注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
戦国時代(B.C.403~B.C.221)
春秋時代に続く、秦によって中華が統一されるまでの時代。
戦国時代の呼称は『戦国策』『史記』にも見られるが、17世紀に普及するまでは“六国の世”または“七国の世”が一般的だった。
晋の分裂と斉の簒奪に始まる実力主義の時代で、周王室は洛陽?一帯を保つ弱小勢力に凋落し、初期には中原を占める魏が強勢となり、
次いで斉が覇を唱え、やがて未開発地を多く擁した楚と秦が抬頭し、斉・楚・秦が諸国との合従連衡を通じて覇を競った。
宋を併合した斉が済西の役(B.C.283)で壊滅し、公族の抑制に成功した秦が楚の雲夢を併合(B.C.278)したことで秦の優勢が確定し、
武霊王の軍事改革で抬頭した趙が長平の役(B.C.260)で壊滅すると秦に単独で対抗できる国はなくなり、
B.C.256年には周が滅び、他国もB.C.221年までに秦に順次蚕食併合された。
また諸子百家の時代でもあり、代表的な学派の墨家・道家・儒家・法家・陰陽家・農家・縦横家・雑家・小説家を以て九流とも呼ばれる。
多様な思想学問の勃興は中国史上稀有な現象で、相互に刺激して思想を深化させた状況は“百家争鳴”と称され、
学術の中心となった斉の稷下には著名な学者の多くが名を連ねた。
斉
田地
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 78 | 77 | 46 | 9 | 徴税 | 使役 | 高慢 | 悪名 | 浪費 | |||||||
76 | 79 | 79 | 42 | 26 | 徴税 | 使役 | 高慢 | 悪名 | 浪費 |
【デンチ】
戦国時代の斉の君主。斉の湣王。宣王の子。
宣王から継いだ権力を振るい、宋を滅ぼし燕・楚を攻めて支配下に置いた。
秦と共に2強時代を生み、東帝を名乗るが、
燕の楽毅が率いる5カ国の連合軍に斉が滅亡寸前まで追い詰められ、最後は楚の将軍の淖歯に殺された。
その後は、田単や襄王によって斉の滅亡は免れるが、かつての繁栄は無く、結果的に秦のみが一強となってしまう。
魏
西門豹
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 45 | 94 | 96 | 92 | 洞察 | 屯田 | 規律 | 農政 | 寡欲 |
※個性の組み合わせ不可能(洞察/規律)
【セイモンヒョウ】
戦国時代の魏の政治家。
孔子の弟子である卜商の元で政治を学び、同じく弟子であった李克と同じ国の魏の文侯に仕える。
彼が行ったことで特に有名なのは、
ここで私腹を肥やしている役人らを機知を持って懲らしめてから行った
鄴での灌漑事業である。
彼の祠だとされる西門豹祠は、漳河河畔の鄴の故地である現在の河南省安陽市付近に多数ある。
また、曹操に到っては「西門豹祠近くの西にわしの墓を作れ」と遺言したほどである。
魏圉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
38 | 35 | 24 | 46 | 40 | 動転 | 小心 | 優柔 | 惰弱 |
【ギキョ】
魏の安釐王。信陵君が活躍していたころの魏の君主。
戦国時代の魏の君主としては6代目、王としては4代目。
弟にはあの信陵君がいるが、強国秦がいる状態にも関わらず2回も国政から追い出したり、
趙と関係を結んでいるにも関わらず秦に怖気づけて兵を出さなかったり、*1
王としての資質には問題があった。
趙
趙何
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 48 | 77 | 86 | 92 | 任才 | 人脈 | 眼力 | 名声 | 仁政 |
【チョウカ】
戦国時代の趙の君主。趙の恵文王。武霊王の子。
元々は庶子だったが、武霊王が母親である孟姚を寵愛したために、
太子であった公子・章を廃して王位を譲られることになった。
なお、武霊王は譲位後も「主父」と自称し、実権を握り続けた。
廃嫡後、代に封ぜられた章は、恵文王を殺して王位を奪おうとするが失敗、
父である武霊王の屋敷に逃げ込むが、章及び武霊王は、恵文王の軍に包囲され餓死した。
