長崎大学薬学部より参考

Last-modified: 2024-04-08 (月) 19:02:58
	第一章 近代薬学の到来期

1 江戸末期の疫病
出島

 19世紀、日本はもとよりヨーロッパでも現在の抗生物質のような優れた医薬品があったわけではなく、現在と比べて伝染病が病気の大きな割合を占めていた。特に三大慢性伝染病とされる梅毒、肺結核、ハンセン氏病(癩病)とコレラなどの急性伝染病が猛威を振るっていた。

(1) 梅毒はスピロヘータの感染により引き起こされる性病で、もともと南アメリカからスペイン人によりヨーロッパに持ち込まれ、インド東南アジアを経由して16世紀はじめに日本に広まった。1910年(明治43年)エールリッヒと秦佐八郎により化学療法薬のサルバルサンが見いだされるまで、世界中で数百万の人々の人生を蹂躙し、徳川家康の息子二人もこれを患い命を落としている。当時、梅毒の治療薬としては山帰来(サンキライ)[別名:土茯苓(ドブクリョウ)]が広く用いられた。江戸時代、多くの薬が中国から長崎に輸入されていたが、最も多く輸入されたのが山帰来である。1754年(宝暦4年)にはおよそ四百トンが輸入され、これはその年の中国船による輸入薬物の46%に当たる。この量は九十万人以上の患者一ヶ月分の用量に当たると推測されている。山帰来は当時アジアからヨーロッパに輸出されており、シーボルトが梅毒に用いたと思われる処方箋にも山帰来の記載がある。

(2) 肺結核は結核菌により引き起こされる病気で、以前は日本の死亡原因の第一位を占める不治の病であった。江戸時代の人口三千万人の八割が過労と貧困にあえいでいたことを考えると、当時の罹病者は少なくとも百万人を下らなかったろうと推測されている。日本では滋養強壮などを目的とした処方が用いられたが、ヨーロッパでも鶏卵や牛乳による食事療法、解熱薬、去痰薬などによる治療がなされただけで、日本と大差なかったようである。わが国の肺結核治療は昭和に入ってからも江戸時代とさして違いはなかったが、抗生物質ストレプトマイシンが使われるようになる昭和44年頃から患者数は激減した。しかし結核は現在も根絶されていないどころか、世界的にはむしろ増加傾向にある。日本でも最近罹患率低下傾向が鈍化し、年間約 3000人の死者が出ているほか、複数の薬に耐性をもち、治療が困難な多剤耐性結核は、現在1500~2000人が発病、年間約80人が新たに発病しているとされている。また、集団感染の発生数が3年で4倍に急増するなど、緊急的な対応が迫られている。

(3) ハンセン氏病(癩病)は古代から世界的にはびこっていた病気である。二十世紀になっていくつかの化学療法薬が見いだされ患者は激減したが、現在も推定患者数は世界に五百万人を越えるとされる(WHO 1992年)。江戸時代、治療薬として大風子(ダイフウシ)が多く用いられ、中国船により輸入されていた。輸入量から、日本に当時五十万人前後の患者がいただろうと推測されている。シーボルト事件3年後の1831年(天保2年)には長崎に約28トン輸入されているが、この薬の帳簿上の輸入量には増減があり、かなり密貿易されていたようである。

(4) チフス、コレラなどの急性伝染病が江戸時代には猛威を振るったが、世界に開かれた長崎は当然ながら疫病の侵入地でもあった。1817年(文化14年)に長崎では腸チフスが猛威を振るった。また、1822年(文政5年)には長崎に入ったコレラがたちまち大阪まで広がり、大阪での死者は日に三~四百人だったと言われる。この年はシーボルトが初めて来日した前年にあたるが、彼が二度目に来日する前年1858年(安政5年)にもコレラが長崎に上陸し、九州、大阪、京都、江戸に広がった。江戸では50日間に四万人以上が死んだと記録され、薩摩大名の島津斉彬もコレラで命を落としている。この二回目の大流行の時、長崎で西洋医学を講じていたポンペ(彼の講義は今日の長崎大学医学部のおこりとされている)は、コレラ患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたと記録されていて、19世紀初頭、ヨーロッパで植物から抽出分離された医薬品類が当時日本でも既に使われ始めていたことがうかがえる。

