黒田官兵衛

Last-modified: 2014-05-21 (水) 01:33:37

生まれ

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天文15年11月29日(1546年12月22日)

どんな人?

戦国時代から江戸時代前半にかけての不運の武将大名。2014年の大河ドラマ主人公。
また、キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他の大名との交渉などで活躍した。竹中半兵衛重治と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛(二兵衛)」と呼ばれた。

築城の名手で、居住した中津城?福岡城?の他、前野長康浅野長政らと姫路城?大坂城?讃岐高松城?、肥前名護屋城?、広島城などの秀吉下での主要な築城に関わり、縄張りや助言を行う。

おいたち年表

1547年1歳誕生!幼名は万吉
1561年16歳元服。名を官兵衛祐隆と改める
1567年22歳家督相続。播磨姫路城代、小寺家家老を継ぐ。主君・小寺政職の姪に当たる櫛橋伊定の娘・光姫と結婚。
1569年24歳青山・土器山の戦い?が起こる。苦戦するも奇襲攻撃や援軍もあって勝利する。

逸話

●あんなに活躍したのに・・・・秀吉は官兵衛が嫌いだった

豊臣の軍師として竹中半兵衛とともに大活躍していた官兵衛
が、所領はたった12万石
他の人たちが秀吉に「もう少し上げたほうがいいいのでは??」と言ったところ、秀吉は
「あやつに多くの領地をあげると、何をしでかすかわからない」と言ったそうです

●官兵衛 息子にイヤミ

関ヶ原の戦いで大活躍した息子の黒田長政
実は官兵衛、この戦いは長引くと思っていた
手始めに九州を制圧し、いずれ天下をとるつもりだった・・・
が、関ヶ原の合戦はわずか1日で勝敗がついてしまい、しかも大活躍したのが息子の長政
パパのところに戻ってきた長政は「家康殿が私の手を握って、私の功労を褒めてくれたんです!」と自慢
するとパパ・官兵衛「ふ~ん。で?その時お前の片方の手は何をしていたのだ?」と言ったのです

意味はですね、片方の手で家康と握手したけど、なぜもう片方の手で家康を殺さなかったのか?ということ

●官兵衛 バカになる

官兵衛も年とってきました
するとすごくイヤなじーさんに

家臣たちも心の中では「やんなっちゃうよあのクソジジィ」とブチブチ
息子・長政はパパに「父上、あまり勝手を申されると、家臣たちが困ります」と言いました
すると官兵衛
「このバカ。言っておくがお前のためにやってるんだ。ワシのよーな優れた者の跡継ぎがお前だぞ??ワシがここでわがままじーさんになれば、皆ワシが死んだ後「やっと死んでくれたよ。これからは長政殿に忠誠を誓おう」と思うだろ??」

さすが軍師!!

●官兵衛 少年を諭す

官兵衛の草履取りになった竜若という少年はものすごいいたずらっ子
とうとう官兵衛は、竜若を柱に縛り付けました
が、一時間後、官兵衛は竜若に隣村までお使いに行かせました
「許してもらえた♪」と思っていた竜若
が、官兵衛は用事がすんだ竜若をまたも柱に縛り付けました

3日間、それをずーーーーっと繰り返していると、竜若は言いつけられた用事を喜んでするようになり、しかも仕事も丁寧になっていきました

官兵衛は
「どうだ?用がなくてじっとしているのと、用があって動き回っているのとどっちがいいか?」

竜若は黙り込んでいると
「いいか?人はな、用がないのが一番つらいんだぞ。お前もいたずらばかりしていると、またこのような目にあうぞ。そうならぬよう、これからはきちんといたせよ」

●酒一樽より、葉っぱがいい

休日中の官兵衛のもとに、家臣からいろんなプレゼントが届きました
五百石の家臣が超高級のお酒を一樽届けてきた
みんな「すげーー」と感心していると、二千石の家臣が手作りの菜の惣菜を少々届けてきた
みんな「二千石のくせにケチくさいヤツだな」と笑った

すると官兵衛
「小身のくせに酒一樽とは、身の程知らずの見栄っ張りじゃ。それに引き換え手作り惣菜とは、真心を感じるのう」と言った

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祐筆の人物批評

由衣・・・処世術にはたけていますが、あまりにも頭が良かったため豊臣秀吉に敬遠された武将。関が原の合戦が一日で終わらなければ天下を取れたのでしょうか。。。

祐筆

●一番手・・・ハガクレ 逸話だけ書きました
●二番手・・・鱒