SRW-SEED_660氏_シン×セツコSS_01b

Last-modified: 2008-12-24 (水) 18:07:58
 

 ぱらぱらと、円筒の内部の世界に作り出された人造の空から、絶えまなく降り注ぐ雨音が、優しい子守唄の様に遠く遠く、海の彼方から聞こえてくる様だった。
 今は思い出す事も出来ない母が、自分に子守唄を聞かせてくれた事があったのかさえも分からないが、ひどく優しい気持ちになって、眼を覚ました。
 行為を終えた後に、少年が濡らしたタオルで丁寧に体を拭ってくれたから、お互いの体から溢れた滴にまみれ、それの乾いた不快な感触はない。
 少年が自分の体を清めてくれている間の時間は、女性のお気に入りの時間の一つだった。
 うっすらと暗闇からほの暗い世界へと瞳を開き、見開いた視線の先に黒髪の少年の寝顔がある事に、かすかな喜びを覚える。我知らず、陽炎のように儚い笑みが彼女の口元に来訪を告げた。
 締めきったカーテンから水の様に沁み入ってくる光はどこか闇の面影を残し、人類が虚空に建造したこの人工の大地『コロニー』の内部時刻が、まだ夜明けを迎える前だと理解する。
 二十歳にならぬ男女二人が暮らしているにはあまりにも殺風景な、と万人が悲嘆に暮れる様な部屋の壁に掛けられた時計も、まだ眠り姫の魔法が解けるには早すぎると告げている。
 傍らで寝入っている少年を起こさぬようにと気を使いながら、少しだけ上半身を乗り出して、少年の寝顔を覗きこんだ。真白いシーツから、冬の最中に降り積もった雪も恥じらうような肌が露わになった。
 染み一つなく、薄暗い部屋の中ではほんのりと輝いているとさえ見える雪肌に、黒い糸が一本二本と数を増やしながら流れた。

 

 黒。拒絶を告げる黒。絶望を孕む黒。恐怖を囁く黒。

 

