三沢光晴

Last-modified: 2024-03-17 (日) 12:16:10

登録日:2009/06/15 (月) 01:02:25
更新日:2024-03-17 (日) 12:16:10
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三沢光晴(みさわみつはる)
1962年6月18日生
2009年6月13日没(46歳)

プロレスリングNOAHの代表取締役兼レスラー。
元は全日本プロレス所属のレスラーであり「2代目タイガーマスク」として活躍。

後に小橋健太田上明?川田利明と共に全日本プロレス四天王と呼ばれた。
ジャイアント馬場?の正統血統であり、王道プロレスの体現者でもある。
2000年に全日本プロレスを退団、プロレスリングNOAHを立ち上げその後もトップレスラーとして活躍。

類い稀な身体能力の持ち主で、ヘビー級の体格での華麗な空中技、受け身の天才的な上手さなどでファンを魅了した。



全日本時代は凛々しい顔立ちと得意技から「エルボーの貴公子」と呼ばれた。



入場曲は「スパルタンX」
2009年からは「スパルタンX2009Ver」になった。
緑を基調したロングタイツを着用し自身のモチーフカラーとなっている。



しかし、2009年6月13日のGHCタッグ選手権において対戦相手の斎藤彰俊のバックドロップ?を受けた際に脊髄を損傷。治療の甲斐無く還らぬ人となった。
享年46。


合掌





<来歴>
北海道夕張市に生まれ、埼玉県越谷市で育った。中学時代からプロレスラーを志し、栃木の足利工業大付属高校に入学。
レスリング部に所属し、国体で優勝するなどの経歴を残し、1981年に卒業と同時に全日本プロレスに入団した。
一年後輩に後に自分を慕って同じく全日本プロレスに入団してライバルとなった川田がおり、プロレスラーとしての下準備として体操部にも顔を出して器械体操を学んでいた。
体操の才能もあったのか、アクロバティックな動きは三沢の大きな武器ともなった。
尚、在学中に寮を抜け出して全日本プロレス道場まで行って入門を直訴した時もあるが、たまたま居合わせた大卒からプロレスラーになった鶴田?に「卒業してからでも遅くはない」と諭されて学校に戻ったというエピソードがある。



【2代目タイガーマスク時代】
1984年、馬場の抜擢で2代目タイガーマスクとしてデビュー。
へビー級の身体でありながら繰り出されるその華麗な空中殺法で人気を博す。
しかし、1990年にマスクを脱ぎ捨てプロレスラー三沢光晴となった。



【全日本プロレス四天王時代】
川田、田上、小橋と共に全日本プロレス四天王と呼ばれ、そのリーダーとして活躍。
当時絶対的トップレスラーとして君臨していたジャンボ鶴田?と抗争を繰り広げる。
幾度にも渡る戦いの末に鶴田超えを果たした三沢は名実共に全日本のエースとなる。

その後は鶴田が長期休養で離脱したこともあり、四天王同士で激しく争うことに。
彼ら四天王の戦いは筆舌に尽くし難いほど激しいものであり、“四天王プロレス”と称される。
他の四天王より三沢は頭1つ分抜け出しており、三沢超えを狙う川田、田上、小橋などと壮絶な戦いを繰り広げた。
特に、前半は川田。後半は小橋との激闘が伝説として語られている。
一方、四天王プロレスも後半になると大技を食らいあった後で互いにダウンしたままの時間が長くなるといった、あからさまに決着を先延ばしするかのような冗長な試合展開も見られるようになり、これについては批判もされた。
また、三沢本人もそれまでのプロレスの流れを無視して大技を連発するようにとの指示を馬場?に出されたことには思う所があったとも言われ、実際に三沢達は重大な負傷や疾患を抱える羽目にもなった。



【全日本プロレス社長時代】
馬場の死去により社長に就任、トップレスラーとの二足のわらじを踏むことに。
社長業の傍ら四天王達と想像を絶する戦いを繰り返し休養離脱と復帰を繰り返す。
外国人偏重で日本人選手には福利厚生も認めない、前時代的な馬場体制を引き継いだままの全日本プロレスを改革しようとするが失敗(馬場からは「自分が生きている内だけはやるな」と実質的に死後の改革を認められたような発言もされていたにも関わらず。)、自分の理想のプロレスができる環境を作りたいと全日本プロレスを退団しNOAHを立ち上げる。



【プロレスリングNOAH時代】
三沢を慕って全日本に所属していたレスラーほぼ全てが共に退団する。
三沢は全日本にはなかった“健康診断”“休養中の給与”など様々な改革を行いつつもレスラーを兼任。
若手を育てる為の大きな壁として存在し続ける。

