封建制

Last-modified: 2024-04-24 (水) 23:02:39

登録日:2020-02-18 (火) 23:00:00
更新日:2024-04-24 (水) 23:02:39
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封建制(ほうけんせい)とは、国家の統治システムの一つ。
洋の東西を問わず主に古代から中世に利用される、地方行政システム。

読みは「ふうけんせい」ではなく「ほうけんせい」である。

以下、動詞として「封じる」という言葉も頻出するが、いずれも読みは「(ほう)じる」であり、意味も「封印(ふういん)」ではなく「任命」に近い。

【概要】

ごく簡単に言うと「地方の運営を、地方政権に一任するシステム」である。
対義語は「郡県制」。郡県制とは、「地方の運営を、中央政府が派遣する官僚が運営するシステム」である。
日本史では、封建制とは江戸時代の幕藩体制、郡県制は明治時代以降の現行システムを想定するとわかりやすい。

【郡県制】

まず、現代日本は「郡県制」である。あまりそう呼ばれないし普段意識もされないが、概念には該当するため便宜上こう呼ぶ。

日本には47の都道府県があり、その下に市区町村といった自治体が無数にある。
まず、この地方公共団体は、独立した政治組織ではなく日本の行政機関の一部である
戦後の日本では地方分権・地方自治の方針のもとに多大な権限が与えられており*1地方政府とも言われるが、基本的に政府や各大臣の下にあり、勧告や措置を受ける立場にある*2
多大な自治権を有してはいるが、あくまで日本国政府の支配下にいるのだ

この都道府県および市区町村にはそれぞれ長官がいる。県知事、市長といった面々だ。
長官は選挙で選ばれており、地方分権の元に多大な権限を持ってはいるが、日本政府に対して従属する立場にある*3
県知事は県知事選挙を通じて住民の投票によって選任されるが、あくまで日本国の一行政機関の長=地方公務員であり*4都道府県の「王」として好き勝手できる地位ではない
また県の役所には大小多数の職員がいるが、彼らもまた日本政府の行政機関に勤務する地方公務員であり、決して知事の「家来」ではない

もし、どこぞの知事が「日本の政治は間違っている。俺がこれからこの県で兵士を集め軍隊を結成し、東京に進撃して、首相を追い出し、日本を支配する!」と言い出した場合、
県知事の部下になっている公務員は誰一人としてこんな妄言に従ってはいけないし、従う義務がそもそもない。
長官も職員も、日本国に所属する「公務員」であるのだ。

「支配者」ではなく「一人の役人」である以上、特権階級では決してない。
地方分権を謳う日本国の地方行政を担う重職である以上、かなり大きな裁量権は与えられているが、権限以上の権力を行使したり規定に反する行動をとれば、どれほどの大官だろうが弾劾され処罰される。
逆に、功績が大きければまた別のポストを与えられて異動になることもある。県知事から国会議員になった人や挑戦した人が多いのは既知だろう。

死んでしまった場合も、その息子が父親の地位を世襲することはできない。息子はあくまで息子という独立した人間であり、息子が役人であったとしても、現在担当している役職以上のものは与えられない。
もちろん、父からの人脈や知名度、貯め込まれた資金など目に見えない遺産はあり*5、そうした遺産を継ぐ者として「名門」と言われもするが、それはシステムとは無関係。

これらを日本政府の観点から見た場合、全国各地津々浦々に散らばり日本を運営する公務員は、日本国の中央政府(内閣府)が直接・間接含めて全て掌握している、という形をとる。

つまり郡県制とは「中央政府が、全国の官僚すべてをコントロール下に置き、国家全体を管理・運営するシステム」なのである。
郡県制において、国家を管理運営する役人は、全員が中央政府に所属する官僚なのだ*6

このシステムのメリットは、全国を管理できるためやれることが大きく、マクロ的な視野に立って大きな仕事ができる点にある。
例えば、悪人や犯罪組織が出現し残虐な犯罪を犯してしかも逃亡した場合、全国の公務員(警察など)を総動員して網の目を張り巡らせば、国のどこにいようともあぶり出し、逮捕して法の裁きを受けさせることができる。
国家を縦断する大河が大氾濫を起こすかもしれない。氾濫を起こす前に全国の国民を徴用して工事を行えば、治水作業はスムーズに、しかも大河全体を見渡しながら効率的に行えるだろう。

国家を運営するならば、官僚システムを発達させた郡県制は確かに優れている。
現代においてはほとんどの国は、その国内において郡県制に似たタイプのシステムを採用している*7