 けれど、その女性の黒は違う。夜に訪れて命ある者達に一時の安らぎを無償の愛で与える安らぎの黒。
 染めてしまう事、傷つけてしまう事を誰もが恐れてしまいそうな位に儚い白い肌。
 照りつける陽光さえも己の意味を忘れ、安らぎの眠りについてしまいそうな黒い髪。
 穏やかな微笑を浮かべる唇は、淡くその存在を主張する程度に桜の花びらの色を帯び、頬との境界線を描いている。
 紡がれる言葉は、これからの未来が輝いているであろう子供達やまさに人生を謳歌している少年少女から、苦しみも悲しみも喜びも楽しい事も全て味わい尽くし、涸れ尽くした老人さえも悲哀の涙にくれさせる悲劇の歌こそが相応しいだろう。
 夜空に流れる流星の様に形よく弧を描く鼻梁と、手を加えるまでもなく整った柳眉はさながら、不世出の芸術家の入魂の一筆のよう。
 瞳の翠は青く輝く地球という名の星に眠る翡翠の鉱脈の、最も美しく、最も長く時を重ねた一塊から削りだせばかろうじて再現し得よう。
 だが、その瞳に陽に落とされた影の様に張り付いている悲しみの衣を纏わせる事は、神に愛された者がどれだけ魂を込めて腕をふるっても不可能だ。
 見つめられた者が、不意に、一番隣にいて欲しい誰かを失ってしまうような悲しみを覚えてしまう瞳は、けれど、紛れもない慈しみに彩られて少年の寝顔を映している。
 いつまでもいつまでも、その寝顔だけを見つめ続ける事が出来るのなら、どんなにいいだろう。そうする事が不可能だとわかってはいても、そう願わずにはいられないのだと、やはり瞳が語っている。
 一糸もまとわぬ裸身を唯一あらゆるものの目から隠すシーツから、そっと右腕を伸ばし、おそるおそる少年の髪に触れる。起きてもちっとも整えないせいで、治らない寝癖であちらこちらに跳ねている髪の内のひと房に、そっと指先で触れる。
 まるで自分が触れる事で、少年がこの世から消えて無くなってしまうと恐れているように、そっと。そっと。そっと。
 いつも乱暴に洗うだけの少年の黒髪を、赤子の頬を撫でる慈母の様に優しく女性は撫で続けた。少しだけ体を乗り出し、大きな白桃を思わせる乳房をシーツから零しながら、少年の頭に手を触れさせる。
 今度は罅だらけのガラス細工を触れる様に、壊してはならないように、傷つけてはいけないように、本当にかすかに、指先だけ触れるような手つきで少年の髪に触れ、頭を撫でる。
 この世の誰よりも愛おしい人を慈しむ恋人の光景以外の何物でもないのに、今こうしている事が幸せな夢の中だと理解しているような、どこか物悲しい、見る者が目を逸らさずにはいられない『何か』があった。
 女性の過去がそうさせていると言うならば、それは背負わされた誰もがその場に蹲って耳を塞いで目を閉じて、その口からはこの世の終わりを望む呪詛が絶え間なく零れるような救いの無い過去であるだろう。
 女性はだからこそ、こうして安らぎに浸れる今の自分を信じられずにいた。
 瞼を閉じれば否応にも蘇る過去の煉獄の光景に、眠れぬ日々を過ごす事も無い。
 昼日中にも聞こえてくる仲間達の最後の声に、心が悲鳴を挙げる事も無い。
 信頼を裏切られた現実を認めようとしない感情と、現実を見ろと告げる理性の狭間でもがき苦しみ事も無い。
 そんな日々が続いていた。いや、それどころか――こうして、安らいだ気持ちにさえなっている。女性にはその事実こそが信じられずにいた。
 真正面から女性が少年の寝顔を覗きこむ姿勢になり、女性の髪がはらりはらりと、どこか舞落ちる花びらに似て、少年の顔に触れた。
 シーツから思い切りよくくびれた蜂腰から上半身を乗り出したせいで、少年の裸の胸板の上で、女性の豊かな乳房が軽く卑猥な形に潰れた。二人の肉と肌との間に埋もれた肉粒がかすかに快楽の電気信号を促したが、女性はそれを無視して少年の寝顔を見つめる。
 触れれば消えてしまうと言われながら、それでも触れられずにはいられないのだと、震える指先が、今度は少年の額に触れた。
 時が来れば魔法が解けると知りながら、王子とのダンスに我を忘れてしまったシンデレラがおとぎの世界にいたならば、今の女性の心を誰よりも理解しただろう。
 額に触れた指が動く。決して離れず、今度は指を離してしまったら少年が消えてしまうとでもいう風に。
 眉をなぞり閉じた瞼に触れ、鼻をかすめ頬を撫で、少年の唇で止まる。
 何度も自分の肌に触れた唇。何度も吸いついた唇。何度も離れていった唇。
 女性の肌に残るかすかに赤い無数の痕は少年の唇が昨夜――といってもほんの数時間前に残していった交わりの証だった。
 うなじにも首筋にも、胸にも二の腕にも尻にも、それこそ隠すべき乙女の秘所の間近にも、少年の唇が残した刻印は、数限りなく女性の体に刻まれていた。
 それと同じ数だけ、女性もまた少年に自分の唇を与えて、お互いに自分達と言う存在の証を相手に刻むように唇を交わし合った。
 唇で止まった指先にかすかな吐息当たり、覆いかぶさった胸板から乳房越しに伝わる少年の心臓の鼓動とぬくもりと合わさって、少年の命の息吹を感じる。
 生きている。自分と同じような悲しみと苦しみを背負い、忘却する事を誰よりも自分が許さぬ過去に心が血反吐を吐いていても、少年の命はいま、ここにある。
 それを女性は自分の肉体を通じて感じていた。体で感じ、それを心が理解する。

 

 生きている。少年も、そして自分も。

 

 伝わるぬくもりは冷え切った心を温めてくれる。確かにそこにあるという物理的な感触が、麻痺した感性に新しい刺激を与えてくれる。言葉を交わし、意思を伝え合う事の出来る存在がいるという事実は、孤独の泥濘に塗れた魂を救ってくれる。
 人間がどうして肉体と言う殻に閉じこもったままなのか、その理由の一つを、女性は少年の与えてくれるモノから理解した。
 今日みたいに降りしきる雨の日、生きる意味も目的もなく、このまま悲しみも苦しみも、何もかも、それこそ自分の命さえも雨が洗い流してくれたらどんなにいいだろう。
 もし、天国か地獄があったならそこに行けるといい。どちらに行けるかはわからないが、仲間達の所へは、ここよりも近い場所に違いないから。
 そんな思いばかりに囚われて佇んでいたあの日。
 差し出される傘。ためらいがちに、それでも意を決して掛けられた言葉。

 

――行くとこ、ないんだろ?

