本書の冒頭に掲げたいくつかの詩句が本書の思想を示している。「プレリュード」が「詩」を説明するのだ。
今日ではあらゆるもの,事物においてと同様に観念において,個人においてと同様に社会において,薄明の内にある。この薄明は何から生じ,何を伴うのか?これは巨大な問いかけであり,今世紀において雑然と揺れ動くあらゆる問いかけの中で最も上流のものである。今世紀においては疑問符があらゆる事物の最後に立ちはだかる。社会は地平に見えるものが突然燃え上がり,あるいは完全に消滅することを期待している。ほかに言うことはない。
この本自体についてもまた,作者は何も言うことはない。この本をそれ以前の書物と結びつける,ことによってはほとんど目に見えない糸に注目を促して何になろう。それは常に他の心配事と同じ思想であり,他の風が立てるのと同じ波であり,他の皺が刻まれているのと同じ額であり,他の時代と同じ生である。
著者はこうしたものについてはそれほど主張しないだろう。著者が個人的なものをその作品の中に残したままにするとすれば,それが時には一般的なものの反映となっているだろうという場合においてのみである。人々が今日かなり悪い流儀で用いているため,著者はその個性 individualité が,それ以外の方法で追求されるに値するとは考えない。それゆえ,読者がその形成を待ち望むようないくらかの思想が本書で明瞭に垣間見られることはほとんどない。著者は,個性のあらゆる部分が,個別的に何らかの人間の心の確実な素材として考えられるとは全く思わない。本書にはこうした用途にあつらえ向きの事物を多く集めている。
本書においてしばしば表明されているであろうこと,これから読者がお読みになるであろう詩句をあちこちに投げかけている間,著者の主要な関心事であったこと,それは我々の生きている今世紀における,魂と社会の薄明という奇妙な事態である。すなわち,外においては霧が立ち込め,内においては不確実性が支配している。すなわち,私たちを取り巻くなんだか解らないが半ば明るいものである。したがって,本書ではためらいの混じった希望の叫びや,嘆きによって寸断された愛の歌。悲しみに満ちた穏やかさ,突然喜びだす衰弱状態,突然立ち直る失神状態,苦しみながらの平穏,外観上は詩句の表面をほとんど動かすことのない内的動乱,落ち着いて眺められている政治的動揺、広場から家庭への再改宗、あらゆるものがより暗くなってゆくのではないかという恐れ,そして時折人間性が開花しうるという楽しくもまた騒々しい信仰などが現れるだろう。本書には,あらゆる矛盾,疑念と教条が,昼と夜が,暗い片隅と明るい地点が,我々が見るすべてのものと同様に,また我々が今世紀に考えるあらゆることと同様に存在する。それはまた,我々の政治理論や宗教的信条,家庭でのありようにおいても同様であり,かつ我々の知る歴史や,我々が送る人生においても同様である。
最後に作者がここで付け加えねばならないのは,期待と変遷にゆだねられたこの時代,議論が非常に激しく際立っていて,頂点に絶対的に至っているこの時代にあって,今日ではただ二つの言葉以外にはほとんど聞かれることがない。すなわち「ウィ」か「ノン」かだ。しかし,否定する者も,肯定する者も存在しない。
ただ予期する者があるだけだ。
1835年 10月25日