こうしたシステムは官僚システムが整っているならば効率的である。しかし官僚システムが整っていなければ、そもそもこういったシステムを敷くこと自体が難しい。
国の規模にもよるが、首都と地方が何百キロ、何千キロも離れている場合もあるだろう。
そんな遠方まで指示を出すのは、道路や鉄道や電話線が急速に発達した近代、インターネットが津々浦々まで伸びた現代ならともかく、文化・技術が未発達な時代や地域には困難である。

世界中の役人を中央政府が管理・コントロールするというのも、実際には難しい。
業務のことではない。というか「役人の管理」といっても、役人の細かい実務内容まで中央政府が指示することは最初から不可能だし非効率だ。
この場合の「中央政府による役人の管理」とは、人事、つまり「役人に給料を出す」ことを指す。
しかし国内の全ての役人の給料を賄うというのは、政府の財源や徴税システムなどに余力がなければ難しい。世の中カネだが、そのカネというものは国家でも容易に御すことが出来ないもの。大体の国が衰退する原因は財政難である。

郡県制、中央集権型の官僚システムは、軌道に乗れば実に効率的だが、軌道に乗せるのが大変なのだ。

したがって、郡県制を整えられない世界・時代では、必然的に封建制を施行することになる。

なお、本稿では先に郡県制を説明したが、あくまで現在郡県制の世界に住む日本人のためにこうしたまで。
歴史的には多くの場合、封建制がまず先にあり、郡県制の登場はそのあとであることを明記しておく*8

【封建制の基本システム】

さてここでようやく封建制の解説に移る。
封建制とは簡単に言うと「地方の運営を地方政権に一任するシステム」である。

郡県制では、中央政府は国家全体を一律に管理したが、封建制では、中央政府は首都近郊だけを管理・運営する
首都圏を離れた各地域には、それぞれの土地を治める「領主」を置く。
それら「地方領主」は、自分たちの「地方政権」を作り上げ、担当地域の統治一切を担当する
徴税や徴兵、インフラ整備や経済政策、立法や司法などにも責任と権限を持つ。
またその地方に所属する官僚たちも地方領主・地方政権に所属する。給料を与えるのもはたまたクビにするのも、地方領主であって中央政府ではない。
彼らの地位も世襲される。領主の座は異変がなければそれぞれの太子が継ぐし、麾下の役人たちも領主の「家臣」として存在する。

大きな国のなかに一つの中央政府多数の地方政府が併存し、
それぞれの地方政府は独立して自領を管理・運営し、中央政府は地方小国の管轄エリアにはあまり口を出さない、というシステムである。
言ってしまえば、中央政府と地方政府は「ほぼ対等の国同士」であり、中央政府はあくまで「地方政権たちの盟主」にすぎないのだ。

日本では、江戸時代までの幕藩体制がこれに該当した。
中央政府=江戸幕府が直接に管理・運営したのは、江戸を中心とした首都圏および各地の幕府直営地(天領)のみ。
地方の運営を行ったのは地方政府=であり、藩の領内の統治にはかなりの程度の自治権が認められていた

江戸時代末期には長州藩が兵を束ねて江戸に進撃したことがある*9が、このときの長州藩主の命令で江戸に攻め込んだ長州藩士は「お上への裏切り」とはみなされない。
長州藩士とは「長州藩に所属する武士」であり、彼らが「長州藩主の命令に基づき江戸幕府に攻め込む」という行動は、「江戸幕府への反逆」には該当せず「主=長州藩への忠勤」となるのだ。
長州藩士の所属先はあくまで長州藩。江戸幕府には所属していないのである。
もちろん「将軍」と「大名」は主従関係であり、その関係性の確認のために参勤交代や手伝普請は存在したが*10

封建制度下において、中央政府と地方政府はあくまでも「ほぼ対等の政府」なのだ。

もちろん、実際は対等ではない。少なくとも平等ではない。

上記の通り「将軍」と「大名」は主従関係にある。
ほとんどの場合、中央政府は、地方諸侯よりも強大な国力や一頭抜けた権威を有する。
例えば江戸時代において、大藩といわれたのは百万石の加賀藩、七十七万石の薩摩藩、六十二万石の仙台藩である。
しかし江戸幕府の天領は四百万石といわれた。最大の藩である加賀藩の四倍、また三大藩を合わせたよりもさらに大きい。

また中央政府は、これら現実の国力・武力や、なんらかの権威*11を駆使して、地方政府に対して一定以上の強制力=権力を発揮する
例えば江戸幕府は、藩主に対してその乱行や失政を咎めて藩主の交代を命じたり、土地を取り上げたり、果ては藩を解体させることもできた。いわゆる改易である。
「忠臣蔵」で有名な赤穂藩は、藩主・浅野内匠頭の犯罪によって江戸幕府によって取り潰されたことで知られる*12
江戸幕府はかなりの権限を大名たちに移譲していたが、人事権だけは手放さなかったのだ*13