 

 そうだ、自分にはない。帰る所も、行くところも。帰りたい場所も、行きたい場所も。どうして自分がその問いに答えたのか、今はほんの少しだけ分かる。
 少年が自分の瞳に見た、心に空いたがらんどうの穴を、女性もまた少年の瞳に見ていた。少年は言った。
 『行くとこ』と。それは帰る場所がないという事を、誰よりも自分自身で理解しているから出てきた言葉。
 帰る所はない。何を求める事もなく自分を暖かく迎え入れてくれる場所はない。人たちもいない。この世界に、居場所なんてない。
 だから、新しい場所を求めてどこかへ行くしかない。でも、どこへ行けばいい? なにもかもを無くしてしまって、歩く事も立っている事も、息をするのも生きている事さえも辛いのに。
 帰る事は出来ない。どこかへ行く事も出来ない。自分がこの世界で生きているという確かな実感を得る事が出来ない宙ぶらりんな『現実』。
 何の為に生きている? どうして生きている? いや、そもそも、今の自分は『生きている』と言えるのか? ただ呼吸をして食事をしているだけの肉の塊だ。それは、死んでいるのとどれだけの違いがある?
 女性の頭の上に傘を差し出し、自分の体半分を濡らしながら、少年は言葉を続けた。

 

――だったら、家へ来いよ?
――…………
――えっと、熱いシャワーと着替えとタオルと、砂糖たっぷりのホットミルク位ならあるからさ。

 

 その時、心のどこかで浮かべたものを、今は微笑だと思う。一人で雨の中で傘もささずに立ち呆けている女を部屋に誘うには、あまりにも幼稚な言葉だと、色恋に疎い女性にも思えたからだ。
 そんな風に思う事自体、久しく忘れていた事に気付くのはずいぶん後のことだった。

 

――変わった人ね。
――お互い様だよ。それに、家に帰っても誰も待っている人がいないんだ。
――そう。……私もよ。似た者同士、なのかしら?

 

 似た者同士。それが本当にホントの最初のきっかけ。どこにも居場所がなくて、誰も待っている人たちがいない者同士。これほど傷を舐め合うのに似合いの二人がいるだろうか。
 諦めと疲れ以外の何も感じる事の無くなった心のどこかで、仮初で得られる安らぎを餓鬼の様に求める自分の声を、女性は地平線の彼方から届いた風の様に聞いていた。
 その日から、少年――シン・アスカと女性――セツコ・オハラの運命は交差した。

 
 

 シンと出会ってからある日、職場の同僚たちに笑う事が増えたと言われた。それまでは必要最低限の言葉しか交わさず、根気よく続けられる誘いも断り続けるセツコに、どこか遠慮がちに同僚は告げた。

 

 笑っている? 自分が?

 

 何よりもその事実が、セツコの胸を驚きで満たした。これまで何度鏡を見ても、そこに自分の笑顔が映った事など無かった。もうこれから先笑みを浮かべる事一生ないと諦めていた。
 その自分が、笑っている……。
 呆然とするセツコを、職場の同僚たちは心配げに見つめ、やがてほんの少しだけ好奇心を交えた質問をしてきた。

 

“何かいい事でもあったのか?”

 

 いい事……ひとつだけ心当たりがあった。けど、それは、と自分でも理解できない戸惑いに揺れるセツコの心に描かれるのは……
 降りしきる雨から守る様に差し出される傘。躊躇いの領地から一歩を踏み出し、孤独の虚無へと差しのべられた手。一人ではないと、嵐の最中に差し込んだ陽光の様に輝いていた言葉。

 

――だったら、家へ来いよ?

