儒教

Last-modified: 2024-03-15 (金) 16:18:02

登録日:2023/01/22の旧正月 Sun 20:00:00
更新日:2024-03-15 (金) 16:18:02
所要時間:約 20 分で読めます


▽コメント欄
Tag: 三教 世界史 中国 中国史 仏教 儒家 儒教 周公旦 哲学 大韓航空8509便墜落事故 孔子 孟子 宗教 日本史 朱子学 朱熹 気合いの入った項目 理気 祭礼思想 道教 陽明学


先祖を祭るには先祖が居ますがごとくにし、神々を祭るにも神が居ますがごとくにして祭る。
『論語』第二巻

儒教とは、中国固有の宗教?道教?仏教?と並んで「三教」と呼ばれる。
「礼教」「孔教」とも呼ばれる。

【概要】

ざっくばらんに言うと「祭礼を中心とした宗教」である。
とはいえ、その祭礼は大体どこの宗教でも中心に置かれるものである。特に先祖供養を重視する中国文明においては、儒教が担当する分野は非常に幅広い。

しかも、儒教は道教と相互に影響を与え合っており、符合するところや変質させたところもあって、細かい分割は不可能なほど。
なにより、そもそも道教と儒教は同じ中国文明から生まれたものである以上、基礎や土台、発想パターンはかなり似ている。
加えて、インドから流入した仏教が普及すると、この三教が混ざり合う事態も生じた。おかげでこの三教を完全に分割するのは不可能な事態となっている。
とはいえ、儒家の礼楽思想はどちらかというと社会上層部に広まっていった。民間向けに広まった道教とはある程度棲み分けはできている。

正直、正確に記述しようとすればとんでもない文章量となるので、本稿では基礎的なものにとどめる。

【基本教義】

主要な教義としては「聖人の教え」
聖人とはいわゆる五帝(特に尭・舜・禹)や殷の湯王・周の文王・武王・周公旦?のこと。
彼らが中国の文明を定め、そうして天下が治まった、儒教の教えはその古代の聖人を今に受け継ぐことだ、というのが基本路線。特に、最も重視すべきは周公旦の定めた礼制とする。
実際には何千年も前の王の記録など残っているわけはないので、具体的には孔子や孟子を中心とした、春秋戦国時代の各文献が思想の基本となる。

具体的には……

  • 敬天:天(神格化した天)を帝王が祀る
  • 奉祖:自分たちの祖先に感謝を捧げて祀る
  • 孝親:自分を直接生み出した親に感謝し、さらに自分の子孫にも祖先の大事さを教える
  • 忠信:君主に対して忠節を尽くす
  • 仁義:人々と交わる上での優しさとけじめ
  • 崇礼:社会における礼制の尊重
  • 性善:人間の本性は善なるものだと規定する
    ……などが主要な要素。
    また天を祀るというのは天の意志に従うことでもあり、「天命に従う」ことも重視する。
    儒教の究極の理想は「天人合一」である。人の持つ「德」を天命と一致させ、それを身に修めることで理想的な人間になれるとしている。

また人間は「人間らしい特性を維持せよ」と説く。
人間の持つべき特性を「五常」といい、

  • :人を思いやる心。
  • :我欲にとらわれず、為すべきことを為す意識
  • :仁を具体的に行動すること。社会の習慣・制度・倫理を理解し実践すること。
  • :学問に励み、かつ道徳的な判断力を磨くこと。
  • :嘘偽りを言わず、真実を語り、約束を守り、誠実であること。
    この五常を維持すれば、五倫(社会における五つの人間関係)すなわち親子関係・君臣関係・夫婦関係・長幼関係・友人関係を維持できる、とする。

しばしば「儒教は宗教なのか」と言われることがある。神を祀るところが少ないからだ、と言うのである。
しかし儒教にも神々を祀る要素は確かにあり、その意味では間違いなく宗教である。
まず、上記の天を祀るというのが、「最高神として神格化した天を祀る」ことになっている。同じく大地も祀る。天神地祇、というやつだ。天に「神」という文字が使われなかったため、つい神扱いでないと誤認したのだろう。
孔子を「文宣王」として祀ったりと、神の存在は認められる。

