※この年表は随時編集中です。 ※内容は史書に基づいています。
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西暦 | 曹魏 | 蜀漢 | 孫呉 |
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234 | ◆8月 諸葛亮死去。蒋エン、尚書令になる | ||
235 | ◆4月 蒋エン、大将軍になる | ||
236 | ◆4月 劉禅、セン県に行き観阪に登り、ブン水の流れを見て、十日で成都に帰る | ||
237 | ◆6月 張皇后死去 | ||
238 | ◆正月 前皇后の妹を皇后に立て、劉センを太子に、劉ヨウを安定王に封ずる。改元 ◆11月 蒋エン、漢中に出兵 | ||
239 | ◆正月丁亥朔、曹叡崩御。曹芳即位。大赦。大将軍曹爽、太尉司馬懿が輔佐。 ◆2月、西域より火浣布の献上。 ◆6月、遼東東沓県の官民が斉郡に移住。そのため元の縦城県を新沓県として移民を居住させる。 ◆8月、大赦。 ◆12月、詔勅により夏暦を採用。それまで魏は殷暦を使用していた。 | ◆3月 蒋エン、大司馬になる | |
240 | ◆正始に改元。 ◆2月、遼東ブン県・北豊県から民衆が流亡。斉郡の西安県・臨シ県・昌国県の境域を区切り、新ブン県・南豊県とし流民を居住させる。 ◆3月、前年の冬十二月から雨が降らず。 ◆4月、黄権死去。 ◆7月、詔勅により、御府内の金銀千八百斤を軍費に提供。 | ◆春 張嶷、越スイ郡を平定 | |
241 | ◆2月、太常に命じ、大牢の犠牲を捧げ辟雍にて孔子と顔淵を祭る。 ◆5月、呉将朱然が襄陽郡ハン城県を包囲。司馬懿がこれを防ぐ。 ◆12月、南安郡に地震。 | ◆10月 費イ・姜維、蒋エンと論じるため漢中へ赴く。 ◆12月(年末) 費イ、成都へ帰還する | |
242 | ◆正月、東平王曹徽死去。 ◆3月、満寵死去。 ◆7月甲申、南安郡に地震。 ◆12月、魏郡に地震。 | ◆正月 姜維、漢中からフ県へ | |
243 | ◆正月、曹芳元服。 ◆4月乙卯、甄氏が立后。大赦。 ◆5月朔、皆既日食。 ◆7月、曹真、曹休、夏侯尚、桓階、陳群、鍾ヨウ、張コウ、徐晃、張遼、楽進、華キン、王朗、曹洪、夏侯淵、朱霊、文ヘイ、ゾウ覇、李典、ホウ徳、典韋を太祖の霊廟堂前の広場に祭る。 ◆12月、倭国卑弥呼の朝貢。 | ◆10月 蒋エン、漢中からフ県へ ◆11月 費イを大将軍に任命 | |
244 | ◆2月、曹爽に蜀征伐の詔勅。 ◆4月朔、日食。 ◆5月癸巳、太常に命じ、大牢の犠牲を捧げ辟雍にて孔子と顔淵を祭る。丙午、曹爽が蜀征より帰還。 ◆8月、秦王曹詢死去。 ◆9月、鮮卑の内属により、遼東属国を設置、昌黎県を新設し移住させる。 ◆11月癸卯、荀攸を太祖の霊前堂前の広場に祭る。己酉、秦国を京兆郡に戻す。 ◆12月、崔林死去。 | ◆閏月 費イ、王平を救援(興勢の役) ◆4月 劉理死去 ◆9月 費イ、成都に帰還 | |
