注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
富国強兵を掲げた明治政府はやがて国外進出を試み、清と戦い勝利した後は国際社会の中心国家として躍進。
さらに明治末期には日露戦争においてロシアを撃破し、アジアの有力国家として成長する。
伊藤博文
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
27 | 59 | 92 | 97 | 85 | 神眼 | 法律 | 論客 | 名声 | 浪費 |
【イトウヒロブミ】
幕末~明治の政治家。長州藩士。伊藤俊輔とも。百姓の生まれであったが、松下村塾でよく学び、吉田松陰の影響を受けた。
のち一度藩命でイギリスへ渡航したが、帰国後は桂小五郎、高杉晋作らの挙兵にも参陣し長州藩の倒幕運動に参加。
明治新政府では大久保利通、大隈重信らとともに殖産興業に力を入れ、お雇い外国人らの協力もあり、
新橋横浜の鉄道敷設や群馬県甘楽郡に官営の富岡製糸場を設立した。
枢密院議長、内務卿、内閣総理大臣と要職を歴任する傍ら、日清日露と国運を巡る戦争の戦後処理にも貢献。
後に初代韓国統監に就任した際に一度は韓国併合に反対し、最終的に是認するがハルビン駅で凶弾に倒れた。
首謀者は朝鮮人だと言われるが、併合強硬派によるものとする異説もある。
山縣有朋
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 81 | 75 | 78 | 30 | 名声 | 調練 | 動員 | 教化 | 召募 |
【ヤマガタアリトモ】
幕末~明治の軍人、政治家。元長州藩士。元帥陸軍大将。
吉田松陰や久坂玄瑞らの影響を受け、高杉晋作のもとで頭角をあらわした。
長州藩の維新志士として長州征伐や戊辰戦争で軍功。明治政府では西郷隆盛と協力して
軍制改革を実行した。西南戦争や日清戦争でも司令官として指揮を執り、勝利に貢献している。
一方で後進の育成や政治主導にも余念がなく、政界でも幅広い人脈を築いていた。
晩年は元老として実権を握っていたが、反対勢力との対立も少なくなかったと言われる。
桂清澄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 60 | 78 | 89 | 82 |
【カツラキヨズミ】
幕末~明治時代の軍人、政治家。長州藩士。「桂太郎」の名で有名。
毛利元就の重臣桂広澄の子孫であり、その家柄から人脈を築いて重用される。
長州藩では藩主嫡男の毛利元徳の小姓となり、第二次長州征伐やのちの戊辰戦争に従軍。
戦後新政府では主に木戸孝允や山縣有朋らとともに陸軍創設に携わる。
その後伊藤博文や山縣有朋らに重用され、日清戦争に従軍。日露戦争では
戦局の根幹を握る内閣総理大臣に指名され、東郷・大山らを起用して善戦した。
のちに政府で支持を集め、西園寺公望と並ぶ「桂園時代」を作った。1913年病没。
大隈重信
生年 | 没年 | 死因 | |
1837 | 1925 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
65 | 40 | 95 | 97 | 85 | 人脈 | 論客 | 胆力 | 沈着 | 王道 |
【オオクマシゲノブ】
幕末~大正の政治家。佐賀藩士。大隈八太郎とも。尊皇攘夷派志士として活躍。明治政府内では外国事務局判事などを経て、明治3年参議となる。6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任。征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。明治14年の政変で失脚し、その翌年に立憲改進党を組織、東京専門学校を創立。第1次伊藤、黒田両内閣の外相として条約改正に関与。第2次松方内閣の外相兼農商務相。31年憲政党を組織してのち、首相に就任した。40年政界を引退したが、のち復帰。大正3年に再び首相(第二次大隈内閣)となり、対華二十一箇条の要求を中国と締結した。
陸奥宗光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 62 | 97 | 97 | 43 | ||||||||||||
51 | 62 | 97 | 97 | 43 | 論客 | 特使 | 調達 | 操舵 | 策士 |
【ムツムネミツ】
維新期の外務大臣。首相伊藤博文の下不平等条約改正に尽力し、英国と治外法権を撤廃した日英通商航海条約を締結。
