第一部.定理16
神からは、必ず(だって神はそういうものなんだから)無数のものごとが、しかも無数のやり方で生まれてくる。ただし、「何でもあり」ということではなく、「無限の知性」がとらえることができるすべてのものだ。「無限の知性」によってとらえられない、つまり「絶対ありえないこと」は間違っても生まれない。
理由
この定理は、次の二つのことがわかっているひとなら一発で理解できるはずだ。
- いろんなものごとに関して「○○とは××なもののことである」みたいにそれを表すことばをびしっと決めたとすると、知性は、その決めごと(の本質)から生まれる特性を「それならこんなことが、あんなことが起きるはずだ」という具合にいくつも推理する(してしまう)力があるものだということ。
- 知性がある決めごとについてより多くの特性を推理すればするほど、その決めごとが表すものと、その決めごとの本質はそれにつれてどんどんリアルになっていくんだってこと。知性ってのはこの力を発揮する「止めらんないエンジン」みたいなもんだ。
で、何度も繰り返して恐縮だけど、神の本質には途方もなく無限な性質がつきまとう(第一部.決めごと6)。その性質にはどれもこれも、それが(後づけではなく)単にもとから無限の本質であるということが余さず表現されているわけだ。
それとさっきの話しを合わせて考えれば、(決めごとの本質=神、決めごとの特性=性質、類推するものはどっちも知性、ということで、それをすべて無限に置き換えて考えれば)数え切れないほどのものごとが続々と生み出されるということが、無限の知性からとらえることができるんだ。
おしまい。
ところで、厳密に言葉を決めてあったわけじゃないけど、みんなはこの本で使った「知性」って何のことだと思った?何か「考える人」とか「アインシュタイン」とか、何か自分には到底できそうにない難しいことを考えている人にしか縁のないもの、みたいに考えてなかった(笑)?
少なくともぼくスピノザは、「知性」というのは、広い意味で「解決する力」「結果を出す力」だと考えている。だからそれが人間のものだろうとなかろうと、結果を出すものだ。手に持った石を落せば、「石」とそれを引っ張る「地球」が必ず答(結果)を、しかも条件さえそろえれば、いつも同じ答を出してくれるでしょ?答を出してくれなかったりすることがある?だから、こうやって常に同じ解答(結果)を出してくれるものが「知性」だと考えている。もし答がときどき違っていてあたりまえなら、そもそも誰も物理学なんてやろうと思わないと思う。
逆に言えば、いくら難しいことを考えているふりをしていて、難解な言葉を操っている人でも、何一つ疑いようもない結論を出せず、自分や他人の悩みを解決することができないんだったら、それは分厚い壁をずっと押し続けているみたいなもんで意味がない(笑)。
たとえば、小難しいことを何一つ知らない、普通に生活している人でも、子供が重い病気になった時に、医者の言っていることにどことなく頼りなさを察知したら、「病院を替えるべきか先生に任せるべきか」を必死で考えて調べて回り、「この先生はダメだ」という結論が出たら、即行動に移すでしょ?これは立派な「知性」だ。だって間違った結論を出したら子供が死んでしまうかもしれないんだし、「頭が悪いから一年ほど勉強させてくれませんか」なんてのんびりできるわけもないし、他の医者に聞いても本当のことを言ってくれるかどうかもわかんない(医者が医者をかばうってことは十分ありうる)んだから。必ず正しい結論が出るとは限らないけど、必死で考えて手をつくすだけつくして、少なくとも自分なりに正しい結論を出すでしょ?これが「知性」でなくて何が知性なんだろう。
で、神はと言えば、人間が考えるように考えているわけじゃないけど(これはもう少し後で説明するから)、常に「解決するし」、常に「結果を出す」。神は何一つしゃべれない(笑)けど、黙々とこれをやる。あるいは「解決してしまう」「結果を出してしまう」と言ってもいい。神は人間と違って、できもしないことを吹聴したりしないし、しかもコンサルタントだとかソリューションだとかもっともらしいことを言ってお金をとったりもしない(笑)しね。人間のものとは似ても似つかないけど、ぼくスピノザにとってはこれが「知性」だ。