245 | ◆2月丁卯、南安郡に地震。 ◆6月、趙ゲン死去。 ◆11月、太祖の霊廟に、代々先祖と先に定めた二十一人の功臣を祭る。 ◆12月乙亥、正月一日の群臣会集の時、司馬懿は乗輿のまま上殿を許される。 | ◆8月 皇太后死去 ◆12月 費イ、漢中に行き守備陣営を視察 | |
246 | ◆2月、カン丘倹による高句麗討伐。 ◆5月、カン丘倹によるワイバク討伐。韓那ケイら数十ヶ国が降伏。 ◆8月戊申、詔勅により、七十歳以上のの奴婢を平民とする。 ◆12月、太常に命じ、大牢の犠牲を捧げ辟雍にて孔子と顔淵を祭る。 | ◆6月 費イ、成都に帰還 ◆11月 蒋エン死去 | |
247 | ◆2月朔、日食。 ◆5月、河東郡から汾水北部十県を分離し、平陽郡とする。 ◆7月、何晏の諫奏。 ◆12月、孔乂の諫奏。 | ◆姜維、ビン山郡を平定 | |
248 | ◆10月、暴風。 | ◆5月 費イ、漢中に出兵 ◆秋 トウ芝、フ陵郡の反乱を鎮圧 | |
249 | ◆正月甲午、曹芳、高平陵(明帝の陵)に参詣。司馬懿の上奏により曹爽、曹ギ、曹訓、曹彦を罷免、諸侯の爵位のまま私邸へ帰らせる。戊戌、張当の逮捕供述により曹爽の反乱計画が発覚。丁謐、トウヨウ、何晏、畢軌、李勝、桓範も陰謀荷担の罪により三族誅滅。丙午、大赦。 ◆4月乙丑、嘉平に改元。丙子、蒋済死去。 | ◆正月 夏侯覇の投降 ◆秋 姜維、雍州を攻撃。撤退する。句安と李韶が魏に降る | |
250 | ◆11月、孫礼死去。 ◆12月甲辰、曹リン死去。乙未、王チョウが長江を渡り呉を急襲、撃破。 | ◆姜維、西平に出撃。撤退する | |
251 | ◆正月、王基と州泰が呉を撃破、降伏は数千人に及ぶ。 ◆2月、南郡に夷陵県設置。降伏者を居住させる。 ◆4月壬辰、大赦。丙午、王凌が帝を廃し、曹彪の擁立を計ったとして、司馬懿が征伐。 ◆5月甲寅、王凌自殺。 ◆6月、曹彪死罪。 ◆7月壬戌、皇后甄氏死去。戊寅、司馬懿死去。乙未、甄氏を太清陵に埋葬。庚子、孫資死去。 | ◆夏 費イ、成都に帰還 ◆冬 費イ、漢寿に駐屯 | |
252 | ◆2月、張氏立后。大赦。 ◆11月、詔勅により王チョウ、胡遵、カン丘倹が呉征伐。 ◆12月、呉の諸葛恪の防戦。東関において魏軍敗走、帰還。 | ◆劉ソウを西河王に封ずる | ◆4月 孫権が崩御。孫亮が即位。 |
253 | ◆4月、大赦。 ◆5月、呉の諸葛恪が合肥新城を包囲、司馬孚防戦。 ◆7七月、諸葛恪撤退。 ◆8月、蜀の費イを殺害した郭脩を追封、諡(威)、褒賞を下賜。 | ◆正月 費イ死去 ◆4月 姜維、南安を包囲。撤退する | |
254 | ◆2月庚戌、李豊と張シュウらは司馬師に代え夏侯玄を大将軍とすることを画策するが発覚、関係者は誅殺。辛亥、大赦。 ◆3月、張氏廃后。 ◆4月、王氏立后。大赦。 ◆9月、司馬師が帝の廃位を皇太后に奏する。甲戌、皇太后の命により、帝(曹芳)廃位。 | ◆正月 姜維、成都に帰還 ◆6月 姜維、隴西に出撃 ◆冬 姜維、狄道・河関・臨トウの三県を陥落させる | |