その際、政権維持の為裏で暗躍したことで『カミソリ大臣』と渾名された。
西郷従道
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 59 | 84 | 81 | 80 | 柱石 | 仁政 | 慰撫 | 名声 | 召募 |
【サイゴウツグミチ】
幕末、明治時代の軍人。薩摩藩士。西郷隆盛の実弟。大山巌の従弟。本名は「隆興」。
はじめ島津斉彬に茶坊主として出仕するが、彼に惹かれて還俗し、精忠組に加担して
島津斉彬に忠誠を誓い尊皇攘夷運動に身を投じた。その後、薩英戦争や戊辰戦争に若年ながら従軍。
新政府では山縣有朋らとともに軍制改革に着手し、台湾出兵にも貢献。実兄の隆盛が下野すると
薩摩閥重鎮となり、陸軍卿、農商務卿など要職を歴任。のちに海軍大臣となり山本権兵衛を重用して
海軍を陸軍に並び立つ巨大組織へと成長させた。1892年元老就任、のち1902年死没。
大山巌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
96 | 76 | 75 | 52 | 89 | 闘将 | 堅守 | 発明 | 使役 | 英名 |
【オオヤマイワオ】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。通称は大山弥助。
薩英戦争で西欧列強の軍事力に衝撃を受け、江川塾で砲術を極める。
戊辰戦争では野戦指揮官として各地を転戦。彼が改良した「弥助砲」は会津戦争などで猛威を振るった。
日露戦争では満州軍総司令官に就任。満州平野で総兵力50万に匹敵する精強なロシア軍と
国家の命運を賭けた一進一退の攻防を繰り広げ、薄氷の勝利をもぎ取る。
海の東郷に対し、陸の大山と評される英雄。君が代を国歌に推挙した人物としても知られる。
東郷実良
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
96 | 78 | 89 | 32 | 90 | 闘将 | 水戦 | 操舵 | 威風 | 泰然 | 沈毅大略 | 連弩 | 混乱 | 鼓舞 | 強襲 | 矢嵐 | 水軍育成 Lv5 | 覇道 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
94 | 78 | 86 | 54 | 91 | 神機 | 掃討 | 水戦 | 操舵 | 英名 |
【トウゴウサネヨシ】
日本の武士・薩摩藩士、明治・大正期の大日本帝国海軍軍人。「東郷平八郎」の名で有名。
明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。
日露戦争でロシア海軍を破った事で世界の注目を集め、「東洋のネルソン」として賞賛された。
世界三大提督の一人として、現在でも世界の海軍将校からその名を知られている。肉じゃがの生みの親でもある。
伊東祐亨
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 58 | 77 | 58 | 79 |
【イトウスケユキ】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
勝海舟の神戸海軍操練所で塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
日清戦争直前には海軍大将に昇進、連合艦隊司令長官に就任した。
豊富な資金力で世界最強の軍艦を保有した清国の北洋艦隊に対し、日本は軍艦と呼べる軍艦を持たなかったが、
巧みな艦隊運動と新兵器の水雷艇で北洋艦隊を無力化。清国提督・丁汝昌を戦死させ、北洋艦隊を完全に駆逐した。
戦力的に日本の勝利は絶対にあり得ないと考えていた西欧列強はこの結果に驚愕したと伝わる。
黒木為楨
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 88 | 57 | 31 | 70 | 疾走 | 威風 | 果敢 | 昂揚 | 猪突 |
【クロキタメモト】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
戊辰戦争で旧式の小銃隊を率いて多大な活躍を収める。西南戦争、日清戦争にも参戦し、
日露戦争直前には陸軍大将に昇進した。日露戦争が勃発すると第一軍司令官を拝命。
初戦の鴨緑江会戦でロシア軍をわずか1日で撃破して白人社会を驚愕させる。
その後は本営からの命令を待たずに独自で作戦を展開、敵の準備不足をついた
