Top > 電話帳の歴史
HTML convert time to 0.003 sec.


電話帳の歴史

Last-modified: 2009-03-02 (月) 16:54:48

世界初最初の電話帳は、アメリカのコネチカット州ニューへブンで生まれました。電話の発明者「グラハム・ベル」の祖国でした。1878年、1月にに電話交換局が開設され、2月に電話帳が必然的に作られました。このときの加入者はわずか50人。ほとんどは電話局会社の社員と、支配人の支援者でした。

「市街案内帳」から生まれた電話帳 Edit

  • 1870年末、ベルの電話システムは奔流のように全米をかけぬけていた。それに従って、小さな電話局が群立し、そこにそれぞれ勝手な自己流の電話帳が生まれていた。デイトン(オハイオ州)では、三番街のキーフバー食堂兼果物屋の軒先を借りた「デイトン・ベル電話」会社が1878年8月に開局し、1ページの電話帳を配布した。電話局のあった果物屋、G・F・ロア建材店、W・サンダーワイン店など10軒の加入者だけが印刷されていた。ネブラスカ州のグランド・アイランド電話局の電話帳は、1884年に一枚の用紙に65名の加入者を印刷した。ニューヘブンでもそれなりの「電話帳」が発行された。
  • 1864年、シカゴにドネリー一族がカナダのハミルトンから移住してきた。一家の長、リチャードは印刷工場を興し、兄弟たちも出版社を設立した。この双方の知恵で、リチャードは「市街案内帳」を発刊し大いに受けた。「市街案内帳」は街区、通り、主要な公共施設を盛り込んだもので、ときに住所録も取り入れられた。のちに「シカゴ・ディレクトリー」会社を設立した。1886年、息子のルーベン・ドネリーは爆発的に普及する電話と「加入者リスト」、混沌とした市街区を分かりやすく編んだ「市街案内帳」、そして広告で賄った「ビジネス・ディレクトリー」の三者を合体した新しい出版物を思いたった。これが新たしい広告媒体をしての「電話帳」の誕生であった。
  • ドネリー電話帳は、これまでの電話帳と違い、中が二つの部分から成っている。前者は、「アルファベティカル・ディレクトリー」「ホワイトページ」で、日本でいう「アイウエオ順」「ハローページ」と呼ばれる分類のプロトタイプ。後者は「ビジネスページ」「イエローページ」で「職業別電話帳」「タウンページ」などといわれるカテゴリーに属する。ドネリー電話帳は発行部数も多く、便利なため家庭でも大切に扱われた。
  • ドネリー電話帳第1号は、100ドルほど。電話帳を開いてみると目次があり、次に図解入りで「電話の使い方」といった手引きがある。「トールサービス(市街電話)」「電話サービスへの苦情受付」「電話による電報(料金)」などだ。この手引きは初期の電話帳では不可欠だった。当時、話す方の端子と聞くほうの端子が別で、このように架けますというような図解が必要だったからだ。「電話帳」はユーザーへの入門書でありマニュアルであった。
    「電話帳の社会史」より

日本の電話帳のはじまり Edit

  • 日本初の電話事業が、明治23年(1890年)、東京市内と横浜市内の間で12月16日に開始したことから、12月16日は「電話の日」となった。
  • 日本で始めての電話帳が発行されたのは明治23年10月9日。最初は、「電話加入者人名表」と呼ばれる1枚の紙だった。電話番号1番から269番まで番号順にお客様名のみが縦書きされ、住所の記載もされていないものであったと考えられている。また、予定していた数の加入者が集まらない為、当時の逓信省電話局長自ら大学の講堂で電話帳を手に宣伝活動を行った。「電話機効用書」なる宣伝パンフレットを作成するなど、東京215名、横浜42名の申し込みを獲得し、発行に至ったという。明治初頭、(かけそば一杯の値段が5厘といわれていた時代)東京〜横浜間の通話料は、日本初の電話帳発行時、5分で15銭の高額な料金だった。