(5) その他の急性伝染病としては1819年(文政2年)に江戸で大流行した赤痢や、ビタミン類などの不足していた当時は大病であった麻疹(はしか)がある。天然痘は命に関わるほどの大病ではないと考えられていたが、時々大流行があり多くの人を苦しめた。シーボルトは1823年(文政6年)出島に上陸してすぐにジェンナーにより開発された牛痘法を日本の子供に実施しているが、残念ながら長い航海の間に痘苗が腐敗していたため失敗している。日本で種痘が成功するのは1849年(嘉永2年)にバタビアから長崎に届いた天然痘のかさぶたを用いたのが最初である。
このように、シーボルトが来た19世紀初め頃の日本における病気の主役は当然ながら現在のものとは大きく異なっていたが、それらの多くがヨーロッパやアジアのものと共通していたという点では、現代の癌やエイズなどと共通するものがあるかも知れない。今も昔も、洋の東西の医者は共通の病気に立ち向かっていたのである。19世紀までにオランダ人によってもたらされた西洋医学の知識は日本の多くの医者たちに多大な影響を与え、特に1774年(安永3年)に「解体新書」が刊行されてからは西洋の合理的な医学が日本に深い根を伸ばしていった。しかし当時のヨーロッパ医療でも、薬の主流は世界中から集められた薬用植物や鉱物であり、それらを用いた治療法は必ずしもすべてが東洋のものより優れていたとは言えないかも知れない。ただ、シーボルトが散瞳薬ベラドンナで日本の医者たちを驚かせたように、鎖国の日本よりレベルが高かったことは確かである。薬用植物由来のキニーネ、モルヒネ、アトロピンなどの化合物が分離されて医薬品として応用され、日本において西洋医学の優位性が不動のものとなるのは明治になってからである。

その他、以下の項目も参考に・・・・・

1.400年前のできごと(家康とリーフデ号漂着)
2.オランダ船がもたらしたもの(オランダ貿易の薬と植物)
3.長崎警護と佐賀藩の科学振興

	第一章 近代薬学の到来期

2 出島三学者(ケンペル、ツェンベリー、シーボルト)

 江戸時代、薬学と医学の間に明確な境界が無く、薬学は医学の一部としてとらえられていた。また、江戸時代以前から、外科的治療法がヨーロッパから伝えられてはいたが、当時の多くの治療が薬物によるものであり、使われていた薬物は、末期に輸入されていたキニーネなどを除き、ほとんどすべて天然の薬草(あるいはその抽出物)、動物、鉱物であった。したがって当時の薬学について論ずる際、薬草や鉱物の種類の同定などを主たる目的とする本草学が対象となる。江戸時代は、蘭学者自身、漢方医学を知っていなければ蘭学塾に入門できなかった時代だけに、一般の薬学書にみえる内容は漢方薬に対する理解をそのまま踏襲したものであった。鎖国であったために、ヨーロッパの書籍中にある薬草あるいはその代用となるものがはたして日本にもあるのか、どのようにして使うのかということは当時の日本の本草学者にとって最も重要なことで、多くの本草学者が出島商館医などからその情報を得ようと躍起になっていて、その勉学意欲は商館医を驚かせるほどであった。そのようなことからシーボルトが来日したころの日本の本草学(薬草などの植物学・薬物学・博物学)は、当時のヨーロッパの植物学を十分理解できるまでに発展しており、日本の植物学者の優秀さについては後にシーボルトの手紙にも記載されている。実際、シーボルトが日本に来て最初の論文が「日本における本草学の状態について」であり、他でもことあるごとに日本の植物学の水準の高さを指摘している。シーボルトが日本で多大な業績を残せた一つの要因は、他の商館医にくらべて滞在期間が長かったことに加え、当時の本草学のレベルの高さも挙げられると思われる。以下、出島三学者として名高いケンペル、ツェンベリー、シーボルトと薬草との関わりを概説する。