死後の世界についても重点的ではないが記すところもある。
例えば「死ねば(こん)は天に帰し、(はく)は大地に帰る。これを祀ることで、陰陽の調和を為す」とか、「死体の骨肉は陰に下って土に帰り、気は蒸発して天に向かう」とかある。
孔子の言葉にも「衆生は皆必ず死ぬ。死ねば必ず土に帰る。これを鬼という。魂の気は天に帰る。これを神という」というものもある。
天界には光に満ちた世界が、地下には黄色い泉がある、というのが古来からの伝承のようだ。

【源流その一・祭天思想と先祖祭祀】

儒教と並ぶ中国の宗教「道教」は、先史時代にまで起源を置く「民間信仰」「自然神信仰」を土台として、それに春秋戦国時代の老子の哲学を始祖とする「老荘思想」が合流してできあがったものである。

儒教も道教と同じ成立過程を経ている。こちらの場合、やはり先史時代に端を発する「祭天思想」「先祖祭祀思想」をベースとして、それに孔子を中心とする「儒家思想」「礼楽思想」が合流して成長していった。
この場合肝心なのは、道家から道教が始まったのではない(道教が道家を取り込んだ)ように、儒家から儒教が始まったのではない(儒教が儒家を取り込んだ)ことである。

もともと「儒」という文字は、(にんべん)と需からなる。この「需」とは「雨」の下に「而」からなり、『雨を降らすひげ長(而=ひげ)』つまり雨乞い師を指したという。それに(にんべん)がついて「儒」である。
さらに時代が下ると、雨乞い師から転じて「巫祝」「卜占」といった意味になった。

雨乞い師はもともと、天に祈りを捧げて望みを叶えてもらおうとするものである。そこから天を擬人化・神格化し、意志を持った神として祀るようになった。
それが、時代が下り中国の民衆が王をトップに据えて集まるようになると、王の職務に「天を祀る」ことが加わるようになった。
祭礼思想・祭天思想の表れである。この場合、祭る対象は天。天への祭礼を行うのは人間の代表、すなわち王である。
やがて王は、ただ人間代表として祭るのではなく、王こそ天の子、つまり「天子」であり、天子が父である天(上帝)を祭る、という風に変わった。

尭について、正体は太陽神であるという説がある。尭の御代に太陽が一度に十も現れ、日照りに困っていたところ、尭が弓の名人を起用してそのうち九つを打ち落とさせた……というエピソードもある。
その尭が、舜や禹の上位存在にあげられていたことからも、儒教の始まりが天を祭ることにあったことがうかがえる。

さらにこの王と上帝の「息子である天子が、父親である天を祭る」ことが、庶民の葬祭思想にも「今は亡き祖先を、子孫が祀る」という形で影響を及ぼしたことは想像に難くない。
あるいは「父祖を子孫が祭る」ということが一般常識として先にあり、王が天を祀る理論にそれを取り込んだのかもしれない。

もともと「宗教」とは、人知の及ばない領域で動くこの世界は、果たしてどのようになっているのか、を探る学問だった。
そうした「人知の及ばない領域」の最たるものは死後の世界である。
それに対して「死後の世界に旅立った人たちを、その子孫が祀る」という葬祭思想は、中国の宗教観・思想の中核となった。
さらにそれが「王は天の子であるからこそ地上を治める」という王者の統治理論と密接に結びついていたことから、後年の儒教が社会上層部に広まる起源ともなった。
夏殷周の三代には、こうした「祭礼思想」「葬祭思想」は中国全体に普及していた。
巫術をもって上帝や精霊神と通じて招福を願う一方、神々への祭司が社会倫理にも影響し、人間社会の礼節・秩序を「徳」を中心として定めるようにもなった。

ちなみに、道教の源流となる「自然神信仰」「精霊神信仰」も同時に広まっている。
ややこしいのは儒教源流のほうで天を神として祀る際、道教源流のほうでも天を神として祀ることだった。
つまりこの時点で、早くも儒教と道教は土台や理論を共有しており、その存在が不可分だったと言うことだ。

