―――宇宙・資源衛星群
『損傷甚大、損傷甚大。戦闘不能、戦闘不能』
電子音声特有の無機質な、それでいて何処か愛嬌の感じられる声に、男は目を覚ました。
どうやら少しの間とはいえ、意識を失っていたらしい。
未だ混濁の残る意識を覚まそうと頭を振ると、身体の奥から鋭い痛みが走る。
「‥ちっ」
感覚からして、肋骨の何本かは確実に折れているだろう。もしかしたら、折れた骨が内臓を傷つけているかもしれない。あの衝撃だ。不思議はない。
そう考えながら、意識を失うまでのことを少し思い返した。
怨敵との一騎打ち。
感情に任せ、僅か冷静さを欠いた状態での戦闘。
怨敵にばかり気を取られたとき、怨敵の僅かな隙が自分にも隙を生じていたことに、相棒が知らせてくれるまで他の敵機に気づけなかった油断。
敵機の捨て身の特攻。それによる被害は機体の右腕を損失するだけに止まらず、自身の弱点――利き目の損失を、怨敵に悟らせてしまった。
怨敵の対応は早く、その結果‥‥‥‥
思考を切り替え、男はヘルメット越しに頭を叩いて骨折による嘔吐感を散らす。
そうしながらコンソールを操作して機体の損傷具合を確認すると、半ば予想したとおり機体の損害は酷いものだった。コックピットと『計画の要』が無事だったのは幸いだが、戦闘行動は不可能だろう。
だが、だからといってバカみたいにぼんやりとしているわけにはいかない。生きているシステムを駆使し、機体を資源衛星の影へ。普段から比べれば的としか思えないほど緩慢な動きだが、トドメを刺されるわけにはいかない。
なぜなら、自分は生きているのだから。生きていればまだ、打つ手はあるのだ。
敵は戦争狂いで戦争中毒の傭兵だ。半殺しにした獲物を見逃すとは到底思えない。トドメの一撃を加えるためにまだこの宙域にいるはず。チャンスはある。そして、それを成す方法もそのために必要なものも、彼は既に見つけていた。
コックピット上部にある精密射撃用スコープシステムを外すと、コンソールパネルを叩いてコックピットハッチを開ける。激痛の走る身体を気力で起こし、移動用バーニアをセット。コックピットハッチに足をかけ、宇宙空間へと身を乗り出した。
「‥‥ハ、ハロ‥‥‥デュナメスを、トレミーに、戻せ‥‥」
脇腹の痛みに声を震わせながら、少しだけ振り向き、言う。
『―――――、―――――』
「‥‥心配、すんな‥‥‥生きて、帰るさ‥‥」
途切れ途切れに言いながら、呼びかける相棒――オレンジ色の球形小型汎用マシン『ハロ』へ手を伸ばし、優しい手つきで触れた。何度も触れてきたその表面をゆっくりと撫でる。LEDの目をしたハロは何も言わない。ただ、されるがままになってくれていた。それでも表情は、何かを言いたげに‥‥‥いや、それは感傷か。
そして男は、そんな思いを振り切るようにハロから手を離し、ハッチを蹴って宇宙に飛び出した。
ある程度の距離を取って振り返ると機体は男の指示通りに遠ざかっていく。
―――悪いな、ハロ。ウソついちまって‥‥
「あばよ、相棒‥‥‥」
未練を断ち切るように背を向けると、男は宇宙空間を進んだ。向かうのは目の前を浮かぶ決着を付けるための、『復讐を遂げるための』武器。先の戦闘で破壊されたサポートメカの主力武装――大型GNキャノン。その一門だ。
キャノン砲に辿り着いた男はその青色の装甲にあるメンテナンスハッチを開けて、中にあるシステムチェック用の接続ケーブルを引っ張り出し、スコープシステムに直結させる。
ここからは運がモノを言う。スイッチを入れ、システムを起動。成功。第一関門は突破。続いてパネルを操作し、キャノン砲のコントロールをスコープシステムに移行する。成功。キャノン砲も、ここまで破壊されたというのにまだ、手伝ってくれるらしい。
それと同時に第三関門も突破。敵機はまだ、自分を発見できていない。間に合ったのだ。
そして最後。キャノン内の圧縮粒子量。幸いなことに、破壊による漏出は免れ、充分な量を残していた。スコープシステムが示す残量、
一発。
外せない一発きりの大勝負。だがそれで十分だ。