1789年頃の小島郷薬園
1789年頃の小島郷薬園
土仲、楓、梔子、艾、唐竹、肉桂、人参、淫羊カク、
天門冬、川キュウ、使君子などの文字が見える。
長崎県教育委員会「長崎とオランダ」より

 長崎には教会に附属した南蛮医学時代の薬草園があったが、鎖国後はしだいに漢方薬草園になっていた。1690年に来日したケンペルは、出島に薬草園を作っている。彼は出島の3学者の一人で、日本の植物について調査し、後のツェンベリーやシーボルトに影響を与えるが、リンネにより植物命名法が確立される以前の研究であるため、彼の業績は他の二人に比べ目立たない。彼の遺稿から編まれた「日本誌」はヨーロッパで多大の反響を呼んだと言う。彼は日本の灸をヨーロッパに紹介したことでも知られる。

 1775年に来日したツェンベリーは、わずか1年しか日本に滞在しなかったにもかかわらず、長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本を採取し、帰国後「日本植物誌」を著わした。それには21種の新種が収載されている。トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物の分類も彼の功績によるものが多い。ツェンベリーの影響を受けた医師のうち、著名なオランダ通詞でもあった吉雄耕牛は洋薬を主体に用いていたが、彼は薬局方の原著(1618年ロンドン薬局方、アムステルダム薬局方か)を持っていたと推定されている。長崎のオランダ通詞たちは、単なる通訳として西洋の最新情報を幕府に伝えていたのではなく、医師や教育者として極めて重要な役割を果たしたのであり、当時の長崎における西洋文化流入の過程で最も貢献した人物たちとして認識されるべきである。
C.P.ツェンベリー
C.P.ツェンベリー
「出島」より

安政頃の出島 安政頃の出島
安政頃の出島。植物園の場所は入り口の左側。

「E.ケンペル、C.P.ツェンベリーよ、見られよ!君たちの植物がここに来る年毎に緑そい、咲き出でて、そが植えたる主を忍びては、めでたき花の鬘をなしつつあるを!V.シーボルト」(呉秀三博士訳による)

 後にシーボルトは、ケンペルとツェンベリーの功績をたたえ出島植物園の中央に記念碑を立てており(上図)、それは出島跡地に現存する。その植物園は、1823-1824年にかけてシーボルトにより再建されたもので出島の1/4近くを占めるものであった。シーボルトの書簡(1825年)によると出島の植物園には、日本の1、000種以上の植物が移植されている。植えられていた植物については約370種のリストが残されている(下図)。その中にはケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載されている。

1789年頃の小島郷薬園
Siebold「Botanices Fasc. no. 3. Plantarum Japonicum nomina indigena」
にある出島栽培植物リストの冒頭部分
東洋文庫、長崎県立図書館蔵

 この植物園はヨーロッパに生きた植物を送り出すために、また、質の高い標本を作成するために設けられたもので、ハマナスのような北の方にしかない植物の立派な標本がライデン大学に残っているのは、おそらく種子から出島で栽培したものではないかと推測されている。彼の関心は純粋学問としての植物学としてよりも、実用的なものに関心があったようで、当然多くの薬草も植栽されていた。彼はヨーロッパに東洋の生薬を導入することも考えていたと言われ、実際シーボルトは1825年には茶の木をジャワに移植することに成功した。1830年に帰国する時には500種800株の植物を積み込んだが、オランダに届いたときには大半が駄目になっており、ヨーロッパに移植が成功したもので1844年に生き残っていたのは204品種であった。シーボルト自身が導入したものはその内129種とされている。シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなどが見られる。
 さらに、塚原らの調査によると、オランダ、ライデンのNtional Museum of Ethnologyにはシーボルト収集の生薬類標本152種が保存されている。それは植物性和漢薬53種、動物性33種、鉱物性16種、調合薬5種、食品5種、茶(製品)31種、および同定できないもの9種からなるもので、使君子、香附子、射干、五倍子、紫草、蒲黄、常山、細辛、昆布、マクリ、ハンミャウ、反鼻、亀板、ボウシャウ、鐵粉等がある(表記はラベルの通り)。

