温かい‥‥‥
優しく温かく包みこまれているかのような感覚に、彼――ニールの意識は少しだけ浮かびあがった。
深き闇と星の輝きのみで構成された空間――――宇宙。
暗く、冷たく、寂しい世界。自分が死んだ場所。
そうだ‥‥おれは死んじまったんだ‥‥‥
仇敵に一矢報いて‥‥爆発で‥‥仲間の目の前で‥‥‥
だが、ここにはあの宇宙にはなかった『温もり』があった。
‥‥ここは‥‥天国なのか‥‥‥?
ふとそう思ったが、すぐに否定する。自分のようなたくさんの命を奪った者が、『世界への反逆者』が、天国になんて逝けるはずがない。
だったら‥‥ここは地獄か?
‥‥‥地獄でも‥‥こんなに温かいんだな‥‥
朦朧とする意識の中、ニールはなんとなくそんな場違いなことを思った。実感がないからかもしれない。
だが、そんなことは今の彼にはどうでもいいことだった。
―――自分の名前はわかるか
ぼやけた思考にそんなような声が響く。
地獄に来てまで名前? ―――本当によくわからない世界だ。
どこか他人事のように思ってしまう。
それにしても‥‥‥名前。
それにあてはまるものを、彼はいくつか持っていた。
所属していた組織から与えられた偽りの名前。身分を偽るために使っていたもの。
そして。
それとは別に持つ特別な名前が、二つ。
「‥‥‥ぉ‥‥‥‥‥」
その内の一つを言おうとしたとき、それは形を成さなかった。
何故かはわからない。でも、形にならなかったのだ。
‥‥まぁ‥‥いいさ‥‥‥
考えようとは思えず、何も考えずにもう一つの名前を告げる。
もう一つの‥‥本当の名前を。
「ニール・ディランディ」
―――――今度はちゃんと、言う事が出来た。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『検査中、検査中』
『検査中、検査中』
ベッドに寝かされたニールの周辺を看護師のような格好をした精霊たちが飛びまわる。
あのあとのマークの処置は『命を救う者としては』迅速かつ適切だった。
まず真名が使用した治癒符の効果を高め、本人の自己治癒能力の強化を行う。
次に検査用精霊を召喚。状態の確認を急ぎつつ、腹部に手を当てて内臓への治癒を開始する。
そして、検査精霊が患部を言っていくと、その箇所一つ一つへの魔法へと切り替え、治療を続けた。
あとから聞いた話だが、このような手間を必要とする術式の使用は邪道で、正道の魔法使いなら強力な治癒魔法や治癒薬を使って治療をするらしい。
では何故、このような術式を使ったのかと聞けば、魔力の節約のためだという。
曰く、
「たくさんの魔法を使って消費魔力が多そうに見えるけど、初級魔法の応用も使っているからそんなことはないんだ。寧ろ、この治療法なら強力な治癒魔法と同じ魔力で三人、救う事が出来るかもしれない」
「紛争地帯での被害者の数は膨大で、強力な治癒魔法に頼ると魔力をすぐに使い切ってしまう。その先にあるのは、魔法使いとしての限界と絶望だ」
「‥‥‥‥といっても、ニールのときは単に魔力が足りなかっただけなんだけどね」
笑い話のように語っていたが、その眼には自身の魔法使いとしての限界に痛みと自嘲を感じているように思えた。
閑話休題
そうしてある程度の処置が終わったニールは町の医院へと運ばれ、現在に至るわけである。
『『――検査終了。血圧、脈拍、共ニ安定値』』
「ふぅ‥‥良かった」
検査精霊の報告を聞くとマークは安堵の息を吐いた。これでニールの、少なくとも命は保証されたことになる。
時に救いきれず零れ落ちてしまう命がある中、この青年の命が救えたことが、マークはとても嬉しかった。
『左、第三、第五、右、第六肋骨ニ骨折』