255 | ◆春 姜維、成都に帰還 ◆夏 姜維、狄道に出撃。王経を破るが追撃しきれず鐘題に退却 | ||
256 | ◆春 姜維、大将軍になる ◆8月 姜維、トウ艾に上ケイで破れ成都へ撤退 ◆この年、劉サンを新平王に封ずる | ||
257 | ◆姜維、芒水に出陣 | ||
258 | ◆姜維、成都に帰還 景星(めでたい星)があらわれる。改元 黄皓がはじめて政治権力を握る | ◆9月 孫亮が廃される。孫休が即位。 | |
259 | ◆6月 劉シンを北地王に、劉恂を新興王に、劉虔を上党王に封ずる | ||
260 | ◆曹ボウ死去。曹カン即位 | ◆9月 関羽・張飛・馬超・ホウ統・黄忠に謚を追贈 | |
261 | ◆3月 趙雲に謚を追贈 | ||
262 | ◆姜維、侯和に出撃。トウ艾に破れ沓中に留まる 宮中の大樹がひとりでに折れる | ||
263 | ◆夏 魏軍の侵攻を受ける ◆冬 劉禅がトウ艾に降伏、蜀滅亡 | ||
264 | ◆正月 成都の乱、姜維・張翼死去 ◆3月 劉禅、洛陽に到着し安楽県公を拝命 | ◆7月 孫休が崩御。孫晧が即位。 ◆8月 施績、左大司馬になる。丁奉、右大司馬になる。張布、驃騎将軍・侍中になる。 ◆9月 太后(朱氏)、景皇后におとされる。孫和に諡する。何氏、太后になる。 ◆10月 孫ワンをヨ章王、孫コウを汝南王、孫モウを梁王、孫ホウを陳王に封ずる。滕氏を皇后に立てる。 ◆11月 濮陽興と張布、誅殺される。 ◆12月 孫休、定陵に葬られる。滕牧を高密侯に封ずる。 | |
265 | ◆5月 司馬炎、晋王の太子となる。 ◆8月辛卯 司馬昭死去。司馬炎、相国と晋王の位を継ぐ。国内は三日間の服喪。 ◆9月戊午、何曾、王沈、賈充、裴秀が開府。 ◆11月、四護軍創設。乙未、諸郡の中正官に、六ヶ条のもと、人材を推挙させる。 | ◆3月 徐紹と孫イク(呉からの降将で魏の使者)に伴わせて魏へ返書の使者を送るが、徐紹は途上で呉に召し還され殺される。 ◆4月 甘露が降ったとの報告により甘露と改元し大赦。 ◆7月 孫晧が景后の朱氏をおいつめて殺し、孫休の四人の息子を呉の小城に閉じこめ、のち上二人を殺す。 ◆9月 西陵督・歩闡の上表に基づき都を武昌に遷す。丁固と諸葛セイが建業に留まり守りにあたる。 ◆11月 使者の紀陟と弘キュウ(弘璆)が魏から送り返される。武昌で大赦。零陵郡南部を始安郡、桂陽郡南部を始興郡とする。 | |
西晋 | |||
◆12月丙寅、魏晋革命。大赦を行い、改元。五級ずつ爵を下賜。丁卯 魏帝を陳留王に封じ、魏室の諸王を県侯とした。宣王に宣皇帝、景王に景皇帝、文王に文皇帝、宣王妃の張氏に宣穆皇后を追尊。文武官ともに二等加増。景初暦を改め太始暦を作成。戊辰、倹約の詔。中軍将軍設置。己巳、陳留王へ詔。天子の旌旗を載せ、五時副車を備えさせ、魏の暦により、天地を祀らせた。礼楽制度を魏の如くし、上書の際、臣を称さずとする。山陽公劉康と安楽公劉禅の子弟一人ずつをフ馬都尉とした。乙亥、トウ艾の一族へ大赦。魏の宗室の禁錮を解除。 | |||
