第二部.定理7のおまけ

Last-modified: 2007-07-28 (土) 09:36:10

第二部.定理7のおまけ

先に進む前に、これまで説明したことをもう一回復習してみよう。物質本質をかたちづくっている無限の知性が感じとる(知覚する)ことができるものは、結局どんなものだろうと、たった一つの物質の手のうちにあるんだ。逆に言えば、たとえ無限の知性だろうと、物質の外にあるものを感じとることはないんだけどね(だいたい物質は一つしかないんだし)。見方を変えると、「考えてしまう」物質と、「自分を拡張してしまう」、つまり化身する物質ってのは、どちらもおなじ物質なんだ。ぼくたちは、このことをある性質から理解することもあるし、まったく違う別の性質から理解することもある。

おんなじように、物質が拡張した化身と、その化身についての思いも、やっぱりおんなじものだと考えるしかなくなるし、実はたった一つのものを二通りに説明しただけのものだ。これもいいよね。これととってもよく似たことを、数人のユダヤ人(ユダヤ教を信じる人ってことで、人種じゃないからね(笑))も言っていたことがあるんだけど、どうやらぼくが言いたいこととおなじことに気付いていたみたいだね。その人たちによれば、「本体と、が表す知性と、それを使ってが理解する相手は、この三つは実は全部同じである」んだそうだ。うん、いい線いってる。が外から何か仕掛けるんじゃなくて、の中にぼくたちがいて、がぼくたちを理解するってことが、実はを理解するのとおんなじだってことに気がつかないと、なかなかこんなことは言えないよ。もしかするとぼくスピノザは、これをヒントに考え続けてこの本を書いたんだろうか(爆)。

たとえば、円という図形は、もうあたりまえのように存在している。自然にはいろいろ円(まる)いものがあって、いやでも目につくんだし。で、この円という図形についての思いなんだけど(たとえ誰が思おうと)、これも当然の中にある。そして、自然の中にある円と、の中にある円についての思いは、まったく同じものなんだ。=自然と考えてもいいよ。自然に存在している円と、の中に存在する円は、単に別々の性質を使って説明しただけのものだ。ということは、この自然(宇宙)、あるいはこの世のなにもかもを、が自分を拡張した結果できた化身性質から理解しようと、の、全然別の性質から理解しようと、どっちにもおんなじ因果関係が生じることになる。そして、そういうものごとの原因たちにもおんなじ因果関係があることになるし、そういう原因たちから生まれた結果にも、やっぱりおんなじよう因果関係が生まれる。そういうことになるわけだ。

ぼくは今、が考えるのをやめないかぎり、円という図形についての思いがそこに生まれてしまうし、が自分を拡張するのをやめないかぎり、円という図形が現にそこに生まれてしまう、というちょっと不思議に思えるようなことを言った。それって単に、円についての思いが現にそこにあるってことを感じとれる(知覚できる)のは、それが生まれた直接の(=一番近い)原因である別の化身だけだからなんだ。今度はその化身を感じられるのは、そのまた直接の原因である別の化身で...と、こんな具合に無限に繰り返すんだけど。

ところで、もし仮に、ぼくたちがものごとを見て「こいつらはどいつもこいつも【考え】が化身したものだ」と強引に考えてしまうと、この世の中の何もかもが、「考える」という性質だけでもって、その化身の本性がどういうふうに因果関係を生み出すのかを説明するしかなくなる。そしてそいつもやっぱり「原因-結果」の玉つき衝突を繰り返すんだと説明するしかなくなってしまう。他のどんな性質とも無関係に、何もかもが、いかにもくにゃくにゃと「考え」っぽくしか動いてくれなくなってしまうことになる。

今度は、ものごとを化身、つまりが自分を拡張して化身させたものだと強引に考えれば、ものごとはすべて「拡張」らしくふるまう、つまり「拡張されたものごと」という性質だけでもって、そいつの本性がどんなふうにカッチリと(とは限らないけど)因果関係を生み出すかを説明するよりほかになくなってしまう。ほかの性質についてもおんなじ要領で、とにかく「そいつらしく」因果関係が生まれてくるんだ。

というわけで、が無数の性質を備えているんだったら、今説明したようなどんなものごとについても、そいつらがそこに「単にある」ってことの本当の原因はだけなんだ、ってことが言える。だから、「なんでものごとがこんなふうに、あるがままにあるんでしょうか?」という疑問には、昔ながらに「それはね、のおかげなんだよ」と王貞治のようにハキハキと、何の後ろめたさもなく答えられるようになった。これについては、今のところぼくスピノザも(みんなの予想通り)これよりうまく説明する方法が思い付かない(笑)。うーん。