そもそもコレは機動力のない単なる砲台なのだ。外せば敵の的、回避する術はなく、二射目は意味をなさない。
だから、一発で十分。覚悟も決まる。一発に、集中できる。
男は敵の姿を探し、宇宙空間に目を向けた。
深遠なる闇。無音の空間。
目の前にあるのは、限りない闇に点々と白く輝く星の光と、辺りに浮かぶごつごつといかつい顔つきをした資源衛星の群れだけ。そこには人の温もりも優しさも感じられない。見つめれば身体が吸い込まれるような錯覚を起こすほどの、人智の及ばない果てまで広がる圧倒的な空間があるだけだ。
(は、はは‥‥‥なにやってんだろうな、おれは‥‥こんなところで‥‥)
不意に自嘲めいた笑いが込み上げる。
本当に、なにをやっているんだろう。たったひとりで。こんな、寂しい場所で。
視界を赤い光が流れた。それは敵の、怨敵、仇敵の、光。男が求めていたものだ。見間違うはずがない。
ああ、そうだ。思い出した。ここにいる理由、ここで成すべきこと。
痛む身体をかばいつつ、スコープシステムを肩に担いで、立ち上がる。鈍く激しい痛みが男の息を乱す。使い慣れた接眼用モニターを慣れない左目で覗き込み、それが目的の機体であることを確認した。
「‥‥はあ‥‥はあ‥‥はあ‥‥‥」
敵の機体はデュナメスを探して資源衛星の間を飛び回っている。
男は願った。
まだ気付くな。そして、もっと近づいてこい。
「‥はあ‥‥はあ‥‥‥」
ゆっくりと、トリガーに指を添える。
照準は敵の機体に重なったままだ。
男の脳裏にさまざまな過去が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
運命を、人生を、自分を変えた、アイルランドでの自爆テロ。
瓦解したビル。
広場に並べられた、黒い死体袋。
冷たくなった家族。
目を開けなくなった家族。
もう二度と言葉を交わすことのできない、家族。
そしてただ茫然とし、泣き叫ぶことしかできなかった、無力な自分。
‥‥‥ああ、そうだ。
こんなところで、ボロボロになって、たった一発しか撃てねえ武器に命賭けて。
他人には、何も知らない奴には滑稽に映るだろうよ。
「けどな、コイツをやらなきゃ‥‥仇を取らなきゃ、おれは前に進めねえ‥‥世界とも向き合えねえ‥‥‥」
復讐。
それが今の自分の使命を逸脱していることなんてわかりきっている。
それでも、やる。絶対に。
やらなきゃ、ならねえ。
これを果たさなきゃ、おれはおれとして、おれの過去を整理できねえ。
世界があの自爆テロを過去のものとして整理したように、おれも過去にけじめをつける。
あのときの自分に。何もできなかった、何一つ救えなかった過去の自分に―――
ケリをつける―――!!
だから‥‥‥
「だからさぁ――――!」
敵がコチラに気付いた。振り向き様に間髪入れず左前腕部のGNハンドガンを連射しながら接近してくる。
敵のそんな行動に、しかし男はとても落ち着いていた。いや、寧ろこの状況自体、好都合とも捉えていた。
何故なら、自分の命をチップに、敵を引きつけることが出来るのだから。
「―――狙い撃つぜぇ!!」
それは消える寸前の炎が見せる、最期の意地だった。
大型GNキャノンから放たれた粒子ビームは膨大な熱量のままに、巨大な光の柱となって宇宙空間を貫いていった。まばゆい光が周囲の資源衛星を照らしながら、敵機を呑み込もうと伸びていく。その姿は正しく、彼の意思が顕在化したかのようであった。
緋色の敵はそれから逃れようとするが、出来ない。下半身を呑み込まれ、削られ、溶かされ、火花を散らし、そこから爆発を起こす。
だが、勝負はそれだけでは止まってくれなかった。敵の放った赤き凶弾が、撃ち終えた大型GNキャノンの砲口へ突き刺さり――――
―――――――――――――――――――――――――――――――
ぼやけていた意識から我に返ったとき、男は既に宇宙空間に投げ出されていた。大型GNキャノンの砲塔が小爆発を起こし、吹き飛ばされたのだ。
ゴホッ。男の口から血が吐き出され、バイザーの下半分を真っ赤に汚す。
それを見て男は目を細めた。その顔には、薄い笑みが浮かんでいる。
