帝国軍政権(通称:DH poland)
とは、ポーランド立憲公国において1918年6月21日から同年10月2日のまで短期間存在した軍事政権である。
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国旗 | |||
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領土 | |||
公用語 | ポーランド語 ドイツ語 | ||
首都 | Warszawa | ||
最大都市 | Warszawa | ||
大公 | Wilhelm II |
摂政 | 初代 | Augst Von Mackensen | ||
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2代 | Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff | |||
変遷 | マッケンゼン政権発足 | 1918年6月21日 | ||
ポーランド独立戦争 | 1918年9月13日 | |||
ルーデンドルフ失脚、消滅 | 1918年10月25日 |
マッケンゼン政権の発足
1918年6月21日、ポーランド国を武力で解体したマッケンゼンは、ドイツ人のポーランド入植を推し進めるため、ヴィルヘルム二世の働きかけを受けて摂政となった。
ピウスツキ内閣の時のような暴挙を恐れたマッケンゼンは、ポーランドにおける独立運動家を逮捕することに何よりも注力した。
独立運動を影で支えていたポーランド人資本家も財産のほぼ全てを差し押さえられ、政治家も左右問わず逮捕され、禁固刑に処された。
苛烈な同化政策も実施され、ポーランド人に対する圧力は強まっていった。
8月蜂起
マッケンゼンの悪政に憤慨したポーランド人は、またもや蜂起を画策した。8月14日、8月蜂起と呼ばれる大規模な暴動が発生したものの、翌週の21日には帝国軍によって鎮圧される。このマッケンゼンの失態は帝国にまたたく間に広まり、参謀本部の働きかけを受けた帝国政府は彼の罷免を通達した。
次期摂政にはルーデンドルフが就き、厳しい同化政策から緩い懐柔政策へと方針転換し始めた。
ピウスツキ脱獄事件とポーランド独立戦争
9月8日、市民の工作によってピウスツキがルブリンの拘置所から脱出し、ルブリン市街から祖国の独立を再び宣言する。
この衝撃はポーランド全土に広がりを見せ、組織的な武力抵抗が始まり、「ポーランド独立戦争」へと発展する。
春期攻勢の失敗で弱り果てた帝国にこの反乱を鎮圧する余力はなく、1918年10月25日にルーデンドルフは失脚。こうして帝国軍政権は消滅し、独立国家ポーランドが誕生した。