さらに中央政府は盟主としての権威・権力により、各地の地方政府に対して税の上納・兵力の供出などを命令できる
ある地方政府が、勝手に隣国を攻め滅ぼして併合するなどの暴挙に出て中央政府が対処に乗り出す場合、
中央政府は直属の兵を出すのはもちろんだが、各地の諸侯にも「兵を出して王のもとに集結し、王の指揮下で反乱諸侯を討伐せよ」と命令し、全世界の兵力で、少数の反徒をたたき潰すことができる。
日本史で言うところの「いざ鎌倉」である。

逆に言うと、盟主たる中央政府には求められる義務がある。
端的に言うと天下秩序の維持である。どこかの国が他国に攻め込んだり、あるいは異民族が攻め込んできた場合、盟主たる中央政府は、自前の戦力や諸侯の戦力を動員してこの戦乱や紛争を迅速に鎮める義務がある。
盟主とは「盟約の主」である。その盟(誓い)に対する義務があるのだ。

そうした「義務」を盟主が果たせない場合、諸侯もまた盟主に対する本来の義務を破棄して、事態を解決できる「新しい盟主」を探すことになる。
「いざ鎌倉」に代表される中央政府の権利は、中央政府が盟主であるための義務でもあるのだ。それら義務を果たせないなら、王はもはや盟主ではなく、単なる一諸侯である。

そうした中央政府の優越権・義務はあるが、基本的には地方政府と中央政府は盟約によって結ばれた、対等の関係である。

こうしたシステムは、中央政府の統治能力や文章などの情報処理能力が低く、効率的な地方統治ができない場合に行なわれる。

中央政府が国家全域で官僚を掌握する郡県制と比べた場合、各領地が独立しているため、

  • 大運河全体の整備のような、国家全体レベルの大規模な業務ができない
  • 犯罪者が領地を越えて逃亡した場合、逃亡先に対して引き渡しを求めなければならず、交渉が難儀*14
  • 東方領地で飢饉が起き西方領地で豊作というような場合でも、西で余っている食料を東の方に回すのにいちいち手続きがいる、更に手続きが上手くいったとしても各領地を経由する間にピンハネや中抜きと言ったリスクが付きまとう
    といった、「国境」を境とした煩雑さのほか、
  • 国境が多いため、領主同士の紛争が起きやすい
  • 各地の役人は地方領主・地方政府のみに専属するため、中央政府の指示を地方に広げられない
  • そもそも軍権すら地方領主が握っているため、領主が自分の意志で軍事行動を起こせる
  • 中央政府はあくまで「盟主」に過ぎず、その権威を地方が認めない又は地方に認めさせられなければそれで終わりであり、権力の変動が起きやすい
  • 元より独立性がある上に「盟主」の権限が小さいので地方領主が保身の為に他の勢力も「盟主」と仰いだり、より強大な勢力に領地ごと容易く寝返る可能性もある*15
    といった、紛争が頻発、簡単に勢力が瓦解する一面も強い。

しかしこうしたデメリットに対して、

  • 中央政府は直轄地*16だけを統治すればいいため、負担が少なくコストも安く済む
  • 各領地の領主は地元の名士である事が多いので、地方の風土や条件に適応した統治がしやすくなる
  • 国境があることを活かして貿易・関税徴収などが可能*17
  • 失政の類があっても領主に責任を押し付ければ中央政府の責任問題にはなりにくい。
    といったメリットもある。
    軍事的な紛争・挙兵が起きやすいことも、
  • 反乱しそうな勢力を、土地のやせた辺境や紛争の激しい難地に送り込み、外征どころでなくさせる
    • 但し辺境や紛争地帯は特性上、中央政府の干渉を受けにくくある程度の独立性や軍事力を確保しやすいという意味合いも持つので領主が上手くデメリットを克服できれば勢力を大きく拡大でき、中央政府にとって代わられる可能性もあると言う諸刃の剣であるともいえる。
  • 仲の悪い諸侯を隣接させることで、お互いに牽制させる*18
  • 危険な諸侯の領土をあえて小さくし、反乱してもすぐ潰せるようにする
  • 人質を供出させる、大河治水などの難事業を押し付ける、などで国力を削ぐ
    などの対処は可能。
    なにより、技術や文化が整っていない時代・情勢下で、できもしない全国統治を中央政府がしなくて済むというのは、限りなく大きなメリットである。
    現代でも、中央政府に力のない失敗国家?にあっては、地方軍閥を半ば黙認することで内戦だけでも起こさず国を保とうとすることがあるが、これもある種の封建制かもしれない。
    しくじったら?「何もかもおしまいだぁ」になりかねないが、まあそれはどんな制度でも言えることか