‥‥‥内臓を、やられたな。
爆発の際に噴き上げられた装甲の一部が、彼の身体に直撃していたのだ。その感覚を男は冷静に、ごく自然に、受け入れた。
意識を内側から外側へ――自分の身体から宇宙空間へと向け変える。すると、バイザーの上半分から見える視界に、きらきらと無数の光が散っていた。光の柱に姿を変えなかった粒子、その残滓だ。それが彼と一緒に空間を漂い、まるで無限の闇に彩りを添えているようだ。
‥‥ああ‥‥まるで雪みたいだ‥‥‥
彼は遠い昔の家族と共に過ごした、寒くとも暖かい冬の日のことを思い出していた。
彼の故郷、北アイルランドの冬は厳しい。豪雪になる日も珍しくはない。
あの日も、雪が降っていた。食卓を家族で囲み、笑い合ったあの日。とても大切な、時間。あれはクリスマスだったかニューイヤーパーティーだったか‥‥‥。
「‥‥‥父さん‥‥母さん‥‥エイミー‥‥」
ああ、みんな笑っている。何の憂いもなく笑っている。十年前から何一つ変わらない。変わらない姿で、笑っている。両親とは年が近づいた。妹とは年が離れた。記憶の中の家族たちは、止まったままだ。
じゃあ、自分は?
「‥‥ああ、わかってる‥‥わかってるさ。こんなことをしたって‥‥何も変わらない‥‥元になんか‥戻らないって‥‥」
復讐をしたところで、時は戻らない。過去は変わらない。何も変わりは、しない。
取り戻したいと願っても、叶わないことはわかっていた。
でも‥‥‥
それでも――――
「――これからは‥‥明日は‥‥■■■の生きる未来は‥‥‥」
■■■
存命している唯一の肉親。双子の弟。
アイツは――■■■は、おれがCBにいることを知らない。
AEUで、自分の居場所で、退屈でもごく普通の生活を続けているはずだ。
弟の生きる未来を、作りたかった。
十年前のような悲劇を二度と起こさないためにも、争いのない、未来を‥‥‥
視界の端に宇宙空間を流れる一筋の光芒が見えた。
青みがかった粒子の光。同志の光。
男は思考を包む気だるさを無視して、ゆっくりとそちらに目を向けた。
霞む視界にかろうじて見える、青と白の機体――――エクシア。天使の名を冠する、仲間の機体。ああ、間違いない、あの“きかん坊”が乗っている機体だ。その機体が、こちらに接近してくる。
男は震える唇をにっと吊り上げてみせた。
「‥‥‥刹那‥‥答えは‥‥出たのかよ‥‥‥」
‥‥‥いや、別にいい。いいんだ。答えなんか、出なくたって。
ただ、わかるか? ―――おまえは今、昔の自分から変わろうとしているんだ。
自分の力で、変えようとしているんだ。
過去から、未来へ‥‥‥
おれはダメな男でよ。あのとき以来、時間が止まっちまった。
どれだけ世界を変えようと動いても、自分のことはまるでダメだった。変わろうとしていなかった。
過去にとらわれていた。
だからさ、刹那。おまえは変われ。
変われなかった――変えられなかった、おれの代わりに‥‥
変わるんだ、刹那。
それから男は顔を上げ、遠くに浮かぶ天体へと目を移した。
青く輝く美しき星―――地球。人が生まれ、生き、死んでいく場所。
生まれ育った故郷は、いまの彼にはあまりにも遠すぎて、手の中に収まりそうなほど小さく見えた。
綺麗だな‥‥‥これが生命のエネルギーって奴なのか?
なんとなく、そう思えた。だから、
だからこそ彼は、そこに住まう人たちに問わずにはいられなかった。
この世界を見つめ続けてきた自分だからこそ、問わずにはいられなかった。
刹那やティエリア、アレルヤが立ち向かおうとしている姿を知っているから、見ているから、
言わずにはいられなかった。
「‥‥よう、おまえら‥‥満足か?‥‥こんな世界で‥‥‥」
争いばっか続く世界で‥‥‥
おれたちみたいなのを生みだしちまうような世界で‥‥‥
男の手が、いまにも止まってしまいそうな手が、青い星――地球に向かって伸ばされる。
力を失い震え続ける指が、拳銃を形作った。
狙いを定める。
そこにいる人たちに、自分の意志を撃ち抜くために。
「‥‥おれは‥‥‥
嫌だね」
BANG!
