第一部.定理15のおまけ

Last-modified: 2007-07-11 (水) 00:50:42

第一部.定理15のおまけ

世の中には相変わらず頑固者がいて、が人間のような姿をしていて人間のように考えて、人間のように怒りっぽかったり呪ったり憐れんだりしてくれないとどうしても納得できないらしい。こういう人たちがどれほどしょーもない勘違いをしているかは、これだけさんざん説明したんだからもうみんなにもわかるよね。別に何を信じようと勝手だし、ぼく自身は他人の信じるものにケチをつけるつもりはないんだけど(ホントだよ)、とりあえずこういう頑固者たちはほっておくことにする。っていったいぜんたい何なのか、それを少しでもまじめに考えたことがある人なら、が人間の姿をしているなんて結論を出せっこないもん。それに、物体って(英語では肉体も物体も死体もbodyなんだよね、どういうセンスなんだろ)いうのは、高さや幅や奥行きが決まっていて(つまり有限の)一定の形をしているものなんだけど、途方もなく無限なはずのに向かって「どうして人間の姿をしていないの?」なんてことが言えるわけがないよね。途方もなく無限なが、人間みたいな(有限な)肉体を持っていたらそれこそおかしいよ。いったいそれは何なの?

それでもこういう人たちは、せっかくこっちが「無限のが有限な肉体に閉じ込められているわけがないでしょ」という理由をあげて勘違いをなおしてやっても、ああ言えばこう言うとはまさにこのことで「物体は有限で、だからこそ無限の力を持つ様とは全然かけはなれているのだ。だからこそ有限の物体は、無限の力を持つ様がお作りになったのだ!」とか言い張るんだよね。じゃあ聞くけど、あなたがたが言う無限の力を持つ様が、わざわざ有限の物体をお作りになったとして、それはどんな種類の力なの?たぶん自分がたった今言ったばかりの、このことすら筋道立って説明できないと思うよ。

ぼく自身は、とっくに第一部.定理6が正しいとすると?とか、第一部.定理8のおまけ2で言いたいことは言ったつもりだ。少なくとも、自分の判断能力にもとるような結論は出していないと思う。物質から物質が生まれたり、物質が別の物質を作り出したりしないんだってば。しかも、第一部.定理14では「以外のどんな物質もいないんだ」と、そしてその次の定理では「この世にあるどんなものごとも、の無限の性質の一つのあらわれなんだ」という、いささか大げさな結論を出して、こういう人たちにとどめはさした、はずなんだけどな。でもまあとりあえず、ぼくの意見に反対する人たちの主張をここでまとめてみるのも悪くない。この人たちの言うことは結局似たり寄ったりで、だいたいこういうことなんだ:

この人たちは、物質を拡張したもの(つまりこの世のありとあらゆる物体のことね)をあくまで「部分」として理解してしまっているんだ。だから物体といえども実は無限だということがどうしてもわからないし、物体が実は性質のあらわれなんだということもわかってもらえない。ぱっと見には物体は有限に見えてしまうから仕方ないのかもしれないけどね。このことを説明(というかこじつけだね)するために、この人たちはいろんな例をひっぱりだしてくる。その中からいくつかハガキを読んでみようか。

最初のハガキは武蔵野市のペンネーム「は死んだ」さんから。

「スピノザさんこんばんわ。いつも楽しく聞いています。でもこの間言ってたあれはどうしてもぼくは納得できません。スピノザさんが何と言おうと、ぼくはやっぱりがこの世を作ったんだと思うんです。反論させて下さい。
だって、物質の拡張(物体のことなんですよね)がもし無限だったとして、それを試しに二つに割ったとしますよね。そうしたら、分割されたその二つというのは、有限か無限かのどちらかということになりますよね。もし有限だったら、無限なはずの物質が有限な二つのものからできているってことになって、これはおかしいです。だって、有限なものを2つ合わせたって無限にはなりませんよね。逆にもし無限だったら、割ってできあがった物質は、もとの物質の無限さの1/2の無限さということになってしまいます。無限に多い少ないもないはずですから、「ある無限はこの無限の倍の無限さがあります」って何かおかしくないですか?どっちも矛盾しています。
それに、こういうのはどうですか?無限の長さの線があったとして、これを1mのものさしで計るとします。そうしたら、この無限の長さの線は1mの長さが無数に集まってできているということになりますよね。今度は同じ無限の長さの線を1cmのものさしで計ったら、この無限の長さの線は1cmの長さが無数に集まってできているとも言えるわけです。そうすると、「後の無限は最初の無限の100倍の無限さがある」ってことになってしまいますよね。おかしいでしょう?

