より詳しくJR横須賀駅を知りたい方へ。
JR横須賀駅の特徴
全国的に見ても珍しい「階段のない駅」として知られる。
元々軍港に人員や物資を運ぶために造られた経緯があるため乗り降りや積み下ろしが楽になるようにこのようにしたと言われている。
2,3番線ホームの屋根を支える柱の一部には明治時代に輸入された外国のレールが転用されている。
市街地から離れており、京浜急行電鉄の横須賀中央駅と比べて利用者は少ない。
かつては1番線を皇族が利用していたが、今では使われていない。
そのため、全国でも珍しい「1番線に電車が到着しない駅」となっている。
JR横須賀駅の歴史
明治時代
明治19年(1886年)
6月に当時の海軍大臣である西郷従道と陸軍大臣である大山巌が「横須賀又は観音崎を終点とした鉄道敷設の要望」を内閣総理大臣である伊藤博文に提出した。
要望した理由は以下の3つであった。
- 横須賀港は重要な基地であること
- 観音崎は東京湾の入り口にある要衝の地であること
- 相模湾に面する武山・長井は敵軍が上陸する防衛の拠点であること
この当時、軍部は首都防衛のために軍事施設の整備を続けていた。
明治17年に鎮守府が設置された横須賀だったが、横浜から横須賀へは馬すら通れない道だけで、物資の輸送は船に頼っていた。
ところがその船も風が吹けばストップしてしまう状況であり、敵軍の相模湾上陸に間に合わないと考えられ鉄道の開通が叫ばれたのだった。
明治22年(1889年)
6月16日、横須賀停車場が現在の位置に仮停車場として開業。
仮停車場となっているのは元々観音崎までの路線として計画していたからである*1。
開業初日の様子を毎日新聞が以下のように伝えている。
「鎌倉、逗子、横須賀の各停車場*2は種々の飾りつけをなし、花火を打ち上げるなど・・・
随分賑やかなりしも、ただ見物人の多きのみにて、これという趣向もなく、ことに横須賀はもっとも冷淡にして・・・
この汽車は横須賀軍用のためにして・・・」
記者が想像していたよりも盛り上がりに欠けていたことが文章から分かる。特に横須賀が最も冷めていたようである。
これに関し、横須賀では開業前から行幸列車や臨時列車が運行されていたため、町民は開業初日にさほど感慨がわかなかったのでは、という意見もある。
大正時代
大正3年(1914年)
東京駅開業に伴う横須賀線の乗り入れと複線化に備えて、横須賀駅舎の移転と新築が行われた。
これが現在も使用されている駅舎である。
大正5年(1916年)
複線化完了。
大正15年(1926年)
電化完了。
昭和時代
昭和10年(1935年)
経費3万円*3にて駅本屋が改築。
昭和15年(1940年)
昭和19年(1944年)
久里浜駅への路線延伸と貨物ヤードの増設が行われた。
昭和59年(1984年)
貨物取り扱いが廃止された。
その他
比叡の進水式
横須賀駅の利用者が最も多くなるのは大型艦の進水式の際であった。
大正元年(1912年)11月21日の戦艦比叡の進水式にあたっては、当時の平常の降客数3000人程度の横須賀駅に
- 11月19日に約4000人
- 11月20日に約7500人
- 11月21日に約15700人
が降り立った。
当日午後2時に進水式が終わるやいなや、来客のほとんどが一斉に横須賀駅へ押し寄せ、3時頃から各列車満員となる。
待合室に群衆が溢れる中で出札口の窓ガラスが打ち壊される事態にもなった。
海軍甲事件の後
戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨はこの駅から東京に向かった。
皇室が利用した1番線
写真の奥にあるのがかつての1番線。今では草が生い茂っている。ホームの記載も2番線からになっており、1番線は欠番になっている。
1800年代の古レールを使用した柱
横須賀駅の2番線、3番線ホームの柱には1800年代の古レールが使用されている。
UNION 1886という文字が支柱に見て取れる。これはドイツで使われていたレールである。
参考文献
- ここはヨコスカ:JR横須賀駅
- 横須賀線を訪ねる 120年歴史の旅 著:蟹江康光
- 横須賀市内近代化遺産 総合専門調査報告書 編:横須賀市自然・人文博物館
- 新横須賀市史 通史編 近現代 編:横須賀市
- 新横須賀市史 別編 文化遺産 編:横須賀市