 シーボルトは、長崎の鳴滝に別荘を作ることを許可された際、最初から薬草園を附設する計画で設計しており、鳴滝塾が完成すると同時に、小高い台地の方に多数の薬草類と観賞用樹木を栽培し、家の周囲には、塾生が各地から蒐集した植物を植えた。彼は自ら薬草を処理して製薬し,門人たちにも指導したとされている。ただ、彼が鳴瀧に来るのは週に一度であり、ここでの植物とのふれあいはそう多くはなかったようである。
 シーボルトは江戸参府(大体3カ月位を要したようである)の際に、多くの植物についての質問を受けている。ツェンベリーとともに日本の植物学に偉大な足跡を残したシーボルトであるが、こんな逸話も残されている。大槻玄沢はカナダ人参(広東人参)について質問したところ、シーボルトとビュールヘルはただ「Panax」としか答えてくれなかったとされている。軽くあしらわれた玄沢は、その書「広参発蒙」にその時のことを述べているが、シーボルトの名は出さず、「医官某」とだけ書いている。また、尾張の本草学者・水谷豊文は毒草ハシリドコロについて質問し、シーボルトは「これはベラドンナだ」と答えている。後に江戸で、治療技術においてシーボルトを驚かすほどの眼科医・土生玄碩が、葵の紋服と交換にベラドンナを受け取った際、この植物は日本にもあると言って、江戸に来る途中で尾張の本草学者がこの植物の名前を聞いてきたことを教える。土生玄碩は喜んで尾張からその植物を取り寄せ確かに効果があることを確認する。これがハシリドコロがベラドンナに代用された最初だと言われている。このときシーボルトに贈った葵の紋服がもとで土生玄碩は後に厳罰に処せられることとなる(シーボルト事件)。
 ライデン大学にはハシリドコロの標本があるが、それはビュールガー(シーボルトの助手として日本に来日した最初の薬剤師。シーボルトの後任となる)によるものでシーボルトのものではない。しかもそのラベルにはAtropa belladonna ???(ベラドンナ???)と記載されている。一方、1828年に出島で栽培されていた植物リストにはハシリドコロがあるが、このリストは、ハシリドコロを含めてほとんどがカタカナ表記でラテン名は記載されていない(シーボルトはカタカナや一部の漢字は書くことが出来た。リストの一部は門人の伊東圭介による)。シーボルトは頭からハシリドコロをベラドンナと決めつけていたのかも知れない。このような逸話は、シーボルトは本来医者であり、ツェンベリーのような純然たる植物学者ではなかったことによるものである。 
 シーボルト来日の本来の目的は、当時のオランダにとって、最も重要な貿易相手国である日本の文化や動植物などに関する情報を集めることであった。彼は、彼のもとに集まる優秀な人材に情報提供する一方でそれぞれにテーマを与え、それについてオランダ語でレポートを書かせることを一つの情報収集の手段としていた。彼が結果的に残した功績を考慮すると、これは理想的なGive and Takeであったように思える。

その他、以下の資料も参考にされたい。

1.出島に栽培されていた植物(詳細)
2.シーボルトが来日時に持って来た薬
3.シーボルトの治療薬「十八道薬剤」
4.シーボルトの点眼薬
5.シーボルトによる日本民間薬の調査
6.シーボルト処方箋の再現

