三途の川
- 正式名称は【花映海峡】というのだが、地元では代々三途の川という名前で通っている
- この三途の川と呼ばれる経緯だが、もともと此岸と彼岸という明らかに間が三途の川と名づけられそうな岸の名前だったのだ
主な理由はこれなのだが、もうひとつ隠された理由が代々語り継がれている
過去の出来事
- それは遠い昔 100年程前
稗田家は前代の阿弥が閻魔の元で働き始めた頃の出来事
よって幻想郷縁起に記録が無いので阿求にその記憶もあるはずが無い空白の時
- 花映岬の此岸は現在の東風地区や潮騒地区でもかなり発展しているほうで、まだまだ帆船輸送が主流の時代であり、大きな水上交通の要所として栄ていた
現に、現在の死神港もそのときの港を改良したものである
帆船での輸送が主流であったため、平気風速がそこそこあり、風向も時間によって入れ替わるこの海峡は要所には最適であった
生鮮食品に工業品などさまざまなものが手に入る商業都市としても発達をし始めていた
- そして陸上交通も発達をはじめ、石炭の採掘も始まった頃
鉄道の普及が始まった
まだ東風地区には集落程度しかなく、潮騒地区の三咲が近くで一番大きな都市となっていた
そこで鉄道を引きつなげようという計画が持ち上がる
- 大量の資材や資金が必要であったが、交通の要所である花映岬は難なく資材を集め、貿易によって資金も豊富にあった
そう暮らしも豊かであった
三咲に資材の提供なども行い、迅速に鉄道網が発達
現在の海峡と同じルートで 旧駿河台【現:三咲東大前】~水都 までの路線が開通した
しかし、開通した路線は一番の都市がある此岸までは繋げられないという事態になっていた
実際、技術的にもこの大規模な海峡越えは当時の技術では絶望的であった
- もともと水上輸送が得意だったために船での輸送などを行っていたが、次第に輸送量が増加し、捌ききれずに積み残す事態が起きた
増発対応なども行ったが、機関化も進み貿易の船で海峡がいっぱいになっていた為、思うような輸送が出来ずにいた
- その当時、石炭の採掘技術が向上し、トンネル技術も同時に向上していた
そのトンネル技術で海峡を越える案が持ち上がりそのまま採用された
異例の事態であったが、住民からも比較的良い返事が返ってきていた
はずだったのだ
西の人の移住
- その当時、遥か西の土地からの移民人が相次ぎ、文化的に変化が起こっていた
その移民者を地元の人々は【西の人】と呼んでいた
西の人はトンネル技術や採掘技術、地質学などあらゆる部分で進んでおり、花映岬の発展に大きく貢献していた
そのため海峡トンネルも彼らの技術でなら建設することが可能であった
- そしてそのトンネルの建設案を持ち上げたのは西の人で、地元民は水上交通で栄えたこの地の衰退を恐れ、工事の成功率もわからないため反対派が多かった
さらにトンネル工事の推進を行い、強引な形で地元民を賛成にまわした
半ば強行する形でもあった
- 西の人、彼らがそこまでして繋げようとする理由があった
- 西の人は、自らの東側に要所として栄える花映岬のこの土地を手に入れ、輸送速度で優る鉄道でここまで敷く事により輸送の強化や自らの町の発展のために利用しようと考えていた
そのためには鉄道を引くことが必要不可欠であった
この頃からそれなりに吹いていた風が障害になり始め、水上交通に支障が出るようになっていた
そして建設が始まる
建設と恐怖
- 働くのは地元の人々であった
- 開通すれば豊かになると聞かされて、働いていた
建設を進めるにつれ、少しだけ開通した先の未来が明るいような気もしていた
事実水上交通の要所としては限界になり始めていた
鉄道の要所として輝けると信じて建設を進めていたのだ
だがそんなことは無かった
- 幾多の壁を乗り越え建設も大詰めに差し掛かったあるとき
「―――西の人がこの土地を乗っ取る気だ・・・」
- うわさが広がる
- 真実なのかデマなのか
- トンネルはあと数百mで合流という地点まで来ていた
- 地元民に不安が広がる
- 不安は一気に恐怖に変わった
トンネル工事の最後の発破
事件は起こる
死者・行方不明者は数万に上る
- ここ最近西の人らは地元民にきつく当たるようになっていた
見下し、奴隷にするかのように
明らかな対応の変化、待遇の悪化、身分によって人によって態度が変化していた
西の人たちが開通を急ぐあまりにそのようになっていた
それによって先程のうわさに繋がるのだ
- そう、実質乗っ取るつもりでいたのだ
「このままでは地元が危ない!」
- そう思い地元民は最後の開通式の際
自ら町中に発破用の火薬を仕掛け、自害した
地元を愛するが故の策だった
――発破
- それと同時に町が崩れ、トンネルは崩壊
すべてが更地になった
家も
店も
駅も
線路も
トンネルも
すべて
三途の川事件
- この事件が公になることはほとんどなく、それらは西の人の陰謀ではないかとも言われており、資料はほとんど残っていない
- この事件を「三途の川事件」として調査をする人もいるが、数は多くない
- このような歴史から「川を渡った先は死後の世界」【三途の川】と呼ばれている
- 利鐘や東ノ宮などは被害から免れたものの、そこに住まう住民がこの歴史を語り継いでいる