しかし小橋の長期休養、日テレのプロレス中継打ち切りなど様々な問題が降りかかる。
中邑真輔をはじめとした新日本との交流など画策をするが上記の事故により自身の参戦は絶ち消えとなった。
この頃の三沢は激務もあってか体型が崩れる等、あからさまなコンディション不足が囁かれる中でも、ファンの間では絶対的エースとしての見方が変わらず世代交代も進まないといったNOAHのマット事情等が積み重なり、本人も引退を仄めかす発言を日常的に口にしていたという。
新日本プロレスがクーデター的に実権を取り戻した猪木体制下で混乱に見舞われている内に業界の盟主とまで言われていたNOAHは、この後に反対に苦難の道を歩むこととなり、如何にNOAH=三沢光晴であったかが解る。



<レスリングスタイル>
“受けの天才”と呼ばれるほどに受け身が上手く、どんな技を受けても起き上がってくることから「ゾンビ三沢」などと呼ばれることも。

エルボーを基調とした試合の組み立てを行い、相手の技を全て受けきった上で勝つという王者プロレスを体現する。
プロレス以前のスポーツ歴は前述の様にプロレス入りする為に学んでいたレスリングと器械体操。
これ等は、プロになった後も三沢の技の基本であった。



<主な技>

  • エルボーバット
    三沢の代名詞とも呼べる技。
    “三沢のエルボー”はプロレスを知らない人でも聞いたことがあるのではなかろうか。
    エルボーを主体に戦う初めてのレスラーであり、多数のバリエーションが存在する。*1

    基本的な打撃技であるエルボーをフォールを奪えるほどにまで昇華させたのは三沢が初であった。
    また、スタン・ハンセンやジャンボ鶴田など、体格に於いて遥かに勝る全日本最強クラスのレスラーを失神に追い込むほどの威力を誇った。
    バラエティーでも軽く打っただけで、受けるのが夢と語っていた山口メンバーを吹っ飛ばしている。
    本人曰く「体で残っていたのは肘だけ」との事で、それまでのキャリアで既に満身創痍となっていながら見つけた最後にして最大の武器であった。

    四天王の1人であり、高校時代の後輩でもある川田利明と対戦する時は明らかに衝撃音が違う凄まじいエルボー(120%エルボーとも言われる)を放つ。

    フィニッシュに使ったバリエーションとしては、ローリング式。ランニング式。1、2コンビネーション式、等がある。
    また、三沢のトペも肘をぶつけるエルボー・スイシーダとなる。


  • ジャーマンスープレックス?
    レスリング出身だけに若手時代から得意としており、タイガーマスク時代までは美しいブリッジで固めていた。
    しかし、四天王プロレス時代になると投げっ放しでの使用が多くなり、腰の負傷もあってかブリッジが固くなった。


  • タイガースープレックス?(タイガースープレックス'84、三沢式タイガースープレックス)
    タイガーマスク時代の必殺技。
    本来は初代タイガーマスク=佐山聡のオリジナル技なのだが、佐山式では背後から相手の腕を閂に決めた後に自分の掌を相手の背中に押し付けて固定したのに対し、三沢は閂に決めたまま自分の両手を結んでクラッチで絞るような形で固定する違いがあり、初代と区別するためにタイガースープレックス84、または三沢式や新クラッチ式として区別されている。
    相手の背後から両腕をクラッチしそのままジャーマンスープレックスの要領で投げる。
    両腕がクラッチされているため非常に受身が取り辛く、相手を頭から落とす強力な技。
    三沢の代名詞とも呼べる技で多くのレスラーをマットに沈めた。

    03年のGHC選手権で小橋健太と対戦した際は花道からの断崖式を放ち、観客の熱狂で沸いていた武道館はざわめきに包まれた。


  • タイガースープレックス'85
    二代目タイガー時代に虎ハンター小林邦明との決戦時に生み出された新必殺技。
    二代目タイガー時代の技ということでタイガースープレックスと呼ばれたが、上記の元祖タイガースープレックスを元にしたタイガースープレックス'84に対し、タイガースープレックス'85は実際の所は全く手のクラッチが違うという、派生技でも変形技でもなく完全な新技である。
    背後から相手の脇の下を通した両手を相手の喉の辺りでクラッチするスープレックスで、要領としてはスリーパースープレックスに近い。
    威力はともかく、後には新代名詞となるタイガードライバーが生み出されたこともあってか封印技となっていたが、四天王プロレス時代に奥の手の一つとして復活している。