266 | ◆正月丙午、楊氏を皇后に冊立。 ◆2月、漢の宗室の禁錮を解除。 ◆3月戊戌、呉の者が弔祭に訪れ、司馬炎は書面にて回答。 ◆5月壬子、王沈死去。 ◆7月辛巳、太廟を造営。 ◆8月丙辰、右将軍廃止。 ◆11月己卯、倭人来貢。山陽公国の督軍廃止。 ◆12月、農官を廃止して郡県とする。 | ◆正月 張儼と丁忠が司馬昭の弔問の使者に立つ。帰路に張儼が病死。 ◆8月 各地で大きな鼎が発見され、宝鼎と改元、大赦。陸凱を左丞相、万イクを右丞相に任じる。 ◆10月、山賊の施但らが孫謙を脅迫して孫和の墓陵を荒らし、丁固と諸葛セイが迎撃し牛屯で戦う。施但らが敗走し孫謙が自殺。会稽郡を分割して東陽郡を、呉郡と丹陽郡を分割して呉興郡を作る。零陵郡北部を邵陵郡とする。 ◆12月 都を建業に戻す。滕牧が武昌に留まり守りにあたる。 | |
267 | ◆正月丁卯、司馬衷を皇太子に冊立。武衛将軍廃止。 ◆8月、都護将軍廃止、五署を光禄勳へ戻す。 ◆10月、士卒で父母を喪った者は、国境での軍務から外した。 ◆12月、星気讖緯の学を禁じる。 | ◆春 大赦。万が巴丘の守備につく。 ◆6月 顕明宮を造営。 ◆12月 孫晧が顕明宮に移る。 ◆この年 ヨ章・廬陵・長沙郡を分割して安成郡を作る。 | |
268 | ◆正月丙戌、律令完成。戊子、大赦。 ◆2月庚子、中軍将軍廃止。北軍中候設置。 ◆3月戊子、皇太后王氏が崩御。 ◆4月戊戌、王祥死去。振威・揚威護軍廃止、左右積弩将軍設置。 ◆9月、伊水・洛水の氾濫により青州・徐州・エン州・予州で大水害。官倉を開く。 ◆10月、呉将の施績が江夏へ、万郁が襄陽へ侵攻。司馬望が龍玻に駐屯。胡烈により万郁敗走。呉将の顧容が鬱林へ侵攻するも毛ケイ(毛炅)が大破、呉の劉俊と修則を斬首。 ◆11月、呉将の丁奉が芍破へ侵攻。司馬駿と司馬望が敗走させる。 ◆12月、五ヶ条の詔を郡国に布告。庚寅、扶南、林邑来貢。 | ◆2月 丁固を司徒、孟仁を司空に任じる。 ◆9月 孫晧が東関へ出陣。丁奉が合肥まで進軍。 ◆この年 劉俊と脩則らが交阯に進攻するも、晋将の毛ケイに破れ死亡。 | |
269 | ◆2月、雍州隴右の五郡、涼州の金城、梁州の陰平を以て秦州設置。青州・徐州・エン州で水害。己未、諸葛亮の孫、諸葛京官吏に登用。 ◆4月、地震。 ◆6月、鎮軍将軍廃止、左右将軍を再設置。 | ◆正月 孫謹を太子に立てる。淮陽王と東平王を立てる。 ◆10月、健衡と改元、大赦。 ◆11月、陸凱が死去。虞シ、薛ク、陶コウが陸路、李ボウ、徐存が海路で交阯に進軍。 | |
270 | ◆正月、呉将丁奉が渦口に侵入。牽弘が敗走させる。 ◆6月戊午、胡烈が、叛虜を万斛堆で攻撃し戦死。石鑑と田章がこれを討伐。 ◆9月、大宛が汗血馬を献上。焉耆来貢。 ◆11月、司馬炎、辟雍に行幸。 ◆12月、呉将の孫秀が亡命。戊辰、鎮軍を再設置。 | ◆春 万イクが建業に戻る。李ボウは進軍が難渋したため道案内にあたった馮斐を殺害して帰還。 ◆3月 雷のため七百人の死者が出る。 ◆4月、施績が死去。何定が李ボウの行動の問題点について上言したため李ボウと徐存の一家眷属が誅殺される。何定が夏口で巻狩を行う。孫秀が晋に逃亡する。 ◆この年、大赦。 | |
