概要
- 姓
- 姜(きょう)(Jiang)
- 名
- 維(い)(Wei)
- 字
- 伯約(はくやく)(Buoyue)
- 諡
- ―
- 所属勢力
- 魏→蜀
- 生没年
- 202~264(建安7~咸熙元)
- 出身地
- 天水郡冀県
- 最終経歴
- 大将軍
略歴
- 父の名はケイ。
- 諸葛亮の北伐時、蜀に投降。後に北伐の急先鋒になる。
- 蜀滅亡後、鍾会と叛乱を企て、魏の将兵に殺害される。
年表
西暦 | 国 | 年号 | 出来事 |
202 | 後漢 | 建安7 | 生誕。 |
- | 後漢~魏 | - | 郡に出仕、上計エンとなる。 |
州に召し出され従事に任命。 | |||
亡父の功により中郎の官を受け、本郡の軍事に参与。 | |||
228 | 蜀 | 建興6 | 諸葛亮、第一回北伐時に投降。 |
倉曹エン・奉義将軍となり、当陽亭侯に封じられる。 | |||
- | - | 中監軍・征西将軍に昇進。 | |
234 | 建興12 | 諸葛亮死去に伴い、成都へ帰還。 | |
右監軍・輔漢将軍として諸軍を統率。平襄侯となる。 | |||
238 | 延熙元 | 大将軍ショウエンに従い漢中に駐屯。 | |
ショウエンの大司馬への昇進後、司馬に任命されたびたび西方へ侵入。 | |||
243 | 延熙6 | 鎮西大将軍に昇進、涼州刺史を兼任。 | |
247 | 延熙10 | 衛将軍に昇進、大将軍費イと共に録尚書事となる。 | |
ビン山郡平康県の蛮族の反乱を平定。 | |||
ロウ西・南安・金城の諸郡に出陣、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らとトウ水の西で戦闘。 | |||
降伏した蛮王の治無戴らを連れて帰還、繁県に移住させる。 | |||
249 | 延熙12 | 西平に出陣したが勝利を得ず帰還。 | |
253 | 延熙16 | 春、費イ死去。 | |
夏、数万の軍勢を率い、武都→石営→董亭を経て南安を包囲。対して魏は雍州刺史陳泰が洛門に到達。兵糧が尽き撤退。 | |||
254 | 延熙17 | 督中外軍事の官位を加えられる。 | |
ロウ西に出陣。テキ道守備の任にあった県長の李簡が降伏。進攻後、襄武を包囲し魏将徐質を討ち魏軍を敗退させる。河関・テキ道・臨トウ三県の住民を拉致して帰還。 | |||
255 | 延熙18 | 車騎将軍夏侯覇らと共にテキ道に出陣、トウ水の西で魏の雍州刺史王経を敗走させる。退却した王経の立て籠もるテキ道城を包囲するも、魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めてきたので撤退し、鍾題に駐屯。 | |
256 | 延熙19 | 大将軍となる。 | |
上ケイで落ち合う予定の鎮西大将軍胡斉が来なかったため、段谷においてトウ艾に大敗する。 | |||
敗戦の責任により自ら降格を願い出、後将軍・行大将軍事となる。 | |||
257 | 延熙20 | 魏の征東大将軍諸葛誕が反乱。 | |
秦川に向かうため、数万の軍を率い、駱谷→沈嶺に到達。 | |||
長城を窺い芒水に駐屯し戦を挑むが、魏の大将軍司馬望とロウ西から駆けつけたトウ艾が渭水にそって防備を固め応戦しなかった。 | |||
258 | 景耀元 | 諸葛誕の敗北の報により、成都へ帰還。 | |
再び大将軍となる。 | |||
姜維の献策により、督漢中の胡斉が漢寿、監軍の王含が楽城、護軍のショウヒンが漢城の守護に当たる。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨延にて防御陣を築く。 | |||
262 | 景耀5 | 侯和に出陣するも、トウ艾に敗北し沓中にて駐屯する。 | |
宦官の黄皓が宮中の実権を掌握。危惧を感じ、成都へは戻らず。 | |||
263 | 景耀6 | 鍾会の侵攻計画と、それに対し張翼・廖化に陽安関・陰平橋の守りを固めさせるよう上表するも、取り上げられず。 | |
