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Last-modified: 2007-06-18 (月) 19:09:23

風に向かって一歩

 

 その休日はよく晴れていたが、木の幹を揺らすほど強く、風が吹き荒れていた。
 突風に弄ばれた空き缶が乾いた高い音を上げながら地面を転がっていくのを見て、マルスは首を傾げる。
(これはひどいな。出かけるのは止めにしようか……)
 これほど風が強いと、何か飛んできた物にぶつかりそうだとか、そういう予感まで感じてしまう。
(まあ、そこまで運が悪いのはリーフぐらいのものかもしれないけど)
 マルスは肩を竦めた。
 少し、遠出する用事があったのだが、どうしても今日でなければいけないということはない。
(でも、今日を逃すとまた来週になるんだよね。それは少し面倒臭いかな)
 家の門の前で、さてどうしようかと悩み始めたところで、マルスはふと気がついた。
 道路のずっと向こう側から、小さな人影がゆっくりと近づいてくる。
 吹き荒れる風にふらふらと危なっかしく傾いでいる小柄な体には、一対の翼が生えていた。
(あれ、ミルラじゃないか)
 珍しいな、とマルスはまず思った。
 マルスの兄であるエフラムに懐いているミルラが、この辺りに来ること自体はさほど珍しいことではない。
 だが、彼女一人で、というのは少々珍しかった。
 ミルラは竜族とは言えまだ年若いし、何より本人も人見知りする性格だからだ。
 彼女がこの家に来るときは、妹たちともどもユリアに引率されていたり、
あるいは最近すっかり子守役が板についてきたエフラムが迎えに行ったりするのが普通だった。
 だから、一人風の中を懸命に歩いてくるミルラを見て、珍しいと思ったのだ。
(それにしても)
 マルスは少し心配になった。
 今日は本当に風が強い。細い木ぐらいなら軽く倒されてしまうのではないかと疑うほどだ。
 そんな中を歩いてくる小さなミルラもまた、軽く吹き飛ばされそうなほど頼りなく見える。
(大丈夫かな? そばまで行って、風除けになってあげた方がいいんだろうか)
 一瞬そう考えたが、何故か、そうしない方がいいような気がした。
 だからマルスは、ただ黙って、ミルラが一歩一歩足を踏み出して、こちらに近づいてくるのを見守った。
 そして、彼から数歩ほどの距離まで来たとき、砂混じりの風に頭を下げていたミルラが、ふと顔を上げた。
「あ」
 下ばかり見ていて、こちらには少しも気づいていなかったらしい。
 目を大きく見開いた驚きの表情でこちらを見ているミルラに、マルスはにっこりと笑って軽く片手を上げた。
「やあ、こんにちは」
「……こんにちは」
 ミルラはやや伏目がちになりながら、小さな声で挨拶する。
 その声は風に紛れて消えそうだったが、マルスは内心でむしろ感心していた。
(この子もずいぶん変わったなあ)
 今の挨拶だけ見ればかなり引っ込み思案に見えるミルラだが、これでもかなりマシになった方である。
 初めて会った頃、ミルラは大抵誰かの背に隠れて怯えたようにこちらを窺うばかりで、
まともに視線すら合わせてくれなかったものだ。
 年下のチキやファの方が物怖じしない好奇心旺盛な性格だったこともあって、
ミルラはなおさら内気に見えたものである。
(これもエフラム兄さんの影響かな。きっとそうだろうな)
 そんなことを考えながら、マルスは少しミルラに近づいた。
「こんな風の中、よくここまで来たね」
「はい、大変でした。あの、エフラムは……」
 やっぱりそうきたか、と心の中で苦笑しながら、マルスは首を横に振った。
「今は出かけてるよ。多分、もう少しで帰ってくると思うけど」
「そうですか」
「今日は、どうして家に?」
「エフラムと一緒にジョギングをしようと思ったんです。
 いつもなら間に合う時間に出たのに、今日は風が強くてこんなに時間がかかってしまいました」
 そう言えば、最近は毎週一緒に走っていたなと思い出しながら、マルスは一つ頷いた。 「じゃあ、家に上がりなよ。エフラム兄さんももう少しで戻ると思うし」
「ここで待ちたいです」
 帰ってくるエフラムを真っ先に迎えるつもりらしい。
「そうか。じゃあ、僕も一緒に待っててもいいかな」
 マルスの問いに、ミルラは小さく頷いた。二人は並んで、門のそばに腰掛ける。
(大丈夫だとは思うけど、こんな風じゃ何が飛んでくるか分からないしな)
 そんなことを考えたとき、マルスはふと疑問を覚えた。
「ミルラ」
「はい」
「君、その姿で歩いてきたけど、竜石は使わなかったのかい。
 竜の姿なら、風なんか気にせずに飛んでこれると思うんだけど」
 ミルラは首を横に振った。
「それはよくないです」
「よくないって、どうして」
「心が弱くなります」
 よく分からないので首を傾げると、ミルラは熱心な口調で続けた。
「楽な道ばかり選んでいると心が弱くなってしまうと、エフラムが言っていました」
「ああ、そういうこと」
 いかにも日々怠けずに鍛錬を続けているエフラムが言いそうな言葉に、マルスは苦笑を漏らす。
「じゃあ、ミルラは強くなりたいんだね」
「はい、強くなりたいです」
