第二部.定理8が正しいとすると?

Last-modified: 2007-07-28 (土) 09:50:26

第二部.定理8が正しいとすると?

に無数の思いがあるってことを認めれば、そういう「ありえない」ことがわかりきっているようなくっだらないことについて「考えてしまう」も思いついてしまうも、ありってことになる。そうそう、この辺から「存在する」に「永遠に」はつけなくていいよ(笑)。

もちろん、の無数の性質の一つに、そいつがちゃっかり含まれているからなんだけどね。だから逆に言えば、性質にもないような、想像を絶するようなトンデモナイことは絶対思い付くことはできないってことだ。そんなことが仮に思い付けたとしても、そんなのはこの先に進む助けにはならないからほっておく(笑)。

もう少し違う言い方をすれば、のいろんな性質の中から、そいつをうまく説明する性質が見つかるんだったら、どんなくっだらないものごとでも、それは「あり」なんだ。けどそれだけじゃない。そういうくっだらないものごとが、それができたと思ったらパッと消えてしまわずに、しばらくの間だけでもそこにあり続けることができるんだったら、そのささいなものごとについての「思い」も、おなじようにしばらくそこにあり続けるってことになるよね。ややこしくてごめん。

ということは、思いってやつは、相手がいようといまいと、おんなじようにそこにありつづけることができる、ただそれだけのことが言いたかったんだ。

後でもっと詳しく説明する予定なんだけど、たとえば「どうしてこんなひどい差別的なことが言えるんだ」とか「なんて立派な考えなんでしょう」なんて言い方をするけど、立派だろうとくだらなかろうと、少なくともどっちも同じように存在できてしまう。くだらないからといって、それだけでそいつが立派なものより先に滅びるなんてことは、残念ながらない。だから「正義は勝つ」とか「愛は勝つ」(笑)っていうのは、非常にうかつな言葉で、「正義が正義だというだけで、それが勝つかどうかは全然決まらない」んだよね。ちょっぴり悲しいような気がしてしまうけど、これは認めないわけにはいかない。愛だっておんなじだ(ちょっと先走ったかな)。
古代中国に、とっても人格のすぐれた王がいた(伝説だと思うけど)。この人はとてもいい人で、誰にでも公平で、みんながこの王を慕っていた。でもこの人は、「正義は勝つ」という間違った信念を抱いていて、「自分は正義だから負けるはずがない」とばかり、隣国のずるがしこくて無礼な王が戦争を仕掛けたときに、その信念だけを根拠に迎え撃つことを決めてしまった。隣国の王は、かつてこちらの王に助けてもらったことがあるのに、それをけろっと忘れて、慎重に軍備を増強して攻め込んできた。当然、隣国の王のやっていることには筋が通っていない。将軍や部下が、「このままでは我が軍は全滅です」と何回注意しても「天が私に味方するはずだ」と聞き入れず、自分の軍隊を滅亡させてしまうところだったんだ。いよいよ全滅しそうになったとき、たまたまこっちの王が命を救ったことがある土人の大部隊がインディージョーンズのテーマにのって助けに来てくれて、逆転勝利をおさめることができたから結果オーライだったんだけど。でも残念ながらこの王の信念は「大間違い」だ。
でもたとえ話にはとっても危険な面があって、こういう話をするとすぐ「ほら、だからズルイ奴だって正しいんだ、世の中ずるがしこく生きた方の勝ちだよな」なんて、ネズミ男みたいに自分に都合よく聞き違える人が出てくるんだよねー。そうじゃないんだってば。大事なのは「よい人でも間違った信念をいだいてしまうことがある」ってことで、この王がよい人だったことは間違いないし、隣の王は恩を仇で返すような下司野郎であったことも、これまた間違いないんだ。