 

 行く所が無かった。帰る場所が無かった。

 

――お互い様だよ。それに、家に帰っても誰も待っている人がいないんだ。

 

 待っていてくれる人がいなかった。帰りを待っていてあげたい人がいなかった。
 なのに。それはもう絶対に変わらないはずだったのに。なのに、今は、自分には。

 

――お帰り、セツコさん。夕飯作っといたんだ。一緒に食べようぜ
――ただいま。なんだ、待ってたのか、先に寝てて良かったのに。でも、ありがとう。待っていてくれて。
――おはよう。今日は同じ所で仕事だな。昼とか一緒にどうだい?
――その、セ、セツコ。これからは、セツコって呼んでもいいかな? おれの事もシンでいいからさ。え? シン君のままでいい? あ、あぁ、そっか。じゃあおれも……

 

 見る見るうちに肩を落とすシンに、セツコでいいと告げる自分。たちまち顔を輝かせて隠しきれない喜びに綻ぶシンの笑顔。その笑顔を見て、胸の暖かくなる自分。
 きっとその時、自分も笑顔を浮かべていたに違いない。シンの浮かべる笑顔が嬉しくて。その笑顔が自分に向けられているのが嬉しくて。シンにセツコと呼ばれるのが嬉しくて。

 

 そっか。気付いた。今の自分には帰る場所も帰りを待っていてくれる人もいる。世界に居場所がある。
 それを与えてくれて、きっと自分もそれを与える事が出来て、自分は、今“生きている”のだとセツコはようやく気付いた。

 

 押し黙るセツコを心配そうに見つめる同僚たちに気付いて慌てて溢れそうになった涙を手の甲で拭う。
 シンだけじゃない。今目の前にいる同僚たちだって、こんな自分の事を気に掛けてくれいるじゃないか。
 色を取り戻した世界。ノイズ以外の音が蘇った世界。暖かさが戻ってきた世界。
 セツコは、世界が光り輝いている事に、ようやく気付いた。セツコは、ずいぶんと久し振りに、心からの笑顔を浮かべた。笑顔というものを忘れて久しかった顔の筋肉は、なんとかうまく機能してくれた。
 初めて見るセツコの笑顔に身惚れなる同僚たちの前で、セツコは少しだけ恥ずかしそうに、けれどもどこまでも誇らしげにこういった。

 

「とても、とても幸せな事があったんです」

 

 セツコの同僚達は口を揃えて、セツコにあの笑顔を浮かばせたことが、つまらない自分達の人生の一番の誇りだと、家族や友人たちに語ったという。その時セツコが浮かべたのは、そんな笑顔だった。

 
 

「ねえ、シン君」

 

 ぽて、と軽い音を立ててシンと共用している枕に顔を埋め、セツコは聞こえていないとわかった上で、シンの横顔に語りかける。
 語りかけるセツコの口元に浮かぶ微笑み。見た者の誰もが、その日一日を暖かな気持ちで過ごせる、そんな微笑み。

 

「私が、こうしてちゃんと生きているって実感できるのも、こうやって笑えるのもシン君のお陰。あの日、私に声をかけてくれて、手を差し伸べてくれて、本当にありがとう」

 

 聞こえてないか、と口の中で呟いてセツコは優しく肩に手をかけて来たまどろみに身をゆだねた。

 
 

 とても、とても幸せな夢を見ていた。目覚めた今でも内容は忘却の霧の彼方に置いてきてしまっても、それだけは確かに覚えている、そんな夢。
 夢から目覚めた切っ掛けは、傍らで眠っていたはずのシンから注がれる視線。短い時間の睡眠が重しの様に思考に絡まって、セツコは眼を瞬かせる。

 

「シン君?」

 

 首を傾げた拍子に零れた黒髪が、肩を伝ってさらさらと胸の谷間へと流れて行くのを感じた。シンは気付いているだろうか。シンの指が梳いてくれる時の為に、自分が髪の手入れを彼の見ていない所で欠かさずにいるのを。
 シンはまっすぐにセツコを見つめていた。いつもと違うシンの様子に、セツコの胸の中にある期待と恐怖が等しく暗雲の如く立ち込める。
 まさか? いや、でも? どうか、どうかその言葉だけは口にしないで。それが言葉になってしまったら、それを伝えられてしまったら、今のままではいられなくなる。
 どこかあやふやな傷ついた者達同士だからこそ一緒にいられるこの生活が、変わってしまう。シンとの生活で得られるぬくもりが、優しさが、自分の心をひどく臆病にしている事に、セツコは気付いていた。
 そんな事、心配しなくてもいいんだという自分。でも、ようやく、ようやく見つけたの。私がいてもいいって、生きていてもいいんだって、言ってくれる人。教えてくれる人を。 
 その関係が、変わってしまったら。シンを失うような事になってしまったら、また、一人になってしまったら!
 ソノ時、自分ハ耐エラレルハズガ無イ。
 今度こそ本当に狂ってしまう。悲しみに押し潰されて、苦しみに血の最後の一滴までも涙と共に流し尽して。絶望に何もかもを踏みにじられて、そのまま死んでしまうだろう。
 死ぬ事よりも失う事の恐怖が、セツコの心を支配していた。
 でも、シンの言葉は止まらない。彼も知っている。失う事の恐怖を。残された者が味わうとてつもない苦痛を。でも、それでも彼は伝えた。恐怖にも苦痛にも勝るものをセツコに与えられると信じていたから。