	第一章 近代薬学の到来期

3 日本最初の近代的薬剤師:ビュルガー

1789年頃の小島郷薬園
シーボルト・プロジェクトの最も重要な協力者

	 ビュルガーの生い立ち

 シーボルトと異なり、ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger: 1806-1858)の背景には不明な点が多かった。生年が1806年であることがいくつかの研究から 明らかにされたのもつい最近のことである。  彼はドイツ・ハーメルンのユダヤ人家庭の7番目の子供として生まれ、ごく短期間ゲッチンゲン大学で数学と天文学を学んでいる。1821年に数学、1822年には天文学のエンロールメントが確認されている。その後彼は、アムステルダムから蘭領東インドのジャワへ渡り、1823年にはバタヴィア近郊ウェルテフレーデの軍の病院の見習い薬剤師となっている。
 ビュルガーの学歴については、その他にも不明な点が多いのだが、この時に薬学に関する徒弟的な教育を受けたものと考えられる。これはヨーロッパでの正規の制度的な医学・薬学教育による資格と言いうるものではないと考えられる。
 このことを考えるのに、近年注目を集めている、植民地における科学的活動につい ての歴史研究を参照する必要があるだろう。いわゆる植民地的な環境では有能な即戦力の養成が望まれていた。有能なユダヤ人青年がこの期間に薬学を実地で学んだとしても、何の不思議もないだろう。1825年に、彼は3等薬剤師に昇進しているという記録が残っている。 彼が昇進したこの1825年に、シーボルトが要請した助手の一人として、ビュルガーは画家フィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve: 1800-1874) とともに日本へ赴いている。ビュルガーは出島のオランダ商館付き医師フォン・シーボルトの下での「薬剤師」として来日した。

	 日本最初の医薬分業

 「日本最初の近代的な医師」をとりあえずシーボルトとするならば、さしずめビュルガーは「日本最初の近代的薬剤師」となるだろう。また、ビュルガーの日本への到来は、日本での「医薬分業」の最初の例として考えられる。従来から多くの医師が出島を訪れているが、「専門的」で「職業的」な「薬剤師」をともなったのは、シーボルトまでは皆無である。いうまでもなく、ビュルガーは、最初の薬剤師であり、近代的医薬分業の観点から見て画期的であったと言える。
シーボルト使用の薬籠
シーボルト使用の薬籠
長崎県立美術館蔵 それまでの日本の医療は医学と薬学がほぼ完全に融合し、伝承的手法と経験的により医師が自ら薬を調合していた。安土桃山時代にポルトガルとの交易から伝わった南蛮医学もまた「前近代」医学に範疇できるといえる。なぜなら、外科については、南蛮医学の先進性は認められるが、内科的な医学および薬学について南蛮医学のなかで紹介されたのは、ヨーロッパでの錬金術的な製薬学の段階であると考えられるからである。 シーボルトやビュルガーの時代になり、ヨーロッパにおいて科学と医療との発展が見られ、とりわけ薬剤師制度・薬局方が普及した。この近代的医療が二人によってもたらされたと言える。
 出島での医療に、いわゆる『バタビア局方』と呼ばれる、蘭領東インドの都市局方書が使用されていた。当時、蘭領東インド、バタヴィア(もしくはバタビア:現在のジャカルタ)にはVOCのマークで示される東インド会社が置かれオランダの極東へ重要な拠点であった。蘭領東インドは、オランダとは気候・風土ともに全く異なる南方であり、また風土病の地とされていたことから、オランダ人が東インドでは熱帯病に冒されるケースが後を断たなかった。19世紀になっても、オランダを出国した商人・船員のうち、2割程度が健康のうちに帰還できなかったというデーターもある。オランダの東インド進出に際して、熱帯医療の研究は不可欠のことであった。そのために、オランダ人による、熱帯医療の研究は、非常に進んでいた。

	 シーボルトの最も重要な協力者

 ビュルガーについては、フォン・シーボルトの助手ということ以外には、従来あまり知られてきていない。そもそも「薬剤師」という資格でシーボルトの下に派遣された彼の業績については、シーボルトの影に隠れていた。 シーボルトおよびビュルガーの収集による日本産生薬とそれに関連するコレクションの調査、日本産岩石・鉱物、および関連する化石・有用金属の精練過程の中間生成物などのコレクションに関する調査:日本での気象観測記録の調査。などにより、シーボルトの有能な研究協力者としてのビュルガーの実像が徐々に明らかになりつつある。
 その後の彼の活躍ぶりは、まさにシーボルトの右腕と呼べるものである。彼がシーボルトに付き従い、その調査・研究活動をよく助けた様子は、1826年の江戸参府の日記などに散見される。 薬剤師しての彼の本分はそもそも医療用の薬品の製造・管理などにあった。その面でシーボルトを補佐したことはいうまでもない。日本産の薬品などの収集についても彼の貢献が認められる。岩石・鉱物についてのコレクションについては、前述したが、ライデンに残る多くのコレクションから、ビュルガーの貢献ぶりが判る。薬物のコレクションの中にも無機鉱物など、薬品として使われるものが含まれているが、このコレクショは体系的な地質調査の一環であると考えられ、総合的な日本の自然誌研究の一部をなすものであるという位置づけができる。

