第一部.定理21

Last-modified: 2007-07-15 (日) 15:57:28

第一部.定理21

(の性質にひそんでいる途方もない本性)からは、無数のものごとが生み出される。少なくとも、数に限りがあったりすることはない。そして「生み出される」という事実は確実に「存在している」。言い替えると、少なくとも「ものごとが無数に生み出される」というそのこと自体は、そういう性質があるんだから(事実上)「永遠」で「無限」だ。

理由

「どんなものごとも永遠で無限である」なんて言ってないからね(笑)。「ものごとが無数に生み出される」っていうその「状態」が間違いなくあって、しかもその「状態」が無数で永遠に続くって言っているだけだからね。ややこしくしてすまない。一つ一つのものごと自体については、この後ビックリするような結論が出るので、お楽しみに。

事実上なんて控え目に書いてしまったけど、今回はちょっとややこしい。これが違うと思うなら、ちょっと考えてごらんよ。もし、この性質の途方もない本性から生み出される、性質の中から、仮に有限な「何か」が生まれてくるとしたらどうだろう。ここでいう「有限」ってのは、つまり条件つきの存在っていうか期間限定のもの(バーゲンセールみたいだけど)って意味なんだけどね。

もうちょっと具体的に、には「考える(thought)」「考えてしまう」という性質があって、そうやってが考えた結果の中にかたちづくられた「思い(idea)」というやつを例にしてみよう。

「突然何を言い出すんだこの人は」と怪しまれても仕方がないし、順番が前後してしまったのは本当に悪いと思うんだけど、「思い」や「考え」についての決めごとは第二部を読んでおくれ。今はとりあえず、この「思い」も「考え」も、人間のものと似ても似つかないってことだけを頭に置いといて。

この「思い」なんてものは、いつか消えてなくなってしまうような期間限定のものだと、そしてそんな期間限定のものしか作れないようなの「考える」性質もどうせ有限に決まってる、と仮に考えてみようか。

まず確認。

  1. この「考え」ってやつは、それが間違いなく性質だと言えるんだったら、つまり「には考える性質がある」んだったら、第一部.定理11をベースに考えれば、この「考え」はどう転んでも無限大であるとしか考えられないよね。もちろん「の考え」に限るけど(笑)。
  2. 次に、ついついいつものように、が自分の性質に忠実に「考えて」、その結果ある「思い」というものを自分の中にかたちづくったとしよう。ところで、ぼくは[第一部.決めごと2]]で「考えをさえぎって邪魔をすることができるのは、(ほかの)考えだけだ」ってしっかり決めてあった。だから、そうやって「思い」をかたちづくった「考え」が、自分で自分をさえぎって邪魔するようなバカなことはできないはずだ(笑)。
  3. ということは、(どんな「考え」だろうと)ある「考え」を邪魔できるのは、ほかの「考え」なんだから、そういう考えがの中に必ずあるはずだ(第一部.定理11を読み直そう)。どんな「考え」ならさっきの「考え」を邪魔できるパワーがあるだろう?全然関係ない「考え」じゃ邪魔にもならないだろうから、さっきの「考え」に対抗できるのは、(ものすごくヘンな言い方だけど)【の中に「思い」というものをまったくかたちづくろうとしない「考え」】ってことになるよね。
  4. するとどうなるか。この二つの「考え」がの中でケンカしてしまう(笑)。勝負は勝ったり負けたりするだろうから、の中から「思い」が出てきたり、こなかったりする(笑)。の「考え」は無限大のはずなのに、こんな人間の愛憎みたいなことをやってしまったんじゃおかしい。
  5. だから最初の仮定には絶対に問題があることになるわけだ。

逆に、の無限がぼくスピノザの言っている無限じゃなくて、せいぜい「物理学で使われるような、宇宙規模の、事実上無限と考えてさしつかえない無限」みたいな仮定から出発すれば、の中に「思い」があったりなかったりすることも「あり」になるね。そうしたらこの本を書き直さなくちゃいけなくなるけど(笑)。誰かやってみないかな。

だから、から出てくるものごとは、必ず無限になる。つまり性質にしたがって「考えた」結果かたちづくられた「思い」もそうだし、「思い」以外のどんなものごとでもそうだ。ただし、性質の途方もない本性から、いやおうなしに生まれてきてしまったものに限るんだけどね。まずこれが一つ目。

で二つ目なんだけど、どの性質であろうと、その性質の本性から必ず何かのものごとが生まれてしまう、その現象自体は絶対に期間限定なはずはないんだ。

疑う人のために、ここで仮に、性質から必ず生まれてしまうものごとが、性質の中に存在していることだけわざと認めておいて、なおかつ、そのものごとがの中に存在したりしなかったりすると(ぼくスピノザ氏は意外と言葉の使い方がアバウトかも)、つまり「生まれなかったことがあったかもしれない」「将来生まれなくなってしまうかもしれない」というのがありだと仮定してみようか。

崩壊するのがわかりきっているようなこの仮定で話しを進めると、

  1. 性質である「考え」は、(第一部.定理11第一部.定理20が正しいとすると?その2に従えば)絶対に変わらないし、変わりようがないはずだ。
  2. でもって、この仮定ではの「考え」を期間限定のものにしたけど、その限定された期間の範囲の外側では、何との「考え」だけがぼけーっとあって、そこから何の「思い」も生み出さないっていう珍妙な状態になっている。

これじゃあ(まんまと狙い通りに)仮定そのものが成り立たなくなってしまうわけだ。だって、が「考えれば」必ず何らかの「思い」がの中に生まれてしまう(かたちづくられてしまう)はずなんだから。

それがどんな「思い」なのか、そんなこと知らない(笑)。きっと想像を絶するようなものだろうけど、でも少しずつ少しずつ理解していくことはできると信じている。それが科学なんだから。いつか終るとはとても思えないけど、それがわかっていてもぼくたちは「考える」ことをストップできやしないんだから。

というわけで、「考え」という性質から生まれてきた「思い」もそうだし、おんなじように性質の本性から必ず生まれてしまうようものごとなら、どんなものごとでも期間限定で生まれてくるなんてことはありえないって結論が出た。回りくどかったけど、要するに「永遠に生まれ続ける」って、ただそれだけのことなんだけどね。間違えないようにもう一回言っておくと、「生まれてきたものごとは永遠だ」なんて言っていないからね(笑)。

このことは、(の性質)の途方もない本性から必ず生まれてしまうものについてならどれにでも当てはまるんだってことを覚えといて。次の定理でそのまま使うから。