まやちさ

Last-modified: 2024-07-27 (土) 01:27:00

 暦の上でも,射し込む陽の色からしても春が来ているとは言え,まだ少し肌寒い季節。
 僅かばかり震えた指先に差し出された温かい紅茶をひと口こくりと飲み込んで,美味しいわねと零せば,ほっとしたように目の前の肩は少し下げられた。ふにゃりと硝子の奥で目尻も下がるのを見て、自分の胸が高鳴ったことは認めざるを得ない。この柔らかく細められた萌黄色の瞳にいっとう弱い自覚はある。
 気付かれない程度に小さく深呼吸をするものの,吸い込んだ空気の全てに彼女を感じてしまうのだからむしろ逆効果だったかもしれない。
 ふたりきり,初めてお呼ばれした彼女の部屋。
 飲み物を淹れてきます,と一度部屋から出て行った間に不躾だとは思いながらもぐるりと見回りしてみる。普段ならじろじろ見るなんてと窘める側だけれど、今日はその相手も居ないし,私だって恋人の部屋に興味が無い訳じゃない。
 穏やかな緑と木の色で揃えられたインテリア。シンバルやスティック,アンプに工具。コンポとその隣に並べられたCD,壁に立てかけられているのは古いレコードだろうか。彼女らしい要素に溢れるこの部屋は、彼女に対して深く踏み込んだという緊張感はあるものの、なんとなく落ち着く空間だと思う。
 なるほど,これはみんなが素敵な部屋だったと褒めていたのも頷ける,なんて最後に招かれたことに文句があるわけでは別にないけれど。
「改めまして……千聖さん,お誕生日おめでとうございます」
 私をソファに座らせて,自分はベッドにもたれる位置で座っていた彼女はいつの間に背中に隠していたのか、ごそごそとプレゼントを取り出して差し出してくれた。当日はメンバーみんなで過ごすことが決まっていたから,少し過ぎてしまうけれどオフが重なった今日の日は予め予約しておきたいと真剣な表情で言われたのは一ヶ月ほど前のことだった。
「ふふっ,ありがとう麻弥ちゃん。これはすぐに開けた方がいいものよね,きっと?」
「はい! ぜひぜひっ,今開けてくださいな!」
 きっとお店で受け取ったそのままではなく、わざわざ別で袋を買って包みなおしてくれたであろう、綺麗な包装を解いていく。手に持った形、感触、重み、それから必ず持参して欲しいと言われたものを繋ぎ合わせれば、なんとなく中身の予想はつくけれど、と心の中でくすりと微笑んだ。指先で掴んで取り出せば、正方形のそれは思っていた通りの物で,だけれど見たことの無いパッケージ。
「これは……初めて見る弦だわ」
「せっかくの誕生日プレゼントってことで、ちょっといいヤツを選んでみたんです,フヘヘ!」
 江戸川楽器店でも見掛けないそれは、確かに外包装からして高級感のあるデザインで機材に拘りのある麻弥らしいプレゼントだと、今度はきちんと唇に笑みを乗せた。
「嬉しいわ,丁度そろそろ張り替えたいと思っていたの」
「ですよね! あと,もう一つお願いがあるんですけど……」
 改まるように突然正座し、緊張の面持ちで言葉を詰まらせるから取り急ぎこちらも背筋を正してみる。話の流れ的にも、本当に切羽詰まっている様子では無いところからみても、きっとお悩み相談とかそういった訳ではないのだろうけど。
「その……ジブンにこのまま弦交換まで任せてもらえないでしょうか?」
 何を言い出すのかと思えば、わざわざそんなに畏まるほどの内容でもないのに。
「もちろんよ。それにベースを必ず持って来るようにって、はじめからその気満々だったんでしょう?」
「フヘヘ、まぁそうなんですけど!」
 ぱぁっと効果音がつきそうな笑顔で微笑まれてこちらも頬が緩んでしまう。ぶんぶんと揺れる尻尾が見えるようで、たまにレオンみたいだと思うことがある、というのは本人には内緒の話だ。彼女はメンバーの中だと比較的落ち着いていて大人っぽいと評されることが多いけれど、機材のこととなるといわゆる〝オタクモード〟が全開になって表情も豊かになるのが不思議なところだと、出会った頃は思っていた。今はもうそれが彼女だから、と受け入れるうちに慣れてしまったし、特別な気持ちを自覚してからはむしろ好ましいと思うところでもあるのだ。
「そこまで準備していて、断られる可能性があるとでも思っていたの?」
