され悪影響を受ける可能性もある人たちとも思っています。

私は何年も何年も前から、同じような事実を金沢地方裁判所や金沢地方検察庁に提出する書面に書いてきました。警察や検察には捜査権限もあるので、必要を認めれば当然に調べていることでしょう。その過程にも間違いが起こる可能性があり、巻き込まれてしまう可能性も否定は出来ないはずです。

また、被告訴人OKNがいかに他人を利用し、画策を実行したかについては、私自身の体験としても刻まれている事実であって、実生活に相当なダメージも受けたはずです。

プログラムの世界では可読性の悪くなったソースコードのことをスパゲッティプログラムと呼ぶそうですが、書いている私自身が、状態を把握し収拾するのが難しくなってきました。羽咋のIのようなことは枝葉の事実なので、本体から切り離したいとは思うのですが、そういう細かいことも多いのです。

軽く触れると、羽咋のIはその後、被告訴人YSNが活躍した中央防災の社長であった輪島のKさんと一緒に暴力団員になり、山口組と一和会の抗争の時に拳銃を渡されて鉄砲玉を命じられ、そのまま逃亡したと被告訴人YSNは話していました。

そういう人間関係も普通は一時的なものが多いと思うのです。実際に私もそういう一時的な人間関係が多くありました。同時にそういう関係が、他の人との関係で接点を持つことが想像以上に多いと言うことも刑務所経験で知りました。友達の友達とか、友達の知人というような関係です。

中央防災についても書いておいた方がいいと思うことがあるのですが、そちらは被告訴人YSNに関する特集のような項目で取り扱った方が良いかと思います。

この被告訴人OKNと被告訴人KYNに焦点を当てた項目において書いておきたかったのは、藤江の輪島の暴走族のたまり場に、知り合ったばかりの頃の富来のOTも出入りしたり、集団暴走に参加していたと話していたことです。黄色のカリーナとも改造車のことを話していたことを記憶しています。

石川県金沢市藤江南2丁目13 - Google マップ http://bit.ly/1e8TSj9 ← 輪島の暴走族のたまり場のアパートがあったのは、だいたいこの辺りからと思います。

木造のアパートの建物も大きかったですが、駐車場も広かったです。舗装はされておらず空き地のような駐車場であったような気もしますが、沢山の車を駐車することが出来ました。近くにはバイパスレジャーランドのゲームセンターも当時からあったように思います。

ついでに当時のUHの西念町のアパートもだいたいの場所を示しておきたい思います。新しく広い道が出来たりして周辺の道路事情もいっぺんしているかとは思いますが、同じ西念でも中央市場のすぐ近くではありません。むしろ北安江に近いかとも思います。

ルミナス・モアーB - Google マップ http://bit.ly/1qo39Eb 石川県金沢市西念2丁目6 ← UHのアパートがあったのはこの辺りかと思います。

金沢の中央市場の正門には角に派出所があって、そこから一直線の通りでした。道幅が狭くなってから右手に「大三元」とかいう黄色い看板があったような記憶があります。その辺りを右に入って30メートルぐらいの左手にあるアパートでした。かなり古い木造アパートでした。

その大三元とかいう小さい看板のもう少し先には左手に3階建てぐらいの鉄筋のビルがあって、一階が寿司屋のような店になっていたと記憶していますが、その小さなビルの3階に珠洲のYHが住んでいました。

2回ぐらいか回数も少なかったと思いますが、そのYHのところに遊びに行ったことがあり、はっきりとは憶えていないのですが、他には考えにくいこともあって、たぶんその時にYHさんから近所にUHが住んでいると聞き、おもしろ半分でアパートに訪問したところ、そこにいたのだと思います。

当時、YHさんは高井水産に勤めていたと思います。初めは高井水産でつぶれた運送会社を数年前に引き取ったというような話も聴いていましたが、社内で社名の募集などがあり、山水運輸に決まったのではなかったかと思います。

高井水産から山水運輸になったことは間違いないのですが、いきなり山水運輸運輸になったのか、それとも一時期違う名前だったのかということで、やや記憶に自信が持てないのですが、候補の名前をいくつか聞いていたことで、記憶もおかしくなっているように思います。

高井水産に初めに入社したのは珠洲の三崎のSKでした。年は同じ同級生だと聞いていました。背も高く切れ長の目も特徴であったかと記憶しています。小松市の一つ年上ぐらいの女性と、神田の消防署の近くのアパートで同棲していました。

消防署と言っても小さい建物でしたが、その近くのアパートには宇出津のDKさんが住んでいたり、小木分校を卒業したばかりの真脇の被告訴人HTNの同級生Sさんが住んでいたアパートがありました。

このSさんものちに山水運輸で働くようになっていました。被告訴人OSNとの付き合いも親密な時期で、西インターの近くのバイパス沿いの新築のアパートに引っ越してからは、何度か被告訴人OSNらと遊びに行ったことも憶えています。

金沢港や中央卸売市場の新鮮食材を全国にお届けいたします。山水(やますい) http://yamasui-fish.co.jp/index.html ← 山水運輸のホームページのようです。

これをみると山水だけになっていて運輸とはついていないようにも見えますが、グリーンとクリーム色のようなトラックの色は、高井水産の頃から変わっていないと思います。カジキのマークやトラックのデザインも平成3年当時から変わっていないように見えます。

平成4年頃には中央市場の裏の方に会社事務所が移転していたようには思いますが、以前はバイパス沿いの周りになにもないような辺鄙な場所に会社があり、事務所の建物も建設現場の仮設事務所に近い感じであったとも記憶しています。

そういえば思い出しましたが、珠洲の三崎のSKは、その後山水運輸をやめて、しばらくしてから新田商店の4トン車に乗務するようになったと聞いていました。実際に、金沢港で仕事をする姿を見ていたような憶えもありますが、言葉を交わしたという記憶は残っていません。

その頃、金沢市場輸送で金沢港に魚を積むに行くのは縁の切られた丸中水産ではなく、新田商店の仕事になっていたと思います。蛸島のTSさんが松波の漁港で岸壁から海に飛び込み自殺したというニュースは平成1年の1月中頃ではなかったかと記憶しています。

昭和59年に私が金沢市場輸送で長距離の仕事を始めた頃は、蛸島のTSさんは新田商店で4トン車に乗っていると聞いたいたように思います。TSさんの話の大半は被告訴人OSNから聞いたものであったと思います。

新田商店は河北郡七塚町に会社があるとも聴いていました。その頃は4トン車が4台程度だったと思います。

何度か書いていると思いますが、金沢港でまとまった鮮魚の全国向けの仕事があるのは、6月前後のスルメイカのシーズンぐらいでした。実質は一月もあるかなしだったと思いますが、その時期は扱う荷物の量も多く忙しかったです。

昼というか午後に競りがあってスルメイカを積み込んでいましたが、本来的な金沢港の鮮魚の競りというのは夜に行われ、23時ぐらいに大阪、名古屋、新潟に向けて出発すると聞いていました。

その夜の仕事のほとんどは運送会社ではなく、新田商店のような魚屋が自社で所有するトラックで運んでいました。当時は全て4トン車だったと思いますが、昭和63年頃になると新田商店も10トンの大型車を一台は入れていたと記憶しています。

金沢港での売り場は、県漁連という場所と、大野埠頭の入り口のような場所に南浦漁協という売り場が別にありました。私の経験ではどちらからも荷物を積み込んでいましたが、ふだん待機などをしているのは県漁連の売り場の前でした。

ざっと思い出すだけでも新田商店の他、直市商店、表商店、という魚屋があって、赤宋水産というのもありましたが、魚屋と言うよりは運送会社に近いような話も聴きました。いずれも白ナンバーのトラックでした。他にもあったと思いますが、新田商店の4台という所有は一番多かったかもしれないです。

蛸島のTSさんに関しては、新潟県の柏崎市というか米山インターというのがあったと思いますが、高速道路である北陸自動車道が通行止めの時、側を走る国道8号線で吹雪の中、大きな衝突事故を起こしたとも聴いていました。新田商店のトラックだったと思います。

それほどひどい大怪我を負ったとは聴かなかったように思いますが、つぶれた車内に閉じこめられレスキュー隊に救助されるまでかなり時間が掛かったというような話も聴きました。

そういう話は聴いていたのですが、実際に新田商店のトラックに乗るTSさんの姿というのは見たことがなかったと思います。他にも新田商店の運転手の話は、ちょくちょく耳にしていましたが、今の記憶では被告訴人OSN以外の話としては考えにくいです。

TSさんは珠洲市の蛸島の人だと聞いていました。当時の国鉄も能登線の終着駅が蛸島駅になっていました。同じ珠洲市でも大谷のYSさんは水産高校の寮に入っているとか入っていたと聞いていましたが、TSさんの場合はまず汽車通学だったと思われます。

TSさんに関しては初めに町野高校に行き、なにか事情があって一年生の時にやめ、翌年に一年生として水産高校に入ったと聞いていました。実際の年齢などは同級生より一つ上になりますが、被告訴人YSNとは同級生で同じ漁業科のクラスメートでもあったはずです。

このあたりはその年代の石川県立水産高校の卒業アルバムを何度か見ることがあったので、被告訴人YSNと一緒に撮影されている写真も見ていました。

水産高校には他に機関科と製造科があり、製造科のほとんどは女子でした。私も通った小木分校には無線通信科がありましたが、本校に行くのは始業式の他、年にほんの数回程度でした。

水産高校の本校は同じ宇出津にありましたが、それだけではなく中学時代の同級生が何人も通っていたので、いろいろと話を聴く機会はあり、被告訴人YSNのことも高校一年生の頃には聴いて知っていました。

初めに話を聴いていたのはHSだったと思いますが、とても怖い感じの先輩で鬼のような顔をしていると話していました。同級生のDKさんも高校に入った頃の被告訴人YSNは、ぴしっとしていたけど、そのうちおかしくなっていったとしみじみ語ることがありました。

被告訴人YSNは私の二つ年上なので、私たちが高校一年生の時の3年生でした。名前だけは聞いていたとも思いますが、直接会ったことはなかったと言えばなかったのですが、一度HSらと鵜川の同級生の家に泊まりがけで遊びに行ったとき、夜の町で出くわして話をしたようなことはあったと思います。

鵜川は宇出津と同じ能都町でしたが、中学校は能都中学校と鵜川中学校で別になっていたので、親戚関係でもなければ高校入学以前の交遊や交流というのは、ほとんどなかったはずです。

私の場合は、新だ父親の姉だったかが鵜川の町に住んでいたことがあり、小学校の低学年の頃までは何度かその親戚の家に行くこともあったと記憶しています。それとは別に、寺参りによく母親に連れて行かれたことも憶えています。

宇出津とは距離でも10キロ弱ぐらい、車でも10分弱ぐらいではないかと思います。穴水や金沢方面に行くときの国道249号線の通り道でもありましたが、平成に入った頃になると、柳田村の上町を経由して穴水に行くことが多くなったとも言えます。

上町経由の道は現在、珠洲道路という看板も出ていますが、昭和58年頃も道はあって、通行はしていたものの、一部舗装のされていない砂利道の区間もあり、道も今ほど整備はされていなかったように思います。農面道路とも呼ばれていたと思います。

昭和56年の6月に私は小木分校を中退し、6月の終わりか7月頃には金沢の問屋団地でガソリンスタンドの仕事をするようになっていました。面接に行ったのは森本に近い神谷内のガソリンスタンドだったと記憶していますが、問屋団地のガソリンスタンドには寮もありました。

増泉1丁目のアパートに住んでいた被告訴人OSNのところに何度か遊びに行っていましたが、一度、どこかで被告訴人OSNの知り合いの車に出会い、その車で問屋団地まで送ってもらったことがありました。

その場ですぎに気がつかなかったのかもしれないのですが、それは蛸島のTSさんの車で、助手席に同乗していたのは被告訴人YSNだったはずです。話には聴いていたTSさんでしたが、実際に間近であったのは、その時が最初だったとも思われます。