 

「愛してる」

 

 短い、たった数秒にも満たぬ言葉。それが、セツコの心臓を一瞬止めた。どくんどくんと自分の体の中から音が聞こえる。再び心臓が全身に血を送り始めていた。それは、止まる前よりもずっと熱い熱を帯びていた。

 

――どうしてかな。

 

 それまで感じていた恐怖が、嘘の様に消えている。

 

――どうしてかな。どうして私が一番欲しい言葉を、君は言ってくれるんだろう。

 

 胸が暖かい。心が暖かい。頬を伝うものを抑える事が出来ない。

 

――どうして、君は私をこんなに幸せにしてくれるのかな。

 

「ずるい」

 

 伝えたい。シンが自分に与えてくれるように、自分もシンに与える事が出来るのだと。与えあい、支えあい、伝えあって、ずっとずっと、一緒にいたいんだって事を。この胸の中に無限に溢れる子の気持ちを伝えたい。
 こぼれる涙をそのままに、セツコは精一杯笑った。一番大切な人には、一番きれいな笑顔を見て欲しい。一番大切な人には、一番可愛い笑顔を見て欲しい、一番大切な人には、一番幸せな笑顔を見て欲しい。
 こんな風に笑えるのは、君のおかげなんだよ、そう伝えたくて。
 ねえ、私、うまく笑えてるかな?

 

「私も愛してる」

 

 シンの瞳の中の自分がちゃんと笑えているかどうか、セツコには分からなかった。涙が溢れた瞳には、シンの浮かべる表情も見えていなかった。
 ねえ、止まって、私の涙。彼の顔が見たいの。
 そう願うセツコの心に反して、涙は止まらない。なんとか涙を止めようとした時、そっと、頬に触れるものがあった。
 例えこの目が光を失って、決して間違える事は無い。それは、シンの唇。何度も何度も触れて、触れられた唇。
 それが頬を伝い零れ落ちる涙を吸い取った。今度は反対側も。セツコはシンにされるがまま、静かに涙が途切れるのを待った。シンの唇が離れる。
 セツコは、また笑顔を浮かべようと努力した。伸ばした指先が、離れようとしていたシンの唇に触れて、シンが止まる。

 

「いっぱい、いっぱいキスしたね。けど、まだ、ここでだけしてなかったね。おかしいね。一番キスする所なのに。どうしてかな?」
「今、するためじゃないかな?」

 

 シンの言葉に、セツコはこれまでで一番きれいで、可愛くて、幸せな笑みを浮かべて、うん、と小さく頷いた。淡く淡く映し出される二人の影。それは重なり合い、融け合い、やがて二人の唇を結び合わせる。
 シンの唇にはまだ涙の滴が残っていた。セツコが流した喜びの涙。愛の涙。それが、二人の初めてのキスの味になった。

 
 

 とても、とても幸せな夢を見ていた。目覚めた今でも内容は忘却の霧の彼方に置いてきてしまっても、それだけは確かに覚えている、そんな夢。
 でも、今はその夢の内容を覚えている。もうどんな事があっても色褪せない夢。決して忘れない夢。夢の中でシンとセツコが笑い合っている。
 どこにでもいる当たり前の恋人の様にじゃれあって、時々ケンカをして、仲直りをしてずっとずっと、年を重ねても二人で一緒にいる夢。
 でも、その夢はあまり長くは続かなかった。夢は醒めるから夢。幸せな夢も暗黒の悪夢も、目覚めれば終わる。そんなもの嘘だというようにあっという間に消えてしまう夢。 
 だから、この夢も、長くは続かなかった。

 
 
 

 夢の中の二人が、そう遠くない将来三人に増えたからだ。三人に増えた夢の中で、今より少し大人になったシンとセツコと、二人に手を繋がれた幼い子供は世界中の誰よりも幸せな笑顔を浮かべていた。