男の指が跳ね上がった。
その瞬間、形をとどめていたキャノン砲が爆発。灼熱の炎と煙が彼を包みこんで――――
彼の意識が、
彼の肉体が、
『この世界』から、
消えた。
―――――――――――――――――――――――――――――――
「‥‥―――――・―――――‥‥‥」
消えた‥‥‥
ああ‥‥消えてしまった‥‥‥
「‥‥―――――‥‥‥―――――‥‥‥‥」
彼のもう一つの名前。テロを憎む男。モスグリーンの天使を操る狙撃手。
大人だった。
険悪になった空気を、何度もとりなしてくれた。
感情が揺れ、危機に瀕したときも、助けてくれた。
でも‥‥もういない。
「よう」と手を挙げる仕草も。
「心配すんな」という思いやりの言葉も。
快活に笑う彼の顔も。
――――永久に失われてしまった。
「‥‥―――――ッ―――――ッッ」
ヘルメットの中に浮かぶ数滴の滴。
どうしてだろう‥‥‥‥
人の死を目にしたのは初めてではない。
昔も今も、何度も何度も目にしてきた‥‥そしてこれからも、目にしていくだろうことなのに。
どうして、この目からあふれてくる滴は止まらないのだろう――――――
「―――――ああああああああああっっっ!!!」
それは天上人たちの悲愴な叫びだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
―――とある紛争地帯
紛争には多くの理由がある。
民族、領土、開発、宗教、エネルギー‥‥‥例を挙げればキリがない。
だがどれも共通して言えることは、創めるのは(規模を問わず)権力者で、被害を受けるのは何も知らない下層の人間たちということ。終わらせるのも権力者だということ。
知識を得られない子供達――権力者によって植えつけられた正義を信じ、成長し、従順な奴隷として死ぬ子供達がどれだけいるのだろうか?
そして生き延びた子供達は子供達でそんな教育を自分たちの子にし、また同じことをさせる。
歪み―――そう、それはまさに一見して安定した世界の中での歪みとしか表現できないだろう‥‥‥
そして今日も、紛争は続いている。
「ミス・タツミヤ、交代の時間です」
その声が少女――龍宮真名の意識を休息から仕事時へと切り替えた。
「それでは、私は部屋で休みます。何かあったら起こしてください」
部屋の外の声はそれだけ言うと真名の部屋から遠ざかって行った。言葉通り、休むためだろう。
足音が聞こえなくなってから、真名は部屋備え付けの椅子から立ち上がり、日差しと砂避けを兼ねたローブを身に纏って部屋を出た。
外を出ると強い太陽光が照りつけてきた。乾燥した大地に小さく風が起き、砂埃を上げる。
周りを見れば、“ここは危ない”としか知らなく、回避する手段も、ましてや解決する手段すら教えてもらえない子供達が、コチラを見つめていた。だが、彼らは見つめるだけで一向に近寄ろうとする気配はない。何故だろうか?
‥‥考えるのも無意味か。
あくまで仕事としてきた場所だ。深い関わりを持つ意味はない。
余計な考えを切り捨て、歩を進める。
そんな真名の考えはある種、達観しているといえた。
無論、昔からこんな殺伐とした思考をしていたわけではないはずだ。
おそらく、この歳(全く見えないが中学一年生)にして戦場に長く、多く居過ぎたという経験が、今の彼女を形作っているのだろう。
そしてそんな自分を、彼女は変えようとは思っていなかった。
冷酷非情・正確無比の殺し屋。
周囲はそう彼女を呼んだ。
今回の真名の仕事は彼女にしては珍しい“護衛”であった。
というのも、厳密に言えば今回のコレは仕事ではなく、古巣と『学園』からの要請だ(報酬はもちろん貰ったが)。
護衛対象はこの地へ派遣する『魔法使い』、それを連絡があるまで護衛とのこと。
魔法使い――『魔法』。
『この世界』には、一般人には知られることのないところで、このようなものが存在している。
『魔法』。万能ではないが、それでも使い方次第では国すら傾く強大な力。
それを使って、魔法使いたちは日夜、世界中を駆け巡っている。世のため人のために。“陰ながら”。
紛争には多くの理由がある。
民族、領土、開発、宗教、エネルギー‥‥‥例を挙げればきりがない。
そしてそれは、魔法使いという人種がいても変わることはなく、出来ることは大きな戦いを収めることだけ。
小さな紛争がなくなることはなく、弱き被害者たちが生まれるのを避ける術もない。
魔法という強大な力があってもそんな現状を変えることは不可能なのだ。
神の力でもなければ、何も変わることはないのかもしれない。
‥‥‥感傷だな。昔でも思い出しているのか?