私は本来2年生に進級したところで中退しましたが、その年の春に高校を卒業したのが被告訴人YSNらの年代だったはずです。

既に書いていると思いますが、TSさんは金沢市場輸送で長距離トラックの仕事を始めたと聞き、被告訴人YSNは中央市場のウロコ水産で仕事を始めたと聞いています。ウロコ水産は石川中央魚市とならぶ、競りを主催する鮮魚の売り場でした。

昭和59年当時、新田商店の話はよく耳にしていたことを憶えています。珠洲市の見附島の付近の人だと聞いていましたが、何とかという人の名前をよく聞いていました。変わった名前でしたが二文字で下の一文字は記憶しています。豪傑のような伝説的な人物のように話を聴いていました。

その人物に関しては直接見たという記憶がはっきり残っていないのですが、どこかに駐車してあることの多いトラックはちょくちょく見かけていた記憶があります。今思い出したのですが、箱の後ろだったかに観音様か何かの絵が描かれていたように思います。

新田商店のトラックは保冷車はほぼ例外なく飾りをつけていたと思います。トラックの飾りが全国的に流行したのは昭和61年辺りからではなかったかと思いますが、逆に時代をさかのぼるとトラック野郎という映画が流行し、そちらも飾りや電飾を流行にしていました。

どちらかと言えばそのトラック野郎の時代の流れがあったかと思います。昭和60年辺りになると飾りも昔とは違ったものになっていたと思いますし、「カミオン」という専用雑誌の書店に並ぶようになっていました。

トラック野郎という映画はその後、ビデオなどで見ましたが、リアルには実感することはなかったように思います。同じ菅原文太が主演でしたが、仁義なき戦いの方が宇出津でも、リアルに流行していたことは憶えています。

宇出津に映画館があったのもその仁義なき戦いが大ヒットしていた時代でしたが、その後まもなく閉館しました。小学校6年生の時だったと思いますが学年で「日本沈没」という映画を見に行ったことは憶えていますが、その1年から3年の間には閉館していたと思います。

金沢市内にレンタルビデオ店が出来たのも昭和59年の夏頃だったと記憶しています。今では考えられないことかと思いますが、当初は1本で1500円の料金ではなかったかと思います。レンタルビデオが普及していく時代の幕開けでもありました。

金沢のレンタルビデオ店でトラック野郎のビデオを借り、それを宇出津の城野町の二つ年上の先輩の家でみたことも、よく憶えています。昭和59年の夏頃ではなかったかと思います。

その先輩も被告訴人YSNとは同級生でしたが、水産高校を中退したとは聞いていたものの、それも被告訴人YSNと同じ漁業科と聞いた憶えもあります。

その先輩と初めて知り合ったのも昭和56年の12月頃かと思います。姫のNKさんと同じ頃で、どちらも小木か姫の遠洋漁業から戻ってきたところと、聴いていたように思います。NKさんの方は、そう聞いたとよりはっきり記憶しています。

宇出津の城野町というのは現在も数こそ減っているとは思いますが、ほとんどが町営住宅の集まる町内でした。同級生のHSも城野町で、彼のところにはよく遊びにも行っていました。

改めてこの項目のタイトル名を見ると平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係になっていました。なにか勘違いしたまま書き続けていたようです。これは4月10日の初めての記述になるかとも思います。

被告訴人OKNと被告訴人KYNに共通する人物としてSMやOTの説明をしてきたことは十分に意味のあることです、平成9年の時点でも被告訴人OKNは本陣不動産の営業課長になっていたかと思いますが、その本陣不動産の入社のきっかけになったのもOTという友人関係があったからです。

不動産の仕事を始める前の被告訴人OKNは、車のブローカーというか売買の仕事も手がけていました。ここに絡んでくるのがUHです。UHはOTと知り合うきっかけとなった人物でもありました。

宇出津の城野町の先輩についてはまた違ったところ書こうと思いますが、昨日辺りに新たに思い出したことがありました。私自身は長距離の仕事で忙しかった時期だと思うのですが、OTとSMの二人が宇出津に遊びに来ていた時期があり、城野町の先輩とも一緒に遊んでいたという話でした。

こういうことを書いてよいものか多少迷うこともあるのですが、その辺りももうしばらく検討したいと考えています。被告訴人OSNとの関係でも重要な接点がある人物で、平成9年に福井刑務所を出てから一度も顔を合わせず、近況について詳しい話題を聞かなかったことも気になっています。

被告訴人OSNの会社をやめてから型枠大工の仕事をしているとは聞いたと思うのですが、金沢に住んでいるのか、どの辺りに住んでいるのかという話も全く聞きませんでした。ただ、城野町の先輩の甥にあたるような若者が、被告訴人OSNの会社で働き、活躍しているとは聞き、何度か会っていました。

城野町の先輩についてはこれまでに何度か書いていると思いますが、プライベートな問題もあって、配慮に迷うところがあります。真相を正しく伝えるためには不可欠と思える事実もあるのですが、記憶がはっきりしなくなっている部分も当然にあることでしょう。

平成9年の7月の下旬ぐらいからSMが部長をする建設会社で作業員の仕事をするようになったことは既に書いていると思います。規模としては20人もいないような会社ではありましたが、金沢市の仕事を入札して請け負っているなど、成長しているような会社でもありました。

8月に入る前に仕事は始めていたと思います。北安江の借家に引っ越してきたのが7月の1日か2日だったので、予め用意されたように事が運んでいたという気もします。そのあと被告訴人KYNの世話になるときは、多少渋るような対応もあって、もう少し時間も掛かったかと思います。

その建設会社で仕事を初めて10日か2週間ぐらい経った頃かと思いますが、車を買うことでSMに相談をしました。家を処分した現金があったのでどこで買っても良かったのですが、SMに世話になったということで、相談もしてみたのです。

その時に紹介されたのがTという人物でした。会ったことはなかったものの名前は以前から聞いていたような気もします。年は私たちより二つぐらい年上と聞いていたように思います。SMとの関係については聞いたような気もしますが、憶えていません。

店舗を持たずに車の売買をやっていたような感じであったと思います。初めにどこで会ったのかも思い出せなくなっていますが、すぐに代車の車を貸してくれました。車種はローレルだったと思いますが、自分の知る昔の型とはまるで違っていて、トヨタのマーク2にも似ていると思いました。

平成4年の4月からその平成9年の1月18日まで私は刑務所や留置場にいたので、世の中がけっこう変わり、町を走る車も見たことのないモデルが多かったとは思います。色はベージュのような色だったと思います。新しい型には見えましたが、車自体はかなり使い込まれているという感じでした。

車を探してもらって、最終的にホンダのトゥデイという軽四を買ったのですが、納車というか乗れる状態になるまではけっこう日数もあったように思います。だいたいになりますが、初めに代車を借りてから3週間ぐらいでしょうか。

どこか金沢市の出雲町あたりか古い整備工場の前で車を受け取ったような記憶もかすかに残っています。Tに関してはどこだったかのマンションに住んでいるとは聞いていました。どのあたりだったか思い出せないですが、藤江の方だったような気もします。

その時に買ったホンダのトゥデイは平成16年頃まで乗っていたと思います。羽咋市に住んでいた頃でしたが、故障してずいぶんと修理代が掛かると言われたので、その店で新車を購入したのです。日産のモカとかいう車ですが軽四でした。

平成21年の3月15日に車検が切れたと思います。それに合わせて羽咋市のアパートを引き払い、宇出津に戻ってきました。それが2度目の車検だったと思うので、初回が3年、その後の2年ということで5年前の平成16年の3月頃に買ったものかと思うのです。

私は平成11年の8月12日に金沢中警察署に逮捕されてから金沢刑務所に服役し、満期で出所したのが平成13年12月31日でした。頼んだつもりもなかったとは思うのですが、被告訴人OKNがそのトゥデイをあずかってくれていました。

その日、金沢刑務所の正門の前で、被告訴人OKNがワゴン車に乗って待っていたことは、すでに書いているかと思います。被告訴人OSNの鳶の仕事で使っているワゴン車ではないかと思いましたが、建設現場に出入りしているようにも思えないような車内でもありました。

金沢刑務所は金沢市田上にあります。市内の中心部から海とは逆の方角で山の方に行った辺りです。住宅地としても開けていたと思いますが、富山県の方にも近い金沢市内のはずれの方です。ちょっと道を違えてさらに奥に行くと湯涌温泉もあります。

なんと言っても12月31日は大晦日であり、普段とは違った街の雰囲気もあったかと思います。午前中だったと思いますし、福井刑務所の時のように長い時間待たされたような記憶もないので、午前9時頃には釈放されていたのではないかと思います。遅くても10時ぐらいには。

平成4年の事件の時とは違って、平成11年の事件の時は、被告訴人OKNは一度も面会に来なかったと思います。拘置所にいたときだけではなく、金沢中警察署にいたときも来なかったように記憶しています。

被告訴人KYNは一度は金沢中警察署に面会に来たと思います。どんな話をしたのか憶えていませんが、配管の仕事で来ていた金沢中警察署の建物に、こういうかたちで来ることになるとは考えたこともなかったと、驚いた様子で話をしていた場面を一つ、憶えています。

被告訴人KYNとは逮捕される数日前に、専光寺の近くにある病院で会っていました。久しぶりに自宅に連絡を入れたようにも思いますが、入院していると聞かされて向かったはずかと思います。これも別のところでもう少し詳しく書いておきたいと思います。

平成9年当時の話に戻したいかと思いますが、その前に途中にもなっているかと思うOTらとの出会いについて書き残していることを書いておきたいと思います。

西念町のUHのアパートでOTと初めて出会ったのは昼でした。そもそもそのUKのアパートに遊びに行った記憶があるのはほとんどが昼間で、例外はその昭和59年と思われる年の12月24日のクリスマスの夜でした。あれはあのアパートに行った最後かもしれません。

OTとはすぐに意気投合するような関係になったと記憶しています。初めて合った当日の夜と思われるのですが、これも忘れることのない出来事がありました。と言ってもごく断片的な一場面になっています。

場所が粟崎という金沢市内の地名であったことは印象的に記憶していますし、確かに行った場所も粟崎の付近で内灘駅にも近い住宅地だったと記憶しています。内灘駅は浅野川線の終着駅でもありますが、内灘は金沢市内ではなく河北郡内灘町です。

昨年辺りに無料化され「のと里山海道」というような名称に変更されたようですが、能登有料道路があって内灘はその出入り口のような場所でもありました。また、「海浜(かいひん)」と呼ぶことが多かったとも思います。

石川県金沢市粟崎町 - Google マップ http://bit.ly/R8ObYw ← こちらで確認しました。自分が思っていたよりは狭い範囲のようです。

ついでに書いておくと粟崎の隣には五郎島という場所があり、Googleマップをみると五郎島町になっているようです。石川県内では五郎島金時というサツマイモで有名な場所かと思います。

平成3年の7月から9月の間はよくその五郎島にセイゴ釣りに行っていました。スズキの一回り小さいのですが、40センチぐらいのはよく釣れていました。60センチ以上になるとスズキと呼ぶとか聞いたこともあります。

五郎島も金沢港の一部になるかと思いますが、他の場所では1メートルほどのスズキまで釣れると新聞に出ていたので知っていました。スズキを狙うのはルアー釣りだと聞いていましたが、私は電気浮きに大きな青虫をつけて釣っていました。

何がきっかけだったか憶えていないのですが、五郎島にはよく行っていました。仕事が終わった夕方からで21時かおそくても22時にはやめていたと思います。釣りに行って釣れなかったことは一度もなかったと思いますが、持って帰って食べることもなかったです。

金沢港には石油タンクもあって魚が油臭いとも聞いていました。一度だけ50センチ以上のが釣れたので持って帰り、家の冷蔵庫で冷凍しておいたところ、市場急配センターの「まさやん」という人が欲しいと言ったので、会社で手渡したことを憶えています。

スズキは黒くて鯉のような色をしたのが多かったと思いますが、五郎島ではヒラスズキというのも釣れました、これはきれいな色をしていましたが、食べようと考えたことはなかったです。