その後は、趙奢や藺相如を見出したり、名将である廉頗や弟の平原君の活躍があったり、あの楽毅や田単も亡命してきたりと、
人材的には物凄く厚くなっていたために、秦どころかどの国にもうかつに攻められず趙は安定した時代をむかえた。
趙奢
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 78 | 89 | 84 | 87 | 神眼 | 驍将 | 法律 | 徴税 | 能吏 | 軍制改革5 | 王道 | |||||
94 | 80 | 90 | 81 | 88 | 神眼 | 驍将 | 法律 | 徴税 | 能吏 | 軍制改革5 | 王道 |
【チョウシャ】
戦国時代の趙の将軍。地方の税吏出身。馬服君。
平原君が貢税を拒否したため家士9人を処断し、報復に来た平原君を叱咤し、認められて中央に推挙された。
閼与の戦いでは廉頗・楽乗らが不可としたのを可能として将軍とされ、大勝して上卿に任じられ、馬服君と号した。
子の趙括は兵法論では父を凌ぐとされたが、趙奢は趙括を机上の空論家と評しており、
長平の戦いでは功を焦って白起?に大敗。趙軍40万を坑殺された。
後漢の光武帝に仕えた将軍馬援(馬超?の先祖)の馬氏は馬服君の末裔という。
親愛武将:廉頗、藺相如、馬騰、馬超
趙括
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 75 | 89 | 54 | 57 | 策士 | 智嚢 | 功名 | 粗忽 | 高慢 | |||||||
66 | 59 | 89 | 54 | 50 | 策士 | 智嚢 | 功名 | 粗忽 | 高慢 |
【チョウカツ】
戦国時代の趙の将軍。趙奢の息子。
兵法論では父を凌ぐとされたが、趙奢は趙括を机上の空論家と評し、
さらに母親からは将としての心がけがなってない等、散々であった。
そういう身内からの評判もあってか、長平の戦いでは功を焦って白起?に大敗。結果として、趙軍40万を坑殺された。
なお、このことは「紙上に兵を談ず(丸暗記するだけで、その応用を知らない)」の語源にもなってしまった。
秦
衛鞅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 62 | 90 | 98 | 83 | 振興 | 徴税 | 農政 | 法律 | 名声 |
【エイオウ】
戦国時代の思想家。商鞅。公孫鞅。衛の公族出身。
母国の衛が弱小国のため、若い頃から学問に励み、魏の恵王の宰相公叔座の食客となった。
公叔座は若き公孫鞅の才能に驚愕し、評価し惠王に「彼を宰相に取り立てれば強国となりますが彼を用いるつもりがなければ殺した方が良い」と進言した
惠王は全く意に返さず無視したが後年言うとおりにしなかった事を後悔したという
後に秦に仕え変法と呼ばれる国政改革を断行し僅か十年で富国強兵に成功し治安も非常に向上したが
法はかなり過酷で後に連座制や遅刻の重罪は秦崩壊への反乱の原因にもなった
先王の寵愛を受けており手を出せなかったが恵文王の代わり改革に不満持っていた貴族達が讒訴しそれ受け、身の危険を感じて魏へと亡命するが、
魏はこれを受け入れず、このため国内で捕まり車裂刑で惨殺された。
とはいえ、商鞅の死後も彼の法は残り、最終的に秦が統一出来たのも商鞅の法の功績とされる。
軍の指揮にも優れ、用兵家として斉の田単らと並び称される。
嬴疾
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 77 | 94 | 85 | 70 | ||||||||||||
94 | 81 | 97 | 90 | 78 |
【エイシツ】
秦の王族、武将、政治家。別名に樗里子、樗里疾。
諸国が連合して秦を攻めると、連合軍を討ち破って敵将の申差を捕縛した。
魏の焦と曲沃、趙の藺を攻略し秦の版図を拡充する。
魏章を支援して楚の将軍達に離間を仕掛け、楚軍を大破し屈丐を捕らえた。
さらに漢中?を攻め取り、その功績で厳君と呼ばれるようになる。
張儀?が放逐されると右丞相となり、重用される。
衛の蒲を攻めた際には、胡衍が利害を説いて講和を求めたため撤退した。
その智謀から「智嚢」と綽名され、後代に機智に富む人物が「智嚢(知恵袋)」と呼ばれるようになった。