『左、第四、右、第七肋骨、右、脛骨ニモ“ひび”ガ、アリマッス』
「わかった。協力、感謝する」
『『失礼シマッス』』
精霊たちが消えるのを見送ると、マークは脱力して椅子に凭れかかった。魔法の使い過ぎによる精神的疲労だ。
これでは、おそらく擦り傷や打撲を治療したぐらいで気絶してしまうだろう。
今はただ、身体を休めたい‥‥‥
「マーク・メディケンスっ!!」
そんなことを考えながら本当に眠ってしまいそうになっていたマークを、その男の叩きつけるような声が起こした。
「キサマっ! どういうつもりだ!?」
「ん‥‥‥」
威圧しているとしか思えない声を聞きながら、マークは瞼を解したり目頭を押さえたりして眠気を散らす。首も回してある程度の眠気が飛ぶとようやく声の方へと顔を向けた。
「聞いているのか、マーク・メディケンスっっ!!」
しかし、男は冷める様子のない調子で声を張り上げる。いや、むしろマークの態度にますます興奮具合が高まっているように思える。
男の名はピクドラ・ゴードン。
マークより10歳も若い25歳で、彼と同じくNGOから派遣された魔法使いだ。
その容姿は、手入れを怠ったことのなさそうな滑らかなプラチナブロンドに、白磁の肌。サファイアのように輝く碧眼‥‥‥‥のブタ。
丸々とした顔は怒りでまるで赤い風船で。でっぷりと肥え太った腹は、いまにも着ている服のボタンを弾き飛ばしそうだ。
ピク(シーのように美しく)ドラ(ゴンのように強くあれ)。
彼の母親はそのようにつけたらしいが、そのような意味で呼ぶような人間は、彼ら親子ぐらいのものである。
「‥‥‥聞いていますよ、ピクドラ。聞いていますが何のことを言っているのか‥‥‥」
「ふん、何のことだと?」
下手に出たことでようやく落ち着きを見せたピクドラは、何食わぬ顔でニールの眠るベッドへと近付き、思いきり蹴りを放った。
「コイツのっ! ことにっ! 決まっているだろうがっ!!」
「んなっ!?」
今までの鬱憤でも晴らすかのように、ベッドを蹴るピクドラ。
重症の患者を相手にやるようなことではなく、そんなことをするとは全く考えていなかったマークには即座に反応することが出来ない。
しかし、直ぐに我に返ると、ピクドラを突き飛ばすようにベッドから遠ざけた。
「な、何を考えているんだっ!? 彼は怪我人なんだぞ!?」
「ふぅ‥‥ふぅ‥‥ふんっ! 何を考えているはこちらが聞きたいことだっ!!」
蹴ったことで乱れた息を整えながら、ピクドラはニールを指差し、怒鳴り声を上げる。
「何故、私に断りもなくこの男を町の中へと入れた!? もしもこの男が敵の罠だったらどうするつもりだ!!」
そんなことをしていたら彼は後遺症に苦しむか、最悪、死んでしまっている。
罠の可能性も何も、爆弾や魔法具どころか武器すら持っていない重症患者に、いったい何が出来ると言うんだ?
「それに一般人の目の前で魔法を使ったそうじゃないか! 魔法の秘匿義務を怠るなど、キサマそれでも魔法使いか!!」
秘匿はした。一般人には召喚した精霊も見えなければ、私が魔法なんてものを使って治療したなんて分からず、ただお腹に手を当てていたようにしか見えないだろう。
そういうふうに、したんだ。
だが、それを言うつもりはない。
「‥‥‥申し訳ありません、ピクドラ。そこまでの配慮は考えつきませんでした」
「ふん! だろうな!」
反抗なんてしないで、ただ謝ればいい。そうすれば相手は自尊心を満たして、それで終わり。
「いいか! ここの責任者は私だ!! リーダーは私だ!! 誰がなんと言おうと、私なんだ!!」
「はい」
言い争って、言い負かして、それがいったい何になる?
