Cleveland

Last-modified: 2023-06-04 (日) 08:54:13

ランクIV アメリカ巡洋艦 クリーブランド

Cleveland
アメリカの普通の軽巡洋艦。セオリー通りの運用で輝く。

基本性能

RankIVMMWeight8.0
艦種巡洋艦派生元ブルックリン?
国家アメリカ派生先ファーゴ?
生存性耐久性(A)36500
(B)40500
装甲13mm-165mm
機動性最大速力32.5[kt]
前進加速値3
後退加速値6
搭載機4機


射撃管制装置船体モジュール主砲射程副砲射程射撃精度
A.BMk6 Mod.113.6km4.5km600
A.BMk6 Mod.215.7km5.0km660


主砲船体口径基数×
門数
徹甲弾最大ダメージ榴弾最大ダメージ発火率発射
速度
(rpm)
180度旋回
A152 mm/47 Mk16 Mod. C14基×
12門
3400280011.7%8.018.0秒
B152 mm/47 Mk16 Mod. C24基×
12門
3400280011.7%10.027.0秒


対空兵装近距離中距離遠距離
射程2.0km3.5km5.0km
ダメージ397763

解説

アメリカの一般的な艦艇で、他の艦への砲撃支援、味方艦への対空支援、敵艦排除、を行うといい。敵艦排除は、レートを生かして駆逐艦を重点的に排除するといい。AP弾は重巡、戦艦には有効打を与えづらいため、基本的にHE弾で良いだろう。


史実

(wikiより)
クリーブランドは1940年7月1日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1941年11月1日にH・バートン夫人によって進水、1942年6月15日に艦長エドムンド・W・バーロウ大佐の指揮下就役する。1942年10月10日にチェサピーク湾を出航し、クリーブランドは29日にバミューダ諸島沖で北アフリカ侵攻のための任務部隊に合流する。艦砲射撃等を行った後、24日にノーフォークに帰投する。
1942年12月5日に太平洋に向けて出航し、1943年1月16日にエファテ島に到着する。最初の任務は、ロバート・C・ギッフェン少将率いる第18任務部隊とともにガダルカナル島に向かう船団を1月27日から31日まで護衛することであった。クリーブランドは29日と30日のレンネル島沖海戦で日本軍による激しい攻撃に対して対空砲撃を行った。
クリーブランドはアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊、通称「メリルの襲撃隊」に加わる。ニュージョージア海峡へ向かい、クラ湾へ踏み込んでコロンバンガラ島の日本軍を攻撃する。同日未明に行われたビラ・スタンモーア夜戦では2隻の日本海軍駆逐艦、峯雲と村雨を撃沈し、往復1,400マイルの航海を終えて3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した。その後も、コロンバンガラ島をめぐる8回の戦闘に加わる。
6月30日にショートランド諸島を砲撃し、7月12日にはニュージョージア島のムンダに対する上陸の支援を行う。僚艦コロンビア (USS Columbia, CL-56) と入れ替わる形でオーストラリアのシドニーでの10日間に及ぶ短期の補修を受けた後、10月26日と27日にはトレジャリー諸島への上陸前艦砲射撃を行う。第39任務部隊は11月1日にブーゲンビル島侵攻部隊の支援のためブカ島とボニス島へ砲撃を行い、同日のうちに南に向かってショートランド諸島への攻撃を行う。その晩に起こったブーゲンビル島沖海戦に参加し、クリーブランドはその功績で海軍殊勲部隊章を受章した。クリーブランドは僚艦とともにレーダーを使用して4隻の日本海軍巡洋艦、妙高、羽黒、川内、阿賀野を目標に一時間以上の砲撃を行い、川内の撃沈に貢献した。明け方になって70機の航空攻撃を受け、一発の至近弾を受けた。クリーブランドは応戦し敵機を数機撃墜する。
3月17日から3月23日まではエミラウ島攻略支援を行い、その後補給と修理のためシドニーに向かう。4月21日にソロモン諸島に戻りマリアナ諸島侵攻作戦の準備に入る。5月20日、ブーゲンビル島に残存する日本軍陣地を目標に砲撃訓練中、予想外の反撃を受ける。大口径砲と思われる砲台から撃たれ、至近弾による大きな水柱が立ったものの艦に損害はなく、砲撃により間もなく敵砲台は沈黙した。
1944年6月8日から8月12日までマリアナ諸島侵攻作戦に参加する。クリーブランドは少なくとも一機を自ら撃墜し、数機の撃墜を支援した。
テニアン島侵攻中の7月24日にクリーブランドは駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott, DD-690) を支援する。ノーマン・スコットは敵砲台から数秒の内に6発の直撃弾を受ける。クリーブランドはノーマン・スコットと敵砲台の間に割って入り、それ以上の直撃弾を妨げた。9月12日から9月29日までクリーブランドはパラオ侵攻に参加し、10月5日にオーバーホールのためマヌス島を経由し本国に向かう。
オーバーホール後の1945年2月9日にスービック湾に到着し、2月13日、14日にはコレヒドール島へ上陸前の艦砲射撃を行う。6月7日にスービック湾を出航し、6月10日にボルネオのブルネイ湾上陸部隊を支援する。6月15日にスービック湾に帰還し、その後6月30日にマニラでダグラス・マッカーサー元帥が乗艦、マッカーサー元帥と、その部下はバリクパパン攻撃を艦上から観察した。
クリーブランドは新たな巡洋艦任務部隊、第95.2任務群を編成して7月13日に沖縄に向かい、7月16日に中城湾に到着する。部隊は沖縄を拠点として東シナ海と黄海における日本艦艇に対する掃海攻撃を8月7日まで行う。東シナ海での連合軍の制海権を確立した。
クリーブランドは9月9日に沖縄を出航し、占領支援任務および和歌山からの連合軍捕虜輸送支援を行う。10月28日から11月1日まで東京湾で停泊した後、真珠湾、サンディエゴ、パナマ運河経由で12月5日にボストンに到着、オーバーホールに入る。オーバーホール後はニューポート沖で様々な訓練を行う。その後フィラデルフィアで不活性化工事を受け1947年2月7日に退役。1959年3月1日に除籍後、1960年2月18日に売却された。
クリーブランドは第二次世界大戦の戦功で海軍殊勲部隊章に加えて13個の従軍星章を受章した。

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