「うーん、断られるとまでは思ってませんでしたけど、千聖さん自分で弦交換される派なので、こだわりの聖域に踏み込む感じがするというか……」
「そういうものかしら、弦交換についてそこまで深く考えていなかったわね……」
 流石は機材オタクと言うべきか、楽器へのこだわりが強いだけあって考え方も人とは違うものなのだろう。確かに弦交換自体は頻度が多い方ではないし、メンテナンスの一貫として楽器への愛着を強めるという意味では特別なことかもしれないけれど。
「もちろん個人差はありますよね、ジブンがこだわり派なのでそう思うだけかもしれませんが。千聖さんに任せてもらえるのはすっごく嬉しいです!」
 にっこりと笑って、じゃあ早速、と彼女が工具の入った箱を取りに行くので私もケースから愛用のベースを取り出す。ライブ前に準備のためスタッフさんに予め渡しておくことや、楽器屋でメンテナンスへ出すことはあるけれど、それらを除くと自分以外の人にもはや自身の分身とも言うべきベースをこのまま手渡すことは滅多にないな、とふと思って、なんとなくさっきの言葉の意味が分かるような気がした。
「お預かりしますね。じゃあ早速取り掛かるので、千聖さんは良かったら机の上のお菓子でも食べていてもらって!」
 うきうきとした様子で受け取った私のベースに失礼します、と小声で呟いてから軽く弦に触れる。まずは状態チェックから行ってくれるようだ。
「ありがとう。お菓子もいただくけど、見ていてもいい?」
「もちろんです! ジブンより千聖さんの方が慣れていると思いますし、参考になるかは分かりませんが」
 ベースの隅々まで触れたり、じいっと見たりの点検を終えて、彼女の肩から降ろされたベースはラグへと横たえられる。
「いつもきちんとメンテナンスされてるだけあって綺麗ですね。別に弦交換しなくても平気だと思いますが、千聖さんは定期的に変えたい派ですよね?」
 まずはペグをくるくると回して弦を緩める。工具箱から取り出したニッパーで緩めた弦をぷちんと切って、丁寧に取り外していく。
「そうね、目に見えて錆びたりはしていないけれど三ヶ月に一度は変えるようにしているの」
 弦が全て取り払われたベースを見つめていると、なんだか心許ない表情をしているようで少し可愛いですよね、と謎の共感を求められたので、笑顔で流しておくことにした。
 クロスにオイルとスプレー、爪楊枝や綿棒まで持ち出してくれて、さながらクリーニングの専門家のようにてきぱきと準備は進んで行く。
 ボディと指板を優しくクロスで乾拭きし、細かい部分も道具を使って埃のひとつも残さないように拭き取る。
「流石にひとりじゃここまではしていないわね……」
「まだまだ! 今日はスペシャルケアということで!」
 今度はマスキングテープを取り出して、指板の木材部分を覆い隠すように貼っていく。浮き上がった金属のフレット部分に研磨剤を軽くつけたクロスをあて、優しく擦って汚れを取り除く、その繊細な手つきと、それから顔つきに思わず見惚れてしまう。もともと好みの顔ではあるけれど、仕事中や演奏中ともまた違う、真剣な表情が見られるのは間違いなく私だけの特権だ。
「……千聖さん?」
「……っ、研磨剤はこうやって使うのね、と思って。ここには本当に何でもあるわね。自分で弦の張り替え方を知るまではメンテナンスも兼ねて楽器屋の人にお願いしていたけれど、麻弥ちゃんの部屋の方が充実しているんじゃない?」
「いやいや、プロの方には到底及びませんよ。でもそう思ってもらえたなら嬉しいです。他でもない、千聖さんのベースですし!」
 さらりと告げられた言葉と得意気な表情に、思わず口を噤んでしまう。特別だ、と暗に示されてどうしたって嬉しくなってしまう。その上相手は無自覚なのだからたちが悪い。
 隅々まで掃除されてぴかぴかになったベースへ、仕上げにとオイルを含ませたクロスで優しく触れ、撫でるように表面を磨きあげていく。今度は慈しむように、宝物を確かめるかのような優しい表情もまた魅力的だと思う。
「大切にされている楽器に触れると、その持ち主の人となりが分かるような気がするんです。それってその人にとっても楽器にとってもすごく繊細な部分というか、本来あまり他人が触れるべきではない部分ではないと思うんですよね。でも、それを預けてもらえて託してもらえる、これほど嬉しいことはないなって。大切な人なら尚更」