陰平にて、建威に向かう魏将諸葛緒を待ち受けるもトウ艾に撃破される。 | |||
陰平を捨て退却した姜維・廖化と漢寿に到達した張翼・董厥が合流し剣閣に立て籠もり、鍾会に対した。 | |||
陰平から景谷道を抜いたトウ艾に、後主降伏。蜀滅亡。後主の勅令を受け、姜維は鍾会に降伏する。 | |||
264 | 魏 | 咸熙元 | 鍾会は益州牧を称して反乱を起こし、姜維に先鋒を務めさせるつもりだったが憤激した魏の将兵に両名とも殺害された。姜維の妻子も処刑された。 |
正史と演義の差異
親交のあった人物
- 梁緒(功曹だった時、姜維と共に蜀へ投降。大鴻ロとなる。)
- 尹賞(主簿だった時、姜維と共に蜀へ投降。執金吾となる。)
- 梁虔(主記だった時、姜維と共に蜀へ投降。大長秋となる。)
姓名の意味・解説
- 姜:1.姓氏。斉の姜水のそばにいたので姓とした。/2.川の名。陝西省にある。岐水。/3.つよい。(=彊)/4.しょうが。
- 維:1.つなぐ。くくる。しばる。結びつける。/2.すべてくくる。つらねむすぶ。「維持」。/3.つな。おおづな。世界の四すみをつなぐ大綱。「地維」。/4.すじ。「繊維」。/5.道徳の基礎となるのり。すじみち。四維。礼・義・廉・恥。/6.ただ。(=唯)/7.これ。(=惟)
- 伯:1.おさ。かしら。/2.おじ。父の兄。/3.おっと。/4.かみ。長官。/5.五等爵(公・侯・伯・子・男)の第三番目。/6.一芸に長じるものの称。「画伯」。/7.馬の神。またはその祭。//はたがしら。諸侯の盟主。覇の借用字。
- 約:1.しめくくる。つかねる。たばねる。/2.つづまやか。つづまやかにする。おごらない。「節約」。/3.ひかえめにする。心おごりしない。/4.ちかう。ちかい。「約束」「誓約」。/5.おおむね。ほぼ。おおよそ。/6.くるしみ。なやみ。貧窮。/7.したがう。/8.わりふ。証券。/9.弱い。おとろえる。/10.(数)約分のこと。
(参照:角川漢和中辞典 編:貝塚茂樹、藤野岩友、小野忍(昭和34年4月1日初版発行))
史家・後世の評価
- 陳寿「姜維はほぼ文武両面の才を備え、功名を上げることを志したが、軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征をくり返し、明晰な判断を充分にめぐらすことができず、最後は身の破滅を招くことになった。『老子』に、「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る」と述べている。ましてせせこましい小国において、たびたび民の生活を乱すような行動を起こしてよいものだろうか。」『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)姜維伝より
- トウ芝「彼が尊敬する当代人は少なかったが、ただ姜維に対してだけは才能を高く評価していた。」『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)トウ芝伝より
豆知識
- 『新唐書』七十三巻下 表第十三下 宰相世系三下、に子孫に関する記述がある。
- 「姜姓本炎帝 生於姜水 因以為姓 其後子孫變易他姓 堯遭洪水 共工之從孫佐禹治水 為四嶽之官 以其主四嶽之祭 尊之 故稱曰「大嶽」 命為侯伯 復賜以祖姓曰姜 以紹炎帝之後 裔孫太公望封齊 為田和所滅 子孫分散 漢初 姜氏以關東大族徙關中 遂居天水 蜀大將軍平襄侯維 裔孫明 世居上ケイ」 サイト『漢籍電子文献』より
コメント、突っ込みなど
- (こんなものでしょうか…?追加などよろしくお願いします~。みなと。)
- 幼な妻疑惑あり。(みなと)
- 処刑された妻子はやはり蜀での家族ですよね。魏に残してきた妻子はそれなりに天寿を全うできたのでしょうか?(たまよ)
- 評価はどうあれ、走って走って走って燃え尽きた頑張り屋の好漢だと私は信じていますよ。(爆丸)