天香国色、百花の王。
それは多くの文人墨客に愛された、高嶺の花。
見事な牡丹を描いた水墨画、テレビではその作者の生涯を追うドキュメントをやっていたはずなのだけど。
「牡丹鍋、食べたいわね」
これぞ、リアル花より団子。色気より食い気。食いしん暴バンザイである。
「…何よ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「…牡丹繋がりにしちゃ、随分縁遠いなぁ、と」
「牡丹と食には切っても切れない関係があるのよ。お酒なら司牡丹、甘味なら牡丹餅…あ、お萩もいいわね」
「節操無いんだから、ホント…」
薄紅色の花びらを重ねて咲く様は、まさに王様の装飾。
彼女の言うように、牡丹の美しさや風格から、その名前を冠した食べ物は多い。
「郷土料理を出す料亭で、一度だけ食べたことがあったけれど…あの濃厚な味わいが忘れられないわ」
「牡丹鍋には及ばないけれど…今日は豚汁だからさ、それで、」
「御馳走様」
それで手を打って食べていかないか、と、尋ねる前に。
これもこれで、いつも通りの流れである。
ウチのソファーがお気に入りのようで、ゴロゴロとくつろぐ霧切さん。
適当にチャンネルを変えては、気に入る番組がないのか唸っている。
僕としてはさっきのドキュメンタリーでも見たいのだが、生憎現在リモコンの主は霧切さんだ。
どちらにせよ料理中だし、しばらくはテレビに霧切さんの相手を任せよう。
「そういえば…苗木が」
「へ?」
唐突に名前を呼び捨てられて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
驚いて振り向けば、彼女もまた驚いたようにこちらを見ていて、それから急に吹き出した。
「ふふっ…違うの、あなたのことじゃなくて…でも、そういえばあなたも『苗木』だったわね」
「…正真正銘、本物の苗木誠だけど」
「ゴメンなさい、馬鹿にしようとしたわけじゃないのよ。昨日事務所からの帰りにね…」
彼女が言うには、よく通る商店街の花屋で、牡丹の苗木を見かけたらしい。
一緒に売られていた花瓶もきれいで、思わず衝動買いしそうになったとのことだ。
「衝動買い好きだよね、霧切さん」
「自分の欲望に正直に生きるのよ、私は」
歌うように言ったその言葉を、僕は感慨深く聞いていた。
かつて、学園に共に通っていた頃。
彼女はまるで、欲望や好奇心を押し殺したように生きていた。
見ているこっちまで息苦しくて、どうにかして素直になってほしくて。
良くも悪くも、今は見る影もない。
『もともと私生活はだらしないのよ…私は』
初めて彼女の部屋を訪れた時、少しだけ恥ずかしそうに、そう言われたのを覚えている。
『あなたは私を、その…何でも出来るような堅苦しい優等生、くらいに思っているかもしれないけど』
少しくらい欠点がある方が、親近感も湧く。
そう思っていられたのは、最初の数か月だけだったなぁ…。
「最近、仕事帰りにあなたの家に寄るのが日課になってしまっているわ…」
「夕飯作る時間もないんでしょ? 事前に連絡あれば、一人分も二人分も作るのに大差ないし」
「そうやってあなたが甘やかすから、私はどんどんつけあがるのよ…」
自覚はあるようだ。
もともとだらしない、と、彼女は言った。
公私の区別をはっきりと分けているから、悟られないだけだ、と。
それなら、だらしない一面を僕に見せてくれているということは、
僕は霧切さんの『私』の中に勘定されていると、考えてもいいのだろうか。
「ま、それならこれも…一種の特権かな、なんて」
「…特権?」
「だらしない霧切さんのお世話をさせてもらえる権利。人によってはご褒美かもね」
「……」
無言の抗議と共にソファーから飛んできたゴミを軽くかわして。
ソファーの向こう、おそらく少し拗ねている顔を想像して、思わず頬が緩む。
いつも凛として佇む彼女。
決して無理をしているワケじゃないだろうけど。
その苦労や、背負ってきた信念を、僕は知っているつもりだ。
だから僕の家に来ている時くらいは、羽を伸ばしてほしい。
大根、玉葱、人参、蒟蒻、じゃが芋に油揚げ。
奮発したバラ肉を大きく切り、沸騰させて灰汁を取ったら、隠し味の酒粕も。
豊富な具材が、栄養が、温かさが。
明日からの彼女を助けるエネルギーになってくれますように。
「それで、結局買わなかったの?」
手休めついでに、『苗木』の行方を聞いてみる。
「予算は問題なかったけれど、置く場所に困りそうだし…思い留まったわ」
「ああ…それに、出張中は手入れ出来ないしね。残念」
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』。
牡丹は美人の形容の代表句でもある。
彼女の家に、苗木が飾られている光景を想像する。
白い部屋に美女一人、牡丹一輪。
なかなか絵になるな、と、ぼんやり感じ入っていると、
「…苗木君、お腹空いたわ」
唐突に、すたすたとジーンズ姿の霧切さんが台所に上がり、そのまま冷蔵庫を漁る。
「待って、今作ってるから」
「待てない。…あら、卵の燻製があるじゃない」
僕の言葉も待たずに、暴君はビールを片手に卵のパックを開ける。
うん、美女には違いないんだけど。
あの諺が示すような大和撫子からは、程遠い存在かもしれない。
「…『立てば酒持ち、座ればご飯、歩く我が家の女食客』ってところかな」
「…ちょっと。それ、誰のこと?」
耳疾く聞きつけた霧切さんの追及の視線を逃れつつ、僕は豚汁の味を見た。
牡丹鍋よりも、彼女は気に入ってくれるだろうか。