平成3年の7月、前妻に最後に家出をされた日の前日も、夕方の早い時間に五郎島にセイゴ釣りに行ったと記憶していますが、その時は被告訴人YSNも一緒でした。他にも被告訴人YSNと一緒に行くことが多かったと思います。3回に1回は一緒だったように思います。

私は宇出津という海のそばで生まれ育ったこともあり、小さい頃から中学生の頃までは、けっこう魚釣りをしていた時期がありました。小さい頃は冷蔵庫にある刺身などを持って釣りに行っていたことも憶えています。魚の刺身は好きではなかったです。

高校生になった頃から魚釣りをした記憶はないと思いますが、金沢市場輸送の大型保冷車に乗務し、仕事も慣れてから、道具を揃えて魚釣りをするようになりました。きっかけは憶えていないですが、誰かに誘われたようなことではなかったと思います。教わった憶えもありません。

金沢市の東力のアパートに住んでいましたが、近くに「釣り具の丸越」がありました。神田店ということになっていたでしょうか。本店だったような気もします。「まるこしに釣れたの」というテレビCMでもお馴染みの店でした。

西念町の方にも丸越の店がありました。竿やリールの道具を揃えたのはこちらの店の方であったかもしれません。金沢駅西口から一直線の50メートル道路沿いで8号線バイパスにも近いあたりでした。

道具は丸越で買いましたが、エサの青虫はほとんどを金石の小さい釣具店で買って、それから釣りに向かっていたと思います。ずいぶんと大きくて太い青虫でした。生きたまま使うエサなので、決まって買ってから釣り場に向かっていたと思います。

金沢港での魚釣りの話は、別の機会にすることがあると思います。当時は能美郡だったと思う美川にも魚釣りに行ったことがありました。一番多かったのは金石港の堤防だったと思います。厳重な柵を乗り越えて堤防に入っていました。それを含め別の項目でいくつか書きたいと思います。

OTらと知り合った当日の夜だったという気がするのですが、私の記憶の中ではSMと初めて会ったのはOTと初めて出会った数日後という感覚もかすかに残っています。もう30年近くも前になってしまったので、現在残っている記憶の範囲で書くしかありません。

昭和59年ということで西暦にしてみると1984念頭ことになりそうです。現在が2014年なので、まさに今年が30年目だと気がつきました。

とにかく知り合ったばかりのOTらと夜に金沢市粟崎の家に行きました。急な話だったのでのみ込めていない部分もあったかと思いますが、数日前の集団暴走の時に事故を起こして死亡したという若者のお通夜だったと思います。同級生だとすれば19歳という可能性もあるかと思います。

どの程度の付き合いのあった友人だったのかもわかりません。その後、その粟崎の若者の事故死のことが話題になることもなかったと思いますが、言葉以上に重いものを感じさせる雰囲気は共通のものとしてあったと思います。生活のスタイルも大きく変える契機になったことも考えられます。

私にしてみると、その場の成り行きで見ず知らずの人の家にあがって、生前の姿を知らない人の亡骸をみたことにもなります。とりわけ印象的だったのが、祖母のような人が涙ながらに、あなたたちは同じ過ちをしないためにもよく顔を見てください、と言われたことです。

部屋の中央に布かれた布団にお亡くなりになったご遺体があって、枕元にすり寄ってその顔を見たことは、まるで映画の場面のことのようでもありました。

粟崎の家のお通夜には5人ぐらいで行ったように思います。考えられるのは確実性の高い順に、OT、被告訴人OKN、UHでしょうか。

観音堂のYHさんのアパートで知り合ったUHとの関係も一時的なものだったので、当初OTとの関係もそれほど続くとは私自身考えていなかったように思います。知り合ったきっかけは私でしたが、その後の関係が続いたのもより親密な付き合いをしていたのも被告訴人OKNの方でした。

被告訴人OKNの方が趣味や気もあったのだと思いますが、OTは私の方に親近感を持つような面もあったかと思います。その後、私と同じ長距離トラックの仕事をしていたのも、そういうことなのだろうと思いますが、不動産の仕事を始めたと聞いたときは、ずいぶん意外に感じました。

知り合ってすぐの頃のOTは仕事を探している状態だったということもあり、すぐに金沢市場輸送に紹介して一運行だけ仙台だったかに行ったのですが、同乗した社員と折り合いが悪かったらしく、相当腹を立てた様子でやめると行っていました。

宮川という名前の運転手だったと思います、昭和59年当時若くて25歳か高くて28歳と聞いていたように思います。金沢の福久の方に家があって、何かの機会に一度だけ遊びに行ったこともありました。癖の強い人物でしたが、昭和61年の8月に入社したときにはすっかりいなくなっていました。

宮川という人は4トン車の運転手でした。4トン車の運転手の中では古い方でもあったと思います。私自身、初めて仙台に行ったときは彼が同乗していた記憶があります。塩釜から冷凍魚を運んで来たように思います。

当時はまだバブルの好景気の到来前で就職難でもあったと思われ、運転手の募集や出入りも多かったと記憶しています。普通免許で乗れる4トン車の場合それが顕著でした。

前にも書いていると思いますが、OTはしばらくの間、私がいた中西運輸商でも4トン車の運転手をしていました。被告訴人OKNがいた時期ともほぼ重なると思いますが、被告訴人OKNは仕事より遊びを優先している感じで、やめたあとも遊び回っている様子でした。

その後OTは、中谷運輸の平ボディの4トン車で長距離の仕事をしていました。これはけっこう長く続いていたと思います。中谷運輸は小さい運送会社でしたが、松任金石線とも言いましたか主要な道路沿いに、トラックの駐車場があって、前を通りかかる機会もけっこうありました。

その中谷運輸にはずいぶんと飾りを付けたトラックがいて、北誠会というグループの代表的なアートトラックにもなっていたようです。カミオンのような雑誌にも紹介されていたと思いますし、とても目立つトラックでした。

北誠会というのも無線のクラブのひとつだったような気もします。当時は無線が流行っていました。無線にはパーソナル無線とCB無線とかがあったと思います。私自身はあとの方になってパーソナル無線を少しだけやりましたが、どうも性格的なものか無線は好きにはなれなかったです。

機械に関心がなかったわけではないのですが、作法的なものには、とても馴染む気がしませんでした。

パーソナル無線自体は宇出津の仲間の間でも昭和58年の初め頃には流行っていたように思いますが、一時的なもので1年もすると続けている人は余りいなくなっていたような気もします。ファミコンとかが流行りだしたのも同じ頃かと思いますが、同じく私は興味を覚えませんでした。

CB無線に関してはパーソナル無線より前から存在は知っていたと思いますが、余りよい評判というのも聞かずマイナスのイメージが強かったとも思います。信号機の状態を変えるほどの強力な電波を使ったり、無線機を持つ腕が異様に細くなるなど中毒性が高いとも聞いていました。

中西運輸商は九州方面の仕事が多かったですが、運転手の大半も九州の人間だと聞いていました。CB無線をやっている人も多くて、「厳流会」というクラブ名もよく耳にしていました。YTは付き合いが多かったと思いますし、彼も無線はやっていたような気もします。

パーソナル無線に関しては流行りだした早い時期から自宅に固定で使っている人もいましたが、CB無線に関しては自宅につけているとか乗用車につけているという話は、私の知る範囲では聞いたことがなく、もっぱら長距離トラックという感じでした。

北誠会と言うことでインターネットで検索をしてみたのですが現在も活動中のようです。デコトラという言葉も目につきましたが、デコレーショントラックのことかと思われるものの、昭和の時代にそういう言葉は使われず、アートトラックは見ていたように思います。

同じ中谷運輸で運転手の数も少なかったと思いますので、当然に顔見知りだったとは思いますが、OTから北誠会の話を聞くことは多くはなかったと思います。また、彼自身がトラックを飾るようなこともなかったと思います。

中谷運輸の感謝に関しては親近感ももって色々と話をしていたように思いますが、憶えていることも少ないです。はっきりとは憶えていないものの当時は運転手の数もトラックの数も10には満たなかったように思います。長距離は駐車場の出入りも頻繁なので把握がしにくい面はありますが。

一度、北誠会のイベントということで千里浜に行ったことがありました。5,6人かもう少しいたような気もするのですが、OTがいたことは確実と思われる他は、誰がその場にいたのかも思い出せない記憶にはなっています。北誠会の活動が活発化し名前が定着したあとであったとは思います。

中谷運輸にいる頃のOTは野々市のアパートで一人住まいをしていたようです、私自身、2,3回は行ったことがあると記憶しているのですが、遊びに行ったという記憶よりは、立ち寄ったとか訪問したという感じで、夜に行ったことはないかもしれません。

野々市とは聞いていたと思いますが、野々市町の中心部からはずいぶんと離れた場所で、松任市にも金沢市にも隣接していたと思います。野々市の駅に近い場所で、踏切を渡ったところの角にあるような古いタイプのアパートだったと記憶しています。

長距離の仕事でどこかで顔を合わすようなこともあったと思いますが、連絡先の電話番号というのも知ってはいなかったような気もします。当時は当然に携帯電話などなり時代でした。

中谷運輸をやめたような話も人伝に、かなり疎遠になっていた状態で耳にしていたように思いますが、どれぐらい間があったかは思い出せないものの、そのうち不動産会社に就職して営業の仕事をするようになったとか耳にするようになりました。

私自身、長距離の仕事では不在が多かったと思いますが、居候のような状態で同居していた時期のあとは、特にOTが遊びに訪ねてきたような記憶も残っていません。

時々、近況のような話を耳にすることはあったように思いますが、その話のほとんども被告訴人OKNから聞いていたのではないかと思います。振り返るとほとんど顔あわすことのない状態が長かったように思えます。

ずいぶんと久しぶりにOTやSMと会ったと思われるのが片町のディスコ「さむらい」に行ったときのことでした。耳にするだけの言葉だったので店名を漢字で書くのかカタカナだったのかもわからず、見当もつかないので、とりあえず平仮名にしておきました。

この「さむらい」というディスコのことについては、被告訴人YSNのことも絡んでくるので、別の項目で詳しく書くことにしたいと思います。

「さむらい」というのは最も可能性が少なそうな気がしてきたので以降は、とりあえず「サムライ」としておきたいと思います。金沢で初めてオープンした開放型のディスコというような評判を聞いていました。開放型というのは私の説明上の表現です。そんなのは聞いたこともないディスコです。

※Emacsという現在書面を作成しているアプリに不具合が発生しまして、バックアップファイルから復元をしたものの本日つまり2014年4月14日に書いた部分のデータが失われました。

※Twitterの同時投稿をしていたのでTwilogから本日分のデータを取得しましたが、Twitterの投稿に失敗している部分もあるかもしれません。以下にTwilogから得たデータをコピペしますが、末尾に投降時刻の情報がついています。HTMLから取得したものです。

※以下、Twilogからコピペで復旧させたデータ(欠落の可能性あり)

本来この平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に関する項目では、主に被告訴人KYNが被告訴人OKNの世話で会社をかねた中古住宅を購入し、さらにその数千万円という借金の保証人になったという話について取り上げるつもりでした。
posted at 10:43:55

その住宅に関しては高くても4千万円を超えるような話ではなかったように思います。借金の方も3千万円か3千500万円ではないかと思われます。具体的な数字を聞いたとは思いますが、ずいぶん前のことでもあり、また、相場的にもそれぐらいかと思った程度だったので強い記憶にはなっていません。
posted at 11:30:27

被告訴人OKNの方も平成9年の1月に私が福井刑務所から出てきた頃には、中古住宅を購入していました。そちらもだいたいの金額は聞いたような気もするのですが、被告訴人KYNと似たようなものだったような印象がぼんやりと残っている程度です。
posted at 11:32:58

被告訴人OKNの中古住宅は金沢市円光寺でした。この円光寺や高尾のあたりが金沢市内でも住宅地としては土地の値段が特に高いという話は聞いたことがあり、また被告訴人OKNからもそのように聞いていました。
posted at 11:35:19