魏冉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 47 | 72 | 89 | 63 | 富豪 | 文化 | 教化 | 振興 | 眼力 | |||||||
81 | 47 | 85 | 94 | 77 | 富豪 | 文化 | 教化 | 振興 | 眼力 |
【ギゼン】
戦国時代の秦の政治家。楚の人。穣公・陶公。
秦の三代に仕えた丞相で、幾度も丞相の位に再任した。
武王の急逝後、外戚として昭襄王を擁立した後、反対派の反乱を鎮圧して政権を固める。
楼緩に代わって宰相となり、白起?を登用し、韓・魏・楚を破り、秦の版図を拡大した。
その後も外征を繰り返し、自身の封邑である陶を広げ、斉の地を自領に組み込んだ。
しかし、范雎が昭襄王に取り立てられると、その専横ぶりを批判されて失脚する。
封地の陶で隠棲し、そのまま没したが、彼の家財は王室をも大きく凌いでいたという。
司馬錯
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 76 | 88 | 74 | 77 | ||||||||||||
87 | 76 | 88 | 74 | 77 |
【シバサク】
戦国時代の秦の将軍。司馬遷の八世の祖。恵文王・武王・昭襄王の3代に仕えた。張儀?と同時代の人物。
張儀の征周論に対して征蜀論を展開し恵文王に支持され、蜀の内乱に乗じて自ら蜀を征服し平定、秦の国力を大きく増強した。
また楚や魏との戦いで功績を挙げ、秦の勢力拡大にも貢献した。
范雎(叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
69 | 50 | 89 | 90 | 82 | 教化 | 振興 | 論客 | 策士 | 智嚢 | |||||||
69 | 50 | 90 | 96 | 66 | 教化 | 振興 | 論客 | 策士 | 智嚢 |
【ハンショ(シュク)】
戦国時代の秦の政治家。魏の人。
諸侯の間を遊説し、魏の大夫・須賈に仕え、使者として斉に向かう。
この時、斉の襄王は范雎の才覚を高く評価し、金十斤と牛・酒を送ってきたが、范雎はこれを断った。
しかし須賈や魏の宰相・魏斉に内通を疑われて凄惨な拷問を受けてしまう。
番人の協力を取り付けるとその場を逃れて鄭安平の下へ身を隠した後、秦の使者で魏に滞在していた王稽と共に秦へと渡る。
昭襄王からなかなか登用されなかったが、直接面会する機会を得ると王権強化による親族の政治的場からの排除、遠交近攻策を進言して信任される。
昭襄王の寵愛を受け宰相にまで登り秦の使いで来ていた須賈に「魏斉の首を持ってこなければ戦争だ」と魏を脅し怨敵魏斉の首を取ることに成功する
後、范雎は白起?の大功を恐れ、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた。
後任の恩人であった鄭安平と王稽が秦を裏切ったため連座制が適用され范雎も処刑されるのではと憂いたが、
『史記』の記述では昭襄王の寵愛は変わらなかった。後に遊説家の蔡沢が商鞅・呉起?・文種らを例に挙げ、
范蠡に倣って昭襄王が亡くなればあなたも同じ事になると説き致仕を奨めた。この言を容れた范雎は隠居を願い出でて領地で天寿を全うした。
ただ『史記』以前の成立である『酔虎地秦簡』では、王稽に連座し共に粛清されたとある。
後任の宰相には蔡沢が就いた。
蒙驁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 83 | 65 | 64 | 82 | 剛将 | 督将 | 崩壁 | 求心 | 眼力 |
【モウゴウ】
戦国時代の秦の将。息子に蒙武、孫に蒙恬?・蒙毅。
実は、斉の出身ながら秦で将軍にまで成り上がった人でもある。
負けたことがある相手は魏の魏無忌?くらいで、戦績は白起を上回り、
生涯で落とした城は判明分だけでも9年で72にも及ぶ名将。
なお白起と異なり捕虜の坑殺などは行った記録が無い。
蒙武
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 91 | 60 | 24 | 55 | 闘将 | 一騎 | 怒髪 | 調練 | 粗暴 |
【モウブ】