  • タイガードライバー(三沢式)
    お辞儀させるようにした相手の腕をリバースフルネルソンの形で捉え、そのまま空中に浮かせてから半回転させてパワーボムの要領でマットに落とす技。
    テコの原理を応用して浮かすためか大型選手にも案外と決められる技である。
    名前はドライバーだが、最も早くに登場した変型のパワーボムである。
    ヘビー級に転向した頃に対大型選手用の大技として開発され、暫くはフィニッシャーとして扱われていたが、四天王プロレス時代には格下以外には中盤の痛め技として使われることが殆どとなった。
    因みに、フィニッシュとしていた頃は叩きつけた後で相手の腕を自分の足で抑え付けてロックしていたのだが、繋ぎ技にするようになってからはロックしなくなっており、返し易くしている。
    繋ぎ技にするようになってからは、連発式やエプロンからの断崖式、コーナーポストからの雪崩式といったバリエーションも生まれている。
    特に、垂直落下式タイガードライバーことタイガードライバー'91は三沢の最大最強の必殺技と呼ばれ、上記のように通常は持ち上げてから反転させて背中から落とす所を腕のフックを外さすに相手が垂直になった段階で両膝を着きながら脳天から突き刺していくという危険技で、余りのインパクトから「殺人タイガードライバー」と形容された。
    初公開は名前の通り91年の田上戦で、この時は腕をロックしたまま真っ逆さまに落としたのだが、流石に受け身の余裕が無さすぎると思ったのか、後には腕のロックを外して自由落下させる形になっている。
    四天王プロレス時代でも、出れば終わるという位の位置付けの大技の一つであったが、全日本プロレス時代の末期にはエメラルドフロウジョンに取って変わられた。
    ……が、晩年にかけて後述のようにエメラルドフロウジョンが乱発されるようになったことで再びタイガードライバー'91が奥の手となった感がある。


  • エメラルドフロウジョン
    全日本プロレス時代末期に開発され、NOAH時代に多用された後期三沢の代名詞となる技。
    ボディスラムの体勢から相手を持ち上げ、空中で半回転させながら自分のサイドに頭から垂直に落とす。
    いわば、垂直落下式のサイドバスターで、横方向に落とすツームストーン・パイルドライバーとも呼べる。
    初公開は全日本プロレス時代末期の秋山との三冠戦。
    尚、この時は落とすまでの持ち手の変え方に時間がかかってしまっており、後には持ち上げてから直ぐに落とせる形に修正された。
    この為、旧バージョンを敢えて元祖エメラルドフロウジョンと呼んで取り入れた選手もいたが、威力のコントロールや完成度も含めて修正型の方が優れていると言える。
    当初は、タイガードライバー'91に変わる超必殺技的な技だったが、蝶野正洋との初対戦にて、既に危険な花道で使用されたりしている。
    名は三沢のモチーフカラーとなっている“緑”から取られている。
    ブレーンバスターの体勢からのパターンは「エメラルドフロウジョン・改」と呼ばれる。
    この他、晩年にかけてファイヤーマンズ・キャリーから入る型や、雪崩式も生み出されたが、こうした変形型が生み出されたのは、最晩年の三沢は体型の変化からも解るように、社長業との兼ね合い等による、明らかなコンディション不足も原因であった。
    通常型の角度も緩くなっていき、初期の様な一撃必殺の説得力を持たせられなくなっていたことも理由である。
    晩年は初期の超必殺技的なイメージからは想像も出来ない程に乱発されていたが、これはエメラルドフロウジョンが非常に仕掛け易い技で、コンディション不足でも使用出来たことからである。


  • 胴田貫
    最晩年の必殺技。
    ハーフダウン状態の相手の延髄に叩き込むエルボー。



<NOAHだけはガチ>
以上のようにNOAHファンからは極めて厚い支持を受けていた人物であるが、
NOAH以外のプロレスファン(新日本系など)や格闘技ファンからは「三沢さん」(揶揄)「緑豚」などと激しく嫌われていた一面もある。
これはNOAH旗揚げ後、一部熱狂的ファンによる過剰な持ち上げと他団体を見下した発言が招いた結果である。
NOAH旗揚げ時は総合格闘技が全盛期であり、新日本プロレスは同路線に移行するも上手く立ち回ることが出来ず、同路線に否定的だった武藤敬司の全日本プロレス移籍を招くなど危機にあった。
こうした中、一部熱狂的ファンは新日本を見下す発言を繰り返し、「NOAHだけはガチ」、「(団体のトップである三沢は)最強」、「(三沢は総合でも)勝てる」などと根拠のない持ち上げをするようになった。
こうした過激なファンの言動は当然ながら団体や三沢本人へのアンチを増やし、
社長業との兼務によって起きたコンディションの悪化による体型の崩れや、集客問題などが相次ぐと、ノアだけはガラガラ、緑豚、「NOAHだけはガチ(皮肉として)」など揶揄されることになった。
ただし、新日本の危機を感じた蝶野正洋(当時の新日本現場監督)からの要請に応じて、メインイベントでシングルマッチを行い、その後も新日本プロレスに選手を派遣する等団体間の交流はしばらく続いた。
なお、三沢本人も総合格闘技には否定的であり、そうした発言をやめてほしいと田村潔司から挑発されたことがある。



追記・修正だけはガチ





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*1 それ以前のエルボーと言えばエルボースマッシュ=ヨーロピアン・アッパーカットであり、繋ぎ技のイメージだった。