よほどの掘り出し物かとも思ったのですが、5千万円とかそういう金額ではなかったと思います。よくよく考えてみると黒田1丁目の被告訴人KYNの中古住宅も高くて3千万ぐらいにも思えてきました。
posted at 11:37:00

円光寺の辺りは店も多くバス停もあって利便性は高いのかと思われますが、能登に帰ることを考えると逆方向の金沢市内の外れに近いというイメージもあって、個人的に交通の便が良いという感覚にはなれなかったです。
posted at 11:41:13

被告訴人KYNは黒田1丁目でしたが、車がないと生活は相当不便な場所だと思います。間明にマルエーというスーパーが一つあったので、歩いて買い物に行けないこともなかったとは思いますが。
posted at 12:05:05

それにけっこう大きな川の土手沿いというのも地価が低くなる要因とも思われます。水害発生のリスクがいくぶん高くなると考えられるからです。
posted at 12:07:20

ついでに書いておきますと、いつだったか被告訴人OKNの付き合いで、どこかの喫茶店での不動産の商談の場に居合わせたことがありました。被告訴人OKNのお奨めは金沢市粟崎の物件でした。
posted at 12:09:08

相手は粟崎で以前水害が起こったという知識もあったらしく、かなり慎重な様子で、被告訴人OKNの説得に応じないような対応をしていました。金沢市内のどのあたりの喫茶店だったかも思い出せないのですが、既に被告訴人HTNの住宅が粟崎ということは私が知っていたと思います。
posted at 12:12:34

粟崎の辺りは金沢港の一部のような場所で、山の方からはるかに遠く離れていますが、どうも地盤が低いような話ではなかったかと思います。
posted at 12:15:10

被告訴人HTNの粟崎の住宅に関しては、項目のタイトルをつけただけで、まだ説明を書いていないと思います。こちらは中古物件ではなく、「○○邸新築工事」になっていました。○○の部分はもちろん被告訴人HTNの家の名前です。具体的な金額を書面として見ています。
posted at 12:17:29

書面といってもMicrosoftのWordのファイルだったので、改変も自在の状態ではあったとは思います。細かいことは別の項目の方で書きます。
posted at 12:18:26

被告訴人OKNに対しては、円光寺の中古住宅に関して被告訴人KYNに借金の保証人になっていないのか尋ねましたが、被告訴人OKNははっきりと保証人にはなってもらってはいないと答えていました。
posted at 13:18:16

円光寺の中古住宅に関しては、頭金をいくら入れたとかどれぐらいのローンを組んだとか込み入った話は聞かなかったと思います。
posted at 13:19:28

福井刑務所に迎えに来た時点での被告訴人OKNや被告訴人KYNの様子がおかしかったので、へたに突っ込んだ質問をして警戒心を与えても良くないと考えてはいましたし、本当のことを答えるとは限らないとも思っていました。
posted at 13:21:12

石川県金沢市円光寺 - Google マップ bit.ly/1hA1omX ← 円光寺というのは金沢市内のこの辺りです。地図で見たことは余りなかったのですが、思っていたよりは狭い範囲という印象もあります。
posted at 16:57:41

SMの先輩であり上司にもなる蛸島出身のKさんが、ふと被告訴人OKNに関して不動産の仕事をしているのに、自分でシロアリの家を買った、というようなことを口にしたことがありました。前後の会話は記憶にないですが、その部分だけよく憶えています。
posted at 17:01:17

とりあえずKさんとしましたが、これは上の名前ではなく通常○○さんと呼ばれていた下の名前の頭文字のイニシャルを使いました。上の方の名前も憶えていたはずですが、思い出せなくなっています。
posted at 17:03:18

そのKさんに関しては名前だけはSMから頻繁に聞いていたように思います。前に少し触れていると思いますが、初めに東金沢の方の建設会社で働いていると聞いていた頃より、その名前を聞いていたようにも思います。かなり世話になり慕っている様子でした。
posted at 17:05:34

東金沢の方というのは星陵高校の近くとも聞いていたように思います。私自身、星陵高校の場所というのは漠然としか認識していませんでしたし、用事もなく滅多に行くような付近でもなかったと思います。高校野球で有名になった星陵高校です。
posted at 17:08:53

私立星稜高校 - Google マップ bit.ly/1hA41Fj ← 確認もかねて調べてみたのですが住所が次のようになっていました。石川県金沢市小坂町南206
posted at 17:12:55

この小坂町というのはけっこう見覚えのある地名です。鳴和から森本の方に行く主要道路沿いに小坂町というような看板のついた交差点があったと記憶しているからです。鳴和から反対側にまっすぐ行くと橋場の交差点があって、その先には金沢地方裁判所の側の兼六園下の交差点に出るはず。
posted at 17:16:45

その辺りは市内配達などの仕事でもちょくちょく通っていました。とりわけ記憶に残っているのはその道路沿いの森本の手前だったかに「大鶏」という鶏肉の加工場のような会社があったことです。昭和59年当時はよくブロイラーを積みに行っていました。
posted at 17:20:51

その主要道路沿いで森本の町を抜けてしばらく走ると河北郡津幡町の手前辺りで国道8号線に合流しましたが、そのしばらく手前の道路沿いには日野自動車の工場がありました。その後、8号線バイパスに大きな新工場が出来ていましたが、その頃には日野の工場に出入りすることはなくなっていました。
posted at 17:24:08

それでも考えてみると最後に乗務した市場急配センターの10トンウィング車3068号も日野のトラックでしたが、そういえば平成4年の1月頃に、その森本の工場に行ったことがありました。
posted at 17:26:30

会社に掛けた電話で被害者AAさんに、「今日仕事終わったらラーメンでも食べにいかんけ」と誘ったとき、工場のすぐ近くの公衆電話から掛けていたと思います。彼女は「いけるけど、今日はいけん」と意味ありげな感じで断っていました。いける、とは行ってもいいけど、という意味です。
posted at 17:29:21

平成4年3月23日の夜の電話でも彼女は同じような返答をしていましたが、問い詰めるとその時は、「こわいし」と行っていました。今から自分(私)のアパートに来るように言っていたときのことです。
posted at 17:31:47

金沢市場輸送で乗務した最後の10トンウィング車も日野のトラックでした。もっともこの2台は新車だったので故障というのもほとんどなかったとは思います。その前の108号とかいう冷凍機付きの保冷車も日野でした。
posted at 17:33:44

なにかトラックに不調があって日野の工場に行ったのだと思いますが、思い出せなくなっています。あるいは定期点検のようなものであった可能性もあるかとは思います。
posted at 17:35:11

SMの仕事先については小坂町の近くと説明を受けていたのかもしれません。会社の名前とかもたぶん聞いていたのだろうとは思いますが、憶えてはいないです。
posted at 17:38:07

はっきりと印象に残っていることは、SMがようやく落ち着いて土木工事のような会社で腰を落ち着けて頑張っているというような話でした。高校卒業の資格を得るため夜間学校に通うとか、あるいは通い出したという話も聞いたように思いますが、その後、卒業したような話も聞いてはいません。
posted at 17:40:42

夜間学校というのは金沢市でも少なかったと思います。中央高校というのがそうだったと思いますが、通っている人と何人か知り合ったこともあったので、多少知識もあったかと思います。4年制だったはずで、そんな長い間、今も通っているという話も聞かなかったです。やめたとも聞かなかったですが。
posted at 17:44:44

本陣住宅が倒産しました。今後の家の修理や保証はどうなるのでしょうか - Yahoo!知恵袋 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… ← 調べていてこういう情報を見つけました。
posted at 18:08:27

※Twilogからコピペしたデータの終わり。

2014-04-14 月 18:53> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

2014-04-15 火 17:57> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

見出しの本文編集における記述範囲の開始と終了の時刻に関する説明も済ませたので、これからは各項目間を移動しながら全体的な構成を整えて行きたいと思います。

この項目では、繰り返しになりますが、平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てています。

当時のことを振り返ってあらためて考えてみますと、被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長をするK建設に働くようになりましたが、よく考えてみると、被告訴人OKNとSMが顔を合わせた姿というのも一度も思い浮かばないのです。

SMに関しては馬替のマンションに住んでいると聞いていたような気もしますが、遊びに行くようなことは一度もなかったし、そういう雰囲気すらなかったです。被告訴人OKNの方でもなにか距離をとっているような慎重さもうかがえなくはなかったです。

ずいぶんすんなりと口利きで仕事が決まった割には、付き合いがまったく見えてこず、私がいない間にあった昔話に触れるようなこともなかったと思います。ただ、金沢の伝統芸能の仕事をする家に婿養子に入り、名前が変わったとは聴いていましたが、これも何時頃のことかはよくわかっていません。

私自身、再審請求や被害者とその家族のことで頭がいっぱいだったので、気がつかずにいたこともあろうかとは思います。合同法律事務所の西村依子弁護士のところに相談に行ったのも、まだK建設で働いている頃でした。午後からの仕事を休んで行ったように思います。

西村依子弁護士の場合は、受任を断られたものの相談料もいらないと言われたので、さほどのダメージでもなかったと記憶しています。当時は新聞でもちょくちょくと名前を見かける弁護士でしたが、相談の電話を入れたのは合同法律事務所でたまたま西村弁護士が応じたようにも思います。

合同法律事務所に関しては共産系の弁護士が集まる事務所で、刑事弁護に熱心に取り組むと福井刑務所で聴いていたことがあったので、電話をしてアポをとりました。

その話をしたのはFという同じ2工場の受刑者でした。彼も金沢市近郊の運送会社に働いていて、わいせつ事件の犯人にされたとか話していました。再審請求をするとも言っていたと思いますが、まったくの濡れ衣か嵌められたようなことを言っていました。

その運送会社のことは知っていました。運転手仲間だった二人が一時、その会社のトラックに乗務していたからです。一度、夜中に福井県の敦賀市の海岸線から急な坂に登るところにある大きな駐車場の食堂で一緒に食事をしたこともあり、その会社のトラックに乗務していました。

中西運輸商とも関連のある人物ですが、プライベートな問題を含むので、あやふやな表現にとどめておきたいと思います。もちろんこれまで検察や裁判所に提出した書面では、名前もはっきり書いておりますし、記憶の新しい時期に詳細を書きつづっているはずです。

その一人の運転手は以前、小木のYMさんと関係があったと話していました。YMさんに関する説明も途中になっていると思いますが、被告訴人OSNが鳶の仕事をするようになったきっかけらしい人物です。引き継ぐかたちで清水建設の仕事をするようになったと被告訴人OSNは話していました。

YMさんは、昭和59年10月に私が金沢市場輸送をやめたあと、しばらくのあいだ金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも話していました。当時は市内配達だけの仕事というのはなかったはずなので、長距離だったのだと思います。

何時頃、どれぐらいの間、金沢市場輸送にいたのか細かいことは聴かなかったか、聴いていても忘れているのだと思いますが、本人から直接その話を聴いたのは、どこかで説明が中断したままになったはずの、崎山の商店の前でした。

実は今日の15日、昼過ぎに宇出津新港のどんたく宇出津店に買い物に行って、その帰りに崎山を通ったのですが、スマホでそのあたりを写真撮影してきました。どうも店の看板は外され、文字の跡だけが残っているようでした。紙子商店と書いてあったように思いました。

店の方は撮影せず、前の道路と反対側のあたりを撮影しました。桜の並木があることに気がつきましたが、他の宇出津の桜より花は少ないように見えました。日当たりがよいので早めに咲いて散り始めたのかもしれません。それに崎山は風も強いです。

とりあえず一枚をTwitterにアップロードしましたが、URLは次のようになります。

Twitter / hirono_hideki: 2014-04-15_15.12.20.jpg ... https://twitter.com/hirono_hideki/status/456005699521085440/photo/1

このファイル名はスマホのアプリの方で自動的に付けてくれるものなのですが、本当は日付と時刻の間が半角のスペースになっています。これではスクリプトの実行時にエラーが出るので、半角スペースを半角アンダーバーに変更しました。