271 | ◆正月丙午、皇太子の加冠。匈奴の劉猛が反乱。 ◆3月、孫晧が寿陽へ出師。司馬望が淮北に駐屯し防いだ。丙戌、裴秀死去。癸巳、何崇が五千人を率い投降。 ◆4月、董元が呉将の虞氾の攻撃によって敗死。北地胡が金城に侵攻し牽弘がこれを討つも、群虜の蜂起によって牽弘を青山で包囲し、牽弘敗死。 ◆5月、雍州・涼州・秦州で飢饉。 ◆6月、公卿以下、将帥を各一人推挙するよう詔を発する。辛丑、長雨により、伊水・洛水・黄河が氾濫。 ◆7月癸酉、呉将の陶コウが交趾を包囲。楊稷と毛ケイ(毛)及び日南等の三郡が呉に投降。 ◆8月丙戌、益州南部の四郡を分割し、寧州を設置。 ◆10月丁丑、日蝕。 ◆12月、大雪。中領軍と北軍中候を廃止。 | ◆正月晦 孫晧が母や妃らを伴い華里に御幸。華覈らが引き止め都に戻す。 ◆この年 虞シと薛クが交阯を破る。九真と日南を取り戻す。大赦。交阯を分割して新昌郡とする。扶厳を破り、武平郡を置く。范慎を太尉に任じる。丁奉、孟仁が死去。鳳凰が現れたため、明年より鳳皇と改元を決定。 | |
272 | ◆正月、何テイが匈奴の劉猛を幾度も打破。左部帥の李恪が劉猛を殺して投降。 ◆2月乙亥、彫文や綺組で違法なものを禁じる。壬辰、司馬孚死去。内外群官に、辺境の郡で任に就く者を各々三人推挙するよう詔。 ◆4月、後将軍を置き、四軍を備えた。 ◆6月、益州にて張弘が皇甫晏が叛したと誣告し、彼を殺害、首級を都に送った。張弘は誅され、三族に累が及んだ。壬辰、大赦。 ◆9月、呉将の歩闡が投降。呉将の陸抗が歩闡を攻撃。羊コが江陵へ出撃、楊肇が西陵で歩闡を迎え、徐胤が健平を攻撃し、歩闡を援護。 ◆10月辛未朔、日蝕。 ◆12月、楊肇は陸抗を攻めるも、勝てずに帰還。歩闡の城は落ち、陸抗に捕えられた。 | ◆8月 孫晧が歩闡を召喚しようとする。歩闡が西陵城に籠城し晋に投降。陸抗が西陵を包囲して歩闡を捕らえる。歩闡ほか十数名が一族誅殺される。大赦。 ◆この年 万イクが譴責を受け憂死し、その子弟が廬陵に移住させられる。何定が悪事の発覚により誅殺される。 | |
273 | ◆2月癸巳、石苞死去。 ◆4月戊辰朔、日蝕。 ◆5月、旱魃。 ◆7月丁酉朔、日蝕。呉将の魯淑が弋陽を包囲、王渾がこれを撃った。五官左右中郎将・弘訓太僕・衛尉・大長秋等を廃止。鮮卑が広寧に侵攻。詔、公卿以下の子女を集め後宮にて選抜が終わるまで、一時的に婚姻を禁じた。 ◆10月辛巳、娘が十七歳になって父母が嫁にやっていない者は、高官が娶せると制定。 ◆11月丁酉から甲辰、司馬炎、宣武観に出御し大閲を行う。 | ◆3月 陸抗を大司馬に任じる。 ◆9月 丁固が死去。淮陽王を魯王、東平王を斉王に改封、ほか九王を封じて王ごとに三千の兵を配する。大赦。陳声が孫晧の愛妾の罪を処罰したため、孫晧の怒りをかって惨殺される。 ◆この年 范慎が死去。 | |