電話加入者人名表」について

  • 最初は「電話加入者人名表」と呼ばれる1枚の紙で、電話番号の1番から269番まであり、住所の記載はなく、氏名のみのものだった。当時の電話番号は申し込み順であり、「1番」は東京府庁、「2番」に逓信省事務局が登録された。官公庁、新聞社、銀行などのほか、個人名も多数掲載(69名)された。なかには、歴史上の著名人も登録されており、「160番」に三菱グループ創始者の岩崎弥太郎、「248番」に郵政事業の生みの親、前島密。現在の天気予報番号「117番」には早稲田大学創立者の大隈重信。現在の消防・救急「119番」には、東京郵便局。現在の警察「110番」には、赤羽電話所が登録されていた。

電話帳の進歩 Edit

  • 1897年「電話加入者人名表」から「電話番号簿」に名称が変更される。
  • 1898年、名簿様式から番号簿が正式に発行される。様式はイロハ順、縦書きで、姓名のほかに屋号や職業の記載が定められた。
  • 1950年に職業別広告欄付電話帳、別名「枕の電話帳」が発行される。総ページ約2,000ページ、重さ2.75kg、厚さ10cmにも及ぶ大作。詩人のサトウ・ハチロー氏が当時連載していた東京タイムスのコラム内で「枕の電話帳」と紹介された。
    同年、日本初の職業別電話帳「東京都市職業別電話番号簿」が発行される。総ページ数1422ページで、黄色のグラビア紙を使用。約13万3000件の電話番号と、1万8000件の広告を掲載していた。電話帳の体裁もスマートなものに改良。規格がB5判からA4判となり、本文は2段組から3段組に変更された。職業・商品の分類をはじめとする編集作業は、コンピューターがない時代でもあり、苦労の連続だったといわれている。
  • 昭和26年(1951)に職業別分類の電話番号簿が生まれ、「職業別電話番号簿」と「人名別電話番号簿」の二つの電話番号簿が発行されるようになったが、昭和34年(1959)にはこのうち「人名別電話番号簿」を「50音別電話番号簿」と名称を変更した。
  • 1971年「電話番号簿」から「電話帳」に変更する。
  • 1983年、電話帳に新しい名称「タウンページ」「ハローページ」が付けられた。ネーミングは一般公募によって行われ、新聞広告、ポスターなどの呼びかけに応じて寄せられた応募作品は2万点以上だった。当時の有識者で構成された「ネーミング委員会」で厳正に審査され、この愛称が誕生している。また、同時にシンボルマークも募集し、「イエローくん」が登場した。また、当時、電話番号情報をキーとして関連するさまざまな情報を提供する新しいタイプの電話帳「ニューページ」の発行が本格的にスタートした。当時は、情報に対するさまざまなニーズが生まれていた時代。すでに数多くの出版社からタウン誌・カタログ誌など、電話帳の機能を持った出版物が発行されていた。そのノウハウを積極的に取り込もうとしたのが、タウンページ・ハローページだった。
  • 1986年、NTTオレンジラインに「パソコンで引ける電話帳を。」と、声があった。その声に応え、「CDタウンページ」が開発された。「CDタウンページ」とは、1枚のCD-ROMに、東京23区のタウンページ情報を収録し、パソコンでの検索を可能にしたもの。100万件を超える情報を収録できる容量を持った記憶メディアとして、光ディスク(CD-ROM)が選ばれた。世界初のCD電話帳は、高度情報化社会にマッチした新しいスタイルの電話帳として注目を集めた。
  • 平成元年(1989)、全国の「タウンページ」の大幅モデルチェンジが行われた。表紙の色を、国際的に広く使われている“イエロー&ブラック”に統一し、ひと目でわかるインパクトの強いデザインとした。中面については、広告の規格を整理して、本文の外側にU字型に配置。本文情報と広告が明確に区別された見やすいレイアウトになった。また、2色広告の刷り色をグリーンからレッドに変更し、黄色いタウンページの中でも目を引くように工夫した。
  • 1996年、インターネットの普及により、インターネットのタウンページサービス「iタウンページ」が開始された。
  • 2003年、新タウンページ(デイリータウンページビジネスタウンページ)広島県版が発行され、順次全国にも発行される。
  • 2007年、地域特性を活かした表示デザインを展開している。