「京都の微熱-『哲学者の都市案内』を辿る-」

Last-modified: 2007-05-30 (水) 00:43:23

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ずぶずぶの京都生活者の手によって記述された京都論。それが今、手元にある。「京都の平熱」だ。


これは哲学者・鷲田清一先生が、京都市バス206号系統を辿り、生々しい生活経験と結びつけながらつづる珠玉のエッセイであり、都市案内だ。京饂飩みたいな、粋な味のある文章だ。もう、これは饂飩だ。だから食い入るように、ちゅるんちゅるん、くちゃくちゃ、ごくんっと読破してしまう。


完読したとき、京都のアウトサイダー・大阪人である「qudlic」メンバーで、「京都の平熱」を辿ってみたいと思った。しかし、馴染みのない街を無知なメンバーだけで歩くのは、面白さに欠ける。「qudlic」的な街歩きを出来ないであろうか。


そこで、生粋の京都人ではないけれども、最近京都で生活を始められて、なおかつ都市研究を専門にされている加藤政洋先生をゲストに迎えれば、本書の内容をふまえたうえでどんな街歩きをしてくれるのだろうと関心が湧いてきた。ついつい熱くなって、微熱が出たのである。


そこで生まれた新企画、「京都の微熱」。鷲田先生は、京都でも「あっちの世界」に通じる「聖・俗・学」の世界に関することについて書かれている。つまり京都の「際」について語っておられるのだ。その中でも、今回は「俗」の世界。いわゆる、「花街」。そう、加藤先生のご専門である「花街」や「盛り場」を中心にして、当日は京都を歩いてみたい。6月1日、僕らは京都の顔を裏側から垣間見るだろう。しゃなり、しゃなり。


by MISSY




*「微熱」に備えての勉強会も行いました→勉強会Vol.2

「京都の微熱」コメント-加藤政洋先生より



京都に関する街案内は山ほどある。けれども、これといった京都論は、思いのほか少ない。まるで京都の都市論は京都人にしか書けない、と言わんばかりに、この都市にはよそ者が容易く語ることを許さない何かがある。このことをはっきりと思い知らされたのは、「この地に生まれ育った……ずぶずぶの「京都生活者」」という鷲田清一が物した一冊、『京都の平熱――哲学者の都市案内――』(講談社、2007年)であった。


副題に「都市案内」とあるように、本書で鷲田は市内を循環する市バス206号系統を利用し、読者をバス観光へと誘う(かのように思わせる)。だが実際には、のっけからルートを逸脱するばかりか、単なる「案内」からも脱線し、飲食店・施設・街・奇人をネタに、京都の都市(食・住・衣)文化論が次々に展開されていく。いかにも現象学者らしい(京都論にとどまらない)都市論が、随所に織り込まれるのは言うまでもない。


「ここに生まれ育った」、「その路線沿いにわたしの人生のすべてがあった」ことを強調する著者だけに、バスの通行する表通りからは知ることのできない「裏版206番」として案内されるのは、「平熱の京都」ということになる――生活(人生)に根ざした場所感覚と歴史地理的想像力から紡がれる歴史=物語his-story。個人誌(バイオグラフィ)空間誌(ジオグラフィ)の見事なまでの節合。けれども、案内される読者の多くにとって、「裏版206番」は己の日常性とは無縁の異他なる場所である。しかも、206号を近代京都の都市構造に重ねてみると、この路線が場末帯(都市プランナー石川栄耀の言葉)を貫通していることがわかる。近代とは言わず、それ以前からの周縁性がたっぷりと滲み込んだ「裏版206番」。そこを訪れるものは、かの哲学者のように「平熱」しか感じられないのであろうか。おそらく、そうはなるまい。著者の言う人を惹き付けてやまない「妖しさ」は、どんどん脱色(脱臭)されつつあるけれども、各所に穿たれた「孔」(これも著者のキーワードである)を垣間見れば、そこには少しは「熱(ほて)った京都」を感じることができるかもしれない。生活者としての哲学者に誘われた、よそ者にとっての「裏版206番」が、「京都の微熱」(三好一政さんの言葉)を感じる周遊にならんことを。


さしあたり、僕は、花街にくわえて田中京極、西陣京極、松原京極、壬生京極など、「キワ」をめぐることからはじめてみよう。周縁から都市を眺めるとき、そこにはどんな相貌が浮かび上がるだろうか。