abc2.gif

これで最後です。点が一つあって、そこから二つの線がぐんぐん伸びているとしますよね。出発点は一つなんだから、最初は伸びている線の端っこどうしの距離(BとCを結んだ線)は当然有限なわけですけど、二つの線が同じ勢いでぐんぐん伸びると、最終的には無限の距離になるわけです。そうすると、有限だったはずのBとCを結んだ線は、どこから無限に移り変わるんでしょうか。やっぱり変です。今の三つのたとえは、そもそもの出発点、つまり物体が無限だと考えるからおかしくなってしまうんであって、だから物体(つまり物質の拡張)は有限だという結論が出せます。ぼくはが無限だというのは構わないんですが、が作り出した物体は絶対有限だと思うんです。だから、物体は有限で、それ自体はの本性とはまったく別のものです。いまちゃんと証明できたんだからこれは間違いないです。」

次のハガキは、大阪市のペンネーム「泉谷しげ子」さんから。これはの完璧さということについてだね。

「先生こんばんわ。早速ですが反論します。はそれ自体で完璧なわけですから、他の何かから働きを受けるようなことはないはずですよね。だって先生も、ひとり立ちしているっておっしゃってたじゃないですか。でも、物体は明らかに他の何かから働きを受けますよね。これ、わたしの目の錯覚じゃないはずです。だからやっぱり、物体との本質は別のものだと思います。おやすみなさい。」

うん、こういう反論がいちばんよく見かけるんだ。要は、「は尊いけど、物体はいやしくてとるにたらない」「物体の本質はの本質とは違う」っていうことを証明しようとしているんだね。でも注意深く読めば気付いてもらえたと思うんだけど、このことについてはとっくに答えているんだよ。まず、この人たちは、「物質の拡張、つまり物体はいくつかの部分に分けられる」ということを無意識に仮定してしまっているんだ。でもこの仮説は、第一部.定理12第一部.定理13が正しいとすると?でぼくが完璧に打ち砕いた。

それだけじゃない。よーく考えてみれば、この矛盾(もういちいち反論はしないけど)がどうしてできたのか君たちにも絶対わかるはずだ。つまり「物体(物質の拡張)が無限である」ということがおかしいんじゃない。じゃーん、実は「無限の量を(無謀にも)『有限のものさし』で測ろうとした」ことの方が絶対絶対おかしいんだ。この矛盾した仮定の上でしか「物体は有限である」なんて矛盾した結論は出ないんだ。測定できると思い込めるから、分割できると思ってしまうのはこれはまあ仕方ないけどね。測定できないから無限なんだし、無限を測定しようとすることそれ自体がおかしいことに気付かないと、ね。まとめると、「無限の量を測ることなんてできないし、測れない以上無限の量を部分に分割することもできっこない」ってことだ。今のはなしも、別の形でとっくに節[第一部.定理12.]で証明したことなんだよ。この人たちはぼくに一発食らわせたつもりだったんだろうけど、逆に面目まるつぶれになっちゃったね。

ここでうろ覚えの初歩の数学を持ち出して別の説明に挑戦してみよう。ここに「自然数の集まり(集合)」がある。自然数なんだから、当然集まりは無限だ。
そこから1という数字をどけてしまおう。そうすると、残ったものはどうなる?無限- 1になるのかな?違うんだ、やっぱり無限になってしまうんだ。だって、無限から1をどけちゃったぐらいで無限でなくなってしまうんだったら、それははなっから無限ではなかったということになってしまうでしょ?今度は3をどけてしまおう。無限- 2になるかな?やっぱり違う。残ったものはまだ無限だ。
えーい面倒だ、今度は自然数の集まりから奇数を一つ残らずどけてしまえ。奇数の集まりは、これもやっぱり無限なんだけど、そうするとどうなる?残ったもの(つまり偶数だね)は「無限さが半分」になるかな?違うんだ。残った偶数もやっぱり無限なんだ。
ぼくスピノザは必ずしも数学で何かを極めてはいないのであまりえらそうなことは言えないんだけど、このことは順序だって考えればどうやっても動かしようがない結論になる。無限から別の無限をどけてしまって、無限をわけようとしても分けられないんだ。無限には、分けたり測ったりして有限のものに分割できないという、とても恐ろしい性質があるんだ。近代の数学者なら、もっともっと厳密に無限を定義しているはずだ。彼らは、自然数よりもっと集まり方が濃い無限の存在に気付いていて、いくらでも濃い無限の存在を説明できているようだ。ぼくスピノザがを説明するのに使った無限という言葉は、数学で説明しているの同じ「分割できない、測ることができない」という意味を持たせているんだ。そしてそのことを(ぼくなんかよりも)一番よくわかっているのは、やはり数学者だと思うんだ。