戦国時代の秦の将。蒙驁の子で蒙恬?・蒙毅の父。
父に劣らぬ名指揮官として各地を転戦し功を上げた。
楚の攻撃では王翦?の副将となり、淮南以外の楚の地を悉く奪い取り楚を討ち滅ぼす。
楚の項燕が昌平君を立てて反乱すると叛乱軍を撃破、昌平君を戦死させ項燕は自殺して楚は滅亡した。
王賁(典)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 84 | 80 | 55 | 78 | 勇将 | 求心 | 沈着 | 豪傑 | 長駆 |
【オウホン(テン)】
戦国時代の秦の将。名将王翦?の子。王離の父。秦王政?に仕えた。
魏侵攻戦では、黄河の水を魏の都城である大梁に引いて包囲し、魏王魏假を投降させ滅亡させる。
李信らと遼東方面に進撃し、燕王喜を捕らえ燕を滅亡させた。
更に斉を攻撃、都城の臨淄を急襲して包囲すると、斉王田建を降伏させ滅亡させた。
秦の中国統一事業に大きな功績を残し、その功で後に通武侯に封じられた。
後、王賁・王離父子は始皇帝の天下巡遊に従い、石碑に名を刻んでいる。
蒙毅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 50 | 82 | 88 | 78 |
【モウキ】
戦国時代の秦の将。蒙武の子で蒙恬?の弟。
蒙恬が始皇帝?に信任されると、蒙毅も親近され、上卿の地位を与えられて、
始皇帝の外出には常に車に陪乗し、宮中でも常に御前に侍った。
蒙恬は外征に任じられ、蒙毅は内政をはかり、共に忠信を称せられて、
他の諸将・大臣も敢えて二人と争おうとしなかった。
大罪を犯した趙高を処刑するよう命じたことで趙高に恨まれ、
始皇帝が崩御すると趙高の陰謀により、兄・蒙恬は捕らえられて蒙毅も獄に繋がれ、
間もなく趙高に弾劾されて、蒙一族は誅殺された。
尉繚
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 58 | 97 | 89 | 80 | 規律 | 文化 | 農政 | 徴税 | 振興 | |||||||
80 | 58 | 91 | 89 | 80 | 規律 | 文化 | 農政 | 徴税 | 振興 |
【ウツリョウ】
戦国時代の秦の将。秦王政?に仕えた。
秦に赴き、秦王政に六国の合従を財物30万金を費やして破綻させるように説いた。
秦王政は尉繚の進言に従い、尉繚を自分と対等の礼をもって待遇して衣服や飲食も同じくした。
後に、王の残忍さを危惧して秦を逃げ出そうとするが固く引きとめられて将軍となり、
秦国の尉としての計策を李斯が実践することとなった。
兵法書『尉繚子』が彼の著書という説もある。
楊端和
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 77 | 68 | 49 | 77 | 驍将 | 一騎 | 怒髪 | 傾国 | 胆力 |
【ヨウタンワ/ヨウタンカ】
戦国時代の秦の将軍。秦王政?に仕えた。
王翦?・桓騎とともに魏の鄴?を攻め九つの城を落とした。
河内の兵を率いて趙に攻め込み、邯鄲を囲み、翌年王翦と羌瘣が趙の地を平定した。
羌瘣
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 83 | 68 | 44 | 71 | 掃討 | 一騎 | 沈着 | 猛者 | 才媛 |
【キョウカイ】
戦国時代の秦の将軍。秦王政?に仕えた。
代を伐ち、王翦?とともに趙を攻め、趙王遷を東陽で捕らえて趙を滅ぼした。
さらに兵を率いて燕を攻めんと中山に駐屯、李信と王賁が攻めて燕は滅亡した。
鄭国
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
40 | 20 | 82 | 84 | 56 | 振興 | 農政 | 教唆 | 浪費 |
【テイコク】
戦国時代の韓の政治家。謀略により秦王政?に仕えた。
土木作業に通じており、秦を疲弊させる目的で秦に入り、
秦王政に大規模な溝渠事業を説き実行させた。
目論みが発覚した後も、土地の荒い秦の農業に溝渠事業が必須であり、
いずれは秦の利になると弁明し、処刑されずに溝渠事業は継続。
万里の長城に近い規模の溝渠は、十数年かけて建設に成功した。