	 シーボルト帰国後も継続して調査

 これらがシーボルトによる日本の博物学的研究の重要な一環をなしていたことはいうまでもない。シーボルトが出島を追放された後も残り、博物学の標本を送り続けたのもこのビュルガーである。
鉱物の研究のなかでも特に有用鉱物、なかでも銅の鉱石については、日本からの重要な輸出産品であったということからも、多くのコレクションをしている。でもある。
 日本におけるシーボルトの博物学研究のなかで、ビュルガーが鉱物学・地質学的な調査・収集活動の多くの部分を担っていた。ライデン国立地質学・鉱物学博物館(現在は自然誌博物館の地質学・鉱物学部門)には、シーボルト・コレクションの一環として、かなり系統だった、数多くの日本産の鉱物標本が保存されている。これは、西欧近代地質学的な観点から見る、日本初の本格的な地質・鉱物のコレクションとも言えるものであり、貴重なものである。このコレクションの収集・整理に実際に現地であたっていたのが、主にビュルガーであった。
 また日本に残っている例として、シーボルトの江戸滞在中は、旗本の博物学者設楽芝陽からの依頼でシーボルトとともにいわゆる「本草」の鑑定をおこない、化石を含む鉱物については彼が解答を与えている。このときの記録は「シーボルトの草木鑑定書、附ヒルヘル薬石解答」(ヒルヘルはビュルガーのこと)として知られている。さらにドイツ・ボッフムのルール大学に移管されたシーボルトに関する文書の中にある未刊の「日本地質鉱物誌」の草稿はビュルガーによって記載されたものである。このように、シーボルトの自然誌研究プロジェクトのなかで、ビュルガーの地質学・鉱物学への貢献が高い。
 鉱物、特に有用鉱物としての銅の精練に関する調査・研究については、シーボルトとともに、江戸参府の帰途、大阪鰻谷の住友の精銅所を訪れたあと、ビュルガーは個人名で、バタヴィア学芸協会雑誌に日本での銅の製造についての論文を送っている。