そのため、国家システムがある程度発展した文化圏のほとんどで、古代から中世・近世にかけて封建システムが普及した。
ヨーロッパにおいては封建制から絶対王政への移行が「中世」から「近世」への分岐となったほど。

【各文化圏の封建制】

◇中国

そもそも「封建制」「郡県制」自体が中国における用語である。そのため、狭義には封建制・郡県制は中国のみに用いるべしとする論もある。

封建制については自然発生。
古代において出現した巨大な城郭都市が、武力や技術力をテコに周辺の都市国家に対して優位を誇り、盟主として認めさせたことが端緒となった。
夏王朝殷王朝の間は、だれそれを領主に任ずる「封建」というより、もとから現地に存在した地方豪族に対して「王に服属した」というお墨付きを与えて服属させていたらしい。

しかし周王朝は、殷王朝とそれに与する諸侯を打破したのち、太公望を筆頭とする功臣や、王族の有力者などを各地方に赴任させる、という方式を取った。
そのため厳密な意味での「封建制」、領主を領国に封じて建国させる、という形式をとったのは周のみとなる。
周の封建事情は周公旦?の項目へ。

ちなみに周の文王が王号を名乗ったのは、とある諸侯が争いの調停を周に求めたため。
当時周はまだ諸侯の一つにすぎず、殷には王がいた。しかし諸侯は、争いの調停を殷にではなく周に求めた。
これは諸侯のあいだで「殷を王として認めない」「周こそ王にふさわしい」という認識が広まったことを示している。
周侯姫昌が「王」と名乗ったのはこのためである。逆に言うと、王というのが盟主に過ぎず、盟主こそが王になることを示すエピソードといえる。

やがて周王朝は衰退し、春秋戦国時代に移行。斉の桓公・晋の文公といった「覇者」が生じた。
覇者は、各地の諸侯を呼び集めた「会盟」を挙行してその盟主となり、その「盟約」に基づいて、諸侯に対して内政への関与を行ったり、諸侯を率いて悪事を働く諸侯を討伐したり、あるいは諸侯連合を率いて夷狄へと遠征した。
…しかし「諸侯の盟主となる」「諸侯の内政に干渉する」「諸侯を率いて軍事行動を起こす」などの行動は、実は封建制における中央政府(王)のとる行動である。
つまり覇者とは、「王号なき王者」そのもの、かつての文王のような存在であった。

孔子が覇者(なかんずく管仲)を嫌ったのは、実は彼ら覇者が周王に対する「謀反人」、周王を王として認めず、自ら王として振る舞った「僭越者」だったからである。
しかし現実に、当時斉を「覇者」とし、その指揮に服するのに異を唱えた諸侯はいなかった。当の周王ですら、自ら会盟に参加し、文公を覇者として讃えたものである。
つまり、当時においても封建制の王とは「盟主」に過ぎず、統率力を亡くした周王は、王に値しないとみられていたのだ。自他共に。

ただ、現実に周王を倒すでも取って代わるでもなく、一時的な盟主にしかなりえなかった「覇者」は一代限りで長続きせず、中華全体の主導権を握ったのも晋の文公(短期間)までのことであった。
以後の「覇者」は地方における盟主に過ぎない。例えば秦の穆公は中原の覇者ではなく西域の覇者にとどまり、周朝にも中原諸侯にも無関心を貫いた。宋の襄公は論外

春秋戦国時代も後半期にはいると、中国の封建制にが生じた。
中国は西周時代を通じて漢字・漢文が発展し、春秋戦国時代には文章活動が全盛期を迎える
さらには政治システムを研究・分析して発展させるものまで登場し、官僚システムが高度な発展を遂げる
技術的にも、公用道路、運河、長城などが整備され、もともと複数の大河が東西を縦断し、平地も多い中国で、交通網も大いに発展した

ちなみに春秋時代後半には周の王権は比するべくもなく落ちぶれていた。祭祀を主催する立場すら失い、戦国時代には各地の諸侯が、
本来周王にしか認められないはずの「王」を名乗り始めた。もちろんそれを咎める能力なんて無い。

それらを背景として、各国内部で郡県制が施行され始める。

当初は各国内部のみの限定的な運用だったが、西部のにおいて商鞅が改革を行い、郡県制、官僚システム、封建貴族の削減、といった困難な改革を一気に推進。
最終的に、官僚システム・郡県制・権力論・支配体制論を、法家の韓非子始皇帝の師弟が完成させた。

始皇帝は天下を統一して、中国文化圏全体に郡県制を施行した。
このシステムは以後中国に定着。一時的な妥協(劉邦?の郡国制など)や、全国の統治が立ち行かない時期(五胡十六国時代?五代十国時代?など)はあったものの、封建制が本格的に蘇ることは無かった。

