日本皇室皇族一覧

Last-modified: 2012-07-30 (月) 16:48:33

今上天皇

御名 詠仁(よみひと) 陛下
生年 皇紀2593年12月23日
立太子 皇紀2612年11月7日
践祚 皇紀2629年1月7日 
即位 皇紀2630年3月3日
 現天皇、陸海軍大将。学習院幼稚部、学習院初等部、学習院中等部前期課程を修了した。中等部では、陸上部に所属した。こののち、宮城内に存在する御学問所で、徹底した帝王教育と文系科目を中心として、特に法律学、経済学を学び、国家元首に足る知識と経験を備えていった。なお軍事の知識も習得し、大元帥陸海軍大将として、帝国軍全軍統率する。四二歳の時に即位した。皇后は、徳川家房公爵の次女であり、三男二女をもち、全て独立した。身長171㎝、体重62㎏。(身体測定)

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皇后 

御名 安美(やすみ) 陛下
生年 皇紀2595年6月18日
 江戸大公徳川家房公爵の次女

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皇太子一家

皇太子 
御名 俊仁(としひと) 親王 殿下
生年 皇紀2620年3月16日
立太子 皇紀2639年3月1日
 皇太子。陸海軍少将。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、父の薦めで皇太子としては初めて学習院の高等部に進学する。(これまでは、宮城内御学問所などで教育を受けていた。)学習院高等部卒業の後は、学習院大学法学部に進学され、学問と同時に帝王教育を受ける。立太子式の際に、陸海軍大尉に任ぜられた。軍務にも精通しており、大学卒業後は、父天皇のそばで政務の補佐をしている。趣味は中等部、高等部、学習院大学と野球に熱心になられており、宮内省の野球倶楽部において、一塁手をしている。皇紀2650年度の東京都アマチュア野球大会では、皇太子の所属する宮内省野球倶楽部は準々決勝に進んだ。身長175㎝、体重61㎏。

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皇太子妃
御名 孝子(たかこ) 殿下
生年 皇紀2621年2月10日
 九條鷹憲公爵の長女

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皇太孫
御名 明仁(あきひと)親王 殿下
生年 皇紀2641年5月5日

皇太子第二男子
御名 孝仁(たかひと)親王 殿下
生年 皇紀2644年4月3日

皇太子第三男子
御名 琴仁(ことひと)親王 殿下
生年 皇紀2646年10月7日

皇太子第一女子
御名 静菜(しずな)内親王 殿下
生年 皇紀2649年2月19日

八條宮家

 八條宮家は、詠仁天皇の第二男子である元仁親王の創設した宮家である。
八条宮当主
御名 元仁(もとひと)親王 殿下
生年 皇紀2650年1月29日
 海軍中佐。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、海軍兵学校へ入校。卒業後、軍令部第一部第四課に勤務していたが、22歳の時に、メルツィヒ軍事大学へ留学し、海軍用兵の研究をされた。メルツィヒ軍事大学卒業論文「海軍行政における軍事費のGDPに与える影響」。1982年度メルツィヒ軍事大学業書に掲載。日本に戻ってきた後は、軍令部での勤務を再開する。軍令部第一部第四課長として、国家と軍をつなぐ架け橋としての軍事を構築している。趣味は中等部、兵学校以来サッカーで、休日には第一男子敏仁親王にサッカーを教えている。身長165㎝、体重55㎏

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八條宮妃
御名 由紀子(ゆきこ) 殿下
生年 皇紀2650年3月12日
 二條憲治公爵の長女

八條宮第一女子
御名 香子(きょうこ)内親王 殿下
生年 2673年11月23日

八條宮第一男子
御名 敏仁(としひと)親王 殿下
生年 2676年6月15日 

八條宮第二男子
御名 友仁(ともひと)親王 殿下
生年 2680年12月3日

梨本宮家

 梨本宮家は、詠仁天皇の第三男子である篤仁親王の創設した宮家である。
梨本宮当主
御名 篤仁(あつひと)親王 殿下
生年 皇紀2655年9月22日
 海軍中佐。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、サロメ学院高等部

