費イ

Last-modified: 2008-01-24 (木) 09:03:24

概要

費(ひ)(Fei)
禕(い)(Yi)
文偉(ぶんい)(Wenwei)
敬侯
所属勢力
蜀漢
生没年
生年不詳~253(生年不詳~延煕16)
出身地
江夏郡ボウ県
最終経歴
大将軍・録尚書事

略歴

  • 蜀漢の政治家。諸葛亮、蒋エン、董允らと共に「四英」「四相」などと称される。
  • 子に費承(黄門侍郎)、費恭(尚書郎、公主を娶るも早世)。長女は皇太子劉センの妃。
  • 253年、宴席で魏の降将・郭循に刺殺される。

年表

西暦年号出来事
不明不明幼い頃に父を失い、族父(おじ)の費伯仁のもとへ身を寄せる。
費伯仁の姑(おば)は益州牧劉璋の母であった為、族父に連れられて蜀に入る。
214建安19劉備が蜀を平定。
益州に留まり、汝南郡の許叔龍、南郡の董允らと名声を等しくする。
221章武元劉禅が立太子。
董允らとともに太子舎人となり、やがて太子庶子に昇進する。
223建興元劉禅が即位。
黄門侍郎となる。
225建興3丞相・諸葛亮が南征。帰還する彼を出迎えた官僚達の中で、特別に指名されて諸葛亮の車に同乗し、衆目を集める。
この頃、昭信校尉に任じられ呉に使者する。帰国後、侍中に昇進する。
230建興8中護軍に転じる。後に司馬となる。
234建興12諸葛亮が死去。後軍師となる。
235建興13尚書令の蒋エンが大将軍となる。
同じ頃、蒋エンに代わって尚書令になったと思われる。
241延煕4冬10月に漢中に行き、蒋エンと計策。年末に成都へ帰還。
243延煕6病を発した蒋エンが漢中よりフへと退く。
大将軍・録尚書事となる。
244延煕7閏月、魏の曹爽、夏侯玄らが漢中に出兵。節を与えられて諸軍を統率し、魏軍を撤退。成郷侯に封じられる。
この頃、益州刺史を兼任する。
245延煕8冬12月に漢中に行き、守備の陣営を視察する。
246延煕9夏6月、成都に帰還する。
248延煕11夏5月に出陣し漢中に駐屯する。
251延煕14夏に成都帰還する。冬に再び北方に赴き漢寿に駐屯する。
252延煕15漢寿に幕府を開く。
253延煕16春正月、宴席で魏の降人・郭循に刺殺される。

正史と演義の差異

親交のあった人物

  • 董允
  • 諸葛亮
  • 孫権

姓名の意味・解説

史家・後世の評価

  • 陳寿「費イは寛容で人を差別なく愛し、(蒋エンとともに)諸葛亮の定めた規範をうけ継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのために辺境地帯は安定し、国家は和合した。しかしながら、公務以外の場における身の処し方を充分わきまえていなかった(魏の降人に殺されたことをさす)」『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)蒋エン費イ姜維伝の評より
  • 裴松之の「蒋エン・費イは宰相として、よく国民を一つにまとめるよう心がけ、一度も功業をいいかげんな軍事行動をおこして国に損害を与えることなく、外は駱谷の軍を撤退させ、内は国内安定の実を保った」『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)蒋エン費イ姜維伝の評注より

豆知識

  • 諸葛亮のめがねにかなった費イは、何度も呉に使いした。孫権は「君は天下の善徳の士である。必ずや蜀朝の股肱の臣となるであろうから、たぶん何度も来ることは不可能だろうな」と費イを評した。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)費イ伝より
  • 費イはいつも仲の悪い軍師の魏延と長史の楊儀の座席に割って入り、両者を諌め諭した。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)費イ伝より
  • 五丈原にて没する前、諸葛亮は内密に長史の楊儀、司馬の費イ、護軍の姜維らに対し、自身の死後は魏延に敵の追撃を断たせ、姜維にその前を行かせ、もしも魏延が命令に従わない場合には、軍はそのまま出発するように指示を与えた。諸葛亮が没すると、楊儀は費イに魏延の意向を打診させた。魏延は「丞相が亡くなられてもわしは健在である。幕府づきの役人たちは遺体を運んで帰国し、埋葬するがよかろう。わしはみずから諸軍を率いて賊を撃つのが当然である。一人の死によって天下のことを廃するとはなにごとか。それにこの魏延を誰だと思っているのか。楊儀ごときの指揮を受け、殿軍の大将などなれるものか」言い、そのまま費イとともに、去る部隊と留まる部隊に区別し、連名で諸将に告示した。費イは魏延をだまして「君のために立ち戻って楊長史に説明しましょう。長史は文官で軍事の経験が少ないですから、けっして命令にそむかないでしょう」と言い魏延の元を逃れた。費イが去ってすぐに魏延は後悔し、費イを追いかけたが追いつけなかった。楊儀らは諸葛亮の指図に従って撤退し、魏延は楊儀の意を受けた馬岱に斬られ、魏延の三族は処刑された。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)魏延伝より
  • 楊儀は諸葛亮の後継と自負しながらも閑職に任じられ、怨みと憤りの念が声や顔色にあらわれていた。当時の人々は彼の言葉の節度のなさに恐れをなしたが、ただ費イだけは楊儀を訪問して慰めた。楊儀は費イに怨みつらみをぶちまけ、「丞相がおなくなりになった際に、わしがもしも軍をあげていたならば、世にあってここまで落ち目になったはずがあろうか」と言った。費イはひそかに楊儀の言葉を上奏した。楊儀は庶民に落とされ、漢嘉軍に流された。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)楊儀伝より
  • 費イは人並みはずれた理解力をもっており、記録を読む場合いつも目をあげてしばらくみつめただけで、もうその内容に精通した。その早さは人の数倍であり、また決して忘れることはなかった。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)費イ伝注『費イ別伝』より
  • 費イは朝と夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊びたわむれ、博奕までし、人のやる楽しみを尽くしながら、仕事も怠らなかった。『正史三国志5 蜀書』(ちくま学芸文庫 井波律子訳)費イ伝注『費イ別伝』より

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