 なんてちょっとクサいですかね? と切り替えるようにして照れ笑いまでつけるものだから、堪らなくなってソファから降り、クロスを握るその右手に自分の手のひらを重ねる。
「私も嬉しいわ。他でもない麻弥ちゃんに、私の大切な楽器を大切にしてもらえて。きっと、ベースを見る度麻弥ちゃんのことばかり考えてしまうわね」
 私の方が小さいけれど、ぎゅっと握り込んで覗き込むように微笑んでみれば、ぶわりと目の前の頬が赤く染まった。
「そ、それはめちゃくちゃ照れちゃいますね?!」
「貴女のさっきの言葉の方が、なかなかの口説き文句だと思うけど?」
 じゃあ続きもお願いね、と額同士を軽くくっつけてからソファへ戻れば、真っ赤なままではぁいと気の抜けた返事が聞こえる。
 感情の昂りから瞬きが多くなるのは彼女の癖で、ぱちぱちと目を瞬かせながらそれでも手元はきちんと作業を進めていくのが面白い。
 本当に優しく労わるような、それこそ恋人に初めて触れるかのような手つきでボディと指板を撫でていく。すっかりぴかぴかになったベースはどことなく誇らしげで、先程彼女が言っていた心もとなさは感じられないくらいになっている、なんて機材オタクの感性が移ってしまったのかもしれない。
 新しい弦を袋から取り出し、巻き癖を軽く慣らしていく。真っ直ぐになったぴかぴかのニッケル弦をブリッジに通し、適当な長さに切って先を少し曲げてからストリングポストに差し込む。ここまで来ればあとは弦をぴんと引っ張りながら、慎重にペグを巻いていくだけだ。
「そういえば、日菜ちゃんはよく弦先を切らずそのままにしていることがあるわね」
「ギターは巻いてから切りますもんね。だから日菜さんが自分で換えた時と、紗夜さんに換えてもらった時の差が目に見えて分かっちゃうんですよね」
「まぁ、弦を見なくても日菜ちゃんが自分から意気揚々と報告してくれるわね」
「確かに!」
 目をきらきらと輝かせて、お姉ちゃんに換えてもらったの!と見せつけてくる我らがギタリストを思い出す。そんな日の練習は決まって絶好調なので、さっきの話ではないけれど、やはり弦を換える人というのは演奏者にとって大きな影響を与えるものなのかもしれない。
「さっきの話ですけど……」
 どうやら同じことを考えていたようで、ペグを巻く手と目線をそのままに、彼女が口を開く。
「ベースを弾く度思い出してもらえるのは嬉しいですけど、そもそも楽器を触ると必然的にパスパレのことを思い出さざるを得ないので、ある意味いつも通りでもありますよねって。ええっと、言葉の揚げ足をとるとかってことじゃなく! いつも自然としているのが嬉しいってことなんですけど……」
「ふふっ、分かってるわよ。確かに、みんなで演奏していれば目の前に居るし、ひとりで練習していても特に私たちリズム隊は他の音を、その持ち主を意識するものね」
 くるくると巻き付けられていく弦はやがてぴんと背筋を正すかのようにしっかりと張られて、ようやく楽器の一部になっていく。私の分身の一部へと。綺麗に並んだ四弦を彼女は目で、指で確認し、それからチューニングまで済ませて、スペシャルケアは完了する。
 何か気になるところがあれば言ってくださいね、と手元に大切な存在が返って来た。
 ストラップは掛けずに、抱えて軽く指先で弾く。真新しい弦は馴染むまで少し時間が掛かるけれど、新品特有の鋭い音も期間限定で楽しんでしまおうと思わず口の端が上がった。
 それを見て彼女も同じ顔をしていたのが嬉しくて、顔を見合せたままふたりで声を出して笑い合う。
「パスパレのみんなのことははもちろんだけど、私は今日のこともきっと毎回このベースに触れる度に思い出すの。この会話も、麻弥ちゃんの表情も、この部屋も、全部ね」
「フへへ、それはとっても素敵ですね! じゃあ思い出してもらえるように、たくさんお話したり思い出作りしましょうか」
「そうね、ふたりでのんびり出来るのも久しぶりだもの」
 ベースを側へ置いて指先を握れば、察したようにほんのり熱を帯びた萌黄色が近付いて、そして瞼の裏に隠される。勿体無いと思いつつも、この瞬間が堪らなく好きだと胸がきゅっと締め付けられた。
 頬に手を添えられ、微かに震えた睫毛が見えるのを名残惜しく思いながら,近付く吐息を感じて私も瞳を閉じた。