第一部.定理35
あらゆるものごとがその中に必ず存在していると言えるとしたら何の中か?あるとすればそれは「神のパワーの中に」だ。
理由
たった今第一部.定理34)で証明したように、神のパワーの中にあるものは、それがどんなものでも、神の本質に何らかの形でセットされていて、その本質から生まれてしまうことはもう間違いない。となれば、神のパワーの中にあるものごとというのは必ず存在することになるし、存在すると考えるしかなくなってしまう。おしまい。
この「神のパワー」とか「神のちから」とか「神が○○する能力」みたいな言い方はこれから何回も出てくるからね。ところで、もうとっくに気付いてもらってると思うけど、神の無限のパワーって、別に超能力(笑)でも世界を滅ぼす力でも何でもないよ。単に、ぼくたちの身の回りで起きる、あらゆる物理現象を起こすパワーなんだから、言ってしまえばただの自然現象のことを、あえてそう呼んでるだけだからね。
でも、世界中どこに行こうと、望遠鏡で宇宙のどこを探ろうと、自然現象が地球の上のどこかとまったく違うことになっていたりなんかしない。びっくりするような現象があったとしても、それはぼくたちがその現象の性質のことをまだ知らなかっただけのことだ。
逆に、この世のどこを探しても、「自然現象が完全に止まってしまって、死んだようになってしまっている」ようなことは、少なくともぼくスピノザは知らないし、現在もおそらく見つかっていないだろう。「ブラックホール」?それは単に性質の問題でしょ?
だから、ぼくスピノザにとっては「どんなところでも自然現象というものが起き続けている」ってことが「神のパワーが無限だ」ってことなんだし、「神は無限に大きい」んだし、「神は永遠」なんだってこと。超能力(笑)みたいなものを期待していた人には悪いけど。
アジアの人たちにとっては、ぼくスピノザがこんなに騒ぎ立てなくたって、こんなことは当たり前のことだよね。「ものごとが、つねにあるようにある」っていう、みんなはとっくに気付いていることが言いたかっただけなんだ。ぼくのことを、「どんなものにも神が宿っている」と普通に考えられる文化の人々とひっくるめて「無神論者(神はいないと考える人々)」呼ばわりしているらしいけど、ぼくスピノザのどこが無神論者なんだろうか?これだけ神はいるってしつこく言い続けているのに。この人たちに言わせると「何にでも神が宿るなんてバカげた考えは、神がいないと言っているのとおんなじだよ」ってことらしいんだけど。それって、この人たちが期待している、人間くさい神についてぼくが説明しなかったってことだけでしょ。
まあ、主にアジアに暮らす人たちにとっては当たり前の「神は何にでも宿っている」という考えと一緒にしてもらったのは、ちょっとうれしいことだけど(笑)。あ、別にヨーロッパにそういう考えがないとは言ってないからね、念のため。