鄭国渠とよばれたその溝渠は古代中国の三大水利施設の一つに数えられ、今日でも役だっている。
楚
熊啓
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 62 | 88 | 77 | 83 | 奸雄 | 機略 | 求心 | 沈着 | 召募 |
【ユウケイ】
戦国時代の楚の公子。楚王。昌平君。
若くして人質として秦に赴き、秦で頭角を現して相国となった。
尉繚と共に秦の軍事面に携わり、多くの将兵を育成して統一の原動力となる。
長信侯が背くと昌文君と共に鎮圧した。
楚王負芻が秦に捕らえられ、楚が滅亡すると楚の将軍の項燕により淮南で楚王に立てられ、
秦に背いたが、王翦?・蒙武に敗れて戦死した。
※姓氏名は不詳。
ただし、楚の公子であることから姓は芈(バ)、氏は熊(ユウ)と考えられる。
また近年の研究では諱を启(啓、ケイ)とする説があり、これに基づくなら熊啓(ユウケイ)となる。
燕
荊軻
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
41 | 80 | 67 | 51 | 80 |
【ケイカ】
争い事を避けて怯惰と評されたが、読書と剣術を修行し、若くして諸国を放浪して遊説術を学び、遊侠に身を投じる。
燕で高漸離という知己を得、人脈を広げ、実力者の田光に賓客として遇された。
燕の太子丹が人質先の秦から逃げ帰ってきた際に、彼の復讐のために田光は荊軻を推挙した。
始皇帝?暗殺には謁見で間近まで近づかねばならず始皇帝を引き出すには督亢の地図と秦の亡命将軍樊於期の首が必要で、
地図を掲げる従者役となる信頼している人物が来れば暗殺計画は実行出来ると太子丹に伝えたが数ヶ月してもその人物は来ず、
遂に痺れを切らした太子丹が自分が用意した従者役と共に暗殺を実行するよう荊軻に頼むと渋々ながら了承する。
だがその従者が始皇帝に拝謁した時に酷く動揺している事に不信感を持たれ暗殺が露見、計画が失敗し始皇帝に斬られ、怒りを買った燕も太子丹以下悉く秦に滅ぼされた。
韓
申不害
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 29 | 91 | 96 | 87 | 王佐 | 法律 | 振興 | 補佐 | 智嚢 |
【シンフガイ】
戦国時代の韓の政治家。
身分は低かったが、才能を見込まれて師匠に推挙され、昭侯に拝謁した。
昭侯は弱国である韓の統治策を問われると、
法を整備し公平な論功行賞を行えば国は自然に治まると説いた。
こうして、昭侯は申不害を宰相にした。
韓は戦国七雄最弱で、常に隣国の魏と秦に怯えていたが、
彼が宰相の間は国情は安定し、領土も少しずつ拡張した。
彼の法家思想は韓非に継承され、始皇帝?によって国政に用いられ、秦は大陸を統一した。
著書に『申子』二篇があるが、散逸している。
聶政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
43 | 95 | 58 | 36 | 88 | 豪傑 | 猛者 | 胆力 | 寡欲 | |||||||||
40 | 92 | 54 | 36 | 88 | 豪傑 | 猛者 | 胆力 | 寡欲 |
【ジョウセイ】
春秋戦国時代の韓の刺客。
韓の生まれだったが、喧嘩を起こし、その相手を殺したため家族と斉に亡命。そこで解体業を生業とした。
そんな聶政を韓の大臣であったが、韓傀と争って斉に亡命せざるを得なくなった厳仲子が訪ね、
以降月一ペースで付き合う。
仲子は千金を持って韓傀を殺して欲しいと依頼し、聶政は最初、年老いた母親のためにこれを断ったが、母が死にその喪が明けた時に再度仲子に見え、暗殺を引き受ける。
韓についた聶政は瞬く間に韓傀を刺し殺し、その付き人さえも数十人以上皆殺しにした。
諸子百家
墨翟
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 60 | 92 | 85 | 90 | 堅守 | 規律 | 築城 | 教化 | 柱石 | 聡明剛毅 | 鉄壁 | 鯨波 | 鼓舞 | 投石 | 墨守研究 | 割拠 |
【ボクテキ】
戦国時代の思想家。墨子。河南鲁山の人とされる。
兼愛・非攻を説いて全国を遊説したが、その経歴は謎の部分が多い。