なお、いくらなんでも「すべての官僚を支配」できたわけではない。
地方官ともなれば特に、実務担当者として地方の有力者・事情通を雇い、補佐役として使うことが多かった。これを「胥吏」という。
働き次第で権力者に気に入られることもあるため、田舎の頭がいい人間には、国家試験の科挙よりも身近な昇進コースでもあった。
しかし胥吏は、帝国直属の官僚があくまで私的に雇う補佐官であり、厳密な意味での『官僚』ではない。
給料も雇い主のポケットマネーである。当然私的な出費がかかるため、中国における汚職の原因となる一面もあった。
といって、赴任する役人だけで行政が回るわけもなく、限りなく白に近いグレー的な存在であった。

また、中国内部においての明確な土地運営政策としての封建制こそなくなったものの、封建の名残といえるものは多少は残った。

内地においては「列侯」に名残を見出せる。
例えば関羽?の封ぜられた「漢寿亭侯*19」のように、個人に爵位と領土を与え、世襲権も与えるケースである。
理屈は周代までの封建諸侯と同じだが、規模は比較にならないほど小さく*20名誉職的なものである。

中国外地、つまり異民族の領域に対しては、その後も長らく「封建」の理屈が用いられた
つまり、異民族勢力における有力者に金印などを与えて「王」に「封建する」という形式である。
例えば邪馬台国卑弥呼は、魏(中国)から「倭王」に封じられた。これによって「倭は中国を盟主とする一国」と定めるとともに、「倭は中国が干渉しない独立国」とも認め、いわば共存の道を作ったのだ。
一般に「冊封体制」とよばれるが、「封」の字が用いられている通り、「異民族を対象とした封建制」である。
この「冊封体制」は「華夷思想」と一体で、異民族を蔑視する発想からきた政策と俗に言われるが、
実際は中華の実権が異民族に及ばないことを認めたうえで、不干渉と共存の名目を立てたシステムでもある*21

国内では郡県制を敷いて統一し、外国には封建制を模して共存するというやり方は、悪名高い華夷思想と表裏一体の、合理性をも垣間見える。

◇ヨーロッパ

ゲームやラノベでもさんざん使われているが、中世ヨーロッパも典型的な封建制。フューダリズム(Feudalism)ともいう。
基本は上述のものと同じで、「中央政府」が多数の「地方政府」に対して、土地の統治権・自治権を認め、代わりに有事の際には兵を出すよう求めた。「いざ鎌倉」パターンである。
その意味では日本や中国における封建制と変わらない。

しかしヨーロッパの場合、封建制が行き過ぎて、細分化しすぎた点に特徴がある。

ヨーロッパの場合、「中央政府」ははじめローマ帝国であったが、ローマ帝国の無実化及び崩壊にともない、各地の王(フランス王、イギリス王など)が「中央政府」となり、貴族を爵位叙任を通じて封建領主=「地方政府」と見立てるようになった。
しかしその貴族もまた、領内の土地を細分化して中小貴族や騎士に分配し、土地の自治権と兵役義務を課したため、「国のなかに多数の国があり、そのなかにまた多数の国があり、その多数の国のなかにもまた多数の国がある」いう複雑怪奇な状況になった。
しかも封建システムにおいて、貴族は直属の上位貴族にしか所属しないため、命令系統は一段階下までにしか行かない。二段階下の貴族に命令を出すには、その貴族をまとめる中間貴族に話を通さないといけない。
「臣下の臣下は、臣下にあらず」とはこれを指す。

そのため指揮系統や命令条件は複雑化の一途をたどった。
王冠をかぶる王は実権がないが、宮廷でデカい顔をする大貴族にも実はあまり実権はなく、中級貴族も言うほど領内を動かせず、実際に統治を担う小貴族は非力すぎて…となった結果、煩雑な手続きを取って領内の貴族をいちいちかき集めないと、にっちもさっちもいかないという結果になった。
特にひどかったのが「神聖ローマ帝国?」で、だいたいドイツとオーストリアにまたがる土地に300もの地方政府(領邦)があったことと、「大空位時代」を迎えるほど王権が無力化したことで知られる。

しかもここにカトリック教会も加わる。
カトリック教会は「皇帝に冠を授けるのは我らが教皇」と称した。これはつまり「皇帝をじるのは教皇」、つまり封建システムの頂点に教皇が立つという理論である*22
しかし、皇帝の任免権を教皇が握ろうという試みは、諸侯や貴族に「皇帝に任命されるのか教皇に任命されるのか」というさらなる混乱と口実を与え、ただでさえ複雑な封建システムをより煩雑化した
カトリック教会自体が教皇領を持っていたり、各地の教会に対して「首長権」を名乗って教会を通じた支配を狙ったため、
教皇が「中央政府」教区を「地方政府」とする別な封建システムまで出現
おまけにカトリックの腐敗からプロテスタント運動が起き、宗派対立を口実とした対立はさらに激化。
むやみやたらな分封と聖俗分かたぬ権力の欲望が絡み合い、「封建的無秩序」という言葉まで生まれるに至った。