それでもまだしぶとく「いいや、物体は有限なんです!」と言い張って矛盾にしがみつくような頑固者はまだまだいるもんだ。そういう人たちは、「円をよーく調べたら、実は四角形と同じだと考えてもさしつかえないということがわかりました!」と言い張っているのと同じなんだよね。しかもその説を守るために、丸に向かって「君の半径はどれも全部同じとは限らない」って言い張っているのと変わらない。どうしてかというと、物質の拡張、つまり物体は無限でしかも分割できないもの(第一部.定理8第一部.定理5第一部.定理12でとっくに証明したよね)だとしかもう考えられないんだけど、なのにあえて「あらゆる物体は有限で、いくつかの部分から成り立っていて、好きなだけ割ったり倍にしたりすることができる」と主張しているのは、「物体が有限であってほしい」という下心がその人たちにあるからなんだ。物体が有限で分割可能なら、物体に対して何をしても許されると思ってるんだよね、ずうずうしい。

同じように、「線は点が無数に集まってできたものです」(この考え方自体はとっても面白いものだけどね)と決めておきながら、ものしり顔で「線を無限個に分割することはできない」という反論をする人たちもいる。無限個の点を集めて「線とはこういうものです」と言っておいて、同じ口で「線は無限に分割できません」て言うってのはどういう魂胆なんだろうね。「物質の拡張、つまり物体はもっと小さな物体や部分の集まりです」というこの人たちの主張は、「立体は面の集まりです」「面は線の集まりです」「線は点の集まりです」という論法とおなじぐらい(下手をするともっと)不条理だと思うんだ。だったら最初から無限なんか扱わなければいいのに。

ぼくの論理の進め方が間違っていないということが(理由も含めて)ちゃんと理解する力があるひとなら、きっと賛成してくれると思うんだ。とくに、「この世に真空なんかない」ってことに気付いているひとならなおさらわかってくれるはずだ。突然「真空なんかない」って何を言い出すんだと思うひともいるかもしれないけど、ちゃんと理由があるから聞いてほしい。もし物質の拡張(物体)が完全にばらばらに分割できるようなものだとしたら、ある日突然その一部があっと言う間に分解してなくなってしまって、しかも他の部分はもとのところにくっついたままでいるということも「あり」になってしまうんだけど、実際にはそんなことはない。それに、(もともとばらばらのはずの)物体と物体がどうしてそんなにぴったりと、真空なんかできる余地がないぐらいくっついていられるのかな?もともとばらばらの物体だったら、それがぴったりとくっついていなければならない理由はないんだし、この世が細かいちりや砂ぼこりがうっすらとただよっている以外なーんにもないというとてつもなくうすら寒い世界だっていいってことになってしまうじゃない。こんな世界では、物体と物体が完全に孤立していて、一方が消えてなくなっても、もう一方には何の影響もなくて前のまんまだ。ぼくたちの世界でこれに最も近いのは月面だ。月面には空気がないために日向と日陰で極端に温度が違ってしまい、地面のすぐ隣り合った場所が、ほとんど(でも完全にではないんだけどね)無関係と言ってもいいぐらい切り離されているんだ。でも、自然には完全な真空なんかない(これは後で説明するね)、だからあらゆる物体は真空を作り出さないように寄り集まってくるんだ。だから結局部分を区別するということはできなくなってしまうし、物質の拡張というものは、それが物質である限りは区別のしようがなくなるんだ。「じゃ物質でなくなったらどうなるの?」それはとっくに答えたよ。

何でも20世紀の物理学によれば、宇宙空間には放射線や光や電磁波が満ち溢れているし、質量(存在)はエネルギーとおなじだし、真空と思い込んでいた空間が常に「場の量子の海」で満たされている--あらゆる意味で完全な真空はありえないってことがわかってきたんだってね。ぼくみたいに論理に忠実に考え続けていれば、誰だってこのぐらいのことはわかると思うんだ。

「先生、じゃあどうしてぼくたちは分割できないはずのものごとを分割できると思い込んでしまうんでしょうか?」うん、そういう疑問が出てくる頃だと思った。それはね、ぼくたちはものごとというものを二通りの方法で考えることができてしまうからなんだ。一つ目だけど、まずたいていは、ぼくたちはものごとを見た通りに上っ面で(superfically)判断する。しかも実際には、本当に見たまんまじゃなくてその見た目を頭の中でより簡単な似顔絵みたいなものにしてから判断している。これを抽象化(abstraction)っていうんだけど。そしてもう一つは、まさに物質そのものから判断する方法だ。ものごとをその物質から判断するのにどうしても必要なのは、本当に考えて結論を出すことができる力、つまり「知性」だけなんだ。感情(気持ち)でもなければ直観(ひらめき)でもないし感覚(感じとること)でもない。