紛争と護衛。
この二つが、過去を‥‥一年前までのことを思い出させていると?
ありえない。バカバカしい。それこそが、まさしく感傷だ。
そう否定できない自分は、とても弱い人間のようで‥‥‥嫌になる(つらい)。
「‥‥‥?」
ふと、町の様子がいつもと違うような気がする。
長くこの町にいるわけではないが、それにしてもいつもよりも人の気配がざわついているように思えた。
そしてそれは、町の入り口から中へと流れ込んでいる。
真名は目線を持ち上げ、街の入り口付近を見た。するとそこには妙な人だかりができ、騒がしくなっている。
「おい、アンタ! 大丈夫か!?」
「こいつぁひでぇ、メットの中が血塗れじゃねぇか!」
「どうした、何があったんだ」
人だかりに道を開けてもらいながら事情を尋ねる真名。中心に来て見たものは、モスグリーンのメットとライダースーツのような物を着た男だった。
「これは‥‥‥」
「おお! アンタ、NGOから来たって人だろ?」
「オレタチ、そこでカードをやってたんだけどよ‥‥」
「気が付いたらココで倒れてたんだ!」
「そうそう! 見てたんだけど、いきなりだった!」
真名に気付くと近くにいた者たちは一斉に状況を話し始めた。
しかし、周囲の話を全部まとめると『この意識を失っている男が、何の前触れもなく突然、この場に現れて倒れている』ということになってしまい、意味が分からない。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「‥‥宿にいる仲間を呼んできてくれ」
「医者なら、今呼びに行かせてるぞ!?」
「それじゃあ間に合わないかもしれない。念のためだ」
メットの半分を覆う赤いもの。内臓をやっている可能性がある。
念のためと言ったが、この町の医者で対処しきれるかどうかわからない。
後ろの男は「わかった!」というと言葉通り、宿へと向かって走っていった。
それを確認することなく、真名は懐から一枚の紙を取り出し、男の胸の上――心臓のあるあたりに置く。すると男の身体を淡い光が覆った。魔法――治癒符の力だ。
(応急処置ぐらいにしかならないだろうが‥‥‥)
あとは時間との勝負だ。
「‥‥‥‥うぅ‥‥」
「! 気が付いたみたいぞ!」
男が呻き声を上げた。
メットの奥の左目も少しだけ開く。治癒符の効果で一時的に意識を取り戻したのかもしれない。
「一体何があったんだ!?」
「その傷! ただゴトじゃないだろ!?」
後ろの人垣の中の誰かがそんな声を張り上げた。それは無理もないことだ。
今、この町の近くでは宗教団体を原因とした紛争が起きている。
そこへこんな重症にしか見えない男が現れたら、警戒するのは当然。巻き込まれたくないからと放置されていたとしても、おかしくない。という状況なのだ。
「やめないか!彼は重症なんだぞ!! 話を聞くのは、治療してからでいいじゃないか!」
まずい方向に空気が流れかけたとき、一人の男性の一喝が場を打った。そしてその声は、真名の待っていた声でもあった。
「すまない、タツミヤ。別の治療で遅れてしまった」
マーク・メディケンス。
今回の依頼で護衛することとなった魔法使いの内の一人で、治癒術師だ。
「きみ、自分の名前はわかるかい?」
静まり返った空気の中、優しい声音でマークが尋ねる。その声音につられ、真名も自然と聞き耳を立てた。
男はすぐには答えない。それは思い出しているようにも、考えているようにも見えたが、どちらかはわからない。
だが少し間をおくと、声を震わせながら答えた。
「‥‥ニール‥‥ニール‥ディランディ‥‥‥」
―――――――――――――――――――――――――――――――
かくして止まったままの天上人は地上へと降りたった。
もう一つの名前も、そこに込められた意味も捨てて‥‥
しかし、彼の者は知らない。
降りた地上が、かつての自分をも未来とする過去であることを‥‥‥それと同時に、自分のいた世界とは根本的なところが違うことを‥‥‥
止まっていた時間が、動きだそうとしていた。