柔速出やる夫

Last-modified: 2024-04-27 (土) 15:56:44

柔速出やる夫(にゅうそくで やるお、1973年〈光文48年〉6月16日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、小笠原村議会議員(3期*1)、立憲民政党代表(第x代)などを歴任。

柔速出やる夫
にゅうそくで やるお
柔速出やる夫.png
二つ名白饅頭
生年月日1973年6月16日(50歳)
出生地日本国旗.png 大日本帝国 東京府小笠原村父島
出身校東京府立小笠原高等学校卒業
東京府立大学法学部卒業
前職小笠原村議
所属政党立憲民政党
称号法学士
イデオロギー社会民主主義
配偶者既婚
子女
親族
日本国旗.png 衆議院議員
選挙区東京2区
当選回数5回
在任期間2009年8月30日 - 現職
その他の職歴
小笠原村議会議員
当選回数 3回
(1999年 - 2009年)
第x代 立憲民政党党首
(2022年3月 - 現職)

来歴

生い立ち

1973年、東京府小笠原村父島にて、父・柔速出実夫と母・観世子の長男として生まれる。出生体重は生年と同じ1973kg、いわゆる未熟児であった。

父・実夫は小笠原村議を9期務めた実力者で、やる夫にも自身の跡を継がせるつもりでいた。そのため幼い頃からやる夫は政治学・経済学を教わり、いつしか島を出て東京で代議士になることが夢になった。

小学生のときに美筆やらない夫?と出会い、2人で上京することを約束。1992年、東京府立大学法学部に進学、八王子に転居し遂に本土の土を踏んだ。この時の感動をやる夫は「東亜に覇を唱える帝国が、そこに厳然と座しているのを見た」と語っている。美筆は一浪し、翌93年に明治大学法学部に進学している。

当時のやる夫は右派的な思想の持ち主で、貧しい故郷を忌み、豊かな東京で国の発展に貢献することを人生の至上命題としていた。しかし、大学生として東京の様々な場所を訪れる度に、貧相な服を着た浮浪者や繁華街に屯する少年少女、沈鬱な顔で行き交うサラリーマンを目にし、考えを変える。「日独融和」の掛け声の下好況を享受する東京でさえ、いまだに貧困と不幸が根を張っていることに衝撃を受けたやる夫は、草の根からの政治運動の必要性を実感し、その第一歩として父から小笠原村議を継ぐ決心をする。

1996年、小笠原島に帰島。実夫の秘書として実務を経験したのち、1999年に小笠原村議に立候補し当選。26歳の超若手議員であった。

小笠原村議時代

国政進出

2009年の東京府議会議員選挙で民主党が圧勝する様を見たやる夫は、日本の伝統的なリベラル勢力が衰退していることを危険視し、かねてから考えていた国政進出を決心する。同年7月に衆議院が解散されると立憲民政党に入党し、公認を得て東京2区で出馬、基盤票に加え政友会への批判票を一部吸収して2位当選を果たした。

国会では政友会と距離を置きつつも民主党政権を批判する「中間派」に属し、政局を乗り切った。2011年のセカンド・インパクト?発生時は当選1期を集めて「日本の安全安心を考える会」を結成、離島出身であることを活かした現場目線での災害対策を提言した。2012年12月の衆院選でも2位で当選し、東京府議連の主任部長へ就任した。

党首就任

2022年3月、再び党首選に立候補し乃木興助?を破って党首に就任した。48歳・当選5期での党首就任は民政党史上最年少・最小当選。

年譜

政策

  • 選択的夫婦別姓に賛成。
  • 創作物の表現規制に反対。

選挙歴

当落選挙執行日年齢選挙区政党得票数得票率定数得票順位
/候補者数
1999年小笠原村議会議員選挙1999年4月25日25-無所属85/9
2003年小笠原村議会議員選挙2003年4月27日29-無所属82/11
2007年小笠原村議会議員選挙2007年4月22日33-無所属81/10
第45回衆議院議員総選挙2009年8月30日36東京2区立憲民政党42/7
第46回衆議院議員総選挙2012年12月16日39東京2区立憲民政党42/10
第47回衆議院議員総選挙2014年12月14日41東京2区立憲民政党41/9
第48回衆議院議員総選挙2017年10月22日44東京2区立憲民政党41/9
第49回衆議院議員総選挙2020年11月29日47東京2区立憲民政党41/11

エピソード

関連項目


*1 3期目途中で辞職