Linuxだと、rename s/\ /_/ *.jpg とやるとカレントディレクトリのjpgを拡張しに持つファイルの半角スペースを半角アンダーバーに全て置き換えてくれます。UNIXやvimではお馴染みの作法です。

崎山にバス停があるというのも今回初めて知ったのですが、桜のある側のバス停の看板があるちょうどそのあたりに停めた車の中で、YMさんと話をしました。昭和63年の8月の中頃、お盆休みのときだったと思います。

時分も大型車に乗務してみたかったと話していたことも印象的でした。今の仕事のことについても話を聴いていたのかもしれませんが、そういうことは記憶に残っていません。

小木のYMさんが金沢市場輸送にいたということは、その時初めて聞いた話ではなかったと思います。本人に会ったのも久しぶりだったので、本人から話を聴いたのはその時が初めてだったとは思いますが、それほど驚きもなかったと記憶しています。

ただ、YMさんが他の運送会社でトラックに乗ったという話は聴いてはいなかったと思うし、意外性はありました。

前にも書いていると思いますが、今一度、昭和59年に金沢市場輸送に入社した私の友人知人について整理しておきたいと思います。YMさんもその一人だったと思いますが、意外性が強かったため半信半疑で聴いていたような気もします。ごく短期間とも思いました。たぶん聴いたときの相手の話しぶりでも。

まず最初に私が紹介したのが被告訴人OKNでした。そのあと被告訴人OSNが入社しましたが、これも私の紹介のようになっていて、被告訴人TSK社長の夫人にずいぶんと感謝されたことも覚えています。普段は不機嫌そうな顔で無口な夫人だったので、余計に印象的に憶えています。

その後、9月か秋頃になって、珠洲の三崎のHMが入社しました。これは私の紹介だったと思います。私自身がやめる一月ぐらい前だったように思います。HMはずいぶんと仕事を頑張っていたと聞き、それまで不可能とも聴いていた歩合をもらっているとも聞きました。

ちょうどバブル景気が近づいて景気が上向きになり仕事が増えてきた時期にも重なっていたのかもしれません。昭和59年当時の4トン車の運転手の給料は売上が80万円まで20万円と決まっていました。80万円を超えると歩合がつくと聞いていましたが、運賃が安いので無理と聞いていました。

昭和59年当時の金沢市場輸送の記述はしばらく中断して、さきほど取り上げた福井刑務所の受刑者Fの話について、項目を別にして記述したいと思います。とりあえずFとしたと思いますが、現在もフルネームはだいたい記憶しています。

上の名前はまず間違いないと思っています。他に聴いたことがない名前ではありましたが、埼玉県の市町村名と同じと言うことも覚えやすくしていたと思いますが、それでもこれまでは何度か忘れてしまい、思い出すのに時間の掛かったこともありました。

下の方の名前も90パーセント以上は正確性があると思っていますが、漢字二文字の下の方となるとちょっとだけどうかという気もします。これまでの私の作法通り上の名前と下の名前のイニシャルの連結でこれからはFKと表記したいと思います。

前後の文脈で分かりづらいと思われる場合は、福井刑務所の受刑者FKという書き方もすると思います。このスタイルもこれまでと同じものです。

金沢市場輸送の昭和59年当時の状況に関しては、これも別の項目として分けた方が良いかとも考えています。相当の分量にもなりそうですし、整理の必要性も感じるようになってきました。もうしばらく検討します。

2014-04-16 水 01:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月6日

    CLOSED: [2014-07-08 火 08:08]

2014-07-06 日 11:48> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

一見無関係な2つの問題を項目の見出しにしました。内容的にも共通している問題点があるので是非そうしたいと考えたのですが、時間的な近接もあります。

まずは、昨夜の宇出津のあばれ祭りでの写真です。→ 2014-07-06_01.25.33_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/69yBWPaea2

これは被告訴人KYNに声を掛ける直前になります。写真はスマホでの撮影ですが使っているアプリの関係でファイル名に撮影時刻が入り、そのファイル名を元にリネームしました。

写真に写っているのはキリコと呼ばれるものです。能登半島各地にある祭りでよくあるものですが、それぞれに特徴があります。例えば輪島だと漆塗りだと聞いています。能登に生まれ育った人ならとても馴染み深いものですが、そうでないと理解もしにくいかもしれません。

能登キリコ祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E7%99%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B3%E7%A5%AD%E3%82%8A

宇出津というのは能登半島でも町の規模としては、比較の上でさほど大きいわけではないですが、キリコ祭りとしては宇出津のあばれ祭りが一番有名かもしれません。他に七尾市石崎の石崎奉燈祭や輪島大祭が有名ですが、石崎は和倉温泉の隣町でもあり、輪島も朝市として観光地なので規模は大きそうです。

あばれ祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B0%E3%82%8C%E7%A5%AD%E3%82%8A

宇出津の場合、平成17年辺りに鉄道も廃止になり、宿泊施設も少ないので条件はかなり悪いと思いますが、それでも祭りの二日間だけは普段とは比較にならない沢山の人が集まってきます。

新聞か何かで見かけたように思いますが今年のあばれ祭りのキリコは39基と見かけました。以前は50基近くあったそうなので、規模自体も小さくなっているようです。過疎化や高齢化が進んでいますが、とりわけ子どもの少なさは歴然としています。小学生などは自分らの頃の5分の1ぐらいらしいです。

宇出津のあばれ祭りでは各町内ごとにキリコが出ますが、からかじめ順番が決められ番号も振られています。最後尾のキリコの番号を見たところ28番になっていたので、28の町内が参加していると思われますが、この数を見ると人出が足りず、参加を見送った町内もいくつかありそうです。

宇出津の町内というのは住所にはない町名です。範囲となると地元に住んでいても境がわかりにくいことがありますが、なかには、本人の希望とかで飛び地で隣接する町内になる人もいるそうです。

家が20件ほどの町内もあると聞いていますが、空き家も含まれていたりするのではと思われます。小さい狭い範囲の町内が多いですが、中には小さい町内の数倍というのもあります。私が住む小棚木という町内は、多分一番広い町内で人の数も多いと思われます。

私は小学校5年生に進学した昭和50年4月に、宇出津の今の小棚木の家に引っ越してきました。母親の実家のような家でもありますが、母親の家族というのは昭和の初めころに京都から移り住んできて、その後京都に戻っていったと聞いています。

母親の父母というのは私の祖父になりますが、私が物心ついた頃には亡くなっていたのかと思います。年々頃、どこで亡くなったのかも聞いていないのですが、祖父の名前は小島伝次郎だったようです。

私が物心ついた頃、母方の親戚で宇出津に残っている人はいませんでしたし、年に1回、夏に遊びに来るという程度の付き合いでした。稀には用事で来ることもあったかもしれません。電話ではよく話をしていましたが、そんな時、母親はいつも京都弁で話をしていました。

親戚が毎年夏に遊びに来ていたのも私が小学校の低学年でまだ辺田の浜の家に住んでいる頃のことです。同じころまでは父方の親戚とも付き合いがありました。

私の父親は宇出津生まれだと聞いていましたが、東京の方に養子に行って、それで廣野という名前になったと聞いています。旧姓は水元でしたし、隣の町内の大棚木には父親の兄という人も住んでいました。

母親は5人兄弟ですが、父親は7人兄弟だと聞いていました。宇出津には父親の兄弟が3人住んでいました。3件の親戚です。1件は宇出津病院の裏に家があります。町内の名前は忘れたのだと思いますが、わかりません。近くに前の能都中学校へ登る坂がありますが、その辺りは錦町です。

もう一件は、宇出津の町の中心部でもある大橋組という町内でオモチャ屋をしていました。昨夜、被告訴人KYNと話をしたのはちょうどその家の前になりますが、電気もついておらず人が住んでいるようには見えなかったです。

辺田の浜の家には小学校4年生まで住んでいたことになるようです。半年ぐらい前までの私の記憶では小学校4年に進学した4月に宇出津に引っ越したことになっていたのですが、辺田の浜の酒樽祭りが昭和50年に復活したという情報をネットで見て、昭和50年に宇出津に来たのだと確認できたのです。

その酒樽祭りですが、祭りというよりは神事の儀式のようなものらしいです。毎年その時期になっても思い出すことがなく、終わったあとのニュースなどで毎年気がつくので、実際にはこれまで一度も見たことのないお祭りです。

ちょっと思い出したのですが、父親の旧姓は水元ではなく水本だったと思います。なんかずっと忘れていた水元という名前の同級生のことが頭に浮かんできて、思い出すことが出来ました。

父親の兄弟は、能都町鵜川と七尾市にも住んでいました。どちらも叔母さんという関係だったと思います。七尾市には一度だけ青柏祭に行った憶えがあり、鵜川の「にわか祭り」を含め鵜川の家には何度か遊びに行った憶えがあるのですが、家のことや顔や声も名前も記憶には残っていないです。

それもこれも辺田の浜の家にいた頃のことですが、鵜川には神社か寺のお祓いを受けに何度も母親に連れて行かれたことを憶えています。神社のような建物でしたが、坊さんのような格好をした人が、念仏か何かを唱えながら、大きい巾着のような袋で、お祓いを受ける人の体をさすりまくっていました。

ある日を境にぴたりとその神社にはいかなくなったのですが、母親がその坊主にいやらしいことをされそうになったので行かなくなったとか、立ち話をしているのを聞きました。小さい頃というのはやたらと母親の立ち話の側にいて、いらいらしていたという思い出が多いです。魚屋とかで。

鵜川の神社の場所というのはわかりやすい場所でした。鵜川の駅から国道249号線の交差点を横切って鵜川の町の方に入って行くと、一本の小路を右に入ると30メートルぐらいかと思いますが、正面に神社の階段がありました。

階段の登り口の右手に民家が一件ありましたが、それが被告訴人安田敏の家であると知ったのは、ずっと後のことです。一度、家の前まで行ったこともありましたが、被告訴人安田敏とは会うこともなかったです。

本書でもだいぶん前に書いていると思うのですが、被告訴人安田敏の家に入る小路を探して、たまたま声を掛けた相手が、被告訴人安田敏の兄の妻だったということもありました。被告訴人大網健二が同行していた時のことです。夕方でしたが外はすっかり暗くなっていたと思います。

近くに店が開いているとも思えない状況だったので、道を尋ねる人を発見できたことが偶然に思えていたのですが、相手が被告訴人安田敏の親戚ということでなおさら印象深く憶えています。冬であるいは正月休みだったような気もするのですが、夏で兄の嫁が薄着をしていたような気もしたりで時期不明です。

よくよく考えてみると平成9年の8月のお盆休みだったかと思えてきました。そのお盆休みでは被告訴人大網周一が、宇出津の魚市場の近くカネハチの曲がり角とのところで、夜釣りをしていたことが最も印象に残っています。

たまたま昨日撮影していたものですが、この辺りです。→ 2014-07-05_17.45.00_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/l9BHOyTrra

こちらの写真だと宇出津の魚市場も見えるかと思います。2014-07-05_17.44.39_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/7u8Xz61SGG

夜釣りをしていたことよりも、その場所で釣りをしている事自体が、当時はずいぶんと珍しく見えました。現在では春頃にもっと港の奥の方で釣りをする人はいますが、のっこみ、とか呼ばれる黒鯛の散乱の一時期かと思います。

当時私はすでに金沢市高雄の建設会社で働いていたと思います。共通の昔の友達が部長になっていたのですが被告訴人大網健二の口利きで就職が決まりました。これもこれまでに何度か書いていると思います。

さらに繰り替えになるかとも思いますが、被告訴人大網健二と車で通りかかって被告訴人大網周一が夜釣りをしているのを見たあと、私は早めに金沢に帰りました。

そして金石海岸で乗っていた車を砂にはめて動けなくし、JAFを呼んだと思います。

車は代車だったように思いますが、砂にはまって動けなくなった時は夕方でもまだ外の明るい時間だったような気がします。かなり長い時間自分でどうにかしようとしていたのですが、最終的にJAFが来て車を動かせるようになったときは、暗くなっていたように思います。