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梨本宮妃
御名 道子(みちこ) 殿下
生年 皇紀2656年12月9日

梨本宮第一男子
御名 正仁(まさひと)親王 殿下
生年 2678年5月28日

上総宮家

 上総宮家は、大正天皇の第二男子である篤仁親王の創設した宮家である。
⑩今上天皇皇弟・上総宮秋仁(ときひと)親王(59)
⑪上総若宮・満仁(みつひと)親王(35)
⑫上総若宮第一男子・伴正(ともまさ)王(8)
⑬上総若宮第二男子・正信(まさのぶ)王(5)

竹田宮家

⑭上総宮第二男子・竹田宮房仁(ひさひと)親王(31)
×竹田宮第一女子・照子女王(6)
⑮竹田若宮・孝載(たかのり)王(3)

葛城宮家

 葛城宮家は、明文天皇の第二男子で大光天皇の皇弟、今上天皇からみたら叔父に当たる博仁親王が創設した宮家である。
今上天皇叔父・葛城宮家当主
御名 博仁(ひろひと)親王 殿下
生年 皇紀2584年6月20日
 元帥陸軍大将。皇族の中では、一番の年長者で、長老として扱われている。

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⑰葛城若宮・仲仁(なかひと)親王(61)
⑱葛城若宮第一男子・照仁(てるひと)王(37)
×葛城若宮第一男子第一女子・亜美女王(13)
⑲葛城若宮第一男子第一男子・豊範(とよのり)王(11)
⑳葛城若宮第一男子第二男子・秀忠(ひでただ)王(8)

朝香宮家

21今上天皇従兄弟・朝香宮鳩仁(はとひと)親王(59)
22朝香若宮・鳩彦(はとひこ)王(29)

白馬宮家

23今上天皇二従弟・白馬宮勝彦(かつひこ)王(58)
24白馬若宮・久明(ひさあき)王(30)
25白馬若宮久明王第一男子・空英(そらひで)王(2)

天童宮家

 天童宮家は、明治天皇の皇弟であった、白馬宮典仁親王の第二男子、勝仁親王の創設した宮家である。現在の当主は、勝仁親王の第一皇子で高明王である。詠仁天皇からは、二従弟にあたる
天童宮家当主
御名 高明(たかあき)王 殿下
生年 皇紀2624年7月2日
 東帝大経済学部教授。経済学博士。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程を優秀な成績で修了後、第一高等学校へ進学する。皇族では初の一高進学者となる。高等学校入学後も成績はトップクラスを維持して、文科に進む。経済学史に関して、アダムスミスについての卒業論文を書く。一高卒業後、武官に進めという周囲の反対を押し切り、東京帝國大学へ進学し、経済学を専攻する。ときの東帝大経済学部長の東大経済学博士井上幸庵に見初められ、研究室入り。東大経済学博士となり、現在は東大の教授。もちろん、皇族では彼のみである。趣味はチェスであり、コンピュータを得意とする彼は、大手ゲームソフト会社東亜遊技のチェスソフトの制作にも協力している。帝國チェス連盟からアマチュア三段の認定を受けている。身長175㎝。体重63㎏

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26白馬若宮・英利(ひでとし)王(36)

27白馬若宮第一男子・秀隆(ひでたか)王(16)

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28白馬若宮第二男子・秀樹(ひでき)王(14)
×白馬若宮第一女子・英子女王

閑院宮家

29閑院宮孝則(たかのり)王(37)
30閑院宮元信(もとのぶ)王(16)
30閑院宮憲康(のりやす)王(13)