そしてマークの予想通り、少々の蔑みの目を向けたあとは満足したらしく、ピクドラはマークを見るのをやめた。
「ふん! わかればいい。だが! このことはきっちりと報告させてもらうからな」
とだけ言い残すと、でっぷりとした腹を揺らしながら、さっさと医院をあとにした。
「‥‥‥はぁ。言っていることも正しいから、彼の言葉は耳が痛い」
僕はただ、命を救う事ができればそれでいい。そのために、僕は魔法と医学を学んだ。
でも、そんなことを続けていけば、秩序は崩壊する。
命を救うために学んだ魔法が、命を救う行動に制限を掛ける。
「‥‥ジレンマだなぁ‥‥‥」
思わずそんな言葉が漏れた。
「‥‥うぅ‥‥‥」
小さく呻く声。
どうやら目を覚まそうとしているようだ。
(そしたら、聞かなきゃいけないな‥‥‥)
この『ニール・ディランディ』という名前以外の一切がわからない男性。
いったい何があってこんな大怪我を負ったのか。どこから来たのか。そもそも何者なのか。
聞きたいことは他にもある。
聞かなければいけないことは、たくさんある。
だけど、
「‥こ‥こ‥‥は‥‥‥?」
「やぁ、起きたかい、ニール。僕はマーク・メディケンス、一応医者だよ」
だけど今だけは考えるのをやめよう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ニールは何もない天井を見つめる。
別に何かがあるわけではない、本当に何もない天井。だが、ニールはそれを見つめ続けていた。
正確には天井を見つめながら、思考を波にでも漂うかのようにゆらゆらとさせているのだ。
デュナメスは、無事にトレミーに戻れただろうか。
最初に頭に浮かんだのはそれだった。
しかし、それと同時にニールは無用な心配であるとも思っていた。
デュナメスを追い掛けていた敵機は、仇敵以外全て仕留めた。そして、その仇敵もまた‥‥‥
それにデュナメスには『相棒』がついている。
心配する要因はない。
‥‥あいつらは、大丈夫か?
デュナメスのことを考えていれば、次に頭を過るのはCBのこと。
刹那、ティエリア、アレルヤ、
ミス・スメラギ、フェルト、クリス、リヒティー、ラッセ、
それにおやっさんに、ドクター・モレノ‥‥‥
国連軍――あの機体たちを相手に、戦えているのだろ――――
「‥いや‥‥あいつらなら大丈夫か‥‥」
無理やりに結論を出すニール・ディランディ。
そう。『ニール・ディランディ』
名前を聞かれたとき、自分は何故、この名前を言ったのだろうか。
なんとなく覚えているのは、偽名を言う気にはならなかったということだけ。その理由も覚えてはいない。
そして、そのときに名乗った名前が、『ニール・ディランディ』。自分の本名だ。
別に間違ったという気持ちはない。
でも、何でもう一つの名にしなかったんだろうか。
他の偽名と違い、コチラに関しては最近に限れば『ニール』よりも使っていたし、呼ばれ慣れていた。
ニールのコードネームであり、その在り方を示すもの。
『―――――・―――――』
「おはよう、ニール。気分はどうだい?」
訪問者。優しげな声だが、警戒心が出る。
顔には出さないが、ニールの手は自然と懐の銃へ‥‥‥
だが、いま着ている服は病院着で、懐に銃なんか入っているわけがなく。それに思い出してみれば、銃のことなんか考えずに宇宙へと飛び出しているのだ。手元に銃がなくて当たり前だ。
「あんたは‥‥‥」
「ん? 覚えていないかい?」
「‥‥いや、覚えてる」
マーク・メディケンス。
目を覚ました時にいた男で、たしか医者だ。
「うん、そうだよ。ドクターでもマークでも、好きに呼んでくれていいから」
そういうとマークは右手を差し出し、握手を求めた。
顔を上げて何を考えているのかと見れば、何の打算もない笑顔が返ってきた。本当にただ握手のつもりらしい。