こうした封建的無秩序はドイツ・オーストリア・イタリアでひどかったが、フランスでは「太陽王」ルイ14世あたりから、大貴族の抑制・中央集権システムの敷衍が行われつつあった。
それでも制度上は封建システムのままであったが、中央政府(フランス王国)の強大化は為されており、並行する産業革命の進展などが影響し、次第に西洋における郡県制、中央集権システムが進んだ。

また、こうした封建的無秩序が「議会」の発展をもたらしたのも見過ごせない。
もともと西欧では、古代ギリシャの直接民主制、ローマ共和制の身分闘争の結果の民会の重視、ローマ皇帝即位における元老院と軍と民衆の推戴など、市民社会の声を重んじる伝統があった。
封建制から脱却するために中央集権化を図り、王が強大な権力を持った体制が絶対王政であった。
しかしその伝統は中世の神聖ローマ帝国(帝国議会)やフランス王国(三部会)にも存続しており、もともと諸侯だけを対象としていた議会の選挙権が、
やがて市民階層まで広がっていったことで、市民社会と直結する「国民国家」が登場(フランス革命)。
国民全体が国家と直結することで、国家もまた国家全体を統率する新しい体制となった。
さらにフランス王国など中央集権に成功していた国は、官僚システムによる地方統治=郡県制も可能となり、完全に封建制から脱却する。

ただ、封建的無秩序のひどかった中欧*23では、国民国家の登場も中央集権化も立ち遅れた。
議会が発展しなかった東欧*24では「国民国家」はいたずらに民族紛争を刺激するだけに終わり、ロシアなどを除き官僚システムも難航した*25

また、国内における封建的無秩序こそ終わったものの、ヨーロッパを俯瞰すれば大国と小国が入り乱れて国境が複雑に入り組んでいるという構図は現在もあまり変わらない。
国内レベルでの中央集権化は為され新しい封建も無くなったが、ヨーロッパ全体、ヨーロッパ文化圏の統一と中央集権化はまったく考えもされていないのが現実である。
実はEUこそがその試みに近かったが……

ちなみに西欧式封建制(フェーダリズム)と中国式封建制の違いとして、中国式は「氏族的血縁関係」、西欧式は「双務的契約関係」と説明されることが多い。
つまり「西欧封建制は、諸侯にも王に対する義務がある(軍事貢献、税の供出など)が、王にもまた諸侯への義務がある(土地の保護など)。王がこの義務を果たせないなら契約は破棄される」というもので、
「対する中国は、血族的な繋がりであり、王=宗家に対して諸侯=分家が絶対的に服属するものであった」として、違いとする。
西洋封建制は中国封建制よりもシステマチックで合理的、といいたいのだろう。

しかし上述したように、中国式の封建制も結局は「盟約」「契約」によるものである。
殷末の諸侯が、問題を解決できない殷を見限り周侯・姫昌に頼んだことも、姫昌が諸侯からの外交紛争解決を以って「王」を名乗ったことも、
「盟主として諸侯を束ねられないならば王にあらず」、すなわち殷の紂王が王としての義務を履行しなかったから王として扱われなくなったことを示している。
斉の桓公などの覇者が会盟を挙行してその盟主となり、盟約を盾に諸侯を服属させたというのも、まさに「盟約=契約による双務的な封建システム」である。

しかも、覇者として明確に会盟を主導したのは斉の桓公と晋の文公だが、桓公は周王家ではない姜姓の人間であり、文公は周王家の分家筋の末裔であった。
にもかかわらず、諸侯は当たり前のようにその会盟に参加したし、周王さえ文公の呼び掛けに応じて、彼の覇権に加盟した。
中国の封建制も、血族や氏族などとは無関係とは言えないものの、「盟約」「契約」によるものであったことは明らかである。

「西洋封建制は契約によるから、諸侯が複数の大諸侯と契約を結ぶことができた」というのもよくあげられるが、類似のケースも中国・春秋時代にはよく見られた。
鄭という国は、時に北の大国・晋の盟約に従い、時に南の大国・楚の盟約に従い、双方の支持を受けて存続した。それで非難も浴びたが、それは「忠臣は二君に仕えず」などという道義的なことではなく、外交的な問題への苦情という即物的なものである。

