生まれ
ふりがな、とくがわいえのぶ生没年1662年-1712年、二代甲府藩主
どんな人?
徳川綱吉に子供がいなかったため選ばれた
もともとの名前は綱豊で、家光の三男・綱重の子供
将軍に選ばれた時はすでに48歳
下々の心がわかるいい将軍だったんだけど、なんせ高齢
あっという間に家宣の時代は終わってしまった
おいたち年表
年 | 0歳 | 誕生! |
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女性関係
家宣の正室照子は京都関白の娘
側室は4人いて、それぞれバックには柳沢吉保や間部詮房がついていて、これまた熾烈な大奥権力争いがあった
結局権力をゲットしたのは四男・鍋松を生んだお喜世の方
全部で7人子供がうまれたんだけど、育ったのは鍋松一人しかいなかったからです
やったこと
あの悪法「生類憐みの令」を廃止した
綱吉の「私が死んでも後100年はこの法を守れ」という遺言を破った
が、将軍になって4年後に風邪ひいちゃったと寝込んだまま死んでしまった
逸話
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祐筆の人物批評
祐筆
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