【源流その二・儒家の礼制思想】

春秋戦国時代に魯国で生まれた孔子は、戦国乱世によって顧みられなくなった「周代の礼楽伝統を復興させる」と決意して行動した。
もちろん、考古学もない当時、孔子が実際に尭舜禹や夏殷周三代の記録や、周公旦らの記録などを正しく持っているわけがない。
従ってほとんどは孔子が独自に考案したものを整理して「周公旦が定めた礼制」と箔付けすることとなった*1
しかしそこはさすが孔子と言うべきか、彼が周公に名を借りて創始した礼制は、後の中国の社会に大きな影響を与えた
なんと言っても孔子という人物は、周公旦の子孫が治める魯国に生まれ、博学な上に礼・楽・射・御・書・数の「六芸」に精通したという多才な人物である。
弟子たちの協力も含めた多数の著書もあって、その影響は大きかった。

また孔子の場合、生前から弟子を広くとり、自分の教えを後世に伝えることに熱心であった。
これは春秋戦国時代のいわゆる「諸子百家」において、孔子を筆頭とする「儒家」の非常に大きな特色である。
諸子百家にはほかにも道家・法家・兵家・縦横家・陰陽家など多数あるが、それら「○○家」という区分は後漢時代に学者たちの便宜上つけられたもので、当時にはそうした区分意識はなかった。
例えば、兵家の有名人である孫子と呉子には、教えを伝授したという話はない(それどころか呉子は儒家の曽子に学んだ)。老子は弟子を取らずに去ったし、法家の韓非子は老子・慎到・申不害・商鞅の思想を発展統合したが、それは韓非子個人が研究しただけで、別に「法家を研究するグループ」に属したわけではない。司馬遷も諸子百家の区分をせず、老子と韓非子を同じ列伝に記録している。

そうした時代にあって、孔子の儒家と墨子の墨家だけは、弟子を集めた「教団」を作った。
弟子たちはやがて孔子のもとから離れて中国の各諸侯国に散っていったが、彼らは師父の教えをまた弟子たちに伝えていき、孔子を「教祖」とする「教団」を組織していった。
韓非子は「諸子百家」という言葉は使わなかったが、「儒家には八派、墨家には三派がある」と記録しており、当時から儒家と墨家が組織化していたことと、学壇で隆盛を誇っていたことを記している*2

儒家の門弟たちが全国各地に広がり、彼らがそれぞれ孔子の礼制を広めていったことで、彼らの礼制は瞬く間に中国の主流派へと成長した。
しかも、儒家の礼制は「天を祀るにはどうすれば良いか」ということも主題の一つとしていたため、もともと上帝を祀る王たちの思想根拠とも合致しており、儒家は祭礼思想・祭天思想と早いうちに合流、「儒教」を形成していった。

始皇帝の時代にも、封禅(ほうぜん)(祭天の儀式の最たるもの)を行うに当たり旧魯国から儒者が招聘・諮問された。
劉邦?の時代には叔孫通(しゅくそんつう)が、宮中の儀式作法を一新させたことが有名。
こうして春秋戦国時代には、儒教は巫術の域を脱して、儒家と高度に融合した祭礼・礼楽・礼制思想として完成していた。
もともとの巫術性がなくなったわけでもないが。

ただ、孔子本人としては「人間が従うべき倫理秩序を定めることで、この世界から戦乱を終わらせる」ことを念じていたのだが、
実際には孔子の教えが戦国時代を終わらせることはなく、孔子自身も生前はほとんどの国で受け入れられなかった。
あるときには通行人から「まるで喪中の犬だ*3」と言われたことがあるが、憤慨する弟子たちに対して孔子本人は「彼の言うとおりだ」と苦笑したという。