電撃作戦で次々に要所を占拠した。戦線が予想外に拡大したため本営からの補給が滞ったが、
為楨は夜襲と白兵戦を用いてなおも進撃をやめず、その尋常ではない連戦連勝にロシア軍は彼を
『クロキンスキー』と称して恐れた慄いたという。彼の猪突猛進に本営は頭を悩ましたが、
初戦のこの勝利がなければ外貨調達の目途が立たず、日本の勝利はあり得なかったと言われる。
剛直で荒々しい軍人であり明治天皇を相撲で投げ飛ばした逸話を持つ。
野津道貫とは戦功を競い合う仲だったが、日露戦争では日清戦争時に取得した地図を野津軍に提供する度量も兼ね備えていた。
乃木希典
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
98 | 77 | 90 | 65 | 95 | 神将 | 機略 | 発明 | 求心 | 規律 | 軍神 | 不撓不屈 | 規略明練 | 鼓舞 | 衝車 | 投石 | 軍制改革 Lv5 | 王道 |
戦傷で腕を切断することになった兵士達のため新しい義手を設計開発したことから発明、クロパトキンを撤退させたことから機略を付与。消沈については戦後の話であるため除いた。
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
92 | 62 | 89 | 58 | 93 | 神将 | 求心 | 詩想 | 柱石 | 消沈 | 軍神 |
【ノギマレスケ】
幕末~明治の軍人。長州藩士。後世に軍神、聖将の異名を残す。
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いた歴戦の将帥で、日露戦争では第3軍を率いる司令官に就任。
難攻不落の旅順要塞攻略を本営から命じられ、6万人という甚大な戦傷者を出しながらもこれを成し遂げた。
奉天会戦においては包囲作戦の左翼を命じられ、その武名を恐れたロシア軍司令官クロパトキンから
10万の兵力を差し向けられるも、3万8千の兵力でこれを押しかえしクロパトキンに撤退を決意させた。
武士道の体現者たるその強烈な精神性は多くの人々を惹きつけ、兵たちは彼の為に喜んで命を投げ捨てたという。
※補足
後世に名将か愚将かの殊更議論に絶えない軍人ながら、
第一次世界大戦の欧州で行われた近代要塞攻防戦の数々と比較すれば
乃木の攻略は迅速かつ最低限の犠牲に収まる事も忘れてはならない。
児玉忠精
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 58 | 83 | 95 | 82 |
【コダマタダキヨ】
幕末~明治の軍人。徳山藩士。源太郎の名で有名。
西南戦争の熊本城攻防戦に参加し、谷干城少将をよく補佐して功績をあげた。
日清戦争後は台湾総督に就任し、日露戦争前には内務大臣として開戦準備に尽力した。
日露戦争に際して陸軍大将となり、満州軍総参謀長に就任。日本の勝利に貢献する。
司馬史観では神算鬼謀の士とされ、史実においても軍官僚としての能力は高く評価される。
一方で遼陽会戦や黒溝台の会戦では前線からの情報を軽視して判断を誤る兆候があり、
度々日本軍を窮地に陥れ、その作戦参謀としての能力を疑問視する声もある。
秋山好古
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 86 | 70 | 65 | 81 | 神威 | 堅守 | 胆力 | 動員 | 調練 |
【アキヤマヨシフル】
幕末、明治、大正時代の軍人。松山藩士。
藩校明教館、ついで明治時代大阪師範学校を卒業。のちに陸軍士官学校を
卒業し、軍人としての道を歩む。殊に騎兵指揮に長けており、1887年には
フランスへ留学して先進的な騎兵戦術を学んだ。日清戦争、日露戦争に従軍し
特に日露戦争では、数多くの合戦で騎兵戦術を駆使し、ロシアのコサック相手に
善戦し軍功を上げた。晩年は元帥昇進の声もあったが拒否し、
郷里である松山で教鞭をとった。日本騎兵の父と言われる。
立見尚文
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 87 | 72 | 58 | 79 | 闘将 | 掃討 | 胆力 | 昂揚 | 果敢 |
【タツミナオフミ】
幕末~明治の軍人。
戊辰戦争で桑名藩の雷神隊を率いて各地を転戦。卓越した野戦指揮で新政府軍をたびたび撃破した。
朝日山の戦いでは山県有朋率いる大軍を敗走させ、奇兵隊出身の参謀・時山直八を戦死させる大功を得る。
西南戦争で明治政府の要請により陸軍少佐に就任。以後、功績をあげて陸軍大将まで上り詰めた。