実は西洋封建制と中国封建制はどちらも契約に成り立っており、言うほど差がないのである。

◇日本

基本解説の例えには多々用いたが、じつは日本の場合はいささか不思議な経緯をたどっている。
まず日本の場合、先に郡県制があり、次に封建制に移り、その後再び郡県制になった

最初は国造や郡司といった、地方豪族をそのまま地方領主とする、中国の殷代以前に近い封建制であった。
しかし遅くとも大化の改新の頃(645年)には国司を置いている。
この国司というのが「中央政府が派遣する地方長官」であり、日本における郡県制の象徴である。
もちろんいきなりこの郡県制が普及したわけではないが、中央政府は他にも律令の発展、国分寺などの普及などを推し進めた。
飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期を通じて、日本全土の中央集権化=郡県制が大いに発展した。

しかし平安後期ごろから、天皇を中心とする中央政府が衰退を開始。
天皇が実際の政治的支配者から、宗教的な司祭と変化したことで、中央政府の持っていた日本全土への権力が薄れたのである。

さらに奈良時代中期から出現していた荘園も増加する。
荘園とは早い話が私有化された土地であるが、その私有する人物=荘園領主は中央からの地方官僚に従わないため、郡県制は骨抜きになる。
藤原道長にはたくさんの荘園が贈られた*26というのは日本史の授業で習うだろう。
しかも荘園を守護する兵が武士となり、地方領主として成長していったことで、いよいよ天皇・平安京を中心とした日本式の郡県制は衰退していく。

これに代わって台頭したのが武家である。
争いを経て平氏が支配したが、公家的になった平氏は源頼朝を筆頭とする武家に討伐される。
その後、彼らが政権となった、すなわち幕府である。
幕府時代は源氏の鎌倉幕府、足利氏の室町幕府、徳川家の江戸幕府と数百年続く。
しかし幕府は征夷大将軍を中心として全国を統治する郡県制ではなく、活躍した武家に土地を与えて世襲させる封建制を施行した。

中国やヨーロッパは封建制から郡県制に移ったが、日本の場合は郡県制に代わって封建制に移行したのである。

これについては、中国は平地が多く道路や運河で交通網も発展したのに対し、
日本は山がちで平地が少なく、運河も開通できない*27という事情が大きかったのだろう。

徳川家康?が開いた徳川幕府による江戸時代の幕藩体制は、封建制における究極の完成系ともいえる*28
徳川幕府の直轄領は400万石。さらに幕府直属の旗本も独自に石高を持つため、それを含むと実質700万石となる*29
二位(最大藩)加賀藩の103万石、三位の薩摩藩77万石をはるかぶっちぎる。
警戒筆頭の薩摩藩には、その周辺に薩摩並みの大藩を大量配置*30、プラスさまざまな賦役を課して財政破綻にも追い込んだ。
他の藩に対しても「生かさず殺さず、背けば殺す」とまでいわれる強力な統制を敷き、幕末を除いて反乱らしい反乱を起こさせなかった。
最も恐るべきは、こうした完成度の高い封建システムを徳川家康が晩年の十数年で確立させたことである。

また、江戸幕府において生殺与奪権を完全に握られた武家・旗本が高度に官僚化したことと、日本列島各地の天領を効率的に運営したことは、ある意味で郡県制に近い地方行政の中央集権化ももたらした。

しかしその後、黒船来航からの外憂により、封建制ゆえに実質約260の小国の寄せ集めでもある幕藩体制は、
地方政権(各藩)の軍事強化=徳川の弱体化に繋がりかねないジレンマや、統制力の強さゆえの硬直性や財政難に悩まされてしまい、
国=所属する藩から「国民国家・日本」という意識が産まれたことで、再び天皇および中央政府を頂点とした全国規模の中央集権化、
日本流の郡県制が誕生した。
当時の中央集権は内務省の存在など今とは比べ物にならないほど強く、各知事も中央政府による任命制であった。
その後敗戦による地方分権を経て令和の現代に至るわけである。
しかしこの国民国家の意識誕生に水戸徳川家という、いわば幕藩体制を築き上げた側の功労があったことは歴史の皮肉というべきか。

なお、日本では「県」が最大行政区画で、「県」のなかに「郡」がある。
しかし中国では「郡県制」というように「郡」のなかに「県」がある。
「県郡制」と言わないのは、初めに中国で「郡県制」という用語で完成したため。

【その他】

たまに封建制は「家父長制」と同一視されることがある。
特に一族の長(家父長)というような年配男性が、家族や使用人に対して一族内部の絶対君主のように振る舞うとき「封建制の名残」といわれたりする。
しかし家父長は妻子に対して領土を分け与えたりはしないため、封建制とはあまり関係はない。