どの時点で連絡をしたのかはっきり思い出せないのですが、その後私は金沢市東力の、あすなろ公園で被告訴人多田敏明と会っています。まっくらな公園の中、二人だけで会いました。

現在は変わっているかもしれませんが、Googleのストリートビューに出てくるかもしれません。ちょっと調べてみたいと思います。

2014-07-06-171939_石川県金沢市東力・あすなろの森.jpg pic.twitter.com/bnIJ2l1CUn

スクリーンショットをとりました。検索で初めて知ったのですが、あすなろ公園だと金沢市内でも別の場所になるようで、東力の公園は「あすなろの森」という名称になっているようです。私が住んでいたアパートの近所でもありましたが、昭和の時代から全く変わっていないようにも見えます。

鉄塔のようなものが見えて、そんなのがあったかと気になるぐらいです。ないとうことはなかったと思いますが、街灯も少ない公園で夜は暗かったと記憶に残っています。

場所は私が指定したのだと思いますが、被告訴人多田敏明の家があるという金沢市間明からは近い場所で、目印としてわかりやすく車も駐車しやすいということで選んだのだと思います。じっくり内容のある話をしたかったので、静かな場所を選びました。

「広野さん、わしと勝負しようちゅううんがぁ。なんぼでもやってやるよ。」と言われました。言葉で掛けば威圧的で挑発的にもなるかと思いますが、棒読みにも近い感じで、発言の意図をはかりかねるところもありました。

広野と書きましたが、私自身平成4年以降、拘置所や刑務所で生活するようになってから廣野と戸籍と同じ漢字を使うようになりましたが、それまでは小学校の頃からずっと広野という漢字を使っていたからです。平成3,4年当時の被告訴人多田敏明との関係に合わせて広野としました。

私が刑事事件として告発か告訴をしたことや、これからするような話をしたところ、被告訴人多田敏明の場合、多少動揺のような反応が見られ、誰と誰を訴えたのかと尋ねてきました。2,3具体的な名前もあげていたように思います。

余り情報を与えるのは得策ではないという判断と、被告訴人多田敏明の挑発的な態度に憤慨して高ぶっていました。いったん手を出せば止まらなくなってしまうような危険も自分の中に感じたので、自分から話し合いを打ち切るように被告訴人多田敏明とは別れて来ました。

時刻は7月8日7時55分です。昨日は考えるだけで終わってしまいました。どうしょうかと迷ったのですが、前の日に掛けると話していたので、珠洲警察署に電話をして担当者の人と話をしました。取次の際、係長という声が聞こえてきました。

警察の担当者や関わった警察官の名前に関しては以前公表していた時期もありますが、現在は私自身の判断で名前を出してはいませんし、録音もやっていません。今日は新しい小テーマを見つけたので、そちらにも関連付けて説明を書いておきたいと思います。

今後は今まで以上に動きが出て影響を受ける可能性も高まると思うので、リアルな最新状況との関係をいっそう強化したいと思います。項目と作成日時を対応させるためこの項目は締めたいとおもいます。

2014-07-08 火 08:04> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月8日

    CLOSED: [2014-07-09 水 10:52]

2014-07-08 火 08:17> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日は昼に次の番組をみて、NHK連続テレビ小説について書こうかと思っていたのですが、その機会も逸しました。役者の演技について色々と考えさせられるところがありました。

スタジオパークからこんにちは 町田啓太、山田真歩 2014年7月7日(月) 13時05分~13時53分 の放送内容 http://ow.ly/yQfNc

上記のリンクは切れているかページの内容が入れ替わっていると思います。昨日、廣野秀樹(@hirono_hideki)でツイートした内容をそのままコピペしました。

以前、説明が中断したままになっていると思いますが、連続テレビ小説は昨年の6月ころ、東京都渋谷区の弁護士のツイートをきっかけに視聴するようになりました。最近は余り見なくなっていたのですが、昨日見たのも数日ぶりだったと思います。

前にも書いていると思いますが、私はそれまで連続テレビ小説はほとんど見たことがなく、他のドラマでもそれほど深く、俳優というか役者の役割や演技について考えることはなかったと思います。

渋谷区の弁護士については、事務所の町名も同じになっていたのですが、平成11年の傷害事件で上告審の国選弁護人になった山口治夫弁護士のことを思い出すことがありましたが、山口治夫弁護士に関しても大事なことを書く予定でいます。

今、テレビでとくダネ!という番組をみているところですが、今日も兵庫県県議の不正疑惑についてやっています。というか書いているうちに終わってしまいました。

どうも番組のスタッフが調べたところ報告書にある電車料金が全て一律の料金だったの対して、実際は繁忙期とそれ以外の時期に200円の違いがあるとかやっていました。もともとあり得ないような日帰り出張であったことは繰り返し報道されているので、いまさら驚くことでもありません。

それより気になったのはコメンテーターの発言で、他の県議は真面目にやっているので、領収書の厳しいチェックをするとそれが負担になって本来の活動を阻害する、というような発言でした。

県議の活動については今まで報道を見ることもほとんどなかったのですが、地域に根ざした社会問題に取り組む活動をやっているらしいということを今回知ることができたかと思います。

私のこの告発の問題に関しては、石川県議会にもメールでお知らせをしていました。金沢市議会もそうであったかもしれませんが、そちらははっきり記憶にないです。石川県では官庁に関連した部署や施設のメールアドレスを沢山公開されていたので、それを使って多方面に送信していたかと思います。

金沢市というか金沢市役所に関してもそれに近いものがあったと思いますが、能登町に関してはある時期を境にホームページにあったメールアドレスが忽然と消えてしまいました。私が原因であったかどうかは、検察庁においてしっかりと調査確認し、証人喚問の用意も検討して頂きたいと思います。

本来的に社会的な枠組みの異なる問題であることは承知していますが、その枠組みを壊し完全無視を決め込んできたのも金沢弁護士会ではないかという思いもありますので、市民、県民の安全安心と信頼を守るためにも、最大限の厳重な態勢が必要かと思います。

県議の不正疑惑は、相当なデタラメであったという可能性が高く、それが白日の下にさらされつつありますが、水面下での追求や準備があったうえでの報道であったと考えられます。

県議といえば今回の問題で見たり聞くようになった言葉ですが、元は県議会議員の意味だと思います。報道を見ながらこれほどのデタラメが通用した、または横行するものなのかと感心しました。

必要な経費として計上された金額のみならず、交通の移動に掛けた時間を合わせますと、その実質的な活動内容の少なさが気になります。それは改めて弁護士の仕事ぶりにも通じるものを感じさせてくれました。

遠方に赴いて直接、顔を合したり、現場を視察する意味は陶然あると思いますし、そのための調査費とかになっているはずですが、最も日帰り出張の回数が多かった城崎温泉でも、誰一人その姿を見た人を確認できなかったと、報道されています。

今朝は起きて、パソコンをつけて、すぐに目についたツイートにも考えさせられるものがありました。今までは手間も掛かるので触れないようにしてきた問題でもあるのですが、被告訴人KYNとモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の対応に接し、その問題性を再評価したところです。

【RSSによる投稿】 昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の署名、今日現… https://plus.google.com/u/0/wm/1/100408804474159646499/posts/bqCgLr3y8oF

【RSSによる投稿】 勾留中の藤井市長への市民の方からの応援メッセージが書かれた短冊が多数。一… https://plus.google.com/u/0/wm/1/100408804474159646499/posts/UywtKMmAtNL

ブログの記事ですが上記に紹介したのは、そのブログ記事のURLを含んだGoogle+ページの投稿です。Google+ページの投稿は今回、RSSでの自動投稿によるものを使いました。

直接、ブログの記事のタイトルとURLを使うと文字数が多くなって、そのままツイートできなくなります。さらにGoogle+の方が、検索で調べるときにも扱いやすいという点を私は重視しています。

実際Google+で検索をすると次のように表示されます。→ 2014-07-08-095220_検索 - Google+ 江川紹子.jpg pic.twitter.com/pk9zfqwh7J

【コラム 江川紹子】藤井美濃賀茂市長収賄容疑事件、裁判所は令状発行機関なのか - Sakura Financial News | 9999 - http://www.sakurafinancialnews.com/news/9999/20140706_3

上記の記事というかページも先日読んだところでしたが、今回も気がつくと郷原信郎弁護士のツイートそのものではなく、ジャーナリスト江川紹子さんのリツイートによるものでした。

そういえば郷原信郎弁護士はツイッターをやっていたのかと再確認したところでもありますが、ちょっと忘れかけていた部分もありそうです。ただ、今回のツイートの内容ばかりは軽視できないと思いました。その影響力を含め。

ご本人のツイッターはこちらです。→ 2014-07-08-100348_郷原信郎 (nobuogohara)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/aHbAaJPgwC

改めて見るとフォロワー数が6万5千を超えているようです。最近は見かけていないですが割とよくテレビにも出ていた落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイッターアカウントは、フォロワー数が3万台ではなかったかと思います。確認しておきたいと思います。

2014-07-08-101006_落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/CrxTu7uiGR

やはり3万3千弱なので、よく考えてみると郷原信郎弁護士とは倍近い開きがあるようです。今まで意識したことのない発見でした。落合洋司弁護士(東京弁護士会)の方がブログでの情報発信も長く、数も多いので認知度も高そうだという思い込みもあったのかもしれません。

郷原信郎弁護士に関しては陸山会事件でテレビに出ている姿を見たことがありましたが、その後のご本人側の話によると、検察当局に不都合な発言をしているので、テレビに出る機会もなくなったような話で、マスコミに圧力が掛かったと思わせる内容であったと思います。

私も人間であり記憶力も完璧ではないので、間違ったことを書いてご迷惑を掛けないためにも、極力正確なかたちで発言の記録をとるようにしていますが、まだそこまでやっていない時期の発言であり、記録があったとしても探しだすのが困難な保存状態になっているのかもしれません。

今も使っていますが、ブログの記事として保存するようにしてきました。ツイートを埋め込みコードとして保存することが多いです。ブラウザではスタイルシートが適用されて見栄えの良いデザインになっています。これはツイッターのサービスに含まれたものです。

最近は、それよりも多いぐらいの頻度で、スクリーンショットとして保存するようになりました。ご説明も1回以上は既にしていると思います。

% grep -B 3 "^\"Tags .*@nobuogohara.*" c投稿済み/* | wc -l というコマンドで確認をしたのですが郷原信郎弁護士に関する記事は、APIでの投稿管理を今の方法にしてから94件あるようです。

94件と書いたところですが19件の間違いでした。やり直しのコマンドです。→ % grep "^\"Tags .*@nobuogohara.*" c投稿済み/* | wc -l

% grep "^\"Tags .*@amneris84.*" c投稿済み/* |wc -l として江川紹子さんに関連したものをカウントすると376件ありました。そんなにあるのかな、と思いましたが、またなにか勘違いのミスが含まれているのかもしれないです。確認したところ見当たらなかったですが。

先ほど気がついたのですが郷原信郎弁護士は次のツイートもしていたようです。弁護人としての影響力に関して自認されているのかと思いますが、謙遜なのか?のはてなマークもつけられているようです。

2014-07-08-104941_微力ながら弁護人の私が当初から「潔白」と叫び続けていることの影響も?.jpg pic.twitter.com/nKvvFsZb0J

思えば弁護士がインターネットで社会的な影響を自認しているのを見たのも初めてかもしれません。もちろん依頼者の利益という目的と名分はあることと思いますし、その事自体を批判しようとも思いません。

情報の受け取り方は基本的に個人次第だと思いますし、表現の自由というのも尊重されるべきものと思っています。ただ、これまでの経過、特にいわゆるPC遠隔操作事件に絡んだ発言などを見てきた経緯を踏まえると、どうなのかと疑問に思うところもあります。

強固な主義、主張を持って弁護士としての活動をされている第一人者の一人だと思いますし、情報の担い手、ジャーナリスト江川紹子さんの信認も厚そうです。国家的な会議にもともに参加されていた人たちであるはずです。