日露戦争では第8師団の司令官に就任。ロシア軍9万2千の奇襲により日本軍が壊滅の危機に陥った黒溝台会戦において、
兵2万を率いて左翼の秋山好古隊8千を救援。多大な犠牲を被りながらも撃退に成功した。
剣術や槍術の印可を受ける武芸の達人であり、その生涯は「常勝」の異名で飾られる。
奥保鞏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 64 | 92 | 51 | 83 | 勇将 | 一心 | 慎重 | 寡欲 | 策士 |
【オクヤスタカ】
幕末~明治の軍人。小倉藩士。
陸軍に入隊し佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧などに参加する。西南戦争では頬を銃弾で射抜かれるが怯まず勇戦した。
日清戦争を前にして野津道貫の後任として第5師団長に就任する。その後日清戦争の功により華族に叙せられた。
日露戦争では第2軍司令官として南山の陣地を攻略したり得利寺の戦いで兵力で勝るロシア軍を撃破したりと殊勲を挙げ、「南山の奥」と賞された。
1911年に薩長閥以外で初の元帥となる。1930年病没。
参謀の補佐無しでも作戦の立案ができるほどに軍事に長け、戦功を誇らない謙虚な面も持ち合わせた人物であった。
梅沢道治
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 67 | 83 | 68 | 80 |
【ウメザワミチハル】
幕末~明治の軍人。仙台藩士。
戊辰戦争で幕府軍の額兵隊として参戦、敗北後は流罪となる。
釈放された後陸軍に入隊、西南戦争や日清戦争を経験し大佐まで昇進する。
日露戦争の沙河会戦において3倍以上のロシア軍を後備部隊を率いて撃退し、更なる大部隊による猛攻を受けるも持ちこたえ勝利の糸口を作った。
常に兵の士気に気を配り、部隊の歌を作ったりと部下を大切にしたため絶対の信頼を得ていた。
沙河会戦後、無類の戦上手だと陸軍全体に知れ渡り、3個連隊編成の大規模旅団に改編され、「花の梅沢旅団」と謳われた。
柴五郎
生年 | 登場 | 没年 |
1860年 | 1945年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 82 | 75 | 62 | 78 | 剛将 | 堅牢 | 胆力 | 沈着 | 節約 | 堅城鉄壁 | 地勢研究 | 王道 |
【シバゴロウ】
明治時代~昭和時代の陸軍軍人。
会津藩の出身で少年時に会津戦争を経験し戦後は斗南藩に移住した。
その後陸軍士官学校を経て陸軍士官となり、陸軍中佐時代の1900年に北京公使館駐在付武官であった際に義和団事件に遭遇し、
各国の公使館が義和団に包囲された際に55日間の籠城を指揮して守り通し、各国から勲章を得た。
以後も重職を歴任して最終的に陸軍大将まで昇進、太平洋戦争後終戦後の9月にに自害を図って失敗した際の負傷が元で12月に死去した。
出羽重遠
生年 | 登場 | 没年 |
1856年 | 1930年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 76 | 79 | 70 | 73 | 水戦 | 一心 | 不屈 | 運搬 | 三令五申 | 王道 |
【デワシゲトオ】
明治時代~昭和時代の海軍軍人。
会津藩の出身で会津戦争では白虎隊に属していた。
明治時代に入り海軍将校の道を選び日清戦争においては連合艦隊参謀長として連合艦隊司令長官である伊東祐亨を補佐し、
日露戦争の日本海海戦においては東郷平八郎直属の第一艦隊に属する第三戦隊にて巡洋艦四隻の指揮を執る。
その功績により新設された第四艦隊司令長官となり、明治45年には会津藩出身者としては初めて海軍大将に昇進した。
渋沢栄一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 53 | 87 | 99 | 81 | 能吏 | 富豪 | 徴税 | 教化 | 人脈 | 経世済民 | 王道 |
【シブサワエイイチ】
幕末、明治、大正、昭和時代の人物。
もとは武蔵の農民であったが、剣術を学んで縁あって徳川慶喜に仕える。
その後、徳川昭武とともにパリの万国博覧会を視察して感銘を受け、
明治新政府では大蔵省へと入省した。度量衡や国立銀行条例を定め、
退官後は第一国立銀行をはじめ、京阪電気鉄道、東京証券取引所など
大小500以上の企業設立に貢献。日本資本主義の父と呼ばれた
