Pz.III A

Last-modified: 2015-10-05 (月) 09:02:26

解説

  • 歴史
     第2次大戦初期ドイツ軍はまったく新しいコンセプトによる機械化部隊を集中使用する電撃戦によって、あっというまに当時の陸軍大国と考えられていたポーランドとフランスを下した。その鮮やかな勝ち戦の中で、ドイツ軍の主力戦車として用いられたのがIII号戦車であった。
     III号戦車は再軍備後の3番目の制式戦車であったが、前作のI号、II号が訓練用かストップギャップであったのに対して、初めから真の主力戦車として構想された車体であった。このため、当時としては十分な大きさの車体を備え、攻撃力、防御力、機動力のバランスがとれた、画期的な戦車として完成した。出現当時、その総合的な性能は世界でも1、2位を争うものだったといってよいだろう。
     しかし、実際はドイツの工業力の限界から、十分な数量を生産することはできず、主力戦車の位置づけではあるものの、戦力として完全に主力となったことは1度もなかった。そしてようやく本当の主力となった大戦中期には、性能のピークを越え、旧式戦車に転落していったのである。大戦末期の激烈な戦いの中で、III号戦車の活躍の場はなかった。
     このためIII号戦車はドイツ軍の主力戦車でありながら、華々しい活躍のイメージに乏しく、そんなところがあまり人気のない戦車の理由であるともいえるだろう。
     しかしIII号戦車は、大戦初期のドイツ軍主力戦車として構想され、栄光のドイツ機甲師団を象徴する戦車であったことは間違いないのである。
     III号戦車の開発は、第2次大戦で実際に電撃戦を指揮したグデーリアン将軍の構想に基づくものであった。グデーリアンは中佐時代の1931年、自動車化部隊総監となったが、彼は新時代の機甲兵力整備方針として2種類の戦車を開発する方針を立てた。その一つは装甲貫徹力に優れた砲を備えた主力戦車で、もう一つは口径の大きい砲を備えた火力支援戦車であった。
     この構想は陸軍兵器局にも認められ、1934年1月11日、機械化師団63個を編成する陸軍拡大プランとともに、2種の新型戦車の開発が決定された。
     新型戦車は戦車開発の事実を秘匿するためにZW(小隊長車)とBW(大隊長車)という秘匿名称のもとに開発された。このうちのZWがIII号戦車となり、BWがIV号戦車になるわけである。
     1936年に行われた試験の結果、最終的に開発、生産を担当することになったのはダイムラー・ベンツ社であった。ただし製作するのは車体だけで、砲塔についてはラインメタル・ボールジヒ社が担当することになった。
     最初のプロトタイプ車体10両は、1936年末ないし1937年初めに完成し、部隊試験が行われた。この車体はダイムラー・ベンツ社内名称を1/ZWと呼ばれていたが、のちの1939年9月27日付でIII号戦車A型と名付けられることになる。
     A型は性能が芳しくなかったため、サスペンションを完全に設計しなおしたB型、足回りをさらに改良し、重量が16tまで増えたC型、さらに走行装置を改良したD型へと続く。これが劇的に変化したのがE型以降である。
     1939年9月のポーランド侵攻作戦時点で、登録されていたIII号戦車はわずか98両に過ぎず、とても主力兵力と言えるものではなかった。このうち実戦に参加したのは87両で、1両も配属されていない部隊もあったという。
     1941年の独ソ開戦時には、3.7cm砲型が350両、5cm砲型が1,174両であった。しかしながらソ連戦車には全く歯が立たず、しだいに装備から外されていくのである。
     1942年6月の夏季攻勢時にドイツは前線に600両ほどのIII号戦車を展開させたが、グラントやバレンタイン相手には十分な威力を発揮したようである。
     その後も残されたIII号戦車は、東部戦線、イタリア、ノルマンディと使用されたが、もはや主力で放った。しかし非力で弱体な老骨に鞭を打ちながら、その戦いはドイツ最後の日まで続いたのである。1945年2月1日時点でのIII号戦車の登録数は534両であった。

スペック

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