行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験、とhttp://www.sakurafinancialnews.com/news/9999/20140706_3 の記事で先日確認したところでもあります。

数日前には次のようなツイートも見かけていました。

Twitter / nobuogohara: 勾留中の藤井浩人美濃加茂市長から、今日の接見で受領し公開した ... https://twitter.com/nobuogohara/status/482882438897475585

Twitter / nobuogohara: 【緊急拡散】美濃加茂・藤井市長の早期釈放を求める声を裁判所に ... https://twitter.com/nobuogohara/status/483228655212974080

インターネットで署名活動を行ったようです。どれだけの効果があったのか正確なことはわかりませんが、今朝見たツイートによると署名が1万5千を超えたとのことです。次のツイートには人口5万人余りの市で、それだけ集まったと書いてあります。

Twitter / nobuogohara: 昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の ... https://twitter.com/nobuogohara/status/486143544906629120

重要な部分なので本文を2つにわけて引用します。全部だと文字数オーバーになる可能性もあるからです。前段と後段にわけます。

前段引用)→  昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の署名、今日現在で、1万5000人を超えた。

後段引用)→ 人口5万人余りの市で、これだけの人達が一致して藤井市長の潔白を信じ、一日も早い復帰を望む市民の意思は、刑事司法の世界でも無視できないはず。

このツイートだけ見ると、街頭署名と見る向きが多いのではと私は感じたのですが、街頭署名だと物凄い数になり、やった経験もないことですが、従事するスタッフというか支援者も相当な数になり、本格的な選挙活動にも匹敵するのではと想像されました。

念の為、インターネットの署名サイトを確認しましたが桁も違っているようです。→ 2014-07-08-114730_3,925人の賛同者が集まりました.jpg pic.twitter.com/fa5mSLllSP

時刻は7月9日10時49分です。昨日は考えがまとまらず、集中できなかったので、早い時間に中断したままになっていたと思います。この項目は締めます。

2014-07-09 水 10:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

* DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月9日

    CLOSED: [2014-07-10 木 13:00]

2014-07-09 水 10:55> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

被告訴人KYNのことですが、あばれ祭りで会った時の彼の反応、態度というのは威圧的にも感じるものでしたが、それは何度か繰り返した「帰れ」という言葉にも現れていましたし、時間が経って考えてみてもそれは命令にのようなものであったと思います。

被告訴人KYNと会ったのは数年ぶりのことでした。調べてみないと今の私の記憶だけでは正確な時期がわからなくなっていますが、平成16年かあるいは平成17年の1月であったように思います。その時の会話というのは音声ファイルとして保存し、御庁にも提出してあるはずと思います。

冬だったような気もするのですが積雪はなかったと記憶にあります。何か思い出せそうで思い出せないもどかしさもあるのですが、まだ平成9年の9月ころに買ったホンダの軽四に乗っていた頃だったと思います。

その後しばらくしてそのホンダの軽四が故障をして、修理に随分とお金が掛かるということで、日産の軽四を新車で購入しました。その軽四の二度目の車検の時、私はそれまで住んでいた石川県羽咋市のアパートから今の宇出津の家に帰ってきました。

それ以来軽四の車検は入れなかったですが、車検が切れるのに合わせて宇出津に戻ってきました。2009年3月16日のことであったと思います。私自身最近はもっぱら西暦を使っているので把握もし難くなっているのですが、平成だと平成21年だったと思います。

平成18年ころまではほとんど西暦ではなく平成の年で物事を考えていたと思います。だから記憶の方も平成として覚えているのですが、ここ数年はもっぱら西暦のみなので、現在が平成何年と言っても自信を持って答えることができません。

軽四も新車の時は車検が3年だったと思います。それで2度めの車検となるとちょうど5年ということになるかと思います。平成21年の5年前となると平成16年となりそうです。

そうやって考えてみると、私は平成14年の11月の下旬から6年3ヶ月ほどの間、羽咋市のアパートに住んでいたことになりそうです。前にも計算したことがあったのですが、どこで間違えたのは5年ちょっとだと思っていて、それでもそんなに長く羽咋市にいたのかと考えていました。

記憶の整理を兼ねておさらいをすると、羽咋市のアパートに軽四に乗る一台分の荷物を積んで、来たのは平成14年の11月25日を過ぎた頃だったと思います。派遣社員の寮だったのですが、初めはそのうち2人で住んでもらうと言われていたものの、最後までずっと一人で住んでいました。

事実上は自分のアパートのような生活ではありましたが、アパートの合鍵も派遣会社の人が預かっていたようです。仕事そのものも不安定な立場でしたし、落ち着くことはなかったです。

一時は1月の後半から2月頃だったと思いますが、一月以上仕事がなく、宇出津の家に戻っていたこともありました。まるまる一月仕事がなかったので、収入がないばかりではなく、社会保険など5万以上、マイナスになっていたこともありました。

書いているうちに思い出しましたが年末の12月一杯で仕事がなくなりました。インドネシアで大津波があった翌日か翌々日のことでした。近くで作業をしていたインドネシアの青年とも津波のことで話をしたので、それはよく憶えています。羽咋郡志賀町の電子部品工場でした。

インターネットで調べたところ、スマトラ島沖地震となっていて2004年12月26日の発生となっていました。私の場合、すぐに頭の切り替えができないのですが、平成16年になるのかと思います。

次に派遣先の仕事が決まったのが2月の中頃ではなかったと記憶しています。派遣の仕事はもうこないかもしれないと諦めていた頃に担当者から電話がありました。面接をする前から既に決まったような話しぶりだったので安心もしましたが、人が居着かない仕事なのかもしれないと思いました。

連絡があった当日は、春めいた日和の天気で、夕食に母親がシチューを作ってくれたことも記憶に残っています。改めて考えるとそれが平成17年だったのだと、自分のことですが改めて確認ができました。

このあとの仕事というのは羽咋市の鋳物工場への派遣でした。バラシと呼ばれる現場での作業でしたが、出来上がって鉄板のコンベアに流れてきた鋳物の枠の不用部分を取り除く作業でした。材質によって手で直接壊すものと機械を使って壊すものがありました。

ちょっと前まで赤く灼熱状態だった鋳物なので高温のことが多々あり、手早く的確に作業をしないと手を痛めて仕事が続けられなくなるような作業でした。それまでに派遣された人も、手が火傷と血豆だらけになってやめていったということを聞いたのも、仕事を始めてかなり後のことです。

鋳物工場での仕事を始めて、半年か一年ぐらい経った頃だったと思いますが、派遣の担当者を通して正社員にならないかという話がありました。ちょうど御庁に告発などをやっていた時期だったので、先のことの見通しも経たず、その時は、生活も落ち着かない状態なので1年ほど考えせて欲しい、などと。

返事をしたように思います。ストレートに断るのも角が経つし、何時やめられるかわからないと判断されると、こちらの生活も安定しなくなるという思いがありました。その前、宇出津の電子部品工場で仕事をしていた頃も、真面目に仕事をやるだけに、経歴で仕事を転々としてきたことを不審に思われました。

仕事だけではなく私の場合、計算すると7年半ほど警察の留置場、拘置所、刑務所に入っていた期間があって、2度の逮捕による仕事の断絶もあったわけです。平成14年頃の時点でも履歴書の経歴をどのように書くかは、ずいぶんと頭を悩ませました。

もっと前のことから順番に書くと、金沢中警察署に逮捕されたのが平成11年8月12日だったと記憶しています。9月の20日頃には拘置所に移送されたと思いますが、翌年の平成12年の同じ9月の20日頃には、最高裁での上告棄却と続く即時抗告の申し立ても棄却されて判決が確定したように思います。

判決が確定してからは未決から既決の受刑者という立場になって、同じ金沢刑務所の敷地内でしたが、拘置所から別の舎のの独居房に移され、分類審査を受けて、金沢刑務所での受刑が決まり、そのあと2週間だったと思いますが、新入教育を受けて、第5工場に配役されたのが11月の初めかと思います。

第5工場ではミシンの作業をしていましたが、一般の大方の受刑者とは異なって雑居房での集団生活にはならず、工場に出る以外はずっと独居房で生活をしていました。これは夜間独居とも呼ばれていました。工場には出ないで軽作業をしながら過ごす昼夜独居というものもありましたがよほどの処遇困難と。

懲役は1年10月か1年8月のどちらかだったと思いますが、そんなことも余り考えないでいると忘れるものです。検察の求刑は2年だったとも思うので、平成4年の事件とは違って満額の判決ではなかったですが、満期での出所となり、仮釈放の話も全くありませんでした。

満期で金沢刑務所を出所したのは平成13年12月31日のことでした。満期日の翌日に釈放という決まりになっていたかと思います。私はその半月か20日ほど前まで12月21日を満期日か釈放日だと思い込んで刑務所で生活をしていました。刑務官からそのように聞いたと思い込んでいたからです。

金沢中警察署にいた頃は、母親の面会もありましたが、拘置所に移ってからは一度もなかったかもしれません。受刑中は一度もなかったと思います。出所するときも事前の連絡のようなものはほとんどなかったと思います。

本来ならば刑務所にいる間に、出所後の生活のことなど話し合って調整するようなことを耳にもしていましたが、私の場合そういうことはほとんどなく、本当にいきなり刑務所から放り出されたような感じでした。

バスにでも乗って金沢駅まで向かい電子屋に乗って宇出津に帰るつもりで、金沢刑務所の門をでたように思います。警備隊の隊長とか聞いていた、いつも険しい顔をしている若い刑務官が釈放時の立会のようになっていました。大晦日だったので本来は休日でもあったはず。

金沢刑務所の正門から出たのはその時が始めてだったと思います。平成4年の事件では平成6年3月17日に福井刑務所に移送されましたが、車で外に出るときは裁判所に向かう時と同じく、他の出入口を使っていたと思います。

そういうこともあって、正門を出て歩き始めても状況がのみこめなかったのですが、すぐに近くの駐車場に一台のワゴン車が駐車していて、人が乗っている姿が見えました。あるいはクラクションで合図を受けて気がついたのかもしれません。

ワゴン車には被告訴人大網健二が一人で運転席にいました。向かいに来ているとは全く思っていなかったのですが、それよりどうして出てくる日を知っていたのかと思いました。普通に考えて私の母親から聞いたのだとは思いますが、そのことは後にも母親には話を聞いていません。

この金沢刑務所を出た日のことについては、本書でも既に記載をしているように思うのですが、だとしてもかなり前のことになっていそうなので、はっきりとは思い出せません。念の為、おさらいを兼ねて書いておきます。

金沢刑務所を出て少し行くと、若松というような交差点があったと思います。これは裁判所に出廷に行く時にも通っていたので、印象にある交差点でした。金沢刑務所からその交差点までの時間も距離もわかりませんが、5分もかかるような距離ではないのではと思います。

若松の交差点は坂道を降ってきたところにある交差点だったと思います。その途中のゆるやかな下り坂を走行中に、現在はサッカーとかスポーツ関係の学校の理事をやっているとか、ヤクザに1億とか2億とか言う借金が出来たか、そんな関係者に取り立てをを受けるようになって困っているとか。

そんな話をしていましたが、私の方から聞き返したり、質問することはしなかったのでその会話も長続きはせず、若松の交差点に来た頃には終わっていたように思います。

どう表現すれば良いものか迷いますが、おだやかで親しみやすい態度で、媚をうって同情を誘っているようにも見えました。彼と被告訴人KYNには金沢市北安江の借家を引き払って宇出津に引っ越しをするのにずいぶんと迷惑を掛けたとも聞いていましたが、そんなことはおくびにも出さない感じでした。

被告訴人大網健二が最初に向かったのは金沢市円光寺の彼の自宅だったと思います。何か家に用事があるような行動でした。忘れ物をしたとはいっていなかったですが、今考えると、自宅から田上の金沢刑務所に向かってきた可能性が高いのに、すぐに自宅に戻ったのもどうかという感じです。

自宅の前に着くと、彼は一人で家の中に入って行きましたが、しばらくすると川のコートと防止を一つ手に持って、私に手渡そうとしました。家の前でお互いに立っている状態だったと記憶にありますが、反射的にいらないと断ると、泣きそうな顔になってもう一度渡そうとしてきたので、受け取りました。