【儒教の発展と変遷】

漢代、特に武帝に仕えた董仲舒(とうちゅうじょ)*4以後は官学としての立場を確立させる。
実際に中華帝国を運営していくのは、法家思想に源流を発する韓非子・始皇帝流の官僚システムであったが、
儒教は吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼といった礼儀制度を確立し、また六経を中心とする豊富な文献の存在から文化・文学・学問といった方向で国家上層部、貴族層に定着する。

六経
  • 『易経』:八卦を用いて世界を説明する
  • 『尚書』:歴代聖人の記録
  • 『詩経』:儒家の韻文
  • 『礼記』:礼儀作法の決まりを記録
  • 『楽経』:音楽に関する記録
  • 『春秋』:歴史書
    の六つ。
    ただし『楽経』のみ『礼記』に一部として収録されており、独立していない。そのため独立した書物だけで「五経」ともいわれる。
    『楽経』はわずかな分量を残して散逸したので礼記に統合されたとも、最初から文章量が少なく礼記に併記されていただけともいわれる。
    楽譜もない当時、音楽を記録することは不可能に近いので、後者が正しいか。

なんと言っても文学領域を占めたのは大きく、いくら法治思想の官僚システムが機能していても、やりとりする文章はやはり文学の影響を受ける。その意味では儒教は言語にまで影響を及ぼしたといえるだろう。

一方、儒教も時には道教や仏教の影響を受けて、大きく変遷していった。
特に宋代の儒者たち(主に程頤(ていこう)程顥(ていい)兄弟、蘇軾(そしょく)蘇轍(そてつ)兄弟たち)が議論し、ついに南宋・朱熹(しゅき)の大成させた理学――世に言う朱子学――は、儒教の各学説に加えて道教の影響をも色濃く受けている。彼らは邵雍(しょうよう)・&ruby(pronunciation){words}; (しゅうとんい){周敦頤}など道教の大家とも親しく交流があったのである。
この理学には、「万物・万象が生まれる理由」がある。それによると

「この世に存在する物質・現象は全て「気」から構成されている。この気の収束によって物質が生じ、離散すれば物質は崩壊する。

 火をつけた線香が灰と煙に変わるとき、線香の「気」が変化することによって灰と煙に変わる。煙は煙の持つ「気」の状態が軽く薄くなったことによって宙を漂い、灰は灰の持つ「気」の状態が脆くなったことによって地面に落ちる。

 四季は「気」の変化で移り変わり、日月はそれぞれの「気」によって移動し、そのほか一切の現象とその変化は「気」によって行われる。

 この「気」の生成変化は、「理」によって行われる。「理」は、万物の根拠であり、気を動かして物質・現象を形作る根本原因である。この「理」は、形あるものではない」
という。

この理論だが、実は道教の物質精製論を言葉だけ変えたものだった。
朱子学で「理気」と呼ぶそれを、道教では「道理」という。
同じ「理」という文字を違う意味で使っているからややこしいが、道教では

「この世に存在する物質・現象は全てそれぞれの持つ「理」によって構成されている。この「理」によって物質の形状・性質・状態が定まる。

 火をつけた線香が灰と煙に変わるとき、線香には細くなる・硬くなる・立つという「理」があって線香となり、煙には軽くなる・空に浮く・白くなるといった「理」があって空中に漂い、灰には脆くなる・下に落ちる・灰色になると言った「理」があって地に落ちる。

 四季は春夏秋冬の「理」によって移り変わり、日月はそれぞれの「理」によって移動し、そのほか一切の現象とその変化は「理」によって形成される。

 この「理」の生成変化は、(タオ)によって行われる。線香の持つ「理」が、煙の「理」と灰の「理」に変わる瞬間――物質が精製される瞬間――に働くのがタオである。

 「道」は、万物の根拠であり、理を動かして物質・現象を形作る根本原因である。この「道」は、形あるものではない」

とあり、道教の「タオ」が朱子学の「理」、道教の「理」が朱子学の「気」に相応する。

世界の多くの宗教は「天地創造」から始まる。それは「この世界はどうなっているのか」を探るためだ。
儒教にはもともと「天地創造」はなく、物質が生まれる根拠を論ずることもなかったが、朱熹はそれを道教から輸入したのである。
もちろんそれは、もともと儒教と道教が、同じ中国大陸から生まれ、同じ中国文化から生まれた、いわば思想の根底を同じくする宗教だからこそできたことである。