警戒なんてしていた自分がバカらしくなってくる。そう思ったニールは軽く自嘲の笑みを零すと、返事のために自分も懐に入れた右手を差し出した。
「―――あぐっ!」
脇腹に痛みが走る。右からも、左からも。
「うん。肋骨が折れているからね、痛くて当たり前だよ」
「‥‥おい、おっさん」
「い、いや、ごめんね? 軽い冗談のつもりだったんだけどさー‥‥」
(‥‥医者が使う冗談かよ‥‥‥)
自然と今度は自嘲とは違った笑みが口元に浮かんだ。
心中でそんなふうに零すニールだったが、不思議と悪い気はしていなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ローブを纏った三人組―――二人の男性と一人の少女が町の入り口へと歩く。
マークにニール、その後ろで少し距離を取りながら同行している真名だ。
『‥‥散歩?』
『うんそう。聞いた限りじゃ、キミもどうしてここにいるのかわからないみたいだし。外を見てみれば、何か思い出すかもしれないでしょ?』
軽い挨拶を終えたマークがそんなことを提案したのである。
ニールも少し身体を動かしたいと思っていたようでその提案に乗り、現在に至ったわけだ。
といっても、本当はこのことを言い出したのは別の人間で。思惑も、『ニールのため』などという優しいものではない。
『男(ニール)について、徹底的に調べろ!』と指示(命令)があったため、そのための情報収集でもあるのだ。
そして真名。
彼女の名目は『万が一の時のための護衛』ということになっている。これも間違いではない。
ただ、彼女も『不利益なことがありそうなら“どうにか”しろ』とも言われていた。どうにか、などと曖昧なことを言ってはいたが、おそらく彼が望んでいるのはその中でも一番物騒な方法だろう。
“不利益なこと”というのも、はたして誰にとってのことなのやら‥‥‥
そんなマークの複雑な心境や真名の観察するような視線に、しかしニールは特に気付いた様子もなく。ロフストランドクラッチ――前腕固定型杖を右手で突いて歩きながら周囲に目を向けていた。
石壁で出来た建物に埃っぽい空気、照りつける太陽。およそ珍しいと思うようなものは何もない、ただの寂れた町。
だが、ニールはそんな町の様子を見ている。
「珍しいものでもあったかい?」
「‥‥いんや。ただ‥‥‥」
「ただ?」
マークが聞くと、ニールは少し考えるように空を見て、返した。
「‥‥この辺はあんまり変わんないな、って思ってさ」
その言葉はこの周辺地域に来たことがあるということなのだろうか。
距離を取って聞いていた真名はそう思ったが、隣にいたマークには“なんとなく”そうではないと思えた。
「‥‥ここだ」
後ろから真名がそう言った。
その言葉の通り、三人は町の入口についている。
「‥‥‥‥‥」
先程と同じように周囲を見回すニール。何かを思い出すように、考えるように、目を走らせる。
しかし、その視線は一度も自分が倒れていた場所へは向かない。いや、向きはしたが固定されることがないのだ。
真名が倒れていた場所を示したことでようやく少しだけ目に留めていたが、それだけだ。
「‥‥何か、思い出しそうかい?」
「‥‥‥‥‥」
マークが尋ねる。
それに少しの間を置いてニールが出した答えは、NO。
「‥‥ダメだ。なんでこんなところに倒れてたのか、さっぱりわからねえ」
その答えにマークは「そうか‥‥」と少し残念そうに返すと、考えた。
それは無論、ニールのことだ。
マーク個人の意見としては、ニールは紛争に関係している人物でもなければ、この町に害を及ぼそうとしている人間とも思っていなかった。保障できるもののない個人的な心象に過ぎないが、あの重症具合を考えてもその可能性はある。
だが、はたしてその意見が彼に――ピクドラ・ゴードンに通じるだろうか?
