第一部.第一部.定理24が正しいとすると?
神っていうのは、ものごとが存在する主要な(しかも自由な)原因なんだけど、実は神は単なる原因じゃなくって、それが存在し続けることができる原因でもあるんだってことなんだ。あるものごとが、たまたまほかのものごとよりちょっぴり(数秒でも数千年でも)長続きしているように見えるなら、それは神のおかげ(しつこいけど、神は誰の言うことも聞かないからね)ってことになる。スコラ学派っていう同業者集団の言い方なら、神はものごとが「有り続けることの原因(causa essendi)」であるって言うだろうね。そんなふうに小難しく言われたってわかんないよねえ。
ここまで素直についてきてくれたみんなをどん底に突き落すようなことを書いたけど、まあ聞いておくれ。
つまり、ぼくたちが知っているものごとというのは、(それが存在していようといまいと)そのものごとをよーく考えてみれば、決して(永遠に)存在してくれるわけでもなければ、相当な期間持続してくれるわけでもないってことにはすぐ気付くはずだ(というよりぼくの本を読むまでは誰しもそう思うのが普通だろう)。こんな吹けば飛ぶようなしろものは、自分自身の原因になることもできないし、ほかの何かを支えられる原因にもなれっこない。
だから、第一部.定理14が正しいとすると?その1を読めばわかる通り、ものごとが存在する原因とものごとが持続する原因になれるのは、神だけなんだ。ただし神だけに「存在」が完璧にセットされていればの話しだけど(ってそうに決まってるんだけどね)。
おしまい。
そう、みんなは知らず知らずのうちにこう思ってたかもしれない。「あるものごとが存在しているのは、その本質に存在がセットされているからだ」って。ピラミッドが5000年も残っているのは、材料の石が風化に強いからだって。巨人軍が永遠に不滅なのは、長島茂雄に野球の本質がセットされているからだって(笑)。
でもそうじゃないんだ。どんなものごとも、その中に潜んでいる神がサポートしてくれるからこそ存在できるんだ。もちろん、いやいやサポートしているんじゃないよ。存在をサポートするのが神にとってあたりまえ(本性に忠実)なだけなんだけどね。でも神のおかげ(原因)には違いない。
どんなスターだって、ファンが一人もいなければスターでも何でもないでしょ?たとえ話にしてはまったく適切じゃないけど、ファンのいないスターが矛盾しているように、神のないものごとというのもやっぱり矛盾しているんだ。ついついぼくらは目に付きやすいスターのことばかり考えてしまうけど、そのスターを支えるファンを見て初めてスターのことがわかるという意味では一面の真実は突いていると思う。神は、存在を熱烈に(しかも永遠に)サポートしてくれる、ありがたいファンのようなものなんだ。
そう、ぼくたちやこの世の何もかも(=化身)がスターで、永遠のファンでありサポーターが神の方なんだよね。ちょっと意外な感じがするかもしれないけど。サポーターだけにスターの思い通りにならないし(笑)。こんなことを書くと、ぼくたちは自分のことをうっかりスーパースターだと思い込んでしまうかもしれない(爆)ので、そこだけ気をつけて。
要するに、ものごとが存在できるのは、そして持続できるのは、今地球がここにこうしてあり、そこでぼくらが生活していられるのは、めぐりめぐっていつも神のおかげなんだってこと。「わたしたちがここにこうしていられるのは神様のおかげです」と唱える宗教はもちろんたくさんあるけど、こうやって順序だって考えてこの結論に達すれば、単なるお題目じゃなくて、このことが本当に理解できると思うんだ。同じ言葉でも違って見えてこない?
勘違いしないでほしいんだけど、ぼくは宗教を小馬鹿になんかしたりしない。ただ、みんなに少しでも「まともに考える」っていうことをしてほしいだけなんだ。残念ながらぼくが生きていた時にはみごとに勘違いされて、もうちょっとで殺されるとこだったんだ。ぼくだって、(ヨーロッパの偉大な同業者はほとんどそうなんだけど)やっぱり聖書から影響を受けているんだよ。ただ、ぼくは納得したくて、とことん考えた、それだけなんだ。