遠藤周作の言う通りなら(笑)イエスは、自分の言いたいことをどうやって少しでも多くの人に伝えるかを悩み抜いた末に、「たとえ話」を使うという戦略を選んだ。「戦略」なんて書くと、何か下心がありそうだったりお金がもうかりそう(笑)に見えてしまうかもしれないけど、そうじゃない。たとえ話をすることの「メリット」と「デメリット」を知りつくして、それでもあえてたとえ話として語ったんだ。その覚悟がどれほど悲壮なものだったかってわかる?悟るなんて別に大して難しいことじゃないけど(だって、みんながみんないつまでも悩み続けているとはとても思えない(笑))、それを間違いなく人に伝えようとするのが死ぬほど難しいんだよ。たとえ話は、難しいことがわかんない人にでもよくわかるし、何より覚えやすいからよく広まる。つまり、現代のうす汚い「マスメディア」とおんなじ効果があったんだ。もちろんイエスがやろうとしたことは、「一人でも多くの人の悩みを解決する」という、ある意味途方もないことをしようとしていたんだから、自分で自分に暗示をかけてしまったことにも気付かずに、ただはしゃぐだけしか能がない今どきの「マスメディア」とは大違いなんだけどね。
肝心なのは、「たとえ話」には、マスメディアと同じ、マスメディアにつきものの基本的なメリットとデメリットがあるってことなんだ。メリットはやっぱり、覚えやすい、広がりやすい、わかりやすいこと。そしてデメリットは、忘れやすい、不正確になる、簡単に意味を取り違えられるってこと。だからイエスのことを「ジーザスクライストスーパースター」って呼んだ人がいるけど、それは完全に正しい(爆)。イエスは、一人でも多くの人の悩みを解決するために、なりたくもないスーパースターになったんだ。だから悲劇もスーパースターの悲劇という形を取った。ぼくスピノザが生まれ育ったユダヤ人社会ではイエスを認めていなかったけど、ぼくはイエスがやろうとしていることの凄まじさを理解できるし(ただし新約聖書という物語に登場するイエスだけど)、ブッダや孔子やマホメットと同じように、本当に尊敬できる人だと思っているはずだ(?)。大川隆法(笑)みたいに、ブランドイメージが欲しくて有名人を引っ張り出してるんじゃないからね(爆)。あんなのは平等でも公平でもない、節操がないだけじゃん(爆爆)。
ただ、イエスや孔子やマホメットやその他の「尊敬に値する人たち」の「一人でも多くの人の悩みを解決する」ための戦略はみんな少しずつ違う。それは当然だ。どんな方法だろうと、人間がやることなんかに100%有効なものなんてありっこないもん。コンピューターシステムだろうと、都市計画だろうと、それによって60%の人を満足させることができたら、それは「大成功」だ。たとえ大成功したとしても、残りの40%のうち、20%は頭が良すぎて「もの足りなくなる」し、あとの20%は理解する力が足りなくて「ついていけない」。そういうもんだ。そして「大成功」するなんてことはめったにありゃしないんだ。だから、悩みを解決するために、いろんな人がいろんな方法を(ただしよーく考えてからね)実践した方が絶対いいに決まっている。その方が悩みが解決できる人が少しでも増えることはあっても、減ることはないってことぐらい子供でもわかるよね。ただしよく言っておくが(笑)、イエスは、ほかの「尊敬に値する人たち」とおなじく、人間だ(笑)。どう見てもじゃないってことはもうわかると思うんだけど。の子というのは間違っていない。でもそれは人間どころか、この世の中の何もかもがの子だ(を宿している)からというだけのことで、今さら繰り返すことじゃない(笑)。
ついでに言うけど、こうした「尊敬に値する人」の方法が不完全だからって、それだけの理由でこの人たちを馬鹿にしたりこきおろすのが完全に大間違いだってことはもうわかるでしょ。ちょっと頭のいい(笑)人たちがこういうことをよく言うんだけど、どうしたって不完全なんだし、どの方法にもデメリットは明らかにあるんだし、そんなことはこの人たちは百も承知なはずだ。そんなのは、木がいつか枯れるからという理由で木は石より劣ると考えるのと変わらない。
だからというわけじゃないけど、不肖ぼくスピノザも、「一人でも多くの人の悩みを解決する」ために、あえて彼らと違う方法を選んだ。それが、「一見幾何学的に見えないこともないような方法」なんだ。そのねらいが何なのかは、そのうち話すから。ただ、今は「つらいことがまた一つわかってしまった。【でも】やるんだ」ってことだけ自分の中にたたき込んでおいて。