わかりきっている。NOだ。ピクドラは自分の責任問題になることは極端に嫌う。
それにマークの主張も曖昧過ぎるし、真名がどう見ているかもわからない。ピクドラの主張には正当性もある。
何より問題なのは、彼が何も語ろうとしないこと。
自分が何者かも明かさない。何処から来たかも言わない。言う気配がない。そのことに言い訳もしない。
こんなマイナス要因だらけの人間を、あのピクドラが(何かしてくることはあっても)何かしてくれるとは到底思えない。よくて監視付きの生活、悪ければ記憶を全て消した上でこの町から放り出す、といったところだろうか。
そして、ピクドラは自分の(どんな形にせよ)役に立たない人間には、あまり優しくない人種だった。
考えなければいけないのは監視付きの生活にする言い分と、彼がいることで生じるメリット。
『――――、』
マークのローブの袖が二度引かれ、声が掛けられる。
『――、――――――?』
それは現地の少年で、こちらに何かを尋ねているようだった。
しかし、少年の話す言葉は公用語ではない現地独特の言葉で。公用語と共通している『水』という単語以外、何を言っているのかさっぱりわからない。
紛争地帯での活動の長い真名に通訳を頼もうと思ったが、その前に別の人間が動いていた。
ニールだ。
『――――――?』
『――――!』
『―――? ――――――――』
滞ることのない会話。時折 指を折って話を進める様は、意思の疎通が出来ているように見える。いや、実際に出来ているのだろう。
『―――‥‥‥――――――――、―――――』
『――、―――――』
少年は頷くと近くの建物まで駆けて行った。何を話していたかはわからないが、話はついたようだ。
「ニール、きみは彼の言っていることがわかるのかい?」
「ん? ああ。まあ、この辺りには何度か来たことがあるからな」
適当に流し、詳しくは話す気のない様子のニール。だが、それは別によかった。
これで、何とかなるかもしれない。
「ニール。キミさえ良ければなんだけど――――――」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「―――通訳?」
「うん」
突然、なにを言いだしているのだろうか。
そう思っているニールにマークは話を続けた。
「知っていると思うけど、医療と宗教は割と密接なんだよね」
「ああ、聞いたことあるぜ」
「うん。で、その宗教てのが厄介なんだ。モノによっては手術ダメ、輸血ダメ、そもそも医療行為自体がアウト、とかとか。コチラとしては最善の行動のつもりでも、相手にしてみたら『神をも恐れぬ行為』ってわけさ」
マークは笑ってそう言っていた。
そのことを笑って言えるようになるまで、どれほどの月日を重ねてきたのだろうか。
「で、無視して治療をして元気になった患者と裁判‥‥‥ってのは、まだ良い方だね。拾ったのに捨てちゃう人間だっているんだからさ」
どれほどの苦痛を、その身に受けてきたのだろうか。
「で、“宗教上の事情”を前もって聞くためにも、キミに通訳を頼みたい。てわけなんだけど?」
ああ、勿論、僕らが滞在している期間だけでいいし、その間の生活も保障する。
そう締めくくってマークの話は終わり、ニールがどう返事するかを見ていた。
そして、ニールはそれを、
「‥‥‥いいぜ。引き受けた」
断らなかった。
何故、断らなかったのかは、わからない。
期間がそれほど長くはないと思ったからかもしれない。真剣に語るマークにあてられたからかもしれない。はたまた全く別の理由かも。
ただ言えることはどんな理由にせよ、彼は断らなかったのだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ニールの通訳就任は思いのほか簡単に済んだ。
前々から頼んでいたことでもあったし、ニールの監視役も引き受けることをマークが了承したのもよかった。
しかし、一番の理由は別にある。
魔法使いの一人がストレスで倒れてしまったのだ。
ただでさえ紛争地帯という精神的に休まることのない世界。しかもその魔法使いは紛争地帯未経験者で、今回が初めての仕事だった。
空回りした意気込みと失敗した際の激しい叱責は精神を蝕み、慣れない気候と重ね続けた無理が体力を削った結果、倒れてしまったらしい。
そのことをピクドラが知ったのは、マークがニールのことで交渉している真っ最中のことだった。