儒学を学ぶが、儒学批判を通じて独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至る。
彼らは思想集団としてだけではなく、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、
一時は儒学と並び称される程の学派となった。
しかし、秦による法家思想の圧倒的影響力や、漢代の儒教の国教化も相俟って、急速に衰退する。
彼らが再評価されるのは、清代に入ってのことである。
荘周(子休)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
53 | 38 | 98 | 76 | 95 |
【ソウシュウ(シキュウ)】
戦国時代の思想家。荘子。宋の人。
一時仕官していたがほどなく離職し、著述と思索に没頭して楚の威王の招聘にも応じなかった。
胡蝶の夢に代表されるその思想は逆説に富み、万物斉同と因循主義の哲学を唱え、
礼などによる矯正=人為を否定して個人的解脱を説いた。
儒家や墨家の主張を巧みな比喩で批判したが、論争することはなかった。
のちに老子の思想に結び付けられ、ともに道教の神とされ、
唐代には神格化され南華老仙となり、三国志演義では張角?に妖術書を授けたとされた。
『荘子』の著者とされる。
※字は後代の出典のため信憑性は薄い。
孟軻(子輿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 48 | 82 | 85 | 87 |
【モウカ(シヨ)】
戦国時代の思想家。孟子。別字に子車、子居。
子思(孔子?の弟子)の門人に師事して魏・斉・宋などに遊説し、
魯への仕官に失敗した後は郷里で門人教育につとめた。
孔子の思想を発展させて人の本性を「善」とし、礼はその昇華の媒介だとして「性善説」を展開し、
徳治主義=王道思想を主張したが、攻撃的・排他的・独善的な傾向が強く、
君主の絶対権を否定した為に政治的には不遇だった。
当時の土地私有の増大を背景として井田制を主張し、また、墨家を厳しく排撃した。
『孟子』の著者とされる。
※字は後代の出典のため信憑性は薄い。
荀況
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
53 | 45 | 86 | 92 | 74 | 規律 | 沈着 | 法律 | 教化 | 論客 |
【ジュンキョウ】
戦国時代の思想家。荀子。『荀子』の著者とされる。
斉の襄王に仕えたが讒言されて去り、楚の春申君に招聘されたが、春申君の没後隠棲した。
子夏の学統を継承し、孟子の性善説に対し「性悪説」を唱え、
人性を矯め、中庸の精神を維持する為の礼の必要性を説いた。
礼は修身の手段とされ、これは礼の励行・維持の手段として形即心に発展し、
次第に法家的となり、門下からは韓非・李斯を輩出し、漢代には政治的に主流となった。
反面、本来の儒家とは相容れず、特に宋代には不評で、儒家よりも法家に分類された。
親愛武将:荀彧、荀攸
慎到
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
42 | 38 | 85 | 87 | 70 |
【シントウ】
戦国時代の諸子百家の一人。『史記』には伝はなく、正確な生没年は不明だが、
孟子らと同じころに活躍していたらしい。道家の出身であるがその思想は法家への移行を果たし、
百年に一人でるかどうかの聖人に国を任せるのではなく、法で国を治めるべきと主張し、
政治権力を君主や官僚の個人の能力と関係ない「勢」と捉え、後の中国の政治構造のベースとなった。
著書に『慎子』なる書物があるが、散逸して現存していない。
現在は『韓非子』の難勢編の引用でのみその思想の一端を知ることができる。
魯仲連
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
22 | 15 | 94 | 84 | 77 |
【ロチュウレン】
戦国時代の遊説家。
彼の遊説技術は卓越していたが、中でも「義不帝秦」「燕将に書を送る」の話は有名である。
また、こういった実績もあってか仕官・褒美の誘いを受けたこともあるが、一切受け取らなかった。