※コーエーのブランド名、「シブサワ・コウ」の「シブサワ」は彼にちなむ
岩崎弥太郎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 42 | 90 | 97 | 83 | 富豪 | 人脈 | 調達 | 操舵 | 直情 |
【イワサキヤタロウ】
維新期の豪商。三菱財閥の創業者。
土佐藩郷士出身。吉田東洋に見出された後,坂本龍馬・後藤象二郎らの知遇をうけ,土佐藩の通商に従事。1873年三菱商会を創設し海運業に進出。佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争で軍事輸送にあたり巨利を博し,三菱財閥の基礎を確立した。
新島八重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 64 | 58 | 55 | 71 |
【ニイジマヤヱ】
幕末、明治、大正、昭和時代の女性。「新島八重子」とも。旧姓は山本。
会津藩の砲術師範であった山本権八の娘。1865年に川崎尚之助と婚姻するが、戊辰戦争で敗北後に生き別れた。
その後米沢や京で過ごし、京で知り合った新島襄と再婚。彼の理想とする「同志社英学校」の設立に尽力する。
夫との死別後は日本赤十字社に入社し、日清戦争における軍人への治療などに貢献し、勲六等宝冠章を授与された。
1932年死没。
剛毅な性格で、会津戦争の際には自ら銃を持って籠城隊に志願し、奮戦したといわれる。
※一説には会津戦争における鶴ヶ城攻防戦で大山巌を狙撃した首謀者と言われている。
幸徳秋水
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
17 | 12 | 81 | 67 | 62 |
【コウトクシュウスイ】
明治時代の思想家。
高知県にうまれ、幼少期から四書五経を学ぶ。
その後、紆余曲折を経て萬朝報の記者として活動。
政治家の醜聞や自由民権運動、帝国主義を否定した反戦論を謳った。
その後、田中正造の依頼で足尾銅山鉱毒事件における直訴状の草案を記す。
のちに自ら同志たちとともに「平民社」を立ち上げ、平民新聞を手掛けるが
新聞紙条例適用など政府の弾圧を受け、大逆事件の首謀者として刑死した。
管野スガ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1881 | 1911 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
2 | 4 | 66 | 47 | 58 |
【カンノスガ】
明治時代の思想家。
大阪に生まれ、勝ち気な性格で知られた。19歳の時に結婚するが、
夫とソリがあわず離婚。その後大阪新報で記者となり、キリスト教に
改宗した。女性運動や社会主義運動に積極的に活動し、幸徳秋水や
堺利彦に共鳴して同志となる。その後荒畑寒村と結婚するが、赤旗事件で
夫が入獄すると三行半をつきつけて、幸徳秋水と愛人関係になった。
しかし、湯河原の湯治中に大逆事件に巻き込まれ、病身の身ながら刑死。
富田銀蔵
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1866 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
64 | 37 | 75 | 65 | 64 | 人脈 | 教唆 | 強奪 | 賊徒 |
【トミタギンゾウ】
明治時代のスリの大親分、仕立屋。「仕立屋銀次」と号した。金太郎の子。
始め仕立屋となるが、弟子で内縁の妻の広瀬おくにの父・清水文蔵がスリの親分であった事から、
自身もスリに手を染めた。文蔵の死後、スリの親分となり、主に列車内を狙ったので「箱師」と呼ばれた。
ただ、実際の犯行は弟子にやらせて、上前をはねていたという。関東のスリ組織を糾合し、弟子は千人を超えた。
さらに関西の犯罪組織と組み、一大犯罪ネットワークを形成。上納金で華族のような生活をしていた。
銀蔵は警察やマスコミと癒着し、また当時のスリは一種の人気者でさえあった。しかし1906年、ようやく警察の取締が本格化し、
1909年、ついに逮捕され、懲役10年・罰金200円の実刑判決を受けた。1917年頃出所するが、
再び逮捕され懲役8年の実刑判決。出所後は子供の家に身を寄せたが、1930年、万引きで逮捕された。
この時は不起訴処分となったが、以降の消息は不明。
銀次の弟子や孫弟子を称するスリは、1990年代まで活動していた。
親愛武将:スリの銀次