メンバーの健康管理を怠った責任問題を嫌ったピクドラはそのメンバーを病院に放り込み、そのことを報告せずに隠蔽。
もちろん、その場にいた全員に口止めはしたが、際どかった人員は、余裕のない状態になってしまった。
ことが露見することの恐れからニールの記憶を消して放り出すことも出来ず、だからといって監視をつけようにも人員が足らない。
八方ふさがりのピクドラには、それ以外の選択肢はなかった。というわけである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――宿 ピクドラ・ゴードンの部屋
丸々とした身体で部屋のモノを投げたり蹴ったりと当たり散らすピクドラ・ゴードン。
彼が怒りを露わにしている原因は、昨日のマーク・メディケンスとの話し合いのことだろう。
「ふぅ‥‥ふぅ‥‥マ、マ、マーク・メディケンスゥゥゥ!!」
顔中を汗で濡らし、乱れ切った息を震わせながら、憎悪の籠もった声で吼えた。
「何故、私の言うことを聞かない!? 何故、私に意見をする!? 何故、何故、何故この私が貴様の言葉通りにしなければならないぃぃぃぃ!!」
当たり散らされ、他の部屋より(少なくとも真名の部屋よりは)つくりの良かった部屋は酷いことになっていく。
その中で真名は飛んでくる物を避けながら立っていた。それは無論、こんな無様な状況を見るためではない。この男に呼び出されたためだ。
「何を見ているタツミヤ!! 私を無様と笑う気か!?」
「‥‥‥そんなつもりはない」
「だったら黙って見ているな! 東の猿はそれぐらいの配慮も出来ないのか!!」
怒りの矛先を真名に変え、一頻り発散したピクドラは唯一無事だったソファーにドカリと腰を下ろす。それを見ている真名の瞳は冷やかなものだが、別に怒りを感じているわけではない。この程度のことで怒りを感じるような熱は、もう忘れてしまっている。
「ふぅ‥‥キミには引き続き、あの男の監視を頼みたい」
やはりそんなところか。半ば予想していたことだが、口にはしない。バックドラフトを起こす気はないのだ。真名は空気の読める(見た目はそうは見えない)女子中学生だった。
「私の勘が、あの男は怪しいと叫び続けている。そして現に、このありさまだ」
ピクドラの言葉に、真名は半分だけ同意する。だが、残りの半分――この現状は明らかにピクドラのミスだ。
元々、今回派遣された魔法使いを含むNGOメンバーは一人や二人いなくなったぐらいで人員不足になるほどではなかった。戦場付近なのだから、それは当たり前のことだ。
だが、ピクドラは選民意識と自己顕示欲の強い魔法使いだった。
担当区域リーダーとしてメンバーを決める際、ピクドラはまず魔法使い以外のメンバーを除外。バランスの悪さは新人を引き受けると言って強引に決めてしまったのだ。経験の薄い新人が多く集まったため、仕事の能率は若干悪くなる。
しかし、新人魔法使いたちも頑張った。先輩魔法使いたちに迷惑をかけまいと懸命に取り組んだ。その結果、魔法使いとしての役割は及第点を与えられるほどにまでなった。自分たちはやれるんだ、と小さな自信が芽生えもしたのだろう。
と、そこで落とし穴。魔法使い以外のNGOメンバーがいない弊害が起きてしまった。事務仕事が滞ってしまったのである。
ピクドラは新人魔法使いを多く入れたこと埋め合わせとして選考を現場での活躍を基準に置いた。
だが、えてして現場で活躍するような魔法使いは、魔法には(指導も含め)滅法強いが事務仕事が出来ない者が多い。
それに本来、その手の仕事は一般メンバーが引き受けるのが通例で、満足に指導できる者は一人か二人しかいなかった。
そして自分の思った通りに行かない状況に苛立ったピクドラは、そこでトドメを刺してしまった。ストレス発散を、手近な新人魔法使いで行ったのである。
少し遅れただけで罵詈雑言。これはピクドラをとてもスッキリさせた。
イライラしたら叱責。イライラしたら八つ当たり。
消えたストレスが新人の中で2倍にも3倍にも膨れ上がるのを無視して、叱責、叱責、八つ当たり。
せっかく出来てきた自信をへし折られた新人魔法使いは‥‥‥‥
以上が真名の知る、事の真相である。
閑話休題
「―――話は終わりだ。さっさと部屋から出ていけ」
そう言ってコチラを見ることすらやめたピクドラ。真名としても用件が済んだ以上、その場に止まる理由はない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――???