伏見宮家

31伏見宮貞茂(さだしげ)王(69)
32伏見若宮・友則(とものり)王(42)
33伏見若宮第一男子・宗徳(むねのり)王(20)
34伏見若宮第一男子第一男子・高宗(たかむね)王(0)
35伏見若宮第二男子・文徳(ふみのり)王(17)
×伏見若宮第一女子・美子女王(14)
36伏見若宮第三男子・治徳(はるのり)王(11)
×伏見若宮第二女子・朝子女王(9)
37伏見若宮第四男子・憲朝(のりあさ)王(7)

桂宮家

38桂宮高望(たかもち)王(38)
39桂若宮武彦(たけひこ)王(15)
40桂宮第二男子・邦照(くにてる)王(11)
×桂宮第一女子・道子女王(8)

久邇宮家

41久邇宮邦照(くにてる)王

42久邇若宮・朝融(あさあきら)王(40)

久邇若宮第一男子
御名 朝広(ともひろ)王 殿下
生年 皇紀2663年4月13日
 学習院初等部から中等部前期課程へ進み、卒業後学習院高等部へ進学。成績は中の上程度であり、大学進学を考えている。中等部及び高等部では、水泳部に所属。中等部後期課程及び高等部合同水泳東京都大会で、高等部2年次に平泳ぎ3位の記録を持つ。学園一のプレイボーイとも言われ、毎年のバレンタインデーには、1000単位のチョコレートが国内外から送られる。耳には、皇族男子で初めてピアスを開けているが、もちろん学習院の風紀規則で認められていないが、在学中ははずしており、校門の外をでた時点でつけている夜に連れ歩く女性の数は常に5人以上であり、深夜までカラオケによく出没しており、久邇宮家執事を困らせている。身長182㎝。体重64㎏。(高等部三年春の身体測定)

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久邇若宮第二男子
御名 朝光(ともみつ)王 殿下
生年 皇紀2666年7月14日
 学習院初等部から中等部前期課程へ進み、卒業後学習院高等部へ進学。成績は中の下か下の上という程度である。中等部及び高等部では、兄と同様水泳部に所属。中等部後期課程及び高等部合同水泳東京都大会で、自由形4位の記録を持つ。兄と同様学園ではプレイボーイとも言われており、学習院学園祭で見事一年次ミスターの栄冠に輝く。兄とは違いピアスは開けていないが、学生服を腰パンで履き、風紀の教諭から良く叱られている。身長176㎝。体重58㎏。(高等部一年春の身体測定時)

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×久邇若宮第一女子・朝子女王(14)

東久邇宮家

45東久邇宮盛厚(もりあつ)王(67)
46東久邇若宮・孝照(たかてる)王(42)
×東久邇若宮第一女子・紀子女王(20)
47東久邇若宮第一男子・定則(さだのり)王(17)
×東久邇若宮第二女子・雅子女王(15)

東伏見宮家

 東伏見宮家は、東久邇宮盛厚王の第二男子師正王の創設した宮家である。本来ならば、王の身分では、長子以外は、爵位を頂いて臣籍降下するのが通常であるが、東久邇宮師正王が、陸軍の武官としての誉の高いことと、外国要人との多くのコネクションがあるという点から見て特別に宮家創設を勅許された。
東伏見宮家当主
御名 師正(もろまさ)王 殿下
生年 皇紀2642年6月6日
 元帥陸軍大将。近衛師団近衛歩兵第一連隊長。近衛師団長。東久邇宮盛厚王の第二男子として生まれた彼は、本来ならば氏と爵位を頂いて臣籍降下する予定であった。しかし、武官としての優秀な成績によって、近衛師団長に親輔されたことと、留学中に多くの要人と友好関係にあったという点を考慮されて、特別に宮家の創設を許された。身長170㎝。体重63㎏。

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49東伏見宮第一男子・師房(もろふさ)王(19)
×東伏見宮第一女子・月子女王(17)
×東伏見宮第二女子・明美女王(15)

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50東伏見宮第二男子・師俊(もろとし)王(12)
×東伏見宮第三女子・明子女王(10)
51東伏見宮第三男子・師直(もろなお)王(10)