そのあとだったと思うのですが、車で金沢市黒田の被告訴人KYNの自宅の前を通り過ぎたと思います。どこへ行くのかと聞いてはいなかったようにも思いますし、そのまま宇出津に帰るように聞いていたか、あるいは預かっていた車を見せに行くと聞いたように思います。

被告訴人KYNの家というのは、普通、車で通りぬけをするような道ではないと思います。間明の方から橋を渡ってきたのであれば、通り抜けで多少の近道をすることはあったと思います。住宅地ですが道幅も広いです。

間明の方から橋を渡ってくるということは、野田専光寺線を走ってきたということにもなりそうですが、そうではなく西金沢の駅の方から来たような気がしますが、細かいことは思い出せなくなっています。

いずれにせよ、被告訴人KYNの家の前を素通りしたことは間違いないと思います。私の方から被告訴人KYNのことを話題にしたと思いますが、会っていないと答えたか、はぐらかされたような感じで話は聞けなかったか、まあ、変わりはないというような簡単な返事だったように思います。

被告訴人KYNの家の前を素通りして少し行くと、広い道にぶつかります。その道は私も近くの東力に住んでいたのでよく使っていたのですが、左に行けば保古町、右に行けば金沢西インター近くのトラックターミナルの正面で8号線バイパスに出る道でした。

バイパスに出る手前の左側にはパチンコタイガーというパチンコ店がありました。前にそのあたりをGoogleマップで見たのですが、現在は以前の原型がないほどに変わっている様子でした。

ついでに書きますと、以前一度、被告訴人大網健二と被告訴人大網周一の3人でそのパチンコタイガーに行き、パチンコをしたということがありました。時期がはっきり思い出せないのですが、他にはない珍しい体験だったと記憶に残っています。

パチンコではなくパチスロをやったようにも記憶していますが、被告訴人大網周一はすごく慎重でギャンブルを恐れているようにも見えました。人一倍父親思いという感じでもありましたが、その父親のど外れたキャンブル癖で、小さい頃から迷惑も受けてきたのだろうとは思います。

それはまだパチンコオメガの間明店が営業していた頃でもあったように思います。黒田に入る橋の手前、野田専光寺線から入るところにオメガ間明店はありました。間明の陸橋のたもとでもあったと思いますが、野田専光寺線を挟んだ向こう側にはマカオというパチンコ店もありました。

そのパチンコマカオには被告訴人KYNのところに仕事に行っていた平成10年の頃にも、ちょこちょこと入って遊ぶことがありました。かなり古い店になっていましたが、昭和の終わりの頃のパチンコ店の雰囲気を色濃く残しているような店だったので、懐かしさもありました。

もしかするとまだ軍艦マーチの音楽が流れることもある希少なパチンコ店であったかもしれません。独自の口上でのアナウンスも流れることがあったかもしれません。「じゃんじゃんばりばり」とかいうやつです。

軍艦マーチは昭和の時代のパチンコ店の定番で、流していない店のほうが珍しかったような気もします。

パチンコオメガ間明店は、小さいパチンコ店でしたが比較的新しく見える店だったと思います。いきなり休業状態になり、改装をして新装開店をするような話も聞いたように思うのですが、そのまま再開することはなく潰れたような感じでした。当時、パチンコ店が潰れるというのは珍しいことでした。

パチンコオメガ間明店は、東力の私の住んでいたアパートからは、一番近いと思える場所にあるパチンコ店でもありました。大通りに出ることもなく行くことも出来たので、気軽に向かえたとも思います。当時の私は乗用車での信号待ちをかなり嫌って避ける傾向があったと思います。

普段、長距離運転手の仕事をしていた反動もあるのかと思いますが、東力から二口町への通勤もかなり苦痛に思っていたと記憶に残っています。若い頃というのは他にも、妙なこだわりを持っていたと思いますが、今でも割と強くそのようなことは記憶に残っています。

中央市場と東力のアパートの間には、長田オメガというパチンコ店もあったと思います。そこにも会社の帰りに寄ってパチスロをすることがありました。もっと中央市場に近いところには駅西オメガというのもありましたし、パチンコオークラもありました。

テレビのCMでも長田オメガと出ていたように思いますが、間明オメガというのは見たことも聞いたこともなかったような気がします。CMで見かけるようになった頃には、間明の店がなくなっていただけのことかもしれませんので、間明オメガにもしておきます。

その間明オメガで忘れられない思い出は、子ども二人を連れて行った時のことで、床に這いつくばって拾い集めたパチンコの玉やパチスロのコインを、真っ黒になった手で差し出してきたことがありました。服の方もところどころ真っ黒になっていました。

そこのとを書いておきたくて、ながながとパチンコ屋の話を書いたようなものです。

平成13年12月31日の話に戻します。被告訴人KYNの家の前を通って出た広い道を右に曲がると少し行った先に道幅は同じくらいの交差点があって、交差点の右の方には8番ラーメン、左側の交差点の向こう側にはコンビニがありました。サークルKだったような気がするのですが、平成10年頃の記憶。

そのあたりの住所は金沢市古府だと思います。交差点を左に行くと東京ストアの西南部店の前を通って八日市、さらには御経塚で国道8号線にぶつかる道でした。その東京ストアより手前のうどん屋で、初めに被告訴人大網健二と被告訴人KYNの3人で、仕事の話をしたことも既に書いていると思います。

交差点を右に行くと野田専光寺線の間明の陸橋を降りてきた辺りの交差点にぶつかりましたが、そのまま真っすぐいくと高畠の方に行き、玉鉾の方から来る広い道とぶつかっていました。直進すると8号バイパスの下をくぐって、金石に向かう川沿いの土手のような道につながっていました。

交差点を直進すると先ほどの説明のように、西インターのパチンコタイガーの横から8号パイパスに出ることが出来ましたが、これは一直線の道ではなかったようにも思います。一度パイパスが見える辺りまで近づいてから道路が直角に左に曲がっていたようにも思います。

交差点を越えてから突き当りの左に折れるカーブまで距離にしてどれぐらいだったか。その半分ぐらいのところだったように思うのですが、バイパスの方から来ると右手にまるでデパートにも見えるような割と大きな建物がありました。建物も新しく見えました。

交差点のコンビニの方向から向かったはずなのですが、私の記憶では、その問題の建物のコンビニの方角とは反対側にある横に入る道から、その建物の側面を通り右折してコンビニの方向に向かった場面が、記憶に残っているのです。

正面玄関がどこにあるのかもわからなかったですが、コンビニの方から来た道が優先道路で、そちらの方に正面があるように感じました。私が被告訴人大網健二の説明を受けながら主に見ていたのは、横の道に面した部分でした。見上げるような感じで見ていたと記憶に残っています。

記憶にあるのかないのかはっきり出来ないのは、その場で自分の軽四を見たのか見ていないのかということです。わざわざそこまで行ったのですから、その場に軽四が置いてあった可能性はあると思います。ただ、あったとしても路上に駐車したようなかっこうであったと思います。

建物の前は、この時も通過しただけだったようにも思いますが、停車をしていたとしても中にはいるようなことはなかったですし、建物の中に駐車場があるようなビルでもなかったはずです。

ビルは5階建て以上あったような気もしますし、一見したところビジネスホテルの建物にも思えましたが、看板のようなものは何も見当たらなかったように思います。以前、そこでその建物を見ていたという記憶もなかったのですが、普段余り通るような道でもなかったし、意識することもなかったと思います。

Googleのストリートビューに出てくる可能性は高いかと思いますが、まだ確認はしていませんでした。その辺りというのは住宅も少なく、以前はほとんどが空き地かあるいは田んぼにでもなっていたような気がします。

そのビルを被告訴人大網健二は自分の会社か学校のように話していましたが、近いうちに津幡の方に移転をするとか、津幡の方で建設中とも、あるいは言っていたかもしれません。いきなりの話でぴんとこなかったのですが、2年4ヶ月ぶりほどで社会に出てきたところだったので、感覚が鈍ってもいたと。

その後は、石川県庁にも近い8号バイパス沿いの、ヤマダ電機の大きな店舗に行って家電を見たことを憶えています。大きな画面のプラズマテレビという商品を見たのが特に印象的でした。ただ、私としては刑務所を出てそうそう家電のことは頭になく、そこでパソコンを見たことも印象には残っていません。

本来パソコンこそが私が最も関心を持つ電化の商品だったはずですが、それを見たという記憶も全く残ってはいないので、被告訴人大網健二が自分の考えてその店に連れて行ったのだと思いますが、今考えるとその場で誰かに私の姿を見せて記憶させるというのも、あるいは目的だったのかもしれません。

買い物をしたという記憶も残っていませんが、その時は久しぶりに社会に戻ってきたのでサービスとして気を利かせ、立ち寄ってくれたのかと、割と軽く考えていました。

金沢市内のどの道を走ったのかも余り記憶には残っていないのですが、大晦日ということもあってか、交通量も少なく感じていました。

その後は、粟崎の交差点の先にある回転寿司に入って食事をしました。代金を支払ってくれたのも彼だったと思います。粟崎の交差点からはどれぐらいか直進した左手にある店だったと思います。

粟崎は金沢市内だと思いますが、河北郡内灘町に隣接していて、内灘は私達能登の人間から見れば、金沢の出入口というイメージも強いのですが、内灘ではなく宇ノ気の方を通ることも多かったので、必ず通る場所でもありませんでした。

何度か書いていると思いますが、能登有料道路は昨年辺りに無料化され、名称も「のと里山海道」とかに変更になっています。2009年の3月以来、私は走行したことがないので現在はどのように変わっているのかもわからないのですが、昔からなじんできた道路でした。

バイクでは一度、志賀町の能登中核工業団地の国道側の入り口まで行ったことがありますが、スクーターだと有料道は走れませんし、バスや他人の車の同乗でも能登有料道路を走行したことはありません。

内灘から羽咋市の近くまでは左手がほぼ海岸線という道路で、その先はほとんどが山間の道路でしたが、当時の終点は穴水だったと思います。料金所は穴水の大分手前にあって、横田の料金所と呼ばれていたように思います。

料金所を過ぎてからは他に入る道もなかったですが、穴水に入ると此木という交差点があって、左が門前、輪島。右が穴水の町中、直進すると柳田村から珠洲方面になっていました。これは今も同じですが、終点は能登空港の近くまで伸びています。

山間の道を走るようになってからは、私の方から金沢刑務所でのことをいろいろと話したと記憶していますが、主に刑務官らの普通とは思えない行動や態度について話をしたと思います。映画の話もしていたかもしれません。

彼は金沢にいた頃より、よりいっそう神妙な感じになっていましたが、無口になってほとんど話しの聞き手になっていました。相当注意深いとともに万全に臨んでいるような感じだったので、何を考えているのか読めないところもあったのですが、妙に落ち着いていて、安堵しているようにも思えました。

表現の難しいところですが、その日のことは私の動向をうかがうという目的も感じさせず、終始控えめで、今考えるとまるでご機嫌取りに来たような感じでありました。

穴水の此木からはそのまま直進して山間の道を走り、柳田村の上町で、側道から降りて高架の下を右折して宇出津の町に入るという道と、此木の交差点を右折して穴水の町に入ってから国道249号線を左折して宇出津に向かう道がありました。その道だと鵜川を過ぎて宇出津に近づくと海岸線になります。

穴水からどちらの道を通ったのかも今は記憶にありませんが、まだまだ明るい時間に宇出津の私の家に着きました。帰った時、母親は不在で誰もおらず、しばらくはそこで被告訴人大網健二と話をしていたことも憶えています。何かを見せながら何かの説明をしたようにも思うのですが、これも今では。

今では記憶のはっきりしないことです。母親が戻ってくるまではかなりの時間があったようにも思います。少なくとも30分ぐらいはあったように思うのですが、母親が被告訴人大網健二と顔を合わせたのかどうかも、今の私の記憶でははっきりしません。