Pz.I

Last-modified: 2015-10-05 (月) 09:00:43

解説

  • 歴史
     I号戦車は、ドイツがベルサイユ条約破棄後、初めて本格的に装備化をした戦車であった。この戦車は本来は訓練用として製作された車両であったが、ドイツ軍は軍の戦車戦力を短期間で整備するためI号戦車を大量に装備した。
     宣伝の天才ヒトラーは、こうしてまがりなりにも形を整えた機甲部隊に目を付け、全世界にドイツ陸軍の実力を喧伝した。平和の夢に酔いしれていた世界中の人々は、ヒトラーの脅しに恐れをなし、次々と譲歩を重ねた。ラインラント、オーストリア、ズデーテンラント、ボヘミア、モラビア、これらはすべて「無敵ドイツ機甲部隊」によって一滴の血も流されずに勝ち取られたのであった。
     しかし、その機甲部隊の実態は、機関銃と13mmの装甲しか持たない、I号戦車を主力とする張り子の機甲部隊に過ぎなかった。I号戦車そのものは戦車としては名戦車とはいいがたいが、第2次大戦史上、このようにして重要な役割を果たしたのは確かなのである。
     I号戦車が最初に配備されたのは、ドイツ軍最初の戦車編成部隊であるツォーツェン自動車化教育コマンドであった。1934年の夏までに、合計3両のプロトタイプが配備されたという記録が残されている。ちなみにそれまで同部隊が保有していた車両は、ルベツァール民生用トラクターとカーデンロイド豆戦車だけであった。
     1934年秋、自動車化教育コマンドは4個戦車中隊と本部小隊からなる大隊2個の編成に拡大され、10月には同部隊は秘密裡に第1戦車連隊と命名された。1935年春になると、各中隊は21両のI号戦車を装備するようになった。中隊は4個小隊で編成されているが、この時点では3個小隊のみがそれぞれ7両のI号戦車を装備し、第4小隊はまだ自動車を使ったダミー戦車で編成されていた。
     I号戦車の真の実戦参加は、スペイン内乱であった。およそ100両のI号戦車がスペインにおくられて フランコ軍に参加した。最初の50両は1936年の9月に、残りは翌年到着し、ドイツのコンドル連隊や第88戦車集団の3個訓練中隊に配属されたが、実戦での運用はスペイン人の手によって行われ、ドイツ人は訓練教官の役を務めた。
     この戦争で、I号戦車の限界はすぐに明らかになった。13mmの装甲板は小火器にしか耐えられず、共和国軍の保有する45mm砲装備のソ連製T-26やBT-5などとの戦闘では、まったく何の役にも立たなかった。一方、攻撃力の面では、I号戦車の装備する機関銃では、ソ連戦車の装甲板に傷をつけることさえできなかった。
     ポーランド戦時には、合計1,445両のI号戦車が稼働状態にあったが、これは当時のドイツ軍の全戦車数3,195両のほぼ半数にも達していた。ポーランド戦では、I号戦車、特にA型は機動力の弱点を現して、ポーランドの泥沼に足を足られることが多かった。またA、B型ともにポーランド軍の対戦車火器に対して完全に無力だった。
     それ以後I号戦車は後方に送られるが、訓練部隊や国内の警備部隊、フランスやノルウェーの守備隊などで細々使い続けられたのである。

スペック

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