なお、朱熹たちが朱子学で確立したのは単なる宇宙論だけではない。
その宇宙論をベースとして、人間の性質を「理」に合一させ、人間があるべき道徳を身につけ、仁義を求め、そうして聖人・賢者になるように、というのが眼目である。

もうちょっというと「理気論」を人間そのものに適応する。人間の本性・本質を「理」に見立て、人間が普段発する感情を「気」に見立てる。この場合、人間の本性は「仁義礼智信」を備えた善なるものと規定する。
そして、「気」のように揺れ動く感情をできる限りあるべき「理」に沿わせ、人間の「理」すなわち本性が持つ優れた人間性に合一させる、とする。いわゆる「性即理」である。

しかしそうした理論もある意味で道教における仙人への道に近く、さまざまな意味で儒教が道教と影響を与え合ったことが分かる。

宋代の朱子学は、朱熹の存命中は激しく反対・弾圧されたものの、南宋後期からは広く受け入れられるようになった。
「宋学」の中心として、また明代の陽明学と並んで「宋明理学」の中心とまで称されたほどで、また科挙の主要教義として採用されたこともあって、中国思想界の中心となった。
元代にはやはり影響は衰えるが、明清代には再び士大夫の主流となる。

仏教とも影響を与え合った。特に、仏教の「先祖供養」はほとんど儒教の理論を応用している。
もともとインド本土の仏教は、先祖供養をあまり重視しなかった。死体は川に流したし魂は輪廻転生しているから祭りようがない*5
しかし中国に入った仏教徒は、儒教の先祖供養思想を動かせないと判断すると、これを柔軟に取り込んだ。
現在の日本仏教に伝わる「位牌」「墓」も、ほとんどが儒教の先祖祭礼思想によるものである。

【近代以後】

清代末期……というよりアヘン戦争をきっかけとして、西欧列強の圧倒的な科学技術が中国文化を席巻してからは、儒教も大打撃を被った。

なんと言っても儒教は異民族を蔑視しており*6、その異民族が明らかに中国人以上の技術力と破壊力を見せつけるようになると、儒教の権威は大きく落ちた
それでも康有為(こうゆうい)やその弟子・梁啓超(りょうけいちょう)など儒教流の改革精神を現実政治に反映させようとする動きもあったが、清国にはそうした改革を行う力はなかった?
清朝崩壊後、国共内戦に勝利した共産党中国は儒家思想を否定し、権力闘争と絡んだ「批林批孔運動」によって大打撃を被った。

しかしそれから数十年を経た現在、鄧小平(とうしょうへい)の「解放改革」を契機として、儒教の復興も進みつつある。

特に、そもそも儒教は中国人の文化や文学、対人関係や倫理観、常識的な思想と言ったところに深く根付いている。
中国人が文化・文明を持つ限り、儒教的な思想・発想が消えてなくなることはなかったわけだ
さすがに「先王の道」や「祭天思想」はそのまま肯定されることはないようだが、「人間とはどうあるべきなのか」を追求する道徳などは、排除されていない。

また、清朝後期に西欧列強の草刈り場にあったことは「儒教のせいで科学技術に対応できなかった」といわれがちだが、清朝崩壊の要因は儒教の限界というより、清朝が直面した人口爆発という問題のほうがはるかに重要であった。

余談・清朝の人口爆発

中国には戸籍制度があったが、国家の統治力が弱まると民衆の戸籍登録自体ができなくなるため、登録人口が上がったり下がったりを繰り返してしまい、いまいち精度に欠けがちではある。
ただ、漢代全盛期で6000万、隋唐で5000万前後、という記録があり、実際も5000万を上下するレベルだろう。
また基本的に人口は微増傾向を示すものなので、やがて宋代には一億に突入。清代でも、雍正帝時代あたりは一億であった。