ビユルガーによる鉱物のメモ、
日向(上)や島原(右)の地名が見られる。

  • 棹銅のコレクションと住友へ寄ったときの記録-
	 九州各地の温泉水の化学分析

 九州各地、とりわけ長崎周辺の温泉水の科学分析は、シーボルトの『日本』のなかでも散見されるが、このオリジナルの手稿はビュルガーによるものである。ビュルガーによる温泉水の分析は、試薬を順次加える方法で温泉水に含まれる各々の化学物質を特定してゆくものであり、近代的な化学分析法が見て取れるものである。
ビュルガーによる雲仙温泉の分析 薬学に動機づけられて、基礎科学、特に化学が日本に導入されてきたということは、ビュルガーの事例をみてもわかる。シーボルトが鳴滝塾での医学教育のなかで化学的観点を導入したこと、そして高野長英などが化学に特に深い興味を示したことは知られている。しかしシーボルトが行った化学的活動は、ビュルガーの手によるものが多い。長崎では高野長英、江戸参府のおりの宇田川榕菴との交流などが知られている。  薬学から発展して、ビュルガーの貢献はさらに2つの領域で特に認められる。一つは鉱物学・地質学の領域、もう一つは化学に関する領域である。科学史的にみるならば、前者はいわゆる万有学的な博物学が、植物学・動物学そして鉱物学と専門として行く方向をあらわし、後者はその対象とするもの自身をより精密に、すなわち化学的に分析して行く方向性をあらわしているといえる。
 分類学的な発展もここでは見られることに注意すべきである。シーボルトとビュルガーによる日本産岩石鉱物のコレクションについて、ビュルガーは分類・整理を行っており、これらを研究した痕跡が見られるが、それらのノート・ラベルの類から、ビュルガーの採用した鉱物の命名法は、リンネ式の二名法の発展したものであることが指摘できる。下の写真にあるように、2名法の上に記されたドイツ語のものは、ドイツ流の鉱物学者ウェルナーの分類によるもの、いわゆるウェネリアン的鉱物学にのっとったものであり、下に記されたフランス語でのものは、フランスの結晶学者、ルネ・アユイによる命名法によるものである。この時代にはまだ分子レベル・原子レベルという発想、および定量的な物質の構成要素の発想はなく、「元素(エレメント:element)」レベルでの定性的な分析による、質的(Qualitative)な、実験的分類である。
  彼らの科学の世界的な拡大に果たした役割、さらに日本での科学の展開に彼が果たした役割はシーボルト同様に大きい。したがって、単にビユルガーを「シーボルトの薬剤師」もしくは「助手」としてだけとらえるのはフェアではないだろう。彼のことを「日本で薬学の可能性を展開したシーボルトの研究協力者」とでも呼べば少しは公正かもしれない。近年の科学史では、研究の総体をプロジェクトとして見て行くこと、その上で全体として評価して行くことが提唱されている。その意味でシーボルトは、オリジナルな自然科学研究者というよりも有能なプロジェクト・マネージャーとしてより高く評価されるかもしれない。そしてビュルガーは、シーボルト・プロジェクトの最も重要なスタッフとして見直されるのだろう。
商人としての後半生
 このように活躍したビュルガーであったが、シーボルトとの関係は、必ずしもよかったとは限らなかったことがさまざまに指摘されている。事の経緯は若干複雑ではあるが、シーボルトがビュルガーの業績を一人占めしたようなかたちとなったことによるのであろう。
 蘭領東インドに帰還してから、いくつかの科学的プロジェクトに関わっていることが知られており、ビュルガーによるパダン高地の探検レポートは、バタビア学芸協会雑誌に掲載されている。しかし、ビュルガーが参加した探検プロジェクトのP.W. コルトハルス 探検隊長の報告によると、蘭領東インドの科学者とはうまくいかなかったようである。
 ビユルガーは科学者としてのキャリアを断念し商人として成功する。東南アジア貿易での海上保険の先駈けをなす会社を運営するまでになる。この時、日本で作った資本を元にして、この事業を起こしたものと考えられる。家族を蘭領東インドに呼び寄せる。蘭領東インドでは、名家をなすにいたる。現在でも、その家系は継続している。
 エピソードは散在している。『鼓銅図録』を広東へもたらし、イギリス人と日本の銅の生産・精練について議論したとある。また、イギリスのミッショナリーの報告に、このことが、ビュルガーの名前入りで論じられている。また、1840年-43年に、ヨーロッパに一旦帰還してたビュルガーが詩人のハインリッヒ・ハイネと出会っており、ハイネを喜ばすような会話を交わしたということ、それをハイネの筆により1854に書かれ シーボルトの名前も言及されている。
 薬剤師ビュルガーがシーボルトの日本研究の中で動物学や植物学ではなく、鉱物学を担当し、化学的分析法でおこなったことは、その後の日本の薬学の方向を考える上で非常に興味深い。後述するように化学者ハラタマが長崎養生所や舎密局で教鞭をとり、明治に入り東京医学校に製薬学科が最初に作られ、戦前戦後を通じ日本の薬学教育が化学を主に置かれてきたが、その原点と見ることができる。一方で、医薬分業がもたらされながら、現在に至るも十分に根づいていないことは残念なことである。

 なお、ビユルガーの功績を讚えてライデン自然史博物館のデ・ハーンはキリギリスの学名にbuergeri(ラテン語でビユルガーの意味)をつけています。