一族の長が、ある者に「分家」させることもあり、そうした分家に対して「本家」が君臨する体制もみられる。
この「分家」は確かに「分封」「諸侯」に近く、個人レベルの封建制ということもできるが、
そもそも本質として、封建制とは分権的なものであり、「絶対的な封建制」というものは存在しない。
それでも「圧迫されている」場合、それは単にその分家さんが、「本家に逆らうな」という周りの空気に呑まれているだけである。

というか、「封建的な」とかいう場合、「とりあえず古くて悪しき前時代的な産物」という意味で使われている場合が多い。
この場合、実際に封建制に似た分封システムがあるかないかは関係ない。
例えば「あの企業が衰退したのは封建的な経営のせいだ」とかいう場合、「のれん分けのし過ぎ」などは意味せず、「社長の強引で無謀な経営」「古い体制にこだわったやり方」を意味することが多い。

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*1 日本国憲法第8章は「地方自治」というタイトルで4条もある
*2 それらも地方自治法により手続き等が決まっており、関与する場合も必要最低限度にしなければならないと決まっているが
*3 東京都知事などは、首都の知事であり財政的にも余裕があるので色々と口を出すことができるが
*4 地方公務員の中でも特別職であり、地方公務員法の適用外であるという特別扱いではあるが
*5 いわゆる「地盤・看板・鞄」。ちなみに古代中国の頃から出世するには大事なものであった
*6 もちろん全国に行って管理する訳にも行かないので間接的になる
*7 もちろんほとんどの国が地方分権のもとにかなりの権限を地方に渡しているが。それでも国家がやろうとすれば、それらを超えて行使できるようになっている
*8 日本はやや特異だが
*9 蛤御門の変など
*10 よって、特に初期には将軍直参の旗本たちが、大名の家臣を「陪臣」と呼んで馬鹿にしたことがある
*11 歴史的な背景、宗教的な霊威など
*12 彼らは「刃傷沙汰は両人死亡が慣例なのに吉良上野介が死なないまま浅野内匠頭だけ死を申し付けられたのは不当」として吉良上野介を討ったが、赤穂浪士が攻め込むべきは、吉良上野介ではなく、理屈で言うなら命じた江戸幕府(徳川綱吉)であるべきだったという論もある(荻生徂徠ほか)。もっとも吉良上野介が事件の当事者であることに何ら変わりはなく、幕府とやりあうのも圧倒的戦力差があることや、無関係の者(討ち入り参加していない者)すらも多数巻き込むとても陰惨な話になる
*13 人事権を手放してしまったら干渉することが事実上不可能になる
*14 なお時代劇でお馴染みの仇討は、これの複雑なシステムを回避して犯罪者を処罰するために設けられたものである
*15 特に隣接敵国の国境沿いで戦争時に最前線となる領主の場合、自身と領民の安全を考えて敵国側とも誼を通じておくという事は結構あったそうである。
*16 首都近辺や中央政府が自治管理すると定めた地域
*17 物資流通が難しくなる、庶民に負担がかかる、などこれも一長一短であるが
*18 うまく行けば仮想敵諸侯の潰しあいや、中央政府の軍事費削減もできる。
*19 「漢寿」が地名で「亭」は小さい行政区画。つまり「漢寿亭侯」は「漢寿亭を与えられた侯爵」となる
*20 戦後の第一功臣クラスでさえ「一万戸」、戸籍数一万家ぶんの領地まで。治世ともなるとどれほど大きくとも数千戸ぐらいとなる。参考までに、「四世三公」袁家当主が世襲した「安国亭侯」は、食邑わずか五百戸
*21 王莽が匈奴らに対して「王号を剥奪して侯に格下げ」などしたところ、彼らが激怒して攻め込んだのは有名
*22 実はこれは詭弁である。そもそも「皇帝に冠を授ける教皇」という構図は、他でもないカトリック教会が勝手に編み出したものである。聖書などの根拠もまったくない。そのためオーソドクス教会(正教会)にもプロテスタントにもこのような風習はない。
*23 ドイツ・オーストリア・イタリアなど
*24 ギリシャ、ロシアなど
*25 先に国民国家が成立した西欧では、ほぼ単一民族による国家が成立していたことも原因。これにより「国民国家」=「単一民族国家」となり、民族自決の法則も合わさり民族紛争の激化を招いた
*26 いわゆる寄進地系荘園
*27 近海を通じた海路は発展したが
*28 歴史的にみると後発であり、家康自身が先達の失敗点や成功例に書物や同盟者としての視点で向かい合う事で「百聞一見共に」熟知できた事と日本が島国で外患を招きにくく内憂に備えやすかったのも大きい。
*29 旗本制は行政が複雑になる・貧困がひどい・職にあぶれるなど問題点が多かったが
*30 しかも微妙に薩摩より小さいため、薩摩と組む・薩摩にとってかわることも出来なくさせた