274 | ◆閏月癸酉、鄭沖死去。丁亥、詔、妾を正夫人とすることを禁じる。 ◆2月、幽州の五郡を分割し、平州を設置。 ◆3月癸亥、日蝕。 ◆4月己未、荀ギ死去。この夏、イナゴが大量発生。 ◆7月丙寅、皇后の楊氏が崩御。壬午、呉将の孟泰や王嗣らが投降。 ◆8月、涼州の蛮族が金城諸郡に侵攻。司馬駿が討伐し、乞文泥らを斬った。 ◆9月癸亥、呉の枳里城を攻略し、呉の荘祐を捕縛。呉将の孫遵と李承が江夏に侵攻。ケイ喜がこれを撃った。富平津に河橋を渡した。 ◆11月、城東の七里澗に石橋を渡した。庚午、司馬炎、宣武観に出御し大閲を行う。 ◆12月、彗星が軫に現れた。藉田令を設置。呉将の厳聡と厳整と朱買が投降。 ◆この年、陜の南山を開削し、黄河から洛水に注ぐようにし、水路を通した。 | ||
275 | ◆正月戊午朔、大赦、改元(咸寧)。 ◆2月、叛虜である樹機能が人質を送り投降を請うた。 ◆5月、下ヒ・広陵で大風。 ◆6月、鮮卑の力微が息子を派遣して来貢。呉が江夏に侵攻。馬循が叛した鮮卑を討伐、渠帥を斬る。戊申、太子セン事官を設置。 ◆7月甲申晦、日蝕。郡国で螟(ずいむし)が発生。 ◆8月壬寅、故人の鄭沖・荀ギ・石苞・裴秀・王沈・司馬孚ら、及び何曾・賈充・陳騫・荀キョク・羊コ・司馬攸らを銘饗に列する。 ◆9月甲子、青州で螟(ずいむし)が発生。徐州で大水害。 ◆11月癸亥から己巳まで、司馬炎、宣武観で大閲。 ◆12月丁亥、宣帝の廟号を高祖、景帝の廟号を世宗、文帝の廟号を太祖と追尊。この月、疫病が大流行。 | ||
276 | ◆正月、疫病のため政務を停止。 ◆2月丙戌、東夷八国が帰順。ヘイ州の蛮族が塞を犯すも、胡奮が撃破。敦煌太守の尹キョが逝去した時、州は敦煌令の梁澄に郡の政務を治めさせたが、議郎の令狐豊が梁澄を廃し、自ら郡の政務を治めた。令狐豊が死去すると、弟の令狐宏がこれに代わった。この時に至り、涼州刺史の楊欣が令狐宏を斬り、首級を洛陽に送った。司馬炎の病が治癒。(流行り病か?) ◆5月、司馬駿が北胡を討ち、渠帥の吐敦を斬った。国子学を設立。 ◆6月、甲戌、テイに彗星が現れる。春から旱魃だったが、この月になって雨が降り始める。呉将の孫楷が投降。 ◆7月、大角に彗星が現れる。呉の臨平湖は、漢末以来塞がっていたが、自然に開いた。父老曰く「この湖が塞がれば、天下は乱れ、この湖が開けば、天下は平らかになる」。東夷十七国が帰順。河南・魏郡で大水害。鮮卑の阿羅多らが辺境に侵攻、馬循がこれを討伐し、阿羅多を投降させた。 ◆8月庚辰、河東・平陽で地震。彗星が太微に現れる。 ◆9月、彗星が翼に現れる。丁未、太倉を城東に設け、常平倉を東西市に設置。閏月、荊州の五郡で水害。 ◆10月、丁卯、楊氏を皇后に冊立。大赦。 | ||