ただゆっくりと沈むように漂う感覚と、視界に映るどう表現していいかわからない模様と色の空間。
そこに声が響いた。
『―――どうして、引き受けた?』
どこかで聞いた覚えのある声だ。でも、どこで聞いたかは思い出せない。
と、声がもう一度、響く。
『―――どうして、引き受けた?』
どうしてって‥‥別にいいだろ? やることなんざ、何もないんだから。
『やることがない‥‥?』
ああ。この怪我じゃ、都市部まで行くことも出来ないだろ? だったら、ちょっとした手伝いぐらい、いいじゃねえか。
『‥‥‥嘘だな』
‥‥‥は?
『お前は、嘘をついている』
嘘って‥‥‥何がだよ? おれがいつ嘘なんて――
『その右目‥‥‥』
――――――っっ!!
言葉が止まり、それと同時に息が詰まった。
思わず右目へと手が伸びる。触れると、そこには右目の周辺を覆う眼帯の感触が。
『‥‥‥アバラと足が折れたぐらいじゃ、お前は止まらねえだろ?』
‥‥‥‥‥
『‥‥‥怖いのか?』
‥‥‥怖い? 何が? 国連軍のことか?
『違う』
なら、敵の命を奪うことか?
『そうだ』
‥‥そんなの、今更だろうが!!
感情が昂り、思わず大きな声が出る。
だが、次の空間を響く声の言葉に、頭の中は冷水を掛けられたかのようになった。
『―――――――?』
――――っ!!
『――――――――、――――――――――――?』
―――――――っっっ!!
心臓が鷲掴みにされたようだ。
何か反論することすらできない。何故なら、それはおれが心の底で――――
『‥‥‥時間だな』
声がそう言うと、声との距離が遠くなっていく。まるで沈んでいたものが浮き上がるように。
!! 待てよ!! おまえはいったい‥‥‥!
声は答えない。だが、潜ろうと下を向くとさっきまで何もなかった所に人影があった。
そして、その人影は――――
‥‥お、お前‥‥‥っ!?
『じゃあな、―――――。いや‥‥ニール・ディランディ』
そこにいた人影は、右目を覆う黒い眼帯のない―――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――病院 ニール・ディランディの病室
「―――――――っっ!!」
手を伸ばし、何かを掴もうとした態勢で、ニール・ディランディは目を覚ました。
しかし、その手は何も掴めず空を切る。
「‥‥ゆ‥め‥‥‥?」
無理やり絞り出したような声が口から出て、それからようやく身体の力が抜けた。
どうやら、夢を見ていたらしいことはわかる。それもじっとりと汗で湿っている病院着を考えると、相当に嫌な夢。
内容はあまり覚えていない。ただ、何かを聞かれ、何かを答えたような気はする。けど、それだけだ。何が嫌な夢なんだ?
手で汗を拭いつつ、窓から外を見る。
窓の向こうはまだ薄暗かったが、それでも太陽は昇り始めているようだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一日が始まる。
昨日が終わり、今日が始まる。
例外はない。
たとえ、魔法使いであっても。
未来からの人間であっても。
例外はない。
始まる。
堕ちた天上人の一日が、
始まる。