概要
- 姓
- 任(Ren)
- 名
- (Kai)
- 字
- 元褒(Yuanbao)
- 諡
- 元
- 所属勢力
- 魏→晋
- 生没年
- 不詳(但し、晋書任ガイ伝に六十一歳で没したことが記されている。)
- 出身地
- 楽安郡博昌県
- 最終経歴
- 守散卿
略歴
- 人材を見分ける目が正確で、経国の才を認められ、晋建国当初は武帝が政事について諮ることが多かった。
- ユ純、張華、向秀らと派閥を組み、賈充、荀キョクらと激しい権力抗争を繰り広げる。
- 任ガイ個人について言えば、賈充らの讒言により職を幾度か追われ、失意の余り美食に溺れることもあった。貴族の財力の側面を見ることができる。
年表
西暦 | 国 | 元号 | 出来事 |
- | 魏 | - | 明帝の娘(斉長公主)を娶る。 |
- | - | 中書侍郎→員外散騎常侍に遷る | |
264 | 咸熙元 | 七月、荀ギの元で礼儀の制定に関わる。 | |
265 | 西晋 | 泰始元 | 侍中となり、昌国県侯に封ぜられる。 |
- | - | 魏舒を推薦して散騎常侍とした。 | |
- | 泰始初 | 鄭沖、王祥、何曾、荀ギ、裴秀らが老いや病を理由に、邸宅へ戻ったが、武帝は任ガイを遣わして諸公に政見を述べさせた。 | |
- | 泰始中 | 賈充との抗争が激化する。太子少傅となる。 | |
271? | 泰始7? | 七月?秦、雍(涼?)州で反乱。中書令ユ純と謀って賈充を長安の鎮撫の詔を武帝に出させたが、荀キョクの策(太子と賈充の娘との婚姻)により、賈充は洛陽に留まることができた。 | |
- | - | 賈充らが武帝との離間を謀り、任ガイは吏部尚書、奉車都尉に任命される。 | |
272? | 泰始8? | 賈充が派遣した尚書右僕射、高陽王司馬珪の弾劾により免官となる。 | |
- | - | 山濤の推挙を受け、河南尹となるも再び免官される。その後、再び光禄勲に就く。 | |
- | - | 賈充らの弾劾により三度免官。失意の為、酒に溺れ、美食を極めること、一食一万銭とも言われる。武帝が慰めても無言であった。後に太僕→太常となる。 | |
283? | 太康4? | 守散卿となる? |
正史と演義の差異
(演義に出る機会がそもそもあるのだろうか…。)
親交のあった人物
- ユ純
- 張華
- 向秀
- 和キョウ
姓名の意味・解説
- 任:1.になう。おう。いだく。のせる。/2.にもつ。/3.あたる。事を引き受ける。はりあう。/4.たえる。つとめられる。こらえる。/5.ねじける。こびへつらう。=佞。/6.姓。//1.つとめ。やくめ。/2.まかせる。まかす。ゆだねる。/3.さずける。もちいる。役につける⇔免。/4.よる。つく。=因。/5.きまま。ほしいまま。
- ガイ[小(りっしんべん)+豈]:1.たのしむ。=楽。/2.やわらぐ。やすらぐ。=和。
- 元:1.もと。根本。本原。=本。/2.もとより。もともと。本来。/3.はじめ。物事の最初。第一。=始、端、一。/4.かしら。おさ。首長。/5.こうべ。あたま。=首、頭。/6.よい。めでたい。最善。=善。/7.おおきい。=大。/8.年号。/9.暦法上、哲学上の時間の単位の一つ。/10.貨幣の単位。/11.蒙古族が中国本土に建てた王朝の名。
- 褒:1.ゆったりとした衣服。/2.ひろい。おおきい。/3.ほめる。ほめたたえる。/4.周代の国名。
(参照:漢和辞典 小川環樹、尾崎雄二郎、都留春雄編 角川書店(平成八年十二月十日初版))
史家・後世の評価
豆知識
- 任ガイが魏舒を推挙した当時は、任ガイの方が政を補佐する器があると言われていた。しかし、最終的に魏舒は三公まで登り、任ガイは守散卿に止まったため、ひどく嘆いたという。
コメント、突っ込みなど(要署名)
- 浮き沈みの激しすぎる人。「志を得ることなく、憂いながら卒した。」という伝の記述がこれほど似合う人もいない気がします。(みなと)