電話帳雑学

Last-modified: 2009-10-06 (火) 12:03:40

電話帳は 一家に一冊。必ずといってもいいほどあります。
毎日使うものでもなく、がさばる電話帳……でも視点を変えてみると興味深い世界が広がっています。
ここでは
案外知られていない 「電話帳の雑学」 を、紹介します!!

電話交換業務はいつ開始された?

明治23年、(1890年)。電話をかけると、まず交換手につながれ、交換手が加入者人名表(電話帳)を探して番号につないでいた。
最初の交換手は東京で女性9人、男性2人、横浜は男性4人でスタートしたが、昼は女性、夜は男性が交換業務を行っていた。それが10年後には女性330人、男性100人と大きく増える。そして、このころ、男性交換手の愛想の悪さや、高給料だったせいもあり、交換手は女性に限られた。

ハローページ・タウンページはいつ誕生したか?

「電話加入者名簿」から「電話番号簿」、昭和46年(1971年)から「電話帳」と時代によって、呼び方も変わっていった。これは、電話事業が戦前は国の事業、戦後も公社として国営だったためである。堅苦しさをとりのぞこうと新しいネーミングを全国から募集した。そして、2万件あった応募の中から、「ハローページ」と「タウンページ」が選ばれた。それぞれの名前の由来は、ページをめくって目的の人を探し出し、「ハロー!」と電話をする意味から〝ハローページ〟ある街のあるお店を探したいときにめくるページ、すなわち〝タウンページ〟と名づけたものである。また、同時に募集した電話帳のシンボルマーク、〝イエロー君〟は約1万件の応募から選ばれた。1994年に、新たにアメリカの有名デザイナーによって〝タウンページ君〟がデザインされ、バトンタッチした。〝タウンページ君〟はNTTのサービス全体のシンボルマークとして昇格した。

「表情豊か!世界の電話帳」より

電話帳に載せてない人の番号は104で案内してくれる?

基本的に104番号サービスは電話帳に番号を記載している番号のみを案内するものだが、一人暮らしの人や、不特定多数の人に見られる電話帳には番号を載せるのはいやだをいう人が多くなった。しかし、自分の名前や住所を知っている人の問い合わせには教えてあげて欲しいとの利用者の声が高まってきた。そこで、平成8年(1996年)から、加入者本人からの申し込みがあれば、問い合わせに応じるサービスが始まった。
[tip] 「116」に申し込みすれば、案内してもらえるようになる。

国土の広い中国の電話帳は?

中国は、電話帳番号簿も各都市別に作られている。その他に中国全土の官公庁、企業などを1冊にまとめた全国版がある。日本の電話帳はアイウエオ順で掲載されているが、中国は漢字の画数で引くようになっている。
最少が2画で「丁・ト・力」から始まり、最後は20画の「籍」で終わる。人名に使われる漢字はそんなに難しい漢字はない。

必死の思いで手に入れた丸井の「0101番」

丸井といえば「0101」。全国すべての店舗の丸井の統一番号になっている。しかし、電話番号は自分の希望と手に入れることが出来るというものではない。丸井が全国統一番号と使うと決めたのは、昭和42年。すでに他人の所有になっていることがほとんどで、そう簡単に譲ってくれるわけもない。「0101番」を所有している人の家を、雨の日も風の日も訪ねて必死でお願いし、すべて揃うまでに6年の歳月を要した。

「カステラ一番、電話は2番」の電話番号の秘密

テレビCMでおなじみのこのメロディ。この「♪電話は2番♪」というキャッチフレーズは、昭和初期の電話帳広告にすでに登場していた。そのもとになるまでには、おもしろいエピソードがあった。当時、「肉は1番、電話は2番」という広告を出して、大阪で繁盛していた肉屋さんがいたという。早速、2番の電話番号の持ち主を探し、番号を譲ってもらえるよう交渉した。その時の買取金額が1万円。今なら3000万円くらい?実際に文明堂の電話番号は、本店、支店すべてが0002番。全国統一するのにはどのくらいのお金がかかったのだろう…

電話帳の見出し、「エレクトーン」、「宅急便」がない?

タウンページで、エレクトーンや、宅急便で調べようと思っても、見出しにはない。それは「エレクトーン」はヤマハの、「宅急便」はヤマト運輸の商標登録だから、商品名は見出しにはならないのである。「エレクトーン」は「電子オルガン」、「宅急便」は「宅配便」と分類される。

米国で実在する電話帳にまつわるエピソード

1887年ウォルター・D・ロスは父が亡くなり、二人の息子を友人に預けて英国から米国へ移民してきた。彼は貧しく、米国に渡ってからも死にものぐるいで働き、いつしか友人との音信も途絶えた。息子達が死んだという風のたよりも伝えられた。ところが、それから22年たった1909年、ロスはミシガン州フリント市にフリント馬車会社を設立。商売がらさっそく電話をひくと、電話帳も配られてきた。その真新しい電話帳を開いてみると、イギリスでの懐かしい別の友人の名前が出ていた。ものは試しとRの項を追ってみると、コールマン・J・ロス、フリント市のウェスタン・モット自動車会社工場長とある。これは死んだはずの長男の名前である。長いこと死んだと思っていたコールマン。疑心暗鬼でさっそく電話を架けてると、まさしく長男であった。また、孫もいることが分かり、二重の喜びであった。当時、毎年数百万人という単位で米国へ押し寄せていた移民にとってこのような例はすくなくなかった。この感動的なドラマは、当時の米国社会に大きく伝えられた。電話帳は「たずね人」の掲示板にもなった。

天気予報の「177番」、元は大隈重信の電話番号!

「電話帳加入者人名表」には、1番の東京府庁に始まり、官公庁、新聞社、銀行などに混じって、個人名も多数掲載されている。三菱グループ創始者の岩崎弥太郎(160番)や郵政事業の生みの親・前島密(248番)といった名だたる名士の中に、早稲田大学創立者の大隈重信も名を連ねている。その電話番号は、なんと、現在は天気予報の番号である「177番」だった。実はこれには深い意味はなく、当時の電話番号は申し込み順だったため、たまたま「177番」が大隈重信の番号だったのである。

アメリカの古い電話帳の使われ方

日本の電話帳は、ごみの収集で資源ごみとして回収したり、フライパンの油をふきとったり…というのが一般的な使われ方である。アメリカでは全く違う使われ方をする。スポーツなどのヒーローパレードなどで、細かく切って紙吹雪にして使うのだ。


「電話帳」、「電話帳の楽しい読み方」より