ところが1700年ごろから人口が急激に増加、アヘン戦争前の1830年代には四億人になった。漢から清まで1700年かけて5000万から一億で推移した人口が、100年ちょっとで四倍に膨れ上がったのである。ちなみに当時のヨーロッパ人口よりも多い。
しかし人が増えても農地は増えない。やむなく農地から離れた人たちは沿岸の都市部になだれ込んだが、そこでも人口は増えており、人口密度がさらに倍増。
狭い土地に人が溢れれば、家も食料も供給不足となり、治安も衛生環境も悪化する。中国の社会が容量オーバーになってしまった。だからと言って片っ端から殺して人減らしをするわけにもいかず、海外入植(華僑)にも限度があり、スペースコロニーなんてあるはずもない。
科挙が清代後期から機能しなくなったのも、純粋に受験者の数が数倍になったことと無関係ではないだろう。

清朝後期の混乱は、そういうところから始まっていた(もちろん他にも多くの要因はあったが)。アヘン戦争をはじめとした西欧列強の侵略は、たまたまそういう時に起きたのである。
逆に、たとえ西欧の侵略がなく中国が西欧科学に触れなかったとしても、清朝は崩壊せざるを得なかっただろう。

アヘン戦争の五十年前(乾隆帝の晩年)には、清朝はイギリスから開国要求に来た使者マカートニー初代伯爵を剛柔取り混ぜた交渉で見事にあしらっている。
(清朝は最初に三拝九叩頭の礼を求め、マカートニー伯爵が拒絶するとそこから「交渉」を開始。最終的に「夷には夷の礼がある」ということで、乾隆帝の手に接吻するというイギリス式で「妥協」し、それと引き換えにしてイギリスが本来求めていた「開港」を却下した。名目を譲り、実益と戦略的目標を確保したのである)
こう見ると中国文化が西欧文化に「劣っていた」わけでは必ずしもない。

余談・清朝の事情

清朝は異民族王朝だから中国文化の代表ではない、という異論もあるが、清朝は中国統一後、急速に中国化されていた。第四代・康熙帝は「最近の満洲貴族は、すっかり中国化されて満洲人の在り方を忘れている。満洲語を話せない者も珍しくないほどだ」と嘆いている。
ちなみに、清朝が万里長城を突破して中国を支配したのは第三代・順治帝のときである。そして康熙帝は四代目……いくら二代目・ホンタイジの時から儒教導入などが行われていたとはいえ、「中国脅威の同化力」は速度も驚異的であった。

もちろん清朝は、中国化と同時に元来の満洲・モンゴル・チベット・ウィグル・中国の大ハーンという顔も残し続けてはいたが。文殊菩薩(『満洲』という言葉自体、マンジュ=文殊菩薩のことである)を中心とする、中国古来の仏教とはまた異なる満洲仏教・チベット仏教の在り方や、キリスト教?ユダヤ教?イスラム教?などの活躍も注目される。
しかし中原において、清代における儒教が全くその影響力を喪失していたわけではない。清代において中国文化、そして儒教が大きな存在感を示し、また時代に適応して存続していたのは間違いない。

儒教と科学技術の相性だけで時代が変わったわけではないのだ。
朱子学の「理気論」は「何事も、現実に起きている物質(気)の変化と、その変化を引き起こす理由(理)によって生成される」という合理的な思想であり、科学技術との相性はむしろ良いほうである。
現に宋代以降も火薬兵器・羅針盤の開発が進んだり、西欧からの測量技術にあっさり適応したりしているし、清代にも、西欧からの科学を受容して、暦学や数学を発展させた儒者がいる。開明君主・&ruby(pronunciation){words};の御代であったのも幸いしているが、西洋科学を好んだ康熙帝の需要にこたえられる儒者が多くいたのは事実である。
そもそも、比較対象にされがちなキリスト教文化圏やイスラム教文化圏でも、常に科学・合理的思想が発展し続けたわけではない*7。どんな社会・文化・思想にも、停滞期もあれば発展期もある。「中国に停滞期があった」というだけで「儒教は欠陥思想である」というのは、過剰な物言いと言わざるを得ないであろう。