 強い言葉だった。それに、声もいつもより大きい。
 マルスは少し驚きながら、ミルラを見る。彼女はどこか遠くへ真っ直ぐな視線を向けたまま、真剣な口調で続けた。
「ときどき、夢を見ます」
「どんな?」
「わたしが心を失った悪い竜になって、町を壊してたくさんの人たちを殺してしまう夢です。
 わたしだけじゃなくて、チキやファもそういう夢を見るって言ってました」
 初耳だった。ミルラはもちろん、いつも元気なチキやファですらも、そんな悪夢を見ていたとは。
(いや、夢とは言い難いのかもしれない)
 マルスはすぐに考え直す。人の力を超えた竜へと姿を変えられる彼女達にとって、
その悪夢は今すぐにでも現実になりかねない、具体的な恐怖なのだろう。
 ほんの少し心の均衡を失っただけで、人殺しのための武器と化してしまう自分。
(惨い話だ)
 見える気がした。
 悪夢にうなされて、泣きながら飛び起きる小さな少女達の姿が。
 起きたところで、悪夢から完全に逃れられる訳ではないというのは、どれ程恐ろしいものなのだろう。
 思わず拳に力が入るマルスの隣で、ミルラはさらに話を続けた。
「わたしたちは人でもなく、魔でもない。だから、いつだって魔になる可能性がある。
 家の人たちは、いつもそう言います。それを聞くたびに、わたしは耳を塞ぎたくなりました。
 わたしはきっといつか魔に飲み込まれてしまうと、そう思っていたんです。でも」
 ミルラの口元に、穏やかな微笑が浮かんだ。
「エフラムは言ってくれました。それなら、強くなればいいと。
 魔を恐れる弱い自分に打ち勝てるぐらいに、強くなればいいと。
 わたしが頑張って強くなって、それでもどうしても駄目だったら、そのときは自分が止めてやる、
 だから安心しろって、エフラムはわたしたちに言ってくれたんです。
 確かに人間は弱いかもしれないけれど、意志と努力次第で少しずつでも強くなっていけると。
 だから一緒に強くなろうって、エフラムは言ってくれました」
 嬉しそうに、心強そうに、ミルラは語った。
「わたしも強くなりたいです。弱い自分に負けないぐらい強くなれば、
 きっと、大好きな人たちと……エフラムと、ずっと一緒にいられるから」
 幸福そうなミルラの微笑を横目に、マルスは苦笑した。
(結局、そこに行き着くんだな。でも、エフラム兄さんが子供達に好かれる理由、少しは分かったような気がするよ)
 いつもは仏頂面のくせに、年下の女相手には妙に優しくなる、兄の顔を思い浮かべる。
(自分に打ち勝つぐらいに強く、か)
 マルスは思う。自分にも、怖いものはあると。
 それは、己の観察眼。目の前の出来事を見て、どこをどうすれば一番効率よく成功を収め、勝利を得ることが出来るのか。
 気がつけば、人の命も感情も、ただの数字のように見なして、効率のいい作戦ばかり考えている自分がいる。
 家族や友人を愛しているという思いに、偽りはないつもりだ。
 だが同時に、最高の戦術を追い求めている自分がいるのも事実。人を動かすのが、楽しくてたまらない。
 その喜びを感じるたびに、怖くなる。
 いつか、自分は大切なものすら犠牲にして、効率のよさだけを重視して物事を遂行するような人間になるのではないか。
 そう考えるたびに不安と恐怖で胸が押し潰されそうになっていた。
(でも、そうだな。そんなに、恐れるほどのことじゃないのかもしれない。
 強くなればいいんだ。卑劣で冷酷な自分に負けないほどに、心を強く)
 そのとき、ミルラが小さく声を上げた。
 見ると、道路の向こうからエフラムが走ってくるところだった。
 相変わらず吹き荒れている風の中を、少しも揺らがずに走ってくる。
「ミルラか」
 門の前で立ち止まり、息を整えながら、エフラムが言う。ミルラは小さく頷いた。
「はい。あの、約束を……」
「すまん、今日はもう来ないのかと思って、俺一人で走っていたが……」
 エフラムは頼もしそうに笑った。
「そうか。ここまで一人で来たのか。こんな、強い風の中を」
「こんなの、平気です。エフラム、今日はもう走らないのですか」
 ミルラの問いに、エフラムは大きく首を振った。
「いや、俺もミルラに負けてはいられないからな。もう一周するとしよう。一緒に行くか?」
「はい、もちろんです」
「マルス、お前はどうだ?」
 兄さんは女心が分かってない、と呆れつつも、マルスは笑顔で首を振った。
「遠慮しておきますよ。用事がありますからね」
「そうか。よし、それじゃ行くぞ、ミルラ」
「はい」
 再び力強く走りだすエフラムの背を追って、ミルラもまた駆け出した。
 強く吹き荒れる風に、その小さな体はときに傾ぎ、危なっかしく揺れる。
 だが、彼女がエフラムのように、風に負けず力強く駆けていく日も、そう遠くはないのかもしれない。
 そんな風に考えながら、マルスは立ち上がった。
(さて、僕も行こうかな)
 エフラムたちとは反対の方向に向かって、マルスは一人歩き出した。
 風は相変わらず強く吹きつけ、弱い体を吹き飛ばそうとしてくれる。
 だが、マルスは負けずに一歩一歩、力を込めて足を出す。
 何度かよろけそうになりながらも、体は着実に前へと進んでいく。
 あえて風の中を歩くのもさほど悪くはないなと、マルスは思った。