277 | ◆正月丙子朔、日蝕。庚寅、彗星が西方に現れる。衛カンが鮮卑の力微を討伐。 ◆3月、文淑が叛虜の樹機能を討伐。彗星が胃に現れる。 ◆5月戊子、呉将の邵凱と夏祥が投降。 ◆6月、益州と梁州の八郡で水害。 ◆8月、寒波に見舞われ、氷が張る。五郡国で霜が降り、穀物に損害。 ◆9月、エン州・予州・徐州・青州・荊州・益州・梁州の七州で水害、収穫に損害を与える。 ◆11月丙戌から壬辰まで司馬炎、宣武観に出御し大閲。 ◆12月、呉将の孫慎が江夏・汝南に侵入、略奪。この年、西北の雑虜及び鮮卑、匈奴、五渓蛮夷、東夷三国とその周辺の十あまりの種族が帰順。 | ||
278 | ◆正月庚午朔、日蝕。 ◆3月、東夷六国が来貢。 ◆4月、蚩尤旗が東井に出現。 ◆6月丁未、陰平・広武で地震。甲子、地震。楊欣が若羅抜能らと武威で戦い敗死。弘訓皇后羊氏が崩御。 ◆7月、荊州・揚州の二十の郡国で大水害。 ◆10月、応綽が呉の皖城を攻撃する。 ◆11月辛巳、司馬炎、程據が献上した雉頭裘を殿の前で焼き払う。呉将の劉翻と祖始が投降。辛卯、羊コ死去。 ◆12月乙未、何曾死去。この年、東夷九国が帰順。 | ||
279 | ◆正月、虜帥の樹機能が涼州を陥落。乙丑、馬隆がこれを攻撃。 ◆3月、匈奴都督の抜エキ虚が帰順。柳に彗星が現れる。 ◆4月、女御に彗星が現れる。大赦。部曲督以下の者の人質を廃止。丁亥、八の郡国で雹が降り収穫に損害。 ◆7月、紫宮に彗星が現れる。 ◆10月戊寅、匈奴余渠都督の独雍が帰順。 ◆11月、征呉の軍を起こす。司馬チュウがジョ中へ、王渾が江西へ、王戎が武昌へ、胡奮が夏口へ、杜預が江陵へ出撃。また、王濬と唐彬は長江を船で下った。東西合わせて二十万人余り。賈充が大都督、楊済が副官として諸軍を統轄。 ◆12月、馬隆が虜帥の樹機能に大勝、樹機能を斬った。涼州平定。 | ||
280 | ◆正月癸丑、王渾が呉の尋陽・頼郷の諸城を攻略、呉将の周興を捕縛。 ◆2月戊午、王濬・唐彬が丹楊城を攻略。庚申、さらに西陵を攻略し、留憲・成キョ・鄭広を殺害。壬戌、王濬は夷道・楽郷城を攻略、陸晏・陸景を殺害。甲戌、杜預が江陵を攻略、呉の伍延を斬った。胡奮が江安を攻略。楽郷・荊門の守兵が投降。王濬は進軍し、夏口・武昌を打破、長江を東へ下り、到達した地点をみな平定した。王渾・周浚は呉の張悌と版橋で戦い大勝。張悌及び孫震・沈瑩を斬首し、首級を洛陽に送る。孫晧は降伏を乞い、璽と綬を司馬チュウへ送った。 ◆3月壬寅、王濬は船で建業の石頭に至る。孫晧は、面縛し棺を担ぎ、軍営の門まで出てきて降伏。呉の滅亡。王濬は縄を解き棺を焼き、彼を都へ送致した。 | ||
西晋による統一 | |||
- | ◆3月乙酉、大赦、改元(太康)。 ◆4月、河東・高平で雹が降り、収穫に損害。三河・魏郡・弘農で雹が降り、麦に損害。 ◆5月辛亥、孫晧を帰命侯に封じ、孫晧の太子を中郎、他の息子達を郎中とした。六つの郡国で雹が降り、収穫に損害。庚午、詔、士卒で六十歳以上の者を退役させた。 ◆6月丁丑、翊軍校尉を新設。甲申、東夷十国が帰順。 ◆7月、軻成泥が西平・浩ビに侵攻。東夷二十国が朝貢。 ◆8月、車師が息子を入朝させる。 ◆9月、群臣は、天下一統を以って封禅を請願したが、司馬炎は謙譲して許さず。 |