【外国での儒教】

倫理道徳や、国家における役人たちの礼制を定める儒教は、ほかの民族・文化圏にも流出した。
この点は中国の民間宗教に端を発した道教(要は中国人専用の宗教)と違い、その思想にある種の普遍性があったためであろう。
また、同じ儒教の常識を持っていれば、中国と交渉する際もいろいろ話しやすい、という計算もあったと思われる。

日本にも遣隋使・遣唐使たちの努力により、仏教?とともに輸入された*8
特に日本の場合、祖先を神として祀る神道?の思想が、祖先を自分のルーツとして祀る「考」の思想を持つ儒教と似ていたこともあり、大いに広まった。この場合「神道の先祖祭祀の理論に、儒教の理論を流用した」ということになるだろう。

ただ、中国儒教の「過去の聖王たちの理想」はいまいちピンとこなかったようで、また「天を祀る」に対しても日本の場合は天照大御神の子孫である天皇が現人神として存在するため、ほとんど反映されなかった。
しかも先祖祭祀も、やがて仏教が専門となるにつれ、儒教はこの分野からも後退*9。平氏政権(宋代)以降の中国留学や儒教伝来を、儒者ではなく僧侶が担うようになったことも、関係あるかもしれない。
結果、倫理学と民衆救済の面がクローズアップされ、帝王学や武士道の参考資料・理論根拠となっている。
おかげで日本では「儒教は学問」と認識されがちだとか。そりゃあ儒教から宗教らしさを除けば学問だけが残るというわけである。

日本関連で琉球(沖縄)には、薩摩藩を経由して日本本土からと、直接貿易していた中国東南部からとふたつから儒教が流入している。

日本のほかに儒教が流入した外国としては、朝鮮とベトナムがあげられる。
「漢字・漢文」という言語システム、そして中国で発展した「律令」など官僚システムを使用するために、儒教経典を輸入して学んでいった。漢字や律令とともに、というのが日本における受容経緯と共通している。文学に影響力の強い儒教の面目躍如というところか。
また両国は日本と違い、科挙とセットで取り入れている。したがって儒教は最初から、国家官僚・閣僚の専門知識として用いられたようである。

ただしこの両国も、あくまで土台は朝鮮文化・ベトナム文化であり、それらに儒教の理論を合流させたということは日本と変わりないようだ。結果、日本、朝鮮、ベトナムのいずれも、中国とは似て非なるそれぞれの歴史・発展を遂げている。

【その他】

儒教というと中国・日本・朝鮮のすべての文化圏・すべての歴史に共通と思われがちだが、実はそうでもない。
中国では、魏晋南北朝時代から唐代を通じて、仏教と道教が優勢だった。唐代中期には韓愈が憤慨したほど。
朝鮮においても、高麗王朝は仏教が主流で、儒教が浸透するのは李氏朝鮮時代である。
日本の場合は、存在は遣隋使のころから伝わっていたが、主流化したのはやはり江戸時代。
東アジアの各地の文化圏において重要な立ち位置を占めていることは確かなのだが、儒教一つでそれらすべてが説明できるわけでもない。

道教と並んで「中国驚異の同化力」の一因でもある。
もっとも「儒教に強力な同化力がある」というより、「中国文化そのものに強力な同化力があり、儒教も道教も仏教も、満洲文化もキリスト教もなにもかも飲み込んで混然一体としていく」というほうが正確かもしれない。

メーデー!:航空機事故の真実と真相』のファンの間では「操縦員たちが人間関係構築に失敗した場合」を『儒教』と呼んだりする。特に高圧的な上司に部下が逆らえない場合にこう言われる。機長と副操縦士という場合のほか、会社の上層部と従業員だったりという変則パターンもある。
ごくまれに、副操縦士のほうが話の流れで権威的になり、機長が押し切られるパターンを「逆儒教」なんて呼んだりも。逆って何?