もし仮に、あらゆるものごとはぼくたちの心に映ったものに過ぎない(映画「マトリックス」の世界だね)とすると、実際ぼくらはあっさりとそれをやっているし(そう、普段からぼくたちはそれを知らないうちにやってしまっているんだ)、その方が知性を使うよりはるかに楽ちんなんだけど、その世界ではまさに何もかも有限ではかないし、簡単に分割可能だし、それを組み立てている部分を見出すこともできてしまうんだ。「マトリックス」の仮想世界でどんなことが起こったかをよーく思い出してごらん。あれは別に目新しいことでも何でもなくって、ぼくたちは普段ああいうふうにものごとを考えてしまっている、そのことを極めて巧みに見せてくれただけなんだ。

逆に今度は楽ちんでない方法、つまりあらゆるものごとを本当の知性を使って判断してみれば、ぼくが言った通りにすべては無限で分割なんかできはしないってことがわかるはずだ。考える力(知性)と心に映ったもの(イマジネイション)の違いがわかるひとだったら、もうこの説明だけで十分わかると思うんだけど。

もう一度繰り返すけど、(物質をベースに考える限りは)ものごとは宇宙のどこに行っても変わりはしないし、部分を区別する手段すらないんだ。ただし、ぼくたちがあらゆるものごとを化身だと見なした時は別だ。この化身というやつは、部分もあればそれを区別することもできてしまうんだよ。ただしそれは本当にじゃなくて、あくまで化身としてだからね。

ここで東洋の偉大な思想家ブルース・リー師父にならって、水について考えてみよう。
水を水だと思えば、この水を分けることもできるし、分けた水がそれぞれ別のものだということはぼくたちにはすぐわかる。でもこの水を物質の拡張としての物体だと見ると、この水は分けることも割ることもできはしないんだ。しかもこの水は、水だと思えば地面から涌いて出たり、蒸発して消えてしまったりするところを観察できるけど、これが物質なんだということに気付けば、この水は何もないところから涌いて出たんでもなければ消えてなくなってしまったわけでもないことがわかるはずだ。
二つの容器に分けた水の一方だけを、何も加えず何も引かずに「水じゃない何か」にすることができる?できないでしょ。条件をおなじにしていれば、二つに分けた水の片方がいつの間にか「水じゃないもの」になってたなんてことがあったりする?ないでしょ。「熱を加えたらお湯になるじゃない」とか「純水と重水に分ければいいじゃん」って挙げ足取りもあるけど(笑)、でもそれはよりいっそう議論を精密にしただけで、一歩先に進んだところでもう一回この問いかけができてしまうから意味がないんだよね。
「水に念力を加えたら植物の成長が早まった--水が水じゃないものになった!」(笑)なんてクルクルなことを言ってた人がいたけど、やれるものならやってみておくれ(爆)。

ちょっと長かったけど、これでさっきの二つ目のハガキにも答えたよ。言うまでもないけど、この反論もやっぱり、物体は分割可能で部分から成り立っているという(間違った)仮説にのっとっているんだ。たとえ百歩ゆずってこの反論にうなずいたとしても、そこからなぜ「物質って呼ぶのはちょっとね...」とか「物質じゃあにふさわしくないよ」という結論になるのかがぼくにはわからない。だって(第一部.定理14に従えば)物体に働きかけることのできるような物質以外にないんだから。物体は物質(=)から出てきた(拡張した)ものなんだから、物体に働きかけられるのはしかいないってことになるでしょ。自分で自分に働きかけるのは受身とは言わないと思うんだ。

くりかえすけど、あらゆるものは実はの中にあるし、現象として現れるものごとは実はすべての無限の本性にもとづいた法則を通じてしか現れないし、あらゆるものはの本質からもたらされるものから生まれ出る(次で説明するからね)んだ。だから、が他のどんなものよりも受身で働きを受けっぱなしだとか、物質の拡張はの本性だと呼ぶのにふさわしくないだとか、そんなことが言えるはずがない。たとえ物質が分割可能だという説にとことんしがみついたとしても、せめて物質が無限で永遠だということを考えた末に認めてくれれば、やっぱりそんなことは言えなくなってしまうだろう。今はこれだけ言っておけば十分かな。