この名がついたのは「大韓航空8509便墜落事故」。
このケースにおいては「軍在籍時の階級を絶対視する企業風土*10」のせいで機長の権威が高くなりすぎ、警報が鳴っているのに副操縦士が機長の誤操作を指摘または修正ができなかったことが墜落に至った原因であった。
大韓航空は本件までに3年続けて大事故を起こしてしまったが、この後、デルタ航空の副社長を社長として迎えるなどの大改革に踏み切り、以降20年以上墜落事故を起こしていない*11
なおこの回の本編映像において儒教という単語は一切出ていない事には留意。
あくまで韓国国内において儒教思想が根強いことになぞらえて視聴者が「儒教」と呼び始めただけであり、(宗教・文化としての)儒教そのものを番組や視聴者が批判しているわけではない。*12

ただ、そういう事故が国籍・文化圏関係なく起きていることからわかるとおり、上からの圧迫・パワハラとは別に儒教に限ったことではない。
(例えば同じく「儒教事例」として有名なものに「ケニア航空507便墜落事故」も挙げられるが、東アフリカのケニアに儒教が関係ないのは明白である)
まあネットスラングってやつである。

子、曰く「追記して、時に修正する、実によいことではないか」

※現在の国際情勢・社会問題に関するコメントや追記・修正は避けるよう心がけてください



△ページトップ
項目編集


この項目が面白かったなら……ポチッと 0 

コメント欄

▷ 表示する

*1 実際、考古学研究によると、儒教の礼制と実際の周代の礼制とはほとんど共通点がないらしい。『論語』でも、孔子自身が「夏王朝や殷王朝にも末裔の諸侯国はあるが、王朝時代の文献や継承者はなかった」との嘆きの文章を残している。
*2 儒家と併称されるほど勢力を誇った墨家だが、秦代からなぜかふっつりと消滅している。この理由は不明。
*3 喪中の家は物忌みとなって贅沢をしないので、犬に与える食事も貧しくなる。しかし人間なら「先祖のため」と熱意で支えられるが、犬にはそんな理屈はわからず、ひたすら瘦せ衰えて困惑するだけである。なお儒家は喪中の期間を三年という長期間とるよう推奨しており(実際に守った人はそれだけで特筆される?ほど稀有だったが)、それを二重に皮肉ったなら学のある通行人である。
*4 余談として、史記を著した司馬遷は、董仲舒と直接の面識がある。ただ董仲舒は、司馬遷の史記編纂に難色を示したとのこと。
*5 盂蘭盆会の根拠で有名な「目犍連(モッガラーナ)尊者」の話も、よく読むと母親は餓鬼道に輪廻転生しているのであって、冥界にいるわけではない。
*6 これは儒教の教義的にというより、どの文化にも見られるものであるのだが。例えば西欧では、中国人を「キリスト教を受け入れない半文明の野蛮人」と激しく蔑視していた。というかこういうのの正体は、大抵「おらが村が一番」程度のものである。
*7 古代ローマ帝国のコンクリート技術や東ローマ帝国の火薬兵器は、やがて失伝した。イスラム文化は九世紀ごろは西欧水準より高かったが、やがて逆転される。
*8 ちなみに「儒教と仏教を学ぶならセットに道教も学んだら?」とも言われたのだが、なぜか「道教は結構です」と断ったそうである。
*9 仏教における先祖供養には儒教の先祖祭祀の理論・様式がかなり援用されているので無関係ではないが、その祭祀を仏教僧侶が行うようになり、人々も広く仏教の儀式と認識したという点で、儒教としては「後退」である。
*10 入社の段階で本人の技術や経験より最終階級が重視されるほどであった
*11 …が、ナッツリターン事件など高圧的な上司由来の問題は未だ残っている模様。というか相次ぐ大統領の汚職(これも世話になった人≒目上の人を重視しすぎる故のものである)をはじめ韓国の社会そのものに儒教思想に起因する歪みが多いことは否定できない。両班に代表されるような、朝鮮史特有の強い党派性なども関係しているが。
*12 「軍階級の絶対視」が儒教思想に基づくものあると決めつけるのは些か早計であろう